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播磨国風土記の山々

このページは、『播磨国風土記を歩く』寺林峻・中村真一郎(1998)神戸新聞総合出版センター を資料として作成しました(初回登録 1999年9月27日)。それを、『風土記』植垣節也(1997)小学館 を資料として、全面改定しました(最終登録2001年1月6日)。
 都が奈良の平城京に遷されて三年目の和銅六年(713年)、朝廷は国内の実状を知ろうと諸国に地勢報告書の提出を求めました。この地勢報告書には、地名由来にからんで人々の生活ぶりが浮かび上がっているので、それぞれの国名を冠した風土記として扱われてきたのです。しかし、その多くは失われて、現存するのは播磨・出雲・常陸・豊後・肥前の五カ国の風土記のみです。播磨国風土記の特徴は、土地の古老に聞いた話をそのまま載せている素朴さにあると言われています。
の山は、どこにあたるのか分かりません。ご存じの方は、教えて下さい。

賀古の郡(かこのこおり) 加古川市・加古郡

▲日岡(ひおか) 現.日岡山(50m+) 加古川市
 天皇がまわりを見渡して、「この国土は、丘と原と野がたいへん広々としていて、この丘を見るとまるで鹿児(かこ、鹿)の姿のようだ」と言った。これが、賀古の郡の名の由来である。また、鹿子の姿に似た丘が日岡である。
 天皇が狩りをしていると一頭の鹿がこの丘に走り登り、比々と鳴いた。だから、日岡と名づけた。
 この丘に、比礼墓(ひれはか)がある。褶墓(ひれはか)と名づけたわけは……として、景行天皇が端正(きらきら)しい印南別嬢(いなみのわきいらつめ)に求婚したときの話が記されている。妻となったこの印南別嬢が死んだとき、遺骸を捧げて印南川(現.加古川)を渡っていると大きなつむじ風が川下から来て、遺骸を川の中に巻き込んでしまった。探したが見つからない。ただ、別嬢が愛用していた匣(くしげ)と褶(ひれ 女性が首にかける細長く薄い布)だけが見つかったので、これを日岡に作った墓に葬った。だからこの墓を、褶墓と名づけた。

印南の郡(いなみのこおり) 加古川市・加古郡

※風土記成立当時は、印南の郡は賀古の郡の一部であった

▲伊保山(112m) 高砂市
神功皇后は夫の仲哀天皇の墓を建てようと讃岐国へ墓石を求めて行った。よい石がなくて、そこから海を渡ったときに、石作連大来(いしづくりのむらじおおく)がよい石を見顕(みあら)わした(発見した)。だから、美保山という。(美保山は伊保山の古称と思われる)
▲斗形山(ますがたやま) 現.升田山(105m) 加古川市
この山の石で斗(ます)と乎気(おけ)を作ったので、斗形山という。この山に石の橋があり、伝承にこう言っている。大昔に、この橋は天に届き八十人衆(やそひとども たくさんの人々)が上り下りしていた。だから、この橋を八十橋(やそはし)という。
△酒山 (加古川市)
含藝(かむき)の里に酒山があった。この山には、景行天皇の時代に酒のわき出す泉があった。百姓たちがこの酒を飲んだら、酔って闘い乱れたので、泉を埋めてしまった。後の庚午の年(670年)に、ある人が掘り出した。今でもなお酒の酒の香がある。

飾磨の郡(しかまのこおり) 姫路市・飾磨郡

▲広峯山(260m) 姫路市
狩りにやって来た大三間津彦命(おおみまつひこのみこと)が、「おお、鹿も鳴くことよ」と感激した。そこで「鹿も」から「飾磨」と呼ばれるようになった。その場所が、いまの広峯山麓の平野あたりである。
△二山(二つの山) 姫路市
応神天皇が、麻跡(まさき)の里に巡行したとき、「この二山は、目尻を割いて入れ墨をした線が下がっているように、左右の山裾が長く曳いているようだ。」といった。
▲手苅丘(てがりおか) 現.手柄山(49m) 姫路市
まわりの田の稲を手で刈っていたので、「手苅りの山」と呼んだのが始まりである。
▲三和山(みわやま)(35m) 姫路市
手柄山の南岡が三和山で、その山麓の生矢神社はもと三輪明神だった。伊和大神をまつる伊和族は姫路に進出し、ここに拠点をかためた。生矢神社は社殿も妻入りで伊和大神の郷里出雲づくりを伝えている。
▲因達の神山(いだてのかみやま) 現.八丈岩山(173m) 姫路市
大汝命(おおなむちのみこと)は船を因達の神山につけるとその子、火明命(ほあかりのみこと)に山に湧く清水を汲みにやり、まだ帰ってこない間に船出してしまう。我が子のふるまいが凶暴なのにすっかり手を焼いていたので、この機会に子を捨てたのである。捨てられたと気づいた火明命は怒って嵐を起こし、去っていく父の船を巻き込んでついに難破させてしまった。そのとき、船の積み荷が落ちて下記の14の丘になった。
《十四丘伝説の山々》
▲船丘 現.景福寺山(51m) 姫路市
火明命が起こした嵐で、船が壊れたところ。雄略天皇の頃、尾張連長日子(おわりのむらじながひこ)が死ぬ間際に長年仕えてくれた侍女と馬をともに墓に埋めるように頼んだ。この墓が船丘山北山麓にあったとされる馬墓である。死後にも生活があると信じ、それに備えようとしたもので、この侍女の死は、日本初の殉死である。
▲波丘 現.名古山(42m) 姫路市
火明命が起こした嵐で、波が起こったところ。
▲琴神丘(ことがみのおか) 現.薬師山(45m) 姫路市
船に積んでいた琴の落ちたところ。
▲筥丘(はこおか) 現.男山(59m) 姫路市
船に積んでいた筥(はこ、祭壇)の落ちたところ。また、大汝少日子根命(おおなむちすこなひこねのみこと)が日女道丘の神と約束して会ったときに、この丘に食物や筥や食器などを用意した。だから、筥丘というとも書かれている。
▲匣丘(くしげおか) 現.船越山(61m)あるいは鬢櫛山(びんぐしやま)(200m) 姫路市
船に積んでいた梳匣(くしげ、櫛箱)の落ちたところ。
▲箕形丘(みかたおか) 現.水尾山、別名 秩父山(約20m) 姫路市
船に積んでいた箕(み)の落ちたところ。
▲甕丘(みかおか) 現.神子岡山(38m) 姫路市
船に積んでいた甕(みか、かめ)の落ちたところ。
▲稲牟礼の丘(いなむれのおか) 現.稲岡山(63m) 姫路市
船に積んでいた稲の落ちたところ。
▲冑丘(かぶとおか) 現.冑山(36m) 姫路市
船に積んでいた冑(かぶと)の落ちたところ。
▲日女道丘(ひめじおか) 現・姫山(46m) 姫路市
船に積んでいた蚕子(ひめ)の落ちたところ。
△沈石丘(いかりおか) 
船に積んでいた沈石(いかり)の落ちたところ。どこにあたるのかは不明。
△鹿丘(しかおか)
船に積んでいた鹿の落ちたところ。どこにあたるのかは不明。
△藤丘
船に積んでいた葛(ふじ)の綱の落ちたところ。今の二階街付近、藤岡長者跡にあったらしいがなくなっている。
△犬丘
船に乗っていた犬の落ちたところ。今は、無くなっている。
▲加野山(かややま) 現.雪彦山(915m) 夢前町
応神天皇が巡行したとき、ここに屋形を造って蚊帳(かや)を張った。そこで、この里を加野(かや)と名づけ、山の名も同じようにつけられた。(そこには今も、賀野神社がある。)
▲幣丘(まひのおか、あるいは、みてぐらのおか) 現.明神山(668m) 夢前町
応神天皇はここで土地の神に御幣(ごへい)を捧げて祈った。
▲大立丘(おおたちのおか) 現.御立前山(67m) 姫路市
応神天皇が、この丘に立って国見をした。
▲新羅訓山(しらくにやま) 現.増位山(259.0m) 姫路市
昔、新羅(しらぎ)の国の人がわが国に来たときに、この村に宿った。これが、村の名の由来であり、また山の名の由来にもなった。
△多取山(たとりやま) 姫路市
少川里(おがわのさと)冒頭の文注にでている。本文にはない。
△御取丘(みとりおか) 姫路市
少川里(おがわのさと)冒頭の文注にでている。本文にはない。(本文にある「御立丘」の誤記か。)
△夢前丘(いめさきのおか) 姫路市
応神天皇が、この丘に登って国見をした。
△檀丘(まゆみおか) 姫路市
応神天皇が英馬野(あがまの)で狩りをしたとき、弓が折れた丘である。(檀は、弓の材によく使われていた。)
△御立丘(みたちおか) 姫路市
応神天皇が狩りのときに立った丘である。

揖保の郡(いいぼのこおり) 龍野市・揖保郡・姫路市・飾磨郡

△香山(かぐやま) 現・香山(こうやま) 新宮町
もとの名は鹿来墓(かぐはか)である。伊和大神がこの地を領土したとき、鹿が来て山の峰に立った。その山の峰は墓に似ていた。それで鹿来墓と名づけた。後、道守の臣が国司の時になって、名を改めて香山とした。
△飯盛山(いいもりやま)
讃岐の国の飯盛大刀自(いいもりのうたじ)という神が、海を渡ってやって来てこの山を占めて住んだ。
△大鳥山(おほとりやま) 新宮町
鵝(おおとり 鵞鳥)がこの山に住んでいた。
△阿為山(あゐやま) 新宮町
紅草(くれなゐ)がこの山に生えていた。紅草とは呉の国から渡来した藍(あい)のことである。この山には、鳩に似た紺色の鳥が住んでいる。
△鷁住山(さぎすみやま)
昔、鷁(さぎ 水鳥)がこの山に多く住んでいた。
△たな坐山(たなくらやま)
この山の石が、たな(木偏に閣と書く)に似ている。
▲御橋山(みはしやま) 現.鶴觜山(168m) 新宮町
大汝命(おおなむちのみこと)が俵を積んで天に昇るはしごをつくった。山の石がはしごに似ている。そのはしごが觜崎の屏風岩で、山が鶴觜山である。
▲神阜(かみおか) 現.神岡(80m+) 龍野市
大和三山の畝傍、香山、耳成が争っていると聞いた出雲の阿菩(あぼ)大神は、仲裁するために船で大和をめざしてきたが今の神岡まで来て争いが終わったと耳にした。せっかくここまでやって来たのに……。おこった阿菩大神は、乗ってきた船をひっくり返してしまった。それが神岡で、船を伏せた形をしている。
△菅生山(すがふやま) 新宮町
菅(すげ)がやまのあたりに生えているので、菅生という。また、ある伝承ではこう言っている。応神天皇が巡行したとき、井をこの岡に掘った。その水がとても清らかで冷たかったので、天皇は「水が清くて冷たいので、私の心はすがすがしいぞ。」と言った。それで、この岡を宗我富(そがふ)というのである。
△殿岡(とのおか) 龍野市
殿舎をこの岡に造った。だから殿岡という。
△松尾阜(まつをおか) 現.松山 姫路市
応神天皇が巡行したとき、ここで日が暮れた。そこで、この岡の松を取ってかがり火とした。
▲塩阜(しおおか) 現.聖岡(ひじりがおか)(60m) 姫路市
この阜の南に塩分を含んだ泉がある。海から30里離れているが、海の水と通じあっていて、満潮の時には深さ3寸程になる。牛・馬・鹿などが好んで飲んだ。その泉は、今も聖岡の東南に塩阜神水として祀られている。
▲稲種山(いなだねやま) 現.とんがり山(256.7m) 姫路市
大汝命(おおなむちのみこと)と少日子根命(すくなひこねのみこと)が生野の岑からこの山を望み見て、「その山には、稲種を置くべきである」と言った。そこで稲種を送って、この山に積んだ。山の形もまた、稲積に似ている。
(稲種山は、峰相山(244m)に比定されているが、私はとんがり山に比定すべきと考えている)
△氷山(ひやま)
この山の東に水があふれ出している泉がある。応神天皇がその水を汲むと、氷った。
▲欟折山(つきおれやま)(169m) 姫路市・龍野市・太子町
応神天皇がこの山で狩りをし、走る猪を欟弓(つくゆみ)で射たところ、弓が折れてしまった。この山と、すぐ東の丸山との鞍部には、神宮皇后が麻生山より射た三本の矢のうちの一本が当たって大岩を破ったとされる盤座が破盤神社の御神体として祀られている。
△麻打山(あさうちやま) 太子町
但馬の伊頭志君麻良比(いづしのきみまらひ)ご、この山に家を建てて住んでいた。その家の二人の女が夜麻を打っていたところ、そのまま麻を自分の胸に置いて死んでいた。だから、麻打山という。この辺に住んでいるものは、今でも夜になると麻を打たないとある。
△神尾山
林田川に近いこの山に出雲御蔭大神がいて、道行く人をさえぎって半分を殺した。訴えを受けた朝廷は額田部連久等々(ぬかたべのむらじくとと)を派遣した。久等々は屋形や酒屋を作って酒宴を催した。そして、出雲御蔭大神が油断したすきに林田川を下って神尾山を襲い、鎮圧した。
▲佐々山 現.笹山(162m) 龍野市
額田部連久等々が、酒屋をつくったところ。
△櫟山(いちいやま)
額田部連久等々が、神尾山を襲うとき、この山の柏を帯にかけ腰にさして林田川を下っていった。
▲佐比岡 現.作用岡(87m) 龍野市
神尾山の神を鎮めるときに、佐比(さひ 草切り鍬)を作ってこの山に祭った。鋤(すき)をつくって祭ったところである。
△佐岡 現.佐岡山
筑紫の田部族がこの地を開墾したときに、いつも五月(さつき)にこの岡に集まって酒盛りをした。だから、佐岡という。
▲大見山 現.檀特山(165m) 姫路市
応神天皇が、この山の頂上から国見をした。天皇が立った所に盤石があり、その石の表面のところどころに窪んだ跡がある。これを、御沓、及び御杖の処という。
△三前山(みさきやま)
この山には前(岬状に突き出たところ)が三カ所ある。
▲御立阜(みたちおか) 現.立岡山(104m) 太子町
応神天皇が、この丘に登って国見をした。
大法山(おおのりやま) 現.朝日山(88m) 姫路市
応神天皇がこの山で重大な法令を宣布した。
△言挙阜(ことあげおか)
神功皇后が行軍の時、この丘で全軍に次のように命令した。「この軍は、慎重に進め。言挙げなどするでないぞ」
△鼓山(つづみやま)
昔、額田部連伊勢と神人腹太文が闘ったときに、鼓を打ち鳴らして闘った。
▲粒丘(いいぼおか) 現.白鷺山(121m)あるいはナカジン山 龍野市
天日槍命が韓国より海を渡って揖保川河口にやって来た。この地を治める葦原志挙乎命(あしはらしこをのみこと)が、海中に宿を許したところ、天日槍命は剣で海水をかき混ぜ島を造って宿った。葦原志挙乎命は、この客の神の霊力のさかんな行為に畏れをなして、先に国を自分のものにしようと思い川をさかのぼった。その途中、小山で食事をしたがご飯粒をこぼしてしまった。そこで、ここが粒丘(いいぼおか)となり、揖保(いいぼ)の郡名がついた。この丘の小石は、みんな飯粒に似ている。
竜野公園南の白鷺山には、粒座(いいぼいます)神社がある。
△神山
この山に石神がある。だから、神山という。

讃容の郡(さよのこおり) 佐用郡

▲鹿庭山(かにわやま) 現.大撫山(おおなでさん)(436m) 佐用町
伊和大神と妻の玉津日女命は、争って土地を占めようとしていた。玉津日女命は、生きた鹿を捕らえて臥せ、その腹を割いて稲の種をその血に蒔いた。すると、一晩のうちに苗が生えた。そこでその苗を取って田植えをした。これを見た伊和大神は「おまえは、五月夜(さつきよ)に植えたんだなあ」と言った。伊和大神は呪術の奇跡に驚き、妻に敗れたと感じてすごすごと去っていった。だから、五月夜の郡と名づけ、妻の神を賛用都比売命(さよつひめのみこと)と名づけた。
また、その鹿を放してやった山を鹿庭山と名づけた。鹿庭山の四面には十二の谷があり、そのどこからでも鉄を産した。
※ 「大神」を伊和大神とすることには、異論もある。
△金肆(かなくら)
佐用都比売命(さよつひめのみこと)が、この山で金くらを得た。だから、山の名を金肆という。
△室原山(むろふやま)
風を防ぐことがまるで室のようである。
▲嶋村岡(しまむらのおか) 現.船越山(727m)? 南光町
伊和大神が出雲の国からやって来たときに、嶋村岡を腰掛けとして座り、筌(うえ)を川に仕掛けた。ところが魚が捕れず、替わりに鹿が捕れた。そこで鹿で鱠(なます)を作って食べようとしたが口に入らず地に落ちた。そこでここを去って別の所に移った。
▲船引山(ふなびきやま) 現.三方里山(さんぽりやま)(186m) 三日月町
官船をこの山で造って引き下ろした。また、枯れ木の穴に鵲(かささぎ)が住んでいたとか、山の近辺に李(すもも)が五株あり、冬になっても実が落ちなかったとある。
▲見置山 三日月町
伯耆と因幡の男二人が、ひどくおごり高ぶって清酒で手足を洗っていた。朝廷は度が過ぎているとしてこの二人を呼びつけた。このとき派遣された狭井連佐夜(さいのむらじさよ)は、二人の同族の者全部を捕らえて参上するときに、何度も水の中に漬けて打ち叩いた。このとき、二人の女が玉飾りをしていることから執政大臣(おほきまえつぎみ)の娘だと分かり、驚いて送り返した。この二人の女を見送った場所を見置山と呼ぶようになった。

宍禾の郡(しさわのこおり) 宍粟郡

△稲舂の岑(いねつきのみね)
伊和大神が、この峰で稲をつかせられた。ここには、うまい栗が生えている。その糠(ぬか)の飛んできた所を、糠前と名づけた。
▲敷草(しきくさ)の山 現.三室山(1358.0m) 千種町
草を敷いて神の御座としたので、敷草の村(今の千種町)と言った。この村に山があって、その南の方に沢がある。この沢に菅(すげ)が生えていて、笠をつくるととてもきれいにできあがる。ヒノキ、スギ、クリ、カクマグサ、クロカズラなどが生えている。鉄を産する。オオカミやクマが住んでいる。(「風土記(小学館 1997)」に、この山は三室山とされているが、その根拠は分からない。)
△阿和賀山(あわがやま)
伊和大神の妹、阿和加比売命(あわかひめのみこと)がこの山に住んでいる。
▲志尓嵩(しにたけ) 現.高峰(844.6m) 一宮町
葦原志許乎命(あしはらしこをのみこと)が天日槍命(あめのひぼこのみこと)が、この山にやって来て、それぞれが黒葛(くろかずら)3本を足につけて投げた。各地でこれまで戦いを繰り広げた両神の最後の決戦である。その時、葦原志許乎命の黒葛は、1本が但馬の気多の郡に落ち、1本は夜養の郡に落ち、1本はこの村に落ちた。天日槍命の黒葛は、皆但馬の国に落ちた。そこで、天日槍命は但馬の伊都志(いづし)に移っていった。
▲花咲山(520m+) ▲白倉山(670m+) ▲高畑山(519m) ▲宮山(514.4m) 一宮町
播磨入りした伊和大神は讃容の郡での試練を経て、一宮の伊和神社のあるあたりで腰を落ち着け、そこを拠点に播磨を占領していった。伊和大神がここに落ち着いた理由は、石座(いわくら)のある峰に囲まれていたからではなかったと考えられる。伊和神社の真北に花咲山、東に白倉山、西に高畑山の三山があり、それぞれ神の山にふさわしく山頂に石座をもっている。その三つの山に囲まれて一つ山の宮山がある。(「播磨国風土記」にはこれら4山の記述はない)

神前の郡(かむさきのこおり) 神崎郡・姫路市

▲神前山 現.山崎山(332m) 福崎町
伊和大神の子である建石敷命(たけいわしきのみこと)がこの山に住まいしていた。この神前山の前に拓かれた土地なので神前の郡となり、建石敷命はこの山の麓にある二宮神社にまつられている。
▲石坐の神山(いわくらのかみやま) 現.毘沙門(230.7m) 香寺町
豊穂命神(とよほのみことのかみ)がいるとして的部(いくはべ)の部族が敬っていた石坐(いわくら)がある。香寺町奥須加院の毘沙門堂の祀られた岩壁がその石坐とされている。
▲奈具佐山(なぐさやま) 現.七種山(683m) 福崎町
高岡の里(福崎町高岡)の奈具佐山にヒノキがはえるとの記述がある。
△砥川山(とがわやま)(m) 市川町
川辺の里(市川町川辺)に、砥石を産するのでその山を砥川山というとの記述がある。
△星肆(ほしくら)
勢賀(せか)では、星が出るまで猪や鹿を殺した。だから、山を星肆という。
▲糠岡(ぬかおか) または △城牟礼山(きむれやま) 現.船津町糠塚 姫路市
伊和大神と天日槍(あめのひぼこ)は大軍を率いて八千種で戦った。伊和大神は、一万の兵のために米をついた。その糠が集まって丘になたという。この丘を、糠岡という。その箕(み)であおり落とした糠を墓といい、又、城牟礼山という。
△陰山(かげやま) 姫路市豊富町
この山に応神天皇が御陰(髪飾り)を落としたために蔭山になったという。
▲冑岡(かぶとおか)(106.0m) 現.甲山 姫路市豊富町
伊与都比古(いよつひこ)の神と、宇知賀久牟豊富命(うちかくむとよほのみこと)が闘った時、冑(かぶと)がこの岡に落ちた。
▲粟鹿山(あわがやま)(962.8m) 山東町
但馬の阿相(あさご)の郡の山としてでてくる。この山から水が流れてくるので、粟鹿川内という地名となったとの記述がある。しかし、神崎郡神崎町の粟賀には粟鹿山からは水は流れてこない。粟鹿山から円山川支流粟鹿川の流れている山東町粟鹿と誤って書かれた可能性がある。

託賀の郡(たかのこおり) 西脇市・多可郡

▲大海山(おおみやま)(551.8m) 加美町
昔、明石の郡の大海の里人がやって来て、この山の麓に住んだ。松が生えている。
▲袁布山(おふやま) 現.白山?(510m)それとも前山?(m) ともに黒田庄町
宗形大神(むなかたのおおかみ)である奥津嶋比売命(おきつしまひめのみこと)が、伊和大神(いわのおおかみ)の子をはらんで、この山にやって来た。そして、「我が産むべき時は訖(お)う。(終わった。月の数が来た。)」と言った。これが、山の地名となった。また、この袁布山の山中で老夫婦が網を張って鳥を捕ったところ、いろいろな鳥がたくさん来て、網を背負って飛び去ってしまった。
△比也山(ひややま) 西脇市
応神天皇がこの山で狩りをしたとき、一頭の鹿が天皇の前に立ち比々(ひひ)と鳴いた。天皇は、これを聞いてすぐに部下の者を止めた。
△鈴堀山 現.スソージ山 西脇市
応神天皇が巡行のときに、鈴がこの山に落ちた。なかなか見つからなかったので、土を掘って探した。
△伊夜丘(いやおか)
応神天皇の猟犬が、追ってきた猪と一緒にこの丘に走り上った。天皇はこれを見て「射よ」と言った。だから伊夜丘という。この犬は猪と闘って死んでしまった。この丘の西には、この犬の墓がある。
△阿富山(あふやま) 西脇市
朸(あふこ 天秤棒)で獣の肉を担ったのが山名の由来となる。
△花波山 八千代町
近江の国の花波神(はななみのかみ)がこの山にいる。八千代町中野間の花ノ宮が遺称地とされている。

賀毛の郡(かもうのこおり) 加西市・小野市・加東郡

△鹿咋山(かくいやま)
応神天皇が狩りに出かけたとき、自分の舌を咋いながら(噛みながら)歩いている白い鹿に出会った。
▲飯盛嵩(いいもりだけ) 現.飯盛山(124m) 加西市
大汝命(おおなむちのみこと)の御飯をこの山に盛った。飯盛山は加西市フラワーセンター内にある。
△粳岡(ぬかおか)
大汝命(おおなむちのみこと)が、稲を下鴨の村で舂かせたところ、飛び散った糠がこの丘に飛んで来た。

美嚢の郡(みなぎのこおり) 三木市・美嚢郡・神戸市

△三坂岑 三木市
三坂に鎮座する神、八戸掛須御諸命(やとかかすみもろのみこと)が、天からこの峰に下ってきた。