徒然ノート バックナンバー4

思いついたことを徒然なるままに掲載したいと思います。

 

2000/5/27 『ちょっと得した気分』
 私は一人暮らしを始めて最初に住んだ街の床屋に今も通っています。理由としては床屋の主人と顔馴染みになっているので、緊張しなくてすむし、カットについて細かな説明をしなくてすむからです。この床屋の近所に住んでいたころから2回引っ越しましたが、その心地よさ故に3〜40分ぐらい移動にかかっても、この床屋まで出かけています。本日もこの床屋に出かけていたのですが、その帰りにちょっと得した気分を味わいました。それは帰ろうと思い駅で切符を買おうとした時のことでした。私の前にいた女性がお金を落としたのです。私の足下に1円玉が転がってきたので私は拾ってその女性に渡しました。するとその女性は「ありがとうございます」と明るい声でお礼を言ってくれました。こういう親切をお金で評価するのは間違っているかもしれませんが、私にとっては千円札を拾って挙げたくらいの「ありがとう」と感じられたので、ちょっと得した気分を味わい、すごく気持ちよかったです。私も自分が親切を受けた時は、どのような些細なことでも変わらず、きちんとお礼が言えるようにしたいものです。

2000/5/17 『朝の通勤混雑について(part2)』
 私が朝の通勤混雑が嫌いなことは以前にも書きましたが(好きな人はいないでしょうが)、通勤混雑が精神衛生上、良くない理由として個体距離の話があります。人間は親しく心が許し合える人には近い距離に来ることを精神的に許可しますが、親しくない人とはできるだけ距離を置こうとします。これは空いている時の電車の座席の座り方からも分かります。もし電車がガラガラであれば、最初の人が端の席に座り、次に真ん中の席がうまるというのが定石ではないでしょうか。朝の通勤混雑はこのような個体距離を無視しているので精神的にストレスがたまります。それでも、長い間通勤していると慣れてくるもので、私も以前ほど知らない人と近接することからストレスを感じなくなっています。しかし、通勤混雑の状態で我慢できないことが1点だけあります。それは、自分の股の間に知らない人の鞄とかが挟まることです。説明が難しいのですが、混雑時に踏ん張ろうとして足を少し開いていると後ろの人が持っている鞄とかが自分の股の間に挟まることがあります。いくら個体距離を無視した環境に慣れてきたとは言え、こればっかりは我慢できません。股に挟まるということで個体距離がマイナスになるためか、股の間が特別な意味を持っているためか、理由は分かりませんが、こういうことがないよう混雑時にはお互い注意したいものです。

2000/5/8 『人付き合いと経済学』
 経済学は合理的な個人を前提としていますが、それは商品やサービスそのものの価値のみによる合理的な選択であり、背後にある人間関係は考慮に入っていません。でも、私の母とか他人の話を聞いていると「友人に頼まれて」とか「付き合いで」といった理由で購買行動を行っている事例が少なくないことに気付きます(私はほとんどないのですが)。つまり、商品やサービスそのものの価値だけでなく、その背後にある人間関係の価値も消費行動に含まれているのです。もし、経済学でモデル化されているように、商品やサービスの価値のみを評価して合理的な選択を行うことによって社会的に望ましい均衡が達成されると考えるならば、このような人間関係を重視した消費行動は好ましいとは言えません。背後にある人間関係の価値を含めて経済学の理論が成り立つかどうかは疑問でありますし、実際、我々が人間関係を含めて合理的に行動しているかどうかも疑わしいです。また、昨今、リレーションシップ・マーケティングという言葉があるように、企業の顧客個々に対するマーケティング・アプローチと人間関係を明確に切り分けることも難しくなってきています。これらのことを考慮すると、消費行動だけでなくその背後にある人間関係を含めて経済学を考えていくことが今後更に重要になってくるような気がします。

2000/4/28 『1周年』
 一昨日で私がこのホームページを開設してからちょうど1年が経ちました。ホームページの更新、充実に十分な時間を割けたとは言えませんが、とりあえずある程度定期的に更新して、少しずつではありますが情報を増やしてこれました。でも、改めて思うことは、いやいやホームページの作成、更新って大変ですよね。私はビジュアルには重きをおいていないのですが、たぶんビジュアル面に凝るとこれまでの数倍の時間がかかるのではないかと予想されます。そう考えるとゾッとします。最近はホームページの数もかなり多くなってきており、ビジュアル面でも格好いいホームページも珍しくありません。そんな中、私はそこまで能力がないので、もうしばらくこのスタイルで徐々にホームページを充実させていきたいと考えています。でも、いつかはビジュアル的にも格好いい、見た目も内容も充実したホームページにできればと考えています。

2000/4/20 『記憶内容の操作』
 私は今となってはあまり重要でないようなことを結構覚えています。特に小学校の時に見たアニメ番組の主題歌やエンディングテーマ等はたくさん頭に残っていたりします。もし、頭の中の記憶容量が限られているならば(おそらく限られていますが)、このような古い記憶を消去して、新しく重要度の高いものに記憶を振り向けられたらどれだけ有効だろう、とふと思うことがあります。パソコンのハードディスクは必要に応じてその内容を書き換えたり、消去したりできますが、人間は自分の脳の記憶をハードディスク同様、自分の思い通りに操作できないみたいです。ただ、我々が使っているパソコンのように、その時々に必要な情報のみを蓄積するようにもし私の脳がなったとしたら、それはそれで、面白みがないような気もします。意外な記憶が飛び出してきたり、意外な記憶と記憶が結びつくのが人間の面白いところで、そういう面では現状の方が望ましいのかも知れません。 一方、昨今のハードディスクの容量は急速に拡大しており、パソコンが人間の脳以上の記憶量を持つ日もそれ程遠くないのかも知れません。でも、改めて考えると、我々の記憶している情報の量はかなり膨大です。文字によるテキスト情報はそれ程でもないかも知れませんが、目に焼き付いた映像情報や、音声情報等は膨大です。ちなみに、TVや生活の場面の映像情報を1,000時間、音楽等の音声情報を1,000時間記憶していると仮定すると、記憶容量は約2.5テラバイト(映像はDVD、音声はMP3と同等と換算)になります。たぶん我々の記憶している情報量はこれ以上でしょうし、視覚、聴覚だけでなく、味覚、嗅覚、触覚等による記憶も含まれるので、各個人の脳の記憶容量は何百〜何千テラバイト(勝手な推計です)になるのではないでしょうか。

2000/4/19 『情報共有の価値』
 私がサッカーをしていることは前にも書きましたが、先日の練習試合の時、情報は共有化されることにより価値が増すというのを改めて実感しました。サッカーの試合中にメンバーの1人が勝手(敵と接触することなく)に負傷したのですが、それを見て、みんなが試合後「おまえはロナウドか?」(試合の数日前、ロナウドという世界的に有名なサッカー選手が同じように試合中負傷した)と言って、話が盛り上がりました。テレビ等を通じて既に各自が持っていたこの「ロナウド」に関する情報が共有化されてたことによって、みんなの会話が大変心地良いものになったのです。この「ロナウド」に関する情報は、それ自体はそれ程価値がなかったかも知れませんが、他の人達との会話の中で共有化され、価値が増したと考えられます。
ただし、この情報の共有化が行われた場(シチュエーション)を考えると、1つの大きな条件があることに気付きます。それは、みんながサッカーをやっており、サッカーに興味を持っているということです。これから、情報共有により情報の価値を高めるためには、人々の嗜好や社会的属性等、なんらかの共通部分が必要であると考えられます。こう考えると、同じ会社や学校に属している人が仲良くなり、一緒に飲みにいったり、遊びにいったりするのは、当たり前であり、逆に仲が良い友達同士の嗜好が似通っていることも説明できます。
 こんなことは当たり前のことかも知れませんが、ふとしたことで再認識したので書き留めさせていただきました。

2000/4/6 『効用の最大化の捉え方と情報の役割』
 経済学では社会を単純な関数で取り扱うために様々な条件を設定しますが、需要と供給を表す曲線があり、この交点で市場が均衡するという一般均衡理論では、「合理的な個人」という条件を設定しています。つまり、各個人は世の中のあらゆる出来事、情報に精通し、その時々において個人の便益を最大化する選択をするという前提です。しかし、我々の実際の生活を見ていると、「効用を最大化しよう」と考えていることはあながち否定できませんが、情報はかなり限定されていると思われますし、また、その限られた情報の中で効用を最大化する適当な選択をしているかどうかも不確かな部分です。このように考えますと、可能な限り多様な情報を手に入れた方が良いということになるのですが、実際には情報が少ない方がある意味効用が最大化するのではないかと思っています。つまり、知らないが故に幸せなこともあるのではないかということです。
 例えば自動車の購入を考えてみましょう。自動車にはたくさんの種類があり一番良い(効用を最大化する)自動車を買った時の効用が100であるとしましょう。もし、Aさんが自動車に関する情報を十分に持っていても、実際に金銭面等の制約があり、70ぐらいの効用の自動車を買うことになるかもしれません。単純に考えますとこの場合満足度は70/100=70%です。逆に情報をほとんど持っていないBさんが効用40の自動車を購入したとしても、情報の不足により40までしかないと考えていたら40/40で満足度は100%となります。
 経済学でいう効用とは客観的に見た場合の効用で、上記の自動車の例では効用100の自動車を買うことが効用の最大化だと思いますが、各個人の視点から見ると満足度が効用だとも考えられ、効用の捉え方いかんで、情報の重要性や効果も変わってくるのではないかと考える次第です。

2000/3/27 『'99彩の国さいたま景観賞』
 埼玉県ではホームページで『'99彩の国さいたま景観賞』の情報を提供しています。受賞した景観の写真も掲載されており、見ていて楽しいです。こういう制度が県民のまちづくりの啓発になれば良いと思います。ただ、受賞している景観を見ていると単独の建物等、いわゆる「点」であり、「面」になっているものが少ないのは残念です。真のまちづくりは面で考える必要があり、景観も同様だと私は考えています。 そんな中、奨励賞を受賞した「ガーデンアベニュー志木幸町」は33戸からなる住宅街で面になっており、少しぐらい高いお金を払ってもいいからこういう住宅街に住みたいと思いました。個人的にはもっと大きな面で景観整備を進めれるよう、ディベロッパー間でも連携していただきたいですし、行政においてもイニシアティブをとっていただきたいと思います。
http://www.pref.saitama.jp/A10/B200/keikanHP/sakhin99.html#top

2000/3/23 『Virtual or Real』
 私は小説でも映画でもSFが結構好きなのですが、最近特に自分の中でヒットしたのが「マトリックス」という映画でした。秋に映画館でも見たのですが、何度でも見たいと思い、最近DVDも買ってしまいました。ところで、この「マトリックス」という映画、もっぱらコンピュータ・グラフィックスと映像の独特の処理とワイヤーアクションが注目されるのですが、私が面白いと感じたのはそのストーリーです。
 我々が現実だと感じている世界は、実は巨大コンピュータが作り出した仮想の世界で、我々はコンピュータが与える脳への刺激により仮想の世界を現実と認識しているという内容です。鈴木光司さんの『ループ』にも同様の発想が盛り込まれてましたが、こちらはコンピュータのプログラム上で完全な人口生命体として我々人間が存在するというものでした。つまり、「マトリックス」と『ループ』の共通点は、我々が体験している世界が仮想であるという点で、異なるのは我々自体の存在が現実か仮想かという点です。
 「マトリックス」を見ると、我々が日頃生活しているこの世界が絶対仮想でないと言い切れないような気もします。我々が現実だと感じているこの世界では、コンピュータ上に同様の世界を構築することはまだまだ難しいですが、もし仮想なら本当の現実世界の技術ははるかに進んでいることになりますね。何はともあれ、「マトリックス」でキアヌ・リーブスを助け出した時にローレンス・フィッシュバーンが言った「Welcome to the the real world」というフレーズが妙に耳に残っております。

2000/3/16 『優先座席』
 最近、社会に対する愚痴ばかり書いているようで自分でもあまり好きではないのですが、やはり気になることがあったので書き留めさせていただきます。今日、私が朝の通勤電車に乗っていた時の出来事です。私は優先座席の前に立って本を読んでいたのですが、私の左隣には日経新聞を読んでいる30前後の女性が立っており、私の右隣には50前後の男性が立ってました。男性は鞭打ち症らしく、首にコルセット(というのでしょうか?)を巻いておりました。途中で私の前の席が空いたので、私はこの男性に座ってもらおうとしたのですが、そこに隣に立っていた女性が割り込んで座りました。私は止めようと思いましたが、彼女は強引に座り、再び日経新聞を読み始めました。
 何度も書きますが、私の前は優先座席でした。仮に優先座席でなくともこの男性のように患っている人が近くにいたら席を譲るべきだと思います。彼女にはそういうことが全然興味のないことのようでした。日経新聞を読んでいたことが、余計に私をいらつかせたかも知れません。(本来はまったく関係ないことだと思いますが、)いくら仕事ができても社会の基本となる部分が身についていないのでは本末転倒です。こういう人間が増えているのではないか?と私は危惧してしまいます。

2000/3/15 『商店街の原点を見た』
 今日、急いでプリントしたい写真があり、オフィスの近くの現像屋さんへ行きました。何回かは使ったことがある現像屋さんですが、それ程頻繁には使ってなくて、今回行ったのも半年、下手すれば1年ぶりだったかも知れません。そこで私が驚いたのは、店のおばちゃんが何気なく注文書に私の名前を書いていたことです。私は名乗っていません。にもかかわらず、おばちゃんは私の顔と名前を覚えていて、注文書にちゃんと書いてくれました。私はビックリして「どうして私の名前分かったんですか?」と聞いたんですが、おばちゃんは「お得意さまですから、(名前)合ってますよね」と気取らず答えてくれました。その後、私はプリントをお願いし店を出ましたが、私はとてもうれしい気持ちになりました。「お客さんの名前を覚える」というのは、まさに商店街の原点で、それは来店回数の少ないお客ほど覚えられているとうれしく感じ、次もこの店で、と思うのではないでしょうか。私の名前が珍しいというのもあるかも知れませんが、こういう基本的な部分が商店街の活性化にもベースとして必要であると思います。

2000/3/9 『注意することの難しさ』
 先日電車に乗っていると、電車の広告を盗んでいる2組の学生を見かけました。その広告は携帯電話の広告ですが、最近売れている女性アーティストを起用したもので、彼らが欲しがるのも分からないではありません。でも、車内の広告を盗むことは犯罪です。
 最初、彼らは私が座っている場所から遠いところにいたので、私も見て見ぬ振りをするつもりだったのですが、次に私の目の前の広告を取ろうとし始めたので、見るに見かねて「止めておけ」と声を荒げて注意しました。私は次の駅で降りなければならなかったので、降り際に彼らに近寄り「ちゃんと返しておけよ」と再度注意しましたが、彼らは「はい」と言ったもののたぶん返さなかったと思われます。電車はからっぽだったわけではありませんが、誰も注意しようとはしませんでしたし、また、その2人組の学生も広告を盗むことに罪悪感を感じていなかったようです。
 私がこの2人の学生に注意したことはまさに「焼け石に水」のような気がして、他の人々はそれを知っているから注意しなかったとも考えられるわけですが、もしそれが本当なら寂しい限りです。最近の若者の犯罪や暴力事件の報道を見ていると安易に注意することで返って「火に油を注ぎ」、報復行為を受けるのではないかという心配もあり、これが多くの人が注意しない理由かもしれません。でも、見て見ぬふりをして(私もやる場合もありますが)注意しないことにより、社会全体として悪循環に陥り、余計に注意し辛くなっていく(既になっていますが)し、罪悪感を感じない若者が増えるような気がします。
 私もどんな凶悪そうな相手でも注意できるわけではない(怖そうな人が大勢だと注意せずに逃げ出すかも?)という面では、甚だ中途半端で恥ずかしいのですが、今後もこういう場面に出くわしたら可能な限り注意していこうと思っております。

2000/3/6 『続・商店街活性化の妥当性』
 最近の自分の消費行動を振り返ってみると、私のような消費行動が商店街の衰退をもたらすのだろうとつくづく思います。では、なぜ地元の商店で買い物をしないのか考えてみますと、私の場合、以下のような理由によると考えられます。長期的には商店街の必要性を感じているのですが、このような自分の私的便益を抑制してまで、無理して地元で買い物することが望ましいのかどうかは疑問に思ってしまいます。逆に商店街においてこのような私のニーズを満たそうとすると、駐車場確保や品揃えの強化等に莫大な投資が必要であり、実現は困難でしょう。私の郷里では、やる気のある商店は従来の商店街から国道沿いに移転しており、市民のニーズに対応した店舗経営を行っています。また、一部には商店街ごとショッピングモールとして郊外に移転した商店街もあるようです。このようなことを考えると、店の側から消費者に近付かないと、消費者に利便性を我慢してまで近付いてきてもらうのは難しいような気がします。

・地元の商店に希望の品物がほとんどない
・一つの大きな店に商品が集約されている方が利便性が高い
・地元の商店の方が値段が高い
・移動することにより非日常的な感覚が得られる
・郊外店の方が自動車で行けるので大きな買い物に便利である

2000/3/2 『商店街に見る金利と価値の乖離』
 衰退している商店街を見ていると金利と将来価値が乖離してきているのではないかと考えました。例えば、ある団地に併設されている商店街を知っているのですが、モータリゼーションや郊外店の進出で衰退の一途をたどっています。でも、その団地の住民がもし高齢化し、自動車を運転して出かけることが難しくなった場合、併設されている商店街の価値が見直されてきます。ただ、現在の消費傾向(特に若年層の)を見るとそういった将来的な価値には目がいってなくて、現状において最も便益が高い場所(商店)で買い物を行っているようです。つまり、将来的な生活等をイメージしない消費行動が増えてきたことにより将来的な価値は下落しているのではないか、と考えられます。
 経済学では、財やサービスの将来価値を「現在価値÷割引率」で見ますが、割引率の測定は難しいので長期金利を用いたりします。しかし、上記のことを踏まえると金利が低下しているにも関わらず、実際の割引率は非常に高くなっているという現象も多く、この将来価値(割引率)と金利の乖離が社会的な問題の要因ではないかと思われます。

2000/3/1 『知らないことは良いことか?』
 情報通信ネットワークが発達したとは言え、まだまだ五感に訴えるものをネットワークで体験できるようになったわけではありません。したがって、ネットワークを通じて経験した感じていても、物理的な移動がともなわないと真の意味で経験できないことがほとんどです。このように経験が物理的な移動を必要とする以上、ある人の知識はその人が居住もしくは活動している地域に限定されたものにならざる得ません。以前も書きましたが、東京で狭い校庭が当たり前だと思って育った人達には広い校庭の価値は分かりませんし、逆に地方に住んでいる人からは、満員電車に揺られてまで都心に通勤する人々の気持ちは分からないかも知れません。こういう経験がないことによる無知は、それぞれに対する欲望を生み出さないという点で「幸せなのかも?」と私は考えています。私みたいに生半可に都心と地方の両方を経験すると双方の良い面ばかりを思い出し、都心では地方の良さを、地方では都心の良さを「無い物ねだり」で求めてしまいます。そういう気持ちが起こらないという点では「知らないことは良いこと」かもしれないと思う今日この頃です。

2000/2/25 『エコカーについて(part2)』
 先日電気自動車が走っているのを始めてみました。トヨタ、ホンダから出ているハイブリッドカーは見るのも珍しくなくなってきましたが、電気自動車はまだまだ珍しいです。でも、着実に技術開発は進んでおり、横浜ではみなと未来のあたりで電気自動車のレンタル事業が始まったと伺っています。この電気自動車を見て少し考えるところがあります。以前、エコカーの購入について「既存の車を廃棄することによる環境負荷」を問題定義した訳ですが、本日はこれとは異なる話題です。
 電気自動車が走るのを観察して気付くのはエンジン音がないことです。これは自動車の騒音問題等を排除するという面では良い影響を与えますが、一方で怖い面もあると私は感じました。我々は道を歩いている時、通常、後ろから近づいてくる自動車をエンジンや排気の音で察知して、避ける行動をとります。しかし、この電気自動車ではエンジン音も排気音もないため、そのような行動をとることが難しいと予想されます。悪いことを考えるのはあまりよくありませんが、電気自動車を用いれば「ひったくり」や「ひき逃げ」等、意図的な犯罪は非常にやりやすくなるような気がします。対策としては音が出る装置を電気自動車に取り付ければいいだけなのですが、せっかく静かになった自動車にわざと音を出す装置を付けることは消費者心理からしてもったいないようにも思えます。自動車業界では何か対策は考えているのでしょうか?

2000/2/23 『景観と外部性』
 「まちづくり」において、それを担う人の重要性を実感するこの頃ですが、ハード面の整備も、人を引き寄せ、集積させ、活気づかせる仕組みとして相変わらず重要であると私は考えています。特に視覚に訴える景観の重要性を感じるわけですが、我が国の一般的なまちの景観整備は欧米諸外国に比べて遅れており、これは他でもない文化の混在に原因があると思います。従来、家屋は木を使った日本古来の建築方法で建てられていましたが、近年では鉄筋やコンクリート等を活用した家屋(マンション)や、木を活用していても2×4という欧米の手法を用いた家屋も多く、外観的にも和風の家と洋風の家では大きな違いがあります。このような建物の混在により、我が国のまちの景観は統一性もなく、美しさがあまり感じられません(このような文化の混在を美とする価値観もあると思いますが)。つまり、我が国では文化の洋風化が進み、これが家屋に派生してしまったため、混在による景観の喪失というまち全体としてのデメリットが創出されているわけです。
 この景観を経済学的な視点から考察すると、統一感のある家屋の並びが美しいという観点では、ここにも外部性があると捉えることができます。つまり、個人iが所有する家屋から得る便益をXiとし、皆が同様の家屋を建築すると仮定すると、統一感のあるまち全体の景観(正の外部性)が創出され個人iの便益はXi+Ei(正の外部性)となります。しかし、個人には家のデザインにも好みがあり、もし景観に統一性を持たせるなら、好みを我慢する分(Si)便益は減少します。つまり、Xi+Ei−Siが個人の純便益であり、Ei−Si>0ならば、個人iは統一した景観に寄与するような家屋を建築することになります。実際には、景観創出による外部性Eiは個人では分かりにくいため個々人は自分の好みのデザインの家屋を建てる場合がほとんどですが、実質的にEi−Si>0であることも少なくないと思われ、今後、3Dによるバーチャルリアリティ等を用いてEi(外部性)を実感できるような仕組みを構築してはどうか?と私は考えています。

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