檀 特 山 (165.1m) 姫路市・太子町 25000図=「網干」
雄大積雲の下に眠る「馬蹄石」の伝説
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檀特山登山道(後に山頂尾根) |
壇特山は、播磨平野の西南端近く、姫路市と太子町の境界に沖積平野からとび出した小さな山である。山頂に「馬蹄石」」を頂くこの山は、里山としての整備が進み、多くのルートがつけられている。
ホームページ『檀特会』のルート案内を参考にして、初秋の一日この山を巡ってみた。(檀特山ルート図へ)
「大谷登山口」は、山の南西、岩村神社と小さな池との間にある。畑のなかを東へ進むと、すぐに竹やぶに入った。
竹やぶのなかの道の一角に、栗がたくさん転がっていた。尾根近くの栗の木から落ちた実が、ころころと道を転がって竹やぶに入り込み、傾斜が緩くなったこの一角に集まったようだ。イガを開いてみると、なかには大粒の栗が。思わぬ秋の収穫を得て、幸先のよいスタートだ。
続いて現れたヒノキ林をひと上りすると、早くも尾根の分岐に達した。分岐を左にとり、古墳が現れたところで「下太田登山口」からの道と合流した。古墳は、10数個の石からなる石室がそのまま地表に現れている。
あたりは、コナラ・アベマキ・カクレミノ・ヒサカキなどの自然林。林床には、コシダが生えている。そのなかを山頂へ向かって、明瞭な道が続いている。
道は、火山礫凝灰岩が風化した土で白っぽく、ときどき岩盤が顔をのぞかせている。道の傍らには、ヤマハギが咲き、ツリガネニンジンが淡い青紫の花を風に揺らせていた。
傾斜をました坂を上り、ハリエンジュの樹林を抜けると、雄大積雲を浮かべた空が目の前に広がった。その空の下には、山頂の「馬蹄石」が丸く突き出していた。
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山頂へ |
雄大積雲と「馬蹄石」 |
彼岸というのに、陽光はまだ強く、展望台下の温度計は30℃を指していた。展望台に上ると、海からの南風がときどき緩く吹いてきた。あたり全体がかすんでいて、この日は遠望が利かなかった。南に工業地帯と播磨灘を区切る海岸線は見えるが、海はもう霞と一体となって見えなかった。
展望台から降りて、「馬蹄石」を調べてみた。高さは最大で2m50cm程度、南北に長く、その長さは10数mある。N20°W、垂直に近い節理が明瞭である。岩の表面には、2〜10cm程度のくぼみが全面についている。不思議な侵食のされかたである。
このくぼみをめぐって、いくつかの伝説が残されている。
まずは、「播磨国風土記」である。「播磨国風土記」中の大見山が、この檀特山に比定されているのだが、その記述に
「応神天皇が、この山に登って四方を見わたした。だから、大見という。天皇が立った所に盤石がある。高さ三尺ばかり、長さ三丈ばかり、広さ二丈ばかりである。石の表面のところどころにくぼんだ跡がある。これを名づけて、御沓、及び御杖の処という。」
とある。天皇が石の上をくつで踏み、杖をたてたのでくぼみができたいうわけである。
檀特山はまた、「檀徳ガ峯」の名で「峯相記」に出てくる。それには、聖徳太子がその峯に御馬をつないだ松が近い頃まであったと記されている。山頂の岩が「馬蹄石」と呼ばれているのは、これに由来している。岩のくぼみは、馬のひづめ跡になる。
「馬蹄石」の岩石の種類は、流紋岩。長石の白い斑晶が、表面から見える部分がある。全体にわたって風化による変質が進み、黄土色をしている。
由緒ある岩を傷つけるわけにはいかないので、ハンマーではたたけない。流紋岩にしばしば見られる球顆(きゅうか)構造は観察できなかったが、一部に珪化した部分があった。表面の凹凸は、この流紋岩の何らかの不均質性によるものと思われるが、伝説の話で終わっているほうがよいのかもしれない。
岩に腰掛けると、正面に京見山が穏やかな山容で立っていた。
そのふもとのグランドでは、中学校の体育大会が開かれていた。双眼鏡で眺めてみると、ちょうど組体操が始まったところで、グランドの中央から豆粒をはじいたように生徒たちが広がっていった。
低い音が下から響いてきた。壇特山から出た新幹線が、平野部をゆっくりと走り抜け、向こうのトンネルの中に吸い込まれていった。
岩の周りの草むらでは、バッタが羽の黄色を広げてパタパタと飛び回っている。
あたりを眺めている間に、組体操は佳境に入ったようだ。周囲をぐるりと生徒たちが取り囲み、その真ん中に塔が立った。双眼鏡の視野から、笛の音が聞こえたような気がした。
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「馬蹄石」 |
「馬蹄石」の表面 |
山頂を後にして、北東へ下った。壇特山には、まだまだ見所がある。迷路のようにつけられた登山道を利用して、それらを巡ってみた。
アズキナシの実は、黄緑色から山吹色に変わりかけていた。道端に、数字や文字の刻まれた不思議な自然石が置かれていた。
いくつかの分岐を経て、「川島登山口」付近まで下る。
二度目の「削治岩」の分岐から、「削治岩」をめざした。平坦な道が、山の東斜面を南に向かっていた。道は、途中で方向を変えて上へつづらに上っていた。丸太の敷かれた道は、ササの中のかぼそい踏み跡に変わった。2,3回、道をはずしそうになりながら進んでいくと、木々がそこだけ開けたところに「削治岩」が現れた。
斜面に広く現れた岩盤の上に、高さ7,8mほどもある大きな岩がほぼ垂直に立っている。岩の割れ目には、ハーケンが残置されていた。大岩の横を巻き上ると、岩の上に出た。
岩の上は、東に大きく展望が開けている。眼下には、稲刈りの進んだ田がパッチワークのようになった田園風景が広がっていた。
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「削治岩」 |
「削治岩」から望む田園風景 |
「削治岩」からさらに上り、先に通った道とクロスして、今度は「東南登山口」に下りた。
ここから、再び山道に入り「狐塚」へ。狐塚は、丸い大きな岩のかたまりである。この岩には、村人に害を加えていた千年坊という古狐が、徳道上人の徳力で感動石の下敷きとなり死んでいたのを、村人が哀れみ葬ったという伝説が残されている。このあたりで、雨がぱらつき始めた。夕立のようである。
西へ下り、炭焼きが行われていた頃に使われていた「トロッコ道」に出た。直線状の踏み跡を、ササを分けて進むと竹やぶに入り込んだ。この竹やぶを進み、初めの「大谷登山口」に戻った。
田植えが終われば、人々は雨乞いと豊作を祈り、鐘や太鼓を鳴らしながらこの山に登ったという。古くからの歴史や伝説の眠る檀特山は、今も「ふるさとの森」として地域に親しまれている。
山行日:2005年9月23日