高橋 鎮種 天文一七(1548)年〜天正一四(1586)年
武将列伝
紹運。吉弘鑑理の二男。立花道雪らとともに大友家三家老の一人である。永禄一二(1569)年に大友氏から離反し毛利氏に内通した高橋鑑種を討伐。その後に高橋家の名跡を継ぎ、高橋姓を名乗り岩屋城主となる。天正九年には子の統虎が立花道雪の養子となり、その後は道雪と共闘しながら反大友家の勢力を制圧してゆく。立花道雪の死後は大友家の中枢とし、家中の運命を託された。天正一四(1586)年に島津勢五万の大軍が筑前に侵攻してきた際、子の統虎が守る立花城を支える為に五百あまりの手勢にて岩屋城に籠城する。再三にわたる降伏勧告をもはねつけ奮戦ふるが、多勢に無勢であるが為に討死。
高山 重友 天文二十一(1552)年-元和元(1615)年
武将列伝
右近。キリシタン大名。父である友照と共に、ロレンソより洗礼を受ける。洗礼名はジェスト。荒木村重の反乱の際は、父と共に一度は村重形へ付く決意をするが、織田信長より派遣されたオルガンチーノにより説得され、織田方へ付くことに。乱後は高槻城を安堵され、城主となる。その後は城下に教会やセミナリオの建築を推進し、キリスト教の布教に力を入れた。高槻城下の人々は、武士から民に至るまで多くの人が洗礼を受けていたようだ。本能寺の変後は羽柴秀吉に従い各地で武功をあげる。しかし天正一三(1585)年に高槻より播磨の明石に移封され、さらに二年後の天正一五(1587)年に秀吉より勧告された禁教令には従わず、明石の地は没収となる。しばらくは同じキリシタンでもあった小西行長を頼るが、その後は前田利家の元に身を寄せる。関ヶ原の合戦の際は、前田利長に従って五千石の加増を受ける。しかし平穏な生活は続かず、慶長十九(1614)年には徳川家康による禁教令の元、ルソンへ追放と成ってしまい、翌年の元和元(1615)年に、マニラにてその生涯を閉じる。
高山 友照 ???? - 慶長元(1596)年
武将列伝
摂津のキリシタン大名。初めは松永久秀に仕えていた様だが、その後に和田惟雅の臣となる。和田氏滅亡後は、摂津の高槻城主となり、永禄六(1563)年には京にてキリスト教信者となる。翌年には妻子共々キリストの洗礼を受ける。ちなみに息子は高山右近である。洗礼名はダリヨ。荒木村重の乱の折りには、村重に味方するが、息子である右近が織田信長に下る。友照は最後まで信長に抵抗した。乱後は息子の助命嘆願が叶ったのか、信長の家臣、柴田勝家のもとに預けられる。たとえ監視下にあっても、キリスト教の信仰は熱心だったようで、越前にても布教活動を行っていたらしい。本能寺の変後は、息子の重友の所などを転々とし、慶長元年に京にてその生涯を閉じた。
滝川 一益 大永五(1525)年〜天正一四(1586)年
武将列伝
その素性は、近江甲賀とする説があるが定かではない。織田信長に仕える様になったのは、天文年間であることは確かなようだ。永禄一〇年の織田信雄の軍に従い、北伊勢の北畠攻めで功を立てる。信長の上洛後、しばらくの間は、畿内の行政担当となるが、伊勢長島攻め以降は、長島城を本拠としていた。摂津の荒木村重が背いた際の有岡城攻めでは、一益の謀略でもって開城させたとも言われている。天正一〇年の武田攻めにも従軍して、織田軍の関東方面司令官として上野の厩橋城主の地位を得たが、本能寺の変によってすべてを捨てて、伊勢長島へ命かながら戻ったといわれている。また清洲会議からは外され、秀吉との確執からか柴田勝家に与力する。しかし勝家が秀吉に破れると、軍門に下ることを決意。小牧の合戦にて蟹江城を奪う功を立てるが、天正一四年に隠居地の越前にてその生涯を終えた。
武田 勝頼 天文一五年(1546)〜天正一〇(1582)年
武将列伝
甲信の戦国大名、武田信玄の四男。母は諏訪頼重の妹。永禄五(1562)年に、諏訪家代々の「頼」の字を襲名して、勝頼を名乗り正式に諏訪氏を継ぐ。またこの時期に初陣を果たし高遠城主となった。勝頼にとって永禄一〇(1567)年が人生の転機となった。武田家の嫡男であった太郎義信が、父信玄との意見の対立から東光寺にて自害。この事件により、勝頼が信玄の後継者として目される様に成ってくる。元亀二(1572)年に高遠より甲府に遷り、それが決定的となった。天正元(1573)年に信玄死去すると、武田家を継いだ。領国統治はもとより、周辺各国へ領土拡大を目論みその進撃は破竹の勢いであった。しかしそれも天正三(1576)年の長篠にて、織田徳川連合軍に敗退までのことであった。その後は武田家内部でも意見の統一がとれず、家臣の離反の兆候が現れはじめる。天正六(1578)年、隣国越後上杉氏の後継者争いの際は、上杉謙信の甥であった景勝を支持した結果、関東の北条氏との関係が嫌悪になることにより、武田家最大の危機に直面する。木曽義昌そして穴山信君らに次々と裏切られ、遂には信濃へは織田軍を、そして甲斐へは徳川連合軍、さらには北条軍の侵攻を許してしまう。新たに築いた新府城を引き払い、岩殿城へ向かおうとするが、小山田氏の離反にあい天目山にて自刃。
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武田 信玄 大永元(1521)年〜天正元(1573)年
武将列伝
新羅三郎義満からはじまる甲斐の武田家。信虎の代で甲斐一国が平定され,信玄の代によりその版図は最大となり,武田家の最盛期であった。甲斐に加えて信濃、上野、駿河、遠江、そして飛騨を領する大大名となった。その志は天下制覇の野望があったかは疑問に残るが,志半ばにしてこの世を去ってしまう。さてその信玄は幼名を太郎といい、元服して将軍義晴の諱を賜り晴信と名乗る。信玄というなは出家したのちのこおとである。家督相続はも重臣等の協力の元で,父信虎を追放。信濃へ侵攻の足がかりとしたのは、妹婿である諏訪家を攻め滅ぼす。小県への出兵では、討ち取った者の首を三千あまりさらしすなど、後々まで恨みが続いた。また上杉謙信とは北信濃の地を巡り,川中島周辺で五回合間みれることになる。両者の合戦は勝ち負けの判断を下せない痛み分けであった。駿河進行を巡り重臣等と対立し,さらに息子義信との関係が悪化した。その結果が義信が自刃に追い込まれる結果になる。天下に号令を掛ける為か、はたまた将軍足利義昭の「信長追討例」の為か、ついに西上の軍を発したが信玄であったが,すでに体は病魔に冒されていた。最後に徳川家康率いる三河軍団と三方ヶ原の地で争い圧勝。しかしさらに兵を西に進めることなく、軍が甲府への帰途の途中に息を引き取った。信玄の家臣団も有能であり、後世まで武田24将として語り継がれる事になる。武田家滅亡後は亡き信玄の家臣たちを、徳川家康が自分の臣下に加えたのは有名な話である。
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武田 信廉 ????〜天正一〇(1582)年
武将列伝
信綱(しんこう)。甲斐,武田信虎の三男。晴信(信玄)は実兄。絵画に才があり、実父である武田信虎や母の大井夫人の肖像等を残し、その作品は現代に伝えられている。合戦など有事の際には常に信玄の傍らにあり,兄信繁が川中島にて討死した後は,副将としてその役を担っていた。合戦での戦歴や功名よりも,文化人としての功績が大きい。元亀年間に一時,信州高遠城主に就く。兄の晴信死後は,その容貌が似ていた為,影武者として信玄に扮していたといわれている。天正一〇(1582)年,織田信忠率いる大軍が美濃より信濃へ侵攻してくると,伊那の大島城に籠もり迎撃を謀る。しかし相次ぐ味方の裏切りにより,戦わずして城を放棄し遁走。甲斐の相川において織田軍により捕縛され,そして殺害された。
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武田 信繁 大永五(1525)年〜永禄四(1561)年
武将列伝
左馬助。典厩。武田信虎の二男。信玄の実弟である。兄の信玄の片腕として信濃諏訪攻め,伊那方面への侵攻の先鋒を務める。永禄元(1557)年には「信繁家訓百箇」を編成。永禄四(1561)年の川中島の合戦において、武田軍が危機に迫ると自ら槍を振るい味方の士気を鼓舞する。しかし力尽き討死。江戸時代の軍学者の中には,「人心の節を失うことなく,忠臣,誠実は人に通じ,知剛知柔,まこと武将とは信繁のごとき人物」と評している。甥の武田勝頼を補佐した武田信豊は,信繁の実子である。また余談ではあるが,真田信繁(幸村)の名は武田信繁に由来するとか。
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武田 信虎 明応三(1494)年〜天正二(1574)年
武将列伝
武田信縄の嫡男。永正四(1507)年に父の急逝により、武田家の家督を継ぐ。またそれに伴い居館を石和から府中(現在の甲府)へ移し、整備を行い現在の躑躅ヶ先館の原型となった。隣国駿河の今川、信濃の諏訪へと娘を輿入れさせて同盟を結束。そして府中の城下を整備し、やがては甲斐一国を平定した。しかし信虎の専制が強固されるとともに、家臣団に不満が高まりつつあった。そして天文一〇(1541)年に、嫡男の晴信(のちの信玄)を中心とした重臣等によって娘婿である今川氏の元へ追放された。駿河での隠居生活が始まったのである。しかし今川当主の義元が桶狭間で討たれ、子の氏真の代になると駿河からも放逐された。それからは各地を放浪し、天正二(1574)年、信濃高遠の地で没した。晴信に追い出されていらい、遂に甲斐の地を踏むことは無かった。
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武田 義信 天文七(1538)年〜永禄一〇(1567)年
武将列伝
父は武田信玄。母は三条夫人。妻は今川義元の娘。天文二二(1553)年に伊那の知久氏攻めにおいて初陣。永禄四(1561)年の川中島合戦にて活躍する。しかし桶狭間の合戦にて駿河の今川義元が討たれると,しだいに父信玄との間が拗れてきた。特に駿河侵攻に対する戦略などで意見が対立。永禄八(1565)年,謀反の疑いをかけられ,東光寺に幽閉され,その二年後の同一〇(1567)年に自害。
多田 満頼 文亀元(1501)年〜永禄六(1563)年
武将列伝
武田信虎,信玄の二代に仕えた甲斐の武将。夜戦において多くの軍功を挙げていた足軽大将。その代表的な合戦が村上勢との甲斐の小荒間合戦である。信虎にその勇猛を振りを買われ,気に入られていた。また妖怪退治や,湯村の天狗退治など伝説を残した人物である。永禄六(1563)年に永眠。
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伊達 成実 永禄十一(1568)年〜正保三(1646)年
武将列伝
成実記の著者。伊達実元の嫡男。伊達政宗の従兄弟。幼い頃より伊達政宗の側に出仕。片倉小十郎と共に政宗の信頼を得ていた。天正一三(1585)年の人取り橋の合戦に勲功があり,翌年には二本松三万八千石の所領を得る。また天正十七(1589)年の摺上原の合戦ではさらなる大功をたてるなど、伊達家の命運を左右する大合戦には必ず出陣している。しかし葛西大崎一揆討伐では,羽柴秀吉方の蒲生氏郷の疑念を晴らすため,みずから人質となった。天正一九(1591)には角田城主となる。文禄二(1593)年には朝鮮の役での論功による不満から,政宗の元を去り高野山へ引き籠もった。しかし片倉小十郎らの説得により帰参。亘理城主となった後は,政宗の片腕として伊達家の表舞台で活躍する。
伊達 政宗 永禄十(1567)年〜寛永一三(1636)年
武将列伝
独眼龍として奥州の覇者になりかけた武将。奥州伊達輝宗の嫡男として永禄十(1567)年に誕生。時代は天下統一へと向かっていたが、奥州方面では中央との隔たりが大きく、突出して力を持った大名が存在していなかった。しかし正宗が伊達家の当主になると、奥州諸国に震撼をもたらした。天正一三(1585)年には小手盛城攻めにおいて、「撫で斬り」と称して籠城していた将兵はもとより、城中にいる生あるもの全てを斬り捨てたのである。また天正十七(1589)年には、摺上原にて芦名氏に大勝して会津地方も占拠して、東北地方の大部分は伊達家の勢力下であった。しかし翌十八(1590)年、豊臣秀吉が小田原へ出陣してくると、その軍門に降り会津領は没収される。豊臣秀吉死後は徳川家康に近づき、長女を家康の息子に嫁がせ姻戚関係を結んだ。関ヶ原の合戦の際は、会津の上杉勢を牽制しつつ隙あれば、侵略するつもりであったといわれている。徳川政権の時代となり、仙台を中心にして六十二万石を有する大藩となった。明治維新までその家名は続いた。
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□仙台城
立花 道雪 永正一〇(1513)年〜天正一三(1585)年
武将列伝
戸次鑑連。大友家臣。道雪は若い頃に雷をその身に受けたため、下半身が不自由である為に、戦陣においては駕籠より軍を指揮し、兵を叱咤していたと言われている。天文一九(1555)年の二階崩れの乱では大友義鎮に従い、入田親誠らを誅殺する。北九州一帯を中心にし、大内家や毛利家との間で干戈を交わす。永禄八(1565)年には大友家に反旗を翻した立花鑑載が籠もる立花城を攻めこれを落城させている。さらに秋月氏の古処山城を攻め、立花鑑載を誅殺。元亀元(1571)年に主君である大友宗麟の命により、断絶した立花の姓を名乗る。天正八(1580)年に大友家が耳川合戦にて島津氏に大敗を喫し、島津方へ離反する者がでることを憂慮し、九ヶ条の檄文を発する。天正九(1581)年に高橋紹雲の子である統虎(のちの宗茂)を養子とする。その後も大友勢の一翼として各地に出陣。天正一三(1585)年に猫尾城を攻めている陣中にて発病し、そのまま帰らぬ人となる。
長宗我部元親 天文八(1539)年〜慶長四(1599)年
武将列伝
幼少の頃は姫若子といわれ周りから嘲られていた。父、国親の死をうけ家督を継ぎ、初陣を果たしたのが二二歳と当時としては遅かった。しかしひとたび合戦に出陣した元親は幼少の頃とはことなり、その奮闘ぶりから鬼若子と呼ばれたとか。永禄一三(1568)年には本山氏、翌年年には安芸氏、さらに一条氏を豊後に追い、元亀三(1573)年に土佐一国を平定する。その勢いでもって隣国の阿波の一部、さらには讃岐を天正六年頃には領国としていた。また伊予では毛利氏を後ろ盾に抵抗を受けたが、明智光秀を介して織田家と誼を通じて攻略に成功。天正一一年頃には四国をほぼ統一していた。しかし、織田信長が元親に対して危機を抱き、四国討伐の軍を発令されるが、明智光秀の謀叛により現実には至らなかった。しかし織田信長の後を継いだ羽柴秀吉による四国討伐を開始された。長宗我部軍は奮闘するが羽柴軍との軍備の差が歴然としていた為に完敗。元親は降伏をして土佐一国を安堵される。その後は秀吉の九州征伐に出陣して島津軍と戸津川で激突。そこで嫡男の信親が討ち死にし、元親は九死に一生を得る。天正一八(1590)年の小田原攻めでは水軍を率いて出兵。元親の晩年は、仏教、儒学などの学問から和歌、茶の湯などを嗜んでいた。しかし家督を四男の盛親に譲る際は、反対する家臣を殺したり、二男、三男を幽閉するなどと汚点を残している。
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□夏草の賊
津軽 為信 天文一九(1550)年〜慶長一二(1607)年
武将列伝
大浦為則の養子となる。南部氏の旗下であったが独立を謀る。元亀二(1571)年に南部氏の支城であった石川城を襲撃し、その城主である南部高信を討ち取る。そこからおよそ20年の月日をかけ、南部氏と争いながら津軽統一を目指した。中央では豊臣秀吉の天下統一へ歩み始めており、為信は石田三成を介し津軽の所領安堵を申し入れ、天正一八年に所領三万石を安堵される。そして南部氏との争いに終止符が打たれ、姓も大浦から津軽へと変えた。朝鮮の役に際しては肥前名護屋へ出陣している。
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□天を衝く
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□弘前城
筒井 順慶 天文一八(1549)年 〜 天正一二(1584)年
武将列伝
天文一九年(1550)に父の筒井順昭の死去により、幼少ながら筒井家の家督を継ぎ、大和筒井城主となる。しかし松永久秀が大和へ侵攻してきたことにより、筒井城を追われて興福寺にて僧侶となる。興福寺にて旧領回復を目論んでいたかは、定かではない。時は移り、僧侶の身でありながら、織田信長に近づいた。興福寺での経験がモノをいい、それなりに学識も高く、茶の湯にも通じていたので、かなり重宝されたことであろう。松永久秀が謀反を起こしたが失敗するや、明智光秀の援助の元に、大和郡山城主となった順慶は大和一国を支配下においた。ところがその直後に本能寺の変が勃発。しかし順慶は光秀にはつかずに、日和見を決め込んでいたが、結局は羽柴秀吉に従う事となった。秀吉からは本領を安堵されたが、順慶は天正一二年、大和郡山城にて息を引き取った。
藤堂 高虎 弘治二(1556)年〜寛永七(1630)年
武将列伝
初陣は浅井長政に従い、姉川の合戦にても織田信長と戦った。その後主君を変えること数回、最後は姉川で敵対した、徳川家康に仕えることになる。徳川家康に仕え始めたのはちょうど、関ヶ原の合戦直前であった。徳川家康からみても実際に高虎は、使える武将の一人であった。大阪での徳川家康暗殺計画の風聞を聞き、真っ先に家康の元へ駆けつけたり、関ヶ原での内応工作などで、高虎への家康の評価は鰻登りであった。関ヶ原戦後は、伊予22万石の大名となり、後に伊勢の安濃津に移ることになる。また築城にも才能を発揮し、江戸城、二条城などでその名を残す。また徳川政権の世になった後も、外様大名としては破格の信頼を得て、徳川家康にして、「戦(いくさ)の際は藤堂家を先陣にすべし」と話していたとか。なお藤堂家は幕末まで続いていく。
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□藤堂高虎
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□津城
徳川 家康 天文一一(1542)年〜元和二(1616)年
武将列伝
江戸幕府初代将軍である。三河の豪族松平広忠の嫡男として、生を受ける。幼名は竹千代。幼少の頃は織田家にて人質生活を送り、その後は今川家にてとらわれの身となり。この頃は父である広忠は暗殺されこの世に居ない。家康に転機が訪れたのは桶狭間にて、今川義元が横死した時だった。早速、家康は岡崎城に入城する。そこで松平元康から、徳川家康へと改名する。また尾張の織田信長と清洲同盟を締結する事になる。織田信長の下で嫡男の信康を自刃に追い込む事もあったが、この時代では珍しくこの清洲同盟は破られることもなく続いていった。織田信長が本能寺で横死するという、2度目の転機を迎える。羽柴秀吉と一時期対峙するが、結局は秀吉と和睦する。その後、関東への移封を余儀なくされる。江戸を本拠と定め時を待つ家康の元に、3度目の転機である秀吉の死後、関ヶ原にて石田三成を破り名実元に天下人となる。その後征夷大将軍に任じられ江戸へ幕府を開く。その後秀吉の遺児、秀頼を大阪の陣にて滅ぼし、幕府の足固めを確認したかの様に、翌年死去する。
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豊臣 秀吉 天文六(1537)年〜慶長三(1598)年
武将列伝
木下藤吉郎、羽柴秀吉。水呑百姓から日本で一番の権力者、関白になった大出世をした武将。少年時代には東海地方を商いなどを行いながら、放浪していたと言われている。尾張の生駒屋敷に出入りしていた際に、織田信長の草履とりとして織田家に奉公する様になった。美濃攻めの足掛かりとなった墨俣一夜城や、主君織田信長の危急を救った金ヶ崎殿軍、そして近江浅井攻めなどで戦功をあげて、近江長浜にて大名となる。この頃に名を羽柴秀吉と改める。その後は織田軍の中国方面の司令官として毛利攻めを担う。天正十(1582)年の本能寺の変の際は、毛利家と和解を迅速に整え、備中から大返しを慣行して、明智光秀軍を山崎において破る。その勢いで織田家重臣による清洲会議では信長の嫡孫である吉法師の後見役となり、天正一一(1583)年の賤ヶ岳では柴田勝家を破り、小牧長久手では徳川家康に苦杯を強いられるが、外交により屈服させた。また四国の長宗我部氏、九州の島津氏を武力により降伏させ、天正一八(1590)年に小田原にて北条氏が、また奥州の各大名も降り、ここに天下統一がほぼ完成した。さらに豊臣という姓をつくり関白にまで上り詰める。文禄元(1592)年からの朝鮮出兵にて豊臣家の屋台骨は脆くなり、一人息子であった秀頼の身を案じながら慶長三年に大阪城にてこの世を去った。
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鳥居強右衛門 ????〜天正三(1575)年
武将列伝
奥平家臣。天正三(1575)年に長篠城が武田軍に包囲された際、その目を潜り抜けて岡崎の徳川家康へ危急を知らせに走った。そして家康に謁して、岡崎からの援軍という吉報を携えて長篠へ戻った。しかし城へ入る前に包囲軍に見つけられ、武田勝頼の前に引き出された。そこで「援軍来ぬ!と城兵へ申せば命は助ける」と勝頼から言われ、強右衛門もこれを承諾した。武田軍に磔にされた姿で長篠城兵の目の前に現れた強右衛門。ここで強右衛門は、間もなく岡崎より援軍到着するので、もう暫くの辛抱である。といった旨を言い放った。当然、その直前に武田方の無数の槍が強右衛門の体を刺し、そして絶命したのである。これにより奥平昌信は籠城を続け、設楽原合戦の大勝利への一歩となった。
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□長篠城
鳥居 元忠 天文八(1539)年 〜 慶長五(1600)年
武将列伝
徳川家康がまだ、松平元康と名乗っていた時からの近侍。鳥居忠吉の三男であったが、父の死後、元亀三年に家督を継ぐ。長兄はすでにこの世に亡く、次兄は出家していたので元忠が引き継いだものらしい。また家康が出陣した戦にも、ほとんどが同行している。永禄元年の寺部城攻め、元亀元年の姉川の合戦、同三年の見方が原の合戦、それから天正三年の設楽が原(長篠)の合戦にも参戦している。当然の様に上田城攻め、小田原にも従軍していた。その人生の大半を合戦に費やしたのではないだろうか。それは家康による信頼のあらわれか。そんな元忠も、最後日はやってくる。慶長五年、家康が大阪城より上杉討伐のために東上する前夜、元忠と伏見城にて最後の杯を交わした。その場で伏見城を討ち死の覚悟にて死守すると、誓ったとか。その数日後、伏見城に迫った西軍、宇喜多秀家等に攻められ、落城と共に自刃した。
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