ウォーター

韓国詩のコーナーY


目次



高銀

呉世栄

崔泳美(2)



詩選集『新しい風』 『21世紀日韓新鋭100人詩選集』

1950年以降生れの日韓の詩人のアンソロジーが
書肆青樹社より出版されました。訳者は韓成禮氏。

鏡を見る
延王模(ヨン・ワンモ)

水蒸気がいっぱいの浴槽の壁面、
あちこちに
水滴ができている
互いに体を合わせて大きくなって行く姿
遠い道もずっと寂しくないように

干からびた土壁の中に、
熱い空気がいっぱいだ
鏡の上に落ちる汗のしずくがラクダとなる
澄んだ泉の水と椰子の木蔭と実の中の枯渇を風景のよう に過ぎ
ラクダはひとりでからだを立てる
歩いて行けばどこかでからだが涸れるだろう
一つ一つの毛が砂のように軽く
風に群れをなし飛んで行くだろう
ラクダはひとりで行く
地を踏んで
からだに生えた毛と同じ色の
砂粒を見る

*(ヨン・ワンモ)1969年ソウル出身。
1994年《文学と社会》誌、夏号で文壇デビュー。
1998年「現代詩同人賞」受賞。
詩集『犬たちの予感』。


12の空いた椅子
金秀映(キム・スヨン)

貧乏人コフは椅子を十二個も持っていた
彼が一回も座っていない肘掛けがついた椅子たち
パイプを載せた古い麦藁椅子は
私の部屋の隅に掛っている

食事を抜きつつ用意した新しい椅子
彼は誰を待ち椅子を空けておいたのだろうか
真夜中に靴を引きずって家へ帰る
老いた鉱夫のために
薄暗い食卓を囲んで座りじゃがいもを食べる
農夫のために
風を遮るために植えられた
サイプラスの木のために
窓を開くように私の胸をぱっと押し開く
ひまわりのために

そして、一枚窓から入ってくる星明かりを眺める
彼自身のために?
どんな姿ででも彼らは椅子に座って
イエス様の十二弟子のように彼を取り囲んで
地上で最後の晩餐を待っている

彼が招待した客たちを私はよく知っている
私の心の寂しさが呼んだ客たちである

*(キム・スヨン)1967年慶南馬山生まれ。1992年『朝鮮日報』
新春文芸で文壇デビュー。1996年『ロビンソンクルーソーを思
って、酒を』。深い内面と確かなイメージ造形力は一級。有望な
若手。

上に紹介した韓国1960年だい後半の優れた詩人も多く紹介され、
日本の新鋭詩人も幅広く収録した貴重な詩選集。(¥3500)





河在鳳


ビデオ/TVはぼくの目
佐川 亜紀

TVはぼくの目

セックス、うそっぱち、そして
社会的暴力ならびに性的不安を組成する疑いで
逮捕されちまった
統制不可能な想像力
母の子宮の中に ぼくは六十年間の旅に出る
もつれた世へぼくを返すのは
闇市で買った不法
ビデオテープ



ビデオ/パーソナルコンピューター
佐川 亜紀訳

ぼくの思考は16ビートコンピューターのスイッチを
押す瞬間から作動させられる
モニターの緑色の画面に明かりがついて
脳下垂体の分泌物が許容量を超えて
赤信号がともるまで
キーボードを叩くぼくの手は黒い
羽化できない欲望と
道徳的観点から非難をあびせて当然の
ぼくの個人的生の痕跡は
コンピューター・ファイル[削除]のキーを
押しさえすれば消える
ぼくの一日はコンピューターの
スイッチを入れること
そしてたえまなく記録し記憶を貯蔵させること
世界は、手の中にあるんだ
ぼくはコンピューターの端末機を通じて
地上のあらゆる都市と
地下の太陽そして未来の胎児にまでつながる
ぼくの両目は明るい光をつけているTV
ぼくの心臓は巨大に回転している工場の発電室
あらゆるものはパーソナル・コンピューターのスイッチを
押さないと動き始めない
電気を供給するのはしかしあなたの意志
ぼくは、ぼくの身体のなかにパワーを
供給してくれる誰かによって飼育されている

*河在鳳(ハ・ジェボン)1957年〜。詩集『ビデオ/天国』
(1990年文学と知性社刊)韓国では、日本よりPC,ネット
が普及しています。「産業化は遅れたが、情報化は先を
行こう」のスローガンのもと、IT社会に驀進しています。
PC房というインターネットカフェがあふれ、日本にも上陸
しました。詩にもPCや情報機器を題材にした作品が日本
よりずっと多いです。
しかし、IT社会を無批判で礼賛しているわけではありま
せん。河在鳳のようにいかに人間が情報機器、IT社会
に支配さているか自己客観的に書いて、認識していま
す。日本では、PCでどういう詩が書けるか、などもっぱら
言語芸術の道具としてとらえているのに対し、韓国では
文明批評的に書かれています。言葉の日本と、批評の
韓国の違いがおもしろいですね。


高銀
微風
権宅明訳

長々とした鳴咽が終わったのだ
夕暮れの海上
小さくなれ
小さくなれ
もっと
無人島が幾つか可愛らしく
そこに何も言わずにいるのだ

無人島と無人島の間
何も言わないのだ
なんとも幸いなことなのか
波打つ音 燃え上がる大きな夕日の影に盲になって




サリッヂェを越えて行きながら
権宅明訳

あのはらはらしながらぶつからない隣人と隣人
お互いに固く口をつぐんた山々をちょっと見ようよ
全羅北道茂朱のサリッヂェを越えて行きながら
冬の陽はとうに沈むべきだったろう

ただ若い婦人
消えた蝋燭の火半分くらいか
かえって泣きつづける幼児をうんざりして抱いたまま

クムサンのチュブからだったろうか
ジョブタからだったろうか
いくらあやしてもあやしても
止まらないその泣き声だけがいまだに満ちているのに

いったい三、四歳の子供に
何と永い苦しみと悲しみのお客様が巣くっておられるというのか
茂朱の寒い火影がこの世であり
他の世はてんでないまま

*高銀(コ・ウン)1933年・全羅北道生まれ。
1951年中学校教諭として在職中に出家。
12年間僧侶生活を送る。1958年から詩を
発表し、1960年の4月革命から社会派参
与詩人として積極的に活動する。投獄4回。
詩集に『万人譜』『祖国の星』(新幹社)など
多数。長篇小説『華厳経』も日訳されている。
韓国の代表的参与詩人として知られている。



呉世栄
FONT size="+3">

悲しみ

なべくらますみ訳

雨が晴れた後
窓を開けて見れば
遠い山は親しく近寄って
かげっていた山の色はいっそう青い
そうではないか
一降りの涼しいにわか雨
汚された大気 その朦朧とした視野が
あんなにすっきり磨かれた
だからわかった
空は神の悲しい顔
なぜ彼は時々泣いて
その網膜を
青く磨かなくてはならないのかを
今日も
目がくもる私は
たしかな愛を求めるために
これから
一つの悲しみをもたなくては


蓮の花
なべくらますみ訳

火が水の中でも燃え上がるのは
蓮の花を見れば分かる
水に燃え上がる火は冷たい炎
火は瞬間で生きるけれど
水は永遠に生きる
愛の道が暗くて
誰か肉体を焼いて火を点ける人がいたら
一咲きの蓮の花を見せて上げなさい
燃え上がる肉体と肉体が犯す
火ではなく
冷たい目つきと目つきが照らす火
蓮の花はなぜいつも静かに波紋だけを
水面に描き残しておくのだろうか

*呉世栄(オ セヨン)1942年生まれ。
ソウル大学校人文大学国文科教授。
1968年、『現代文学』の推薦を受けて
デビュー。詩集『反乱する光』、『無明恋
集』など。繊細な感性は事物の悲しみに
敏感。透明な知性知性が新抒情を創り
出した。
*なべくらますみ。韓国詩の訳や朗読で
活躍。毎年、調布で韓国詩の朗読会を
開いている。詩集『同じ空』『城の河』。

崔泳美(2)


土曜日の夜の初刊編の神

すべては指から始まった
ふるえる手の親指が神の緑のボタンに触れる瞬間
世界があなたの前で踊り出す
はじめにお言葉があった
第二次世界大戦の爆音に大学歌謡祭がかぶさって
アンコールの拍手の終わりにどこかで夫が妻を殺害する
陰謀をたくらんでネクタイをもう一度しめる
パリファッションの誘惑から韓国車の自尊心まで
数瞬間に地球を何周回るくたびれたあなた
土曜日の夜の神は緊張を解いて忠告する
ビールを飲んで
香水をふりかけて
ランドローパをはいて
それでくたくたになりながら皇帝に捧げる雌黄の強壮剤
もう一度地球をショッピングして誘惑する
よい言葉が入るとチャンネルを変えろと脅す
その夜はそのように終るかもわからない
あなたをリモートコントロールする初刊編の神と
取り組みながら
スイッチを消す今夜
寝床に横たわる眠い眼をあけている
予約録画にならない本当の孤独と恐怖に
出し抜けに襲われたら
どんな夢であなたはそれを追い払うだろう


夢のペダルを踏んで

私の心 あの月のように蹴り上げるのに
あなたが積んだ石垣を越えられなくて
夜明けごとに流産する夢を求めて
捕まえられない手であなたを手探りして
しゃべれない舌であなたを呼ぶ
ひそかに愛をはぐくんだ夜が深くなっていくのに

夢のペダルを踏んであなたの所まで行けるのなら
くだらない星たちの誘惑を払いのけてもよかった


私の詩の運命

ずいぶん退屈で
“そして”が“しかし”に文句をつける
・・・・・・・・・・・・・・・・
争いがめんどうで
言葉の省略記号で心は君、君たちを捜す
五月の光が十月の風の間に生まれた私生児のような
言語たち
アハハハ、白紙に卵をかえす

*崔泳美の第2詩集『夢のペダルを踏んで』
(1998年・創作と批評社)から訳出しました。
崔泳美の詩は、現在の若者の感性をいきい
き捕え、軽く醒めた言葉で鋭い知性を表して
います。社会と争うことが面倒になって、詩も
従来の伝統から切れ、私生児のようになっ
ているのは、日本の若い層も同じでしょう。




メール アイコン
メール
トップ アイコン
トップ



ウォーター