播磨国風土記  十四丘伝説の山々     姫路市 25000図=「姫路北部」「姫路南部」
その2 薬師山・男山
  3、琴神丘(ことかみおか)   現.薬師山(45m)
八丈岩山からの薬師山(中央)
(手前は御前山、後は手柄山)
 
薬師山の南から北の標高点を望む
 琴が落ちたところは、「琴神丘」と名づけられた(割注では「琴丘」となっている)。「琴神丘」は、薬師山に比定されている。

 八丈岩山から南を眺めると、細長く伸びた栗林山丘陵(名古山〜御前山)の西端にほとんど接するようにして、2つの平らな高みがくっついた丘が見える。山頂部が、平坦に削り取られたこの丘が薬師山である。南側には、その名に琴の字を冠す琴陵中学校が建っている。北側の高みは、うっそうとした緑におおわれて琴陵中学校の校舎の下半分を隠している。地形図には、北側の高みに41mの標石のない標高点が記載されている。

 南麓にある願成寺の左を抜けて上ると、そこはもう薬師山の丘の上、琴陵中学校のグランドにぶつかった。道は、バックネットに沿って左右に分かれている。
 右へ進むと、薬師山大御岩神社があった。神社の前に立つ「御由緒略記」によると、御祭神は大巳貴命と少彦名命。発祥の由来は、この丘が神丘の一つと称せられていた遠い昔、ある秋の夜空に「きらめく星にわかに流れ旧山頂に轟く音と共に落下霊石に化為した」とあった。石段を上り鳥居をくぐると、しめなわに飾られた岩を御神体として岩力大神が祀られていた。

 神社の奥の坂を上り、校舎裏の高台に立った。校舎から聞こえてくる合唱の声を背にして、ここから北を眺めた。足元には、蔓を奔放に伸ばしたクズが周りをおおいつくして繁茂している。その向こうの標高点のある高みは、広く竹やぶに囲まれていた。

 願成寺の上に戻り、今度は左へ進んだ。裏グランドから竹やぶに入る。竹やぶの中は、昼間でもうっそうとして暗い。都市の喧騒からぽっかりと取り残されたような空間である。竹やぶの中は自由に歩けるが、標高点のある高みは深い草木の中にあり、こちらからも近づけなかった。

 薬師山をつくる岩石として、珪質な砂岩あるいは淡褐色に風化した頁岩が観察された。
  4、箱丘(はこおか)   現.男山(59m)
名古山からの男山(左)と姫山(右)
 
千姫天満宮
 箱が落ちたところは、「箱丘」と名づけられた(割注では「筥丘」となっている)。「箱丘」は、男山に比定されている。 

 男山は、姫山の北西に小さく飛び出した丘である。南麓にある水尾神社の両脇に、山頂へ続く石段がある。「男山八幡宮参道」と彫られた石柱の立つ左側の石段を上った。
 すぐに、白壁の新しい社殿の千姫天満宮に着く。鳥居の前で、一組の家族が子供の七五三の記念撮影をしていた。
 華やいだ雰囲気が残る境内で、神主さんに聞いた。すぐ下の旧千姫天満宮は昭和45年に建てられたが、倉庫みたいだと観光客には不評だった。この新しい社殿は、今年の4月に建ったということであった。社殿横には、羽子板の形をした絵馬が数多く掛かっている。鹿児島や東京からも、願い事を託して送られてきているものがあった。
 新しい社殿に千姫の頃の面影は残っていないかもしれないが、ここから木の間越しに見える姫路城の姿は、そこから朝夕この天満宮を遥拝したという千姫の思いが今に伝わる情景であった。

 さらに石段を上ると、姫山に初めて城を築いたといわれる赤松貞範がその鎮守として創建した男山八幡宮がある。男山八幡宮の上で、右側の石段と合流し、頂上に達した。

 頂上は、男山配水池公園として整備されている。ここからの姫路城は、姫山原生林の上に美しくそびえている。右に広がる好古園は、紅葉・黄葉に彩られている。長円形の丘、景福寺山もすぐ下に近い。
 午後になって、風が強くなってきた。山頂の両側の少し下がったところに広場があって、東屋が建っている。この東屋の下の椅子に座って、風を避けながら休んだ。周囲は、アラカシ・コナラ・クヌギ・アベマキなどに囲まれている。クスノキの実は、緑から黒く変わろうとしていた。街路樹から逃げ出したナンキンハゼは、実が裂けて中から白い種子が出ていた。

 男山と姫山は、並んで立つ男女の山である。播磨国風土記に「筥丘」は、同じ飾磨郡の枚野里の条に再び登場する。そこには、「大汝少日子命(おおなむちすくなひこのみこと)が、日女道丘の神と会う約束をしたときに、この丘に食物や筥(はこ)や食器などを用意した。だから、筥丘と名づけられた」とある。筥丘(男山)の大汝少日子命は男神なので、日女道丘(姫山)の神は女神ということになる。(枚野里の条にでてくる筥丘が、伊和里の筥丘と同じなのかは意見が分かれるところなのかもしれない。)
 また、江戸時代の地誌「播磨鑑」には、山名の由来について次のような話がある。
 増位山の麓、平野村の長者屋敷に小鷹という乱暴者が住んでいた。小鷹は、旅人を泊めては、石の枕をさせ、旅人が寝入るとおもしをかけて殺し、その血で衣を染めていた。あるとき、美しい武士が泊まったが、小鷹の娘がこの武士をふびんに思い、「旅の人々、石の枕はせぬものじゃ」と幼子を抱きすかしながら歌った。そして、武士と娘は、長者屋敷からいっしょに飛び出して、男は男山に、娘は姫山に逃げ上った。しかし、追いかけてきた小鷹に二人とも打ち殺されてしまった。これより、男山・姫山というようになった……。

 男山と姫山とは、昔から二つ相対比して見られていた。平地から頭をぐっと突き出した男山に男性のたくましさを、ゆるく裳すそを広げたような形の姫山に女性のやさしさを、古から人々は感じ取っていたのかもしれない。

 千姫天満宮あたりに、褐色に風化した頁岩(砂岩をはさむ)の露頭が観察された。

山頂の男山配水池公園
山頂から望む姫路市街地と好古園
2002年11月3日

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