石坐の神山 (231m) 香寺町 25000図=「姫路北部」
※山名について 『播磨国風土記』の記述によって「石坐の神山(いわくらのかみやま)」とした。毘沙門堂の近くに石蔵山万福寺があったと伝えられているので、「石蔵山」と呼ばれていたようだが、これも「石坐の神山」に由来する名である。
田野城山から播磨国風土記「石坐の神山」へ
城跡の名残をとどめる本丸跡の平坦面は、元旦登山を前にしてきれいに草が刈られていた。自宅からこの田野城山まで、落ち葉の道を登ってきた。ここから見下ろす我が町は、まだ朝霧に霞んでいる。工場の煙は緩やかに南に流れている。よく晴れた穏やかな初冬の日である。今日は、ここから北西へ230.7mの三角点までの縦走を試みた。
『播磨国風土記』の神前の郡、的部の里(いくはべのさと 現、香寺町付近)の部分に、「石坐の神山(いわくらのかみやま)と云ふは、この山、石(いわ)を戴く(いただく)。また、豊穂命神(とよほのみことのかみ)在す。故れ、石坐の神山といふ。」と記されている。この「石坐の神山」が、230.7m峰の山頂付近の毘沙門堂の建つ盤座(神のよりつく座)とされている。私が疑問に感じるのは、「石を戴く」という点である。戴くというのは頂上に乗せるということだが、毘沙門堂の盤座は頂上にはない。230.7m峰の山頂には何があるのであろうか。
田野城山から北西へうねりながら続く尾根上には、何カ所か明瞭な道や切り開きがあった。しかし、多くの部分は、かすかな踏み跡しかなかったり、まったく道がなかったりした。途中、何度も迷い込みながら、ようやく230.7m峰に辿り着いた。アラカシ・クヌギ・アカマツなどの木々の下の草むらの中にかろうじて三角点の標石が頭を出していた。この頂には、盤座と呼べるような岩石はなかった。
230.7m峰の南の小ピーク(礫岩の岩盤)
しかし、道を誤って先に登ったすぐ南の小ピークには、一かたまりの岩盤が露出していた。表面が凸凹の礫岩である。このピークなら、「石を戴く」といえる。しかし、その規模からしてそれほど目立つ存在ではないと感じた。
230.7m峰を後にして、灌木の幹や枝葉を手足で分けながら降りると、偶然にも、赤い幟が幾本も立つ毘沙門堂の登山口に降りた。ここから、石の鳥居をくぐり毘沙門堂をめざして、もう一度、そして今度は自然歩道を登っていった。急坂をつづらに登り、自然歩道が突き当たった谷の上に、大きな岩盤が断崖をつくっていた。古代人が神のよりしろと信じ、『播磨国風土記』に記された盤座とされている「石坐」である。この岩壁の下に立って見上げると、大きな礫を含んだ岩石がオーバーハングしている。岩壁の下は岩窟になっていて下に水が溜まり、小さなお堂が祀られている。キツツキが木をたたく音が岩と谷に鳴り響く。帰り際に振り返ると、鬱蒼とした森の中で、その岩壁だけに陽光が当たっている。現在もなお、「石坐」にふさわしいたたずまいであった。
陽を浴びる石坐(毘沙門堂の岩壁)
山行日:2000年12月23日
山 歩 き の 記 録 (ルート)
田野香寺台城山登山口〜田野城山本丸跡(210m+)〜西ノ丸跡(221m)〜180m+ピーク〜140m+コル〜180m+ピーク〜170m+ピーク〜石坐の神山山頂(230.7m)〜210mピーク〜南西尾根を降りて毘沙門堂登山口〜毘沙門堂〜毘沙門堂登山口〜相坂トンネル〜高野神社
田野香寺台の城山登山口から登る。途中、植林されたヒノキの林や竹ヤブがあるが、ほとんどが自然林である。なだらかな登山道が続くが、頂上の手前は急な登りとなる。地形図221mピークの手前が田野城山の本丸跡である。ここまでは、地元の壮年会によって登山道が整備されている。
コスモス畑と田野城山(2000.10.14.)
田野城は、14世紀の初め頃、赤松円心の旗下の堀常光によって築かれた城で、1577年に秀吉の中国征伐によって落城した。本丸跡から北北東に七種山、北に遠く笠形山が望めた。
北西へ少し下り、上り返すと大きなアラカシの立つ221mピークである。ここが田野城山の頂上で、西ノ丸跡にあたる。ここから西へ大きく落ち込んでいるが、方向を誤って進路を北にそれてしまった。左手に、雑木の隙間から尾根が見えたのでそこまでやぶをこぐ。途中、ヒトツバの群落があった。尾根上にも道はない。180m+ピークを越すと、明瞭な道があった。送電線の下を通り、少し歩くと140m+のコル。かつて相坂から須加院へ通じる峠となっていたのか、岩石の掘り割りが残っていた。この道は、次の180m+ピークから北東へ伸びている。そこで、この180m+ピークから、また北西へやぶをこぐ。前方にようやく、めざす山頂らしきものが見える。頂には、岩盤があるではないか。登ってみると、そこは三角点ではなく、230.7mピークのすぐ南の小ピークであった。岩石を観察して、「石坐の神山」山頂(230.7m)に。雑木の下の草むらの中に三角点の標石が立っていた。
山頂の北西の210m+ピークを越えて、200m地点から南西へ急坂を降りる。手足にからむ枝葉を払い、何度も進路を変更しながら降りていくと、下に道路のアスファルトと道路の脇に立っている赤い幟が見えた。その赤い幟には、「毘沙門天王」と書かれていた。全くの偶然に毘沙門堂への登山口に降りたのである。いったん道路に降り、「毘沙門堂まで0.4km」の標識に従って歩き、その先の石の鳥居をくぐり、毘沙門堂へ登っていった。
■山頂の岩石■ 白亜紀後期 広峰層 礫岩
田野城山からこの「石坐の神山」にかけての山域は、広峰層(山元・栗本・吉岡、2000)の礫岩が広く分布している。礫の大きさは2〜5cm程度のものが多いが、30cmを越えるものもある。やや丸みがあるものの、全体的に角張っている。礫の種類は、黒色の頁岩が多いが、砂岩や泥岩、チャートも含まれる。それらの礫を埋める基質の部分は、新鮮なものは黒色である。
230.7m峰の南の小ピークの岩石
多くの角張った礫が含まれている
毘沙門堂の建つ「石坐」の岩壁は、地質学的にもおもしろい。下は、成層した黒色頁岩。その上に、黒色頁岩の礫を多量に含む礫岩が重なっている。また、その礫岩中には、厚さ50cmのひん岩?の岩脈がほぼ水平に貫入している。