白幣山(311m)・弥高山(339.7m)・点名狼谷(371.8m) 姫路市  25000図=「姫路北部」


広峰山系の峰と谷を歩く

登山路より点名狼谷を望む(山頂は中央やや左)

1.白幣山へ

 広峰山系は姫路の市街地の北に位置し、東は市川、西は夢前川、北は暮坂峠断層で限られている。広峯神社の北に標高250m程度の広い平地があり、これが広峰の名の由来となった。広峰山のピークとしては、広峯神社の裏に立つ白幣山をさすこともある。

広峯神社と白幣山

 広峯神社の大鳥居をくぐると、もう鮮やかな緑の中だった。ホトトギスの声が夏の訪れを告げていた。
 尾根の参道には、角のすり減った古い石段が続いていた。右手に屋敷跡の平地。そのまわりに、古いカゴノキが立っていた。道の両側に並ぶくずれかけた土塀は、かつての神社の賑わいを今に伝えている。
 道の少し高くなったところから、土塀の向こうに神社が見えた。神社の上にぽっこり飛び出しているのが白幣山である。

 ここで偶然、地域の古代史を研究されているDさんに出会った。Dさんの話を聞きながら、石段を上って広峯神社へ。
 展望所から、姫路の市街地が見下ろせた。ビル群の中に、風土記にも記された丘が緑鮮やかに点在している。その先には瀬戸内海が広がり、上島、クラ掛島、太島、男鹿島、……家島の島々が浮かんでいる。淡路島の薄灰色の島影が大地と空を分けていた。
 境内には、いろいろおもしろいものがあった。拝殿に上る石段には、一段だけ現地の火砕岩が使われていた。
 210kgあるという力石は、明治に平野川という関取がかつぎ上げて神社に奉納したもの。大正に尾田という人物が、この石を頭上高く持ち上げた。それ以来、誰もこの石を持ち上げた者がいないという。
 本殿の裏には、「こよみ」に関係する九つの穴が開いていた。「蘇民将来(そみんしょうらい)」の由来などをDさんに教えてもらった。

 神社の右脇から山道に入った。道端にはオドリコソウが咲いていた。登山路から右に分かれて丸太階段を登ると、白幣山の山頂に達した。そこには、荒神社と吉備社の小さな社が二つ並んで建っていた。
 広峯神社は、天平5年(733)聖武天皇の勅命により、吉備真備がここ白幣山山頂に社殿を建立したのがはじまりとされている。
 白幣山を越えて下ると、もとの登山路に合流した。ここで、Dさんと別れた。

広峯神社より姫路市街地と瀬戸内海を望む 白幣山山頂

2.弥高山へ

 鉄塔をくぐり、ほとんど平坦な道を北に行けば、近畿自然歩道との分岐があった。分岐の周りは明るく開けたのどかな草地で、コウマゴヤシやニワゼキショウ、シロツメクサなど、里と同じ花が咲いていた。ヘビイチゴが赤い実をつけていた。
 分岐の北の322mピークに寄ってみた。ここには、かつて播磨空港建設のための気象観測塔が建っていた。それが撤去された跡には落ち葉が積もり、周りの木陰にはツルニチニチソウの青紫色の花が風に揺れていた。
 登山路は、アベマキやコナラの美しい自然林の中に細く伸びていた。木漏れ日がまばらに射し込む林の中は、木の葉を透かした緑色の光に満ちていた。
 登山路から右に踏み跡が分かれていた。その踏み跡をたどると、やがて急な木の根道となった。傾斜がゆるくなると、木々もまばらになって、草を分けて進むと弥高山の山頂に達した。

 若いコナラの木に、小さな「弥高山」の山頂プレートが掛かっていた。足元にはガンピが黄色い花をつけている。随願寺の方から登ってきた人に、三角点の位置を教えてもらった。
 四角いベンチに座ると、強い陽射しが照りつけてきた。見上げると、澄んだ青空に周りのぼやけた積雲がゆったりと流れている。ホオジロとウグイスが近くでさえずっていた。 

登山路 弥高山山頂

3.狼谷(点名)へ

 弥高山を北に越して、鉄塔の下を下るともとの登山路に合流した。登山路を進むと、すぐまた次の鉄塔。少しずつ道の起伏が大きくなってきた。タカノツメが新しい葉を道に伸ばしている。モチツツジは、まだ花をつけていた。気持ちのよい小道がずっと続いた。苦手のヤマウルシにだけは触れないように気をつけて、先に進んだ。
 307m峰を越したコルからヤダケの生えた坂を登ると、Ca.320峰に達した。登山路がほんの少しだけ広がった小さな開きの落ち葉の上に座り込んで休んだ。ヤシャブシの若い果穂が青い。シジュウカラが、ジキジキと鳴きながら枝から枝へと渡っていった。
 須加院越えへの分岐を見送って方向を北西に変えると、正面に狼谷(点名)が現れた。広峰山塊の最高峰、狼谷……。みずみずしい緑に包まれたその頂は、いくつかの前山の向こうに丸く飛び出していた。
 急な坂を下るとCa.270mのコル。このあたりから、道は踏み跡といってもいいぐらいか細くなった。背をかがめて、枝葉を払いながら進んだ。モチツツジの花の間を登って小さなコブを越すと、尾根は岩がちになった。あたりにはアカマツやネズミサシがまばらに生えていた。
 急な坂をひと登りすると、Ca.330mのピーク。ひとかかえほどの岩が4つ5つ乗っている。ウラジロノキの葉の表に生えた白い軟毛ははがれ始めていた。ここから、さらに2つの小さなピークを越えて最後の坂を登り詰めると、狼谷の山頂に達した。

 山頂は、三角点を中心にまるく開かれていて、木々の上から四方を見渡すことができた。東は市川の流れる沖積低地で、そこには香寺の街並みや田園が大きく広がっていた。
 北を見ると、暮坂峠のクリーンセンターの白い建物が緑に埋まっていた。その上に、置塩城山と谷山(点名)が窓をつくり、その窓の先に明神山の青白いシルエットが浮かんでいた。
 雪彦山、七種の山々、笠形山……播磨の名だたる山が見えたが、何といっても南の眺望にひきつけられた。そこには、広峰山系の樹海がゆるくうねりながら大きく広がっていた。送電線の鉄塔などを除くと、人工物は見当たらない。スギやヒノキの植林さえほとんどない豊かな自然林の樹海であった。
 しばら山頂に立っていると、遠く書写山から鐘の音が聞こえてきた。イワツバメが、山頂をかすめて飛んでいった。 

狼谷山頂より見る香寺の町並み 狼谷山頂から南へ広がる広峰山系

4.広峰山系

 豊かな緑に包まれ、林道さえもほとんど入り込んでいないこの山域。内を流れる沢には澄んだ水が流れている。地元の山を愛する人々によって登山路もつけられた。道の一部は消えかかり、そこを歩けばちょっとした冒険気分も味わえる。広峯神社や随願寺、氷室池などの史跡とも見事に調和した都市近郊の貴重な自然……。
 播磨空港というばかげた野望は消え去ったが、私たちはこの自然を大切に残し、後世に引き継がなくてはならない。

山行日:2010年5月30日

広峯神社大鳥居〜広峰神社〜白幣山(311m)〜近畿自然歩道分岐〜322m峰〜弥高山(339.7m)〜307m峰〜点名狼谷(371.8m峰)〜氷室池〜(近畿自然歩道)〜302m峰〜分岐〜広峯神社〜広峯神社大鳥居
 広峰山塊には、尾根や谷をつないで登山路が幾本も通っている。今回は、広峯神社から弥高山を経て尾根を北へ進み、点名狼谷にたどった。狼谷から、さらに尾根を西に進み、途中のコルから氷室池に下りた。氷室池からもとの広峯神社までは、近畿自然歩道を歩いた。
 広峰山塊から狼谷までは、はっきりした登山路。狼谷から氷室池までは、踏み跡程度。尾根のコルから下りた氷室池の北側は、地形が複雑で踏み跡も消えかかっているが、赤いビニールテープが道を教えてくれた。近畿自然歩道は明瞭だが、標高130m〜250mの急坂はかなりハードだった。

山頂の岩石 白幣山 → 後期白亜紀 広峰層 凝灰角礫岩(溶結)
        弥高山・狼谷 → 後期白亜紀 広峰層 溶結火山礫凝灰岩
広峰山の岩石 2つの岩相
 広峰山塊とその西の書写山周辺には、後期白亜紀の広峰層が分布している。
 広峯神社あたりで見られるのは、暗灰色の溶結した凝灰角礫岩〜火山礫凝灰岩で多くの岩片を含んでいる(左写真の左側)。岩片としては、黒色頁岩がもっとも多く、流紋岩・チャート・砂岩なども含まれている。結晶片として、石英や長石、少量の黒雲母を含んでいる。
 白幣山の山頂で見られるのはこの岩石である。この岩石が一番観察しやすいのは、広峯神社拝殿の石段かもしれない(一列だけがこの岩石)。

 白幣山から北の広い範囲には、上記と岩相の異なる溶結した火山礫凝灰岩が分布している。この岩石は、明るい灰色〜褐色で岩片をあまり含んでいない(左写真の左側)。風化が進んでいることが多いが、新鮮なものは氷室池の堤の周辺や近畿自然歩道上の岩場で見ることができる。1〜2mm程度の石英や長石の結晶片、それ以下の大きさの黒雲母の結晶片を含んでいる。

 広峰山塊の大地は、今から約8000万年前の大規模な火山活動でできた。火砕流が何度も発生し、その堆積物が厚く堆積した。マグマが抜けた地下は空洞となって、あるとき大地は大きく陥没した。そこにカルデラ湖ができ、礫岩や砂岩・泥岩などの地層が湖底にできた。この堆積岩の地層は、その後の長い年月の間に侵食されて広峰山塊には見られないが、その北の暮坂峠〜八葉寺にかけての地域に見ることができる。

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