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馬頭観音とは
馬頭観世音菩薩とは六観音のひとつです。インド神話に登場するヒンズー教の最高神のひとり,毘紐拏(びしゅぬ)が馬に化身して,悪魔に奪われたヴェーダ(インド最古の聖典)を取り戻したという説話が起源となったといいます。一切の魔や煩悩をうち伏せる働きをするとされますが,これは馬が周囲の草をむさぼるように,人間の煩悩を食べ尽くして救済するということのようです。わが国では奈良時代以降に信仰されるようになったということです。
【六観音】密教系の現世利益的な観音信仰。真言宗では,聖観音・千手観音・十一面観音・馬頭観音・如意輪観音・准胝観音が六観音ですが,天台宗では准胝観音のかわりに不空羂索観音が入ります。また,両者を混合して七観音とすることもあります。人身馬頭の像や,一面二臂,一面四臂,三面四臂,四面八臂など,さまざまな像があるそうですが,尾張旭やその近隣で見られる石の馬頭観音は,馬の頭の形を頭上の宝冠に頂いた三面六臂または三面八臂(顔が3つ,腕が8本)の姿で,多くは悪を滅ぼすにふさわしい,憤怒の表情をしています。その表情と手にする武器から,明王の仲間として「馬頭明王」「馬頭金剛明王」などと呼ばれることもあります。(「臂」は「ひ」と読み,本来は「ひじ」の意味です。「三面八臂」は「さんめんはっぴ」と,半濁音になるのでしょうか)
本来の姿は…?
様々な姿をもつ馬頭観音ですが,四面二臂の像が本来的な姿だとする解説書も有ります。この場合の四面とは,中央の菩薩(慈悲)面,両側の忿怒(ふんぬ)面2つ,そして頂上に頂く馬頭も面に数えるのだということです(ただし,頭の後ろにも顔があって,本当に四面という像もあります)。尾張旭の馬頭観音にも,中央の面が憤怒の形相とはいえないものも見られますね。菩薩面というには“?”が付くものもありますが…。特に一面二臂の場合は優しいお顔が多いようです。合掌した指に注目!
胸の前で合掌したように見える手は,「馬口印」(まこういん)または「馬頭印」という特殊な印相を結びます。これは親指,中指,小指を立て,人差し指と薬指を曲げて両掌を合わせるというものです(人差し指だけを立てて合わせ,他の指は曲げて組み合わせるという説もあります)。仏像を識別するときには参考になりそうですね。ただし,石仏でそこまでわかるかどうか…。なお,馬頭観音でも一面二臂の立像の場合は,普通に合掌している場合が多いようです。→馬頭観音のイラスト(2000/08/13)片膝を立てた「輪王座」
坐像の場合は,片膝を立てた独特の座り方をしている例が目立ちます。これは輪王座(りんのうざ)と呼ばれる座り方で,如意輪観音にも見られます。向かって右の足の裏を上にむけ,膝を立てた方の足の裏と合わせるのが輪王座です。たしかに如意輪観音では足の裏がきちんと合わさっているケースが多いのですが,馬頭観音では,足が離れている場合が少なくないように思います。(2002/05/19)民間信仰の発生
さて馬頭を頂いた観音様の姿を見て,馬とともに生活する人々の中に,馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれました。農家では農耕馬の,馬の産地では生まれ育つ仔馬たちの,そして馬稼ぎの人々にあっては馬と歩む道中の安全を祈ったり,また道半ばで力尽きた馬の冥福を祈ったり,そんな理由で馬頭観音は作られたのでしょう。中部地方でも信州中馬街道に沿って,あちらこちらに石の馬頭観音が残されています。日本海側では海難救助祈願
一方,北陸・山陰・北九州などの日本海に面した地域にも,馬頭観音は多く祭られています。これらの地域の馬頭観音は,上記の例とは違う由来を持っています。インドの説話に「商人を乗せた船が難破し,羅刹国(らせつこく)に漂着した。商人たちが女夜叉(または羅刹〜人を捕らえて血肉を食らう悪鬼)につかまり,食われようとした時,菩薩が白馬の姿で空を翔けて現れ,彼らを救った」というものがあるそうです。この白馬が転じて馬頭観音になった,つまり海難救助(or海難除け)祈願の信仰にもとづくということになります。かたや陸上の道を歩む人の安全祈願,かたや海に生きる人の願い。馬頭観音という信仰の対象は同じでも,その理由は地域によってさまざまなようです。(2003/01/01)信州への道,中馬街道
尾張名古屋から信濃の国へと向かう中馬街道。かつては地方と都市とを結ぶ,重要な物流のルートでした。特に近世には,内陸部へ塩を運ぶ「塩の道」としての役割を忘れることはできません。当然,瀬戸の陶磁器が信州へと運ばれることもあったでしょう。主要街道を通り,宿駅ごとに新しい馬に荷を積みかえる「伝馬」と異なり,一頭の馬に荷を積んだまま,休み休み運び通すやり方を「中馬」といいました。「中継馬」「賃馬」から転じた名称です。「中馬」は脇道を通ることが多く,小規模な輸送に利用されたようです。瀬戸街道・名古屋道に沿って
尾張旭市内では矢田(名古屋市東区)から瀬戸へと続く「瀬戸街道」と,出来町(名古屋市東区)から猪子石(同名東区)を通ってこれも瀬戸へと通じていた「名古屋道」に沿って、石の馬頭観音を見ることができます。これらの道は,現在の瀬戸市役所近くの「追分」を通り,「信州飯田街道」として信濃の国へと向かったのでした。愛知県内でも,石の馬頭観音がこれだけ集まっている地域は稀であるということです。尾張旭市同様に,石の馬頭観音が多く残る長久手町の教圓寺には,日露戦争で犠牲になった馬を供養するための馬頭観音があります。もともと,西三河から尾張東部にかけては,祭礼としての「馬の塔」(おまんと)が行われてきた地域です。そうしたことも,馬頭観音を身近に感じさせる理由なのかもしれません。そういえば尾張四観音のひとつ,龍泉寺観音(名古屋市守山区)の本尊は木像の馬頭観音ですね。
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