ウォーター

韓国詩のコーナー



このページでは、韓国の詩について紹介します。

目次


























































































































































































ハン・ガン『少年が来る』『菜食主義者』

金正勲詩集『息子と観る「ソウルの春」』

『韓国・光州事件の抵抗詩』2

『韓国・光州事件の抵抗詩』

金時鐘の詩「笑う」

『詩評55号』

『金時鐘コレクション第5巻』

『詩人 白石』

羅喜徳5

羅喜徳4

金正勲編訳著『朝鮮の抵抗詩人 東アジアから考える』

崔龍源

金ウォルジュン

崔華国と「あすなろ」

第7回日韓詩人交流会

『金起林作品集』書評

金正勲編訳著『民族抵抗詩人の東アジア的アプローチ』

金起林作品集T『新しい歌』2

金起林作品集T『新しい歌』

追悼 金芝河

安姫燕

「光州民主化運動を女性作家が書く」

崔真碩訳『キム・ヨンス著 ニューヨーク製菓店』

金正勲編『ひとつの星を歌おう』

李ヒャンア3

上野都訳『朴八陽 麗水詩抄』

李ヒャンア2

書評『サハマンション』

金準泰 光州民主化41周年

「文章」56号

文貞姫3

ソンチャンホ詩集『赤い豚たち』

金学鉄文学選集1『たばこスープ』

クォン・ヨソン著『きょうの肴なに食べよう?』

『韓国文学を旅する60章』

金明淳

MeTooで結ぶ、韓国と日本

高昌秀

『ホ・ヨンソン詩集 海女たち』

朴賛一

「四・三と平和」

羅喜徳3

パク・ヒョンジュン

李御寧2

金永郎3

尹東柱の故郷を訪ねて

李ヒャンア

金永郎2

金永郎

金鍾泰詩集『腹話術師』

金キョンフ

『金準泰詩集 光州へ行く道』2

黄仁淑

韓龍雲

『金経株戯曲集 オオカミは目玉から育つ』

『姜善奉詩集 小鹿島の松籟』

『金準泰詩集 光州へ行く道』

『運命 文在寅自伝』

李箕永著 故郷

申鉉林

宋竟東

金海慈

文忠誠

李麒麟

黄鐘権

陳恩英

ト・ジョンファン『満ち潮の時間』

第一回アジア文学祭

2017平昌韓中日詩人祭(2)

2017平昌韓中日詩人祭(1)

チョ・オヒョン




王秀英、時調、安ドヒョン、『生命の詩人・尹東柱』、
羅喜徳、丁章『在日詩集 詩碑』、文貞姫、宗秋月、金里博、高銀『無題詩篇』、
朴正大、上野都訳・尹東柱詩集、朴柱澤、『料理と詩のコラボレーション』、
許英子、 金達鎮、金后蘭、崔由地、金南祚、金基澤、イ・ソンボク、高炯烈、権千鶴、
金時鐘『猪飼野詩集』、金知栄、朴利道、崔泳美、崔スンホ、
シム・ウォンソプ『秘密にしていた話』、金里博『三島の悲歌』などこちらです。

金行淑、李英光、イ・ジョンロク、金南祚掌編集『美しい人びと』、
李御寧詩集『無神論者の祈り』、 蘭明著『李箱と昭和帝国』、
金一男著『韓国詩歌春秋』、金時鐘 編訳『尹東柱詩集 空と風と星と詩』、
『金恵英詩集 あなたという記号』、図書新聞書評 申庚林詩選集、
『韓国近現代文学事典』、キム・ソヨン、詩評・2012年夏号、ヨ・テチョン、
ハンサルリム、申庚林詩選集 こちらです。

「映画評、詩評2012年春号」、ペ・ハンボン、「東京新聞 祈りと脱原発の思い」
李英光、東アジア脱原発ネットワーク、韓国詩人への御礼・中央日報
エネルギー正義行動、高銀(3)、金南祚、金后蘭、権宅明、金ソヨン
李珍明(2)、陳恩英、「ASIA POEM 光と林」、文貞姫、鄭浩承
高銀メッセージ、金ギョンミ、シン・ヨンモク、張錫南(2)こちらです。

金南祚、朴羅燕、黄仁淑、ソン・ジェハク、高銀、李箱、崔グムジン、
金止女、映画「チョルラの詩」、金ミョンギ、李ミンハ、イスミョン、
朴正大、『地球は美しい』(4)、高炯烈(2)、朴ヒョンジョン、金オン、
『地球は美しい』(3)、『地球は美しい』(2)、『戦争は神を考えさせる』
(3)、朴ジンソン、馬鐘基、朴ジャンホ、アン・ミョンヒ、韓成禮、
金芝河、李珍明、崔泳美(4)、朴柱澤(2)は、ここをクリック。



ソンチャンホ、崔鐘天、鄭クッピョル、金勇範、文泰俊(2)、
『地球は美しい』、『戦争は神を考えさせる(2)』、金経株(2)、
呉世栄、鄭浩承、李起哲、『戦争は神を考えさせる』、孫澤秀、
金行淑、文寅沫、鄭百秀、金芝河(2)、羅喜徳は、こちらです。


金経株、李昇夏、105韓国詩人選、金思寅、黄炳承、高銀(2)、
崔正礼(2)、千良姫、呉世栄(2)、金恵順、朴柱澤、リュ・シファ
朴賞淳、文泰俊、金宣佑(2)、「詩と思想」2006・7月号、高炯烈(2)、
チョン・クッピョル、韓国女性小説家、金ミョンニ、羅喜徳(2)、
『今日の詩 韓国詩21人集』、崔泳美(3)は こちらです



ソン チェハク、任平模、朱耀翰、金龍済、李箱、鄭芝溶、
イ ジョンロク、金基澤、イ ソンヨン、朴ジョンデ、チェ ジョンレ、
キム ソヌ、チョン ホスン、チョン クッピョル、はこちらです

権大雄、崔勝子、王秀英、高炯烈、朴ノヘ、はこちらです

金基沢、安度呟、詩誌情報、金芝河、崔泳美、はこちらです

呉鎮賢、黄芝雨、将正一、姜恩喬、尹東柱、はこちらです

韓国現代詩小論集、張錫南、詞華集、金龍澤、崔華国、はこちらです

詩選集『新しい風』、河在鳳、高銀、呉世栄、崔泳美(2)、はこちらです

オ テファン、崔勝鎬、イ ジョンロク、鄭一根(2)、イ ムンジエ、
羅喜徳、チェジョンレ、李ソンヨン、『詩評』、『詩と思想』9月号、
朴チョンデ、金宣佑、崔勝鎬、『日韓『異文化交流』ウオッチング』
呉廷国、高在鐘、延王模、金光林、鄭一根、はこちらです


ハン・ガン『少年が来る』『菜食主義者』


2024年ノーベル文学賞に韓国の作家・韓江ハン・ガンさんが選ばれました。
私は2017年に第1回アジア文学祭でお父様の韓勝源さんにご拝眉したことがあります。
光州事件の記憶をとどめ、犠牲者を追慕しようとする願いがこめられた文学祭でした。

ノーベル文学賞授賞理由は「歴史的トラウマに立ち向かい、人間の命のはか
なさをあらわにした強烈な詩的散文」という内容でしたが、「歴史的トラウマ」
のひとつは「光州事件」であり、作品『少年が来る』(井手俊作訳 クオン)
に表現されています。

民主化闘争を弾圧する軍部によって、いきなり殴られ、銃剣で刺され、銃撃さ
れた少年少女、無辜の市民たち。その少年が語り手となり、おびただしい遺体
にふれ、また死者となり、「魂には体がないのに、どうやって目を開けて僕たち
を見守るんだろう」「魂の涙は冷たいな」「その魂も話し掛け方を知らないようだ
った。お互いに言葉の掛け方を知らないのに、ただ僕たちがお互いのことを力
の限り思っているってことだけは感じられたんだ」という文章に死者への繊細
で豊かな想像力が感じられ、死者を生き返らせようとする文学ならではの力を 思います。

光州記念館には少年少女、大学生、労働者、年配者さまざまな市民の遺影が
並んでいます。天井には、脱げ落ちたおびただしい靴が吊るされていて
アウシュビッツの遺品と同じように虐殺の残酷さを痛感させます。

「光州とは孤立したもの、力で踏みにじられたもの、毀損されたもの、毀損さ
れてはならなかったものの別名なのだった。被曝はまだ終わっていなかった。
光州が数限りなく生まれては殺害された。かさぶたになり爆発しながら、
血だらけになって再建された」と光州の民衆虐殺が韓国にとどまらず、
世界に存在する悲惨なできごととして提示しています。


また、マン・ブッカー賞、李箱文学賞を受賞した『菜食主義者』(きむふな訳
クオン)は、男性の、人間の暴力性に対する拒否と抵抗を美しいイメージと
洗練された文体で印象付けています。
家父長的な義父は、「ベトナム戦争に参戦し、武功勲章を受章したことを最も
誇りに思っている彼は、とても声が大きく、その大きな声ほどに気の強い人
だった。おれがベトナムでベトコン七人を・・・で始まる自慢のレパートリー」
と、ベトナム戦争に参加した韓国の加害的トラウマにも言及しています。むりやりに
肉を食べさせようとする義父、夫に反抗し、菜食を続ける妻ヨンヘに、家族は
怒り出し、壊れていきます。
各三章の語り手が変化し、一章は夫です。

第二章「蒙古斑」の語り手は義兄で、彼の要望で、花のボディ・ペインティングを
したヨンヘの体をビデオに収めます。ヨンヘの身体はまさに花のように輝きます。
「赤紫と赤の半分ぐらい開いたつぼみが肩と背中に咲き乱れ、細い幹がわき腹を伝
って流れた。」花になって交合したいとも思うようです。義兄もボディペインティング
を自らします。一方、この行為は義兄の暴力性も帯びているでしょう。

第三章「木の花火」では、精神病院に入れられたヨンヘは逆さまに立って
全身を広げ、木になろうとしているかのようです。
第三章の語り手は姉です。
妹が幼い頃、父親の暴力を一身に受けていたことを思い出すのです。

人間の暴力と肉食に対して、根源的な懐疑と抵抗を鮮烈なイメージと細や
かな心理描写で表したハン・ガンの作品の重要性が世界的に認められ、
さらに広く共感を呼ぶでしょう。









金正勲詩集『息子と観る「ソウルの春」』


息子と観る「ソウルの春」

愛する息子よ
お前ももう二〇代後半だね

お前がおれと一緒に「ソウルの春」を観に行こうと言った時
少し迷ったのはお前と一緒に映画を観るのが
親子で照れくさいと思ったからではないんだ
恥ずかしいからだ 本当に恥ずかしいからだ

映画館で映像が闇を貫いてスクリーンに映り始める瞬間
そこに座っている全ての観客が息を殺し
正面をじっと見つめる姿を覚えているだろう
映画の評を聞いて押しかけてきたのだろうが
歴史的悲劇をはたしてちゃんと再現してくれるか、と
好奇心に満ちた瞳をきらきら輝かせていた人もいただろう
お前はどんな想いを持っていたかね

愛する息子よ
軍部クーデター勢力とそれを阻止しようとする軍人の対立で
終始スリルと迫力あふれる場面が繰り広げられるので
その話を耳にして映画を観ようとしたのか
軍部クーデターの背景と光州民主化運動についてもっと知りたいので
おれを誘ったのかについてはこれ以上聞きたくはないんだ

実は軍部クーデターを起こした全斗煥に対抗して
市民が民主化要求のデモを激しく行った一九八〇年の
光州民主化運動時、おれは大学入試に失敗して
市内の大成学院*で浪人していたんだ

幸いに民主化運動の指導者といわれる先生に詩を学び
学院の授業が終わると、帰宅のバスに乗るために
道庁前を通り過ぎねばならなかったが
多くの群衆が集まって叫び声を上げる現場を時々目撃したんだ

道庁前噴水台の群衆に催涙弾が落ちる時は
市民に加わって石を投げたり
戒厳軍が若い人を全部捕まえるというデマが広がった時は
自宅のタンスの中に閉じこもったりもしたんだ

しかし 愛する息子よ
木蓮の花がポタポタ落ちるにつれ
あちこちで戒厳軍の銃に若い命が次々に散り
光州市内に血の匂いが漂っていた時
多くの市民は放送スピーカーから聞こえる女の
「光州市民のみなさん、私たちを忘れないでください」
という声を聞いたんだ
おれも か細いとはいえ、その鮮明な声を聴いたがね

でも命をかけて道庁を守る市民軍に合流するどころか
彼らを助けることも道庁の近くに行くこともできなかったんだ
結局五月二十七日の夜明け、道庁を守っていた市民軍たちは
戒厳軍の銃に次々と非運の最期を遂げてしまったんだ

道庁に入らなかった光州市民は今も
罪悪感に苛まれていることが理解できるだろう
犠牲者たちは死を選んで 永遠に生き返る道に進んだが
生きた人たちは生を選んで 永遠に罪の道を踏むことになったのよ

愛する息子よ
おれが恥ずかしいと思う理由がわかるかね
次の世代を担うお前にも心から許しを乞いたいんだ
亡くなった人に申しわけない
亡くなった人に申しわけないから。

※日本の「予備校」を韓国では「学院」という。


※金正勲は、研究者として『漱石と朝鮮』『戦争と文学 韓国
から考える』などの業績があります。また、訳書に『明暗』
『文炳蘭詩集 織女へ・一九八〇年五月光州ほか』『金準泰詩集
光州へ行く道』『松田解子詩集 朝鮮乙女のおどり』『ひとつの
星を歌おう 朝鮮詩人・独立と抵抗のうた』、編著に『朝鮮の
抵抗詩人 東アジアから考える』などを刊行しています。
最新作は、『日韓対訳 韓国・光州事件の抵抗詩』で、私も
共訳を務めさせて頂きました。

映画「ソウルの春」は、朴チョンヒ大統領が暗殺され、それまでの
独裁体制を刷新し、民主化を求める運動が起こった一九七九年十二月
に、全斗煥が率いる軍部がクーデターを起こして弾圧し、軍部政権を
押し立てるさまを描いた映画です。韓国では、1300万人が観たと
言われています。

金正勲さんは、光州で起こった民主化運動弾圧事件の当時、浪人生で、
運動に直接参加しなかったのです。その自責と「恥ずかしい」という
気持ちが、初めての日本語詩集として結晶しました。

本書中には、「二〇〇二年 韓日ワールドカップ」「日本のことを思う」
など、日本文学研究者として韓日の友好を願う詩もあります。

また、「名古屋の少女たち」には、「日本人教師と校長の/甘い言葉に
騙されて/名古屋に連れていかれた」「勤労挺身隊ハルモニ」の給料
無しで、空腹のまま過酷な労働をさせられた少女たちの無念も記され
ています。金正勲さんの原点の思いが詰まった詩集です。
(風媒社 定価1200円+税)




『韓国・光州事件の抵抗詩』2


五月の魂
姜泰亨



ぼくは一筋の風でありたかった
一晩中 寝返るきみの 喘息の咳によって
きみの肺腑深く出入りする
一筋の風でありたかった
きみのつらい号泣にぼくの体はすっかりほどけてしまう
指先 あるいはすすり泣く肩先から
墜落を繰り返すことになるだろう
ぼくはきみのそばから離れない
悲しみが残った恋人よ
きみが寂しく歩く
ぼくが死んで倒れた街で ぼくを探すな
体に刺さった銃弾の穴からぼくの血は流れ
黒いコールタールに混ざっても
ぼくはそこにいない
倒れたその地にいない
ぼくはここにきみの怒りとともに
きみの悲嘆とともに
今ぼくはここにきみの叫びとともに
もう 止めることのできない喊声で
若い 若々しい立ち上がりで
眩しいきみの目
きみと一緒に行く友たちの目の中にぼくがいるので
頭を下げるな
あちこちでぼくが声を上げて走っていき
髪の毛を捕まれ、連れていかれ
ぼくはすでに立ち上がり
半島のあちこちに吹く風で
きみの呼吸の中に生きて
きみの目の中に生きて
ぼくはきみのそばから離れない
頭を下げるな



*姜泰亨は一九五七年、全羅北道・金堤で生まれ、圓光大学のドイツ文学科を卒業した。
一九八二年、『ソウル新聞』新春文芸を通じて創作活動を始めた。
この詩は詩集『夜の花の咲く六月にー八〇年代民族詩人新作選・二』に収録されたものである。





『韓国・光州事件の抵抗詩』


『日韓対訳 韓国・光州事件の抵抗詩』文炳蘭・李栄鎮編

光州へ行く道  
金準泰  金正勲・佐川亜紀訳


私たちは いますぐ恋しい光州に行きます
南*の愛 南の抱擁
母と父の光州に行きます
胸につもった空の気持ちではためきながら
胸にこもった海の気持ちでゆれながら
私たちは いますぐ恋しい光州に行きます

ああ 白衣の人々の歴史を背負って
南の竹林の村 南の怨念の愛
歌と希望の街 光州に走ります
胸にたまった暁の気持ちではためきながら
胸にこもった川の気持ちでゆれながら
私たちは いますぐ恋しい光州に行きます

南の愛 南の抱擁
母と父の光州に行きます
口づけと口づけがついに生き返るところ
肩踊りと肩踊りが生き生きとうねるところ
青い鳥になって飛べと言われれば青い鳥になって飛び
私たちは いますぐ恋しい光州に行きます

ああ 白衣の人々の暮らしを背負って
南の身もだえ 南のまるい愛
鳥たちと空 初恋の光州に行きます
田畑ごとに深く深く耕す父
甕ごとに種をいっぱい入れる母
私たちは いますぐ恋しい光州に行きます
野ばらも立葵も白い光州に行きます

*光州 韓国の南西部の市。光州民主化運動が起こった地。
*南  朝鮮半島の南側、韓国を意味する。
*肩踊り 肩をうねらせて踊る韓国の伝統的な踊り方。


2023年、韓国で映画「ソウルの春」が1300万人を動員する
大ヒットを記録しました。日本でも8月23日に公開されます。
1979年の軍クーデターから光州事件にいたる歴史がふたたび
注目されています。
1980年の光州民主化運動と、すさまじい弾圧は、当時、韓国で
は戒厳令により、情報が封じられ、国際的にも詳細が分かりません
でした。いちはやく、詩人・金準泰は、詩を書いて世界に発信しま
した。申庚林、朴ノヘ、金南柱、趙泰一、高ヒョンヨルらの光州事件
についての代表作を集めた詩選集がこの度、日韓対訳・同時刊行され
ます。韓国の現代史を考えるうえで必読の詩集です。
(彩流社 3100円+税)








金時鐘の詩「笑う」


記憶には記憶を遠ざけてしまう
記憶がある。
長年月に混ざり合って重なって
その端しばしがまた別の場面に
成り変わっていたりして、
寝つけぬ夜のせっかくの眠りを
乱してしまう。
思い返せば またもや同じ
追われて潜んだ おののきの夢だ。

私には祈るしかない心の責め苦が
拭いようのない罪とがとなって
うずくまっている。
父を独りで葬った母の
底知れない悲しみの暗さに
掌が合わさる。
つらなって私をかくまったがため被った
叔父の非業の死の呻(うめき)を耐えて
黙然する。
同時に私を導いて入党までさせた彼が
ひしゃがった顔で息絶えていた無惨さに
目を閉じ 唇を噛む。

供養ではない。
記憶に苛まれる己れのための
合掌である。
それでも寝つかれぬ夜はあって
またまた脳裡をかすめてくるのは
なにかの物陰で怯えている
少年の顔の自分である。
年につれて古びていったのではなく
記憶を遠ざける記憶にめくるめいて
記憶の四・三がひとつひとつ
ばらけていったのだ。

婦(おんな)が笑っている。
妖気に魅入られた鬼気さながら
目元をつり上げ笑っている。
惨慄(さんりつ)な殺戮の四・三のさ中
装備もものものしい討伐隊の軍警に
大仰に両腕をひろげ
ゲラゲラクックと笑いだすのだ。
乳房のふくらみも白く見えている
ずり落ちたチマのはだしの婦。
村ごと焼き払われ乳呑み児までも銃撃された
橋来里(キョレリ)の虐殺からひとり取り残されてしまう
三児の母の彼女である。

伯父の法事で城内(ソンネ)に来ていて
助かった命。
生き残って気が狂(ふ)れてしまった
乾いた命。
いかなる記憶も彼女のまえでは
笑いの残響に匹敵する。
狂って笑うしかない悲嘆が笑うのである。
独り生きのびた私を笑うのである。
いくら醒めても 
耳をこじってつのらせて
夢は一向につぎはぎのまま年を取らない。

*橋来里(キョレリ)  旧朝天市の中山間地帯にあった、百戸余りの集落。
*城内(ソンネ) 旧道庁所在地であった、済州島の中心市街。




2024年4月20日の「済州島4・3抗争76周年追悼・
  講演とコンサートの集い」は、会場に入れない人であふれ
るほどの盛会でした。わたしも開演15分前に着いても会
場で聞けないほどでした。それほど金時鐘先生を一目見たい、
講演を一言でも聞きたいというたくさんの人々がいらっしゃ
るのに驚くばかりでした。幸いにも金時鐘先生にご挨拶する
ことができ、講演はロビーで拝聴しました。

配布された御作品「笑う」に書かれたように、忘れえぬ記
憶のなまなましさが講演で語られ、今も癒えぬ痛みと傷を
感じます。

「独り生きのびた私を笑うのである」とはたいへん厳しい
自省です。狂って笑うしかないほど、残酷な虐殺で家族を
失った済州島の人々の痛苦は続いています。

第二部の 済州島4・3オペラ「スニおばさん」も、子ども達
の亡骸が埋まった畑を耕し続けたスニおばさんの悲しみを表現
し胸が詰まります。

名もない者たちのうた名もない者にも名前がある/名前が
刻まれていなくても/記憶しなければならない人たち/
忘れてはならぬその名前 君と僕 私たち」はとても印象に
残るうたです。

金時鐘先生の詩「笑う」は、藤本巧写真集『金時鐘詩篇の
風景T』(工房 草土社)に手書き原稿の写真とともに
収められています。済州島の歴史の重みと人々の人生を
ずっしりとした感触でつたえる写真と金時鐘先生の詩が
見事に会い、四・三の苛酷さを現在に知らせてくれます。







『詩評55号』


2000年に高ヒョンヨル詩人が主幹として季刊「詩評」を
54号まで刊行しました。最初から、韓国の詩人だけではなく、
アジアの詩人を企画委員に招き、各国の詩と評論を掲載してい
ました。私も企画委員として、日本の詩人を紹介しました。
その後、一時、中断していましたが、2024年3月10日に
55号が高詩人の熱意で発行されました。

「いくつかの問答と36人の詩人と36編の詩」と題し、
中国、インドネシア、日本、韓国、台湾、ベトナムの詩人の詩と
尹東柱など先達詩人も収録しています。
日本からは、半田信和さん、伊藤芳博さん、柴田望さん、
青木由弥子さん、佐川亜紀が参加しました。
権宅明詩人が韓国語訳をしてくださいました。
今号で注目すべきは、「福島の汚染水の海洋放出をどう考えるか」
という質問が出されたことです。韓国では「核廃水」と言っています。
韓国詩人のひとり、金イドゥムさんの詩と問答を紹介します。


溜めた水の底で

金イドゥム
佐川亜紀訳 権宅明監修


昨夜は眠れませんでした
夜の絶壁から陽が昇る山の向こうまで
危ない綱をつかんで渡りました

この山岳の村には死者がひとりもいません
文章がみんな粉々に砕けられたら朝です
雪が降りしきる朝です

あなたの峡谷にも白い雪が降りますか
そこにも初雪が降りますか
砕け裂けた白紙のようにふぶきますか

貯水池の方に下ってくるのに
あなたが私をつかまえるのかと思いました
私のショールが岩の間に挟まったことも知らずに
ここに来てからいくらもたたず この世界をよく知りません
水の上に降る雪片のように
水中できらめく灰色の森のように
あなたがいらっしゃっるそこにも新年が始まりますか
永遠に誰も生まれない場所を楽園といいますか
死ねばまた死ぬのではありませんか 

この村には死亡者がただひとりもいません

※金イドゥム 慶南晋州に生まれる。2001年季刊「ポエジー」を
通して作品活動を始めた。詩集『ヒステリア』『透明なものと無い
もの』などを出版した。研究書『韓国現代フェミニズム詩研究』
などがある。


<問いと答え>
問1 今回、このアンソロジーに発表した詩「溜めた水の底で」は
どのように得たものですか?

金 昨年12月初め、初雪が降った日に全南タミャンにある
鳴玉軒ミョンオッコンに行き、池に映った世界を見ながら詩想を得ま
した。ひょっとすると今ここが死後の世界ではないかと考え
ました。

問2 この詩であなたが最も好きな詩句はどこですか。読者に
一つの詩句を示してください。

金 「この村には死亡者がただひとりもいません」

問3 あなたの詩とAI文明とはとても密接な関係があると
思いますか?それともないと思いますか?

金 すでにAIが書いた詩集が出版されたという事実を知っています。
でも、私はこのような文明に対して抵抗はありません。
詩は自身と向き合うことだから、AIの作品との差別性に対して
楽観視し心配していません。

問4 あなたはなぜ詩を書き続けているのですか?一言で
言ってくださいますか?

金 詩は私にとって言葉であり、沈黙であり、呼吸です。
詩がすなわち人生です。

問5 生態環境の破壊と汚染問題は人類の生存と直接的に関連する問題
です。日本の福島の核廃水は永久に地下に埋めるべきでしょうか?
海に流すべきでしょうか?あなたはどのように考えますか?

金 福島の核廃水を海洋に放流していますが・・・・。
それは止めなければならないと思います。人類全体のために最善の方法を
模索する必要があると考えます。










『金時鐘コレクション第5巻』


「日本から光州事件を見つめる」

褪(あ)せる時のなか

そこにはいつも私がいないのである。
おっても差しつかえないほどに
ぐるりは私をくるんで平静である。
ことはきまって私のいない間の出来事としておこり
私は私であるべき時をやたらとやりすごしてばかりいるのである。
だれかがたぶらかすってことでもない。
ふっと眼をそらしたとたん
針はことりともなくずってしまうのだ
あの伏し目がちな柱時計の
なにくわぬ刻みのなかにてである。
おかげで夜は澱んだ沼だ。
うずくまるだけが安息のような
シーラカンスのうたた寝だ。
眠りこければ時代も終わろう。
終わった時代に横たわって
醒めてもいたい眠りだろう。
とり残されてか
やりすごされてか
見るともない眼がただしばたいていて
しらじらと見られているのは私なのだ。
乳白色に闇をただよわせ
いっときに時が褪せていく。
なぜかそれだけが見えるのである。
蛹が見るあのうすぼけた世界のにじみである。
なんとまた私自身が殻の中だ。
あの暑い日射しの乱舞に孵(かえ)ったのは
蝶だったのか。
蛾だったのか。
おぼえてもないほど季節をくらって
はじけた夏の私がないのだ。
きまってそこにいつもいないのだ。
光州はつつじと燃えて血の雄叫びである。
瞼の裏ですら痴呆ける時は白いのである。
三六年?を重ね合わせても
まだまだやりすごされる己れの時があるのである。
遠く私のすれちがった街でだけ
時はしんしんと火をかきたてて降っているのである。


*三六年=「大日本帝国」が朝鮮を直接統治した植民地期間の年数。




『金時鐘コレクション』全12巻が、藤原書店から刊行されています。
2024年2月28日に、第5巻『日本から光州事件を見つめる
詩集『光州詩片』『季期陰象』ほか エッセイ』が出版されました。
ちょうど2023年、韓国で映画『ソウルの春』が上映され、大ヒット
し、1000万人が見たという歴史的な記録を樹立しました。
1980年5月の光州民主化運動事件は、チョンドファン政権により、
非常戒厳令がしかれ、韓国内部で情報と事実が封殺されました。
韓国国内では5月18日の戒厳軍の暴虐の実態が伝わらない不条理が
起りました。

金時鐘の詩で驚かされるのは、まず自分の在り方への自責が行われている
ことです。しかも、その自責は、現在のガザ、ウクライナ、アフガニスタ
ン、ミャンマーなど、世界の民主化運動の苦境にたいする私たちの不在、
無力さをも表現しています。さらには、それらの苦境に積極的に加担して
いる面があるという自己矛盾をも突きつけているのです。

もちろん、虐殺を描いた詩句もあります。「抉られた喉は/その下の土くれの
なかでひしゃがっている。」「蛆にたかられているのは裂かれた腹の嬰児
の頭蓋だ。」「五月を/トマトのように熟れ圧し潰された死よ。」(「冥福
を祈るな」より)など、むごい事実を伝えた部分もありますが、全集の
インタビュー(聞き手・細見和之、宇野田尚哉、浅見洋子)によると、
最初に書いたのは「褪せる時のなか」だそうです。

「私は、この光州の弾圧が全斗煥警備司令官によって起こされたということ
を聞いてすぐさま、吐き出すように書いたのが「褪せる時のなか」です。
五月一八日の夜に書いたんです」

また、詩集全体のテーマが自己の無力と喪失を刻んだものだと明かします。
「連作詩『光州詩片』は、海を隔てて腕をこまねいているしかなかった
私の、やるかたない憤りと無力感を刻んだ詩集です。それはとりもなお
さず、その場にはいつも私がいなかったという自己喪失感、私が私で
あるべき時を自ら喪失しているという喪失感が、命題まがいになって
疼いているということでもあります。」

特に、金時鐘は、この光州市民義挙による1987年の民主化の勝利、
金大中大統領の就任により、韓国への墓参が実現し、2003年には
韓国籍を得て、大韓民国国民となったのであり、自己の回復にとって
非常に意味深いことだったでしょう。

それにしても、自己の内面をえぐる行為から始めることに、金時鐘の
詩の本質を教えられるのです。

第5回の巻頭写真には、金時鐘先生が『集成詩集 原野の詩』で第25回
小熊秀雄賞特別賞を受賞されたときの写真も収録されています。
私も僭越ながら、第25回小熊秀雄賞を頂いたので大変光栄です。
(第5巻 本体4200円+税)





『詩人 白石』


『詩人 白石(ペク・ソク)―寄る辺なく気高くさみしく』
アン・ドヒョン著 五十嵐真希訳


膳友辞            白石  五十嵐真希訳


使い古された小さいお膳に 白飯も鰈(かれい)もわたしもみな座り
侘(わび)しい夕餉(ゆうげ)を迎える

白飯と鰈とわたし
わたしたちはどんな話でも通じ合うようだ
わたしたちは信じ合い仲睦まじく互いに好きなのだ

わたしたちは 澄んだ水底 真っ白な砂浜で 日がな一日砂粒ばかり数えて
骨が太くなったせいだ

風の心地よい原っぱのど真ん中で 水鶏(くいな)の声を聞き
甘露を飲んで 歳を取ったせいだ
人里離れた山奥で トンビの声を知り リスを友として育ったせいだ

わたしたちはみな欲のないまま白くなった
とても善良なので 鋭い小骨も 手のうちもない
あまりに清らかなので こんなに青白くなった

わたしたちは貧しくても恨まない
わたしたちは寂しがる理由もない
そしてだれひとり羨ましくもない

白飯と鰈とわたしは
わたしたちがともにいれば
世間なんてものは外に押しやってもかまわないだろう
*詩「ノロジカ」「古寺」「膳友辞」……連作詩「威州詩抄」の一部。
(『朝光』第三巻第十号、一九三七年十月)

※韓国で多くの人々から親しまれる詩人アン・ドヒョンさんが敬愛を
こめて先達詩人である白石(ペク・ソク)の生涯と作品をたどった
評伝が、五十嵐真希さんの細部まで配慮が行き届いた翻訳で日本に
伝えられていて、すばらしいことです。

白石は、悲劇の詩人とも言えます。一九一二年に生まれ、若い時から
秀でた才能を認められ、有名な金素雲訳編の『朝鮮詩集』(一九四
〇年刊)にも四篇収録され、期待が大きかったのが分かります。
日本植民地時代には、青山学院大学に留学し、モダニズムも吸収しま
すが、朝鮮の言語と風土に対する愛は深いものでした。一九三六年に
は、方言を生かし詩集『鹿』を刊行し、一躍詩壇の注目を浴びました。
解放時に、北朝鮮の新義州に居たため、その後も、分断により北朝鮮
で過ごし、文化政策と相容れず、後年は児童詩などを書きましたが、
一九六二年を最後に執筆できず、一九九六年八五歳で亡くなりました。

さらに考えるべきは、「越北作家」として、韓国で長らく、出版・研究
が禁じられていたことです。しかし、民主化と同時に、韓国で『白石
詩全集』が一九八七年に刊行されました。いかに韓国の人々が白石の
詩を大切にし、待ち望んでいたかが分かります。

白石は、一九一二年七月に朝鮮半島の北部・平安北道定州郡で生まれ
ました。アン・ドヒョンは、「地形と気候の特徴は、白石の原体験を
つくる重要な要素になった。白石の詩にはほかの詩にはない珍しい
特徴として、幼い頃にまつわる食べ物が多く登場する。彼はこだわ
って食べ物の記憶を詩に取り入れることで、過去の時空間を復元し
ようとした」と指摘しています。引用した「膳友辞」も食べ物の詩
で、「白飯と鰈とわたし」を同列に並べ、「わたしたちは信じ合い仲
睦まじく」と、生命のつながりを讃え、植物、動物、人間の境を越
えて、結び合うことに神聖さを見出しています。

生命の平等な結びつきは、最も有名な詩「焚き火」にも感じられます。
また、石川啄木から影響を受けたとの推察もたいへん興味深いです。
両者とも伝統的な美学を超え、生活や貧しさを具体的な映像として
詠っています。「日本に留学していた習作期のころから、「最もモダ
ンなもの」と「最も朝鮮的なもの」をどうやって融合すべきかを
思案した」「白石は日本語による詩を一篇も発表しなかった」と
の姿勢は尹東柱に通じる清廉さです。

43ページ分に及ぶ訳者の丁寧な註が付けられ、朝鮮近代詩史、
近代詩人についても豊富に学べます。

最近、中国朝鮮族の詩人・金昌永さんの詩集を柳春玉さんの訳で読
む機会があり、その中にも白石が登場して、驚きました。
(『金昌永詩集』は今後刊行予定です)
日本で白石の詩を知るために最適な評伝です。

(新泉社 3600円+税)



羅喜徳5


血と石油  
羅喜徳  佐川亜紀訳・権宅明監修
 
石油を悪魔の排泄物だと
ホアン・パブロ・ペレス・アルフォンソは言った*

ベネズエラの鉱業開発長官だった彼は
OPECの設立を主導したが
石油が不正腐敗ともめごとの強力な媒介体だということを
誰よりもよく分かっていたようだ

ロックフェラーは自分の石油をもっと多く売るために
ランプとストーブをべらぼうに安く売った

彼らにとって最も大きな危険は石油の消費が減ること
毎日一億バレルの石油が世界で売り出される

掘って また 掘って!

気候危機なんか問題じゃないというように
粘土と岩盤にパイプラインを打ち込むボーリング塔と
データセンターに送られるデータ、データ
地球は穴がぼこぼこあけられたまま、ずたずたに引き裂かれている

土の中で休めず 抜きあげられるこの死のジュースを
一度も飲まなかった人がいるだろうか

死んだ有機体たちから出て来た
この化石燃料は煙突と排気口を通り昇天しながら
地球をもっとも早く死なすのだろう

石油とガスは
戦争といっしょに輸出されることもあり
戦争で供給が長時間中断されることもある

原油価格もガス価格もうなぎのぼりの冬
バルト海を通る天然ガスパイプラインを思い浮かべる

彼らは言う
石油やガスにも精神があって
枯渇と終末に対する恐怖を教える代わりに
新しい神に仕えさせ
燃え上がる炎の美を分かるようにさせねばならないと

血のように赤く
血よりも赤く
とうとう血で赤く

世を染める者たちよ
もうこれ以上 石油のために血を流さないでくれ

血は赤く 石油は黒いが
血と石油は
ポルフィリン**と同じ血統を持つ

ロシア産石油とウクライナ人たちの血が場合によっては
同義語になりうるように

*レザ・ネガレスタニ『サイクロノペディア』ユ
ン・ウオナ訳 メディアバス2021.62ページ
**同書 60ページ

羅喜徳は、韓国を代表する中堅詩人であり、澄ん
だ抒情性と明晰な知性が織りなす優れた詩は、国内
外で評価が高い。
二〇二三年には、詩論集『文明の外へ』を発表し、
詩「血と石油」でも、石油やガスを大量消費する物
質文明がいかに地球を破壊していくかを明らかにし
ている。「石油とガスは/戦争といっしょに輸出され
ることもあり」とは現在まさに起こっていることだ。
石油利権のために他者の血を平気で流させ、世界を
血で染める社会になっている。
人類の絶滅も予想させる事態だ。




六番目の種の絶滅

    

すでに五回の種の大絶滅があった

オルドビス紀―シルル紀の絶滅
デボン紀末期の絶滅
ペルム紀―三畳紀の絶滅
三畳紀―ジュラ紀の絶滅
白亜紀―暁新世の絶滅

三八億年中
今一握りしか残っていない時間の中で
六番目の種の絶滅が進行中だ

すべてのものが消え去るということを
目撃して証言する存在がいないから
仕方ないじゃないか
一度も会ったことのない生物種が
消え去るか 消え去らないか
知らないことは同じじゃないのか
このように言う人々もいるけれど

生きていく間には生きて
死ぬときになると死ぬことを受け入れるべきだろうが
人間無き世は むしろ平和になれそうだと
心を空(から)にすることもできるけれども

絶滅危機の動物や植物の写真を撮り
ダムや空港が入り込むことをくい止めようと戦う
人間たちがいて
気候危機を知らせようと巨大な氷河から
数百名が裸で団体写真を撮ったりもして
氷の中に穴をあけ 耳を傾ける人々がいて

氷河水の音を録音しながら彼らは話す
溶ける水ごとにおのおの違う温度とリズムがあると
水ひとしずくの中で すぐさま溶け行く時間

氷の上に身を伏せたすっ裸の体のように
私たちは六番目の種の絶滅の脆弱な目撃者たち



羅喜徳は、二〇〇三年現代文学賞を受賞した作品
「乾いた魚のように」では、現代社会の乾き傷つい
た心身を繊細な感性と巧緻な表現でつむいだ。
二〇一五年に刊行した詩画集『彼女へ』は、六〇
篇の詩と、韓国や米国など世界の国々の女性を描い
た絵画を合わせた本である。詩集『ファイル名抒情
詩』では、支配者は強権化すると、抒情詩さえも弾
圧すると知らせている。「彼らは「抒情詩」という
ファイルの中に彼を閉じ込めた/抒情詩までも不穏
なものと信じようとしたから」。

羅喜徳さんとは、二〇一五年ごろに文学祭でお
目にかかったことがある。羅さんも以前、金達鎮文
学賞を受賞し、私も金達鎮文学館、(社)詩愛文化
人協議会が主管する第五回昌原KC国際詩文学賞を
受賞し、ご縁があった。

静かな佇まいのなかに、しっかりした詩精神が滲
み出た美しい姿に魅せられた。権宅明詩人のお取り
計らいで、三編の詩を本号に寄せてくださった。権
宅明氏の献身的な日韓詩交流へのご尽力には常に頭
が下がる。(掲載詩は、佐川亜紀訳、権宅明監修)。
文明の崩壊、人類の絶滅をみすえながら、言葉の
苗木を植え続ける羅喜徳詩人の意志に励まされる。

羅喜徳(ナ・ヒドク)略歴
一九八九年 中央日報新春文芸に詩が当選して作品
活動を始める。二〇〇一年九月〜二〇一九年二月に朝
鮮大学校文芸創作科教授として在職。二〇一九年三月
から現在までソウル科学技術大学文芸創作科教授とし
て在職中。
詩集『根に』『その言葉が葉を染めた』『そのところ
が遠くない』『暗くなるとのこと』『消え去った掌』
『野性りんご』『馬/言葉たちが帰ってくる時間』『彼
女へ』『ファイル名抒情詩』『可能主義者』等。
散文集『半桶の水』『あの灯りを覚え』『一歩ずつ歩
いてそこに到着しよう』『芸術の皴たち』等。
詩論集『紫色はどこから来るのか』『一皿の詩』『文
明の外へ』。編著『朝の歌夕の詩』『瑠璃瓶の手紙』等。
『創作と批評』『緑色評論』編集諮問委員歴任。
金洙暎文学賞、現代文学賞、素月詩文学賞、今日の
若い芸術家賞、金達鎮文学賞、怡山文学賞、芝薫賞、
未堂文学賞、林和文学芸術賞、白石文学賞、孤山文学
賞、永郎詩文学賞、大山文学賞等受賞。(権宅明訳)
(「詩人会議」2024年2月号)



羅喜徳4


ジョージ・オーウェルの薔薇* 
佐川亜紀訳・権宅明監修


  彼はよく分かっていた
自然がどんなに政治的なものなのか

爆撃された土地の上に咲き始めたピンクの薔薇のように
銃弾が当たった木に垂れるサクランボのように
死んだ兵士の胸に誰かが置いて行ったライラックの一つの花束のように
廃墟を歩いてゆく農夫の耳殻に挿された野の花のように

それで 彼は書いた

蜜?のような兵士の顔と紫色のライラック
戦争と春が鮮明な対比をなす風景について
戦争と死を超えたその力について

彼はさらにまた分かっていた

政治家の言葉と行動が
アナグマやアオサギの習性と大きく異なることがないことを
政治と庭園がどんなに遠いことなのかを
政治の動物性と 庭園の植物性を

それで 彼は植えた

花のようにはかない存在として
数株の薔薇を
6ペンスのドロシーパーキンス、ポリアンサ、
アルバーティーンを

自由とは
パンと薔薇をすべての人が持てるようになること

幸いに彼が植えた薔薇たちは
長く生き残った
赤や黄色、またピンクの薔薇たちは



*レベッカ・ソルニット『オーウェルの薔薇』
(崔エリ訳 パンビ 2022)(日本語版は、川
端康雄/ハーン小路恭子訳 岩波書店 2022)


◆私たちは「パンと薔薇をすべての人が持てるようになる」自由な世界を
築くことができるか、それとも人類が絶滅するかの岐路に立っていると
もいえましょう。「パンと薔薇」は、詩人ジェイムズ・オッペンハイムの
同題詩に歌われ、「二〇世紀初頭のさまざまな労働運動団体で馴染みの
語句となった」と言われます(邦訳書より)。
イギリスの作家・ジョージ・オーウェル(一九〇三年〜一九五〇年)は、
全体主義や監視管理社会を辛辣に描いた小説『動物農場』や『1984年』
で有名です。
『オーウェルの薔薇』は、硬派の執筆活動で知られるオーウェルが庭園作り
を好み、薔薇を植えた行為を省み、作家の多面性を浮き上がらせ、自然と
政治、植物と人間をめぐってさまざまな考察の道を広げています。

※「詩人会議」2024年2月号。






金正勲編訳著『朝鮮の抵抗詩人 東アジアから考える』


民主化運動で有名な光州・羅州などに生まれた詩人・作家を韓国・
中国・日本の研究者たちが新たな角度で考えた研究書が刊行され
ました。
編著者の金正勲氏は、「あとがき」で「この本は、韓国の南西部に
位置する光州・羅州から植民地期の学生運動と抵抗詩人を考える
視点がモチーフになった」「朝鮮抵抗詩人たちは、ペンを握ってそ
の闘争を鼓舞することに必死だった」。「朝鮮抵抗詩人に対する論議は、
国境と時代を超越してヒューマニズム精神と文学の普遍性を確認する
よい手本になるだろう」と説いています。

とくに、「第T部 学生運動と抵抗詩人 朝鮮南部の抵抗作家、
李石城を読むー発掘の意味をこめて」で、金正勲氏が、発掘し、
紹介している李石城は、イタリアのアナーキスト・マラテスタが
逝去した一か月後に熱い追悼詩を書いた点で注目されます。


我等が先駆者 マラテスタを悼む
マラよ! 鉄の男よ! 
李石城

太陽は暴君のようにてりかがやいて
東より西へと 日日は明け暮れる
此の雰囲気に歴史は流転するのか
人人は昨日を思ひ、更に若き時を思ふ

光陰は永劫に流れ
歴史は絶えず続き
そして また
生死は 瞬の間に来り去るもの
今俺達は、それを悲しく思ふんじゃない
だが いま この
われらが最も勇敢な闘士を失ひたるとは―

おれたちは 自分の命を惜しむ無情なものじゃない
おれたちは 人類最高の理想××××主義のためには
たとひ・・・・此の生首が
今即、飛べども びくともしない
だが――
おおーー
我等が戦線上の最も古く最も勇敢なりし
マラを失ひたるとは――
(後略)


李石城(イ・ソクソン1914〜48)は、1930年に羅州で
主導的立場から学生万歳事件に参加して逮捕されました。
その後は、日本警察に監視され、弾圧される中で、32年
に「我等が先駆者 マラテスタを悼む」という詩を日本語で
書いたのです。朝鮮の文学者がイタリアのアナーキストに
親愛を寄せていたとは珍しい発見でしょう。
李石城のプロレタリア小説「堤防工事」も初訳されています。
日本から亀田博氏「朝鮮植民地期のアナキズム独立運動」、
愛沢革氏「尹東柱―詩による抵抗の充実と苦悩」、渡辺澄子
「植民地時代の朝鮮における「国民文学」」、佐川亜紀の
「李相和―抵抗と復活の世界性」が収録されています。
羅州市の支援を頂いて刊行されたことに感謝します。
(明石書店 本体3800円+税)









崔龍源


崔龍源さんが二〇二三年七月二日に七一歳で亡くなった。
「いのちの籠」会員であり、突然のご逝去が残念でならない。
お会いしたときに、いつも穏やかな口調で挨拶されただけで、
もっとお話ししておけばよかったと今更ながら悔やまれる。

父が韓国人で、母が日本人という生い立ちから、引き裂
かれるアイデンティティーに悩み、韓国の恨をはらす贖い
の言葉を求めて真摯な詩をつむぎつづけた。

歴史の叙述よりも、内面の苦しみを柔らかい抒情性やゆ
たかな自然性によって表すのが特徴だった。繊細な感性が
自分をも傷つける鋭く深い言葉をみちびきだし、生命の源
にある海、人類の母であるアフリカの女性など、命の根本
によるつながりを渇望した。「いのちの籠」第四三号(2019年
10月号)の巻頭詩『ラエトリからの道』でアウシュビッ
ツを主題として最後にこう結んでいる。

「三六〇万年前ののアフリカ・ラエトリの/アウストラロピテクス・アファ
レンシスの/親子の足跡から 未来へ いのちを/つない
でゆくためには 知るべきだ/何をしてはならないかを」。
次に、代表作の一つをあげて詩業を偲びたい。


エレジー 崔龍源

剃刀の刃に ゆうべの血が
残っている ぐみの実よりもどす黒く
つぐなわねばならない
ぼくのなかを流れている日本人の血は
ぼくのなかであふれようとする
半島の恨(ハン)や怒りを
犬のように虐げられた人々のかなしみは
あまりにも自明ゆえに
ふと取り落とした朝の食卓の
箸のように その音のように
ぼくは暮らしているのだけれど
せめてことばは贖いでなければならない
たとえぼくが世界に見失われていようと
胸にしまった伽耶(かや)琴は
鳴り続けているから
傷つけられたことよりも
傷つけた列島の血の痛みを

はじらって ぼくは在る
父が永遠にぼくをなくしたいまも
遺失物係の青年のように
ぼくは父を捜しに歩く
未来に 父が笑う日のあることを
信じて 異邦人のように無力なぼくを
突き刺す一条の光 ひかりのあるうちは
壊さなければならない 「猿の様な
狐の様な 鬼瓦の様な 茶碗のかけらの様な」*1

日本人の血「日本の憂鬱(トスカ)」*2を
ああ日本人と朝鮮人の血と
どちらが苦(にが)くて しょっぱいか
そんな愚かしい問いを ぼくはぼくに
問い続けねばならない 襖や
障子のように破れかぶれに
永遠の同伴者 ぼくはぼくの生について
何度もぼくが捨てなかった生について
欠けているすべてを 穴だらけのこころを
かくしきれないさびしさ 虚偽と倨傲ばかりの
血の音のさびしさを満たすために
あの板跳びをする子供たちの声や
伽耶琴の音で
*1「  」高村光太郎
*2「  」小熊秀雄


※崔龍源(さいりゅうげん)父は韓国人(崔は父の姓)。
母は日本人。一九五二年長崎県佐世保市に生まれる。早稲
田大学出身。無限新人賞受賞。詩集『宇宙開花』『鳥はう
たった』『遊行』『人間の種族』『遠い日の夢のかたちは』。
「詩と創造賞」、「現代ポイエーシス賞」受賞など。







金ウォルジュン


魚が話す言葉

魚が話す言葉
佐川亜紀・権宅明訳

ここでは私は生きることができない
とうてい生きるすべもなく
水をくれ 私が生きられるよう天がくれた清い水を
汚染された水が流れるここでは 私は生きられない

今は離れなくちゃ ここを捨てるべきなんだ
むしずが走るほどいやになる苦痛
さっさと脱ぎ捨てて 未練なく行くんだ

子どもたちが広々と泳ぎ回って遊ぶ姿を思い描きながら
母なる川を忘れることができず
再び来て卵を産み付けても
孵化することもできず 川水だけが腐ってゆく

※1934年忠清北道生まれ。『花と風』『花も話す』
魚が話したら、人間の仕打ちに言いたいことがいっぱいあるでしょう。
汚染水に逃げ場がないでしょう。
※『日韓詩選集 地球は美しい』より









崔華国と「あすなろ」


もう一つの故郷

愛は寛容であり、愛は情深い。
愛はねたまず、たかぶらない。
コリント人への手紙

地球はなんて美しいんでしょう
窓際の妻が宇宙飛行士のようなことをいう
眼下に水墨画のような湾が入江が霞んで
やがてくっきり緑が描かれて日本なのだ
今一つの祖国ではない もう一つの故郷日本
半世紀もの私の骨を太くしてくれた日本だ

あのあたりが三保の関 松江 出雲
小泉八雲の咳ばらいがきこえるではないか
穴道湖のわかさぎとシジミの匂いが鼻をくすぐるではないか
後小一時間愛する列島を東進すれば
緑も濃い森の中の空港だ

気ままな電車にゆられゆられて
空っ風とかかあ天下の里へ
愛の泉のほとりへ帰らざらめや

いい言葉があるではないか 日本には
「いわずもがな」「語るにおちる」
意地をはらず 肩肘もはらず
しんみり生きることだ ひっそり暮らすことだ





2023年5月27日、28日「日本現代詩人会ゼミナール・inぐんま」
が開催されました。群馬詩人クラブはじめ群馬の詩人の皆様のご尽力で
楽しく、学ぶことの多い催しになりありがとうございました。
ご講演は、藤井浩氏のとても興味深い「朔太郎と「郷土」」でした。
郷土で詩人として異端視され、朔太郎も愛憎を抱きながら、、
後年『郷土望景詩』を書きました。「郷土」の複雑性が今に響きます。
前橋マンドリン楽団の演奏もすばらしく、軽やかで澄んだ音色が萩原朔太郎の
詩の新しさを伝えているようです。
「笑う猫」の会の新井啓子さんはじめ皆様の個性的な朗読も印象深いです。
さらに、藤井浩先生とじかにお目にかかり「名曲茶房 「あすなろ」小史」
を頂きました。「名曲茶房 あすなろ」は詩人・崔華国が並外れた熱意で
高崎に開いた音楽喫茶店なのです。
高崎市民オーケストラ(後の群馬交響楽団)の草創期をモデルに描いた
映画『ここに泉あり』に感動した崔さんが、それまでまったく無縁だった
高崎に住みつき「音楽と詩の街」を創り上げるために尽力しました。
「詩のない国は滅びる」との見識を持ち、西脇順三郎はじめ名だたる
詩人が高崎に来て、あすなろで朗読しました。その軌跡はまさに奇跡
でした。
さらに、崔華国さんは、70歳で第三詩集『猫談義』がH氏賞を受賞する
という快挙を成し遂げたのです。
崔さんが「もう一つの故郷」「愛の泉のほとり」と呼んだ群馬の
ゼミナールに参加してうれしかったです。



第7回日韓詩人交流会


気候危機に対して詩人は何をすべきか。


2022年12月2日の19時から21時まで第7回「日韓詩人交流会」が開
催された。主催は、韓国作家会議・日本語文学会。後援は、韓国文学翻訳院。
司会と通訳は、韓国外国語大学教授・徐載坤(ス・ゼコン)氏と韓国作家会
議国際部長の金応教(キム・ウンギョ)氏。韓国の詩人は、ファン・ギュグァ
ン、ムン・ドンマン、キム・ヘジャの各氏。日本の詩人は、杉本真維子、渡
辺めぐみ各氏と佐川亜紀が出演し、ZOOMとYouTubeで公開した。

ファン・ギュグァン氏の詩「人間の道」は、「クジラの道と/ゴカイの道
と/タヌキの道と/カブトムシの道と/スミレの道と/アベマキの道と/シ
ベリアセンニュウの道があり/ついに人間の道ができた/そして人間の道の横
に/血まみれになった猫が捨てられている//シベリアセンニュウの道と/
アベマキの道と/スミレの道と/カブトムシの道と/タヌキの道と/ゴカイ
の道と/クジラの道が消え//ついに人間の道だけが残った/そして人間の
道の横に/道に迷った人間が捨てられている」と迷妄の果てを説く。

ムン・ドンマン氏は、「伴侶」という詩で「私は常に他者の肉を食物にして
生きる人間」という定めをみつめ、散文詩「水田を思いながら」では、「命
の遺跡」として描く水田が美しい。

キム・ヘジャ氏の「ハッピーランド」はアイロニーに富んだ題名で、インド
ネシア最大のゴミ埋立地で缶などを拾う少年少女を書く。「うつ伏して泣く人
の話を、聞いて書くのが詩だ」、「許しを請う瞬間、決まりの悪いつぶやきが
詩だ」と考える詩精神が心に残る。

杉本真維子氏の詩「山暮らし」は、撃たれた「いのしし」が「わたしが何
かしたか。」との問いを発し、人間の自責も含め重層的な内省だ。随想では、
川崎洋の詩「やさしい魚」「ひどく」にふれ、詩は「物事の本質のようなもの
を心に届けることだ」と語った。

渡辺めぐみ氏は、詩「植樹祭」「ゆずり葉」「珊瑚に生まれて」を朗読し、
困難の中でも再生への祈りを続ける意志を示し、随想では、「季節の気配の影
響」に敏感だった幼い頃からの思い出を文学との関りとともにたどった。

佐川は、詩「沈む島 沈む言葉」を読み、前に共編訳『日韓環境詩選集 
地球は美しい』を刊行した話をした。

討論では、詩作と実践など根本的な問題も提起され、視聴者からの感想も
交わされ、意義深い会だった。







『金起林作品集』書評


『金起林作品集T 新しい歌』青柳優子編訳(南北社)
―新しい詩と国を熱望した金起林の全貌が分かる貴重な作品集 


朝鮮モダニズム詩を牽引した屈指の詩人でありながら、ながらく日本で本格的な研究が
なされなかった金起林(キム・ギリム)の全貌を明かす『金起林作品集T 新しい歌』が
青柳優子氏の編訳で仙台市の南北社から2022年9月23日に刊行された。
金起林といえば、美しい名作「海と蝶」が親しまれているだろう。


海と蝶

誰も彼に水深を教えたことがないので
白い蝶は海がすこしも怖くない

青い大根畑とおもって飛んでいったが
いたいけな羽は波に濡れ
姫君のように疲れ果ててもどってくる

三月の海は花が咲かずやるせない
蝶の腰に真っ青な三日月が凍みる

(青柳優子編訳著『朝鮮文学の知性 金起林』新幹社2009年刊より)


金起林は、「海と蝶」に見られるように日本植民地支配時代における
近代化への飛翔と内面の悲哀をイメージ豊かに描いた詩人との印象が
強かったが、『新しい歌』では、新しい国と文化を創る意欲がいきい
きと伝わってくる。
『作品集T』の「あとがき」に「本書は、金起林が解放(一九四五年
八月一五日)後に書いた詩と散文を筆者が選んで編集し、訳したものです」
と青柳氏が記されているように、解放後の創作を評論もふくめて読むこと
ができ、収穫が大きい。解放前に秘めていた社会的理想もうかがえるのだ。

金起林は、1908年朝鮮半島北部のハムギョンブクトに生まれ、1926
年に東京の日大専門部文科正科に入学、29年に卒業、30年には「朝鮮日報」
に入社。33年には、李箱や鄭芝溶ら名だたる詩人たちと「九人会」を結成。
36年には東北帝大英文科に入学、39年に卒業。その後、朝鮮に帰り、
「朝鮮日報」学芸部長を務めるが、日中戦争激化で40年に強制廃刊にされると、
教師となり、故郷に帰った。45年の解放後はソウルに戻り、朝鮮文学家同盟に
参加し、次々と詩集、評論集を発表し、文壇の中心として活躍した。が、朝鮮
戦争の最中50年6月に拉致され、消息不明となり、韓国の文学史から抹殺された。

青柳優子氏は、2009年にも1冊の金起林研究書を出版しているが、この度の
『金起林作品集』はより綿密に詩や散文を収録し、見事な翻訳で、全体像を
浮かび上がらせている。前研究書から13年がたち、東北大学の片平キャンパス内に
「金起林記念碑」が建立され、それを契機に「金起林記念会」という市民の集まりも
仙台で発足し、本書の出版は日韓の顕彰・復権意識の高まりを受けて実現された。

韓国では、軍事政権が崩壊した1988年には『金起林全集』6巻も世に出され、
評価が回復した。植民地支配による朝鮮語、朝鮮文化弾圧に憤りを抱えながら
留学した経緯も含め、日本と深い関係がある優れた詩人が一層知られるように
なる画期的な作品集が出され喜ばしい。
冒頭の「わたしの歌」には、虐げられた人々と共に新しい国を創造する意欲があふれ、
象徴的な作品だ。


わたしの歌


拙いわたしの歌の中で
襤褸をまとい見下されていたわたしの隣人たち
君よ泣け 存分に泣け
憤れ

わたしの声はのろのろぐずぐずつっかえて
君のつらい事情 とても伝えることはできないだろう
わたしの愚鈍を鞭打て
首をぶん殴れ

奢侈なことばとすかした話しぶり
詩の貴族でも遊び人でもなく
君の焼けた顔 土に荒れた腕が清新だ
君の中で育つ新たな日 声を限りにうたわん


「わたしの歌」だが、「わたし」の内部にとどまるのではなく、「君の中で育つ新たな日」を
「声を限りにうたわん」としたのが、解放後に求めた歌だった。祖国建設に携わる詩人の役割
にも明確な意志を持っていた。

朝鮮独立運動家・呂運亭(ヨ・ウニョン)を暗殺で失った
悲しみの詩「百万の味方を失って――夢陽(モン・ヤン)先生を亡くし」では、最後に
「血をもってあなたが切り開かれた人民共和国の道が 松明のように 星のように 
震えているだけ」と人々を鼓舞する。また、大韓民国臨時政府主席の金九(キム・グ)の
暗殺に憤る作品「哭 白凡(ペク・ポム)先生」にも不条理への嘆きとともに、
「彼を越え 再び立ち上がらん」と再起を促す。植民地支配下でも内部に独立と
近代国家建設の夢を育んでいたのだ。

金起林は、英文学のみならず世界文学について積極的に学び、博識であったことは
散文からも分かる。新聞に寄稿した「T・S・エリオットの詩―ノーベル文学賞受賞を機に」
では、「エリオットの価値はどこまでもその方法にあるのだ」と鋭い指摘をしている。
日本でも戦後にエリオットは絶大な影響力をもたらしたが、個人の内面性と隠喩法が
もっぱら重要視された。日韓のモダニズム詩の展開を比較するうえでも興味深い。
評論「文化の運命―二〇世紀後半の展望」では、カミュの「ペスト」をサルトルの
実存主義と比べながら「愛」を通じた人類のつながりの教理の曙光を覗かせたと
称えている。詩人論「李箱の文学の一面」では、「東洋には珍しい徹底性」を
洞察するなど、驚くほど豊富な文学知識と批評力を発揮している。

解放前には心象風景を鮮やかなイメージで提示する作品が比較的多く発表されたが、
解放後は、新しい国、新しい文化を創造しようとする思想詩、「デモクラシーに寄せる歌」
などがふえた。その思想は、解放前から胚胎していたものだろう。
そして、根底には、西洋近代への「適応」と「克服」というアジアの近代に共通した
課題を追究する高度な知的責務を引き受けた文学者としての自負も感じられる。
作品集が続いて刊行され、金起林の全貌が明らかにされるのを待ち望んでいる。

(南北社 定価:本体2200円税込)
※立教大学平和コミュニティ機構HPに掲載







金正勲編訳著『民族抵抗詩人の東アジア的アプローチ』


朝鮮半島の対話が遠のいている今、詩人を論じ合うことで理解を
深めようとする本が韓国で刊行された。
金正勲(全南科学大学副教授)編著の『民族抵抗詩人の東アジア的
アプローチ』がソウルのソミョン出版から上梓された。「民族抵抗
詩人」には、南北分断を超える意味が込められているそうだ。

尹東柱の生地である中国の延辺の延辺大学の教授の論文も収められ、
北朝鮮の評論家も寄稿し、韓国の高名な文芸評論家・白楽晴氏も
執筆している。

日本からは、中央大学名誉教授の広岡守穂氏、『尹東柱評伝』訳者の
愛沢革氏、近代文学研究の渡辺澄子大東文化大学名誉教授、
アナーキズム運動研究の亀田博氏の論文が収録され、私の金泰準論、
李相和論も掲載された。
私の李相和論では、有名な詩「奪われた野にも春は来るのか」における
女性の表象や、パウル・ツェランの詩と共通する「髪」について考えてみた。

「奪われた野にも春は来るのか」は、日本帝国主義による朝鮮半島支配に対する
抵抗詩として有名だが、近年、より広い世界的視野で注目が増している。
私も、ジェンダー的な視点から再評価を試みたい。
「春」は、生命がふくらみ、みなぎる季節である。峰のように勢いよく 芽が吹く出る、
蕾が膨らむなどの意味が含まれるだろう。
抵抗詩は、男性的な視点で語られることが多いが、女性を連想させる表象がみられる。

奪われた野にも春は来るのか  金正勲訳

いまは他人の地、奪われた野にも春は来るのか。

私は全身に日差しを浴び
青い空 青い野のくっつくところへ
髪の分け目のような田圃道に沿って
夢の中を彷徨うように歩き続ける。

口唇を閉じた空よ 野よ
思うに私はひとりで来たのではない
きみが誘ったのか だれかが呼んだのか
胸がつかえる 話しておくれ。

風は私の耳にささやきながら
一歩も止まるなと 裾を翻し
ひばりは垣を越えてお姫さまのように
雲の陰でうれしそうに笑う。

ありがたくも豊かに実った麦畑よ
昨夜零時過ぎに降りだしたやさしい雨で
きみは麻の束みたいな髪を洗ったね
私の頭さえ軽くなったよ。

一人でも快く行こう
乾いた田を抱いてめぐるやさしい小川
乳飲み子をなだめる歌をうたい
一人で肩踊りを踊って流れていく。

蝶々よ つばめよ 急ぐな
鶏頭や昼顔にもあいさつをしなきゃ
ヒマシ油を塗った人が
草取りをする野だから見渡したいのだ。

私の手に手鍬を持たせよ
豊かな乳房みたいな柔らかいこの土を
足首が痛むほど踏み 気持ちよい汗も流したい。

川岸に出てきた子どものように
休むことなく駆け回る私の魂よ
何を探し どこへ行くのか
可笑しいのだ 答えを出せよ。

私は全身に青臭さを帯びて
青い笑い 青い悲しみが入り混じった間を
足を引きずって一日を歩く
おそらく春の心霊が乗り移ったらしい。

しかし今は野を奪われ、春さえ奪われそうだ。

「奪われた野にも春がくるのか」の第二連三行目の「髪の分け目のような田圃道」
がとても印象的な詩句である。この作品で印象深い描写は「髪」についてである。
「髪の分け目のような田圃道に沿って」「きみは麻の束みたいな髪を洗ったね」
「ヒマシ油を塗った」が挙げられよう。

特に、「髪の分け目のような田圃道」は、髪を真ん中で分け、結い上げた朝鮮女性を
連想させる。三・一独立運動に参加し、逮捕、拷問されて十七歳で獄死した柳覚順の
獄中写真を見ると、真ん中で髪を分け、後ろで束ね結っている。朝鮮独立運動は、
男性だけが担ったのではなく、女性も担った。柳覚順は、拷問後に髪を抜かれ、
体を切り刻まれた姿だったと言われている。生命と美の象徴である髪を奪われることは、
女性にとっても男性にとっても屈辱である。土地を奪うことは、生命を奪うことと
同義である。李相和が生まれた大邱でも、三月八日に私立啓聖学校・信明学校、
大邱公立高普の学生たちが中心になってデモを起こし、五月にかけ独立運動を展開して,
大邱法院に起訴された74人のうち、一人の女性がいた。信明女学校の教師で学生示威を
指導した林鳳善だった。彼女は一年の懲役刑を受け、服役したと伝えられている。

このように独立運動が男性だけではなく、女性も担っていたことを連想させるイメージが
李相和の詩に感じられ、より多様な美しさと生命力をふくらませている。
また、女性が農業をともに担っていた。農地を奪われることは、男女問わず、生命の危機、
生活の破壊、伝統文化の消滅にいたる暴虐だった。

カップの作家・李箕永(1895−1984)の小説『故郷』(「朝鮮日報」
1933・11・15〜34・9・2に連載。日本語訳 大村益夫訳 2017年 平凡社)
においても、日本支配で小作農になった家で女性たちが田畑の草取りなど労働にいそしむ
様子が描かれている。「おまえんとこの稲は出来がいい。姉さんがよく働いたからだ」
などの会話も交わされている。

アウシュビッツを生き延びた世界的に有名な詩人パウル・ツエラン
<1920年〜1970年 旧ルーマニア領ツェルノヴィツ(現在ウクライナ)生まれ。
ユダヤ系ドイツ人>においても「髪」は重要な表象だった。
アウシュビッツで死んだ母を思う詩「白楊(はこやなぎ)」にも以下のように表現されている

「白楊、おまえの葉は白じらと闇をみつめる。
ぼくの母の髪は決して白くならなかった。」
(「白楊」)

アウシュビッツ収容所を表した「死のフーガ」でも「灰色の髪」が出てくる。

「きみの灰色の髪ズラミートぼくらは宙に墓をほるそこなら寝るのにせまくない」
(「死のフーガ」)

ツエランの母親は、収容所で虐殺され、金髪のまま死に「ぼくの母の髪は決して
白くならなかった」と歌われるように、老年にまで生き延びることができなかった。
灰色の髪の女性は、墓もなく丁寧に埋葬されもせず「宙に墓を掘る」しかできない。
女性の苦難の象徴が髪に表されている。李相和の「髪」は、田圃道や雨にぬれて以前
は生気を放っていたものとして描かれている。エロティシズムの香りさえ漂わせている。

「髪」だけではなく、詩「奪われた野にも春は来るのか」は、女性を思わせる表現が多い。
「ひばりは垣を越えてお姫さまのように/雲の陰でうれしそうに笑う」、
「乾いた田を抱いてめぐるやさしい小川/乳飲み子をなだめる歌をうたい」、
「豊かな乳房みたいに柔らかいこの土を」と、抵抗詩にかわいらしさや柔らかさなど
多彩な要素を入れている。

李相和は初期作品から、女性を自由と復活の象徴として表現していた。
初期の代表作、「わが寝室へ」(「白潮」三号 。金素雲『朝鮮詩集 乳色の雲』
1940年刊に翻訳収録。日本語訳は金時鐘訳『再訳 朝鮮詩集』2007年岩波書店より)
にもロマン主義的な官能と自由が繰り広げられていた。

また、福島県、南相馬市で写真を撮り続けた写真家・鄭周河氏の記録をもとに、
哲学者・高橋哲哉氏と徐京植氏が、福島、埼玉、東京、沖縄、長野、京都で、
各界の人々と語り合った書籍『奪われた野にも春は来るか』を出版した。
このことは、日本で、李相和の詩が広まり、深まる大きな意義をもたらした。
原発事故後の福島の写真展に李相和の詩の題名を使ったことについて
「ここで議論は「日本人」の内省に閉じられることなく、他方、「原発問題」
という世界共通の地平に一般化されるのでもなく、韓国、在日朝鮮、沖縄といった
歴史的に深い関係をもつ「他者」からの問いにさらされながら行われている。」と
徐京植氏は説いている。また、この本の中で、斎藤貢氏の詩「汝は、塵なれば」
について「震災前にこのような詩を書いたということを、私は大変な驚きと感動で
受け止めた」と徐京植氏は語っている。「楽園はとうの昔に失われていて/あやま
ちは決して許されない。//野に雪は降り こころにも雪は降り積もる。/地の果
てまで浮遊するしかないあなたとわたしなれば/この渇きは いつになったら癒
されるのですか。」(「汝は、塵なれば」)楽園追放の絶望と共苦の可能性を感じる。
詩人たちが教える共苦と新しい「創造文化の春」をどう実践していくか問われている。
(韓国ソミョン出版 35000ウオン)






金起林作品集T『新しい歌』2


道に迷ったのろじかのように
青柳優子訳

道に迷ったのろじかのように生きてきたので
海を眺めるといつも息が苦しくなり 頬が火照った
銀杏とポプラとわたしは それで
秋には誰より先に色づいた

信頼と幸福の外縁(そとべり)だけを回り
葦の花が翻る新道は坂ばかりだった
足蹴にされる一輪の野の花や流れ星にすら胸が震えた

温かな人情織りなす日当たりのよい土地で
限りなく信じ 頼りあって暮らそう
背をこごめ 凍えた頬にしっかり手をあて温めてあげよう
焚火の側に大人も子どももみんな集まり 昔話のように火を熾そう

干からびた野には涙と汗を撒き
愉快に 隣人どうし 助け合っていこう
悲しみが友だとて 四十年の歳月を共にした
希望と一緒なら 日日
不思議な話ではない日があろうか



※金起林は、1908年生まれですから、解放を迎え、『新しい歌』を
発行した1948年は、40歳になっていました。「悲しみが友だとて
四十年の歳月を共にした」「道に迷ったのろじかのように生きてきた」
という月日を超えて、「愉快に 隣人どうし 助け合っていこう」と
希望に胸をふくらませています。外側だけの信頼や幸福しかなく、
坂ばかりだった新しい道は、金起林に悩みと迷いを与えていたのでしょう。
日本に支配され「足蹴にされる一輪の野の花や流れ星」に苦しみ、
胸をふるわせ、朝鮮に光が戻り、迷いがなくなる日を期待しています。
しかし、朝鮮半島の苦悩は続き、金起林も動乱と分断に巻き込まれたのは
たいへん残念なことです。
(『金起林作品集T 新しい歌』青柳優子編訳・南北社2200円)





金起林作品集T『新しい歌』


わたしの歌
青柳優子訳

拙いわたしの歌の中で
襤褸をまとい見下されていたわたしの隣人たち
君よ泣け 存分に泣け
憤れ

わたしの声はのろのろぐずぐずつっかえて
君のつらい事情 とても伝えることはできないだろう
わたしの愚鈍を鞭打て
首をぶん殴れ

奢侈なことばとすかした話しぶり
詩の貴族でも遊び人でもなく
君の焼けた顔 土に荒れた腕が清新だ
君の中で育つ新たな日 声を限りにうたわん


■金起林(1908年〜)は、代表作「海と蝶」で知られる朝鮮近代詩人です。
1936年に、日本の東北帝国大学に入学し、仙台で暮らしていました。
英国詩人ホヂソンや土居光知教授らから英文学の指導を受け、映画など欧米の
新しい文化も積極的に吸収していました。1939年に東北大学を卒業し、
ソウルに帰り、『朝鮮日報』の学芸部に復職しましたが、日米開戦後は、故郷
で教師となりました。1945年8月の解放後はソウルに戻り、朝鮮文学家
同盟が主催した全国文学者大会で金起林は「我らの詩の方向」と題し、「近代」
を実現する問題と「近代」を清算・克服する問題を同時に提起しました。

解放後に刊行した詩集が『新しい歌』(1948年4月)で「君の中で育つ
新たな日 声を限りにうたわん」という未来への意欲を高らかに歌っています。
しかし、1950年に始まった朝鮮戦争の最中、彼は北に拉致され、その後、
消息不明となってしまいます。韓国政府は北に行った文学者として、すべて
の書籍から彼の名を消し、存在は抹殺されました。けれど、1987年の
韓国民主化後に復権され、『金起林全集』全六巻が刊行されました。

この度、優れた翻訳家の青柳優子氏の編訳により、仙台市の出版社・南北社
から日本語版『金起林作品集』が刊行されることになり大変喜ばしいです。
(定価2200円税込み)







追悼 金芝河


『週刊金曜日』6月10日号掲載

「しばられた手」に込めた私たちの祈りとしての詩

「金芝河が死刑をまぬがれるためにロータス賞受賞にお力添え頂
けないでしょうか」。緊迫した面持ちで朝日新聞論説顧問の森恭三
さんを訪ねてきた人がいた。詩を発表しただけで逮捕され、死刑判
決が下されるなんて!そんな詩人が隣国にいるとは。なぜひどい表
現の弾圧が韓国で起きているのか?驚きと問いが湧きおこった瞬間だ
った。森さんは、文学賞には関われないと断ったが、金芝河に注目
し続けた。私は、横浜国立大学教育学部社会学科で助教授だった子
安宣邦さんの紹介により、森さんの元で秘書のアルバイトをしてい
た学生だった。

一九七四年、沖縄が米軍基地を負わされたまま日本に返還されて
から二年後、韓国では朴正熙政権が反共独裁体制を強めていた。金
芝河は、七〇年に長編詩「五賊」を総合雑誌「思想界」に発表し、
反共法違反に問われ投獄された。

「詩を書くからには、こせこせ書かずに、かくの如く書くべきだよ。
/どういうわけか、筆先けわしさの科をうけ白洲にひきずり出され
/尻を鞭打たれたこともはや昔、またぞろ骨の節節がむずむず軽は
ずみな口ばし、手首めがもごもごうずうず/なにか無性に書きたく
てならぬわい、えーい、ままよ/尻っぺた カッカッと火が出るほ
どにぶっ叩かれるときは、そのときのこと/世にも不思議な泥棒物
語、一くさり書こうぞ」(「五賊」冒頭部分・姜舜訳)

パンソリや仮面劇という民俗文化の語りを取り入れ、既存のプロ
レタリア文学のリアリズムの叙述やかたい理念をならべるのとは違
う民衆の暮らしの底からあふれる言葉は熱気がこもっていた。
大江健三郎さんら世界の知識人が救援活動に携わった。訪韓した
鶴見俊輔さんに金芝河が「あなたがたの運動はぼくを助けることは
できない。だが、ぼくはあなたがたの運動を助けよう」と語った話
は有名だ。

金芝河は、一九六五年の日韓条約反対運動をソウル大学生のとき
に指導し、それ以来、逮捕投獄を繰返したが、言葉の多彩な矢で打
ち返した。長編詩「桜賊詩」や「民衆の声など、さまざまな声を速
いリズムで繰り出すエネルギーは並外れていた。
日本の学生運動が七〇年安保後に失速して以来、日本では社会的
な観点を持つ文学はうとんじられるようになった。しかし、アジア
では、学生運動はさかんで、金芝河は、若いアジアの民主化運動を
代表する詩人だった。

私がアジアに関心を抱いた要因は画学生だった叔父がフィリピン
で戦死したことによる。アジアの若者たちが加害者と被害者になり、
むごく殺され続ける歴史はやりきれなかった。岩波書店発行の雑誌
「世界」に連載された「韓国からの通信」を毎月読み、厳しい運動
に心打たれた。高銀ら民主派詩人たちの果敢な活動に連帯しようと
した。

大学に在日韓国青年同盟の方がきてスライド「金冠のイエス」を
上映し、署名運動も行れた。湘南では「金芝河氏らを救う会」
が発足した。相模原のベトナム行きの戦車を止める会と横須賀基地
に反対する会、労働者組織や新左翼運動、早稲田大学や横国大や神
奈川大学の学生が参加して「日韓連帯神奈川民衆会議」ができて、
私も会員になった。金芝河氏と金大中氏救援の市民運動は、戦後の
市民運動として全国展開した特筆すべきものだ。
在日朝鮮人詩人・金時鐘さんは金芝河を「醜の思想を生きる」
として大衆の美醜の厚みをつかみ取るラジカルな批評性に共感
していた。

金芝河は、通算七年に及ぶ獄中生活を耐え抜いたが、後年、現実
社会に対する関心より、東洋哲学にもとづく内省を深めるようにな
った。一九九八年に初来日したとき講演会を聞きに行ったが、満員
の聴衆に静かな口調で話した。

一九九一年に朝鮮日報に学生の焼身自殺抗議に「死による礼賛は
やめよ」と発表し、民主化闘争を妨害していると批判された。
一九九四年に出版した詩集『中心の苦しみ』では、「土の中から/
押し上げてきた熾烈な/中心の力/花咲いて/広がろうと/四方に
散らばろうと//苦しく/揺れる//私も/揺れる」と「中心」で
あることの苦しみを吐露している。

だが、金芝河の先見性は環境運動に発揮された。生命運動・サル
リム運動の先頭に立った。私が金芝河さんと実際に接した
のは、二〇〇九年に日本社会文学の学会誌「社会文学」第二九号に
「東アジア詩人の役割」という随想を寄稿して頂いたときだ。韓国
の詩人を通してだが、依頼を快く引き受けてくださった。達筆でう
ねり踊るようなハングルの解読に難航したが、詩人の権宅明さんの
協力を得て訳すことができた。

「文化の時代、生命道の時代、混沌と感性と感覚と肉体の時代に、
それに伴う大転換の主体は詩人たちにほかならない。その詩は当然、
生態、すなわち自然生命へ向かう」と説いていた。
韓国の民主化闘争の指導者として、環境運動の先駆者として、日
韓の歴史認識への鋭い批判者として、詩人・金芝河が歴史に刻んだ足跡
は深く大きい、と思う。
日韓詩人のアンソロジー『日韓環境詩選集 地球は美しい』(佐川亜
紀・権宅明編訳 二〇一〇年)に収めた金芝河の詩を最後に記させて
いただき、哀悼の意を表したい。

あの遠い宇宙の  金芝河

あの遠い宇宙の どこかに
ぼくの病を患う星がある

一晩の荒々しい夢をおいてきた
五台山の西台 どこか名の知れぬ
花びらがぼくの病を患っている

ちまたに隠れ 息を整えている
不思議な僕の友だち
夜ごと病むぼくを夢見て

昔 袖ふれ合った 流れ者が
ぼくの中で祈祷をする

女ひとり
ぼくの名を書いた灯籠に
  火をともしている

ぼくはひとりなのか
ひとり病むものなのか

窓のすき間から 風が忍び込み
ぼくの肌をくすぐる

(さがわ あき 詩人)



安姫燕


ギターは銃、歌は弾丸
韓成禮訳


染工は没頭する
白黒の世界にどんな色を塗るのか
苦心に苦心を重ねた彼が
うっかりペイントの缶を倒してしまったとき
私たちは生まれた

私たちは彼の美しい失敗
取り返しのつかない染み
あなたが生まれたばかりの赤ちゃんを見て
得体の知れない恐怖を感じたり
ともすれば崩れ落ちる城壁を持ったのは
そのため

内定した失敗の世界の中に私たちはいる
プラスチックの兵隊たちのように
一日分の悲しみを配られて
歩いて、また歩いて元の場所へ戻る

私たちは彼の記憶の向こうに消えた
解けない宿題
誰も明日を信じない

しかし私たちには歌う口があり
戸を描ける手がある
私が作る道に沿って
互いを染めながら進んで行ける

絶壁だと言えば閉じ込められる
丘と言ったので流れるのだ

遠い未来の染工は
私たちを思い出すだろう
偶然彼の頭の中の電球が点く瞬間

彼はごみ箱をあさって古い失敗を取り出すだろう
自ら広がっていった模様
光りを含んだ歌を

※安姫燕 アン・ヒヨン
1986年、京畿道城南生まれ。2012年に創作と批評
新人詩人賞を受賞して、デビュー。詩集『単語の家』など多数。
2020年には「作家の選ぶ今年の顔」に「スペア」が選ばれた。
現在、韓国芸術総合学校叙事創作科教授。
よるべない時代、自分の生存や人生が安定した土台やしっかり
した理念によって守られていないと感じるのは、世界の若い人々の
共通の感覚でしょう。神の失敗から生まれてしまったと思うほど
の不条理を生きる人々。
「私たちは彼の美しい失敗/取り返しのつかない染み/
あなたが生まれたばかりの赤ちゃんを見て/
得体の知れない恐怖を感じたり」と神も恐れる子どもたちが生まれ、
ますます混迷する世の中になっています。
「しかし私たちには歌う口があり/戸を描ける手がある」と
自分たちで世界を描いていこうと呼びかけます。
「ギターは銃、歌は弾丸」は二重の意味でしょう。銃はギターに
なりうるし、その反対もあります。歌は弾丸になるし、弾丸を壊す
可能性もあります。創るのは私たちしだいと前向きの姿勢を感じます。

(*訳詩は「詩と思想」2022年3月号より。この号には、
若手10人、キリスト者詩人10人、済州島の詩人、文貞姫さん、
呉世栄さん、近代詩人などたくさん収録しています。)









「光州民主化運動を女性作家が書く」


韓国文化の勢いが今すさまじい。Kポップ、韓国ドラマと、世界中にファンができている。
話題のドラマ『イカゲーム』は、リストラされ競馬でボロ負けした人、ソウル大学を出な
がら投資に失敗し会社の金を横領した人、北朝鮮から脱北し韓国でいじめられている姉弟
など、社会で苦しんでいる人々を、高額の賞金で釣って、むごいゲームに参加させ、世界
の富豪が楽しむ、というおぞましくも、金融資本主義社会の実相をつきつけてくるものだ。
人間の弱さやずるさもからめ、エゴと友情の矛盾に一場面ごとに試されながら闘うダイ
ナミズムには、やはり民主化闘争の血脈が生きていると思った。

そんな中、二〇二一年一一月二三日に全斗煥元大統領が亡くなった。全斗煥元大統領は、
一九八〇年の光州民主化運動で市民を多数虐殺、弾圧したことで悪名高い。光州事件は、
戒厳令が敷かれ、韓国国内にも伝えられなかったほどの軍の暴挙だった。現在のミャンマ
ーの事態と似ている。詩人の金準泰が「ああ光州よ、我が国の十字架よ」という詩を「全
南毎日新聞」に発表し、世界が知った。

日本でも、在日詩人・金時鐘が詩集『光州詩片』を表し、日本にいて若い人々が虐殺さ
れるのに遠くからしか連帯できないもどかしさや、民衆弾圧が日本の植民地支配時の構造
とつながっていることを訴えた。

在日女性詩人・宗秋月も「我が輪廻の五月」を書き、幼い子どもを抱える自らの心
情を通し、虐殺された少年少女や妊婦の無念をなげき、転生の果ての出会いを願った。

そして、現在、人気を集める韓国女性作家たちが、新しいスタイルで光州民主化運動を
描いている。まず、日本、世界で韓国フェミニズム文学ブームを巻き起こした小説『82
年生まれ、キム・ジヨン』の作者・チョ・ナムジュの近未来小説『サハマンション』
(斎藤真理子訳 筑摩書房)に登場する「蝶々革命」である。破綻した地方自治体を
巨大企業が買い上げ、徹底した企業論理で運営される「タウン」の最下層の住民たち
が自治意識と生存をとりもどすために語られるのが「蝶々革命」だ。ここでは、民主
化闘争は過去を語るだけではなく、未来の物語にも生きるという思いがあるだろう。

また、小説『菜食主義者』の作者・ハン・ガンは、ベトナム戦争や父親や男性の暴
力に耐えられずに菜食主義者となる女性の心理をイメージ豊かに描いて注目された。
ハン・ガンの小説『少年がくる』(井手俊作訳 クオン)では、光州民主化闘争の渦
中にいた少年の感覚を通して、殺されたひとりひとりの肉体や心情を繊細に鮮烈に表
現している。政治的主張が目立つ以前の文学にくらべ、肉体や心情に内部から入り込
んで表す。

パク・ソルメの『もう死んでいる十二人の女たちと』(斎藤真理子訳 白水社)
に収録されている「じゃあ、何を歌うんだ」になるとまったくグローバル化し
ている。主人公は、アメリカのサンフランシスコにいて「そこで聞く五月の話は
まるでアイルランドの血の日曜日とか、チリのピノチェトがしでかしたこととか、
抑圧されていたそこの人々の物語を聞くみたい」と距離感が生じている。言語も、
光州が英語で語られるというのも意味深だ。村上春樹は小説を英語で書き出した
というが、パク・ソルメも確かに英語っぽい。

「まるで英語が事件に客観性を与えでもしたみたいにだ」。光州に関心があるが、非常に客
観的な描写が続く。従来、光州は「韓国固有の歴史」のごとく語られたが、南米やアジア
でもあることして見られる。日本の京都に来て、白竜の歌「光州City」の話まで聞くが、
常時冷静だ。韓国だけの悲劇ではないという相対化。しかし、相対化して、「どこでもこれ
くらいあります」というニヒリズムではなく、現在の自己の感性に忠実なまま関わる。この
客観性と相対化が、小説の時代の特徴かもしれない。ジャンルの融合、グローバル化、相
対化と普遍化、自己の内面的な言葉の深化など、多様に光州民主化運動を語る女性作家た
ちに瞠目する。

私は二〇一七年に光州市に行き、第一回アジア文学者会議に参加した。高銀ら世界の詩
人と光州運動民主墓地の立派なモニュメントの前で祈った。高銀さんが、それぞれの墓に
祈りを捧げながら、この人は詩人だった、この人たちは恋人たちだったと説明してくれた。
会議では、アフリカで初めてノーベル文学賞を取ったショインカと高銀が対談した。スペ
イン、アメリカ、中国など各国から文学者が招かれた。当時から韓国文化は急速に世界化
していった。

光州民主化運動のときに市民が逃げ込んだという居酒屋で光州の詩人たち三〇人くらい
と一緒に飲みながら、日本では反体制の運動を国家的に顕彰するようなことはない、民主
化運動犠牲者墓地を市民の力で建て、文化を継続させていることに驚いた、と私は挨拶で
述べた。光州記念館には高校生や子どもの犠牲者も含めたくさんの写真が掲げられ、死者
のはいていた靴が多量に天井につるされたオブジェも制作されていた。
日本の民衆の闘いはどこに、どのような形で継承されているのか。天皇一家の
物語に明け暮れる私たちに、鋭い問いかけをしているとも感じた。

(「ACT」仙台演劇研究会通信 2022年1月号掲載)









崔真碩訳『キム・ヨンス著 ニューヨーク製菓店』


冒頭に「私はこの小説だけは鉛筆で書くことにした。
どうしてそうしたのかはわからない。ただそうしなければならないように
思えた。考えてみると、鉛筆で小説を書いたのはだいぶ前のことである」
と記されています。「ニューヨーク製菓店」という名前は、モダンで、
新しい響きのようですが、激変する韓国ソウルにあっては、浮沈を
まぬがれない存在なのです。

主人公の母親が、一九六五年―「ベトナム派兵が決定され、李承晩が
ハワイで死に、大学生たちの反対のなかで日韓協定が調印された頃」
に生活のために開いた店です。このように引用すると社会派の
リアリズム小説かと印象を抱かれるかもしれませんが、主人公が
新進作家のころ「モダニズムではなくポストモダニズム」作家と
自己を語ったように、多面的に冷静に家族と店の歴史を語り、
普遍的な人生の真実を描くものです。

訳者の崔石碩さんがいうように、本書は「人間存在の根本」を
照らしてくれる「文学らしい文学」です。めまぐるしく変る社会、
お菓子屋さんや八百屋さんが何十年も店を開いていた時代は終わり、
代々の老舗も閉じる世の中。そんな時代に人はどのように自分を
支えて生きていけばよいか、じっくり考えさせてくれます。

「記憶の欠片を拾い集めながら個人の身体に刻まれた歴史をさり
気なく表現することで韓国の近現代史にリアルに触れる手法」は、
新しく、過剰な希望ではなく、等身大の希望、「ほんの少しだけ
灯りがあればいい」という言葉を納得させてくれます。

『韓国文学ショートシュート きむふなセレクション』
(クオン1200円+税)






金正勲編『ひとつの星を歌おう』


副題に、『朝鮮独立と抵抗のうた』と記され、代表的な6人の朝鮮近代詩人の10編を
日本語と韓国語で収録した、近代詩理解に近づくための好著が刊行された。
表題は、李陸史の詩からとられている。

一つの星を歌おう。ただ一つの星を
十二星座のあの数々の星をどうして歌えようか。

李陸史は、抒情性と美しい色彩が秀でた作品「青ぶどう」
が知られている。独立運動に関わり、十七回逮捕され、囚
人番号の264が筆名のイ・ユクサになったほどで、日本
領事館監獄で獄死した。「青ぶどう」だけではなく、本書
で李陸史の全体像が分かる糸口を得られる。

尹東柱の「序詩」の「星」も有名だ。本書では、「星を
歌う心で/すべての滅びゆくものを愛おしもう/そして私
に与えられた道を/歩いていこう。」と文末の訳が呼びか
けになっていて若々しく感じる。今までは「愛おしまねば」
と直訳に近く、自分の内部に言い聞かせる表現が多かった。
自己にも他者にも行動を促すような「いこう」との訳が新
鮮な印象だ。

「ひとつの星」とは、民族の希望であり、人間の真理を
たえず輝かせるシンボルであろう。日本の侵略により国家
と国語が脅かされ、幾人もの朝鮮の若者が死に追い込まれ
た。しかし、どんな苦難な時にも天を仰ぎ、ひとつの星を
見て、詩を歌い続け、自ら抵抗の星となった詩人たちのエ
ッセンスが本書で的確に分かりやすく説かれている。
収録された尹東柱、沈熏、李相和、李陸史、韓龍雲、趙
明熙は、代表的な朝鮮近代詩人だが、六人みな日本に留学
し、関東大震災の虐殺などに触れ、独立運動を志したこと
は、私たちに問われる歴史だ。

李相和の詩「奪われた野にも春がくるのか」は、日本で
は原発事故後に共感をこめて伝わった詩である。故郷を奪
われたのが、朝鮮民族の悲嘆の歴史だけではなく、福島の
人々の悲嘆にもつながった。

韓龍雲は、3・1独立運動に参加した僧侶だが、「
ニム」という独特の人格的な比喩をもちいた詩は魅力
的だ。私は、二〇〇七年に韓龍雲の文学記念館に招待
され、米国やチェコスロバキアなど世界の研究者や詩
人たちが集まる盛大な催しを体験した。

沈熏も独立運動に参加し、解放の喜びを想像した作品
「その日が来れば」や長編小説「常緑樹」で名高い。
趙明熙は、朝鮮プロレタリア芸術家同盟の創設メン
バーとして活動し、自省的な詩「火の雨を降らせなさい」
など内面性も優れる。

韓国語の原詩を併記し、元のリズムに親しみ、より作品
の理解が進むようになっている。Kポップや韓国ドラマに
はまり、韓国語を学ぶ日本の若者もふえているので、分か
りやすい対訳や解説は未来に向けて意義深い。
(風媒社 1200円+税)








李ヒャンア3


安否だけうかがいます
権宅明訳



安否だけうかがいます
私はまあまあです
行ってしまわれた後はしきりに霧が押し寄せ
草虫の鳴き声も深く浸ったりもしながら
耳が遠くなり目が見えなくなっても ここに元気でおります
私はなぜ泣くのをホオズキのように吹いてでも
解かれても結ばれても 言葉で言えないのか
流れるものはおのずと流れるようにして
私 ただここにおります
恥知らずです
申し上げたい言葉は灰のように朽ちて
すべてなくなる前に手紙でも書きます
日々日が昇り 日にちが過ぎ
いつか出逢えるでしょうか
その時まで変わらず
お元気でいらっしゃってください





権宅明訳

花 と声を出すまで
私は数多い言葉をどもりました
花 と声を出した後
私は他の言葉をすっかり忘れてしまいました
花 という言葉が毒針のように
耳に届いて刺される意味が分かるでしょう

きれいな血で それとも目まいのする煙で
花よ 口のきけない人よ
あるものすべてはたいてふきとばし
泣き叫ぶ声もなく
両手をあがきながら帰ってきたものよ

私の画帳には花だけ残りました
羽のついた鳥たちはとっくに飛び去り
四つ足のついた獣は歩いていきました
束ねれてくみしやすい花
宇宙にいっぱい花だけ残りました

喉彦の下にいつまでも朽ち落ちる
すすり泣きのような 風音のような
言葉少ない祈りだけ残りました


※イ・ヒャンア
湖南大学名誉教授で、東北アジアキリスト者文学会議の韓国側
議長を歴任するなど、重責を担いながら、作風は日常生活の中に
人生の真実を見出そうとし、やさしい表現が親しみやすいです。
とくに、「安否だけうかがいます」「おげんきですか」など、
他者の生への気遣いとともに生きようとする誠意が響きます。
「ひょっとしたら、李ヒャンア詩人は、誰よりも平凡で素朴な
生活で一貫してきた詩人であると言える。にもかかわず、
きっぱりと彼女を「まことの詩人」と言えるのは、彼女が
自分と他者との世界に注ぐ、絶え間ない詩的情熱と、限りの
ない愛情のためである」と文芸評論家カン・キョンヒが解説
しています。2022年11月30日ついに発売!!
(権宅明翻訳、佐川亜紀監修)
(土曜美術社出版販売 1540円)





上野都訳『朴八陽 麗水詩抄』
白衣を着た客が来る
上野都訳

わたしは何も言いたくありません
あれこれ言いつくろう きれいな言葉
その言葉のうらにある嘘がきらいで
むしろわたしは なにも言わないつもり

今また わたしになにか言うことがあるとでも?
すべてのことは わたしよりもあなたのほうがよくご存じで
また あらゆることは天地神明の理
ただそれだけ―申しあげる言葉はありません

落葉が虚(むな)しく転がりゆき
過ぎし日と変りなく白衣を着た客、冬が
孤独に泣くわたしの小窓を鳴らします
わたしはまた今宵 むなしくため息をつくばかり

紙のうえにではなく、わたしが今
書いているのは 心のうち
部屋には 重い沈黙がただよい
路上にはまだ 雪が吹きすさんでいます。
(一九三八)



※朴八陽(パクパリャン)は、韓国・京畿道水原に生まれ、号は麗水。
日本植民地支配下の1923年『東亜日報』に詩『神の酒』を発表し、文学活動を
開始しました。「東亜日報」「朝鮮日報」に入社し、ジャーナリストとしても
活躍。1925年にカップ(KAPF朝鮮プロレタリア芸術同盟)に加入。
34年には、純粋文学を目指した「九人会」に加入し、社会派と芸術派の
両方で、活躍し、解放後1946年には朝鮮共産党に入党し、朝鮮民主主義
人民共和国に渡り、「労働新聞」主筆など重鎮になり活躍しました。

上野都さん翻訳の『麗水(ヨス)詩抄』は、朴八陽の青春期の作品を訳出
したもので、抒情性にすぐれた作品もあり、都市化したソウルを「ネオンサイン!
それは一つの悲しい風景」と批評している詩もあります。
植民地支配下ですが、近代詩という新しい表現を求める意欲を感じます。
(ハンマウム出版 1650円)







李ヒャンア2
大豆もやしの根を取り除きながら


大豆もやしの根を取り除きながら私は
並んで生きる方法を学んだ

縮め狭めて共に生きる方法
水を飲み首を下げて
清く生きる方法
大豆もやしの根を取り除きながら私は
一団となる寂寞感を知った

共に生きるのは易しくても
共に死ぬことは難しい
私たちの影は
別々に立っていることを

大豆もやしの根を取り除きながら私は
私の持っている無用の物
私は持っているゆえの不自由を悟った

大豆のさやを脱ぐように脱ぎ捨てたい
水の殻のみ
私の四方には水の殻だけだ

大豆もやしの根を取り除きながら私は初めて
翼を広げて遠ざかっていく
懐かしい私の後ろ姿を見た



洗濯物を干して


洗濯物を干した
四肢を垂らした私の
体を
蒼天に漂白するように
掲げ出した

降伏する者のように
両手を挙げて
思い慕うのには未だ眩しい
今日は日に向けて
胸を解いた


今 私は別に雄大な
願いもなく
だからといってすすり泣くほど
悲しいこともないけど
懐かしさを知らせる
白い旗一つは 
最後の星のごとく浮かんでいるように
したい

洗濯物を干した
おのずと乾く野草のように
横になって
おとなしく従順に
揺れたい



※韓国忠清南道で生まれ、ソラボル芸術大学文芸創作科を首席で卒業した
李ヒャンア詩人は、湖南大学人文科学部教授として定年まで務められました。

学識豊かなキリスト者詩人としてだけではなく、日常生活のふとした
できごとから生の実相を発見する詩風には国をこえて共感する人が多いと
思います。
「大豆もやしの根を取り除きながら」は、大豆が並ぶ姿に「並んで生きる
方法を学ぶ」という発見がおもしろいですね。「共に生きるのは易しく
ても/共に死ぬことは難しい」とはひとつの真理でしょう。
持つことの不自由を感じ、世俗の殻を脱ぎ捨てたいと願う清らかさ
がさわやかです。






書評『サハマンション』


チョ・ナムジュ著 斎藤真理子訳
―企業が買い取った「町」で
(「しんぶん 赤旗2021年7月25日号」掲載)

  韓国は、情報技術や経済がとても発展している
が、他面、アカデミー賞を受賞した映画「パラサ
イト 半地下の家族」で描かれたように格差が深
刻になっている。

本書は、女性差別を書いて世界的ベストセラー
になった『82年生まれ、キム・ジヨン』の著者チ
ョ・ナムジュが、底辺で生き抜く人々を想像力豊
かに表現した小説だ。日本で韓国女性作家旋風を
巻き起こした翻訳家の斎藤真理子が、本作でも力
量を発揮している。

「サハマンション」は架空の集合住宅で、超格
差社会「タウン」の最下層に位置する人々が暮ら
す。「タウン」は、破綻した自治体を企業が買い
取って徹底した企業論理で運営されているという
設定で、日本の将来にも十分ありうる脅威だ。密
入国者、女性、障がい者、子供など弱者の人生を細
やかに映し、追い詰める社会の残酷さをあばく。

日本は、難民受け入れが極めて少なく、コロナ
禍で居場所がない人がふえ、韓国以上に問題だ。
本作を2012年から7年かけ執筆したそうだ
が、新型呼吸器感染症で生き残った胎児をワクチ
ン開発のためにデータとして監視する企業国家の
恐さを書いて予言的だ。

一方、自治意識と他者の尊重が「サハマンショ
ン」の共同生活の基本だ。新たな住民の受け入れを
住民会議で決める。1980年の光州民主化運動
を想起させる「蝶々暴動」の記憶も語られる。

搾取のシステムだけ巧妙化し、中身はからっぽ
な企業国家と闘う最底辺の住民たちの姿に格差解
決をあきらめない民主化の歴史を感じる。全世界
で起きている不条理を掘り下げ、生きる希望を差
し出す韓国文学のすごみをいっそう知らしめる作
品だ。

佐川亜紀・詩人






金準泰 光州民主化41周年


金準泰「五月 光州は…」について

1980年5月に起こった韓国・光州民主化運動と、弾圧虐殺は、
現在のアジアの民主化運動にも通じるものとして記憶されています。
当時、状況を鮮明に表した代表的な作品として金準泰(キム・ジュンテ)
の詩「ああ光州よ、我が国の十字架よ」は、日本、アメリカ、中国、
ドイツ、フランスなど各国に伝わり、軍事クーデター政権の不法と
残虐さをしらしめたのです。日本でも3年前に金準泰詩集『光州へ
行く道』(金正勲訳・風媒社)が日本で刊行されました。
光州民主化運動は、1987年の軍事独裁政権から文民政権への
変革の達成につながり、いまの民主政権誕生にもいたっているのです。
光州民主化運動41年目にときに、金準泰詩人が「五月 光州は…
―歌、五・一八第四十一周年」という詩を書き、金正勲先生の訳を
「しんぶん 赤旗」のご厚意で2021年6月2日の紙面に載せて
頂きました。

「五月 その日が来ると/光州は私の故郷の母/私を抱きしめてくれます/
神様が翼をつけてくれた/ペリカン属の鳥のように歌います」
「ああ五月 その日が来ると光州は/お互いがお互いを輝かせる星たちの
故郷/お互いがお互いを咲かせる永遠なる青春の都市/光州は花も木も
人のように歌います/愛と生命、平和と統一のその日に向かって!」
(金正勲訳)

私は、2017年に第一回光州・アジア文学フェスティバルに参加し、
光州民主化運動を大切に記憶・展示している市民の皆さんの努力に感銘
しました。参加し、虐殺された一人一人の写真、赤ん坊、中高校生、
老人など、個人を具体的に浮かび上がらせていました。民主墓地も
手厚いもので、日本では、反政府運動の参加者をこのように丁寧に
弔い、名誉回復することは少ないでしょう。光州民主化運動が過去では
なく、未来のさらなる「愛と生命、平和と統一」の未来に向かっているから
こそ、市民の熱い思いが冷めないのだと思いました。

また、金正勲先生は、日本の作家・詩人の松田解子(まつだ・ときこ)の
『朝鮮乙女のおどり』を韓国語訳され、韓国の汎友文庫から5月10日に
刊行されたそうです。ハンギョレ新聞や南道新聞で報道されました。
「松田解子もまた「朝鮮乙女のおどり」「8月の炎天に」「朝鮮休戦」など
の詩編に、南北分断に対する痛恨の思いと朝鮮統一への念願を刻んだ」と
金正勲氏は評され、平和のメッセージの交換と喜ばれました。







「文章」56号


「文章」2021年春号(韓国大邱市)56号で
私の詩「豆腐往来」と「花は時の手のひらを開く」を日韓国語で
掲載して頂きました。ご紹介は、王秀英さんです。韓国語訳は韓成禮さん。
王秀英さんは、延世大学卒業後、詩人としてデビューし、1996年に
尚火詩人賞、98年に月灘文学賞、2009年に国際交流作家文学賞など
多数の賞を受賞されています。女性雑誌の特派員として日本に来られ、
在住し続けていらっしゃいます。
「文章」には、カラーの美しいページで、アフリカのタンザニア‐
ザンビア縦断鉄道、アフリカの少年と虹の写真など掲載されています。
詩だけはなく、エッセイもたくさん収録されています。


月暈 金盃草
  朴ボクチョ

真昼に 月暈がかかった
首を長くして上った彼女
物干し竿の先に月の輪
ぐるぐる散らして舞う
白みがかった金色が回る光の縁
さまよう花蛇
四方八方交わってたまる糸巻きの舌
火を吐く
真昼の月光、いっそう明るい



「瞳の中の人」チャンホピョン(発行人。エッセイ集の広告から)

誰かと会った「君」という鏡の中で「僕」に会う。
僕が真心をこめるとき感じあう君が僕に瞳に映る真の人を見せるだろう。
僕はまた君の瞳に映る人影を見ようと 目と耳をすっかり開く。
君と目と目が合う僕は二人ではない。
僕の中の「僕」まで一緒にして三人の出会いという事実を忘れない。
僕は君に
君は僕に
瞳に映る人になるこのような出会いの味わいはつながれ!



国の言葉
王秀英

よその国の言葉で暮らすと
心はいつも凍える

よその国の樹木に陽ざしが
まきつくと国の言葉が
無性に恋しい

言葉は
その国の魂だから
血を吐くように
しゃべりたい

春が訪れるこの日本で
私も花を植えよう
国の言葉が咲く
花を植えよう

そして
暖かくなろう
独りでも暖かくなろう

(王秀英詩集『パンソリ』北溟社2010年から)







文貞姫3

化粧しながら
佐川亜紀訳

唇をワインレッドに塗ってみたら
鏡の中に属国の姫が座っている
私の小さな顔は国際資本の競争の場
巨大資本が創った虚構のドラマが
名実ともにそのクライマックスを迎える
狭い領土に万国旗がひるがえる

今年の秋の流行色はセクシーブラウン
シャネルの仰せ通りに頬紅をぬり
きれいな女の神話に
自分を閉じ込めてみれば
これくらいで陰謀はかなり仕上がる
時々びっくりしながら
自分の中の奴隷根性を自覚するが
魅惑的な人工の香りと柔らかい色彩が作る
錯覚はすでにながらく抵抗力を失わせた

時間を止めるために肉体には
このように哀しい香りをつけなければならないのか
必死にエスティローダーのアイライナーで
黒い鉄柵をめぐらし
一滴のディオールを耳元につけて仕上げして
ついに外出準備をおえた属国の女は
悲劇俳優のようにおもむろに体を起こす


二〇二〇年のコロナ禍の中、日本でも韓国ドラマ「愛
の不時着」が大人気となった。韓国の女性実業家がパラ
グライダーで単独飛行中に南北の軍事境界線近くに不時
着し、北朝鮮兵士に助けられ恋愛関係になるという話だ。

現実には、なかなか起こりえないと思える内容だが、南
北分断をラブストーリーとサスペンスのエンターテイメ
ントに仕立て上げ、世界に配信する韓国映像文化の盛ん
な意欲に目を見張った。北の官僚統制や監視社会もあき
らかにしながら、南の財閥支配と金銭至上主義も批判し、
コミカルなやりとりやスリルに満ちたアクションも交えた
活き活きした展開が魅力的だ。北の素朴で人情味あふ
れる人々へのなつかしさ、南の発展した経済社会へのあ
こがれと両方の長所短所が日常場面でこまごまと描かれ
ているのもおもしろい。恋愛の美しい結末が南北統一の
願いをこめるように永世中立国スイスで成し遂げられる
のも意味深い。

ところで、この「愛の不時着」のヒロインがファッシ
ョン美容ビジネスを展開する街が、ソウル市江南区であ
る。女性社長として経営する白亜のオフィスが江南区の
狎鴎亭洞(アックジョンドン)にある。江南は、なにか
と話題になる先端都市で、PSY(サイ)というラッパ
ーが「江南スタイル」を海外にも流行らせて、いま世界
的に有名なKポップグループのBTSの先鞭をつけた。
韓国の俳優や歌手が集まる最新のブランドの店が並び、
日本の青山や六本木のようなブックカフェがおしゃれだ。
カラフルな整形美容の病院がずらりとそろい、世界中か
ら人々が整形手術を求めてきて、韓国の人々もあまりた
めらわず施術するのは、驚くべき変化で、たじたじとなる。


日本でもたくさんの人々が、韓国の化粧品やフ
ァッションにはまっている。その中で、韓国フェミニズ
ム詩人を代表する文貞姫(ムン・ジョンヒ)は、支配さ
れる心と国への冷静な視線を失わない批評精神は
見事だ。小さな顔が国際資本の競争の場とは韓国も
競争に参戦しているので、直に感じられるのだろう。

文貞姫詩人の自分の感性に正直で、まっすぐに言い、
かつ、表現が的確ですぐれていることへの感動が日本
でも広がっています。
『文貞姫詩集 今、バラを摘め』(韓成禮訳 思潮社)
『韓国文学を旅する50章』(明石書店)も
さらに読まれてほしいです。
※「詩人会議」2021年2月号海外特集号収録の拙稿より抜粋。









ソンチャンホ詩集『赤い豚たち』
韓成礼訳


疫病が広まっている

韓成礼訳


疫病が広まっている 遠くの木魚の音が
だんだん近くに聞こえる 皆急いで家に帰り
ドアを閉めて鍵をかけ 耳を塞ぐ

病気を追い払えるなら
壁を立ててその絶壁ごとに
力を込めて刀で経を刻む

ほどなくして顔を深く隠した病人が通りの向こうに現れた
どれほど叩いたのか目と鼻と口の崩れ落ちた
千年前にすでに流失した木版本の顔
自分の首を切り落として釈迦の頭を載せていたが、
それさえも切り落とし……

彼が頭から被った物を脱いだ
頭の落ちた魂の無い首に明るく丸い月を載せて!

彼は横を通り過ぎていった 月が通るように!
刀を後ろに隠した
遠くで朗々と経を読む声
ふっと止んで

彼が今日処刑されたという知らせを聞いたのだが
今夜そこにも月が昇るだろう


※ソン・チャンホは、1959年忠清北道に生まれ。慶北大学独文科を
卒業後、1987年『我らの時代の文学』に詩「便秘」などを発表し、
デビューしました。詩集に、『土は四角の記憶を持っている』(1989)、
『赤い目、椿』(2000)、『冬の旅人』(2018)、児童の詩集『夕
の星』(2015)などの著書がある。2000年金スヨン文学賞と東西文学賞、
2008年未堂文学賞、2009年大山文学書、2010年李箱詩文学賞などを
受賞し、重要な詩人として評価されています。

ソン・チャンホは、美学的な詩人として注目されています。「彼の詩では
意識の主体が対象を因習的で常套化された形式論理や意味の構造の中で
捉えるのではなく、対象との不和と衝突を非日常的で突発的な次元で
捉えることで、新たな象徴と美的秩序を創出する」と批評家・李在福が
解説しています。また、「古典的な深さ」と「発見」の新しさも特徴と
して挙げられます。

上の引用詩で「木魚の音」「釈迦の頭」「経を読む声」は、東洋古典的な
哲学性を感じさせ、「処刑された」にはキリスト教的な犠牲も想像されますが、
それらが論理的に展開するのではなく、月の情景との意外な組み合わせで
美学を形成します。コロナ時代の深層にも届く不条理の世界を表現して
います。韓成禮さんの研ぎ澄まされた翻訳でソン詩人の知性が際立ちます。

韓さんはソン詩人について「大学を卒業した後に一年ほどサラリーマン生
活をおくったことがあるが、都会生活が性に合わず退職し、故郷に戻って
現在まで農業を営みながら詩を書いている。農村生活の中で生まれたソン
チャンホの詩には、童話の世界が広がっており、草・花・木・鳥・蝶・動物
などのような自然が主な主人公である」と述べています。
(書肆侃侃房 2000円+税)







金学鉄文学選集1『たばこスープ』


日本ではまだ知られていませんが、歴史的、文学的に大切な作家・金学鉄の
はじめての文学選集が刊行されました。訳者大村益夫先生は、「たばこスープ」
のおもしろさに引かれて、1974年に創土社刊の『現代朝鮮文学選」Uに
訳出収録され、金学鉄先生が存命中に会い、友情をはぐくまれたそうです。

金学鉄は、1916年に現在の北朝鮮元山市に生まれ、幼少時は日本の雑誌に
親しんだそうです。1934年に普成高校を卒業し、上海の義烈団に加入。
1936年に朝鮮民族革命党に入党。1938年、武漢にて朝鮮義勇隊に
所属。1940年中国共産党に入党。12月河北省で日本軍と交戦中に
脚を負傷し、日本軍の捕虜となる。43年治安維持法で懲役10年判決。
45年、解放、政治犯釈放後、ソウルにわたり、短篇小説10余編を書く。
1946年アメリカ軍政の左翼弾圧で北朝鮮に入る。52年に中国延辺に
朱徳海の招きで移る。しかし、57年から80年まで反右派闘争で批判され、
文革が終わる80年まで24年間執筆を停止されたという稀有な人生を
歩まれました。

「たばこスープ」のおもしろさは、人間の意外な弱さと、思わぬ強さを浮き彫りに
しているところです。主人公、文丁三は、朝鮮義勇軍のなかでも
一番の「のろまで怠け者」であると言われ、馬を引かせれば崖に
追いやり、牛を引かせれば池に沈め、炊事を任されればたばこの入ったスープを
作り、とんちんかんぶりを発揮していました。それがひょんなことから日本兵を
やっつけて、幌馬車まで戦利品として持ち帰る「偉勲」をたてるのです。
この過程が、ユーモアたっぷりに描かれています。

「ムカデ」もムカデをこわがり、スパイが銃殺されるのを見て飯もくえない
兵士が、いざとなると勇敢に戦うのです。
「人間の顔をした社会主義」を理想とした、人間を描くことが文学だとの思いを
抱いておられたことがよく分かります。絶対的な存在ではない、独善的ではない
人間への理解が深いです。

ご本人は日本軍への抵抗戦争で片足を失っても意気軒昂で、強靭な闘士で、
日本軍とも闘い、文革とも闘い、ひたすら脱帽します。
大村先生の翻訳が、ユーモアや皮肉を絶妙に生かされています。

「八路軍での戦闘活動ぶりを語るとき、彼の筆は軽く、さわやかである」。
八路軍は抗日への明確で強い意志と希望にみなぎっていたのでしょう。
朝鮮義勇軍は、いまだに日本ではほとんど存在を知られていないですが、
歴史的に重要な存在だと認識しました。北京の抗日戦争記念館には、
朝鮮義勇軍も掲示されていましたが、朝鮮人民の抵抗がこういう形で
実現していたのに驚嘆しました。

しかし、「日本語がわかる八路軍」「高麗棒子」と朝鮮義勇軍の位置づけの
内部における揺れ、銃殺される前に「共産党万歳!」を何語で叫ぶか、など、
現在に通じる民族的なアイデンティティの問題も感じます。

ソウル時代がもっとも軽妙なコントらしく、ピョンヤン、中国時代となると
理念性が増していくのは興味深いです。
「仇と友」は、日本への憎しみと友情で、大村先生の並外れた研究の幅広さと
熱心さに金学鉄先生が感嘆し、心を開かれたのでした。
負傷した脚の切断手術を要請する金学鉄の豪胆ぶりには驚嘆し、
広田四熊院長のように医者として差別せず執刀したことに救われます。
「囚人医師」の共産党独裁の「思想改造」にもめげず
医者の本分を全うする姿にも打たれます。
金学鉄先生の人間性は実に広く豊かで高潔です。

2019年10月に、延吉に愛沢革さん、丁章さんらの方々と訪れ、
私もご子息・金海洋さんにご拝眉し、
温かく歓待して頂き、中国と朝鮮民主主義人民共和国の
国境近くまでご案内頂きました。
父・金学鉄を語り出すと金海洋さんは留まるところを知らず、
「日本語版に寄せて」にあるように東アジアの、
人類のための闘いであったと強調されました。

(新幹社刊 2500円+税)



<時評>2021年1月
・韓国ソウル中央地裁で元「慰安婦」の方々への賠償判決が確定しました。
原告は、日本政府であり、人権回復と植民地賠償には先駆的判定です。
国際法のうえでも、植民地支配、人権問題は「主権免除」を超えるという判断であらり、
世界的に大きな影響を与えるでしょう。
植民地支配を「日本帝国による不法占領」と定義しています。
「日韓合意」は、日本政府が軍の関与は認めたものの間接的な謝罪に
とどまり、植民地支配の不法性には言及していません。
しかし、一方で、バイデン米国大統領の日米韓軍事同盟の重視政策により、
(バイデン大統領の多様性政策はよいですが、同盟軍事化は困る)
文在寅大統領は、日韓合意を一部復活させる意向も見せています。
日本は、「主権免除」と日韓合意をたてに対応せず、です。
戦時賠償は、被爆者・戦災者問題も含めて、日本の人々の問題でも
あります。被害者の人権を回復することは日本の庶民にとっても
有意義なことなのです。よく考えたいです。



クォン・ヨソン著『きょうの肴なに食べよう?』


クォン・ヨソン著『きょうの肴なに食べよう?』
丁海玉訳

「私にとっても、食べ物はみんな酒の肴だ」とまで言い切る著者
クォン・ヨソンは、幼いころは、病弱で偏食もきつかったそうだ。
だが、酒はソジュをぐいぐい飲むほど酒豪だ。どんなに敬遠していた
食べ物もひとたび「酒の肴」と認識するとたちまち美味が分かるよう
になるという特異な味覚の持ち主。酒が入った舌で味わうと、
実にゆたかなおいしさに感じられ、母国語は、酒国語であり、
小説で酒の話を禁ずるとスランプに陥るほどだという。

そんな作家の語る食べ物の話は奥深い。
父親が政治犯として死刑に処された娘が、切れ目のないノリ巻き
(韓国海苔巻きキムパプ)を父の墓地で食べる姿は印象的だ。
韓国海苔巻きは、酢飯ではなく、ごま油が染みて具材も多く
食べ応えがあり、私も大好きだが、墓前で食べるのはすごみが漂う。
死刑になった父親のことは、訳者の丁海玉さんが説いているように、
クォン・ヨソンが長編小説『土偶の家』(2014年)で1974年
人民革命党事件で父親が捕まったあとの家族の苦悩や喪失を
子供の視点で描いていること、また『レガート』(2012年)
では、光州事件を背景とした作品を書いていることを考えると、
民衆の歴史を思う。

ただ、本書は、2016年に刊行し大ベストセラーになった短編集
『春の宵』のあとに書かれ、より普遍的な弱みもかかえた人間を
描くようになり、一般の多くの人々に愛される面がふくらんだ
エッセイだと丁海玉さんも語っている。とにかく、「酒の肴」の
描き方がユーモアと細やかな味わいに富んでいて秀逸だ。
韓国の酒の肴をますます食べたくなるのはまちがいない。
(KADOKAWA 1500円+税)







『韓国文学を旅する60章』


波田野節子さん、斎藤真理子さん、きむふなさんが編集した
韓国の文学史とゆかりの地がわかるとても充実した本です。
作家の中沢けいさん、中島京子さん、星野智幸さん、四方田犬彦さんら、
韓国作家と深いつながりを持つ作家の皆さんも、独自の視点や特別の
エピソードを交えて興味深く紹介しています。
朝鮮文学研究の元祖・大村益夫先生の貴重な金学鉄との対話は人柄を
伝えて、心を打ちます。

私も「第48章 文貞姫は江南のからだを書く
フェミニズム詩人が表す光と影」を書かせて頂きました。

T、古典の世界 U、近代文学の開拓者 V、近代の小説家
W、近代の詩人 X、解放と分断と朝鮮戦争 Y、独裁政権と産業化の時代
Z、今日の韓国文学

朝鮮半島の歴史、植民地支配や独裁政府との闘い、南北分断など、激動の
時代を駆け抜けてきた文学者たちは表現のうえでもさまざまな葛藤を経て
きました。歴史だけでなく、文学とは何か、人間とは何か、を奥行きと
多角性をもって問いかけます。

韓国社会の激変により、しばしば作品の舞台となった土地がまったく姿を
変えているのも現実をよく表しています。

日本でも大ヒットしているドラマ「愛の不時着」は南北融和をエンターテイメントに
仕上げていますが、愛の理想だけではなく、ファンタジー、物語の交錯など、
技法が豊かになったのも近年の特徴です。
本書でも多くの映画やドラマが導入の役割を果たしています。
たいへん興味深い本で、ぜひご覧ください。
(明石書店 2000円+税)







金明淳(キム・ミョンスン)

呪い  韓成禮訳

路上に転がる愛よ
飢えた人の口から転がってきて
人々の耳を揺さぶる
「愛」という嘘をつかないで
生娘の胸の血を吸う餓鬼よ
盲人の手によって砕け
純な女たちの恨みになった
「愛」という嘘をつかないで
私が本当に信じるに足りぬ君に
ある日は会おうと祈り
ある日は会うまいと念ずる
騙してまた騙す、単純な嘘は言わないで
飢えた人の口から転がって
盲人の手で砕けるものよ
私の心から消えよ
ああ! 命が途絶えても
(「朝鮮日報」1924・5・28)


遺言   韓成禮訳

朝鮮よ、私がお前と永訣する時
小川に倒したり、血を抜いたり
死んだ死体でもさらに虐待せよ
それでも足りぬというなら
次に私のような人が現れても
出来る限りまた虐待してみよ
それで憎しみ合う私たちは永遠に別れる
この不吉な地よ、不吉な地よ


※金明淳は、朝鮮で初めて文壇デビューした女性文筆家として韓成禮さんが
「詩と思想」2020年8月号で紹介しています。
1986年に生まれ、1917年に短編小説でデビューします。
東京に留学し、1919年に日本留学生による有名な同人誌「創造」に参加し、
生涯で、小説21編、詩107編、戯曲3編、随筆と評論18編、
翻訳詩、翻訳小説など、多くの作品を残した、才能豊かな優れた人でした。
しかし、デート性暴力の被害者となり、そのうえ道徳的に堕落した女性と
レッテルをはられ、生活苦と精神の病により青山精神病院でさびしく
この世を去りました。

詩「呪い」には、<「愛」という嘘をつかないで>という詩句が繰り返され、
「愛」の言葉に騙され、飢えた性暴力者のえじきになった無念さと絶望感が
色濃く表されています。男性中心文化では、「生娘の胸の血を吸う餓鬼よ」と
ただすことも難しく、このように直接訴えた作品はまれだったでしょう。

「遺言」も強烈です。金明淳を古い道徳と男性優位主義で追い詰めた祖国・
朝鮮に対する激しい抗議が感じられます。「死んだ死体でもさらに虐待せよ」
とは、性被害者なのに自分がおとしめられ、表現活動もできなくなり、
名誉と生活を奪われた口惜しさと怒りが刻まれています。
日本の植民地時代にも家父長制社会に果敢に抵抗した女性文学者がいるのです。





MeTooで結ぶ、韓国と日本

中村純さんの企画編集で「詩と思想」8月号特集は、
「#MeTooで結ぶ、韓国と日本」です。
日本でもベストセラーとなった韓国フェミニズム小説は、
世界的に注目させています。
巻頭で、中村純さんは「フェミニズムからこぼれ落ちる
言葉を」という評論で「詩の教養のある韓国の作家による
繊細な感情表現と、イメージ喚起力のある言葉、優れた文芸の
語りの技術には、イムズから落ちていくひとりひとりの語りに
共鳴する力量がある」と分析しています。
韓成禮さんは、韓国詩人アンソロジーとして「韓国フェミニズムの
最も代表的な女性詩人五人」を紹介しています。

淫売女1
李延珠(イ・ヨンジュ) 韓成禮訳

腕を振り回し、虚空をほじくり返す
全身で壁を打ち続ける
どんどんと
反応する惨い音
四方の壁、鉄筋の後ろに隠れて
飛ぶ鳥がクーンクーンと笑う
彼女の太ももの下に赤い涙が溜まる
一度の添い寝の果てに
こんなふうに生きるくらいなら、お前はどうして生きるんだと聞いた
男もいた
こんなふうに生きるくらいなら!
どうして生きねばならないのか彼女も知らない
ネズミたちが天井をかじる
ゴキブリやカイセンチュウは衣服の中で
自由に死んだり産卵したりする
乱れた布団をかき回して、彼女は毎朝
自分の遺体を放り出す、怖いもののなくなってしまった世の中
鉄筋の裏に隠れて生きる飛ぶ鳥がその死体を食べる
精神病患者になって監禁されるのが救いなら
どん底を歩き回るすべてがもげ落ちたぼろの暮らしは…
ああ、惨い風。

李延珠(1953−1992)について、韓さんは
<搾取された「女性の悪夢」>として次のように解説しています。
「李延珠は詩「淫売女」連作で文壇と世間に話題を呼び起こし、
死によって「語りたかったが語れなかったことを語り」たがった
ほどに、熾烈な詩人であった。彼女は都市で最も搾取され疎外された
女性とその肉体の悲惨さを詩に込めたが、詩人としてデビューした
翌年に自ら命を絶った>。紹介された五人は、韓国のさまざまな
抑圧と果敢に闘い、自分の生身を危険にさらして表現して迫力に
満ちています。

他に、評論では、小林富久子さんの「「世界文学」としての韓国・日本の
女性文学」では、韓国小説ですが、今や韓国という枠を超えて、ポスト・
ヒューマニズムとも呼べる広い観点を内包していると考察しています。
私も「文明の転換期と日韓フェミニズム詩」を書きました。
エッセイでは、ヤリタミサコさんの「性暴力とネーミングの問題」では、
性暴力が名前によって「いたずら」などにぼかされ加害がごまかされて
きたことを問題にしています。野口やよいさんは性被害をどう受け取るか、
特に重い被害ほど同性でもさけてしまうことがあり、「飴玉ひとつ分の
やさしさを」持つ勇気を語っています。長田典子さん「「生意気な女」を
続けます。」は、自分の意見を言っただけで「生意気な女」と言われる日本
で、「社会の様々な圧力や風潮には敏感でありたい」という意志表明で
共感します。犬飼愛生さんの「私は財布を握っていない」は、実際の生活で
育児の分担などを実行することから、多様性のある社会が創られると提起
しています。新井高子さんの「がやがやと、おおらかに」は、桐生の織物
工場では、働きながら子育てするのが当たり前だった、にぎやかでおおらか
な育児文化が根付いていたという。そのような雰囲気が復活してほしい
です。コロナで働き方が変わり、失業もふえる中、女性の生き方と日韓の
文学をめぐる興味深い特集です。




高昌秀

川が語る言葉

空が白む夜明け 窓辺で
川の声に耳を傾ける
純粋な銀色の声を描いてみながら
一瞬と一瞬の間
言葉と言葉の間
川の純粋な声を描いてみながら
やがて 川は返事を送る
古びた水石の声
歴史の中に 断頭台の絶叫はあっても
純粋な声はない
肉を刺せば血が出るように
人に近づけば
原始の痕跡が見えるように
まったく純粋な声はない
人が作り出した汚染は
ついに人間に還ってゆく

※高昌秀(コ・チャンス)
1934年生まれ。詩集『音と静けさの間』



私の中のインディアン
辛承根

インディアンたちの語録を読む
一句一句すべて 霊性がみなぎっている

この間 私はとても自分勝手だったな

おでこを土に打ちつけ 毎日おじぎをする
裏山の木々も満足なご様子だ



※(シン・スングン)1952年江原道生まれ。詩集『恋しい草たち』
『いつかはあの山の門を開いて』

※『日韓環境詩選集 地球は美しい』(佐川亜紀・権宅明 編訳より)







『ホ・ヨンソン詩集 海女たち』
―愛を抱かずして どうして 海に入られようか

序 海女たち
姜信子 趙倫子訳

ただひたすらに内へと渦巻く ピョルバンの風
とうとう 梃子みたいに 跳ねあがったんだ
とどろく稲妻みたいに 火がついたんだ
黒いチマ 白いチョゴリ
ホミ(鎌) ピッチャン(磯ノミ)手に手に取って 頭には鉢巻
茶碗のそば餅は 非常食
湧きあがる殺気 高まる波 ぐっと息をつめて
命をかけて闘った
不当じゃないか
怖くなんかあるもんか

細花(セファ)の市場はひっくりかえる
島の切り立った崖 切り裂く風が
カラスの頭を打つみたいに ひっくりかえしてやったんだ

「海女の生き血を吸うな」
木浦(モッポ)から飛んできた赤い帽子 黒い鉢巻の特攻隊?め!
虚空に パンパン 銃声が響く
ばらばらに散っては 捕まってしまう
「みんなあ 絶対に離れないで!」
四列に腕を組んだら
張りつめた水も はじけとんだんだ
あっという間に飛びかかる 犬どもの牙
赤い烙印 キツツキのくちばしのように キリキリと
青い波を ちりぢりに 引き裂いたんだ

キリキリ 腕の下にも チマのすそにも
キリキリ 烙印 背中にも
あの路地 この路地 血眼の巡査たち
ごうごう 集中豪雨のように 湧いて出るから
とうとう 息を殺して生きてきたこの人生 はじめての波がどうっと
立ちあがったんだ

*海女抗日闘争を弾圧するため全羅南道木浦から送られてきた警察隊。

※ホ・ヨンソンさんは、韓国済州島生まれ。詩人で済州四・三研究所
所長、五・一八記念財団理事を務めていらっしゃいます。
私も2017年11月の光州アジア文学祭でお目にかかりました。

『海女たち』では、日本の植民地時代に、日本による海産物の搾取に
立ち向かった済州島の海女抗日闘争(1931年6月−1932年1月)
に立ち上がった海女ひとりひとりの闘いと人生を描いています。
当時流行った「東京行進曲」の代わりに「海女抗日歌」が歌われ、
1932年の1月に抵抗の行進を決行したのです。「植民地の果実を味わい
尽くす帝都の軽やかな歌とはまるで真逆。命がけの海底の労働の末に手に
した海の果実を植民者がたやすく奪ってゆくことへの、体の芯からの
怒りに貫かれた歌です」と植民地支配に怒りの歌で抵抗しました。
海女抗日闘争は1930年代最大の抗日闘争でした。それはいまに至る
まで、韓国史上最大の漁民闘争だそうです。

「海女 チョン・ピョンチュン」は、ドキュメンタリー映画「HARUKO」
(野沢和之監督、2004年)の主人公で、幼くして片目をなくし、日本の
監獄に40回以上収監されながら、「決して倒れはしなかった」海女です。
ホ・ヨンソンさんは「文学は時代に対する応答であると考えています。いま
という時代の苦痛から目をそらしてはならない、ということを大切にしている」
そうで、済州島の埋もれた苛酷な歴史を見つめ続けた意志に打たれます。

訳者の姜信子さんは作家で、著書に『生きとし生ける空白の物語』『平成山椒
大夫 あんじゅ、あんじゅ、さまよい安寿』、『声 千年先に届くほどに』、
訳書に李清俊『あなたたちの天国』、編著に『死ぬふりだけでやめとけや
 谺雄二詩文集』などがあり、旺盛に創作活動をなさっています。

趙倫子さんは、1975年大阪生まれで、パンソリの鼓手および脚本家。
創作パンソリに『四月の物語』『ノルボの憂鬱』があるそうで、本訳の
リズムにパンソリの水脈を感じます。

「死んだと信じこんでいた希望が 歩けばあとからついてくる/
今日は今日の道がある/固く閉じられた心を開いてくれる道」など
苦しい収奪の日々を乗り越え闘った海女たちを思う言葉に励まされます。
(新泉社 2000円+税)







朴賛一

人類
  佐川亜紀訳

病を治すため 別の空から来た者たち
人類という者
病を治すことができず 病を伝えて行く者たち
宇宙の 横が短くて縦が長い
最も大きい病原菌

惑星で病状が重くなり
速度がだんだん早くなり
また別の空を探して旅立たなければならない彼ら
不治の病ということが分からないのか
それもそのはず 分からないわけだ
ある空の下に行けば
全知全能の神様がいらっしゃり
彼らを治療して下さるかもしれない
定着に成功するかもしれない

それもそのはず 分からないわけだ
ある空の下に行けば
全知全能の神様がいらっしゃり
彼らを撲滅してしまわれるかもしれない
生きられそうなところがすべて
A病棟、B病棟、C病棟と呼ばれる前に
宇宙探査船がだんだん もっと遠くまで行っている


※パク・チャンイル
1956年江原道春川生まれ。詩集『帽子の木』
『神様とともにゴリラとともにサムソンとともにデリラ
とともにナターシャとともに』

※人類そのものが、「最も大きい病原菌」というのは、
今のコロナ感染症の拡大時に意味深い言葉です。
人類が地球の調和を壊し、森林を開拓し、生物を殺し、
未知のウイルスを運ぶのです。
韓国で環境、防疫問題が以前から活発に議論されたことが、
2020年のコロナ感染拡大防止におおいに役立っている
と思います。







「四・三と平和」

「四・三と平和」は、韓国「済州4・3平和財団」が編集し、2020年で20号に
なる記録誌で、日本語版が新幹社から出ています。非売品ですが、毎年開催されて
いる「済州島4・3抗争記念集会」(2020年は4月18日日暮里サニーホール
にて開催)で求めることができるでしょう。

20号の巻頭は、「詩で開く平和 済州4・3 ベトナムと邂逅する」です。
「済州作家会議がベトナム中部のクアンガイ省を訪れたのは2007年の冬
だった。

「ビンホア」という聞き慣れない地名。その村の中央に建つ韓国軍憎悪碑。
4・3の地、済州で文学にかかわっている身として到底見過ごすことの
できない憎悪碑の存在に導かれるようにして、詩人の金秀烈さん、呉承国さん、
現地の案内をしてくれる詩人のチムチャンさん、そして翻訳家のハ・チェホン
さんとともに(略)クアンガイ省にたどりついた。

そこでわたしたちはベトナムを代表する国民詩人、タンタオ先生に会った。
それが、4・3とベトナムを結ぶ最初の橋となった」

ベトナム戦争における韓国軍の虐殺行為は、慰安婦問題でも、取り上げられます。
そこでは<戦争中は、どこの国も同じ>や<人間とはそんなもの>という
現状肯定の見方になり、歴史の発掘や新しい未来を創る努力が失われます。
「「詩で出会う平和」の行事は、素朴でありながらも慎重に両地域の痛みと
苦痛を分かち合い慰労する場となった。」と、4・3の内実の広がりと
深まりにあらためて心打たれます。

詩人の許栄善さんの「龍崗村、その家には 記憶の言葉だけがただよう」という
エッセイは、意外な「土俗の言葉」が、苛酷な記憶を表しているとの指摘に
はっとします。「ミンミッ」という言葉は、意味としては(すんなり、のっぺり、
単調に)ということなのですが、驚く使われ方をするのです。

「曲がり角の内側、ソットンネに行ったんだが、ミンミッ倒れていた。
そこに住んでいた人のことだ。みんな力のない人たちだ。赤ちゃんを抱いていたり、
年寄りだったり、体が不自由で走ることも這うこともできない人がみんな家の中で
死んだんだ」「その言葉は、まさに強烈であった死の言語でした。彼女の記憶は
土俗の言葉で飛びだし、前後に行き交いながら互いにぶつかりあい、もうひとつの
その日を貫いていました。にゅっと飛びだし、目の前でひっくりかえり、揺れ、
崩れていった日の光景の中に、「ミンミッ」がありました。」

もはや人が殺され、倒れることが単調なできごとになり、のっぺりした日常に
落ち込むほど殺戮がきわまった時、しかし、土俗の柔らかいM音が「にゅっと
飛びだし」、強烈な違和感で人の心を揺らすのです。許栄善さんの詩人として
の繊細な感性が捉えた言葉に気付かされます。

4・3を芸術に高めたパク・キョンフン画伯の迫力ある人生と芸術にも敬服します。
「慣れることときちんと理解することは違います。4・3を芸術家が新しいものと
接するように見ること、このような試みが、4・3芸術を新しくしていくはずです」
とは、社会的なテーマを創作するものにとって普遍的な教示です。






羅喜徳3

ファイル名、叙情詩*
韓成禮訳

彼らは「叙情詩」というファイルの中に彼を閉じ込めた
叙情詩までも不穏なものと信じようとしたから

例えばファイルには次のようなものが入っていたのだろう

一握りの髪の毛
数切れの爪
片隅の擦り切れたハンカチ
チェック模様のジャケット一着
古い革鞄と本数冊
匙とフォーク
手直ししなかった原稿の束
銀縁の眼鏡と緑の眼鏡入れ
沈黙 一瓶
森で拾ってきた木の葉数枚

包帯に残った体臭はガラス瓶に密封されて
彼を作っていたものが「叙情詩」の中に入っていたのだろう
もちろん彼の叙情詩と共に

彼らは次のようなことまで記録しておいたのだろうか

花壇に植えた球根は何なのか
他国から送られてきた手紙は何通なのか
森でツグミとどんな話を交わしたのか
服の裾で眠る一羽の蛾をどう見つめていたのか
一日に水を桶で何杯汲んだのか
ジャスミン茶を誰と飲んだのか
図書館でどんな本を借りたのか
講義の時間に生徒たちとどんな話を交わしたのか
国境を越えつつ、いかなる表情を見せたのか
この恋の日々の中、一体何が不穏だというのか

彼らが恐れたのは
彼が人の心を開く言葉を持っているということ
心の根を育てながら暮らしてきたということ
錠を直す労役をしながらも
詩を書くことをやめなかったということ

ファイル名「叙情詩」から解き放たれた
叙情詩は、既に日の光を浴びながら静かに輝いていた

彼が生涯を耐えてきた文の行間から
人が一人歩いて出て来る、裸足で、影すらまとわずに


*(作者注)
Deckname <Lyrik> 旧東ドイツ情報局が詩人ライナー・
クンツェに関して収集した資料集。

◆羅喜徳(ナ・ヒドク)さんは、優れた詩人で、2014年に
お会いしたことがあります。重層化するイメージで、新鮮で
深い詩の世界を切り拓いています。
この訳詩は、大阪市の出版社・竹林館発行の総合詩誌「PO」
176号に掲載されています。「PO」では毎号、韓成禮さんの
訳詩を紹介し、関西の詩人を中心にさかんな詩活動をされています。
本作は、旧東ドイツ国家保安機関が詩人を監視し、弾圧するために
秘密工作資料に収集した、ファイルの名称を題名にしています。
ファイル名が「抒情詩」なのは、権力は抒情詩さえも封殺すること
があること、また「抒情詩」を書き続けることが「文学的抵抗」
になることを示しているでしょう。柔らかく人間的な感情が
押しつぶされるのは、現在の日本でもあるのではないでしょうか。

※ライナー・クンツェは、1933年生まれのドイツ人。炭鉱労働者の
息子として生まれ、16歳で共産党に入党し、51年にライプツィヒ
大学に入学し、55年には同大助手になった。61年にチェコスロバキ
アの女医と結婚し、チェコ現代詩に傾倒。68年のチェコ事件を機に
東ドイツ詩壇を追われ、77年に西ドイツへの亡命を余儀なくされた。
詩集『傷つき易い道』『声高でなく』『一人一人の生』、童話集『
あるようなないような話』。自身の秘密調査ファイルを編集した
「暗号名『抒情詩』−東ドイツ国家保安機関秘密工作ファイル」がある。




パク・ヒョンジュン

パターン

―漢南大橋
パク・ヒョンジュン
韓成禮訳

散歩道でしばし立ち尽くし
大橋の下を眺めていると
その下水の中に打ち込まれたコンクリートの橋脚が
並ぶ姿、神殿に入るため
果てしなく広がる廊下のようだ
柱が反復しながら深くなり
反復が作り出す、その深さを
それ以上耐えられない時、
私は橋の信者となる
祈りを捧げながら
暗闇と光が入り交じって揺れる波
永遠に向かう音に沿って
あの道を渡る人が私自身だと想像する
その人が私ならば
私は橋脚が木だと思い
ありったけの樹液を吸い上げ
先立った信者たちの足跡が鮮明な
波ごとに口づけしただろう
水の廊下に沿って
大橋を通る車たちが出す音を
神の声として聞き
神殿の石柱と共に
暗い深き中へと消えていっただろう
私の中から戦え、戦えという声が
果てしなく聞こえる大橋の下を眺めていると
木の葉ではなく根をすべて持ち上げ
空の冷え冷えとした泉の方を向いた冬木立が映る

(訳注)
※漢南大橋 大韓民国ソウル特別市の漢江にかかる全長
915メートルの橋。同市の龍山区漢南洞と、江南区
アックジョンドンを結んでいる。

◆パク・ヒョンジュン 1966年全羅北道井邑生まれ。
明智大学文芸創作科卒業。1991年『韓国日報』
新春文芸に「家具の力」が当選して文壇デビュー。
詩集『私は今、消滅について話そうと思う』『パンの
匂いの漂う鏡』『水中にまで葉が咲いている』『美しさ
に飢える』、評論集『沈黙の音』などがある。
<東西文学賞><素月詩文学賞><六四詩文学賞>
など多数の賞を受賞。
◆この翻訳詩は、日本の季刊詩誌「舟」177号に掲載
された作品です。「舟」は毎号、韓国詩を紹介しています。
編集兼発行人は、大坪れみ子さん。
発行所は、岩手県滝沢市です。
創始者の西一知さんは「「舟」、レアリテの会発足の覚え書
 ―1975年5月」で、「いまや、詩人の行為は個の生の危機
との戦いである。ということができる。個の生の危機は、今日
私たちを取り巻く人間的状況、文学的状況のいたるところに
現れてきている。私たちはそれに目を閉ざすべきではない。
詩作はいまや文学のためにあるというよりも個の生の復権の
ためにあるべきだ、ということができよう。」と詩的理念を
明確にされて「舟」を続けられました。




李御寧2

今も落ちる花があって
――落花岩に寄せて
権宅明・佐川亜紀訳

通ったら訊いてごらん
苔のついた絶壁に流れる川の水に
皐蘭草と壊れた瓦のかけらに
訊いてごらん
どうして多くの花は落ちたのか
愛と若さが残っているのに
誰があの多くの花を散らせたのか
千年前の昔の語気で訊いてごらん

月なのか
風なのか
驟雨なのか
しかし 違うと言うだろう
違う 違うと言うだろう
それは季節ではなく 歴史
それは雷ではなく 馬の蹄の音

落ちろ 落ちろと
焼き尽くされる野原が言った
純潔は死より強いもの
愛は追われることではなく
落ちることであると
多くの花の根が教えてやったのだ

今もそのようにして我が娘たちが
ある歴史の絶壁から
落ちている
貧しさの断崖から
紙幣とベルトの騒音の下で
今日
我が娘たちが落ちているのを
多くの花が散っているのに 今
千本 また 千本の花が散るのに
階伯(ケベク)よ 焼き尽くされる故郷を守った階伯よ
今どこで刀を研いでいるのか

花の散るある川辺の岩の上で
悔恨の刀を研いでいるのか

今日も落ちる多くの花があって
川の水は眠りにつかないのだ

※落花岩は韓国の忠清南道扶余にある大岩。百済が滅びる時、
百済女官三千人が純潔を守るために花のように身を投げたという
伝説がある。
※日本の「声明」に対して、韓国の声明「東アジアにおける平和の
進展のために日本安倍政権の朝鮮半島政策の転換が必要である」
が出され(2019年10月10日)署名賛同者105人に李御寧さんも
参加されています。
「貧しさの断崖から」「我が娘たちが落ちているのを」は世界的な
普遍性をもった現在の危機です。
※『無神論者の祈り』(権宅明・佐川亜紀訳。2012年刊。花神社)
より。




金永郎3

一握りの土

韓成禮訳

もともと平静な心ではなかっただろう

無理にのこぎりで引いて千切れ千切れに裂いた

風景が目を引くことができず
愛が思いを乱させないのだ

諦めて恨みもせずに生きている

いったい私の歌はどこへ行ったのか
もっとも神聖なものはこの涙だけ

奪われた心をついに取り戻せず
飢えた心を充分に満たせず

どうせ体もやつれた
急いで棺に釘を打ち込め

どのみち一握りの土になるのだ



空のポケットに手を入れて


空のポケットに手を入れて ポール・ヴェルレーヌを訪ねる日
全身から力が抜け 涙もわずかに流れた
ああ、雨がこんなにさめざめと降る日は
千の嘆きを暗唱したい



*「心をのこぎりで引く」、「空のポケットに手を入れて」など、
モダニステックな形象化が金永郎の一つの特徴でしょう。
「奪われた心をついに取り戻せず」に日本支配の抑圧を感じさせ
ますが、絶望感と拮抗する詩精神の端正さが光ります。
『金永郎詩集』がついに2019年10月31日土曜美術社出版販売より
刊行されました。ひ孫さんが東京大学日文科大学院生で「井原西鶴」が
専攻で日本語がとても堪能で、金永郎の詩が日本で多くの方々に読まれること
になりました。今の時代に、金永郎と井原西鶴のご縁で、日韓の文学が
広がるのは非常に貴重な出会いです。

(韓成禮訳 土曜美術社出版販売 1400円+税)








尹東柱の故郷を訪ねて

2019年10月15日から23日まで尹東柱の故郷・延吉(中国)と
北京に行ってきました。詩人の丁章さん、愛沢革さん(『尹東柱
評伝』訳者)、東大阪の教科書問題で活動している方々相可さん、
桐生さん、米村さんとともに6人で史跡をめぐるハードな旅を
無事達成しました。

17日夕には、延吉アカデミーとの交流会を石華先生が主となって
開いてくださいました。アカデミーの皆さんは私たちを温かく迎えて
くださり、「尹東柱の詩 朝鮮語・日本語・中国語で読む」会が伝統
楽器演奏もにぎやかに、楽しく催されました。

驚いたのは、延吉アカデミーの皆さんが尹東柱の詩を暗唱して朗読
されたことです。一語一語、詩の思いを汲み取って、感情をこめて
詠まれたのです。

私は朝鮮語で尹東柱記念館で買い求めた本を見ながら朗読し、
もっと練習してこればよかったと反省しました。
(以前に、楊原泰子さんから頂いた柳時京先生の朗読CDで
「たやくすく書かれた詩」を練習して行ったのですが暗唱まではできず。)
この尹東柱詩集は、記念館のスタンプを押してもらえるので特別なのです。
延辺大学の学生さんたちは上手な日本語で朗読され、日本語を
まだ学んでくださる中国朝鮮族の若い人がいるのだと感心しました。
懇親会では、みなさんが上手な歌を披露されました。
私の詩「りんご人」も朗読して頂き、共感のうなずきがうれしかったです。

15日の夕べには、李恵善先生(『鄭律成(中国人民解放軍行進曲
作曲家)評伝』執筆者)、金海洋先生(朝鮮義勇軍作家・金学鉄の子孫)
にごちそうして頂きました。金海洋先生は、その後、尹東柱のお墓
や中・朝・露の国境付近にもご案内下さいました。

尹東柱の故郷に実際に行って、その自然の大陸的な雄大さに打た
れました。詩集名の『空と風と星と詩』の、「空」や「風」や「星」をつい
日本と同じように考えてしまいますが、違いにも気付かされます。
例えば、有名な「序詩」の最後「今夜も星が 風にかすれて泣いている。」
(金時鐘訳)は、日本支配の暴風に、高い志の聖なる星もおびやかされ、
泣いているという比喩的な意味でしょうが、星が「風にかすれて」という
感覚は大陸的な吹き渡る風とどこまでも広がる天空をイメージする
と日本的な抒情とニュアンスがちょっと異なるように思いました。
尹東柱のお墓の背景が広大なとうもろこし畑だったことも発見でした。

また、詩「自画像」に出て来る「井戸」のイメージも実際と少し異なりました。
「井戸」が「自画像」を映す鏡の役割をし、映る姿も「憎い男」と「いとおしい
男」に分裂しているのは、かなり近代的な感性でしょう。実際の「井戸」は
まず村人の生活の根であり、「龍井」の地名どおり「龍」が潜んでいそうな
しっかりした石で固めた立派なものでした。こうした暮らしと一体になった
民俗文化と別れ、近代への道を迫られ、引き裂かれる自分になった苦悩
が尹東柱の詩の新しさでしょう。

金学鉄(1916−2001)という朝鮮義勇隊に入り、中国八路軍に参加した
延辺の重要な作家も知る事ができました。金学鉄は、朝鮮北部の元山で
生まれ、ソウルの普成高等普通学校に進学しましたが、抗日運動への参
加を志し、中国上海に渡り、義烈団に入りました。

1937年の日中戦争勃発後、中国国民党軍隊の少尉に任官、38年に武漢
で結成された朝鮮義勇隊(のちの朝鮮義勇軍)に入隊し、華北で日本軍と
闘いました。中国共産党に入党後は、八路軍と共闘し、41年に日本軍と
戦闘中に被弾し、捕らえられ、治安維持法違反で懲役10年の判決を受け、
長崎刑務所に収監されました。

解放後は、創作活動を開始し、延辺の文壇で頭角をあらわしました。特に、
注目されるのは、毛沢東を批判する小説『二十世紀の神話』を極秘裏に執筆
し、文革の時に摘発され、刑を受けました。自分の前半生をユーモアを交えて
書いた伝記小説『激情時代』(1986年)は人気をよび、88年には韓国でも
出版され、ベストセラーになったそうです。たいへん興味深い作家です。










李ヒャンア
手紙

権宅明訳・佐川亜紀監修


真夜中にこの手紙を書きます
うっそうとした樹々が泣くように
深く大きく真っ暗な夜に
積もりに積もった私の願いは
すぐに染まった血の色のハンカチ
この便りを伝えます

今夜ある家のしょう油やみそがめのそばでは
一粒のとてもかわいらしい桃の実がなっているのに
すべて分かると言っては何も知らないあなた
このような夜には私もぼろの衣を着替えて
日当たりのよい地の香り漂う樹木として
咲き出したいのです
そのわけを伝えます




種の中には

種の中には双葉があります
双葉の中には一生涯が足を伸ばす日差しがあります
日差しの中には無心の川
川の中には物語があります
物語の中には悲しくきれいな色があります
色の中にはゆっくりした頑丈な夢があります
夢の中には涙が 涙の中には塩があります
塩の中には 塩の中には
しびれる生があります

私がつまびく九十九の玄琴
どれを鳴らしても私は痛みます

捨てた石ころ一つ
流れる歳月の中に見失った風のひとかけらも
風浪になり 反乱になって私を解きほぐします
種の握りしめている貞節は
私の風土に落ちて根を張ります
羽になります 起爆剤になります 信仰になります
不屈の生になって再び
種を産み出します


※(イ・ヒャンア)
東北アジアキリスト者文学会議会長を務められ、
日本のキリスト教詩との交流にも尽力されている李ヒャンア
さんは謙虚で誠実な生き方が詩ににじみ出ています。

1938年韓国忠清南道生まれ。慶熙大学国語国文学科卒、
及び同大学院卒業。湖南大学名誉教授。1966年「現代
文学」でデビュー。韓国文人協会会員。東北アジアキリス
ト者文学会議会員(会長歴任)。「文学の家・ソウル」理事。
詩集『星たちは川に行った』等23冊。詩選集『安否だけ
うかがいます』等3冊。エッセイ集『紙船』等15冊。
尹東柱文学賞、韓国文学賞、創造文芸文学賞、中山文学賞、
アジア基督教文学賞、辛夕汀文学賞等受賞。






金永郎2
牡丹の花が咲くまでは
韓成禮訳


牡丹の花が咲くまでは
私はずっと私の春を待っているでしょう
牡丹の花がぽつりぽつりと散ってしまった日
私は初めて春を失くした悲しみに浸るでしょう
五月のある日、あの蒸し暑かった日
散って横たわった花びらでさえ萎んでしまい
天地に牡丹の花はその跡形すら消え
大きくなった私の生き甲斐は無念にも崩れ
牡丹の花が散ってしまえばただそれだけ、私の一年はみな過ぎ去り
三百六十日、いつも寂しく泣くのです
牡丹の花が咲くまでは
私はずっと待っているでしょう、輝かしい悲しみの春を


毒を持って
韓成禮訳

私の心に毒を持ってからずいぶん経つ
まだ誰も殺めたことのない新たに持った毒
友はその恐ろしい毒を撒いて捨てろと言う
私はその毒が友でもすぐに殺めるかもしれないと脅す

毒を持たずに生きてもいずれ君と私まで去ってしまえば
億万の世代がその後に静かに流れて行き
後に大地がすり減って砂粒になるのに
「虚しい」毒など持っていてどうするのだ?

ああ、私はこの世に生まれたことを恨まずに過ごした日が
一日でもあっただろうか「虚しい」しかし
前後から飛びかかる狼と山犬は今まさに私の心を狙っているので
私が生きたまま獣の餌となり、
ひかかれて引き裂かれるように投げ出された身の上なので

私は毒を持って従順に進んで行くだろう
最後の日に私の寂しい魂を救うために


※「毒を持って」は、一九三九年に現実との妥協を
拒否する内容で、雑誌「文章」に発表した作品です。
自然にたいする抒情性から深い内面性へ進みました。




金永郎
果てしない川の水が流れる
韓成禮訳

私の心のどこか片隅に果てしない
川の水が流れる
突くように昇る朝の光が麗しい
銀の波をそそる
胸になのか目になのか、また血筋になのか
心がひそひそと隠れた所
私の心のどこか片隅に果てしない
川の水が流れる



石垣にささやく日差しのように
韓成禮訳

石垣にささやく日差しのように
草の下でほほえむ泉のように
私の心、静かできれいな春の道の上で
今日は一日、空を仰ぎたい。

花嫁の頬に浮かんだはにかみのように
詩の胸をそっと濡らす波のように
柔らかなエメラルドの薄く流れる
きめ細やかな絹の空を眺めたい。


※キム・ヨンラン 繊細な抒情詩から出発しながら、日本統治時代に
抵抗の姿勢を貫いた詩人として、2018年に独立功労者として
建国勲章が贈られました。
 1903年全羅南道に生まれる。高等学校時代に
のちに画家や小説家や詩人となる友人たちと過ごす。
1919年3・1独立運動が起きた際、故郷で万歳運動を
企てたため警察に逮捕される。1920年に日本の青山学院中等部に
編入し、朴烈と同じ家に下宿する。
関東大震災後、帰国し、朴ヨンチョル主宰の「詩文学」に詩を発表。
1935年『永郎詩集』を出版。
1940年に詩「春香」を発表した後、日本統治の間、絶筆する。
神社参拝、創氏改名、断髪令を拒否する。
1949年 徐廷柱が編集した『永郎詩選』が刊行。
1950年 朝鮮戦争中に被弾し、死去。
2018年 独立功労者として建国褒章が追叙される。








金鍾泰詩集『腹話術師』
酒蒸しパン
韓成禮訳

バス停の横に赤いたらい一杯
何だかおいしそうなとうもろこしの匂いにはっと我に返りました
黄色く膨れあがった酒蒸しパンを見ていたのです
1000ウォンで一つもらって、がぶっとかぶりついたら
誰かが頭の後ろを触ったみたいで、真昼が明るくなりました
残った蒸しパンを差し込むように入れた鞄の中に広がるマッコリの匂い
酒でパンを作ったのか パンで酒を作ったのか
一杯の酒でも酔う哀れな三三歳です
その昔、泥んこの豚を引いて市場へと出る母の手を握り
もう片方の手には酒蒸しパンを掴んで歩き回った金泉の牛市場
大きな雄牛の背中には細雪が今日のように
はらはら陽の光の中に舞っていました

中に埋め込まれた黒豆が干しぶどうに代わっても
いつだって同じような味と香り
昼酒に酔ったまま飲む辛い味噌汁は
高鳴る胸のあちこちへと
さらさら流れ込んでいきました


※「詩論 詩人とは技術者なのか、芸術家なのか」という文章で、
金鍾泰は、詩における技術の重要性について述べています。
「モダニズム時代に入り、詩とは言語の技術的な研磨から出発し、
芸術的な直感や超越にまで到達してはじめて、いわゆる「真の
芸術作品」の片鱗にふれることができるようになったのだろう。」
と説いています。韓国詩も技術と芸術を目指す時代に入ったようです。

※キム・ジョンテ 1971年大韓民国慶尚北道金泉市で生まれる。
高麗大学校国語教育科および同大学大学院国語国文学科修士、
博士号を取得。1998年『現代詩学』にてデビューした。
詩集『故郷を離れてきたものたちの夜道』『五角の部屋』、
評論集および研究書『文学の迷路』『韓国現代詩と抒情性』
「青馬文学研究賞」「詩と表現、作品賞」など。
竹林館1200円+税






金キョンフ


鯉の革靴(2016年現代文学賞受賞)
佐川亜紀訳
権宅明監修

幾筋にも裂けた赤い胸びれ
数億年の間 終わることない
今日といううろこを
落とす
夕焼けの

ふらっとして
女は片方の靴を脱いだまま
壊れた歩道ブロックの間に差し込まれた
靴のかかとをつかんでうずくまっている




黒柿の衣装だんす
佐川亜紀訳
権宅明監修

巨大な硯のような夜
遠い昔をとじる
たちまち帰ってくる今日ごとにあけて とじる
柿の木の香りをあける
墨の香りをとじる
きしんでいた夜明けの6時をあける
老いたシミ虫たちが真っ白く死んだ夜11時をとじる
かびが生えた北側の壁を
からのナフタリンの袋を
とじる あけて とじる
黒柿の枝にぶら下がった風の沈黙
穴があいたパジ
とじて とじる 私
燃料になって灰の粉になる時まで
あける とじる きしむ
家を支える根を下ろす時までとじてしまうために
あける
何もかかっていないハンガー がらんとした静けさの中
逆さまに吊るされ体を震わせる幽霊グモ
黒い家の納戸の中 遠い話に触れる



※金キョンフ 1971年ソウル生まれ。梨花女子大ドイツ文学科卒業、
明知大大学院文芸創作科博士課程修了。
1998年「現代文学」でデビュー。
詩集に「その日 言葉が帰って来なかった」「12重の夜12時」がある。








『金準泰詩集 光州へ行く道』2

受苦から創造へ―独立運動記念の年に『光州へ行く道』を読む 佐川亜紀

民衆が光を創った道をあざやかに

二〇一九年は、一九一九年の朝鮮独立を目指して起った「二・八独立宣言」
「三・一独立運動」から一〇〇周年に当たる。このことを日本人がどれだけ知って
いるだろうか。文在(ムンジェ)寅(イン)政権が徴用工問題など歴史に対する
厳しさを増しているのも韓国人の心情の底にある独立精神とつながっている
だろう。

一九一〇年以来の日本の「韓国併合」による植民地支配への抗議と自由独立を
宣言した「二・八独立宣言」は、一九一九年二月八日に東京神田YMCAで朝鮮
の留学生たちが行った。
「三・一独立運動」は、三月一日に始まり全土におよんだ全民族的な抗日運動
だ。天道教、キリスト教、仏教の民族代表三三名が署名した独立宣言書を配布し、
「独立万歳」を叫ぶ示威運動に二百万人以上が参加し、朝鮮総督府の武力弾圧で
約七五百人が死亡、四万六千人が検挙されたと言われている。
三・一独立運動には、仏教徒の詩人であった韓(ハン)龍(ヨン)雲(ウン)
(号は萬(マ)海(ネ))も独立宣言書に連なった。韓龍雲は詩「ニムの沈黙」
が有名で、江原道には立派な「萬海マウル(文学館)」が設立され、二〇〇七年
韓国近代詩百周年記念のときに韓国詩人協会に招待され、なべくらますみさんと
祝賀会に出席した。その時、日本軍「慰安婦」問題についての詩が絵とともに描
かれて多数掲示してあったのが印象深かった。
このように韓国では、民衆闘争の史実や歴史が詩として表現され、人々の共有
感情や思考として語られ続けている。
一九八〇年の光州の民主化運動も強烈な記憶として刻み続けられる運動であっ
た。本誌二〇一八年七月号の韓国詩特集でも触れたが、私は二〇一七年の一一月
に光州で開かれた第一回アジア文学祭に招かれ、歴史の血が息づく場所に立ち、
心が深く揺すぶられた。記念館に写真が掲げられ、一般市民も犠牲になった凄惨
な事件であったが、悲しみを分かち合うだけでなく、犠牲を新しい時代を切り開
くエネルギーに変えようとする前向きな力も感じた。金大中(キムテジュン)
大統領から盧武鉉(ノムヒョン)大統領、文在寅大統領にいたる民主政権の
実現はおおいなる創造であろう。また、現代芸術との融合は運動を普遍的に高め、
世界化する飛躍の契機になっている。
さらに、朝米首脳会談が実現し、朝鮮半島の分断構造に変化が訪れようとして
いる時に、『金(キム)準泰(ジュンテ)詩集 光州へ行く道』(金(キム)正勲(ジョンフン
)訳・風媒社・二〇一八年一〇月三〇日)が出版されたのは意義深い刊行だ。
光州民衆運動が起こった際、戒厳軍は報道統制をしき、「ああ光州よ、我が
国の十字架よ」という有名な詩は、世界に闘争を伝える点でも大きな役割を果た
したのである。
金正勲もその詩は、「一九八〇年五月、韓国の南部にある都市光州で戒厳軍の銃
と刀に立ち向かって起こった「五・一八光州抗争」を最初に形象化した詩で、同
年六月二日付『全南毎日』(二カ月後軍事ファッショ政権によって強制的に休刊
させられた)新聞一面に掲載され、すぐアメリカ、日本、中国、ドイツ、フラン
スなど世界の言論機関に発表された。」と記している。
日本では、発表後に金学(キムハク)鉉(ヒョン)氏による翻訳で「ああ、光州よ、われ
らが国の十字架よ」という題の詩として広まり、集会でよく朗読された。(『荒
野に呼ぶ声 恨と抵抗に生きる韓国詩人群像』一九八〇年一九八〇年一一月二五
日 柘植書房)

キリスト教的な犠牲と復活

この度、『金準泰詩集』が翻訳刊行され、@光州民主化闘争が現在につながる
運動と思想であったことの再認識。A金準泰の詩の全体像を知ること。B金準泰
の人生も分かること、などさまざまな面から発見がある。
あらためて今日、金正勲氏の訳で「ああ光州よ、我が国の十字架よ」を読み返
し、内容を考えて気づくのは、キリスト教的な色彩が濃い点である。光州の受苦
が十字架にかけられたキリストにたとえられている。

ああ、我々の都市
我々の歌と夢と愛が
時には波のように寄せて
時には墓を体に引っ被るにしても
ああ、光州よ光州よ
この国の十字架を担ぎ
無等山を越え
ゴルゴダの丘を越えていく
ああ、全身に傷だらけの
死だけの神様の息子よ

光州民衆運動は、解放後もながく続いた軍事独裁政権への抵抗であり、根本に
南北分断からくる政治的な緊張がある。人権の観点からは、表現の自由や基本的
人権の抑圧の撤廃を求め、開発独裁による労働者や農民への負担の押し付け、貧
困化や奴隷化への抵抗が考えられよう。「だれも引き裂くことができず/奪うこ
とができない/ああ、自由の旗よ/肉と骨で蟠(わだかま)った旗よ」。
それらが、政治的なスローガンを超えて宗教的な枠組みで語られるのが、韓国
詩の特徴である。金準泰は作品「僕は神様を見た」で、有神論者でも無神論者で
もないが「神様を/僕は光州の新安洞で見た」と書いている。三・一独立運動に
もキリスト者一六人が独立宣言書に署名し、犠牲者が十字架にかけられたキリス
トに通じるという聖化と復活への祈りが人々へ伝わる感性として存在し、世界に
も共感を広めたのだろう。
さらに、市民の被害のむごさだけではなく、生き残った者が自分を責める自省
は内面性を深め、誠実さに打たれる。

ああ、生き残った人たちは
全部罪人のように頭を下げている
生き残った人たちはみな
ぼんやりして食器にさえ向き合うことが
難しい 恐ろしい
(略)
ああ、あなた!私が結局
あなたを殺したのでしょうか)

戒厳軍によって殺されたのに、自分の
無力をせめるのは、闘争の主体が自分で
あるという自覚によるだろう。
だから、最後に再び立ち上がる覚悟で
詩が結ばれる。「歳月が流れれば流れる
ほど/いっそう若くなっていく青春の都
市よ/いま我々は確かに/固く団結して
いる 確かに/手を繋いで立ち上がる。」
簡潔な表現でまとめ、「あなた」など
の言葉をくり返し、リフレインを多くし
てリズムを生み、朗読にもふさわしい作
品として普及したのだろう。

金準泰の詩の全体像を伝える

本書では、金準泰の詩と人生の全体像を知ることができる。詩のテーマは@朝
鮮半島の民主化と平和のみならず、A詩とはなにかB命の循環と自然C韓国の風
土と風習D女性の愛情と産むエネルギーへの賛美など多彩だ。
表現は、平明で簡潔であり、ユーモアにも富んでいる。
特に引かれるのは、女性を積極的に取り上げている点だ。詩「女の愛は銃弾よ
りもっと遠く飛んでいく」、「畑の女」、「智異山の女」など女性の愛情と生命力
が人間の再生にとって大切だとの思いが印象に残る。特に、「智異山の女」は、
朝鮮戦争下の一九五一年に智異山の岩の隙間に生き残った「老人の天を/自分の
地の中に深く引き寄せた」「数え切れないほど多くの子供を産みたい」と大胆に
願う想像力がおおらかな長詩である。自然と一体になった短詩も味わい深い。


「刀と/土が闘うと/どちらが勝つか/
/土を/刺した刀は/あっという間に/
土がついて/錆びてしまった」(「刀と土」)


地名をふんだんに取り入れているのも特徴であり、風土への愛を感じる。「光
州」はもちろんのこと、「清川江」「錦南路への愛」「蟾津江」など。
訳者の金正勲は、「解説」で「一九七七年初詩集『ゴマを投げ打ちながら』を
発表してから農村の現実と、その日常の真実を描写してきたのだが、一方彼の脳
裏には悲劇的体験が彼の肉体と精神を支配し、それが何か刺激を受けるとすぐに
言語的メッセージとして発信するものだったといえる」と述べている。
金準泰の人生は激動の歴史を生き、「悲劇的体験」を受け続けたものだった。
「祖父は日本帝国主義の戦争時代、大阪に労務者として徴用され伊丹空港で働く
ことになり、父は日本兵として徴兵され、太平洋戦争に参戦したからである。そし
て父は金準泰がまだ幼い時、民族分断の事件に絡んで海南で虐殺された。彼が十
歳の時、母も病で世を去った」。こうした祖父母両親の体験が民主化運動に参加
させ、光州事件の現場に遭遇して感情と思考を高められ、一気に歴史的な名作を
書くにいたったのだろう。
金準泰は自分の詩のテーマは「生命と平和と統一」だと語っている。「日本に
対して歴史的に愛憎半ばの感情を抱いている人が多いが、年を重ねて韓国と日本
は東北アジア、さらに世界平和のためにお互いに苦悩を分かち合いながら一緒に
知恵を絞って連帯してきた」と述べる。「双子のお祖父さんの歌」は、南北分
断を乗り越える願いがやさしく歌われており、最後に引用して、日本でも平和を
創るため本書が読まれるよう祈りたい。


一人をおんぶするともう一人が
おんぶしてくれと強請(ゆす)しながら泣く。
ええままよ、なるようになれ!
二人を一緒におんぶしてあげると
二人とも気持ちよく笑う
南と北もそうなってほしい。

(「詩と思想」2019年5月号掲載)











黄仁淑


間一髪 (2018年現代文学賞)
佐川亜紀訳

前の座席に落とした財布をのせて
たった今去ったタクシー
今日に限って財布が分厚かったのに

いらいらするわ
当籤番号から一つずつ
多いか少ないかの私のロトの数字

間一髪の差が大切
詩になるかならないかも間一髪の差
間一髪の差で言葉が多くなったり、言うべき言葉がなくなったり

浮んだ詩想が間一髪の差で飛んで行き
間一髪の差でバスをのがし
道を失い 日付を失い 人間を失って

間一髪の差で悲しみを失い
悲しみを表すタイミングで笑みをこぼすこともあったね
針に刺された風船のように頬を震わせながら

なくしたものみんな間一髪の差だったみたい
誰かがずっと昔に使ってしまった
魅力的な比喩も間一髪で失ったみたいな

間一髪の差でなくしてばかりいたのだろうか
つかみ取ってもいただろう、生じてもいただろう
間一髪の差で私の命が生まれて

おびただしい間一髪の差で今のわたしがこうしているんだろう
間一髪の差で
ハンカチをぬらし、パンティーをぬらして


命の価値
佐川亜紀訳

昔、ずっと昔
ジャージャー麺一皿が
50ウォンだった時代
信号も横断歩道もない車道を
仕事場とした青年がいた
その時はまだできていなかった
南山のヒルトンホテルの前だった
傾斜した車道 無断横断が
青年の仕事
様子を伺いながら渡れば10ウォン
むやみに渡れば50ウォン
一度はその青年くらい みすぼらしい身なりの中年男が
青年に50ウォンを渡した
彼のお客と10人余りの無料観客が
歩道で見守っていた
青年は目をぎゅっと閉じて車道に入り込み
大股で足を運んだ
自動車が警笛を鳴らし
中年男が心配した声でわめいた
「気をつけろ!」
は?気をつけろって?
こんなふうに死んでもあんなふうに死んでも
青年は続けて目をぎゅっとつむったのだろうか
思わず細目を開けるのだろうか

今はジャージャー麺一皿
4千ウォンだったか5千ウォンだったか


※黄仁淑 (ファンインスク)1958年ソウル生まれ。
1984年 京郷新聞の新春文芸でデビュー。
詩集『鳥は空を自由にほどいて』『悲しみが私を覚ます』
『私たちは渡り鳥のように会った』『リスボン行き夜行列車』
『終わらない愛が多すぎて』など。
東西文学賞、金スヨン文学賞、現代文学賞など。




韓龍雲


2007年に韓国・近現代詩百年を記念した催しが
江原道の万海マウルで開かれ、招待されて参加しました。
万海(マネ)は詩人・韓龍雲(ハンヨンウン1871−1944)の号です。
韓龍雲は、1919年の3・1独立運動に参加した仏教徒としても有名です。
3・1独立宣言書に天道教15名、キリスト教16名、仏教徒2名が最初に
署名しました。仏教徒は数は少ないですが、独立運動にも
大切な役割を果たしました。

3・1独立運動は以前は、1894年に起った東学農民運動
(甲午農民運動)の系譜を引く天道教の側面から、
朝鮮固有の思想による農民民衆の運動という定義が大半でしたが、
最近は、キリスト教の側面からの見方もふえたようです。
グローバル化に対応し、3・1運動の横のつながりにも
注目が集まっています。

韓龍雲の詩には、インドの詩人・タゴールの影響があると
言われています。
私は以前、「福田正夫詩の会」(福田美鈴氏、金子秀夫氏ら)の
詩誌「焔」97号に朝鮮語文芸誌「創造」「霊台」について
書いたことがありますが、3・1独立運動の前月2月に
発刊された「創造」には、7,8号にタゴール詩集『ギタンジャリ』を
翻訳し発表しています。もちろん、西洋詩も翻訳紹介していますが、
タゴールや福田正夫の詩も朝鮮語に翻訳して紹介する意欲が
1919年ごろもさかんだったことが分かります。



ニムの沈黙
大村益夫訳

ニムは去りました。ああ 愛するわたしのニムは去りました。
緑の山の光を乱し モミジの茂みに向かってのびる小道を歩き
耐え 振りきって去りました。
黄金の花のように堅く輝かしかった昔の誓いは
冷たい塵となってためいきの微風に飛んでいきました。
はじめての鋭い「キス」の思い出は わたしの運命の指針を
もどし 後ずさりして消えました。
わたしはかぐわしいニムの声に耳ふさがり、
花のようなニムの顔に目がくらみました。
愛も人の世の事、会う時にすでに別れを憂い、
気づかわないではないけれど、
離別は思いもかけず訪れて、
驚く胸は新たな悲しみにはじけます。
けれど、離別をせんのない涙の源にしてしまうのは、
おのずから愛をうちこわすことと知っている故、
こらえられない悲しみの力を
あらたな希望の脳髄に注ぎいれました。
わたしたちは会う時に別れを憂うように、
別れる時にまた会えることを信じます。
ああニムは去ったけれども、
わたしはニムを送りませんでした。
みずからの調べに打ち勝てない愛の歌は
ニムの沈黙を包んでめぐります。

(大村益夫編訳『対訳 詩で学ぶ朝鮮の心』より
青丘文化社 定価3000円+税)


※韓龍雲は、「ニム」に「命と思うものすべて」、
「衆生が釈迦のニムならば、哲学はカントのニムである」と
多様で奥深い意味を暗示しています。
「ニムはわたしが愛するだけでなく、わたしも愛するのだ」とも
語っています。朝鮮近代詩のはじめにこのような
思索や感情が細やかな愛の詩が書かれたことに注目します。
もちろん、去っていくニムに失われた祖国の独立、
奪われた本来の姿をこめているでしょう。
こらえられない悲しみの力を希望の脳髄に注ぐ
不屈の願いも感じられます。
また、普遍的な「神の沈黙」という問いも思います。
不条理や罪深いことに神はなぜ沈黙を続けるのか、
沈黙と信仰は、宗教の根源的な問題でもあるでしょう。







『金経株戯曲集 オオカミは目玉から育つ』

韓成禮訳


息子 外に出てみなよ。核戦争で両親を失った子どもたちが
街に溢れてるよ。死んだ母親を捜す可哀想な子どもたち。
その口の中には母乳がいっぱいだよ。涙が枯れて疲れて灰
でいっぱいになった空を眺めて子どもたちが死んでいくとき
にその子たちの口を指でこじ開けてさじですくってくればいい
んだ。
母親 涙がこぼれる話だね。だけどどうしてそれが偽の母乳
なんだい?
息子 涙が半分だから。
母親 マージンの比率が悪いね。やめよう、そんな話。
息子 母さん。放射能のせいでもう子どもはこれ以上産めな
くなったんだ。



※韓国の詩劇運動で思い付くのは、金芝河の「金冠のイエス」など
で、民衆運動の一環として取り組まれていました。
1976年生まれの金経株も詩人で、若手として最も期待され
ている才能豊かな人です。2006年刊の彼の第一詩集『私は
この世界にない季節である』は、ポストモダンの難解な詩であ
りながら、30刷にまで至りました。
彼は、詩劇運動にも熱心で大学路の小劇場や弘益大学近くの
小さなクラブで熱心に活動を行っています。

彼の詩劇第一作品『オオカミは目玉から育つ』は、従来の家族愛
的な劇を想像する人はかなり面食らう作品です。核戦争後の世界
を想定し、家族は破壊され、母親が妊娠中にマムシを飲んだために、
息子は両腕がないまま生まれたことになっています。被曝の後遺症
とも考えらます。父親は詩人で、役立たずで、森をほっつき歩いて
息子に殺されてしまいます。

作者は「私は言葉を取り扱いながら、母性に関心を持つ
ようになった」と述べていますが、伝統的なすべて
「オモニ」(母)の力で治まるような世界が崩壊したことを前提に
しているのが新しいのです。獣の内臓を取り出してはく製にすること
で生活し、死体が転がるなどグロテスクな描写もさかんに出てきます。
しかし、「産む」「育つ」という営みは繰り返され、オオカミの野生を
復権することで文明の果てを生き延びようとする光も感じます。

「詩劇は人間の無意識に入り込んだライムである」「詩的な沈黙と
行間が舞台に上がることに対する私の片思い」と作者が「詩劇論」で
述べているように、ストーリーのある劇ではなく、あくまで衝撃と
想像力を観客に与えて、観客と共により広い創造空間を繰広げようと
する実験的で斬新な作品です。韓国の詩人がこんなことを考えている
んだとぜひ知ってもらいたい戯曲集です。

訳者の韓成禮さんは、翻訳活動を30年以上にわたって取り組み、
日韓の詩文学交流に献身的に力を注いできた方です。
韓国語から日本語、日本語から韓国語への翻訳ができる
数少ない翻訳者です。


(論創社・2018年5月・1800円+税)









『姜善奉詩集 小鹿島の松籟』
(ソロクトのしょうらい)
川口祥子訳
上野 都監修

泡沫(ほうまつ)人生

誰がこの道を行ったのか?

運命だったか?
宿命だったのか?

ムンドゥンイ*として流れ込んだ道
生存競争の花火も
今は 見物だけになったね。
欲望も夢も 捨て置いたから
虚(うつ)け者のような私の人生
天下泰平(たいへい)の人生を待ち
歳月の波の果てには
虚空を裂く泡(あぶく)だけが残ったのさ。

*ハンセン病患者に対する賤称(原注)



あのころ

あのころ
この病気で棄(す)てられたので
人知れず家族のもとを発(た)ち ジプシーとなり
流浪の人生を生きていた

光復を迎えた翌年 早春の新芽が出るころ
悲痛を浄(きよ)めてやろうとの噂(うわさ)に
集まってきたハンセン人たち
トラックに載せられ日本軍の要塞の太宗台(テジョンデ)幕舎へ

「ひょっとして <好事 魔多し> じゃないか」叫んだ声も
太宗台でのつかの間の暮らしも
コレラに罹(かか)り永久(とわ)の旅路へ発(た)ち
名を呼ばれた患者は無動力船に這(は)いあがり
曳航(えいこう)する安成号 飲み込まれんばかりの荒波に船酔いだけが残った。
八歳の憔悴(しょうすい)した幼子
どこに行くのかも知らないまま
母の病気のせいで
世間に戻ってこれない島だと叫ぶばかり

「坊や 行ってはいけない」
「ちびちゃん 行くな」

「だめだよ、ぼくの母さんは
つらい茨(いばら)の道だろうと 僕がついていかなきゃならないんだ」

面変わりした母、
魂だけでも守ってやりたく 避けること叶(かな)わぬ運命ゆえに
幼な子は母の手を離さなかった。


※釜山市影島区。釜山湾を形作る影島の先端に位置する景勝地。(原注)


※著者・姜善奉(カンソンボン)1939年慶尚南道晋州で生まれ、8歳の時、
1946年ハンセン病患者(韓国ではハンセン人と呼ばれているそうです)
であった母とともに朝鮮半島の南端に位置する小鹿島に強制的に隔離され
ました。ハンセン病を発症した母を見捨てられずに一緒に行ったのですが、
保育園に別れさせられ、飢餓に苦しめられ、ついには13歳のとき自身も
発症してしまいます。植民地下であった朝鮮は貧しく、医療もまったく行き
わたらず、残酷な扱いを受けました。

しかし、その後、著者は医療従事者となり、ハンセン病患者の人権回復と
小鹿島の過去と現在を広く社会に問うための執筆活動を行っています。

訳者の川口祥子さんは、朝鮮のハンセン病患者が日本の植民地下で統治政策
により民族的尊厳と信教の自由を奪われ、労働力として酷使された史実など
を知り、衝撃を受け、日本でもハンセン人と家族の思いを理解して欲しいと
訳されたそうです。(解放出版社 1200円+税)










『金準泰詩集 光州へ行く道』
金正勲訳

ああ光州よ、我が国の十字架よ
金準泰 金正勲訳

ああ、光州よ無等山よ
死と死の間に
血涙を流す
我々の永遠なる青春の都市よ

我々の父はどこに行ったか
我々の母はどこで倒れたか
我々の息子は
どこで死にどこに葬られたか
我々の可愛い娘は
またどこで口を開けたまま横たわっているか
我々の魂魄はまたどこで
破れてこなごなになってしまったか

神様も鳥の群れも
去ってしまった光州よ
しかし人らしい人達だけが
朝晩生き残り
倒れて、のめってもまた立ち上がる
我々の血だらけの都市よ
死をもって死を追い払い
死をもって生を探し求めようとした
ああ痛哭だけの南道の
不死鳥よ、不死鳥よ、不死鳥よ

太陽と月が真っ逆さまになって
この時代の全ての山脈が
でたらめにそそり立っている時
しかしだれも引き裂くことができず
奪うことができない
ああ、自由の旗よ
肉と骨で蟠(わだかま)った旗よ

ああ、我々の都市
我々の歌と夢と愛が
時には波のように寄せて
時には墓を体に引っ被るにしても
ああ、光州よ光州よ
この国の十字架を担ぎ
無等山を越え
ゴルゴダの丘を越えていく
ああ、全身に傷だらけの
死だけの神様の息子よ

本当に我々は死んでしまったか
これ以上この国を愛することができないように
これ以上我々の子供たちを
愛することができないように死んでしまったか
本当に我々はすっかり死んでしまったか

忠壮路で錦南路で
花亭洞で山水洞で龍峯洞で
池元洞で陽洞で鶏林洞で
そしてそしてそして……
ああ、我々の血と肉塊を
飲みこんで吹いてくる風よ
やるせない歳月の流れよ

ああ、生き残った人たちは
全部罪人のように頭を下げている
生き残った人たちはみな
ぼんやりして食器にさえ向き合うことが
難しい 恐ろしい
恐ろしくてどうすることもできない
(あなた、あなたを待ちながら
門の外に出てあなたを待ちながら
私は死んだのよ……彼らは
なぜ私の命を奪ったのでしょうか
いや、あなたのすべてを奪ったのでしょうか
貸し間暮らしの身でしたが
本当に私たちは幸せでした
私はあなたによくしてあげたかったわ
ああ、あなた!
しかし私は子をはらんだ身で
このまま死んだのよ あなた!
すいません、あなた!
私に私の命を奪って
私はまたあなたの全部を
あなたの若さ あなたの愛
あなたの息子 あなたの
ああ、あなた!私が結局
あなたを殺したのでしょうか)

ああ、光州よ無等山よ
死と死を切り抜けて
白衣の裾を翻す
我々の永遠なる青春の都市よ
不死鳥よ、不死鳥よ、不死鳥よ
この国の十字架を担ぎ
ゴルゴダの丘を再び越えてくる
この国の神様の息子よ

イエスは一度死んで
一度復活して
今日まで、いやいつまで生きるといわれたか
しかし我々は数百回を死んでも
数百回を復活する我々の真の愛よ
我々の光よ、光栄よ、痛みよ
いま我々はさらに生き返る
いま我々はさらに逞しい
いま我々はさらに
ああ、いま我々は
肩と肩、骨と骨をくっ付けて
この国の無等山に登る
ああ、狂うほど青い天に登って
太陽と月に口づける

光州よ無等山よ
ああ、我々の永遠なる旗よ
夢よ十字架よ
歳月が流れれば流れるほど
いっそう若くなっていく青春の都市よ
いま我々は確かに
固く団結している 確かに
手を繋いで立ち上がる。



(著者注)「ああ光州よ、我が国の十字架よ」は
一九八〇年五月、韓国の南部にある都市光州で
戒厳軍の銃と刀に立ち向かって起こった「五・一八
光州抗争」を最初に形象化した詩で、同年六月二日付
『全南毎日』(二カ月後軍事ファッショ政権によって
強制的に休刊させられた)新聞一面に掲載され、すぐ
アメリカ、日本、中国、ドイツ、フランスなど世界の
言論機関に発表された。


※上記に記されているように「五・一八光州抗争」を
最初に作品として書き、発表した詩として、また意義と
犠牲について語った詩として、「ああ光州よ、我が国の
十字架よ」は日本でも有名でした。この度、その詩を表
した金準泰の詩集が金正勲さんの訳で日本の風媒社から
刊行されたのは喜ばしいことです。私も2017年11月
に光州に行き、犠牲者の民主墓地や記念館に行って、軍事
独裁の非道さ・すさまじさ、市民の抵抗と犠牲の広さに
あらためて心を揺さぶられました。光州抗争は、1987年
の民主化の原動力とも評価され、死を無駄にしない決意が
本作品からも伝わってきます。

金準泰は、短詩「春夏秋冬」で、「5、歌 詩が/いく/
蝶々のように//詩が/くる//母のように」と書いていて
優しい抒情詩も表現しています。さらに、「智異山の女」で
は、廃墟の中で、生き残った女が、生き残った老人との子供を
数え切れないほど多く産んで、智異山の村々を甦らせるエネ
ルギーにあふれた姿を描いています。女性のたくましさを
励ましているのも金準泰の長所です。
(風媒社・1800円+税)





『運命 文在寅自伝』


(文在寅著 矢野百合子訳 岩波書店)
2018年に、歴史的な南北首脳会談、米朝首脳会談開催に
力を尽くした文在寅韓国大統領。日本では、<親北政権>と
安易に規定されてしまうこともありますが、韓国民主化運動が生み育てた、
経験豊かな大統領であると分かるのが本書『運命 文在寅』です。

冒頭、ノ・ムヒョン元大統領の自殺の日から始まっていて、ノ元
大統領とのつながりの深さを感じます。韓国民主化後の
金大中、ノムヒョンと続く「参与政権」(民主・自立・統一を目指す
社会に関与する民衆運動を母体にした政権)の発展として文政権が
存在しているのです。もともと本書は、2012年12月の文在寅
の大統領出馬宣言の意味で刊行され、ベストセラーになりました。
文在寅は、父母の故郷が北朝鮮で、朝鮮戦争の避難民として
韓国慶南州の巨済島に渡り、避難生活の中1953年に生まれました。

極貧の生活を送りながら、人権派弁護士になり、ノ・ムヒョンと
合同弁護士事務所を開いたのが、参与政治を担う「運命」の始まり
でした。学生時代には民主化運動の主導的役割を果たし、逮捕
され大学から除籍処分を受け、軍隊に強制徴集されました。

ノ・ムヒョンも貧しく「サラム サヌン セサン(人が暮らす世の中)」
をともに目指します。

文在寅はノムヒョン政権のとき、「民情主席秘書官」となって、政権
中枢で働きました。開かれた政治、女性の登用、労働問題にも積極的に
かかわろうとしたのです。しかし、現実政治の困難も明らかにされて
います。金大中政権時の北朝鮮への送金問題、イラク戦争への派兵、
地域主義との格闘など、妥協と挫折も味わいました。

特に、北朝鮮との対話は、2007年のノ元大統領と金正日元総書記
との会談の蓄積を踏まえたものだとよく分かります。米国と協調し、
イラクに派兵しても北朝鮮の核問題を六か国協議にもっていった
現実感覚も注意すべきです。
イラク派兵は左派から批判されましたが。

文在寅大統領は、詩人・都ジョンファンと親しく、本書の序文には
都詩人の詩「遠く流れゆく水」が入っています。

「連れていく水をごらん
ついには再び澄み切って
遠くへ流れていくではないか
汚れた多くのものと混じりあいながらも
本来のまことの心を欠くことなく
おのれの顔 おのれの心を失わずに
遠く流れゆく水があるではないか」
(「遠く流れゆく水」部分)


転換期を迎えようとする朝鮮半島情勢を、大国の思惑を超えて南北民衆
の力で切り開きたいという文在寅の叡智と熱情と経験から学ぶものを
たくさん得ることができる一冊です。

(文在寅著 矢野百合子訳 岩波書店 2700円+税)




李箕永著 故郷

『李箕永著 故郷 朝鮮近代文学選集8』大村益夫訳


李箕永は、1925年に結成された朝鮮プロレタリア芸術同盟
(カップ)の主要メンバーで、33−34年のカップ事件による
同盟員の検挙、弾圧下にあっても「非転向」を貫きました。
長編小説『故郷』は、生命も脅かされる中、「朝鮮日報」に33年11月
から34年9月まで朝鮮語で書かれ連載されました。連載終了後一カ月
で逮捕、全州警察署に護送されるという緊迫した状況での執筆です。
舞台は、日本に植民地支配され、窮乏する農村です。農民が
小作料を巻き上げられ、それに抵抗する意識に目覚める過程が、
主題で、カップ文学の最高傑作として評価されているのですが、
この作品で目を見張るのは、自然描写や男女関係のみずみずしさです。

農民文学なのですが、韓流ドラマのように青春の恋愛物語が華やかさを
加えています。根本は労働文学ですが、この小説の最大の魅力は文章の
新鮮さ、自然描写のすばらしさ、人間造型の豊かさにあると思います。
小作人がいかに収奪されているか具体的に書いていますが、プロレタリ
ア文学が陥りがちな理念の骨だけではなく、肉付き良く、人間を書いて
います。作者は細かいエピソードも入れ、農村の人々を描くことに喜びを
抱いており、生まれつきの文才でしょう。日本の当時の農村文学より明る
い面さえ感じます。一律に悲惨だというのではなく、一人一人が悩み
うれしがり、さまざまな表情を見せます。

李箕永は日本に留学していて、モダニズムの要素も取り込んだようです。
しかし、この作品が朝鮮プロレタリア芸術同盟に対する第一次弾圧と
第二次弾圧の間に執筆され、李箕永は一次では検挙・不起訴、二次で逮捕され
一年半に渡る刑務所暮らしを送るはめになったことを考えれば、たくさんの
制約が課せられたうえでの創作だったでしょう。

それはプロレタリア文学としては、農民闘争の盛り上がりに欠ける点からも
伺えます。土地の究極の搾取者は日本ですが、中間搾取者である朝鮮人の
小作地管理人を悪人とみなしています。また、水害後の小作料免除も一揆
などではなく、管理人の私的な弱点をつく駆け引きの形で実現したのも
政治性としては物足りないです。でも、当時として農民たちが主張する様子
を表現するだけで大変なことでしょう。作者が、「当然正面から告発しなけれ
ばならなかった侵略者日本帝国主義を、あからさまに暴露糾弾することは
できなかった」と述べた苦しさを推察します。

この農民の意識化には、金喜俊という日本に留学した知識人の主人公が
重要な役割を担いますが、彼は幼い結婚により年上の妻とうまく
行かず、金儲けをしないので母親にも文句を言われるヒーロー的
でないところも明らかにされています。近代文学の定番が知識人
と庶民意識の乖離、近代化と封建制の矛盾とすると、主人公は男女
関係で最も矛盾が顕著と表現されます。政治や社会の矛盾を直接
書くのは難しかったでしょう。

最も革新的なエネルギーを体現しているのは女性たちです。
冒頭で幼い弟を子守りしていた仁順は工場に勤め、貧しい実家に
食料をもたらします。小作地管理人の父に反抗した甲淑も家を
出て工場に勤めストライキを主導し金喜俊を助けます。
方介も気に染まぬ結婚に嫌気がさし、通い女工になります。
農村では家に縛り付けられ、農作業と家同士の婚姻・出産のために
のみに生きさせられる女性が、工業化により自由な恋愛と主体的な
人生を選ぼうとしたことを認めているのはプロレタリア文学でも
稀少です。この長編小説には、女性の発言や内的な声が非常に
多く出てきます。それもさまざまに揺れ動き、思い悩み、恋愛も
肉体を伴っています。

もちろん、女工生活は苦しく、疲れ、賃金も低いものです。
日本の「女工哀史」を思い浮かべます。女工になったから、
心身とも強くなったと述べられているのは労働文学の観念性が
出ているとも感じます。近代化によりカネがすべての世の中に
なったとも作者は指摘しています。
恋愛を多く描いたのは執筆弾圧を回避するためでしょうし、新聞
読者向けのエンターテイメント性を高めるためと考えられますが、
作者の才気がそこによく出ているのは儒教道徳が根強かった朝鮮で
興味深いことです。

李箕永が日本統治下で創氏改名をせず、日本語でも書かず、解放後は
朝鮮民主主義人民共和国の文壇の重鎮として活躍したことは、共和国
文学を考えるうえで注目させられます。

(大村益夫訳 平凡社 本体3500円+税)








申鉉林

愛を忘れた男
韓成禮訳

明日の飯代も稼げないのに、飯代は泡みたいに膨らんだ
自爆テロの知らせは納税請求書のように積み上がり
生活に疲れた自殺者たちはクリーニングに服も出せずに消えていった
忘れたものがどれほど多いのか、歴史を忘れ、キスも忘れ
仕事中毒になれば愛も忘れてしまう
愛を忘れた男がセックスを忘れた女とすれ違い
セックスを忘れた男は寂しさを飛び越えようと
砂糖工場だと思って入り込んだところは苦い海だった
泣くこともできず涙も忘れてしまった
腕は足を忘れ 足は頭を忘れた
何でこれほどまでに忘れていくのか
傷のせいなのか寂しさのせいなのか明日の飯代のせいなのか

詩も聖書も読まないので
  魂の腐敗の速度はとても速かった
本が防腐剤であることも知らず、熊の胆のうや犬の肉を求めて
でたらめなことを言う男は、海にクリーニング屋があることなど永遠に忘れた
求めることがなかったので海には波が立たなかった
忘れてしまったので白い紙の束だけが空に飛んでいた
飯代が無くて飢えた者たちは地球の外に追い払われたりもした
何が大切なのか知らないままただ忘れて行った



私は自殺しなかった、一
  韓成禮訳

三十回目の誕生日に私は自殺しなかった
四十回目の誕生日にも私は自殺しなかった
カエルにシェイクスピアが理解できないように
あなたが私を理解できず
私があなたを理解できなくても
「私たち」という雲のような垣根があったので自殺しなかった

人のようにキスする山鳩を見て
人生が不思議でもっと知りたくなって自殺しなかった
コーヒーの香りと温かいご飯が本当に美味しくて自殺しなかったし
花と蝶と日差しと風を贈られ
世界に借りを返せずに私は自殺しなかった
子を育てるために自殺しなかったし
さびしい私のようなあなたを訪ねて
悲しみに嗚咽し
悲しみの終わりを見るために
私は自殺しなかった



※韓国も自殺率が高い社会です。就職難、急速なIT化、伝統的家族の崩壊、
女性の地位の低さなど生き難さが横たわっています。それでも世界や自然が
与えてくれるものに感謝して生きて行く姿はすがすがしいです。
写真家でもあって、さまざまなシーンにりんごを置いた写真が個性的で、
私の「りんご人」という変わった詩を気に入って下さって、女性新聞で
紹介して頂きました。
二〇一七年十一月一日から四日に韓国の光州で開かれた第一回アジア
文学フェスティバルで申鉉林さんと出会いました。親しみやすく、気さくな
人で、手作りの服を着て、ユニークな人生を歩んでいるのを感じさせました。

※シンヒョンリム 一九六一年京畿道生まれ。一九九〇年「現代詩学」で
デビュー。詩集『退屈な世界に、燃える靴を投げよ』『世紀末ブルース』
『あなたという詩』、児童詩集『チョコパイ自転車』、写真展『りんご畑
写真館』等と活動している。






宋竟東

些細な問いに答える
 韓成禮訳

二八歳のある日
ある自称マルクス主義者が新しい組織の結成を一緒に
やらないかと訪ねて来た
話が終わりかけたころ彼が聞いた
ところでソン同志はどこの大学出身なんですか。
笑いながら、私は高卒で、少年院出身で
労働者出身だと話してやった
その瞬間、情熱的だった彼の二つの瞳の上に
冷やかで生臭いガラスの膜が一枚生じるのが見えた
うろたえながら彼が話した
祖国解放戦線を共にすることを
光栄と思えと。
悪いが私はその栄光を共にしたりはしなかった
十年余りが過ぎたこの頃
またある部類の人々がしきりに私に
どこか組織に加入しているのかと聞いてくる
私は再び隠すことなく答える
私はあの野原に加入していると
あの海の波に押し流されていて

あの花びらの前で日々揺れていて
この青い木に染まっていて
あの風に先導されているのだと
持っているもののない者たちの崩れた塀に寄りかかっていて
蹴とばされた露店、先の切られた靴
まだ生まれて来れずアメーバのように這っている
卑賤なすべての者たちの言葉の中に属しているのだと
答える。数多くの波紋を自分の中に刻みつつ
語ることのないあの川の水に指導を受けているのだと



水槽の前で
韓成禮訳

子どもの駄々に勝てず

清渓川(チョンゲチョン)市場で買ってきた二〇匹の熱帯魚が
二日の間に一二匹に減っていた
彼ら同士新しい関係を築く過程で
殺されたり食べられたりしたのだという

関係だなんて、
生き残ったものだけの残る水槽の中は平和だ
私はこの透明な世界に耐えられない


※ソン・ギョンドン
一九六七年全羅南道生まれ。季刊文芸誌「明日を開く作家」と
「実践文学」を通して作品活動を開始。詩集に『甘い眠り』、
『些細な問いに答えよう』『私は韓国人ではない』、散文詩集に
『夢見る者、連行される』など発行。5・18野火賞など受賞。
ソウル市九老工団で労働者文学運動を行い、進歩生活文芸誌
「生の見える窓」発行。朴槿恵退陣光化門キャンピング村など
の活動をしている。

※「詩と思想」2018年7月号掲載。







金海慈

耐えられぬほどゆっくりと
韓成禮訳


大きな船が港に接岸するように
大きな愛は耐えられぬほどゆっくりと訪れる
私を導いておくれ 小さな体よ、
全身の力をすべて抜いて
引き船に引かれて行く巨大な船のように
大きな愛はそのように大人しく慎重に訪れる
耐えられぬほどゆっくりと訪れる

行けども行けども遥かな海
全速力で駆けてきたが
あなたに触れるのはこんなにも大変なのか
急ぐな
私も耐えられぬほど息をひそめてあなたに向かっている
悲しむな
この生ではあなたに少ししか触れられないかもしれない



祭り
韓成禮訳


水路をかき分けて進む幼いイワシの群れを見たことがあるか
似たり寄ったりのものたちがどうやってか言葉もなく理解し合って
皆、それぞれの場所を占めて、ある者は頭となり
ある者は腰となり、尻尾にもなりつつ一体を成し
水路を泳ぎ進んでいくたくましいイワシの群れを見たことがあるか
沖の大波をかき分けてインド洋を過ぎ南アフリカまで
途中、ある者はエイの群れの中に呑み込まれ
途中、ある者は軍艦鳥のくちばしで千切られ
途中、ある者は巨大なジンベイザメの餌となるが
死に呑み込まれる最後の瞬間までくるくると踊るように進む
十数万のイワシの群れ、最後まで生き残って次の命を生まねばならぬ
青い命たちの揺らめく舞いを見たことがあるか
一つずつ多くが集まって一体を成すのなら
一つが去り一つが生まれるのなら死とは初めからないもの
生があれほどに輝くリズムであるのなら、死もまた祭りでは
ないだろうか
永遠もまたそこにあるのではないのか


※キム・ヘジャ(金海慈)
高麗大学国文学科を卒業後、工場の組立工、仕立て屋、学習雑誌
の宅配、塾講師などを転々としながら労働者たちと詩を書き、
1998年に季刊文芸誌「明日を開く作家」で文壇デビュー。
詩集に『イチジクは無い』、『祭り』、『家に帰ろう』、『海慈の占い師』、
などがあり、民衆口述集『あなたを愛しています』散文集『私の
出会った人は皆おかしかった』、詩評エッセイ『詩の目、虫の目』
など。全泰壱文学賞、白石文学賞、李陸史文学賞、美しい作家賞など。

※「詩と思想」2018年7月号「韓国詩―平和と民衆運動」に収録。

「大きな愛」は民族の友愛や世界の愛も想像させ、「耐えられぬほど
ゆっくり訪れる」に深い認識と希望を思うのです。「祭り」には、
民主化運動のダイナミズムを感じます。





文忠誠

済州の風
大村益夫訳


誕生近くに
いや
死近くにある
のろわれた済州島の山と野
海にも 空にも
からからに乾いた畑で
仕事する農民のわきであれ
額に汗をながす これら
汗のしずくの中であれ
ぼそぼそぼそ 穴をあける 済州の風は
石塀の穴を出入りし 小さな穴で
貧しい暮らしが
ぼそぼそぼそ 開けもし
眠れない島人を揺らして寝かせ 深く
この世からあの世へと行き来させる
海に出た海女たちの船であれ
魚とりにでた漁夫たちの船であれ
行くときも帰るときも
そのそばにいる 済州の風は
路地裏で走りまわる町の子どもたちのそばであれ
学生たちが体を動かす運動場であれ
勝った 見ろ 万歳の歓声であれ
勉強する学生たちのそばにいる
太平洋で吹きすさぶ台風に出合えば
全力を出し身をこごめて立ち向かっても
一度も勝てない済州の風
顔もなく 心もなく
どんなになっても木の枝にひっかかって
薄暗闇でむせび泣く
そのとき 済州の風は
わたしの命の近くにいる


※2018年は、1948年に起った済州島4・3事件から
70年目の年です。1945年の朝鮮解放後、米国軍政
による南朝鮮単独の総選挙実施に反対した左派が済州島
で48年4月3日に武装蜂起しました。初めは小規模なもの
でしたが、大韓民国の成立を経て、支配を確かにするために、
米軍政・本土・右派が討伐作戦を繰り広げ、一般住民を
巻き込み、三万人余りが犠牲となった凄惨な虐殺事件が
起きました。しかも、この事態は長く隠され、韓国軍事政権下
で語ることはタブーでした。

在日作家の金石範さんは、大長編『火山島』を発表して
世界に知らしめたのです。在日詩人の金時鐘さんは、
4・3事件の渦中にいて、生命の危険が切迫し、
両親に日本へ送り出され、大阪・猪飼野に来られたのです。
金時鐘さんの場合は、明確に語ることははばかられる事情が
あったため、比喩の表現で詩に入れ込んでいましたが、
近年やっとの思いで話されたため詳細が分かるようになりました。

上記の詩は『風と石と菜の花と 済州島詩人選』に収録されています。
訳者の大村益夫さんは「済州島は韓国の一部であるから、済州
文学は韓国文学の中の一地方文学である。しかし、韓国の
中でもっとも辛酸をなめてきた済州島の文学は、もっとも
人間的であり、もっとも韓国的であり、そのことを通じて、
もっとも世界文学たりうるのではないかと思う」と評しています。

※ムン・チュンソン 1938年済州市に生まれる。韓国外国語
大学フランス語科を卒業、同大学院博士課程修了。1977年
「文学と知性」でデビュー。詩集『そのとき済州の風』、『家と
道』など。研究書『フランス象徴詩と韓国現代詩』など。

(『風と石と菜の花と 済州島詩人選』新幹社 2000円+税)




李麒麟


ヘアーカット

権宅明訳、佐川亜紀監修


目からアヤメが匂う
水音を聞いてもカリカリ唾が乾いた

きめ細かい指を垂らしてくれるように
眠気がする灰色のカットのリズム
髪の毛を撫でてくれた手がいく筋も散らばる

切り取っても痛くないなんて
スッスッと黒い腕が顔を横切り
首の線がはっきりした女ができあがった
静脈が青い鋏の刃のような葉を出すところなのか

向う側に水音が
乾いた風がブーンと脳内を通る音に、
首をいっぱい反らしてみて

根が澄んでいく感触だ

鏡の女は手を伸ばして日差しの当たる心臓をぎゅっと押してやる
また、髪の毛は長くなるだろう




それで 薬屋はどこに

お腹が膨らんで
サッカーボールのようにみぞおちまでせり上がり

風の穴を作ってやらなくちゃ
薬を買いに行く
スカーフを巻き

錠剤のような人たちが夕方のバスを破りながら
ポンポン跳び出してきて
痛い私のお腹をキュウキュウかすめていくのに
薬屋はどこにあるのか

頭痛に出会う
頭痛が額をこすりながら
まだもっと行かなきゃ、
まだもっと行くんだ
薬になろうとする唇と目つきが行っても行ってもわいわいしている

ここにあるんだね 灯りを消した薬屋
ドアが固く閉まり
お腹と頭が痛い
光を左右にするため 瞳がヒリヒリ痛い

スカーフがさっと落ちる
うなじが踏まれ
うなじの上下が踏まれ
どのへんがまた痛くなったら薬屋が見えるだろう

あそこにあるんだね 灯りを付けた薬屋
ドアがぱっと開き 私はすべて痛くなる
薬 薬をください
薬剤師のおばさんは首をちょっと傾け 薬剤師のおじさんを呼ぶ
おじさんはあらぬ方を見ながら 薬だよ、
色とりどりの液体を口の中へ注いでくれる

ごっ、くりと、こんなの何の味
ざあっと薬をこぼす
ぬぐってもぬぐっても水薬は
乾いた唇を舐めながら
もっと行かなくちゃ

スカーフを手首に巻きつかんで
行っているんじゃない
くるりと 頭の上に
くるりと白い
   錠、錠剤
錠、   錠 薬、    薬、
薬、薬、      錠、

灯りのついた窓から根まで
そうなの、
もっと行かなくちゃ


※李騏(イ・キリン)
1965年韓国光州市生まれ。ソウル大学国語教育科卒業。
2011年『詩評』に「サファリを通り過ぎている」他3篇でデビュー。
現在、ソウル瑞草高校教師。マニラ、ジャカルタ、モスクワ等に居住していた。
「12プラス同人」。
(「コールサック」93号掲載)

※日常のできごとを違った角度から見て、不思議な想像力を
膨らませています。不気味な夢の中のようなシュールな詩です。






黄鐘権

完璧な足跡

韓成禮訳

歩みを呼ぶ場所はいつも水の中だった
波が包帯のようにほどけてきて
畳んだ靴下が先ず濡れたりもした
空っぽの腹の中
風が積もるたびに子どもたちは一人ずつ風船を手放した
集団死をした魚の目が光った もしかしたら
近くから歩いてくる眼差しは
瞳ではなかった
歩くのを我慢した
暗闇は足の甲から膨れあがった
歩みも長く耐えれば水圧を持てるようになるのか
膝がぐらぐらと沸き立った
顔が簡単に
赤くなっていた
鏡を見れば
熱いひれがはためいた
結局きれいなものは一つも無かった
逆に歩いて行くおばさんたちと出くわすたびに
人は自分の背中だけを追い駆けながら生きていくように
思った
渡れない底はいつも足の甲
靴を脱げば
川の水に突っ込みたかった
なぜ人は頭から出てきたのに足で歩くようになったのか
顔に死んだ魚たちがあふれ出ていた
棺の中に頭を突っ込みたくなる時が頻繁になり、いつも
顔ほど完璧な足跡は無いと思っていた

(「舟」岩手県滝沢市・編集発行人大坪みれ子170号より)


※「顔ほど完璧な足跡は無いと思っていた」とはおもしろい発見です。
人生が顔を作ると言われますが、生きて来た足跡とも考えらえます。
「なぜ人は頭から出てきたのに足で歩くようになったのか」これも根本
的な疑問ですが、背景に文明に対する批判を感じます。二本足で歩くこと
が人類文明の起源で、「歩みを呼ぶ場所はいつも水の中だった」のように
海中から陸上歩行への意志が始まっていたとすると実に不思議です。

「集団死をした魚の目が光った」「顔に死んだ魚たちがあふれ出ていた」
という生命の源である海を破壊する人間たちの理不尽さを超現実的な
イメージで表現しています。「波が包帯のようにほどけてきて」も傷ついた
海を斬新な感覚で捉えています。作者は若い世代ですが、文明批判と表現力
に注目すべきものがあります。

黄鐘権(ファン・ジョングオン) 1984年全羅南道麗水生まれ。
2010年 慶尚日報新春文芸で詩部門に当選し、文壇デビュー。
2013年 韓国芸術委員会が次世代芸術人材に選定する。
2016年 第五回世界文学祝典大統領賞受賞。
2016年 第18回麗水海洋文学大賞を受賞。




陳恩英

エバ

権宅明訳 佐川亜紀監修

朝が来たらあなたは起き上がって
アルミの鍋の中で沸き返っているアップルジャムのように
悲しみを煮込む準備をするだろう
庭には終日目を開けて死んでいる夢があるだろう
柔らかい夜の眉が降りてきて安らかに閉ざしてくれるだろう

あなたのベッドに行けなくて
観念の丸い肩に頭をもたれて一つの種を植えるだろう
青いリンゴの月は
浅い眠りのか細い葉たちの間で浮かび上がり

夜明けが老いて痩せた手で
リンゴを一個採ってきて暗い窓辺に置く
老婆が露で鍋を洗う間 あなたは起き上がり
心は軽くなるだろう
沸き返る油の中で浮かび上がる小麦粉の練り物のように




詩の子供は

―李箱の79周忌を迎えて

ながくなったかなしみのこども
しがつのかみそりがちょうのようにあおいそらのはだを
ひらひらときりながらとんでいくね
はりかえたばかりのかべがみのようにあかるく凶のない
そらがわたしはいちばんこわいよ
ふるいちとふるいしとふるいじかんのながいうらめんへ
こどもがかくとりのむれのようなもじたちがこわれながらとんでいくね



※李箱 (イ・サン1910〜1937)モダニズム詩人・小説家
として有名。渡日時、東京で検挙されて保釈後に死去。現在も李箱
文学賞として顕彰されている。作品では韓国語の分かち書きを無視
した書式を採ったこともあり、本詩もその書式にならっている。

※李箱の詩に「詩第一号」の題名で「十三人の子供が道路を疾走する」
「第一の子供が恐いという」から「第十三の子供も恐いという」と
続くモダニステックで異様な詩があります。李箱は以前に紹介しましたが、
韓国で先鋭的なモダニストとして今も敬愛されています。


陳恩英 チン・ウニョン
1970年韓国大田生まれ。梨花女子大学哲学科を卒業し、同大学院で
ニーチェとNagarjunaを比較した論文で、博士単位を取る。2000年
に『文学と社会』で登壇し、『七つの単語になった辞書』、『我らは毎日』、
『盗んでいく歌』等の詩集と、文学理論書『文学のアトポス』と哲学書
『ニーチェ 永劫回帰と差異の哲学』等を刊行した。現在、韓国相談大
学院で文学カウンセリングを教えている。

(日本・韓国・中国 国際同人誌モンスーン 2017年12月2号より)








ト・ジョンファン『満ち潮の時間』

立葵の花のようなあなた

ユン・ヨンシュク・田島安江訳


とうもろこしの葉に雨粒が落ちます
今日もまた一日を生き永らえました
落ち葉が散り北風が吹くまでの
私たちに残された日々は
あまりにも短い
朝 枕もとにごっそり散らばった髪の毛のように
あなたのからだから命がするりと抜け落ちていきます
種子が実になるまで
まだずいぶん待たねばならず
あなたと私がいっしょに耕していかなければならないはずの
広く荒れはてた畑はそのまま残っているというのに
畦道を覆う姫女苑と雑草の傍ら
しばし呆然と屈んではまた立ち上がります
薬すら思うように買えない
貧しい所帯を共にやりくりしながら
あなたは虫一匹むやみに殺すことなく
意地悪な顔など一度も見せることなく生きてきました
それなのにあなたと私が受け入れなければならない
残された日々の空は
果てしなく黒い雲におおわれています
初めのころは立葵の花のようなあなたを想うと
崩れ落ちる壁を支えているような
どうしようもない絶望に身震いしました
だがこれは 私たちにこれからも精いっぱい生きるようにと
今まで生きてきた日々に恥じない生き方をしなさいという
最後の言葉として受け止めなければならないのだとわかります
私たちが捨てられずにいた
何ほどのものでもないプライドだの栄誉だの恥辱といったものまでも
今はためらいもなく捨て去りましょう
この心のすべてを もっと辛く悲しい人と分け合う日々が
こんなにも短くなったのが悔やまれ
残された日はあまりに短く
残された一日一日を最善に生きる方法を
膿み腐った傷に 私たちが
あらん限りの力をつくして立ち向かうことなのでしょう
より大きな痛みを抱えたまま死へと向かう人たちが
私たちの周りには いつでもたくさんいるというのに
私ひとり肉体の絶望と病に倒れてしまうなんて
悔しく悲しいばかり
オンドルの床に敷かれた油紙のように 黄ばみ衰えていく顔を見ていると
こんなこととても口には出せないけれど
もし最後に 体のどこかに まだ健康なところが残っているなら
それがないと生きていけない誰かに
そっくりさしあげてから逝くことにしましょう
肉体のどの部分でもよろこんで切り取ってあげられる人生を
私も生きたいと思います
とうもろこしの葉を打つ雨音が大きくなってきました
また夜がひとつの闇の中に消えるけれど
この闇が終わり 新しい夜明けが訪れるその瞬間まで
私はあなたの手を握りずっとそばにいます


※ト・ジョンファン詩人は詩集『立葵のようなあなた』がベストセラーになり
人気が高い詩人です。愛妻がガンに侵され、亡くなる前後を哀切につづり、
感動を呼びました。また、全国教職員労組が活動を始めたころ、
教育運動に献身し、そのために免職と投獄を経験し、
民主化運動を闘い続けたことでも尊敬されています。
文在寅政権で文化体育観光部長官に就任し活躍しています。
第一回アジア文学祭にも来賓し、祝辞を述べました。
「ノーモアフクシマ」も含む主要作品を網羅したアンソロジーです。

(ユン・ヨンシュク・田島安江編訳。書肆侃侃房2000円+税)














第一回アジア文学祭


2017年11月1日から四日まで、光州で第一回アジア
文学フェスティバルが、アジア文化院の主催で
詩人・高銀を 中心にして開催され、
私も参加しました。 光州は、民主化闘争の地として有名です。
今回のテーマは<アジアの朝>で、以下の趣旨文は日本人に
とって考えさせる内容です。

「韓国詩人がアジアに向けて詠った最初の詩は<アジ
アの夜>でした。国境の向こう側を真っ暗な闇と考え
る昔の韓国人の感情は、友も隣人も見えない植民地時
代を経験して習得されたものです。しかし、私たちは
戦争と分断と独裁の中で詩を学び、無限の競争に満ち
た文明と制度の中で愛を育てながら、抑圧と暴力に満
ちた現代理念の刑務所を出て世界中のすべての生きた
精神と手を取ろうと夢見てきました。

今も私たちは相変らず分断の苦しみの中でまさに人
間の犯した地球的な災難の最大の元凶である核と原発
の人質となった現実を直視し、詩は天上ではなく、地
獄に足を踏み入れているという考えから離れられませ
ん。そうして私たちは生命の別名であるこの詩が、世
の中の弱者たちの生きる道を捜して旅立って、結局は
足場がなく再び流浪民になってしまっても、胸を痛め
る大地の草と一緒に踊ろうと希望します。そして私
たちはこの詩を朗読する声が、今日も丘を超える蟻の
群れとともに、つらい生涯を渡っていく地上の全ての
苦痛を知る者たちの耳に届くことを願っています。

韓国現代史の抑圧と差別に抵抗してきた都市光州で、私
たちは新しい<アジアの朝>を夢見て文明の廃墟に咲い
た花のように人類の精神史的伝統と、希望を持った詩を
朗読される声を聞こうと思います。光州は韓
国語で光の町という意味を持っています。闇の中でも、
いつも目覚めている伝統を持つこの光の都市で
文学を祝祭します。
(翻訳・韓成禮)」


11月1日午後にまず「国立五・十八日民主墓地」を文学祭
参加者たちが訪れ、祈りを捧げました。広大な敷地、
整然と並ぶたくさんの民主化運動で犠牲になった人々の墓、
美しく立派なモニュメントに驚きました。民主化運動の
一般人犠牲者たちを「国立墓地」に埋葬することは日本の
歴史ではなかったでしょう。

高銀詩人は、墓石をなでたり花を供えたりしながら、
埋葬されている人について人生を味わい深く語りました。
一緒の墓に埋められた恋人たちもいます。戒厳令軍と闘
った人々がたてこもった建物も記念館として保存されて
高校生の写真もありました。映画で見たデモ隊と軍がぶ
つかる十字路は想像以上に幅広いです。映画のあれこれの
シーンと重ねて当時の銃声や怒号が聞こえてきそうでした。
死者を顕彰するだけでなく、幼子から老人まで一般庶民が闘
う民主化運動を文化として根付かせる意志を感じます。

4日には高銀の詩に登場する無等山にみんなで上りました。
高銀先生は一九三三年生まれで八四歳ですが、杖も使わず、
さっさか歩かれます。途中までバスで上りましたが、山頂付近や
竹山をひょうひょうと回り、皆に歴史を語る姿に圧倒されました。
無等山は文禄の役で日本軍が押し寄せたときや、近代の
植民地支配や解放後の独裁政権との闘いでも民衆を
守る山として有名な所です。元来、神の山です。
高銀先生は無等山は皆等しく、等しいという観念もなくなる所だと
説きました。

二日から四日までの講演やシンポジウムが行われました。
今回の通訳と翻訳に関しても韓成禮さんのお世話になりました。
特別招待作家の筆頭は、ウォーレ・ショインカ(ナイジェリア)。
一九八六年にアフリカの作家として最初のノーベル文学賞を
受賞した詩人・劇作家・小説家です。「黒い大陸を告発した
黒人文学の勝利」と言われます。4日の高銀詩人とのシンポジウムで
興味深かったのは、高銀がアジア文化の個別性を強調したのに対し、
ショインカが普遍性にこだわったことです。ショインカも
アフリカの根を大切にしていますが、普遍性も必要なのでしょう。
ここには文学の深い問題が存在します。

この文学祭で一番インパクトを受けたのはインドネシアの
女性作家、アユ・ウタミです。1968年生まれで、小説『サ
マン』(1998年)が広く知られています。ジャカルタで育ち、
一九九四年にスハルト政権が三つの雑誌を発売禁止にしてから
他の新世代ジャーナリストと共に独立ジャーナリスト連盟を結成し、
民主化活動家と連携して地下活動を行いました。生き生きした表情と
力強い口調、流暢な英語で社会現実とかかわる文学を語りました。
とても美しく意志的で新世代のアジアの表現者として輝いていました。
私も、日本と朝鮮半島の歴史と現実について話し、女性ふたりが
文学と現実社会の関係を重視したのはおもしろい一致でした。

韓国の詩人、李相国さん、李時英さん、申鉉林さん、金海子さん、
済州島の詩人、金セシリアさん、許栄善さんにもお会いできて
うれしかったです。
申さんは写真家でもあり、りんごがある風景をシリーズ化している。
私の「りんご人」という詩を「女性新聞」に紹介して下さるそうです。

光州の居酒屋で二十人位の詩人と一緒に飲んだのも楽しい思い出です。
このような飲み屋で民主化運動の希望を語り、弾圧を耐え、
激論を交わし、歌いながら進めたのだろうと思いました。






2017平昌韓中日詩人祭(2)

新羅の笑みをたたえた顔 
―古代韓国の首都慶州から出土した新羅時代の欠けた一つの面

北塔(中国詩人。韓国語訳からの佐川亜紀訳)

時が二千年かけて
古代の顔の面影をかすめ取ったが
しかし あなたの微笑みは
相変わらず人の心を揺り動かす

この微笑みが一艘の小舟のように
歴史の風浪を耐え
生死にかかわらずすべてのことを忘れさせ
死さえもそれをどうすることもできないようにした

一つの王朝の胴体が腐った後
我々に残されたのはただ一つの顔の面影
手を覆った土が掘り返される時
再び日光を見たその手腕もまた埋もれてしまうのだろうか

この微笑をたたえた面影は
もうこれ以上どの王朝にも属さないだろうから
人それぞれ皆顔に載せて
自分ひとりで人生の大海に向き合うのだ




北洋航路
呉世栄
李国寛訳

厳冬の寒さ、
暖炉に火をつけながら、ふと
極地を航行する
夜の海の船舶を思う。
燃料はもう底を尽き始めたが
私は
ボイラー室で石炭を燃やす
この船の一介の老いた火夫
古い蒸気船一隻を率いて
果てしない時間の波に逆らい
ここまで来た。
外は吹雪。
まだ室内はぬくもりを失ってはいないが
出航時のときめきが去ってからすでに久しい。
目的地は未定、
航路は離脱、
信じられるのはただ北極星、十字星、
壁に吊るされた十字架の下で
でたらめな海図一枚を手に取り
暖炉の光にかざして見ている目は暗いのだが
細長い白い煙を火筒へと吐き出しながら
北洋航路
凍り付いた夜の海を漂流する、
生は
一軒の揺れるあばら家。


*北塔さんの詩は、二〇一七年九月十六日に朝鮮半島の
軍事境界線近くの臨津閣展望台の中で「平和の詩朗
誦」として朗読された作品です。時と権力を超えた笑みが
心に染みます。
呉世栄さんの詩は、二〇一七年九月一五日の「詩が流れる
アリランコンサート」で朗読された作品です。凍り付く
夜の海を漂流する古い蒸気船の「老いた火夫」と自分を
捉える透徹した省察と詩人としての熱い矜持を感じます。
*下記は、「東京新聞」二〇一七年十月五日に掲載して頂いた
文章です。


平和をめざす詩の力を信じて
  ―韓中日詩人祭に参加して   佐川亜紀

九月十五日の朝は、北朝鮮のミサイルがまた通過し
たと日本では大騒ぎだったらしいが、韓国の平昌では
何事も無く静かに詩人祭の二日目を迎えた。翌日には
軍事境界線に近い臨津閣平和公園に行ったが、たくさ
んの人たちが散歩し、遊園地では子供たちがはしゃぐ
姿に驚いた。それだけに戦争をあおるような日本政府
の態勢が異様に感じられた。日本は朝鮮半島支配の歴史
と分断に責任があり、南北の和平にこそ力を尽くすべ
きなのに、いつの間にか被害国の立場に自らを置いて
いる考え方が、かつての自衛のための戦争を思わせ恐
ろしい。

詩人は今なにができるだろうか、と焦る気持ちを抱
きながら、十四日から十七日まで韓国で開催された「
2017平昌 韓中日詩人祭」に招かれて参加した。
平原五輪のメイン会場の一つのアルペンシアリゾート
で開かれた。

韓国詩人協会(会長・崔東鎬)が主催し、日本から
十九人、中国から十五人、韓国代表詩人百人以上が参
加して、開会式には約二百人の詩人たちが集まった。
日本の顔触れは若手詩人の石田瑞穂さん、杉本真維子
さん、韓国で翻訳詩集が出ている柴田三吉さん、細田
傳造さん、韓国詩を訳しているなべくらますみさん、
北海道出身の麻生直子さん、沖縄の大城貞俊さんら。日
本詩人の詩選集や通訳には翻訳家で詩人の韓成禮さん
らの尽力によった。

東日本大震災に対して祈りの詩を書いた韓国の長老
詩人、金南祚さんは「暗い時代に人間の価値を一緒に
回復しましょう」と挨拶。各国代表の講演では、韓国
の呉世榮さんが「今、東アジアでは国家間の利益の追
求による葛藤の波が高まっている。しかし詩人は国家
の利益よりも、民族の利益よりも、人間の利益を擁護
する先頭に立つのだ」と力説された。韓国詩人が強調
したのは、詩が国家や民族を超えて人間として共感し
、人類の問題を悩み、普遍的な価値を追求するものだ
という点である。

中国代表の呂進さんは「詩は親和力と社会性を増す。
根が一緒の同胞なのに争うのは愚かしい。二十一世紀
は世界詩の重点が西洋から東洋に移る転換点だ。私た
ちは人類を調和させる芸術的原動力になりましょう」
と協力を呼びかけた。

日本代表の石川逸子さんは「詩の力を信じて」と題
して、戦争を体験した世代として歴史を省みた。石川
さんは、日本人被爆者ばかりではなく韓国人・中国人
被爆者を記録し、詩集に編み、日本の加害の面に目を
開いた著作『日本軍「慰安婦」にされた少女たち』(
岩波ジュニア新書)は韓国でも翻訳出版されている。
長年の地道な仕事に基づく深い話に、韓国、中国の、
特に女性詩人から熱い共感を得た。アジアの声を聞き、
詩作し続けた誠実さと鋭い知性、柔らかい感性が詩の
力を生み出したのだ。

十五、十六日のシンポジウムでは詩人祭の三つのテ
ーマ「平和・環境・治癒」をそれぞれ討議した。
十六日の夕方には臨津閣展望台の中で「平和の詩朗
誦」として韓国の金炯榮さん、中国の北塔さん、日本
の天童大人さんが声を響かせた。北塔さんの詩「新羅
の笑みをたたえた顔―古代韓国の首都慶州から出土し
た新羅時代の欠けた一つの面」の終連「この笑みをた
たえた面影は/もうこれ以上どの王朝にも属さないか
ら/人それぞれ皆顔につけて/自分で人生の大海に向
き合うのだ」が心に残った。  
(「東京新聞」2017年10月5日夕刊掲載)








2017平昌韓中日詩人祭(1)


熱愛
慎達子

吉村優里訳

手を切ってしまった
赤い血が長く我慢したかのように
世界の青い動脈の中へとぽたぽた垂れ落ちた
よかった
何日かはこの傷と遊ぼう
使い捨ての絆創膏を貼ってはまた剥がして傷を舌で撫で
かさぶたを取ってはまた悪化させ
つまみ食いするように少しずつ傷を怒らせよう
そう、そうやって愛すれば十日は軽く過ぎるだろう
血を流す愛も何日かは順調に持ちそうだ
私の体にはそういう傷跡が多い
傷と遊ぶことで老いてしまい
慢性リウマチの指の痛みもひどく
今夜はその痛みとごろごろ転がりまわろう
恋人役をしよう
唇にぎゅっと噛みつき
私の愛の唇がぷちっと腫れて破れて
誰が見ても私、熱愛に落ちたと言うだろう
最高だ

※シンダルヂャ 1943年慶尚南道居昌生まれ。『奉献文学』
『白痴の悲しみ』。


二〇一七年九月十四日から十七日まで韓国で開催された「2017平昌
韓中日詩人祭」に招かれて参加しました。平昌は二〇一八年の冬季オリ
ンピックが行われる所で、詩祭はメイン会場の一つのアルペンシアリゾ
ートで開かれました。平昌は緑豊かで穏やかな地方で行きのバスから
赤牛がのんびり草を食べているのが見えました。韓国はソウルもふつう
通りで、北朝鮮ミサイル発射で騒ぐ様子は特にありませんでした。
とは言っても、韓国軍が米軍と合同軍事演習し、年数回、市民の避難訓
練が行われているのも現実です。しかし、日本は過剰に反応し、電車を
止めるまでしているのは異様です。これを機に憲法まで改悪しようと
誘導するのはかつての戦争と似ています。
歴史的には敗戦国のドイツが分断されたように日本が分断されるはず
だったのに、朝鮮半島が分断されて今日の事態が生まれているのです
から、日本は和平にこそ力を尽くすべきです。

さて、詩祭には、日本から十九人、麻生直子さん、石川逸子さん、
石田瑞穂さん、大城貞俊さん、大坪れみ子さん、柴田三吉さん、
杉本真維子さん、田島安江さん、天童大人さん、飛田圭吾さん、
中本道代さん、なべくらますみさん、萩原健次郎さん、細田傳造さん、
堀内統義さん、紫圭子さん、望月苑巳さん、谷内修三さん、私が参加。
大城貞俊は台風に遭いながら沖縄から駆けつけられました。
開会式の様子などは「東京新聞」に掲載予定です。

詩人祭の三大テーマは「平和・環境・治癒」で、15日のシンポジウムで、
私は「治癒」の部で、「詩は癒しになりうるのか?」と提起しました。
韓国の慎達子さんは「内なる子供を詩でなだめる成人自我」との題で内面の
傷と和解の可能性を話されました。上の詩のように「傷と遊ぶ」
「痛みの恋人役をする」という境地になるたくましさに圧倒されます。
中国の王家新さんは「書くこと、傷と治癒」との題で、アウシュビッツ
体験と書くことについて述べられました。王家新さんはパウル・ツエラン
についての著作があり、偶然にも私が第五回を受賞した昌原KC国際詩
文学賞の四回目の受賞者でした。詩が治癒になるかどうかは、非常に難しい
問題です。私は社会派なので、歴史の問題に触れましたが、純粋詩の
立場では芸術は何かのためではなく無償性や遊戯性の中にこそ治癒が
あると考える詩人もいます。また、若いネット世代では、生の希薄感や
ネットでの治癒を感じる人もいるでしょう。短時間の話し合いでしたが、
いろいろな観点を知ることができました。







チョ・オヒョン


枕木

韓成禮訳

どんなに暗い世の中に出会って押さえつけられて生きたとしても
用の無い時は捨てられるとわかっていても
私は長い歴史の軌道に身を投じた
一片の枕木であり、年代なのだ

永遠の故郷として最後まで残るべき
太白山のふもとで腐っていく切り株よ
生きていく日々に地軸の揺れる震動もあった

見るがいい、生きるためにだけただ生きるために
どれほど真実だったはずの骨が折られたか
どれほど多くの人々がひそかに埋もれて暮らしているか

それがまさに君臨による労役だとしても
ややもすれば崩壊してしまう沈みゆくこの地盤を
最後まで支えた者があり
天があり、歴史があるのだ



光りの波紋

韓成禮訳

天にもない天の話の出ばなをくじいて
碑石からふらりと彷徨い出て、今朝死んだ男
では女も、死んだあの女も碑石から彷徨い出てきたのか

あお〜い色だ きいろ〜い色だ
あか〜い色だ まっくろ〜な色だ
宝石も、千個の宝石でさえ持てない色だ

無数の死の中に色たちが向かっている
生がついていけば気絶してしまうそれ。
私の眠りを奪って生きる幽霊、そんな幽霊だちだ。



※チェ・オヒョン 1932年慶尚南道生まれ。僧侶詩人。
1968年「時調文学」でデビュー。彼の尽力で建設された
万海村は国内外を問わず大きな文学的行事が開催されている。
詩集に『山に住む日に』『寺の物語』など。現代時調文学賞、
鄭芝溶文学賞、DMZ平和賞大賞など受けた。
※戦後70年、日韓国交正常化50年記念アンソロジー
『隣人への挨拶状』(編訳・韓成禮。詩・田島安江など)から。




























メール アイコン
メール
トップ アイコン
トップ


ウォーター