■新府城小史
武田信玄が甲斐および信濃から拡張していった領地は、関東は上野、東海は駿河や遠江まで拡張されていった。しかし信玄死後は武田勝頼がその実権を握るも、天正三年の長篠合戦において有能な家臣を失い惨敗。これをきっかけとして徐々に武田家の勢力は失われていった。そして織田信長や徳川家康との全面対決を回避できない事態となり、本拠の甲斐府中の要害山城では旧来の縄張りであることから、防備の城が新たに必要となった。天正九年、真田昌幸などにより普請が進められたのが新府城である。二月にはじまった普請作業は九月には概ね完成をしていたそうだが、これを境として多くの武田につながる家臣が織田、徳川家へと寝返るものが続出。武田勝頼は本城と定めていた新府城ではあるが、織田・徳川連合軍により高遠城が陥落されると、小山田信茂の意見に従い新府城から岩殿山へ退くことを決意。これにより新府城は主を失い廃城となった。なお城を落ち延びた勝頼一行はその後、小山田氏の寝返りにあい、田野において織田家の滝川一益の軍勢に襲われ、勝頼は自刃して世を去ることとなる。