■長篠城小史
長篠城は永正五(1508)年に菅沼元成よって築城された。はじめ菅沼氏は今川方に属していたが、徳川家康が台頭してくると家康の傘下に組み入れられる。しかし元亀二(1572)年、武田信玄の謀略により武田方に寝返る。だがこれも武田信玄が在世している間のこと。信玄死後の天正元(1573)年、徳川家康がこの城を奪い返し、奥平昌信を城代として据えた。
天正三(1575)年に武田信玄の跡を継いだ勝頼率いる一万五千の兵に包囲され、鳥居強右衛門の活躍が伝説となっている。
武田軍に包囲された長篠城を守る兵はわずかに五百。落城は時間の問題であった。そこで岡崎の徳川家康の元に、援軍を求めて急使にたつことになったのが、鳥居強右衛門である。小雨の降る深夜、夜陰にまみれて、崖を下り寒狭川に身を沈めつつ、武田方の目を潜り抜けて岡崎へ向かった。徳川家康はこの急使を受けて出陣の支度に取りかかる。そして強右衛門は今度はその旨を長篠城兵に伝えるべく、急ぎ戻った。
しかし今度は長篠城を包囲している武田軍に取り押さえられてしまう。勝頼の前に引きずり出され、強右衛門は悪びれずに援軍が間もなく到着する事を述べる。これを聞いた勝頼は、命と引き替えにして援軍は来ないと城兵に対して申せと迫った。そして強右衛門は城方からよく見える位置に磔されて城兵に向かって叫んだ。「間もなく岡崎から援軍が到着する」。その瞬間、強右衛門の体には幾つもの槍が刺さり、そして落命したのである。
設楽原にて合戦が行われたのがこの数日後であった。
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