雑木林を縫って、広峯神社から増位山へ
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姫路城から望む広峰山(左)増位山(右)連山 |
姫路城天守閣から、姫路の街が一望できる。広峰山から増位山への山並みは、その市街地の後背に、稜線を小さくゆるく波打たせて屏風のように連なっている。広峰山の山上に、褐色や黄色に色づいた木々に埋もれるようにして小さく見えるのが広峯神社である。双眼鏡で見ると、随神門、拝殿、本殿と、それらの屋根が三層に重なるようにして建っていた。
奥白国登山口には、参詣道を示す新旧の石碑が並んでいる。雑木の中のよく踏み固められた道を、丁石の数字が増えていくのを確かめながらつづらに上る。十丁でハイランドビラ姫路にぶつかり、そこからドライブウェイをわずかに上ると、大鳥居の前に出た。
大鳥居をくぐり、アスファルト道から右へ分かれた古い石段の道を上る。崩れかけた土塀と朽ち果てた廃屋の横を歩くと、時を一気に過去へ遡ったような感覚におそわれる。
天平5年(733)吉備真備の創建によるとされる広峯神社は、京都・八坂神社の本社でもある。中世の地誌「峰相記」に、「熊野の御獄にもおとらず、万人道をあらそいて参詣す」とあり、往時はふもとから参拝者が列をつくったという。広峯神社の繁栄は、神主に仕える祈とう師”御師(おし)”が支えた。朽ち果てたこの廃屋は、参拝者の宿坊にもなった御師屋敷なのである。
境内のもみじが真っ赤に燃えた小さな社から、栄華の跡をとどめた土塀の道をゆるく下ると、広峯神社の石段の下に出た。
石段の上では七五三を祝う家族連れが記念写真を撮っている。写真を撮り終えるのを待って、石段をゆっくりと上っていった。随神門をくぐると、拝殿が建ち、その拝殿に背後からぴったりと寄り添うようにして桧皮葺の本殿が建っている。その前で、数人の学生のグループや、参拝に来た夫婦、七五三の祈祷の順番を待つ家族らが、思い思いに時を過ごしていた。
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山上の旧参詣道のもみじ |
広峯神社 石段上の随神門 |
広峯神社から随願寺への道
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広峯神社横の大きなケヤキの木を見て、東へ随願寺をめざす。道は、小さく浅い谷を三つ横に渡るようにして続いている。一部ヒノキ林もあるが、多くが豊かな自然林である。晩秋に色づくヤマウルシの赤、コナラやアベマキの赤褐色、タカノツメの淡い黄などに、アラカシ・ソヨゴ・ヒサカキなどの常緑樹の緑が混じる。木の葉を透かして降り注ぐ陽の光が、それらの色をさらに明るくまだらに染めている。道の谷側には、石積みが長く続き、その石はしっとりとコケにおおわれている。麓の山陽道を走る車の音は、いつか小鳥の声に変わっていた。
谷から尾根へと道は続き、西尾根ハイキングコースとの分岐を左にとると、奥の院開山堂、姫路城主榊原忠次の墓所を見て随願寺に出た。
随願寺は、聖徳太子が伽藍を造り、高麗の僧・恵便が開山、天平年間に行基が金堂などを築き中興した古刹である。
随願寺の石段の下は、池のある広場となっている。広場の東には、もみじが赤く色づき、そのもみじの上にはシイの木がうっそうと広がっている。シイの実を探している間に、先ほど境内で、「あっちの方に、桜が咲いとるで」と教えてもらっていたことを忘れてしまっていた。
増位山大岩展望台から広峰山を望む
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随願寺から南東になだらかに上ると増位山である。山頂の三角点は真新しくなり、東側が伐り開かれていた。正面に高御位山が見える。北に遠く、笠形山がぼやけている。姫路の街並みを、市川がゆるく蛇行して流れている。午後の空気は、その街並みの上に青白い靄をうっすらとかけていた。
この広峰山から増位山の山塊は、北に豊かな自然が大きく広がっている。ここに、播磨空港を建設する計画があったが、2002年5月に兵庫県は計画を事実上断念した。広峯神社大鳥居前の「広嶺山・播磨空港予定地周辺案内図」の看板も、いつの間にか取り外されていた。都市近郊に残されたこの貴重な自然を、採算もとれない不必要な空港のために壊すことは、後世に大きな悔いを残す愚挙である。この山域が、いつまでも美しく豊かであることを願う。
山行日:2002年11月16日
※ 山名は、広嶺山、広峯山などとも表されるが、地元では広峰山が一般的である。神社は、広峯神社の字が使われている。
※ 今回は、『山と溪谷 2003年1月号』の特集「御利益のある山」の取材のための山行でした。広峯神社への初詣のあと、随願寺、増位山と、落ち葉を踏み分けながらの新春の山歩きはいかがでしょうか。
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