1962年生まれの権大雄(クオン・デウン)は、 擬声語を効果的に使って、農村や地方から都会に出てきた人たちの悲しみや複雑な心を書くのがうまいです。 1987年に「詩運動」を通じて登壇。(韓国では、詩壇がしっかりあります。)1988年朝鮮日報の新春文芸 にデビュー。(韓国では、多くの新聞や雑誌で詩を募集し、新人を発掘します。日本では、この機会が少 ないので新人も出にくい。)代表詩集『ろばの夢』です。 ポックギ ポックギ かっこう 権大雄 佐川 亜紀訳 家へ向かうとかっこうの声が聞こえた ビルとビルの森の間 場所を移しながら 姿は見せず 声だけが聞こえてくる バスの中でも ひっきりなしに かっこうの声がついて来た 車窓の中へ 丸い吊り革の中へ ツクツク跳ねて出て こんなかっこうだらけの世の中 門に鍵をかけて閉ざしても しつこい時計の秒針のように ポックギ ポックギ かっこうの声が 骨髄に 耳の中に 染み込んで ああ、都会ではなぜこんなにかっこうが多いのか かっこうの声を聞きたくない かっこうの声を聞きたくない かっこうの声を聞きたくない 首を振りながら叫ぶが いつのまにか僕の声がかっこうの声になったみたい ポックギ ポックギ ポックギ もしかしたら かっこうは僕の中にいるんじゃないか 心臓の中に 血管の中に 喉彦の中に 全身くまなく生きているおびただしいかっこう 夜更けて安眠を破ってかっこうの声が響く 本当に僕は一羽のかっこうみたいだ 知性派の崔勝子 崔勝子(チェ・スンジャ)は1952年生まれで、1979年に文芸誌『文学と知性』 にデビューして以来、最も活躍している中堅の一人です。韓国の 詩人の年齢層は、1950年代、60年代生まれも日本よりずっ と多いです。崔勝子は知性的で、自己を覚めた目で見つめた詩が主で 翻訳書に『死のエレジー』や『自殺研究』があり、ペシミステイック な虚無感も漂いますが、ユーモアや風刺が効いていて暗い情緒に溺れ ません。 ふいに詩が恋しくて 崔勝子 佐川 亜紀訳 ふいに詩が恋しくて 文字を書いてみる 文字を読んでみる ふいに私の顔を確かめたくて 鏡の前で髪を梳かしてみる いつかうち捨てた私の腕 切り取ったその部分の記憶が鳥肌立ちます 苦痛のように幸福のように鳥肌立ちます ふいに詩が恋しくて 文字を書いてみる 文字を読んでみる いつかうち捨てた私の腕 一人でさまよう私の腕の記憶が 悪夢のようにもう一度よみがえります 孤独な女たちは 崔勝子 姜尚求訳 孤独な女たちは けっして鳴らない電話機が鳴るのを待ちかまえている。 それよりもっと孤独な女たちは、 けっして鳴らない電話機が とつぜん鳴りだすと体を竦ませて驚いてしまう。 それよりもっと孤独な女たちは、 けっして鳴らない電話が 鳴りだしはしないかと、 そしてその瞬間に自分の心臓が止まりはしないかと 恐れる。 それよりもっと孤独な女たちは、 地上のすべての恋人同士が 一度に電話する時 狸寝入りをしているか、眠っている。 二千年代が始まる前に 崔勝子 姜尚求訳 二千年代が始まる前に 私は結婚に成功するかも知れないし、 私は生に成功するかも知れないし、 それよりも死に成功するかも知れないし、 私は私を知らないで 無知な石ころのように蹴れば蹴られるまま しばし転がるだけ、転がりながら止まるだけ。 この後半の人生は 脈もなく緊張もなく、 だけどどれほど怖いだろう。 肌の下の内肌、肌の上の内肌に隠して 自分一人で喚く。 身震いをして、 だけど見つからないように気を配りながら 滑って行く。この後半期の人生を。 この滑りっこの終りに確認はあるだろうか。 生の確認でなければ、死の確認が 消印のようにはっきり押せるだろうか。 ある遥かな空、あるいは地上のカウンターで 最後の計算をしようとする あの巨大な手は誰のものだろう。 日本での暮らしを韓国語で書く王秀英 アラまあ 日本では毎年お正月になるとモチをのどに詰まらせお年寄りが何人か亡くなるとい うニュースが伝えられる。今年は私が住んでいる富士見町でもモチが詰まってあの世に 遊びに行っちゃったおばあさんがいて五百年は帰って来られないという。 お正月の温泉旅行を楽しみにしていたそのおばあさんの替わりに私がバスの席に座った。 五十名くらいの日本の老人が乗ったバスが動き出すとリーダーのおじいさんがマイクをもって 私を紹介した。この人はチョウセン(朝鮮)から来てみなさんと同じ富士見町に住んでいます。 ナンセン(南鮮)の人です。日本人はいっせいにアラまあと声をそろえた。アラまあよくぞ来ました というのか、それとも日本人だけの旅行に乗り込んだ勇気のある人だと言っているのかバスのエンジン の音でかき消され聞こえなかった。私はアラまあの次の言葉も知りたかったけれどもそれよりチョウセン とかナンセンとかの言葉にびっくり仰天して韓国から来ましたと大声を張り上げたがそれもエンジンの 音が飲み込んでしまった。モチも食べない私の喉は何に詰まったのか言葉が出て来なくてもがいた。 私が五つのとき金おじさんが日本の憲兵に連れて行かれた。まるでいまの私のようにもがき苦しみながら。 朝鮮人が朝鮮語を話すのが何故悪い。殺せ、おれは日本人にはなれないぞ。朝鮮人のまま死ぬ。金おじさん は水、水、水をくれと言いながら連れて行かれた。 アラまあ、あの朝鮮人喉が詰まった。アラまあ不思議ねモチも食べないのにあのおばあさんの霊が とりついたのかね。日本語の最初に出て来る『アラまあ』の苛立たしさよ。私は大声で叫んだ。モチ がつかえたのではない。植民地時代の金おじいさんの恨みがつかえている。しかしバスのエンジンは またもうるさい。アラまああの朝鮮人に水を一杯あげなさい。私は水を飲んで深呼吸をしてから内臓 の底に沈んでしまった『韓国』を吐き出した。突然バスが空中に浮かび上がってあの世に遊びに行った おばあさんを探しに五百年は帰りそうにもない旅を始めた。アラまあ金おじいさんが手を振りながら 雲の上に立っていた。トウルマギ(韓国のコート)の裾がテクッキ(太極旗ー韓国の国旗)になびいて いた。 注:『五百年』は韓国の歌に出て来る。 月の出る町 富士見町の月曜日は 一人暮らしの老人の お昼ご飯を作って 一緒に食べて 一緒に過ごす 今月の 当番の彼女が 朝鮮人だと 今日初めてわかって 私が韓国人だと 彼女も今日初めてわかった 私は 朝鮮人です 私は 韓国人です 互いに挨拶をかわし 国の人に会えてうれしい 国の言葉が話せてなつかしい 月曜日 富士見町に月が出て まあるい月が出て 日本人 韓国人 朝鮮人は 家に帰る さようなら アンニョンヒカシラヨ(*) アンニョンヒカセヨ 坂道を下ると この世に たった ひとつしかない まあるい月が浮かぶ 彼女と私が住んでいる 調布市富士見町が 涙でかすんで遠去かる だんだん だんだん 遠去かる *アンニョンヒカシラヨ・・・朝鮮民主主義人民共和国の方言 お茶会 お茶会がある木曜日の午後 藤森さんのお茶室には かしこまった着物姿に白い足袋がまぶしい 地球を半分割った茶碗を 宇宙で交わすお茶会の静寂 日本人は解脱を組み上げるのか こんな日はいつもしとしとと雨が降る よく降るわね来る日も来る日も 着物と足袋を脱ぎながら あの花はどうしてあんなに無愛想なのよ なんだか好きになれないわね みんなは花が咲いているその木を睨み 帰って行く はっと、振りかえってみる ああ、そこにチマチョゴリを着たムクゲ(無窮花)の木が 雨に濡れているではないか *無窮花は韓国の国花。チマチョゴリは韓国の着物。 *王秀英(ワン スーイヨン)1937年韓国釜山生まれ。1961年『現代文学』推薦を経て 文壇にデビュー。1976年『主婦生活』社の駐在特派員として来日。1995年からフリーライター。 1996年詩集『祖国の切手にはいつも涙が』で第14回尚火詩人賞受賞。1998年詩集『朝鮮人の 傷痕』で第33回月灘文学賞受賞。在日20年になるが、韓国語で詩作されています。紹介した詩も本人訳。 「日本では常に日本語の誘惑に負けそうで母国語を疎かにしがちである。アメリカやヨーロッパで暮らす 僑胞たちは母国語を使い母国語で文章を書く人が殆どでである。」「日本で母国語の詩を書き続けること は、ほかの国の僑胞に比べると根気がいる作業である。」(詩作ノート)王秀英は、韓国では観念性の強い叙情詩を書いて いたが、日本にきてから、作風が具体的、身辺的になり、韓国人であることのテーマが鮮明になりました。 「私は日本の日常生活になれてきてからは、普通の日本人との話を書きたいと思うようになった。そして、 生活の匂いがする詩を書いている。」 奥深い社会性の高炯烈 盲人 佐川 亜紀訳 僕が数万回この世に生まれて来たら 一度はあの盲人のように 盲人になるだろう 盲人になって なぜ僕と暮すのか 妻の いや同居人の手を取って 電子杖をつきながら 歩かねばならないだろう 僕は今何回目にこの世に 産まれて生きているのだろうか いつか あらゆる人たちは どんな一生でも一回は 盲人にならずに生きていけるかは だれにもわからないこと いつか一度は杖の先が目と耳 あらゆることをゆだねる日が来るだろう リトル・ボーイ(抄) 金慶教訳 古跡地 宮島がはるかに浮かんでいる か細い空を眺めている。 酷暑のため押し出された白い雲がひものように飛び散っている あの平和な空の中で 今日も敵機が現れるだろう。 その米軍機たちは今 敵機としてさえ感じられなかった。 ふと頭の上を飛んでいくカモメたち 四羽だと思ったら三羽 三羽だと思ったらいつのまにか 七羽八羽になる 猫の鳴き声のようなあの泣き声が、 李玉長(イ・オクチャン)のはるかな鼓膜を破いてしまった、 鋭く(後略) *高炯烈(コウ・ヒョンヨル 1954年〜 ・全南海南生まれ) 1979年、『現代文学』に「荘子」を発表して詩作活動を始めました。代表詩集 『大青峰・すいか畑』他5冊。民主民族文学誌の牙城「創作と批評」や民族文学 作家協会のメンバーですが、最初の詩が「荘子」であり、「白居易先生に」という詩 も書き、中国の自然派の詩人に親近感を抱いているようです。 「盲人」の詩で何万回 も生まれ変わり、生が相対化されるところに老荘思想を感じます。 「リトル・ボーイ」は、顧みられなかった韓国の被爆者を描いた長 詩です。直接取材し、綿密な史実に基づく叙事詩の力作です。強 制連行で日本につれて来られて被爆し、日本で補償もなく、韓国 に帰っても厭われるという何重もの被害を韓国人・朝鮮人被爆者 は受けました。これらの人々を日本人はもっと知るべきでしょう。 訳者は、詩人で早稲田大学言語学研究所の金応教さんです。 リストラの詩を書く朴ノヘ バーゲンセール 佐川 亜紀訳 今日も工業団地通りをさまよったけれど 赤黒い夕焼けがソウルの空を覆う時まで 探しまわったけれど 無いよ 無いよ 二十七歳 この一つ命 糧を得るところ一つ無いよ バスの切符たった一枚 心をひたす屋台の焼酎一杯 意味の無い笑いが流れるアスファルトの上を きらめく照明の光の下で よろよろ 失業者として歩いているんだなあ 十年たっても相変わらず冷や飯 俺の労働は日当4000ウオン 五色にきらめくショーウインドウには すべてバーゲンセールが貼り出され 地下道の衣類商人500ウオンどころの しわがれた声がだんだんかすれ 俺の手首を引く町の女のかわいた笑いも 50%バーゲンセールだなあ えい くそ 俺もバーゲンセールだ 3500ウオンでもいい 3000ウオンでもいいから売られていけ バーゲンセールだ バゲーンセールだ ただし 俺のこの悲しみも絶望も怒りまでも いっしょに買ってくれ! 漢江 佐川 亜紀訳 漢江が胸を開く やせた母の胸のように しわの寄った川が音もなく開いて 流れ始める 凍てついた冬中 息を凝らしすすり泣いて流れていた 涙の川水 春は遠いのに 痛んだ胸 へとへとの労働に ため息ついて嘆きながら倒れ 吹きすさぶ寒風に また歯を食いしばり 立ち上がって流れる 愛よ 過酷な生命よ 川の水は流れ 汚れと辱めにかき混ぜられて 荒く漢江は流れ うす氷をひっくり返しながら 暗い冬中 春を呼び 春を呼び 音もなく割れて流れ始める 涙よ 川の水よ *朴ノヘ(1957年〜)が27歳の1984年に出版した詩集『労働の夜明け』は たくさんの若者の共感を呼び、1993年までに43刷も重ねました。43刷!! すごいですね。韓国は「漢江の奇跡」とよばれた経済成長を成し遂げましたが、 一方で働く人の低賃金、人権無視にはひどいものがありました。そこで、非人間的 な労働を訴えた朴ノヘに支持が集まったのでしょう。しかも、彼は労働者の組織を 作ったために刑務所に収監されたのです。ノヘの「ノ」は労働者=ノドンジャのノ、 「ヘ」は解放=ヘバンのへで、決して漢字では書きません。こうした一途な意志が 敬愛されるのでしょう。 でも、彼の詩人としての特質は、歌の要素にあります。原詩を読むと、音が効果的 で、リフレインも多く、暗唱しやすい詩です。観念性より、具体的なモノや場面で 表すことができ、一層印象深くなっています。 韓国では、97年末にIMFの支援を受けるようになるまで経済が悪化しました。 歌謡曲もIMF時代を皮肉ったのが出てきました。それでも、渋滞の中、するめを 売り歩く人、地下鉄のセールスマンなどたくましい韓国人の姿が見られます。 「新韓国読本9・韓国人は不景気に負けない!」(社会評論社)には生き生きした レポートがあります。 |
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