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思いついたことを徒然なるままに掲載したいと思います。
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2007/6/13 『地域SNSは必要か』
 少し前の話になりますが、(財)地方自治情報センターから「地域SNSの活用状況等に関する調査」の結果が公開されました。すこで、地域SNSについて少し考えるところを記したいと思います。
 情報メディアの活用において、「地域」という視点はいつの時代もついて回るもので、これまでも地域パソコン通信、コミュニティ放送、地域ポータルサイト等、様々なサービスが取り組まれてきました。そのような中で、SNSは双方向参加型の新たなサービス、所謂Web2.0に対応したサービスとして注目を集めているわけです。しかしながら、本当に地域SNSが必要かどうかという一概に言えない部分もあり、ましてや行政が主体となって取り組む必要性があるのかどうかも疑問が残ります。総務省が「e-コミュニティ形成支援事業」して2005〜06年度の2年度に渡って13の地域で地域SNSの実証実験を行いましたが、その利用はあまり進んでいないようです。登録者数が人口の1%を超えているのは千代田区のみであり、少ないところでは人口の0.02%しか登録していない事例もあります。
 SNSというサービス自体の特性を考慮すると、ネットワークの外部性をどれだけ創出できるかが成功の鍵となり、やはり利用者数が多いことが重要です。したがって、もともと人口の小さな地域が地域SNSを立ち上げても、あまり有用ではないと思います(ネット町内会とかは有効だと思いますがSNSである必然性はないと思います)。規模の面から言うとmixiが圧倒的に多く、登録者が1千万人を超えたそうです。わざわざ地域SNSを立ち上げなくても、mixiのような大規模なSNSの中で地域コミュニティを立ち上げれば、地域SNSと同等の効用を得られるかも知れません。実際、私の先輩はmixiの中の地域コミュニティを通じて地域の人的ネットワークを広げています。
 つまり、地域SNSを立ち上げる際のポイントとなるのは、mixi等の既存SNS利用者が少ないこと、地域というくくりである程度の利用者が見込めること、そしてネットワークの外部性を高めるため、何らかしらの方法で初期において多くの登録者を創出し、利用してもらうことです。もちろん、様々な目的でSNSを活用する場合もあるので、一概には言えませんが、少なくともすべての自治体に地域SNSが必要ではないと思われます。

2007/4/17 『ブログ、SNSの隠れた?役割』
 コミュニケーション重視型の新たなメディアとしてブログやSNSが注目されるようになってから久しいですが、この発展には必然的な部分があったと私は考えています。それはマスメディアの欠点を補うということです。「それは前から分かっているよ」と思われるかも知れませんが、ここで言うマスメディアの欠点とは双方向性の欠如ではなく、情報の質の問題になります。
 情報は我々の感情に非常に大きな影響を与えます。したがって、個人の主観はあるにせよ、感情に良い情報、悪い情報、中性の情報と分けることが可能です。マスメディアの欠点は良い情報の量が圧倒的に少ないことです。マスメディアで流れる情報は事件、事故等、悪い情報がほとんどであり、良い情報を見つけることは、幌を開けて走っているオープンカーを見かけるぐらい少ないと感じます。これには理由があり、情報源となる対象を著名人と一般人に分けると、前者は両方がニュースになりますが、後者は事件等、他人に(悪い)影響を及ぼしそうな情報しかニュースにならないのです。確かにテレビで、「東京都港区在住のAさんの息子さんが100点を取りました」なんてニュースは流されると逆に困るのですが。
 実は、このマスメディアにおける一般人を情報源とする情報の不均衡(良い情報の不足)を埋めるのが、ブログやSNSなのです。「東京都港区在住のAさんの息子さんが100点を取りました」という情報はマスメディアで流れていたら困るのですが、SNSで友人のブログに「うちの子が100点取りました」と書いていれば、おそらく「よかったね」ということで「良い情報」として認識されるでしょう。
 こういった身近に起こった良い出来事を共有し、マスメディアにおいて不足している良い情報を補完することがブログ、SNSの隠れた役割になります。ただ、「人は他人の不幸を喜ぶものである」と言われてしまうと、残念ながら完全に否定できないのですが。。。。

2007/3/28 『M社のCSR』
 最近、自治体等の政策事例を散見していると、OSの供給で有名なM社の名前に出くわすことが増えているような気がします。先日もインタビューした某県のベンチャー企業育成施策はM社が支援を行っていましたし、学校や障害者におけるIT活用の支援、あるいは地域の産業振興等に、同社が製品や資金等を提供している事例が結構あります。これらは昨今、言われているCSR(Corporate Social Responsibility)の一環だと言われれば、確かにそうなのかも知れませんが、個人的には違和感を覚えます。
 例えば、私が以前在籍していた会社では、強いラグビーチームを持っているので、地域への貢献としてラグビー教室を行っています。このような活動はCSRだと思います。しかし、OSを提供している企業が、OSが入った製品を学校や中小企業等へ提供することはある意味販促活動も兼ねており、しかも企業規模が大きいから可能なことであるような気がします。つまり、ネットワークの外部性が大きく働くOSという市場において、数を確稼ぐための方法をCSRという名を借りて無償で行っており、ある意味、携帯電話の会社が端末をただで配っているのと同じと考えることもできるのです。
 もちろん、M社が行っているCSRのすべてが悪いわけではなく、社会に寄与している部分もあると思います。しかし、それが、銀行が植樹をするという純粋な地域貢献ではなく、自社製品という紐が付いた製品やサービスの提供であり、ビジネスの香りがプンプンしていることに、ちょっと抵抗を感じてしまいます。
 まさか、独禁法の対象とはならないとは思いますが、このようなCSRの仮面をかぶった販促活動が今後も拡大していくとなると、提供を受ける自治体側で十分に吟味する必要もでてくるのではないかと考えております。

2007/2/20 『オープンを考える』
 「オープンソース」という言葉に関してはやはり誤解されている部分があるように感じます。オープンソース化すると競争が促されるとよく言われますが、本当にそうでしょうか。ソフトウェアの作成には大きな労力と知識が必要です。したがって最初に当該ソフトウェアを作った事業者とそうでない事業者には知識のストックに大きな違いが生じます。そこで競争を起こすのは実は難しいのではないでしょうか。
 最近たまにある自治体が作ったオープンソースを他の自治体でも活用するという話を聞きますが、この時点で調達先はほとんど決まったことになります。ソースが公開されていても、その中身を既に分かっている事業者と、これからすべてを勉強して習得しなければならない事業者では大きな違いがあります。別の例えを使うなら、入試問題を事前に知って入学試験を受ける学生と、何も知らずに実力だけで入学試験に受ける学生に似ています。開発した情報システムをオープンソース化して他の自治体に広めることは、同じ入学試験を他の大学に適用するようなもので、入試問題を知ってきる学生はすべての大学にうかり、実力だけで受けた学生は逆にどの大学にもうからなくなります。
 もう一つ誤解を受けやすい言葉として「標準化」が挙げられます。標準化された技術を活用することで、やはり競争が促されると言われますが、実際には当該分野において標準化が進んでいるかを十分に考慮しなくてはなりません。例えば、標準化が進んだJavaという言語で新しい情報システムを作成する、という風に決めることは簡単ですが、実際に当該情報システムのために提供されているパッケージソフトのほとんどがJavaでは作成されていない可能性があります。この場合、無理してJavaで構築して高価な開発費を払うのか、それとも安価なパッケージソフトを活用するかは十分な議論が求められるところです。また、仮にパッケージソフトが供給されていても、少ない選択肢の中から選ぶのが本当に競争を促進しているか疑問が残ります。

2007/2/7 『経営者としての気概』
 本日のニュースで、ある航空機会社の社長が経営再建のため給与を部長級の最低ラインまで下げるという記事を読みました。記事に出ていた給与金額は一部上場している企業、あるいは航空会社の経営者としては信じられないほど安く、個人的には非常に驚きました。
 前々から述べてきたかも知れませんが、民間企業は行政機関と比較すると経営状況が職員の給与により反映されます。しかし、ここまで顕著な例はなかなか珍しいのではないでしょうか。
 自治体の中には経営状況を見ると、この航空会社よりも悪い団体が結構あると思います。しかしながら、首長が率先して給与を大幅にカットしている例(矢祭町など一部には聞こえてきますが)はあまり聞きません。先日当選した某タレント知事でもせいぜい20%カットです。
 自分が経営者になった時これほどのことができるかどうかは別にして(無責任ですいません)、この航空会社の社長に負けないぐらいの気概、心意気が行政経営者にも必要ではないでしょうか。そうでないと、大きく膨れ上がった借金はいつまで経っても先送りで、将来の世代の負債となってしまうでしょう。もちろん、首長が大幅な減給を行うのであれば、首長を選んだ我々住民も公共料金の大幅値上げや公共サービス低下を受け入れるだけの寛容さが必要になります。

2007/1/15 『民営化の弊害か?』
 私は1年と9ヶ月ぐらい前に引っ越したのですが、引っ越してから1年間は郵便物の転送が機能しておりました。そして、今年の正月は転送が解けて初めての正月だったわけですが、いつもよりも年賀状が少ないなあと思っていたら、やはり旧住所へ送られた方が結構いたようです。
 ここで問題なのは、間違った住所に送った場合の返送です。最近、私のところへ年賀状が何通か再送されてきていますが、皆さん同じように返送が遅かったということを書かれていました。つまり、正月に着くように送った年賀状が10日を過ぎたあたりで返送されてきているのです。
 これまで私も旧住所等へ送って、返送を受けたことはありますが、10日もかかったことは未だかつて無かったと思います。
 理由は分かりませんが、一つ考えられることは、郵便事業で起こっている大きな変化である民営化ではないか、ということです。
 今年で皆さん、私が引っ越したことを覚えていただいたので、さすがに来年は返送というのは少ないとは思いますが、今後、サービスの質を落として欲しくないというのが個人的な願望です。ただ、これまでサービスが過剰であって、市場原理的には今回ぐらいのスピードが妥当と言われてしまうと、困りますが。。。

2006/12/13 『国としての一体感』
 道路特定財源の議論は、駐車場を経営しているサラリーマンの家計に見立てると分かり易いのではないでしょうか。駐車場から得られる収入はもちろん家計の収入になるのですが、この家計では駐車場の拡大やメンテナンスに駐車場からの収入の多くを回していると仮定します。すなわち、これが道路特定財源に当たります。
 もしこの家計においてサラリーマンとしての収入が減少した場合どうでしょうか。通常、給料の減少を駐車場からの収入で補填するのでしょう。つまり、駐車場の拡大やメンテナンスへ向けるお金を減らし、これを生活に回すわけです。これが一般財源化に当たる話だと思います。
 つまり、「道路特定財源は道路へ」という議論は、「駐車場の収入は駐車場の拡大やメンテナンスへ」という話と同じです。応益性という観点だけ聞いていると間違っていないようにも思えるのですが、このように国を家計に例えるとやはりおかしい気がします。日本という国を一つの家計とした場合、社会保障や借金等、お金の足りない部分はいっぱいあります。あるところから、足りないところにお金を回すのは極めて当たり前の話です。それが理解できないのは、個人主義が行き過ぎて、国としての一体感が欠如しているからに他なりません。
 「ナショナリズム」という言葉がたまに使われますが、言葉だけの表層的な一体感では真のナショナリズムとは呼べないような気がします。国全体を良くするために、各個人が少々犠牲を払ってでも良いと思うよう一体感がないといけませんし、そのために皆がもう少し国全体のことに関心を持つ必要がある気がします。個人主義と社会的な役割の分化は、ある意味市場経済の既決として起こっていますが、これの弊害を是正することも必要なのかも知れません。

2006/12/1 『政治家には改革は難しい』
 私の持論として政治家に改革を行うことは難しいと考えています。それは八方美人であり、自分の利益を考えると選挙という短期的な視点でしか政策を行えないからです。
 本日、報道のあった税制改革についても同様です。専門家の答申という形を取っていますが、実際には政治的な調整が行われていることは間違いないでしょうし、内容を聴いて私はがっかりしました。
 経済成長が主眼が置かれ、増税が先送りされていますが、本当に専門家は我が国がまたBRICSや新興国のように年一桁後半の経済成長を実現できると考えているのでしょうか。そのような経済成長が例え実現できても減税分をまかない、かつ膨大な国の借金を返せるとは私には到底思えません。もちろん、治安維持等の観点から雇用を確保することは必要ですが、経済成長なくしても雇用を確保する方法はいくらでもあります。
 地方を除いた国だけの借金が800兆まで大きく膨らんでいる現状において、減税をする意図がまったく分かりませんし、本当に国の将来のことを考えているとは到底私には思えません。
 今、教育の現場では「ごまかし勉強」が大きな問題になっているようですが、日本の政治はまさに「ごまかし政治」ではないでしょうか。もしかしたらこの「ごまかし」が我が国にはびこる大きな病理であり、多大な代償を払ってでも健全な社会を目指すという気概が我々一人一人に必要なのではないでしょうか。
 私だって税金をたくさん払うのは嫌ですが、将来を担う世代に借金を押し付けるのはもっと嫌です。増税してでも断固として国や自治体が抱える借金を減らすべきです。

2006/10/17 『ネットの空間学』
 インターネットによって時間や距離の制約がなくなる、という話はよく耳にしますが、このことはちょっとした誤解を生みです可能性があります。すなわち、インターネット上にある情報に対しては、誰もが一律にアクセスできるという錯覚を引き起こすのです。
 このことを考えるようになったのは、ネット上での支店という言葉を聞いた時でした。先日、ある有名なEC(電子商取引)サイトの話を聞いていたのですが、オリジナルのサイト以外に楽天支店、Yahoo!支店等を開設しているということでした。すなわち、オリジナルのサイトで商売するだけでなく、アクセス数の非常に多い所謂ポータルサイトにも同様の機能を持つ類似サイト(支店)を開設し、売り上げをあげているのです。
 もし、インターネットが平面で一律にアクセスできるのであれば、オリジナルサイトだけで良いと思います。しかしながら、地球上で我々が行ける場所に限界があるように、やはり膨大なインターネットの中で我々が通常、行動する範囲というのは限られているのです。したがって、普通に使っていれば、そのECサイトにたどり着かない人でも、楽天やYahoo!のような大きなサイトを活用することで、お客さんとして拾うことができるのです。これは小さな老舗が大規模ショッピングモールに出展することに似ています。
 このように、インターネットの利用者には、やはり行動範囲というものがあり、その広さ、あるいは性格(偏り)によって、このサイトには行けるが、あのサイトにはたどり着けない(本人は存在に気付かない)ということが起こります。
 行動範囲に起因する要因としては、情報リテラシー、利用時間、興味、性格等があり、これらと空間の関係性を分析することは非常に興味深い研究テーマと言えるのではないでしょうか。

2006/10/11 『ネット多重人格』
 この前、インターネットにおける匿名性について議論したのですが、ご存じのように匿名性にもメリットとデメリットがあり、これを最適化、つまり、メリットを殺さずにデメリットをできるだけ軽減することは非常に難しいような気がしています。
 匿名性のメリットとして、気兼ねなく率直の意見を言えるということが挙げられますが、これがデメリットに変化することはそう難しいことではありません。すなわち、匿名性という環境によって、これまで出ることのなかった、極端な人格が出てくるようになり、率直な意見が、感情をむき出しにした発言へと変わってしまうのです。
 よくよく考えてみると、インターネットがなかった我々の社会では、匿名性を確保するということは容易でなかったので、皆、周りの目を気にして、ある意味自制して生活を送っていました。しかし、インターネットの登場によって可能になった匿名性を確保した行動は、この自制を取り払う可能性があり、実社会で隠れていた人格が表出します。
 道ばたにお金が落ちていてこれを拾った場合を想像して下さい。周りの人が見ていれば、おそらく警察に届けるでしょうが、もし誰も見ていなかったら、自分の財布に入れてしまうかもしれません(金額にもよりますが)。匿名性とは、まさにこれと同じなのです。誰もが見ていない、あるいは見ていても自分であると分からない状況で、我々は大きく行動を変化させる可能性が高いのです。P2Pソフトによる不正コピーの流通はその代表的な例と言えるでしょう。
 心理学に詳しいわけではないので分かりませんが、もう一つの問題は、人格の使い分けがうまく行かない可能性が出てくるのではないか、ということです。実社会では自制した優等生、ネットの中では掲示板荒らし、という人がいた場合、その区分けが継続的に保てるでしょうか。やはり、難しく、時には混乱して、ネットの中の性格が実社会でも表出化するのではないでしょうか。このようなことを考えますと、2○ゃんねるで罵詈雑言を書き込んでいる人達が、その特性を実社会に持ち込まないことを望んでやみません。もちろん、あのような罵詈雑言がストレス解消になっている一面もあるのかもしれませんが。

2006/9/11 『そういう時代になったのかな』
 私一人だけかも知れませんが、時代の流れをひょんな事から感じさせられました。先日まで盛んに報道されていた某高専の学生殺害事件に関してのことですが、容疑者と考えられる学生の両親のコメント(謝罪文?)が公表されました。私が驚いたのはコメントの公表経路です。校長先生の携帯電話へ電子メールで送信され、それが公表されたということらしいのです。
 こういうコメントは、報道陣の前で面と向かって発言されることが普通で、それが難しい場合でも手書き文書をファックス等で報道機関に送信するものだと思っていました。たしかに、ニュースとして流す場合、テキストデータがあった方が何かと便利なのですが、このような対応自体に誠意を感じないのは私だけでしょうか。
 このようなシチュエーションにおいても電子メールを使って違和感のない時代になってしまったのか、と個人的にはかなりビックリした次第です。

2006/9/4 『格差是正の政策とは』
 情報格差という言葉はカビが生えるほど使い古されているが、もし機会というものが本当に平等に提供されるべきであるなら、まだ格差は健在と言えます。ここで問題と考えられるのは政策と社会経済とのミスマッチです。
NTTに代表されるように情報に係る商品やサービスは市場化が進んでいます。市場化が進めば市場が存在する都心からサービスが提供されるのは当たり前です。そんため格差を是正すべく政策的な介入が行われるのですが、「公」という言葉に引っ張られて、有効性の低い市場から離れた形で支援が行われたりします。例えば実証実験という形で将来的に利用されるかどうかが甚だ怪しい情報システムが整備されたりするのは典型的です。こんなやり方ではいつまでたっても格差は埋まりません。
 先日、NTTドコモから3.5世代と呼ばれる新たなサービスが始まりましたが、これも東京23区からで開始されています。もし本当に情報格差を軽減したいのであれば、このようなサービスこそ補助金を出して地方から開始すべきではないでしょうか。
 現在、地上デジタル放送の整備が進み、各地で新たな活用が模索されていますが、これなんかも都心から整備が進んだ典型的な例です。地方の県で地デジを使ったアプリケーションを考えても、都心の二番煎じになってしまう可能性が高く、取り組む側のインセンティブ低下にもつながるような気がします。
 市場で活動する情報通信関連企業が都心と地方の格差を埋めるような活動を行うに政策を再考する時期に来ていると考えられます。

2006/7/27 『情報の質の問題』
 最近、学術データベースを使う機会が増えてきていますが、痛切に感じるのは「インターネットよりも当たりが多い」ということです。つまり、学術データベースでは、欲しいと思う情報にたどり着く可能性が高く、仮に欲しいと思う情報にたどり着かなくてもそれに類似した情報や、あるいは当初の目的とは関係ないけど有益な情報を見つけることが結構あります。インターネットの場合、たくさんの時間をかけて色々探してはみるものの、結局、目当ての情報が探せないことも多く、検索エンジンを駆使しても検索できる情報には限界があるように感じます。
 そこで考えるのは、やはり情報の質というのは大事だなあ、ということです。情報のニーズにもよると思いますが、やはり基本的な仕組みとして情報を登録する時点である程度の質を担保するシステムが組み込まれていることが非常に重要であり、私のこのホームページを含め誰もが自由に情報発信できるということは、それだけ質にもバラツキが出るということになります。最近、ロングテールという言葉をよく聞くようになりましたが、ロングテールの説明で使われるグラフの縦軸を「情報の質」に置き換えると分かりやすいと思うのですが、質の低い情報がたくさん出てくる(横軸に広がる)ことで有用な情報に当たる確率は減ってきているのかも知れません。
 SNSではありませんが、限られているからこそ得られるものもあり、自由なネット空間では実現できないものというのがあるのではないでしょうか。

2006/7/4 『日本代表の真の敗因とは』
 「ガバナンス」と付くタイトルの本を書いているだけに、私がリバタリアンでないことは予想できるとは思いますが、やはり自由が必要な場合もあるのではないかと感じています。
 話が唐突で大変恐縮ですが、どうやら私が想像していたように、日本○ッカー協会ではメディアコントロールを行っているようです。皆さんもご存知だとは思いますが、これは次期代表監督候補に関する本の著者のブログから分かったことです。そもそも、おかしいと気付かない方が逆におかしいぐらいなのかもしれません。もとJ○ーガーで解説者をしている人達が代表監督を批判しているところを私は一度も見たことがないですし、ましてや協会の体制等について批判しているところはありません。たぶん、どこかの広告代理店もグルだとは思いますが、それだけ入念に表現の自由が奪われてきたのです。
 W杯における敗戦について戦犯を探すことが良いとは思いませんが、日本が強くない理由には、このような表現の自由の喪失があるのではないでしょうか。もっと自由に批評や批判ができる環境があれば、日本代表を強くするために必要なことについてもっと議論が図られ、代表のプレイの質も上がったのではないか、と考えてしまいます。
 2010年に向けたチームづくりも大事ですが、その基盤となる組織や文化等の面でも変わらなければいけないと考えられ、そのためには表現の自由を確保することが重要ですし、我々サポーターはメディアコントロールに騙されないメディアリテラシーを持つ必要があります。
 蛇足ですが、次期監督の名前を漏らしたことは、演技以外何者でもなく、誰かが自分への批判の矛先をそらせるために行ったとしか私には思えません。

2006/6/21 『公共放送とは』
 某放送局から「デジタル時代の○○○懇談会」報告書、「通信・放送の在り方に関する懇談会」に対する見解という文書が立て続けに公開されました。この内容を見てがっかりしたのは私だけでしょうか?見解に関しては、遠まわしかつ客観性が担保されているような言い回しで書かれていますが、よく読んでみると、何の根拠もない、自分たちの主観的な意見、あるいは既得権益保護のための主張を言っているだけです。懇談会の報告に関しても、客観性を担保するために開催されたという位置付けの割には、ずいぶん観念的な内容であり、なぜそのような見解になったのかということが十分に説明されていないような印象を受けました。また、懇談会の意見に対してどこまで譲歩できるか模索した執筆者の考えが見えてきそうです。
 そもそもこのような発表を出してしまうような組織に、最も客観性が担保されなければならない公共放送を任せて良いのか、と非常に疑問であり、憤りさえ感じてしまいます。なぜ、公共性の高い番組と低い番組の区分けができないのか、なぜスクランブルをかけることが望ましくないのか、まったく説明されていませんし、私には理解できませんでした。

2006/4/27 『やはり情報通信省か〜政策の全体最適化〜』
 各省庁から公開される報告書等をウォッチしていると、最近、すごく違和感を覚えます。それは、ITというキーワードで様々な研究会等が行われているものの、「これってこの省庁の管轄だっけ?」と感じるようなテーマのものが多く見られるようになってきているからです。特にK省とS省はITという切り口で、他の省庁のテーマを吸収する傾向がありますし、双方で同じようなテーマを扱っています。一方は、産業や流通の観点から検討し、一方は放送や通信という観点から検討しているという話になっていますが、双方の観点は密接不可分であり、重複した検討による無駄、総合的な検討ができないことによる損失が少なくないと感じます。確かに、相互に競争することで、より良いものが生まれるという市場原理を基にした発想もあるわけですが、政策市場が存在しない現状では、独りよがりの歪みの方が大きくなる可能性の方が高いようにも思えます。私が専門としている自治体ではも、これまで過度に分散化していた情報化の動きを見直し、集中化によってITガバナンスを高める検討が進んでいます。中央省庁の情報化政策に関しても、過度な分散を見直し、集中化することで、政策全体としての最適化を図る時期に来ているのではないでしょうか。

2006/4/4 『お詫び』
 私のホームページを見ていただいている人がどのくらいいらっしゃるか分かりませんが、ここ4ヶ月あまり、何の掲示もなくホームページの更新が途絶えておりました。せっかく見に来ていただいた方には大変申し訳なく感じております。
 さて、ホームページの更新が滞っていた理由は単純で、仕事が多忙だったためです。ただ、同じ多忙でも、これまでに経験したことのないような仕事の密度だったので、精神的にこちらに避ける余裕がなかったというのが正直な感想です。本人の処理能力が低いので、結果として労働時間が増えると言ってしまえば、それだけなのですが、自分でもよく倒れずにこの4ヶ月を乗りきれたと感心しております。同じ経験はあまりしたくはありませんが、無理をすればこんなに働けるということが分かりました。
 まあ、周りの人の協力があって乗りきれたというのも事実でして、この点は一緒に仕事をさせていただいた皆様に感謝しております。
 何はともあれ、仕事も一段落しましたので、ホームページを再開します。今後は滞ることがないよう、できるだけコンスタントに更新していこうと思います。

2005/12/05 『進化が遅くなる』
 人間は進化しないかもしれない。また、思い付きで恐縮ですが、こんなことを考えています。進化論の潮流が今どのようになっているかは分からないのですが、生物は通常、強者生存だと思います。つまり、他の生物と比較してより強いものが、あるいは同種の中でもより優れているものが生き残り、子孫を残します。でも、人間はどうでしょうか?私が自分の周辺を見る限りにおいて、そうではなくなっているような気がします。何を持って優れていると評価するかは非常に難しいのですが、運動神経、頭の良さ、コミュニケーション能力等、複数の観点があると思います。そして少なくとも私の周りにおいては私が主観的に優れていると感じている人の既婚率は高くなく、子どももいません。したがって、優れた遺伝子が後世に残されなくなってきている気がします。客観的な視点から見てこのことが事実なら生物としての人間の進化は以前と比較して遅くなってきているかも知れません。もちろん、仮に遅れていたとしても私が生きている間にそれを観測することは不可能だとは思いますが。

2005/11/22 『間接化の罠?』
 少し前になりますが、某市が開設したコールセンターに関する記事をWebで見かけました。記事には一日当たりの平均問い合わせ件数と年間運用費用が掲載されており、このような数字を見るとどうしても1件当たりの費用を算出してみたくなるのは悪い癖でしょうか。実際に計算してみると、1件当たりの費用は約2,050円でした。以前、他の自治体でABC分析を行った報告書を見たときにも感じたことですが、公共サービスって金銭換算すると思いの外、高価だなあと感じてしまいます。我々は無料で本を借りられるから図書館に通っていますが、実際にはそれを借りるのには1冊1,000円以上の費用がかかっているかもしれません。たしかに、全員が本を借りなくなったからと言って、すべての人に1,000円が返ってくるわけではないのですが、費用の負担が間接化することによって、コスト感覚が分からなくなる良い例であると考えられます。
 フリーペーパー等の広告モデルのサービスが増えてきているように見受けられますが(実際には広告費はあまり変化していないらしいですが)、これも間接化の顕著な例で、実際にはサービス提供者が身銭を切るわけではないので、回り回って消費者である私達がお店で消費する際にその費用を余分に払っていると考えられます。
 間接化することで、我々はその都度費用を払わない利便性を手に入れますが、その分、費用に対して鈍感になります。もし、市場において「見えざる手」が存在するのであれば、そのように麻痺した感覚で消費するサービスは過剰になる可能性が高くなるのではないでしょうか。

2005/10/13 『インターネットは諸刃の剣』
 ちょっと前にベストジーニスト?の発表があったと思いますが、そのニュースを見ていて少し驚きました。一位の演歌歌手と二位のアイドルにおいて投票の仕方に顕著な差があったからです。前者はハガキによる投票が非常に大きな割合を占めており、後者はインターネットによる投票が大きな割合を占めていました。しかし、後者のインターネット投票数は前者のハガキによる投票数に全然及ばない数字でした。
 ここで私が注目したのは、一位の演歌歌手のファン層がインターネットよりもハガキに馴染みのある比較的年齢層が高い人達であるということよりも、その意志の強さであります。インターネットは投票が容易ですが、ハガキを書くにはそれなりの労力が必要になります。それにも関わらず、演歌歌手の多くのファンはせっせとハガキを書き、投票したわけで、この労力に意志の強さが出ているように感じます。
 「インターネットで利便性を高める」というキーワードを私も仕事でよく使ったりしますが、実は便利になっては困るものもあるのではないかと思っています。例えば、選挙ですが、投票時に行くという煩わしさが投票に対するある程度の意志を求めているように感じます。誰でも簡単に投票できるようになると、逆に無責任な投票で適当でない人(知名度だけは高い人など)が選ばれる可能性が高くなるのではないでしょうか。
 このようにインターネットで敷居を低くしない方が社会的に望ましい場所(事象)が他にもあるのかもしれません。

2005/9/30 『運用ノウハウの蓄積』
 情報システムを導入する場合、導入したシステムをどのように運用して効率的に業務を遂行するか、というイメージが利用者側で形成されていることが理想です。しかしながら、新しくシステム化する業務では往々にしてそれが難しくなりがちです。理由の一つはシステム化した場合にどのように変化するかを予想しにくいこと、もう一つは既存の業務の仕組みに引きずられること(経路依存性)です。
 そこで重要になるのが、運用ノウハウです。ある組織が情報システムAを導入した場合、当初は運用を十分にイメージできないまま情報システムを導入することになりますが、1年ぐらい運用してみると、理想と現実のギャップが見えてきます。「情報システムにこのような機能が付いていれば良かった」、「このデータとあのデータが連携していれば良かった」などなど。また、このような情報システムAに対する問題への対応策、運用ノウハウもたまってきます。「あの問題に関しては、業務をこのように処理することで効率的に運用している」など。実はこのような情報は同様の情報システムを他の組織が導入する上で非常に有用なのですが、情報システムの構築を行っているベンダーにはあまり蓄積されていないように見受けられます。
 導入した後、定期的にお客さんに出向き、システムの課題や運用ノウハウを抽出することは、情報システムを継続的に販売する上でも非常に重要であり、是非、各ベンダーでもっと体系的に蓄積してもらいたいものです。既に行っているベンダーもあるようですが、パッケージソフトのバージョンアップ等に特化しており、実際にはなかなかソフト的なノウハウまで踏み込めていないような気がします。それは企業が求める利益と相反する部分があるからかも知れませんが、長期的に見た場合、これ程重要な知的資産はないのではないでしょうか。。。

2005/9/13 『マニフェストは果たして有効か?』
 一昨年の選挙当たりから出てきたマニフェストですが、選挙の際に本当に有効な判断材料になるのでしょうか。確かに、今回の選挙では各政党のマニフェスト比較サイト等が登場し、各政党が考える政策を非常に比較し易かったと思います。また、マニフェストを重視するという有権者が増えているのも事実です。しかしながら、今回の選挙でマニフェストが有効に機能したかどうかは疑問が残ります。
 まず第一に、郵政民営化に賛成/反対のように違いがはっきりと分かる政策もありますが、論点がずれているため、その違いが分かりにくい政策も少なくありません。例えば、「○○税の新設」というマニフェストと「税制の抜本的改革」というマニフェストを比較することは難しく、どちらが国にとって良いのかだけでなく、どちらが自分にとって都合が良いのか、すら分からないのが通常でしょう。
 もう一つの問題は、マニフェストと実現度合が見えないことです。普通に考えると、「マニフェストの良さ」に「マニフェストの実現度合」をかけたものが各政党の評価になると思います。いくら良いマニフェストを書いても画餅では意味がありません。しかし、これまで政権を取っていない政党のマニフェストに関しては、その実現度合の評価は難しく、現状勢力等を考慮すると低く評価されるのが一般的となります。
 このようなことから、今回の選挙に関しては、マニフェストというよりはメッセージの分かり易さで結果が決まってしまい、その有効性はあまり発揮されなかったように感じます。さらに課題を挙げるとするならば、マニフェストの評価になります。今回、前回のマニフェスト達成率をNPOやシンクタンク等、複数の機関が評価していますが、その評価結果はまちまちで有権者にとっても分かりにくく感じます。行政評価でもそうですが、各マニフェストに評価指標を設定し、定量的に達成度合が表示できるようにするのが理想と考えます。もちろん、目標年次や数値を示しているマニフェストも少なくありませんが、全体としては定性的な表現が多いように感じます。
 好き勝手に書かせていただきましたが、マニフェストが選挙で有効に機能するためには、上記のような課題を解決していく必要があると思います。

2005/8/30 『食料自給率向上作戦』
 「興味が目を持つ」という言葉があるかどうか分かりませんが、興味を持っていなかった時は目に付かなかったものが、興味を持つと急に目に付くようになることは少なくありません。最近、私は庭に植える木を物色しているので、街角に植えてある樹木がすごく気になります。都心だから自然が少ないと思いがちですが、よく目をこらすと、マンションのベランダや家の軒先、道路脇等、至るところに植物が植わっています。そこで思い付いたのが食料自給率アップの方法です。
 最近、木を物色するためにホームセンターに行くことが多いのですが、果樹の苗をたくさん売っていることに驚きます。これから思い付いたのですが、街角にある植物をすべてこのような果樹にしてはどうだろうか?我が国の食料自給率低下が問題になっていますが、身近な植物から食料を生産することでこの低下を少しでも防げるのではないでしょうか。もちろん、車通りの多い道路脇の街路樹を果樹に換えても、それを食べるのは難しいかも知れません。しかし、民家の庭や公園に植わっている木が果樹に換わったら、住民や子どもがこれらを食べる可能性は高い気がします。
 自分の足下に目を向けると、当面の目標は自分んちの食料自給率を0%でなくすというお粗末な落ちなのですが。。。

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