大撫山(436m) 佐用町 25000図=「佐用」 風土記よりも、秋はやはり「食欲の秋」
ゆるやかな起伏が幾重にも重なり、乳白色の朝霧の中にその高まりが見え隠れする。佐用町大撫山の山頂からの、晩秋から初冬の早朝に見られる幻想的な風景である。 この大撫山を地形図で探したら、山頂一帯が「西はりま天文台公園」になっていた。7年前、二人目の子が妻のお腹にいるとき、もういつ生まれてもいいからちょっと揺らしに行こうと家族でドライブに出かけたのが、この「西はりま天文台公園」だった。3日後に、娘は生まれた。 地形図には、頂上までの車道以外にいくつかの道が入り組んで記されている。その中の清水の集落から沢沿いに続く作業道らしい道を選んだ。 昨日の台風18号による強風で、ところどころミズナラなどの古木や竹が倒れ、道をふさいでいた。二人、倒木を乗り越えたりくぐったりして進んだ。 しかし、この台風のおかげで思わぬ恵みに出合った。栗がたくさん落ちていたのだ。疲れ気味だった娘も、栗を見つけてからは俄然元気になって、二人で拾いながら歩いた。 初めは竹や雑木の中にポツンポツンと栗の木があったのだが、しばらく歩くと、あたりは栗の木ばかりになっている。ふと見ると、立ち入り禁止の札が……。そこは栗園だった。 栗園の中を進み、前を見ると軽トラで作業中の方が二人。そこへ後ろから娘が大きな声で、「お父さん、大きなのがまたあった。」と……。 こうなってはもうしょうがない。大きな声で挨拶し、話しかけた。 話をした方は、自然観察の指導員もされていて、今、明石の小学生を見送ってきたばかりだという。歩いてきた道の倒木の様子などの話をして、拾った栗も今回は大目に見てもらった。 台風で、栗園も大きな被害があったに違いない。そんなときに親切にしてもらって、恐縮しながら二人と分かれた。 最後に舗装された車道を少し歩き、西はりま天文台公園内に入った。天文台横の小さな丘に、大撫山山頂を示す標柱が立っていた。 天文台付近からの眺めは素晴らしかった。おおらかな裾野を広げる日名倉山は、頂上が雲におおわれていた。西播磨の山稜が延々と連なり、東には小明神を従えた明神山が小さくぽつんと山頂付近を見せていた。 風土記の跡は、どこにもなかったが、そのかわりに豊かな秋の収穫があった。
山行日:1999年9月25日
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行き:清水(大谷橋)〜地形図破線の作業道〜400m地点でアスファルト車道〜西はりま天文台公園入口〜山頂 帰り:山頂〜地形図破線の作業道〜西河内〜車道を通って清水(大谷橋) |
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清水の集落から大谷橋で江川川を越えた地点に車を止めた。そこから、沢沿いに地形図破線の道路を南西に登っていった。 初めは簡易舗装の道を福沢にある数件の家屋を下に見ながら歩いた。スタートしてから500mほどで右手からの沢と出合うが、ここで舗装は終わった。この道は、作業道として今も使われているようで車一台は通れる幅がある。 しかし、昨日の台風でこの道は川となっていたようで、崩れたり溝が走っていたりと大いに荒れていた。倒木もあり、娘にはちょっときつかった。 標高310mの地点で沢から離れるが、その地点は石垣が組んであって分かりやすい。北上して標高350mの地点で西河内からの作業道と合流する。栗が落ちていたのはこのあたりだ。 合流してから南西に進むが、栗園の中を通ることになった。標高400mの地点で長尾からの車道に出た。車道を少し進むと「西はりま天文台公園」に達した。頂上は、公園内の展望台の横、小さな丘の上にあった。 帰りは、標高350m地点までは行きと同じ。ここから、地形図破線の作業道を西河内へ下りた。途中からつづら折りになるが、地形図通りの明瞭な道であった。西河内で車道に出て、清水の集落に置いた車まで歩いた。 |
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山頂の岩石 白亜紀 生野層群中部累層 安山岩 | ||||||
この岩石は、今から7000〜8000万年前の生野層群中部累層にあたる。この生野層群中部累層は佐用岩体と呼ばれていて、直径10km程度の大きさで分布している。 |
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