教圓寺(長久手町大字岩作東島)  長久手MENU

左:船形高57cm 三面八臂 坐像 持物(宝珠・独鈷杵・羂索・未開蓮華・鉞斧)
右:船形高29cm 三面八臂 坐像 持物(宝珠・他不明)

         
    【左】「戦馬駒忠」の馬頭観音       【中】文化十四年の聖観音    【右】江戸時代の馬頭観音  .

   軍馬の冥福を祈る
岩作
(やざこ)の古い集落の中に,「さつき幼稚園」と並んで「教圓寺」という寺があります。寺の西を通る狭い道が,かつての岩作道です。きっと,この辺りに住む人々の檀家寺なのでしょう。緑に包まれた境内はさほど広くはありませんが,本堂は立派なコンクリート建築になっています。さて,境内にある墓地の南,敷地の一番南西の角に建つ,仏堂か経堂と思われる建物の縁に,問題の馬頭観音が安置されています。隣に立つのは文化十四年(1817年)の銘がある聖観音像。この寺の歴史を思わせます。(さらに教圓寺には,宝永六年(1709)の聖観音もあります)

三面八臂坐像の馬頭観音の光背を見ると,観音像の向かって右に「日露金戈」,左に「戦馬駒忠」との銘があります。「日露」は日露戦争のことでしょう。日露戦争は明治37年から38年(1904〜1905年)ですから,その頃のものと思われます。戦場に赴く軍馬の安全を祈願したのでしょうか,それとも銃火に倒れた馬の冥福を祈る供養のためなのでしょうか。いずれにしても,尾張旭の馬頭観音にはみられない由来です。

非常に凛々しい顔立ちと,厳しい表情が戦時の雰囲気を思わせます。ここでも,石仏には花が供えられていました。夏,ちょうどホオズキの季節でした。ところで,日清,日露,日中の各戦役の際,軍馬が足りなくなると民間から徴用されたのだそうです。尾張旭でも渋川神社が,尾張旭や大森から集められた馬の検査場になったとの話もあります。尾張旭のどこかにも,もしかしたら戦争に由来する馬頭観音があるのかもしれませんね。

   江戸時代の馬頭観音
「戦馬駒忠」の馬頭観音の真向かいに,舟形の高さ30cm足らずの可愛らしい馬頭観音があります。江戸時代の建立とされています。これも三面八臂の坐像で,観音像本体の彫りは非常に深く立体的なのですが,腕や持物は舟形に単純な線彫りで刻まれているだけです。ちょっと見には,抽象的な模様のようでした。御岳神社の馬頭観音も同じような感じですね。上の馬頭観音と違い,正面の憤怒面でさえ,いくらか柔和な表情のように思えます。(2000/08/01追記)