長篠城

■長篠城散策

日本史の教科書を読むと、戦国または安土桃山の時代の項目で、必ず紹介されるのが織田信長と鉄砲の関係でしょう。それも鉄砲を大量に配備して、旧来の主戦力となりえた騎馬隊をなぎ倒した「長篠の合戦」。今回はその合戦の前哨戦となった長篠城を訪問。

長篠城は今でいうところの愛知県の鳳来町。電車で行くには新幹線で豊橋駅まで行き、そこから飯田線に乗り換え。車で行くには東名高速道路豊川ICまたは浜松西ICから一時間弱の距離。

今回はドライブがてら車で鳳来町を目指して行くことに。

浜松西ICから目的地である長篠城趾までは国道257号線をひた走り、第二東名の建設場がある山中を抜け、静岡県から愛知県の鳳来町へ。町の中心と思われる役場を過ぎれば、「鳥居強右衛門」が目に入ります。目立って分かりやすい看板でした。

ちなみに長篠城は鳳来町の町はずれに位置しており、あとちょっと足を延ばせば隣町の新城町です。ちなみに世に言う長篠合戦つまり設楽原は、この新城町が激戦地帯となったとか。

さて長篠城。現在は「本丸跡」を中心にして櫓や曲輪の跡を観て歩くことが出来ます。南側からみると、ちょうど宇連川と豊川の合流点である度合付近が深い谷になっており、天然の要塞という雰囲気が漂っております。しかし北側からは普通の平城。

そんな北側の国道から折れて城趾へ向かうと、その左側はすでに「倉屋敷跡」と成っている様です。そして現在の駐車スペースは「帯曲輪跡」となっており、今は観る陰もありませんが、この地下には二本の堀が掘られていたとか。

ものの本によると、長篠城の北側に三本の堀が造られており、それが籠城戦の生命線になっていたとか。

駐車場の脇はすでに「内堀」その先は「本丸」と成っております。駐車場入り口にある「片葉のアシ」や城の案内版を眺めつつ、「内堀」を越えて行き「本丸」へ。今の本丸は広場という感じであり、ちょうどJR飯田線が宇連川に沿って長篠城を付きって走っていました。その飯田線の線路の先が「野牛曲輪跡」、「物見櫓跡」になっており、金網越しに観ることができます。

そのさらに遠方には武田軍が長篠城を囲んだ際に、砦を建てた山々を見渡せます。

現地へ来ると分かるのですが、長篠城は非常にこぢんまりした城です。天正三(1575)年この城の周囲に武田勢およそ一万五千が群がり、さらに武田勝頼本陣がおかれた、医王寺山までの距離の近さ。囲まれた奥平貞昌以下城兵は五百。この地での籠城戦の凄まじさが伝わってくるようです。

また城跡内にある「長篠城趾史跡資料館」では、分かりやすく城の概要から、城を武田軍から救ったエピソードでもある「鳥居強右衛門」に関することまで展示物と共に観ることが出来ます。拝観料は¥210。

鳥居強右衛門に関連する史跡、磔に成った所やお墓なども城趾周辺を散策してみることができました。

城跡の周辺には武田家重臣等の墓や、武田勝頼本陣跡などなど。長篠合戦に関連する史跡が残されているので、散策するのにもってこいです。やはりこういった範囲が広い所に来るときは、時間に余裕をもって、さらに計画性が無いと見過ごす事に成ってしまいます。

 
■長篠城小史

長篠城は永正五(1508)年に菅沼元成よって築城された。はじめ菅沼氏は今川方に属していたが、徳川家康が台頭してくると家康の傘下に組み入れられる。しかし元亀二(1572)年、武田信玄の謀略により武田方に寝返る。だがこれも武田信玄が在世している間のこと。信玄死後の天正元(1573)年、徳川家康がこの城を奪い返し、奥平昌信を城代として据えた。

天正三(1575)年に武田信玄の跡を継いだ勝頼率いる一万五千の兵に包囲され、鳥居強右衛門の活躍が伝説となっている。

武田軍に包囲された長篠城を守る兵はわずかに五百。落城は時間の問題であった。そこで岡崎の徳川家康の元に、援軍を求めて急使にたつことになったのが、鳥居強右衛門である。小雨の降る深夜、夜陰にまみれて、崖を下り寒狭川に身を沈めつつ、武田方の目を潜り抜けて岡崎へ向かった。徳川家康はこの急使を受けて出陣の支度に取りかかる。そして強右衛門は今度はその旨を長篠城兵に伝えるべく、急ぎ戻った。

しかし今度は長篠城を包囲している武田軍に取り押さえられてしまう。勝頼の前に引きずり出され、強右衛門は悪びれずに援軍が間もなく到着する事を述べる。これを聞いた勝頼は、命と引き替えにして援軍は来ないと城兵に対して申せと迫った。そして強右衛門は城方からよく見える位置に磔されて城兵に向かって叫んだ。「間もなく岡崎から援軍が到着する」。その瞬間、強右衛門の体には幾つもの槍が刺さり、そして落命したのである。

設楽原にて合戦が行われたのがこの数日後であった。
 
■情報
所在地 :愛知県鳳来町
築城年 :永正五(1508)年
関連武将:鳥居強右衛門、奥平信昌