弘前城
■弘前城散策
津軽藩の居城であった弘前城。 またここは桜でもって大いに賑わう日本有数の名所でもある。 桜咲く春ではなく、紅葉を愉しめる秋に訪れた。
JR弘前駅から歩いて30分ほどの距離に、弘前城こと弘前公園はある。 ちなみに\100の循環バスを利用することもできる。
弘前城の周囲は外堀に囲まれており、城内(現在の弘前公園)に入るには、堀を越えてゆく必要があります。 ちょうど季節柄、紅葉の時期でもあったので、堀を挟んで眺める色づいた葉もよいものです。
まず向かった先が三の丸。弘前市役所前の「追手門」から城散策へと向かいました。重要文化財にも指定されている門であり、両側を土塁に囲まれております。ここから先が「三の丸」とのことです。
門をくぐり抜けて「三の丸」へ入ると、所々に落ち葉で彩られた一直線の道。その道の突き当たりになっている所が「二の丸」を囲む中堀になってます。ちなみにこの「三の丸」敷地内には植物園があったが、今回はそのまま素通り。
中堀を隔てた対岸には「二の丸辰巳櫓」を眺められます。土塁上の櫓を囲むようにした、紅葉が視界に入ります。 「二の丸」へは中堀にかかる朱塗りの橋を渡り、「南内門」をくぐりたどり着けます。
この「南内門」の前には赤々とした紅葉が、印象的であり、どの人もここで立ち止まっては写真撮影や葉の観賞をしておりました。素材は雑誌の一部を飾るのに相応しい「画」である様に思われたが、撮る者の腕によっては単なる紅葉にしか写らないでしょう。
そんな中、記念写真を撮ってくれと頼む人もおり、うまく撮れていたかどうかは保証できないが、喜んでシャッターを押させてもらいました。
「二の丸」には「末申櫓」、「辰巳櫓」、「丑寅櫓」という3つの櫓に、「東内門」「南内門」の2つの門が存在しており、さらに日本最古のソメイヨシノ(明治一五年)が植えてあるそうです。
城の中心部である「本丸」へは「下乗橋」をわたり、入場券を購入してから向かう必要があります。
「本丸」はやはりというべきか、期待を裏切らないというのだろうか、桜の木々が多く目についた。当たり前であるが、この時期には花を咲かせているわけではないので、寂しい限りであります。おそらく桜咲く季節には・・・と思うと、次は桜の花咲く季節に訪れると決心せずにはいられない気分。いつになるかわかりませんけど。
「本丸」に存在している「天守」は、「弘前城資料館」となっており、弘前武士に関連する小道具が展示されてます。さらに最上階は周りを一望できますが、展望施設として整っているわけではありません。
またここの西側からは岩木山の眺められました。その姿から津軽富士と言われるのもうなずけます。
「北の郭」は「本丸」の北側に位置している郭であります。現在は休憩所が設置されてました。また「子の櫓跡」や「籾蔵跡」、「館神跡」といった史跡を目にできます。
「北の郭」からは一旦「三の丸」へ出て「四の丸」へ出ることが可能です。
このあたりになると土塁に植えてある木々が、真っ赤に紅葉しているのを手近に目にできます。「四の丸」には靖国神社、広場といったものに占められており、城跡という風情がのこっているのは、数少ないと思います。ただ一番北に位置している「北門」(亀甲門)は、遺っております。この門脇にはでっかい松も植えられており、門が小さく見えるほどでありました。
ざっと駆け足気味での見物となった感がありました。寒さのせいだったと思いますけど。それが災いしたかどうか、帰りのバスを乗り換える失態。 桜というイメージが強い弘前城でしたが、紅葉の季節もよいかも。でも次に訪れる機会があれば春が良い。
■弘前城小史
大浦(のちの津軽)為信が、南部氏から独立して勝ち取った津軽の地。為信が慶長八(1603)年頃に高岡(現在の弘前)の地へ築城を計画したのが始まりである。江戸幕府より築城許可がおりる前に、為信は同一二(1607)年に死去。築城計画は子の信枚に引き継がれ、幕府より許可がおりた後、慶長一六年に完成した。寛永四(1627)年に落雷によって天守が消失。翌五(1628)年に天守を再建すると共に高岡の地名を弘前と改名した。
■写真
■情報
別 名 :高岡城
所在地 :青森県弘前市
築城年 :慶長一六(1611)年
関連武将:津軽為信、津軽信枚
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