In My Blue Sphere 4
―甘い紅茶とクッキーと―
地球を出発して、数日が過ぎた。 地球時間では夜更けといってもいいほどの時間帯に、少女はデスクからふと顔をはずした。 窓の外に移るのは、果てしのない星の海。人が生きることのできる空間はこの戦艦の中しかない、巨大なそれでさえもちっぽけに見えてしまうほどの終わりのない空間。 それに寒気を覚えないと言ったら、嘘になる。 ただ綺麗なだけでなく。 「……」 机の上には、パソコンが液晶の中で文字を演出している。何かの書類か、それともメールか。ようやっと少女は息をつき、そのままかけられる声に応える。 「ごめん、いるかい?」 「いいですよ、入ってきてください」 宇宙船に与えられた個室の外でノックされるのがわかったわけではないのだけれど、少女にとって、いつもの定期便は大歓迎だったから。 声をかけると、シュン、とドアの開くが音して、痩躯の陰がそこに見えた。室内の雰囲気ががらりと変わった用に感じるのは、気のせいだけではないだろう。 入ってくるなり、彼は肩をすくめてみせる。 「ひどいな。プライベートではそんな風に呼ばないで、といってあるのに」 どうやら、敬語を使っていることを怒っているらしい、と気づいてレナは苦笑する。 「ふふっ、ごめんなさい。だって、どっちかわからなかったの」 そんなおどけた仕草で。 階級が違うのだから、公の場では敬語を使わなくてはならない。向こうは大尉、こちらはしがない士官候補生だ。 それでも、プライベートと公務は別。男にしてはややきゃしゃな手にすまなそうな顔をして端末を持ったクロードを、レナは快く部屋へと迎え入れた。簡素な机に小さな椅子を彼のために空けてやると、とたんにかわいい笑顔が返ってくる。 「ああ、いいよ、紅茶は。すぐに終わるし」 「遠慮なんかしないで。私もちょうどアールグレイを入れ直すところだったんだから」 レナはお気に入りのティーカップにこぽこぽとお茶を注ぎながら、クロードのために手作りのお菓子を差し出す。砂糖とミルクをたっぷり入れた、暖まること請け合いの特製紅茶に、甘い甘いミルククッキーだ。 いつものようにとりとめもない話をしながら、紅茶を味わうのがうれしくて。 こうやって、話すことができるのがとてつもなくうれしくて。 まるで、ずっと待っていたのが嘘のよう。 クロードがミッションにいっている間、いつも彼女は一人だった。 周りに友達はちゃんといたのだけれど。それでも心の中を支配する空虚はたち消えることなく。 彼の母、イリア・シルベストリ・ケニーは慰めてくれた。大丈夫よ、と。しかしそんなことを言える彼女に畏敬の念を抱かざるを得ないほど、それは残酷で。 (イリアさん) そう、一度聞いてみたかった。どうして、愛する人と離れていて平気なの?と。 でも平気であったはずがない。彼女も耐えていたのだ、と気づくのはしばらく立ってからのこと。愛する息子が宇宙の彼方に消え去るという絶望に近い状況に立たされながらも、彼女は自分に課したことをやめなかった。自分に律したことをやめようとしなかった。そうして、ひたすら待った。 (祈りは、届くのよ) はにかんだように笑えるのが、強い証だと。 「レナ、どうしたの?何か考え事?」 「あ、ごめんなさい、ぼうっとしちゃったみたいね。ねぇ、そういえば……」 いけない、いけない。これは大事な秘密。 苦笑して、とりとめのない話へとクロードを巻き込んで。 宇宙船の中で、クロードがレナの部屋を訪ねるのは珍しいことではなかった。 軍と言っても、個室は私物の持ち込みを許されている。そなえつけの小さなベッドと机以外には歩くスペースもないような個室は、少女によってそれでも精一杯に女の子らしく飾られていた。 「ピンクのうさぎさんは、いつもレナと一緒にいるね」 「だって、一番お気に入りなんだもの。ああっ、笑ったわねっ」 「ごめんごめん。なんかかわいくてさ」 そんなたわいない会話を続けてはいても。 「どうしたの、レナ?」 わずかに瞳を伏し目がちにして黙り込んでしまったレナに向かって、クロードはそんな風に声をかけてみる。 でも、この察しの良い少年は彼女が何に頭を悩ませているのかがわかって。彼にとても、それは今心の中をしめる一番大事なことであったのだから。 「オペラさんたち、大丈夫かなって」 ああ、とクロードの顔が目に見えてかすかにゆがんでしまう。 プリシスから、エマージェンシーコールを受け取ったのは、つい数日前のことだった。 オペラたちが行方不明になった。プリシスはすぐにでも助けに行くという。 「プリシス、もうついた頃だろうな」 「私たちも、これがなければ、すぐに駆けつけたのに。なんで、こんな時期に」 「知らせを受けたとき、僕たちはすでに宇宙にでていたんだ。今更戻れやしないのは分かり切っている。君が、気にすることじゃないよ」 それでもクロードの言葉には悔しさが入り交じっている。 惑星エディフィスに墜ちたオペラとエルネスト。本当なら、すぐにでも助けにいきたいのに。 今でもはっきりと思い出すことができる。きらめいて、駆け上がったあの日々。 この彼との出会いから始まったただの冒険は、様々な出会いを経て宇宙にまでその規模を広げた。あの旅がなければ、自分はただの一人のたわいもない少女としてエクスぺルで一生を迎え、そして朽ちていったのだろう。それも良かったのかもしれないのだけれど。 でも、自分は今、ここにいる。 「プリシスたちが上手くやってくれているといいんだけどね。でも自作で宇宙船を作るなんて、あいつらも成長したよなぁ」 「ふふふっ。プリシスとレオンの設計ならきっと……」 ふと思いついたことを口にしたとき、クロードの表情が目に見えてこわばり、机の上のティーカップに添えられた手が小刻みにふるえた。 プリシスと、レオンの設計。 「う、うん、きっと大丈夫だよ。心配いらないさ、あの二人なら」 「そうよね、きっとそうだわ!あ、わたし、アールグレイ入れ直してくるわね。クッキーもまだあったと思うの」 合掌。 とてとてと小さな旧式の湯沸かしポットのもとでお湯を注ぎ直すレナ。その脳裏によぎった想像がまさに真実だとはそのときは夢にも思わずに。 そばのボックスから、地球から持ってきたクッキーをまた取り出して、いそいそと動くレナは、ほんとうにちっちゃくてかわいくて、若奥さんみたいで。 そんな端末がぶしつけなベルを鳴らしたのは、まさに温かいミルクティーとお菓子の用意がととのったとき。 「……呼び出しだ。いかなきゃ」 本当に残念そうに、クロードは席を立つ。 うー、と形の上だけでも、レナはぷくっとふくれてみせた。紅茶せっかく入れ直したのに、とポーズを作ってみせる。でもあくまでポーズだ。逆らえないのは分かり切っている。 ごめんね、とクロードは立ち上がりながらクッキーをかりっと咬んで、多少あわただしめに紅茶に口を付けた。そのままにこっとほほえんでみせる。 「やっぱりおいしいよ、これ。レナって料理のセンスあるよね」 そんな言葉も、いつもならばうれしいのに。 「いいわよ、別に。どうせ冷めちゃうんだし」 どうしても、こんなすねてみせることしかできない。 クロードは困ったように笑って。 「そんなこと言わないで、おいしいんだから暖かいうちにね」 「だぁって」 「本当だったら。……ほら」 瞬間、気づいたときには抱き寄せられて、かすめるように唇を奪われていた。えっ、えっ、と頭の中がパンクする間にも確かに甘い味がとびこんでくる。クロードの甘さが唇に押しつけられて、こんなに甘かったかしら、と頭の中によぎった。砂糖を入れすぎた覚えなんてまるでないのに。 「ほらね?甘いでしょ?」 いたずらっぽく笑って、クロードはそれじゃね、とひらひらと手を振る。レナが何かを言おうとする前に、扉はメカニカルな音とともに無情にも閉まってしまった。 どんっ、とピンクのウサギさんをそのドアへと投げつけて。 また、やられた。 「うぅーっ、ひどいよっ」 うそ、ひどくなんてない。 レナの端末が鳴った。こちらも呼び出しらしい。 数分後には、ホールに集まらなければならないということ。 (うーっ……) ひどいのはどっちなのか。 呼び出しのベルをどこか遠くに聞きながら、とりあえずこの顔を何とか元に直そうと、レナは必死でほおを包み込んでほっぺたをいじくっていた。 |