南原山「追分」
(馬頭観音:南原山町赤土・十一面観音:南原山町石原)▲MENU馬頭観音:舟形高63cm 一面ニ臂 立像
【左】西側の馬頭観音 【右】東側の十一面観音
「追分」に立つ2体の石仏
尾張旭市立東中学校の100mあまり北に,変則的な形をした六差路があります。かつて江戸時代に、ここで「瀬戸街道」と「名古屋道」の二つの街道が合流しました。ともに信州と名古屋とを結ぶ重要な中馬の道です。今も地元の人々から「追分」と呼ばれるこの交差点の東西の角には,二つの小さな木造の祠が向き合うようにして建っています。西は馬頭観音
西側の祠には光背に「右 大ぞね道 左 でき町□や道」と刻まれた馬頭観音が入っています。つまり,この馬頭観音は道標を兼ねているのです。右の瀬戸街道を進むと,現在の名古屋市北区大曽根へ通じていました。左へ進むと名古屋道ですが,□の部分は残念ながら読み取れません。「なごや」だという説と「久や」だという説があります。「久や」だとすると,この道は現在の名古屋市中区久屋のあたりへと通じていたことになります。東は十一面観音
いっぽう,東側の祠には十一面観音が収められています。こちらの光背にも「右さなげ道 左せと しなの道」と刻まれ,道標の役目を果たしていました。右へ進めば,瀬戸の山口を経て三河国の猿投(現豊田市)へとむかいます。左へ進めば,三郷の交差点を通って瀬戸市役所北のこれも「追分」を経て品野(現瀬戸市)を通り,信濃国飯田へとむかったのです。幕末から続く信仰
2体とも江戸時代末期の弘化4年(1847)に建立されたもので,風化が著しく顔立ちもはきり読み取ることができません。特に馬頭観音の方は馬頭が削り取られてしまい,とがった二つの耳がかろうじて分かるだけになっています。割れた痕から想像すると,かなり立体的な馬頭だったようです。しかし,祠は近年に建て替えられたもので,この小さな仏様たちへの信仰が今も続いてることを教えてくれます。上の馬頭観音の写真を撮影する際にも,居合わせた地元の女性が「せっかく仏さんの写真をとるんだから」と,花をかえ,よだれかけを直してくださいました。路傍の石仏への優しい気持ちが伝わってきました。