馬稼ぎについての基礎知識
馬車への規制と荷駄
「馬稼ぎ」とは,馬を使った運送業のことです。古く室町時代には「馬借」(ばしゃく)と呼ばれました。わが国では馬車が発達しなかったため,馬を使った運送の方法は,江戸時代までは馬の背に荷物を積んで運ぶ「荷駄」のみでした。馬車が使われなかった理由は,幾つか考えられます。
@ 平地が少なく,馬車の使用に適した道路がつくりにくい地形であること
A 幕府の江戸防衛の政策として,街道が大河を渡る橋が不備だったこと
B 馬車を牽けるような大きな馬がいなかったこと以上の3点がよく挙げられますが,さらに
C 幕府の物資運送を担当する「馬方」や「船方」の権益を保護するため,
幕府が街道筋での車両の使用を厳しく制限したことこのことも,理由としてあげられるでしょう。宿場(駅)ごとに馬に荷物を積み替え(馬方も代わります),幕府の公用にも用いられた「伝馬」と,一頭の馬に積んだまま,一人の馬方が運びとおす「中馬」がありました。中馬は荷の痛みが少なく,また運賃もやや安かったために重宝されましたが,伝馬と競合する街道筋では,双方の業者の間で,もめごともあったということです。
荷駄から荷馬車へ
明治以降に政権が進取の気質に富む新政府に移り,欧米から力の強い大柄な輓馬(ばんば)がもたらされ,また道路が整備されるにしたがって,荷馬車が盛んに使われるようになりました。これは欧米の馬車をまねたもので,「車借」(下記参照)の2輪のものと違い,四輪のものが作られました。荷馬車の増加は昭和の初期まで続き,重要な輸送手段になりました。
牛荷車
ちなみに,やはり室町時代にみられる「車借」(くるまがしorしゃしゃく)は,牛に2輪の荷車を牽かせたものです。古代以来,貴人を乗せる車を「牛車」と書いて「ぎっしゃ」と読みますが,「車借」の牛荷車の場合は,やはり「牛車」と書いて「ぎゅうしゃ」と読むという説があります。大阪書籍の中学校歴史教科書では,これも「ぎっしゃ」となっていますね。この「車借」も,江戸時代後半には上記Cの理由もあってか,衰えていきました。明治以降は牛荷車も荷馬車同様に増加しますが,数の上では荷馬車にはるかに及びませんでした。