鳴湫広場西 (北原山町鳴湫) ▲MENU
舟形高51cm 一面二臂 立像
民家の敷地にぽつんと
東栄町の交番から西に入っておよそ400m,パークシティー三郷(マンションです)の一本西の道をさらに北西に進むと,鳴湫広場の西向いの民家の横に,真っ赤な涎掛けをかけた石仏が見えてきます。これが今回紹介する馬頭観音です。尾張旭の確実な馬頭観音としては,実に3年3ヶ月ぶり(不空羂索観音の可能性がある退養寺の馬頭観音を除く)の登場になります。ブロック塀がとぎれた車庫への入り口のきわに,家の壁を背にして,少し左に傾いて佇んでいました。痛みの少ない姿
ごく普通の一面二臂の立像です。あえて特徴を探せば,尊像が舟形光背に対して相対的に大きいことでしょうか。風化は比較的少なく,花崗岩の肌も新しいままの感じです。古い石仏によく見られる舟形上端の欠損もなく,ほぼ完全な姿を保っています。ただし,舟形の裏側にはえぐれたような窪みがあります。最初からなのか,倒れた拍子に欠けたのかは分かりません。お顔はいくらか大きめ。鼻筋が通った穏やかな表情に表わされ,切れ長の目がやや見下ろすように刻まれています。素直な造形
馬頭は被り物に細い筋彫りで簡素に刻まれ,角張った感じです。裳の下には,二つのつま先がちょこんと顔を出しており,天衣のひるがえり方は比較的控えめです。また,蓮華座の花弁まできちんと彫り込まれているのが目に付きます。手は馬頭印ではなく,普通の合掌のようです。体の線は真っすぐで(悪く言えば寸胴ですね),瀬戸市水北町北脇の馬頭観音などの,優雅な?曲線に較べると,ストイックな印象です。全体に素直な造形に感じられました。舟形と基台の石にははっきりと銘が入っています。舟形の向かって右には「明治三十九年」,左には「七月十八日」,そして基台には「若杉長七」とあります。愛馬の死を悼んで
この馬頭観音,実は“Cホームニュース”という商業紙折込のミニコミ紙に載っていたものです。それによると,「かつて馬引きをしていた当家で大事にしていた馬が死んだので,信仰に凝っていた大おばあさんがその弔いとして馬頭観音を祭った」ということです。なるほど,銘は個人建立の馬頭観音の典型ですから,縁起は概ねそうしたもので間違いないのでしょう。明治の末といえば,この地方で馬車による物資輸送が盛んだった時期です。今も信仰されて
取材中,近所に住むという女性に話しかけられました。大正13年生まれの彼女によると,「この馬頭観音はお嫁に来た時からずっとここにあり,毎日朝夕拝んでいるおかげか日々無事に過せている」とのことでした。今もなお現役で,日常の信仰の対象になっているんですね。赤い涎掛けは真新しいし,この日も季節の花と水,そして青い蜜柑が供えられていました。もっとも「これは神さんかね,仏さんだろうかね」と問われたのにはビックリ。ま,それが民間信仰のおおらかさなのかもしれませんね。マスコミの報道って…?
ところでこの“Cホームニュース”には,風化が著しくて文字が読み取れないとか,市内最古の南原山の馬頭観音に“そっくり”とか書かれています。それに「尾張旭の馬頭観音は9体が確認(現存7体)され…」との記述。銘は上記のように読み取れますし,南原山のものとは“一面二臂立像”という点以外に,たいして共通点があるとは思えません。まぁ,数の問題は仕方ないにしても(ちなみにこのWeb Siteには,退養寺を除いて11体を記載),銘や姿形に関してはもう少していねいに取材しなくてはと思います。もっとも,友人にこの件を話したら「インターネットで“馬頭観音&尾張旭”をキーワードに検索したら,お前のサイトに当たるから,数くらい正しく書けるだろうに」と言っていました。なるほど,こと馬頭観音に関しては市誌や生涯学習課より,うちのSite方が詳しいかも…(^0^) ただ,尾張旭の馬頭観音についてのWeb Siteがあるとは,普通の人は思いつかないという可能性もありますね! (2002.11.01)