大島城

■大島城散策

中央自動車道の松川ICで一般で向かった先が,今回訪問した大島城である。

現在は台場公園という名で親しまれている。別名を一名台城,または大蛇ヶ城と呼ばれている様だ。

まずこの城に向かうと出迎えてくれるのが,巨大な三ヶ月堀である。甲州流としてはセオリーに当たる造りであるが,これだけ壮大なもを目の前にし,この城への期待が膨らむのは当然だろう。

三ヶ月堀#1 三ヶ月堀#2 さらに付け加えれば,この三ヶ月堀はなんと二重になっている。当時からどれほどの変化があったのか定かではないが,武田家により改築されていた頃から,ほぼこの形であったのだと想像できる。

ちなみにこの堀の脇が,駐車場として現在は使用されている。

まず向かう先は三の丸(曲輪)である。土塁の痕跡が残されており,見所の一つである。ただマットゴルフ場として,周辺住民に開放されており,城跡として観ると残念な点である。

井戸 本丸 二の丸(曲輪)はそこから東へ向かった先である。ここには櫓台跡として,こんもりとした大きに土が盛られている箇所が存在している。ここと本丸(曲輪)との間は,巨大な堅堀で隔てられている。また二の丸(曲輪)と本郭の間の堀には,多くのつつじが植えられ,これを目当てにこの公園を訪れる人も多いだろう。

ここから北へ堀を下って行くと井戸跡が残っている。ここも一つの曲輪として城を構成していたのだろう。

またこの井戸には伝説が言い伝えられている。大島城が落城のおり,お姫様が黄金の鶏を抱いて身を躍らせたという悲しい伝説だ。元旦の早朝には井戸の底から鶏の鳴く声が遠く微かに聞こえるともいわれている。

土塁 井戸へ向かう竪堀 井戸跡から天竜川を望みながら,本丸(曲輪)へと向かう。少々険しい(公園としては)と思われる登り道を歩いていくと,辿り着く。本丸(曲輪)では,現在からは想像するのは困難であるが,米倉や建物が当時は建てられていたという。さらに案内板によると,いまでも焼米が発見されることがあるとか。織田軍により焼かれたということだろう。

堀や堀切,土塁などは大きく破壊されることはなく,建物だけが焼かれ,そのまま廃城となったのであろう。

本丸の眼下には天竜川が流れており,この城の部分のみが突出していることで,より城を堅固にしているという縄張りが,現地を訪れると良く分かる。

城を訪れた日は良く晴れた汗ばむくらいの陽気であり,幼稚園児たちが遠足にくるほど地域の人に親しまれていることを実感した。現在は公園化されている現状であるが,城跡として力を入れ,堀や土塁,曲輪などを保存してもらいたいものだ。特に三ヶ月堀は見事であると,だれもが思うだろう。

 
■大島城小史

別名,台城。平安末期の時代,片桐氏により築城された。それから四〇〇年以上の後の天文年間,甲斐の武田信玄は南信の伊奈地方を勢力下に治める。そして元亀二(1571)年に甲斐武田家臣であった秋山信友により,大規模に改築なされた。南信の拠点として甲州流築城術を駆使し,遠江,三河,さらには美濃方面への前線基地として,築かれた城である。天正一〇(1582)年,織田信忠軍が信濃へ侵攻してくると,城主であり,故武田信玄の実弟である信廉は戦わずして,城を放棄して甲斐へと退いた。これは諸将が織田軍迫るの報に接すると,逃散しはじめ,戦うには戦略が著しく低下していたからだと言われている。天竜川を城の背面に配置して天然の堀となり,また前面には甲州流の特徴である三日月堀が二重に配置された堅固な要塞であった。
 
■情報

所在地 :長野県下伊那郡松川町元大島
築城年 :平安時代,元亀二(1571)年
関連武将:秋山信友,武田信廉