少林寺墓地 (稲葉町2丁目) ▲MENU
左:舟形高47cm 三面六臂 坐像 持物(輪宝・独鈷杵・鉞斧・三鈷杵)
右:舟形高60cm 三面八臂 坐像 持物(輪宝・独鈷杵)
〜他は磨耗のため確認できず〜
【左】北山町の馬頭観音 【右】稲葉町の馬頭観音
名古屋道の休憩所
矢田川の堤防にほど近い少林寺の墓地。寺の西側にあるこの墓地には,庚申塔を収めた祠を背にして,2体の馬頭観音がちょっぴり傾いたまま仲良く並んでいます。名古屋から尾張旭を通って瀬戸へと続く「名古屋道」は,このあたりで矢田川を渡り,南原山町の「追分」へと向かったのです。そこからさらに,瀬戸の品野を経て信州までの長い長い道のりが続いていました。江戸時代までは,現在の宮下橋や稲葉橋のような,立派な橋があったわけではありません。人も馬も,川の浅瀬を徒歩で渡ったことでしょう。このあたり,つまり稲葉の本郷には,太平洋戦争の前まで「馬借休憩所」という,馬稼ぎたちを対象にした店がありました。店の近くには,矢田川の伏流水と考えられる,きれいな水が涌き出る井戸がありました。馬に井戸の水を飲ませ,自分たちは店で飲食するというように,馬稼ぎの馬子たちの憩いの場になっていたということです。
信州との交流に由来
さて,並んだ2体のうち,左側のやや小ぶりで,どこかひょうきんな表情をした馬頭観音に注目して下さい。この馬頭観音の基壇には,もともと以下のように刻まれているとされてきました。
「風難 災難 除 鹿毛馬 栗毛馬」 「信野国下伊奈郡コマンバ村」 「信野」は「信濃」,「伊奈」は「伊那」のことでしょうから,現在の地名に直すと長野県下伊那郡阿智村大字駒場,つまり中央自動車道の阿智パーキングエリアの辺りになります。また,この馬頭観音の舟形の後ろ側には「明治十六年未三月十日 十一日馬仏」とあります。このあたりに見られる馬頭観音の多くと同じように,近代になってからの比較的新しいものです。
「駒場」はかつて三河と信州とを繋ぐ三州街道の宿場として栄えた土地です。駒場村の馬子達が故郷を遠く離れたこの地に,道中の安全を願ってたてたのでしょう。大正から昭和の初期の頃にも,尾張旭(そのころは旭村)から信州へ嫁いで行く女性がいたほど,二つの土地の結びつきは強かったのだそうです。
入れ替わった基壇と「ほっけ塚」
ところが,現在の基壇には何も刻まれていません。よくよく探してみると,「風難災難除…」が刻まれた台座は,後ろのコンクリート製の祠に納められた庚申塔の台座に使われているのです!この馬頭観音は,もともと市内北山町で木製の祠に入っていたものを,昭和の末頃に,ここ少林寺に移したのです。その移設の際に,石仏と台座が別々になってしまったのでしょう。(「信野国」以下は台座の横に刻まれてます)また右側の馬頭観音も,もとは近くの稲葉町内で祠に入って祭られていました。こちらも土地改良事業の進展にともなって,ここに移されてきたのだということです。舟形の両側には「明治三十六年九月吉日」と記されています。花崗岩のようですが,風化が激しく持物がよく分かりません。
なおこの場所は古い「尾張旭市 史跡めぐり」に「ほっけ塚」として紹介されています。かつて高さ1mほどの塚があったらしいのです。今でも道路よりはほんの少し高く盛り上がっていて,「塚」といえなくもありません。「ほっけ」は「仏」の訛りでしょうか。お寺の近くの塚ということで名づけられたのかもしれませんね。なお,馬頭観音横の阿弥陀如来立像は2000年頃に移されてきたものです。
ほっけ塚 円内が「「風難災難除…」の基壇 右奥が馬頭観音