徒然ノート バックナンバー3

思いついたことを徒然なるままに掲載したいと思います。

2000/2/13 『駐車違反の経済学』
 これまでに駐車違反で2度捕まったことのある私が書くのも何ですが、駐車違反の罰金を全国一律にするのはどうか?と最近考えております。きっかけは関西出身の友人との会話で、本当かどうか分かりませんが、世に有名な大阪の迷惑違法駐車は経済的な打算のもとになりたっているそうなのです。つまり、駐車料金が高いから捕まることのリスクを犯しても良いと考えるのです。例えば、駐車料金が1日1,500円かかるとして、20回に1回の割合でしか駐車違反で捕まらないとします。20回駐車違反をすることで3万円の駐車料金が節約され、1回駐車違反で捕まって1万5千円の罰金を取られても、合計でプラスになるのです(違反による点数はここでは考慮から抜けますが)。
 このような考え方から違法駐車が行われていることを考えると、その土地の地価や駐車料金等に応じて罰金を変更することが必要ではないかと考えてしまいます。もちろん、道徳観念やマナーの育成、最近行われている車輪ロックの制裁措置等も不可欠でしょうが、経済学的な面からもアプローチしてみてはいかがかと思います。特に迷惑違法駐車で困っている地域だけは特例で違反料金を倍にする等、地方公共団体の裁量があっても良いのではないでしょうか(既にあったらごめんなさい)。

2000/2/10 『情報のオーバーフロー』
 郵政省の情報流通センサスからも窺えますが、昨今、情報の流通量は急速な勢いで拡大している反面、各個人の情報消費量はほとんど変わっていません。つまり、人間個人で消費できる情報量には限界があり、流通する情報量が増えたからといって、消費能力が向上するわけではないのです。このようなことを考えると、情報発信自体にも「負の外部性」、つまり他の人に迷惑をかける要素があるのかも知れません。情報の質を評価することは非常に難しいですが、もし質の低いと考えられる情報を発信する人がいるならば、検索対象となる情報を増やすという面で他の人に迷惑をかけていることになります。かく言う私もホームページを開設してこのように情報発信をしていますが、他の人に「負の外部性」を与えている可能性が十分にあるわけです。

2000/2/7 『情操教育ではなくハイソ教育』
 文部省が2月4日に明らかにした調査で我が国の家庭において親のしつけが十分に行われていない結果がでました。調査の精度がどの程度か疑問はありますが、調査結果では親から「うそをついてはいけない」、「人に迷惑をかけてはいけない」等と言われている子供の割合が日本で一番低かったそうです。偏差値教育からの脱却を含めて多くの教育機関が情操教育を推進していると思われますが、家庭においては都合の良い解釈がされ、所謂「ハイソ教育」に成り下がっている事例も多いのではないでしょうか。芸術等を嗜んだり、ボランティア活動を行うこと等から情操教育に取り組んでも、上記のような基本的な道徳観の育成が行われていないのでは真の意味での情操教育にはなりません。
 では、なぜそういう結果になるのでしょうか。真の意味での情操教育を実現するためには親の側にもなんらかしらの我慢が必要であり、自分を律することが要求されます。最も分かりやすい例が学校のズル休みです。最近家族そろって海外旅行に行くために「風邪をひいています」と平気で親が嘘を付く例は珍しくないそうですが、そういうことをしておいて子供に「嘘をついてはいけません」と言っても、全然説得力がないわけです。真の意味での情操教育を実現するためには、親の側でも自分を律する努力が必要なのではないでしょうか。いくらバイオリンやピアノが弾けても、いくら絵を描くのが上手でも、いくら有名進学校に通っていても、嘘をつくことに罪悪感を感じない人間を生み出すような教育は、親の自己満足による「ハイソ教育」なのです。

2000/1/28 『第十堰住民投票について』
 私は徳島県出身者で掲題の件に関しても少なからず興味を持っているのですが、これまでこのコーナーでは取り上げませんでした。それはこの問題が非常に難しく、的確な話ができるかどうか疑問であったからです。しかし、住民投票が終わり、住民代表と建設相の話し合い等、新たな展開も見られますので、少し私の考えるところを整理したいと思います。なお、吉野川第十堰問題の概要に関しましては下記のホームページを参照下さい。
 まず、住民投票と流域二市八町で構成する「第十堰建設促進期成同盟会」の意見がなぜ分かられるかについて考えてみました。この理由は簡単です。現在の間接民主制が完全なものではないからです。通常、間接民主制では情報の流れが「住民→議員→国」となりますが、現状では「住民→利益団体→議員←国(中央省庁)」となっています。これにより代表者である政治家は利益団体や中央省庁の意向に大きく影響を受けることになり、住民の意向が反映されません。実際、市町村レベルでは、「利益団体の代表=議員」となっていることも少なくないでしょう。ただし、このような現状を打破することもリコール等に訴えることで可能です。住民の9割がもし反対しているのであれば、これらの人の署名を集めることで、賛同する地方公共団体の長のリコールを請求することができます。可動堰に反対する住民がどれだけのパワーと持っているかが重要です。
 一方、この住民投票による直接民主制的な部分には「直接政治の失敗」を誘発する恐れもあり、この点が危惧されます。代表的な例としては税金が挙げられます。減税に関しては多くの住民の賛同が得られるでしょうが、実際に地域にとってそれが必要かどうかは別問題です。無理な減税により地方公共団体の財務状況が悪化し、教育や福祉等の今日サービス低下を招く恐れもあります。したがって、このような「直接政治の失敗」という観点から、今回の第十堰問題も環境問題等の観点から反対の方が住民の指示を得やすかった、とも考えられます。実際の必要性に関しては、専門的な知識を有していないと理解できない部分もあるのかもしれません。
 しかしながら、徳島県に20年あまり住み、第十堰にも何回か遊びに行ったことのある者として言わせていただくと、可動堰といった大々的なものを作る必要性はなく、現在の堰を改修したり、迂回ルートの整備等の代替手段で、可動堰整備の目的となっているところは達成されるのではないかと考えます。また、可動堰の整備により失われる可能性が高い吉野川の自然に関しても配慮していただきたいと思います。今後、反対派と賛成派による協議も更に進むと思いますが、可動堰を整備すること自体が目的ではなく、洪水等によるリスクをいかに回避するか、という本来の目的に双方が合意し、相互に歩み寄ることが望まれるのではないでしょうか。
http://www.topics.or.jp/daijyuzeki/

2000/1/26 『子供連れの親の負の外部性について』
 すべてがそうではないでしょうが、子供連れの親のほとんどが子供にだけ意識が集中し、周りが見えてないような気がします。子供連れで3列になって歩いており、道を塞いで後ろがつかえているにもかかわらず、全然気にしない親がいますし、公共の乗り物の中でも親子で平気で歌を歌っているのを見かけた時もあります。年末にスキーに行った時も転んだ子供に気を取られるあまりゲレンデを無理に横断した母親がおり、私は彼女を避けるために派手に転びました。しかし、彼女はそんな私に気付きもしませんでした。このように経済学的に言うと「負の外部性」を与えている子連れの親というのは比較的多いのではないかと推察します。
 このような親達の気持ちも分からなくはないのですが、自分が感じた不快感を考えると、もし子供が産まれたとしてもこんな親だけにはなりたくないと思います。大げさかもしれませんが、このように周りに無頓着な親の存在が自己中心的な子供を育てる要因になる可能性もあるのではないでしょうか。ただ、実際に子供が産まれると、私もどうなるか自信はありません。案外、周りが見えない親に成り下がっているかもしれません。

2000/1/15 『少年犯罪と報道』
 正確な統計データを持っていないので断言できませんが、最近、少年犯罪が多発しているように感じます。恐喝や殺人、暴力等、様々な事件がありますが、私が学生の頃よりも内容はエスカレートしている印象を受けます。恐喝に関しても最近1千万円近いお金を脅し取っていたというニュースを見ましたが、私の学生時代は、いわゆる「かつあげ」と言われ、お小遣い程度を奪い取っていた状態でしたので、今と比べるとかわいいような気がしてしまします。
 このような少年犯罪が多発する中、昨今の報道体制について少し気になっていることがあります。それは少年犯罪が起こった時に決まって学校の責任を問う報道に終始する方向にあることです。少年犯罪は多様な理由により起こっておりますので、その原因を学校の管理が行きと届いていないことだけに訴求するような報道はあまり良いことではないと思います。学校だけでなく、むしろ家庭にも大きな原因があると思いますし、その他にも周囲の環境(友人や隣人等)による影響も大きいでしょう。
 こういった偏った報道は人々の考え方にも少なからず影響を与え、学校の機能に過剰に期待したり、親側の責任放棄の原因にもなり兼ねないのではないでしょうか。最近の学校では父兄が怖くて生徒を叱ることも難しくなってきている印象を受けますが、このあたりが学校におけるモラル育成機能の低下に大きく影響していると個人的には危惧している次第です。

2000/1/4 『左ハンドルの車』
 新春の話題として妥当かどうかは甚だ疑問ではありますが、車のハンドルについて少々思うところを書かせて頂きます。
 我が国は左側通行で英国やオーストラリアを除くほとんどの先進国と自動車の車線が異なります。したがって、欧米の車を輸入するとハンドルが逆になり運転しにくくなります。最近でこそ右ハンドルの外車も増えてきましたが、未だに左ハンドルしかない車も少なくありません。
 私も自動車に乗り始めた時分は、左ハンドルの車の方がカッコイイと思ってましたが、今となってはただ単に運転しにくいだけでしかありません。以前、英国に出張した折に驚いたのはほとんどすべての車が右ハンドルだったことです。我が国以上に外国の車、特に他のヨーロッパ諸国の車が多く輸入されているにも関わらず、私がどんなに探しても左ハンドルの車は見あたりませんでした。つまり、英国と比較すると我々日本人は乗りにくい左ハンドルを無理して乗っているように見ることもできる訳です。
 今更左ハンドルがカッコイイなんて思っている人はほとんどいないでしょうし、だいたいは「以前左ハンドルだったから慣れている」といった理由で左ハンドルの車を購入されていると思いますが、個人的には右ハンドルの車が増えてくれた方が、交通によるトラブル等も少しでも減少するのではないか?と思う次第であります。 

1999/12/24 『コンサルタントの矛盾』
 私は調査研究やコンサルタント業務を生業としていますが、特定の地域を対象にしたコンサルタント業務を行っていると自分の力の限界を感じる場合があります。都心に立地する企業として地方のコンサルティングを行う場合、客観的な視点からその地域を見ることができる反面、実際の地域変革の推進力として地域に密着した活動は困難です。
 こういう問題から都心のシンクタンクから特定の地域に根ざしたコンサルタントに転身される方もいらっしゃるみたいですが、コンサルタント業務がその地域において継続的に発生し、自分がそれを引き受けられるという保障がない限り、リスクが高いような気がします。その点、都心で全国を対象にコンサルタント業務を行うと、地域に密着できない代わりに仕事の機会は多くの地域から得ることができます。
 ただし、情報化、まちづくり、環境問題、都市計画、中小企業診断等、多様な能力を育成することで地方においても継続的なビジネス獲得が期待できます。将来的に特定の地域のコンサルタントに転身するかどうかは分かりませんが、とりあえず、現状の能力ではまだまだ不十分であり、更なる能力向上に励もうと思う今日この頃であります。

1999/12/4 『中心市街地活性化の失敗?』
 最近、中心市街地活性化への取り組みが各地で進められているが、新聞、雑誌、テレビ等、マスコミ等の報道により、一種の流行と化している部分もあるのではないかと思われます。経済学的に考えると、ある街の活性化は隣の街に対して顧客流出等の負の外部性を与えるものであり、すべての街が活性化することはあり得ないような気がします。
 以前、『地域間競争とゲーム理論』というタイトルでも書かせていただきましたが、すべての街において活性化の取り組みが進んだ場合、その取り組みの効果が同じ程度だと仮定すると、結果的にすべての取り組みのメリットは相互の負の外部性により相殺され、それぞれの街には出費したコストだけが残るようになってしまいます。
 このようなことからすべての街が活性化に取り組むのはかまわないのですが、そのリスクを十分に理解し、覚悟を決めて取り組んでいただきたいと思います。活性化の取り組みでショッピングセンターを作る、という記事を良く見かけますが、隣街や郊外でも同様の試みがある場合、かなりリスクの高いものになります。この中心市街地活性化の取り組みが、これまで批判の対象となってきた安易な第三セクターによる取り組みと同じものにならないことを祈ります。

1999/12/2 『介護保険について』
 来年4月の施行を前に介護保険に関する報道や記事も日増しに増えてきているような気がします。最近、報道されている情報のほとんどが受けられる福祉サービスが現状より減少するというものですが、これはこれまで行政等により政治的な側面からサービスが提供されてきたところに、医者、ケアマネージャーを中心とした要介護認定という科学的(?)客観的な視点が付加されたことによるものだと思います。
 行政を中心とした福祉サービスではコスト感覚の欠如や住民からの政治的圧力によりどうしてもサービスが過剰供給になるような気がします。一度サービスを提供するとこれが既得権となってしまい、上記のような摩擦が生じてしまう訳です。この前報道されていた事例を見るに他の老人とのコミュニケーションの場を得るために福祉施設に入所、または通っている高齢者の方も少なくないのではないかと思います。このようなコミュニケーションの機会の提供まで介護保険でカバーするかどうかは疑問な部分もあります。
 ただ、これらの過剰なサービスがこれまで行われてきた事実があり、いわゆる政治的過程による「政府の失敗」と考えられます。何でもそうでしょうが一度失敗するとそのリカバリーには多くの時間や労力が必要になります。今後、介護保険における従来とのスタンスの違いを徐々に啓蒙して埋めていく必要があるのではないでしょうか。このような介護保険に該当しない部分を市場サービスでカバーするか、自治体独自の福祉サービスでカバーするか、というと断然後者の方が多くなるわけですが、高齢者の意識を徐々に変えていくことで、NPO等を中心とした市場サービスとして成立することも可能ではないか、と勝手に思っております。

1999/11/30 『恋愛の経済学』
 何かとお堅い話題ばかり取り上げているこのコーナーですが、たまには柔らかいテーマも取り上げてみようということで「恋愛」について考えてみることにしました。
 人が人を好きになるには基準となる価値観があると思います。つまり、身長が高い方が良いと思う女性には、身長の高い人男性の価値が相対的に高いでしょうし、その他にも「体型」や「学歴」、「収入」、「その人が所有している物」等はある程度客観的に評価し易い基準のような気がします。一方、客観性が保ち難い基準としては「かっこよさ」とか「性格の良さ」とか「雰囲気」とかが挙げられるでしょうか。このような様々な価値観Xnにより自分の中での価値が極大化される相手、つまりΣXn=X1+X2+・・・Xnが最も大きくなる相手が理想のあいてとなります。
 実際にはそのような人に巡り会えるのはほとんど皆無に近いと考えられ、つきあって一緒にいる時間が長くなるにつて個々の基準が相手に合わせて変化していくのではないかと考えられます。もう一つの考え方は、ΣXn+Y(N)という別の価値関数(Nはつきあった時間)が付くという考え方です。また、極大化する必要はなく、ある程度の基準を満たせば、つまりΣXn>α(基準)ならOKとする考え方もあるみたいです。
 いずれにしても、恋愛とは市場理論みたいに需要と供給によってもたらせるような感じがしますが、実際には一度相手ができると市場に参加できない(現実にはそうではないですが)のでゲーム理論的(と言っていいのか?)になるのではと考えています。以下の表で考えると単純に男性と女性が結びつく確率は3/64となります。実際にはそれぞれの割合が違いますが。

1999/11/26 『モラルハザードか??』
 広島市の生活保護受給者が1万人を超えたという記事を新聞で見かけました。人口1,000人当たり8.9人ということで、この数字だけではイメージがつかみにくいのですが、かなり多いのではないかと思われます。これは「最悪の場合、行政が助けてくれる」というモラルハザードが拡大しているのでは?と考えてしまいますが、受給者の実像を知らないだけに何とも言えません。
 ただ、一度生活保護受給者になると、「仕事がない→お金がない→自己投資できない→仕事がない」という悪循環に陥って、社会復帰することが難しいのではないでしょうか。行政側では臨時の雇用対策等を設けているようですが、ある程度技能を必要とする場合も少なくなく、根本的な解決にはならないのではないかと危惧されます。また、個人の側でも悪循環に陥る前に自分の能力を高めていなかった、という点ではやはりモラルハザードの部分があるのかな?という風にも考えてしまいます。モラルハザードの回避とセイフティーネットの整備を両立させることはやっぱり難しいのかもしれません。

1999/11/22 『ホームページによる情報発信について』
 最近、ある人(直接は知らない方です)が大学院に出した修士論文のレポートの試案がある人がホームページで公開している人のデッドコピーであることが分かるという事件がありました。私もその方が出した試案とホームページを両方拝見したのですが、ほとんどまったく同じで「よくこんなものを平気で出せたものだ」と信じがたい思いでした。
 こういうことが身近に起こってくると、私が自分のレポートをホームページで公開しているのは良いことなのか??と疑問に思ってしまいます。私の掲載しているものは、修士論文等には使えないとは思いますが、学部の学生が講義のレポートに使うことは十分可能だと思いますし、もしコピーを出されても、先生方が論文を一つ一つどこかのホームページのデッドコピーでないか確認するのはまず不可能なような気がします。
 そういうことを考えるとあくまでも利用者側のモラルに頼らざる得ません。大学の先生においては、そういうデッドコピーを見つけたら単位を取り消すとか、相応の処分をすることを最初に言及することが今後必要になってくるのではないでしょうか。

1999/11/5 『商店街活性化の妥当性』
 本日、中心市街地活性化をテーマとしたシンポジウムに出席しました。長浜市の黒壁の代表者の方、早稲田商店会の会長さん等、有名な方が講演やパネルディカッションを行われましたが、その中でも最も心に残ったのは関東通商産業局の方が言わた一言でした。
 その内容はだいたい以下のようだったと思います。「中小の製造業からみると商業は優遇されています。製造業は常に競争にさらされており、次の日に受注がないこともあり得ます。一方、商店街では大規模店舗との競争から保護されており、甘やかされているのではないでしょうか。」
 確かにその通りだと思う面もあります。ただ、下請け等の仕組みが発展している製造業と異なり、商業では大規模店舗と小さな店舗でもほとんどの場合競合してしまうという特性も忘れてはいけないと思います。

1999/10/25 『交通インフラの違いについて』
 以下の内容は某地域情報化に関するメーリングリストでかなり前に発言した内容です。ふと思い出しまして、ここに転載しようと思いました。
 以下転載文です。−最近考えていたのは、都心と田舎の情報格差の一つに交通インフラの違いが大きいのではないかな?ということです。私の田舎である徳島県もそうですが、田舎に行くと鉄道網が発達しておらず、マイカー通勤が非常に多く、この点が都心と大きく異なります。私が考えていたのは電車通勤自体が大きな情報の流通手段として機能しているということです。
 都内の電車に乗ると中刷り広告が沢山張られており、そこから情報を得ることも少なくありません。また、電車通勤ということで通勤途中に新聞、特にスポーツ新聞や雑誌等を呼んでいる人もかなり多くて、電車の中では膨大な量の情報が消費されています。
 一方、マイカー通勤だと、車の中でラジオを聞くぐらいで、情報の選択肢も限られてしまいます。私が予想するにスポーツ新聞等の消費量は都心に集中していることでしょう。
 情報が多ければ良いというわけではありませんが、やはり得やすい場所で流通している方が便利だという気はします。そういう日常生活の部分で流通する情報量、およびその選択肢を拡大するような工夫が地方では必要な気がします。それは情報通信機器を使うものでもいいでしょうし、タウン誌みたいな従来の紙媒体でもいいと思います。−転載おわり

1999/10/23 『小さなまちほど・・』
 まちづくりを地方公共団体単位で進めると仮定するならば、私は小さな(人口が少なく、面積の小さい)地方公共団体ほど、有利なのではないかと考えます。大きな(人口が多く、面積も大きい)地方公共団体では、様々な団体や人々の利害が入り交じり、なかなか統一され体系的なまちづくりの進めることが困難であると思われます。また、大きな地方公共団体では、行政と別にまちづくりを進める団体も多く、これらの個別の活動が効率的なまちづくり推進を阻害している部分もあるのではないかと考えられます。その点、特に過疎地域の小さな地方公共団体では、行政のまち全体の活動に占める割合や影響力が大きく、行政主導で統一的なまちづくりを効率的に進めることが可能ではないでしょうか。行政主導で行うことが良いのかどうかは、別にして、大都市等では、利害関係や様々な活動団体の調整を図ることに労力が奪われ過ぎて効率的ではない面もたぶんに有しているのではないか?と思う今日この頃であります。
 こと地域情報化という観点におきましても、山田村の事例やCATVを全世帯に整備した農村等の例があり、一度に全体に整備することで「ネットワークの外部性」を創出できるという面で、小さな地方公共団体の方が有利であります。一方で、人材や財源等のマイナス要因もあるかもしれませんが・・

1999/10/14 『地方分権について』
 昨今、「地方分権」という名の下に都道府県から市区町村へ様々な事務事業が移管されているように見受けられますが、本当に地方分権に結びついているのか甚だ疑問を感じています。確かに決定権を必要とする事務事業もいくつかあり、そういう面では「分権」と言えなくもなさそうですが、実際の、財源面での移譲が進まないと真の意味での分権とは言えないと思います。事務事業の移管にともない、その分だけ財源面でも措置がとられる場合もありますが、この財源が他の事業に活用できない現状では「分権」になっていません。
 これは子供(A君)の小遣いに例えることができます。A君の進学にともない、小遣いを5千円アップした状況を考え、これはこれまで親が買い与えていた服飾費をA君に移しただけだとします。もし親が「アップした5千円は服の購入にしか使っていけない」と言うのであれば、A君の小遣いは実質的に増加していないことになります。しかし、「5千円アップの中には服の費用も含まれていますからね」とだけ言えば、A君は服の購入を我慢して他の物を購入できる等、選択の幅が拡大します。
 今の地方分権は前者であり、後者になるような地方分権を模索することが必要であると考えます。

 

Copyright(C) Tadashi Mima  ALL Rights Reserved. 

 

  ホームへ      前のページへ