播磨国風土記  十四丘伝説の山々     姫路市 25000図=「姫路北部」「姫路南部」
その1 八丈岩山・景福寺山・名古山
「火明命と十四丘(内田青虹)」
「風土記が語る古代播磨(姫路文学館編集 2000年)」より引用
 
八丈岩山と十四丘伝説の山々を歩く

 古代播磨の歴史と文化を今に伝える『播磨国風土記』(715年頃)の飾磨郡伊和里の条に、十四丘伝説がある。

 大汝命(おおなむちのみこと)の子、火明命(ほあかりのみこと)は、強情で行動も激しかった。父の神はそれを苦にして、子を棄てて逃げようとした。そこで、船を因達神山(いだてのかみやま)につけると、その子を水汲みにやり、まだ帰ってこない間に船出してしまう。
 さて、水汲みから帰ってきた火明命は、船が出て行くのを見て大いに怒った。そこで、風波を起こして船に追い迫った。父神の船は、進むことができず、ついに打ち破られた。
 このとき、「琴」や「箱」や「梳匣(くしげ)」などの船の積み荷が落ちたところが、十四の丘になったという話である。

 この伝承に出てくる因達神山は、姫路市の八丈岩山に比定されている。また、十四の丘は八丈岩山の南に点在する小丘とされているが、諸説があったり不明のものもある。古代播磨のロマンを求めて、八丈岩山と十四丘伝説の山々を歩いてみた。 

  因達神山(いだてのかみやま)   現.八丈岩山(172.9m)
八丈岩山(子鞠山と御前山との鞍部より)
 
八丈岩山山頂付近のチャート岩体
 
 大汝命(おおなむちのみこと)が、その子、火明命(ほあかりのみこと)を棄てて逃げようとして船を着けたのが、「因達神山(いだてのかみやま)」である。「因達神山」は、増位山・広嶺山山系が岬のように姫路市街地に突き出したところの八丈岩山に比定されている。

 八丈岩山山頂へは、四方より道が通じているが、今回は「八丈岩山登山口」の標柱の立つ西新在家から上った。狭いながらもよく踏み固められた登山路が、ゆるやかにうねりながら、急傾斜で北の山頂へ向かっている。登山路の両側には、自然林が広がっている。ササ・シダ・サルトリイバラなどの下草の上に、ヒサカキ、イヌツゲ・ヤツデ・カクレミノなどの低木が生えている。道の脇に、コウヤボウキが白い花弁を小さく放射状に付けている。ヤマハギのピンクの花は、もう枯れかかっていた。
 上っていくと、クリやソヨゴなどの高木が増えてきた。どこかの工場の時報の音だろうか、エーデルワイスの曲が流れてくる。ヒヨドリが騒がしく鳴いていた。山頂の三角点はコナラの木の下に埋まっていた。

 山頂のすぐ南に、平らな表面がゆるやかに傾斜した大きな露岩がある。山の名の由来となったともいわれる畳八畳ほどの広さのこの岩石は、今からおよそ2億年もの前に海底に放散虫というプランクトンの遺骸が静かに降り積もって固まったチャートであった。

 この岩に立てば、姫路市街地の眺望が大きく開ける。
 外堀の茂みに方形に縁取られ、姫路城天守閣をのせているのが姫山。その手前には、姫山と対をなすように男山が小さく突き出している。男山の右の景福寺山は、長円形の山形を少し曲げてこちらを向いているように見える。山頂部が平らに削り取られた薬師山。階段状の墓地に仏舎利塔の立つ名古山は、ゆるやかに湾曲している。名古山の仏舎利塔のすぐ右奥の小さな緑の丘が神子岡山。その右の背後に連なる山並みが鬢櫛山である。そのどれもが、船の積荷が落ちた十四丘に比定されている。

 姫路市街地の住宅街やビルの合間に、点々と散らばって浮かぶ緑の小丘。古の昔、ここに立った人々が、平野に点在する丘のつくりだすこの景観を見て、十四丘の伝説をつくったのであろうか。すでにあった地名から、神々の営みや争いを想像したのかもしれない。
 比定地は、正しいのか。鹿丘や犬丘など現在地が不明の丘はどこにあるのか。十四丘は、播磨のもっと広い地域に分散していたという説も提出されている。山上の岩に立ち、謎につつまれたまま何も語らぬこれらの丘をしばらく見下ろしていると、いつのまにか下界の騒音は消え、時間までもが止まったかのようだった。

 視程のよい日であった。逆光線を細かく乱反射してまばゆく光る瀬戸内海に、上島やクラ掛島が小さくポツンポツンと浮かんでいる。遠く左手には、明石海峡大橋と淡路島が見える。右手に見える家島の島々には、小豆島の島影が、背後からシルエットとなってかぶさっていた。

 下山は、西の尾根へ回ってみた。途中の露岩からは、十四丘の一つに比定されている船越山が正面に見えた。船越山から秩父山にかけての山形は、銀色に光る瓦屋根の波に舳先を上げた小船のように見えた。最後は送電線に沿って下り、辻井東山公園前の道路に出た。

姫山と男山(中央手前) 景福寺山(左)と薬師山(右中央)・御前山(右手前)
右奥に見えるのは手柄山
神子岡山(中央)と名古山(手前に細長く伸びる丘陵) 船越山と秩父山(中央)

 
  1.船丘(ふなおか)   現.景福寺山(51m)
景福寺仁王門と景福寺山 景福寺山山上の小径

 船丘は、伊和里の割注(初めの項目)にはあがっているが、なぜか残された本文からは欠落している。姫山の西に位置する景福寺山が、その細長い山の形が船に似ているということからこの船丘に推定されている。
 南麓にある景福寺の仁王門をくぐり、本堂左の塀の引き戸を開けると墓所がある。この墓所の奥から、つづらになった坂道が景福寺山の山頂へ向かっていた。道の両側には、墓がずっと立ち並んでいる。山上の細長い平坦部も、全体が墓となっていて姫路藩士たちの墓石やが数多く立っていた。参る人が絶えているのか、倒れかけた墓やササに埋もれかけた墓が多い。あたりにはクヌギやアラカシやコナラがうっそうと茂っている。クスノキも、緑の実をつけて大きく立っていた。市街地にあるこの小さな丘の植生を、寺と墓が伐採から守ったのかもしれない。
 どんぐりの落ちた小道を歩いて東へ下ると、景福寺公園として整備された展望広場に出た。そこには、姫路城天守閣の優美な姿が間近にあった。
 
  2.波丘(なみおか)   現.名古山(42.3m)
名古山仏舎利塔 御前山山頂部

 「波丘」は、「其波丘」と記述されているだけである。火明命が父の船を難破させようと、波を起こした所ということなのだろうか。波丘は、名古山に比定されているが、その根拠はよく分からない。
 名古山は、名古山霊苑の名で知られているが、その丘陵全体は栗林山という。栗林山をつくる三つの小さな峰を、西から名古山、子鞠山、御前山というのである。
子鞠山より望む姫路城
(天守閣右の鋭鋒は桶居山)
 
 名古山の山上部には車道が通り、霊苑に関わって多くの施設が建っている。中心は、高さ38mの仏舎利塔。いつ誰と来たのか何も覚えていないが、幼い頃ここに立つ仏舎利塔を見た記憶だけはずっと残っていた。
 名古山の標高42.3mの三角点は、こんな所にと思うような隠された所に埋まっていた。

 黄葉のイチョウ並木を南東に下り、ビッグサンダー・マウンテンの元祖のような塔を右に見て水の流れる階段を上がると、子鞠山である。ここは、名古山霊苑高台と名づけられた「世界遺産姫路城十景」のビューポイントの一つになっている。ここからの姫路城は、男山と景福寺山に挟まれ、その奥に美しく建っている。天守閣とそのはるか後の桶居山の対比がおもしろかった。

 階段状の墓地を下がり、トンネルの上を通って御前山まで足を伸ばしてみた。ヌルデやヤマウルシに触れないようにして荒れた小道を抜けると、セイタカアワダチソウの山吹色の花穂に囲まれて御前山の丸い平坦面が荒涼と広がっていた。 
2002年10月27日
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