徒然ノート バックナンバー9

思いついたことを徒然なるままに掲載したいと思います。

 

2003/3/29 『循環型政策モデルについて』
 仕事柄、政策や政策形成について勉強することが多いのですが、政策というものは一つの絶対的な最適解に向かって改善を継続的に行っていくというものではありません。つまり、社会環境が変化するので、その都度最適な政策は異なってきます。まあ、この辺は異論のない方が多いと思いますが。。。
 さて、このような環境に応じた最適な政策を模索する折に、循環型のモデルはどうだろうか?というのが今回の話です。
 例えば、最近、コーポレートガバナンスという言葉が使われるようにガバナンス、つまり統制やコントロールみたいな部分が重視されるようになっています。もちろん、これらの動きはモラルハザード、フリーライダーが増えてきたこと等に拠るのですが、この風潮が長期的に継続された場合、モラルハザードやフリーライダーが仮に減少したとしても、創造性や社会として面白み(漠然とした概念です)みたいなものが減少する可能性もあるのではないでしょうか。
 そこで、考えたのが循環型の政策モデルです。景気の循環等と同様に、「厳しい規制」→「緩い規制」→「厳しい規制」という風に一定期間で政策の性向を循環させるのです。政策的な一貫性という面では甚だ問題があるのですが、人間の行動性向を考慮した場合、あるいは社会環境の変化を考えた場合、このような循環型の政策があっても良いのではないかとも思います。そういうことで、規制緩和にしか向かわないような政策論議というのは、いかがなものかと考えます。

2003/3/13 『オンラインコミュニティの色々』
 インターネットの中でのコミュニケーションに関して、1対1でない双方向性のあるものは一般的にオンラインコミュニティと言われているように思います。メーリングリスや電子掲示板、チャット、メッセンジャー等がそれに当たります。これについていくつか考えることを書かせていただきます。
まず、一口にオンラインコミュニティと言っても二通りに分かれると考えます。一つはメーリングリストやメッセンジャーのように参加者がある程度特定されるものです。もう一つは電子掲示板やチャット。後者に関しても、特定の人が発言しているのはよく目にしますが、見ている人が不特定という面で前者と異なりますし、出入りも前者と比較して自由度が高いと考えられます。したがって、前者を頻繁に利用する人と後者を頻繁に利用する人では少し、個人的な特性が異なるのではないかと考えております。
 次にオンラインコミュニティの規模と構成の話ですが、ある程度の最適解はあると思っています。つまり、参加者数とアクティブメンバーの割合です。例えば千人の人が参加するメーリングリストを考えた場合、すべての人がアクティブメンバーで1日に1通のメールを出したら、参加している人はメールを処理しきれず、とてもじゃないけどこのメーリングリストは維持できないでしょう。数十名のコミュニティなら全員がアクティブでも成り立ちます。逆に、千人よりも多いメンバーでもROM(リード・オンリー・メンバー)の比率が多く、アクティブメンバーが特定の人に限定されればその維持は可能でしょう。実際には、オーバーシュートする格好で、長期的には均衡するとも考えられますが。
 では、オンラインコミュニティは永続するのでしょうか。私の経験則からお話すると、やはりオンラインコミュニティに関してもライフサイクルがあるのではないかと考えています。ある意味、企業組織のようにも見えます。あるメーリングリストでは、大きくなり過ぎたこと、マンネリ化したこと等から一部のメンバーが脱退して新しいコミュニティを立ち上げています。このようなことが続くとこのメーリングリストは衰退することになります。もちろん、企業同様、新たな風を入れることでコミュニティ維持することも可能です。新たなアクティブメンバーを呼び込んだり、テーマを分化させたり、いくつかの方法はあると思います。
 私も多くのオンラインコミュニティに参加しており、そのメリットを享受しているのですが、忙しいとメールを出すことができなかったり、話についていけなかったりすることが多々あります。でも、暇になってから読み返すことはできますし、発言しないからと言って、叱られるわけでもありません。ある意味、組織としては曖昧なその存在がこういう私のような都合の良いニーズにマッチしており、心地よく感じるのでしょう。

2003/2/26 『合併に際しての住民投票の役割』
 市町村 最近、各地域において市町村合併の動きが加速しているように見えます。また、市町村合併に際して、住民投票を行うところも少なくないようです。私が少し疑問に思っているのはこの住民投票の役割についてです。住民投票自体は議員のエゴ排除や住民の考える能力育成等、民主主義のツールとして有効であると私も考えるので、必要に応じて活用していけば良いと思うのですが、その使い方には十分留意が必要です。
 いくつか目に付くのは合併の可否に関して住民投票で問うている事例ですが、通常、我々人間は現状を維持しようとする嗜好を持っていますので、単純に賛成か反対かを問えば、反対の方が多くなるような気がします。重要なのは合併したらどのように変わるのか、合併しなければどのような問題があるのかを、きちんと住民に情報提供しているかどうかです。住民の中に現在の自治体の財政状況等を十分に理解している人は少ないでしょうし、今後、合併による生活の変化もイメージしにくいと思います。もし、住民投票を合併の判断材料とするのであれば、この辺の情報提供を十分に行うことが大前提であり、それを行わず住民投票を行った場合は「民主主義の失敗」が発生する可能性があると考えられます。
 もう一つ住民投票で気になっているのは、合併相手の選択です。合併する際の相手の自治体も住民投票で選んでいる自治体がいくつか見られますが、ここにも問題があると思っています。私が住民だったら、絶対、大きな自治体と合併する方が有利と考えるし、その方がイメージ的にもメリットが大きいので、大きな自治体との合併に投票するでしょう。しかし、これって良いことでしょうか?皆がこのようなことを行った場合、結果的に大きな都市と合併する周辺自治体と、物理的にそれができなかったその他の自治体の集まりに分化してしまわないでしょうか。それのどこが悪いのか、と言われると私自身も分からない部分ではあるのですが、「機会が均等ではない」点が気になっており、地理的な配置でどうしても既存の過疎地が不利になるような合併になってしまうのではないかと思います。

2003/2/1 『ポジティブ・フィードバック・ループ・チーム』
 カルロス・ゴーンが日産自動車の改革に取り入れたとしてクロスファンクショナル組織が注目されていますが、これと少し異なる組織形態を行政改革推進のために提案したいと思います。その組織形態の名はポジティブ・フィードバック・ループ・チーム(PFLT:Positive Feedback Loop Team)です。これまで行政機関で仕事をさせてもらった経験として、やはり縦割りの弊害を大きく感じることがあります。また、個々の政策は必ずしも悪くない、むしろその分野だけの側面から見るとかなり良い場合もあるのですが、その縦割り組織構造故に政策が十分に活きていない場合も多々あるように見受けられます。すなわち、政策とは、組織の構造のように分かれているようで、実際にはそれぞれが他の分野と相互に影響し合っており(分かれていない)、この辺を十分に押さえておく必要があります。これは日本の景気対策において一つの政策を行っても、なかなか悪循環を断ち切れないことに似ています。つまり、複数の政策を連動させて好循環を形成することが重要です。
 そこで、PFLTの提案です。PFLTとはすなわち、相互に影響され、好循環を形成するであろう政策の担当者がチームを作って、その好循環形成に向けて取り組むというものです。例えば、「福祉サービスを担う人材確保」という政策が福祉担当部署においてあったとします。これ単体で行われた場合、あくまでも既存のボランティア団体や福祉法人等の支援に留まってしまう可能性があります。そこで、以下の図に示すように他の関連分野の政策と複合することで好循環を形成します。学校教育や生涯学習においてボランティアに関する教育を行うことで福祉サービスに関わる人材供給を確保するとともに、福祉サービスに関連した産業として振興することで産業活性化を図るとともに、福祉に関する啓発も推進できます。この例は、端的なもので実際にはもう少し複雑になると考えられますが、今後、このPFLTのような組織形態が有効なのではないかと思う次第です。大まかなアイデアレベルで恐縮ですが、とりあえず提案までに掲載します。もう既に行われている事例もあるかもしれませんが、その場合はあしからず。

2003/1/2 『ネットワークは公平をもたらすか』
 以前にも同じようなことを書いたと思いますが、インターネットが持つと言われる「格差是正」というメリットは本当でしょうか?むしろ逆の面もあるのではないでしょうか。格差をどのレベルで捉えるかにもよりますが、地域レベルで捉えた場合、不公平を拡大する可能性が多分にあります。
 例えば、教育に目を向けてみましょう。我が国でも、インターネットによる大学の遠隔教育が出てきており、既に米国では数百の大学がこのサービスを提供していると言われています。もし、日本中の大学がこのようなサービスを開始したらどうなるでしょう。たぶん、遠隔教育を利用したい学生の多くは、同じサービスなら知名度の高い大学のサービスを利用したいと思うでしょう。すなわち、教育サービス提供において更に地域間格差が拡大する可能性が十分に予想されます。
 大学間の遠隔講義でも同様の話ができます。この前、ある有識者の話を聞いて思わず相槌を打ってしまったのですが、「地方大学の学生は東大の先生の講義を受講したいと思うでしょうが、東大の学生は地方大学の先生の講義を受講したいとは思わない」ということは単純に予想できます。つまり、すべての大学が単位互換、遠隔講義等を行った場合、東大等の講義に受講が集中し、地方大学の講義の受講者が減少するという結果がもたらされる可能性があるのです。
 このような現象は個人レベルでは、格差是正として捉えることができますが、地域という単位で見ると、逆に格差拡大につながり、これは自分達が生活する地域の生活にそのまま跳ね返ってきます。私達消費者が地域というマクロ的な視点を考慮するほど賢くない、すなわち経済学で想定しているような完全合理性に基づいて行動していないということは中心市街地の衰退からも明らかです。このように、我々の認識が十分でない中では、インターネットはむしろ格差拡大の要因となり、結果的に地域レベルの格差拡大が個人の性格レベルに影響を与えることが想定されます。

2002/11/29 『ビジネスチャンス』
 私はこれまで何回も引越しをしていますが、近い将来はある程度、腰を据えて居を構えたいと思っております。長期的に居住する場合、その地域の生活環境やコミュニティが自分の希望や考え方に合っているかが非常に重要です。しかしながら、現在、書籍や雑誌、あるいはインターネットで流れている情報では、このようなことを判断することは難しい状況です。確かに、雑誌等で都市の住みやすさランキング等を行っている場合もありますが、ほとんどが統計データに基づくもので、具体的なイメージが掴めません。また、自治体単位の評価が多く、同じ自治体内でも、地域によって特性が大きく異なることを考慮すると、細かな情報が足りないところです。もし、私と同じようなニーズを持っている人が多いのであれば、これはビジネスチャンスではないでしょうか。
 新居を構えたい人が自分の嗜好や考え方、ニーズ等をアンケート形式で入力すると、お勧めの居住地域をレコメンドしてくれるようなオンラインサービスがあると便利だな、と私は思います。もし、存在するのであれば、絶対有償でも利用します。なぜなら、人生にとって非常に重要な決定事項の一つに他ならないからです。無償で提供してバナー広告で収入を得ることも考えられますが、それよりは情報そのものの価値から収入を得ることが望ましいと思います。仮に、バナー広告が住宅供給企業のものであれば、裏でその企業に有利な情報操作があるのではないかと疑ってしまいますし、実際、サービスの内容を考慮すると住宅供給企業が広告主として最有力候補であるという矛盾が存在します。
 ただ、このビジネスチャンス、冷静に考えると、近所づきあいの希薄化、移動性の向上等、人々の志向は逆行しているようでもあり、意外とニーズは少ない可能性があります。住居そのものの質と交通の利便性、あと地域のイメージみたいなものだけで案外、皆さん居住地を決めているのかも知れませんね。

2002/11/11 『企業の存続について』
 「倒産」と言うとネガティブなイメージを受ける方がほとんどだと思いますが、もっとポジティブな見方もできるのではないかと考えています。すなわち、変化に対応した産業構造変革が進んでいるという一つの証でもあるわけです。
 我々の消費スタイルや、それを取り巻く社会環境が変化している中、産業構造も自動的に変化を求められます。しかしながら、組織としての慣性が働く企業では、柔軟に環境変化に対応することができず、存続することが難しくなる場合も少なくありません。そんな折、対応できない企業を無理に存続させることは、社会全体としてはマイナスの要素を多分に持っており、ある意味不良債権生成につながります。もちろん、倒産することによって失業者が出ることは確かですが、もし失業した人が柔軟にキャリアを変化させられ、新たな職に付けると仮定すれば、倒産はある意味、社会にとって望ましい解と言えます。しかし、実際には上記のように、職業を変更する等、柔軟に対応できる人は少なく、新しい職を見付けることも困難な状況です。
 だからと言って、倒産すべき企業を無理に延命し続けても、将来の先行きはなおさら暗くなるだけです。最近、更なる大型倒産の危惧から市場への不安感が高まっているようですが、上述したように、経済全体から見た場合、倒産自体は決して悪いことばかりではありません。もちろん、私も自分の会社が倒産することは嫌ですが、そうは言っても、総論賛成、各論反対で社会が成り立たないことは、これまでも我々が学習してきたことです。もし、市場からニーズがないという評価を付き付けられ、それに柔軟に対応できなかった場合は、潔く市場から退出することが重要です。
 今の日本は、失業者増加によるリスク(恐怖?)から、企業の倒産(特に大企業の倒産)による産業構造変革を促すことができない状況です。ソフトランディングも重要かも知れませんが、あまりにもゆっくりと滑走路に下りることで、飛行機が滑走路からはみ出すようでは本末転倒です。それ故、政策調整によって捻じ曲げられた政策よりも、「独裁」なんて揶揄されても、一本筋の通った政策を行ってもらいたいと思う今日この頃です。

2002/10/18 『環境免罪符』
 今の世の中、罪悪感というのを感じながら生きている人がどれだけのいるのか甚だ疑問ではありますが、中には罪悪感を持っている人も少なくないと、私は信じたいと思います。例えば電車の中での携帯電話の利用ですが、罪悪感なく話している人もたくさんいるでしょうが、中には、本当は使いたくないのだけれども、仕事上、仕方がなく、罪悪感に苛まれながら電話に出ている人もいるでしょう。そんな時、この良心の葛藤を経済的な力に変える方法として「免罪符」を利用できないかと考えています。携帯電話の例を続けるなら、電車の中で携帯に出ても良い免罪符を販売して、その収益を電磁波に強いペースメーカー開発に当てることが想定されます。
 なぜ、このような発想が出てきたかと言いますと、私自身、このような葛藤に直面しているからです。私は自動車、特に速いスポーツカーが好きで、そのような車に乗り続けたいと思っています。しかしながら、環境面から考慮すると、このようなスポーツカーに乗ることは、排気ガスや燃費の面から決して望ましいことではありません。環境保護等について考えているつもりですが、この部分だけでは個人的に譲れそうにありません。そこで、環境免罪符があれば良いのではと考えたわけです。私は、燃費の悪いスポーツカーに乗る変わりに、いくらかのお金で環境免罪符を購入し、そのお金が別の場所で環境保護に使われる、こういう仕組みがあると助かります。私の気持ちも少しは救われますし、環境面でもメリットがあり、経済学的に捉えると、誰の効用も下げることなく全体の効用を高めていると言えるでしょう。
 実際に機能するかどうかは分かりませんが、実績のあるNPO等が環境免罪符を販売するといったビジネスモデルがあっても良いような気がします。もう既にあるのかも知れませんが。

2002/10/8 『精神活動の節約』
 どうやら、我々人間には少なからず精神活動を節約しようとする傾向があるみたいです。確かに、日々、自分の身の回りで起こっているすべての事象を真剣に分析し、意思決定していたのでは疲れきってしまいます。このような疲労を回避するために精神活動を節約するのです。例えば、雑誌でランキングが一位になっている商品を選択するのは、どの商品を購入するか悩むことを軽減しますし、周りに気を配らないような行動もある意味では本人の精神的な負担を軽減しているのでしょう。
 最近、我々の周りの情報量や意思決定機会は確実に増えてきており、そのために精神的な負担要因が拡大していることも事実でしょう。このような社会環境変化に対応する形で、我々がある部分において精神活動を節約していると考えると、上記のような行動もある程度説明できます。つまり、マナーの悪さとか、社会的にあまり好ましくないように思われる個々の行為も実は本人にとっては精神活動の節約なのかも知れません。
 そこで提案です。個々人の精神活動の負担を軽減することで、逆にこのような社会的に好ましくない個々人の行為を改善できないでしょうか。つまり、シンプルライフへの移行です。現在、嗜好へのカスタマイズと称して、商品やサービス、そして制度等も多様化し、複雑になっています。これはシンプルライフという発想とはまったく逆です。例えば、すごく多様な種類のある飲料品、これらを数種類に統合すれば、とりあえず飲料品の選択で悩むことはありません。
 もちろん、多様な選択肢から選ぶことは楽しみでもあり、そういう楽しみを享受してきた我々が逆戻りすることは不可能でしょう。また、選択肢を少なくすることは企業の差別化戦略にも反します。それ故、私のシンプルライフ提案は非常に難しいのですが、少しでもシンプルにしようと努力することが今後は重要なのではないかと思うわけです。メニューが3種類しかなくても、評判が良く、繁盛しているラーメン屋があります。こういうところが増えることで、少しでもシンプル化できるのではないでしょうか。

2002/9/25 『ソーシャル・キャピタル』
 世界銀行のレポートを見ると、「ソーシャル・キャピタル」をタイトルに冠しているレポートがいくつか存在します。「ソーシャル・キャピタル」は日本語に直訳すると「社会資本」となり、道路や公園、公共施設等、社会に必要な公的なインフラをイメージしてしまいますが、どうやらそうではないようです。世界銀行のホームページによると、ソーシャル・キャピタルとは「ある社会における社会的相互関係の質と量を形成する制度(institutions)、関係(relationship)、規範(norms)」となっています。つまり、社会を形成しているソフト的な部分であり、これを資本、もしくは資産と捉えているのです。また、世界銀行のレポート“Understanding and Measuring Social Capital”によると、ソーシャル・キャピタルは構造的(structural)キャピタルと認知的(cognitive)キャピタルの二つに分類されています。前者は「設定された役割」、「社会的ネットワーク」、「ルールや手続や先例によって提供される社会構造」であり、後者は「共有された規範」、「価値観」、「信頼」、「態度」、「信念」となっています。
 このような発想が出てくるのは、地域の振興を図る上において、産業、人、金銭的な資本、技術等、認知し易いものだけでなく、認知し難いソフト的な部分の重要性が増しているからに他なりません。例えば、ある地域がインキュベーション施設を整備したとしても、住民に起業家としての気質がなかったり、アイデアを創出能力が欠けていれば、この施設はうまく機能しないでしょう。
 この考え方は地域情報化にも当てはまります。情報化が進んでいる地域とそうでない地域の差はやはり、このようなソーシャル・キャピタルの違いに依拠する部分が結構あると私は考えます。情報化が地域においてプラスに働く仕組みをソーシャル・キャピタルという切り口で考えるのも面白いかもしれません。

2002/8/15 『文化が先か?情報化が先か?』
 OECD(経済開発協力機構)が先月、10年ぶりに改訂した「情報セキュリティガイドライン」に“Culture of Security'”という概念が導入されているそうです。これは、ネットワークのセキュリティに関する新たな「思考や行動の方法」を総称しているそうですが、まさに「文化」という捉え方は的を射ているような気がしています。
 情報化に限らず、新たな仕組みやシステムを、組織や社会に導入した場合、うまく根付くかどうかが成功のキーポイントになります。根付くとは、つまり、その組織や社会の文化として組み込まれることです。根付かない場合、従来から存在した文化が新たな仕組みやシステムを拒否したことになります。
 情報化を進めていても、このような文化の問題は大きく立ちはだかります。他の組織でうまく機能したシステムでも、自組織でうまく行くとは限りません。これはまさに文化的な差異による部分です。それでは、情報化に取り組む場合に、この文化的な適合性の差異をどのように扱えば良いのでしょうか。そもそも、いくつかの課題が存在します。
まず、情報化と文化的な適合性を事前に正確に評価することは現状において非常に困難です。ある程度は感覚で分かる部分も存在しますが。仮に文化的な適合性に問題があることが正確に分かったとしても、次にその対応にも課題が存在します。情報化と文化が合わないのであれば、選択肢は「文化を変化させる」か、「情報化を変化させる」か、もしくは「双方を行う」かの三通りです。文化を変化させることには時間を要するので、情報化を変更することの方が正解のような気がしますが、得てして、それでは当初の目的が達せられないことが多々あります。
情報化のコンサルに入った場合、この文化面にも気を配っているつもりですが、これを扱うための技術が不足していること、文化を変えるまでの実行力を行使できないこと等の理由から、実際にはうまく情報化と合わせた検討ができていません。情報化と文化、双方の変革を同時に行えるようなコンサルティングが理想ですが、まだまだほど遠い状況のような気がしております。また、情報化に関して先駆的な自治体と言われるところを見ますと、案外、組織内部からの自主的な取り組みで文化的な変革を実現している事例が多いように見受けます。
 「情報化」と「文化」の関係に関しては、今後も継続的な研究が必要と感じる次第です。

2002/8/2 『価値観の規制緩和?』
 規制緩和をすることで経済が活性化するとよく言われますが、これは我々の意識(価値観)においても同じことが言えるのではないでしょうか。最も分かり易いのが、髪の毛の例です。以前は、我々の共通意識として、髪の毛を染めるのは「不良」という固定観念がありました。しかし、昨今では、髪の毛を染めた人が増えることで、染めること自体への抵抗感はなくなりました。これはある意味我々の意識(価値観)の規制緩和と言えます。この髪の毛に対する価値観の規制緩和により、髪の毛を染めるヘアカラーの市場は大きく拡大しているのではないでしょうか。
 この他にも価値観の規制緩和が経済を活性化する可能性は色々考えられます。例えば、我が国では電車の中で携帯電話を使うことは受け入れられませんが、お隣の韓国では当たり前のように電車の中で携帯電話を使っています。もし、我々の価値観がこれまた規制緩和して、電車の中で携帯電話を使うことを受け入れられるとするならば、電車の中で話をする分、携帯電話の通話料金は更に増えるのではないかと予想されます。
 ただし、携帯電話もそうですが、価値観の規制緩和が社会的に見て良い方向にばかり行くとは限りません。社会的な秩序を保つためにも一定のルールを守るような共通価値観は必要であると考えられ、規制緩和してかまわない価値観とそうでない価値観、双方にどこで線を引くか非常に難しいところです。

2002/7/24 『思考の海に揺れて』
 我々の思考は我々の行動として外に出ます。そして、その行動は周りの人間に影響を与えます。つまり、行動という現象を通じて、思考は波及する可能性を持っています。なぜこのような話をするかと言いますと、昨今、私の周りでは会社を辞めたり、転職(会社を変わること)したり、する人が増えてきています。不況の折、これは日本全体のトレンドだと思っていましたが、周りの人の理由は必ずしも不況に依拠するものではなく、また、厚生労働省の『平成14年版労働経済白書』を見ても、私が感じているほど転職の統計的な数値は変化が見られません。そこで、考えたのが周りの人間の相互波及効果です。
 私個人の経験から転職というのは、勇気と労力を必要とします。もし、私の周りに転職した人が一人もいなければ、私は転職していなかったかも知れません。幸いかどうかは分かりませんが、私の周りには多くの転職経験者がおり、彼らの転職という行動(思考)を通じて、私も転職というものが身近に感じられるようになりました。そして、私の周りで最近、転職を試みられている人達も、少なからず私の転職という行動により、思考に影響を受けたのではないかと考えています。
 この思考の波及効果は経済学で言うところの外部性に相当しますが、経済学的に正か負か直ぐに判断できないものも存在する点が大きく異なります。例えば、ある学生Aは大学の進学時に周りの友達の影響により進学先として経済学部を選んだけれども、この思考の影響が経済学的に正になるか負になるかは、学生Aの入学後の行動に依拠します。Aが努力して優秀な経済学者になれば、過去の波及効果は正の外部性であったと考えられますし、逆に入学してから自分に経済学は向かないとウジウジして、将来的な目標も曖昧になるようなら、負の外部性であったと捉えることができます。
 ちなみダイレクトに外部性に結び付くような思考もあります。例えば、ある人がタバコの投げ捨てをしているのを見て、他の人もそれに違和感なく、タバコの投げ捨てをするようになれば、これは立派な外部性だと思われます。
 冷静に考えますと、我々の思考というのは、他人の思考からの影響の蓄積であり、今現在も他人の思考の海に揺られながら生活しているのだな、と改めて思うわけです。

2002/7/8 『役割を忘れたマスメディア?』
 どこまでをマスメディアとするかは難しいところですが、国民の考えや思想に少なからず影響を与えることができるマスメディアは客観的であってしかるべきではないか、と常々思います。しかしながら、これが裏切られる事が最近、身近で起こりまして、ちょっと書き綴る次第です。
 先週の木曜日でしたでしょうか。ブラジル料理を食べに行ったのですが、たまたまそこに某ニュース番組が取材に来ておりました。取材した内容は、サッカー日本代表の次期監督と噂が流れていますある人について「どう思うか?」というものでした。多くの人は好意的な意見を述べていたと思いますが、私はその人についてあまり良い印象を持っておらず、その人が代表監督になってもうれしくない、という話をしました。多くの人にインタビューしても放送時間は限られているので、私がテレビに出る可能性は少ないだろうとは思いましたが、一応念のため家に電話して、そのニュース番組をビデオ録画してもらいました。
 帰ってから録画を見てがっかりしたことは、私へのインタビューが使われていなかったことよりも何よりも、その監督候補者が監督に就任することに対して好意的な報道しかされていなかったことでした。反対意見も少なからずあるはずです。少なくとも私はその某ニュース番組から受けたインタビューで反対意見を述べました。しかし、そのような反対意見があることは一つも報道されませんでした。
 繰り返しになりますが、本来、マスメディア、特に報道番組は客観的であってしかるべきではないでしょうか。その後ろに利害関係があるのかどうかは分かりませんが、一つの方向からしか物事を捉えられないことは、その役割が果たされていないことに他なりません。これは個人情報保護関連法案に関しても同様です。マスメディアにそのような機能が欠落している以上、十分なメディアリテラシーを身に付けることは我々国民にとって必要不可欠な気がします。

 

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