徒然ノート バックナンバー10

思いついたことを徒然なるままに掲載したいと思います。

 

2004/5/20 『社会の老化』
 私事ではありますが、最近、体力の衰えを痛切に感じております。サッカーの試合に出る度に怪我をしており、前の怪我をかばうために新たな怪我をするという悪循環に陥っています。さらに怪我の治りも非常に遅くなってきています。私事はこの辺にしまして、このような自身の現状から考えられることは社会自体も「老化」するのではないか、ということです。社会というのは、制度や文化の変革等によって再生できる(若返る)ように考えられますが、実際にはそう単純ではないのかも知れません。社会の老化を測る指標というものがあるのかどうか分かりませんが、すぐに連想されるもとのして高齢者の割合(高齢者の方に怒られそうですが。。。)や、制度面での疲弊度合(うまく機能していないものが多い)等があり、我が国はいずれも高く、社会の老化は世界の中でも最も進んでいるような気がします(客観性はまったくありませんが)。すなわち、社会の若返りが我が国に求められており、その方法の模索が喫緊の課題と言えるかも知れません。また、ニート( NEET:Not in Employment, Education or Training)と呼ばれる人の増加も社会の老化指標の一つと言えるでしょう。

2004/5/12 『スローとスピード』
 昨日、地域情報化に関する集まりに参加しましたが、パネルディスカッションであるパネラーの方が「行政への住民参加が進むことで動き自体はよりスローになるだろう」というようなことを言われました。つまり、多くの人が参加してゆっくりと多くの人が納得のいく意志決定をしながら進んでいくという意味だと思われます。昨今、「スローフード」、「スローライフ」等という言葉を耳にするようになり、あくせくせず、何事もゆっくり楽しんでやろうという風潮はでてきているようです。私自身も自分への反省を含め、もう少しゆっくりと時間を過ごすようなライフスタイルへ変えなければ、と常々考えています。加えて、産業のソフト化が進んでいることを考えても、もう少し物欲ではなくソフト的な欲求にシフトするような社会構造に日本社会自体が変わらなければならないような気がしており、「スロー」というキーワードはこれにマッチしているように感じます。
 ここで気になるのはスローになることのリスクなのですが、私はどちらかとペシミストなので、スローに生活することで個人的な競争力がなくなり、生活できなく(稼げなく)なるのではないか?と心配してしまいます。これは個人ではなく、企業や地域や国単位でも言えることです。スローライフは魅力的ですが、それは継続的な収入があってこそ成り立つものであり、スピードがないと競争力が低下する市場構造と相反しており、なかなかスローライフに移行するのは難しいような気がします。
 話を戻しまして地域の話をしますが、ある地域で住民参加が進み、住民の満足度が上がる反面、意思決定がスローになり、社会環境変化への対応が遅れるリスクがあります。しかしながら、住民参加は地域のソーシャル・キャピタル(論文等のアーカイブ参照)を高める要素でもあり、排他的でない地域文化が存在するのであれば、むしろ競争力が上がる可能性も否定できません。

2004/3/15 『情報漏洩と行政機関の組織的な処罰の可能性』
 昨今、情報漏洩事件が多発しています。大手プロバイダーや大手通信事業者から大量の顧客情報が流出しており、昨年には金融機関やコンビニエンスストアにおいても同様の事件がありました。このような情報漏洩は企業に対して大きな損失を与え、特に信用を回復するための支出は膨大な金額になります。
 このような民間企業における情報漏洩の損失やリスクの大きさを考慮すると、行政機関が情報漏洩した場合の損失はどうしても軽く見えてしまいます。行政機関が情報漏洩をしたから民間企業のように商品券を配ったという事例は聞いたことがありませんし、実際、民間企業のように指名停止、取引停止等の市場による制裁は行政機関に対してはあり得ません。住民はその行政機関が信用を失墜したからといって他の行政機関に乗り換えることはできないのです。2005年4月に施行予定の「行政機関の保有する個人情報の保護に関する法律」(行政機関個人情報保護法)では確かに情報漏洩に対する処罰が規定されていますが、これは漏洩した個人に対してであって、行政機関という組織に対する処罰は規定されていません。
 個人的な意見ではありますが、セキュリティというものは組織的に定着してこそ高いセキュリティレベルが確保できるのであって、個人レベルでの抑止には限界があります。つまり、情報漏洩した場合に組織の存続が危ぶまれるのであれば、職員相互の監視機能が機能するでしょうが、それが個人だけの処罰であるならば、相互の監視機能は有効に機能しない可能性があります。
 そのように考えると、行政機関においても情報漏洩した場合に何らかの組織的な処罰が必要なのではないかと思います。中央省庁であれば予算削減であるとか、自治体であれば地方交付税や補助金の削減、どちらにも共通するのであれば職員の給与カット等、何らかの組織的な処罰の仕組みがあった方が良いのではないでしょうか。

2004/3/4 『退屈と誇張の社会』
 情報の氾濫に慣れてくると、逆に新しい情報がない状態を退屈に感じてしまうことがあると思います。私自身も何か新しい情報はないか頻繁にホームページを見ている自分に気付く時があります。このような情報の特性が、実は社会に大きな影響を与えているのではないか、という話をします。
 最近、ニュースの記事を読むと、それって「わざわざニュースにしなくても良いのでは」、あるいは「本当に問題なの?」と疑いたくなるものが散見されます。これはメディアの情報提供能力が、社会的な存在する情報量に対して過剰になっているために起こっているのではないでしょうか。
 雇用の場を確保するための公共工事が問題になって久しいですが、メディア産業においても同様の現象はあるのではないかと考えられます。つまり、世の中が平穏無事に生活していても、それ自体はニュースの情報とはならないので、何かを記事にしなければなりません。そういった時、従来であればニュースにならなかったような事柄でも、ニュースとして大きく取り上げるようになる可能性があります。
 明確にそのようになっていると言い切る自信はありませんが、問題視する程でもない事項を大きく取り上げていると、何もできない酷く窮屈で面白みのない社会になっていくのではないでしょうか。

2004/2/15 『ネットワーク化とは平等ではなく二極化への序章』
 情報化に関する仕事をしていると、「すべての人がネットワーク化する」という理想が実は予想と違った結果をもたらすのではないかと考える時があります。すなわち、ネットワークに接続することによって見た目的には「平等な」環境を実現するのですが、その中身、つまりネットワーク化した事による変化というのは表題にあるような「二極化」が起こる可能性があるということです。
 組織内の情報システムを例に挙げると、端末の普及は一時期、EUCと呼ばれるユーザーレベルでの開発を促しましたが、昨今では組織内のLANは統合化の方向にあり、セキュリティ強化等の観点から集中管理が進んでいます。これにともない情報システム部門が専門性を増す一方で利用者側は利用に徹し、その代わりに情報システムの利用者から見た柔軟性は低くなっているように見受けられます。
 これはインターネットの利用者においても同じようなことが当てはまると思っています。以前に、インターネット利用者を対象にした大規模な調査を行ったのですが、その用途にはいくつかの類型が見られます。情報収集・検索、あるいは情報共有・交換等によって知的な生産性を高めるために使っている人もいれば、従来の娯楽の代替として使っている人もいます。これらの人が常にその利用が固定的とは言えませんが、生産性を高めるために使う人と、娯楽にのみ使う人の間で、生産性の格差が開くことが考えられます。
 上記以外にも、以前にお話した情報の生産能力と人口規模の関連性等も挙げることができます。ネットワークは機会の平等化を確かに実現するかも知れませんが、ネットワークを利用する主体の違いをある意味拡張する可能性があるとも言えるのではないでしょうか。

2004/1/29 『情報化と人事異動』
 サービス、特に公共サービスと言った場合、一定の品質で遍く提供されることが望ましいと考えられます。電子政府あるいは電子自治体というサービスも行政が行う限り公共サービスとして同様の特性が求められるでしょう。しかしながら、自治体の内部から情報システムという側面で見ると必ずしも一定の質を維持することは容易ではありません。
 それは情報システムというものの整備、運用に結局それを担当している人に依存する部分があるからであり、特に情報提供なんかは属人的な要素が強いと感じています。ある時、自治体のホームページをWebサーフィンしていたのですが、情報化に対する取り組みを細かく記した兵庫県の某市ページを発見しました。しかしながらそのページの更新は平成15年3月で終わっており、その後更新されていませんでした。もちろん、トップページからのリンクも切れており、検索エンジンでないと発見できなかったページです。このページは担当者が異動になったためにこのような状態になっていると予想され、後任者はこの情報の更新という任意の業務(自治体の業務として法制度で規定されていない)をを引き継がなかったのでしょう。
 情報化から属人的な要素を除くことは非常に難しく、属人的が故に情報化の中に「温かさ」が出るのかもしれませんが、電子政府・電子自治体の質を揃えることと人事異動の両立というのは今後の大きな課題と考えられます。

2004/1/21 『上を向いて歩こう』
 掲題のタイトルの歌がありますが、今回はその歌詞とは少し違ったお話です。私は歩いている時、基本的に自分の目線か、それより下にあるものしか見ていません。この傾向が私だけにあるものかどうかは分かりませんが、自分の生活している環境を考慮すると、「これは間違いなく損をしている」と思います。都市という環境では、建物が上に伸びていきます。それに従い、都市の持つ物理的に確認できる情報も上に向けて拡張することになります。例えば、優秀な建築家が設計した高層ビルを例に挙げることができます。この高層ビルはビル全体で芸術としての情報を持っていますが、そのビルの前の道を歩いていても上を向いて全体を見ないのであれば、その価値を享受することはできません。このような例以外にも単純に店の看板なんかも挙げられます。高いところにある看板を見ないがために、色々な店がそのビルに入っていることに気付かずに前を通勤していることがあります。もちろん、私にとって有用でないものも多いのですが、それでもために有用な看板に出くわす可能性を否定することはできません。
 一緒に歩いていると私よりも明らかに上の看板等に気付きやすい人がいます。それは私よりも通常の目線が上にあるのだと思いますが、その違いがどこから来ているのかは定かではありません。考えられる要因としては、私がサッカーをしていること、あるいは私が育った環境に高層の建物が少なかったこと、考え方が上向きでないこと(?)等が挙げられますが、どれも該当しているような気がします。いずれにしても、今後はもう少し上を向いて歩くように心掛けたいと思う次第です。

2003/12/31 『情報化は会議室で起きているのではない』
 「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で...」というフレーズを聞いたことがありますが、情報化に関しても同様のことが言えると思います。ただし、私がこの情報化の現場にどれだけ近いところにいるかは自信がありません。それでも、情報化に関する仕事をしていると、国レベルで掲げられている政策目標にどれだけの意義があるのか疑問に思うことがあります。例えば「電子自治体」への取り組み一つにしても全国一律に進める必要はまったくありませんし、利用者がいない地域でそのような仕組みを構築することは無駄以外の何者でもありません。もちろん、ネットワークの外部性等を考慮すると、すべての自治体が電子自治体に向けて取り組むことで、マクロ的なメリットを生み出す可能性はあります。しかしながら、十分にマネジメントできる能力がないままに情報システムが導入されている事例も少なくないと感じており、「第二の公共事業」と言われるのも強ち嘘ではないと思ってしまいます。
 大きな政策の流れに乗ることは重要だと思いますが、政策の流れが大きいほど、間違いを正すのには時間がかかります(そもそも間違いかどうかということは誰にも判断できない可能性もありますが)。したがって、現在、住基ネットをテーマにいくつかの自治体が異議を唱えていることも、そのような大きな流れに一石を投じる意味で非常に重要と私は考えます。大きな政策に異を唱えないで粛々と実行することは政策的に見て効率的であると思いますが、最も恐ろしいことは、国レベルの政策に対して地方から何の反論が挙がらないことです。そういう面で、某県で行われている住基ネットの侵入実験等も結果はどうであれ、長期的な視野に立つと、情報化にとって良い動きではないかと思う次第であります。

2003/12/11 『情報化を担うのは誰か?』
 情報化(社会・生活活動においてITを高度に利用する取り組み)を誰が担うのか、という話をする前に実際には誰かが担う必要があるのか?という議論もあると思います。デジタル・ディバイドに目を瞑るとすれば、情報の活用を個々人がより高度にしたいと思うことで、そこに市場が発生し、企業がその市場にサービスを提供するだけで情報化は成り立つようにも考えられます。
 しかし、社会が市場だけで成り立たない(公的機関が存在する)のと同様に、情報化に関しても公的な介入は必要と考えられます。それ故、行政機関において情報化を推進することが望まれているのだと考えられます。ただし、その範囲は依然、曖昧な部分があろうかと思います。
情報化以外でも一度肥大化した公共分野を見直す向きがあることは皆さんもご存じだと思いますが、情報化に関してもそのような見直しは必要です。行政として取り組まなくても良いというものもあるでしょうし、行政として取り組む必要はあるが他の主体が担った方が効率的な場合もあります。
 そのような社会的背景から、他の公共分野と同様に民間企業とも行政とも異なる情報化の担い手としてNPOが注目されるわけですが、このNPOの数だけを参考にすると、情報化に関しては、公的な側面を有する部分というのは案外少ないのではないかと感じています。内閣府の統計によると、情報化は今年の5月に追加されたばかりではありますが、やはり、保健・医療、教育、まちづくり、文化・芸術等が絶対数、増加数とも圧倒的に多くなっています。すなわち、これらの分野では民間企業にも期待できず、また行政が担うのも望ましくないという判断が市場原理(ここで使うのも変ですが)として働いていると考えられます。
 ただ、だからと行って、NPOによる情報化推進が必要ないというわけではありません。情報化は保健・医療、教育、まちづくり、文化・芸術等、すべての分野にも関わる事項ですので、複合的な取り組みとして、やはりNPOの活躍も期待されると思います。
http://www5.cao.go.jp/seikatsu/npo/data/bunnya.html

2003/11/22 『地域を超えた連携』
 自治体における広域的な連携の歴史は古くから存在します。以前から一部事務組合として、し尿処理、ごみ処理、消防等の業務が行われてきており、1994年の地方自治法改正にともない、国や都道府県からの権限、事務の委任も要請できる広域連合という形態が出てきました。実際、モータリゼーションの進展、公的課題の多様化や規模の拡大等を考慮すると、既存の行政単位が必ずしも適切ではなく、市町村合併が進められているのも納得できる状況だと考えます。
 広域連合や市町村合併において共通することは、それぞれが物理的に隣接していることですが、今後の広域的な連携の可能性として、物理的な距離を超えた連携も想定されるようになってきています。実際、電子自治体に関する取り組みに関しては、距離を隔てた連携が出てきており、宮城県と福岡県、横須賀市と福井市や下関市等の自治体間で情報システムを共用化する事例が見られます。
 電子自治体システムに関しては、都道府県とそれぞれに所属する市町村による共同運用等の検討が進められていますが、通信ネットワークの発達した現状においては上記のような距離を超えた連携も可能です。むしろ、情報化の進展度合の異なる県内市町村で一体的に進めるよりも、情報化の進展度合が似通っている他地域の自治体と連携することの方が、一体的、効率的な情報化の推進という点では望ましい気がします。
 既存の地域の枠組みに囚われない広域連携によって、自治体経営を更に高度化できる可能性があるのではないでしょうか。

2003/10/8 『eデモクラシーとGIS』
 私もたまに間違って使うことがありますが、「eデモクラシー」とは必ずしも政府、あるいは行政機関を中心においたコンセプトではありません。つまり、特定の市民グループや、NPO、ロビイスト(NPOとロビイストは必ずしも明確に分類できない)が自らのコンセプトをホームページ等で公開し、仲間を募り、現状における政府に対して提言活動等を行うことも、私は「eデモクラシー」に含まれると思っています。ただ、ビジネス的な発想が入ってきますと、どうしてもビジネスの対象となる行政機関が中心になり、コンセプト自体もゆがんでしまうように思います。いたしかたない事なのでしょうが。。。
 話が変わりますが、この「eデモクラシー」を実現するための手法、あるいはプラットフォームの一つとして昨今、GISが注目されています。地図データを使ってホームページから情報提供をしている事例は珍しくないのですが、地図を情報共有するためのコミュニケーションプラットフォームにすることが大きく異なります。これまでも先進的な自治体が住民参加のための電子掲示板を運営してきましたが、テキストのみの情報交換にはある程度の限界があるのも事実です。そこで、一つのソリューションとなるのが地図情報です。もともと、地域における「eデモクラシー」は居住空間としての近接性を理由としており、電子地図を介することで、地域空間という共通補助言語を手に入れることができます。「この交差点のこの信号についてどう思う?」なんて会話にすることで、参加者の間でも情報共有がスムーズに進むというわけです。
 このようなGISの活用に関しては、八千代オイコスというNPOがNTTデータと共同で実験を行っておりましたが、最近では、浦安市や三重県等も同様の取り組みを進めるべく準備を進めているようです。また、双方向機能を持たせた実験的な取り組みとして、既に福岡市の「まちづくり点検マップ」や岐阜県の「地域情報協同作成サイト」等を挙げることができます。
 WebGISに関しては、価格、データ更新、ユーザビリティ等、依然として課題が多いとは思いますが、今後、eデモクラシーの一助として活用が進められることが期待されるところです。
http://gis.city.urayasu.chiba.jp/emap/html/index.html
http://media.arch.kyushu-u.ac.jp/fmap/
http://www.gis2.pref.gifu.jp/localCommunity/index.html

2003/9/29 『進化の評価とは』
 進化しているのか、あるいは退化しているのか、ということを客観的に評価することは非常に難しいことです。拙著の中で進化情報化という言葉を使っていますが、実際に進化しているかどうかの評価は単純にはできません。もちろん、メトリックス等の手法に代表されるように、評価指標を事前に設定して評価することは可能なのですが、その指標自体が進化という観点から適当かどうかも判断しかねます。
 生物に例えると分かり易いと思います。例えば、蛇という動物には一般的に足がありませんが、通常、このことは足が「退化」したためと言われています。しかしながら、環境による淘汰の結果、蛇という形が生き残ったのであれば、足がないことの方が蛇という生き物にとっては優れているわけで、その意味からは「進化」とも考えられるわけです。
 これは情報化にも当てはめることができます。ワープロというソフトウェアのおかげで我々は文書を作成することが容易になり、それを綺麗に印刷して配布したり、デジタルデータのまま流通させることで、その伝達能力も飛躍的に高まっています。しかし、その一方で、文字を直接書く機会は減少し、漢字を忘れたり、文字が綺麗に書けなかったりというデメリットも生じてきています。
 ここで問題なのはワープロという技術が発達したことを、蛇の足がなくなることを促した環境と同列に捉えて良いかどうか、ということです。もし、ワープロの発達が環境変化であるならば、その中で我々はワープロを使うという最適な能力を選択し、「進化」したことになります。しかし、ワープロというものは人工物であり、本当の意味で我々の能力は低下している、すなわち「退化」しているとも考えられるのです。
 このような点を考慮すると単純に情報化が進展することを「進化」と評価することは難しくなり、人間個々ではなく組織や社会として捉えた場合、話は更に複雑になってきます。進化度合の評価に関しては、今後の大きな研究課題と考えていますが、個人的には、生身の人間としての能力を高めるようなベクトルが技術文明の発達と必ずしも相関関係にないことは我々が憂慮すべき事項ではないでしょうか。

2003/9/17 『経済政策の効果』
 「経済政策」という言葉が使われるようになったのがいつかわかは分かりませんが、我が国の経済が停滞しているため、いたるところで耳にする言葉だと思います。その時にいつも思うのは、「根本的な捉え方が間違っているのではないか?」ということです。例えば景気が回復しなければ経済政策が間違っているとか言い、景気回復の兆しが見えれば経済政策が当たっていると言う人がいますが、これは本当に正しいのでしょうか。
私が思うに、経済政策というものは、市場や法制度の縛りのもと行われるものであり、それ自体が経済に与える影響は微々たるものでしょう。つまり、景気が停滞しているのはもっと産業全体としての複雑な問題によるところであり、経済政策が一時的に株価を変動させたとしても中期的に見ればないに等しい感があります。しかしながら、マスコミで取り上げられる経済政策は、それが正解であるならばあたかも景気が回復するように報道されており、国民に間違った考え方を植え付けているようにも感じられます。
 たとえ経済政策が景気に影響を与えるとしても、その評価の仕方にも問題があります。仮に景気が良くも悪くもない状態を1として、現在の景気が0.8だったとします。ある経済政策担当大臣が行った政策の結果、半年後の数値が0.75になった場合、通常、この大臣が取った政策は間違っていたと評価されます。でも、本当にそうでしょうか。
 経済には経路依存性という特性があるので、一度慣性が働くと急には変更できないと私は考えています。0.8だった時点では更に景気が悪化する慣性が働いており、実は経済政策を行わずにそのままにしておけば半年後に0.6まで下がっていたとしたらどうでしょう。経済では二つの政策を同条件で検証することは不可能ですが、仮にこの大臣が行った政策と異なるあらゆる経済政策を行ったとしても、実は半年後に0.75以上にならなかったかも知れません。でも、多くの人は、こういう視点では経済政策を評価していません。絶対的な景気でのみ評価しています。
 もちろん、専門家の方々はこんなことは重々承知かと思いますが、国民全体的な経済政策の捉え方としては、そうではないと思っており、問題なのではないかと思っています。

2003/7/28 『情報を制限する必要性』
 他にも同じことを言われている方がいるのかどうか、あるいは学術的な分析を行われている人がいるのかどうかは分かりませんが、最近の少年犯罪の問題と情報の制限は密接にからんでいると思います。それは、メディアが悪影響を及ぼしているという単純なものではなく、情報処理能力の問題というのが私の見解です。確かに、学校では週休二日制が導入され、学校において知識を得る学習時間は減っておりますが、他の部分での情報量はかつてないほど増加しているのではないかと私は考えています。
 自分の子供の頃、何が良かったかと言いますと、案外、社会の限られた部分しか視野に入っていなかったことです。つまり、「遊び」か、「勉強」という単純な二択で、情報も非常に限定的だったように思います。でも、今はそれほど単純ではないようです。テレビから流される情報量は以前にもまして多くなっていますし、インターネットも利用できます。更に、テレビゲームがよりリアルになり、現実世界で起こった不思議な事象に対する感動も薄れてきています。
 つまり、私が子供の頃よりも、現在の子供は大量な情報を得ており、これを処理しなければならないということで、今の子供の能力が私の子供の頃とあまり変わらないと仮定すると、オーバーフローすることはそんなに難しくないのではないかと考えています。これは偏見かも知れませんが、私の子供の頃には、案外、成長に応じて情報量が増えるようにコントロールされていたように思います。しかし、今はそのようなコントロールが行われていないような気がします。それは家庭でもそうでしょうし、学校等でもそうではないかと思います。
 子供の脳の発達が著しく進歩しているなら別ですが、そうでないとすれば、我々はもっと適切に年齢に応じた情報の制限ができるような社会を目指すべきではないかと思います。

2003/6/3 『階層構造の罠』
 私がどれだけの産業を知っているか、と言いますと、甚だ疑問ではあるのですが、最近、各産業に見られる「下請け」と呼ばれる階層構造が我が国の経済を麻痺させている元凶ではなかろうかと感じています。構造不況業種と呼ばれる建設産業しかりですが、大企業は総合商社と化して、実質は子会社やそのまた下の「下請け企業」を調整するだけになっている場合も少なくありません。確かにプロジェクトマネジメントという観点から、このような大企業による調整も必要な場合も少なくないとは思うのですが、多くの利害関係者が間に挟まることにより、実質的に個々の作業の生産性が低くなっているのは確かなような気がします。
 例えば、ある自治体が建物の建設に際して、A,B,Cという三つの作業があり、全体で3億円の予算を持っていたします。発注側である自治体に能力があり、個々の業者と契約できれば、A,B,Cそれぞれに一億円の予算を付け、個別の業者に施工してもらうことが可能です。しかし、ゼネコンを通して一括契約を結ぶと、ゼネコンの取り分(調整費)として9千万円がなくなり、実際には個別業者の取り分は7千万円になるかもしれません。すなわち、予算は同じでも、最終的なアウトプット(できあがってくる建物)が異なってきてしまい、端的に言うと、生産性が下がったようにも見えます。つまり、あまりにも産業が階層化されることで、全体としての生産性が低下しているのではないか、というのが今回の話です。
 近年、企業ではフラットな組織構造が潮流になっています。しかし、産業構造は全然フラットになっていません。もっと、フラットな産業構造への転換が求められているのではないでしょうか。

2003/4/14 『投票率は重要な情報』
 いつも選挙の時期になると、低レベルな選挙活動に対する愚痴を書いてしまうのですが、今回はちょっと違った提案です。
 すべての投票所が該当するか自信はないのですが、私の住んでいる地域の投票所では、随時、その投票所における投票率を掲載しています。今更なんですが、この投票率ってものすごく重要な情報だと思うんです。なぜなら、この投票率から、自分の住んでいる地域の人がどれだけ政治に関心を持っているかということをうかがい知ることができるからです。是非、それぞれの投票所のエリアがどのようになっており、投票率がどのくらいか、という情報を行政、あるいは選挙管理委員会において、公表してもらえないかと考えております。この情報は、引っ越しする際にも地域を選択する一つの指標になると思います。私自信はやはり政治意識の高い人ができるだけ多く住んでいるような地域に住みたいと考えています。それ故、投票率という情報を細かく公開してもらえれば、次の引っ越し先を選ぶ際に一つの参考指標となります。もちろん、それ意外にも重要な情報はたくさんあるわけですが。
 ちなみに私が住んでいる地域は、投票率が低く、夕方行っても投票率が20%前後になっています。私が在住している地域全体としても投票率は下がる傾向にあるのですが、相対的に見ても、投票率は低く、どこに要因があるのだろうかと考えてしまいます。

2003/4/10 『進まない分権とナショナルミニマム』
 先頃も「税源委譲を先行させる」ことについて言った、言わないの問題がありましたが、依然として地方と中央のお金の分配問題は膠着状態が続いているようです。各省庁が持つ利権もからんでくることなので、その利権を代表する大臣としても大変なところだと思いますが、行政と違う立場で物事を見るために「政治家」がいることも忘れてはならないような気がします。
 先日行われた経済財政諮問会議では、昨年、8月に行われた議論の焼き直し的な部分も多く、あまり前へ進んだ感が見られません。補助金改革、交付税改革、税源委譲を三位一体で行うという方向性は決まっているのですから、それぞれ担当する組織が具体的な取り組みを併行して進め、バランスの調整に関しては、その都度行う感じでも良いのではないか、と個人的には考えます。補助金が先、税源委譲が先という議論に多くの時間と労力を費やすのはあまりにも生産性が低いのではなでしょうか。
 交付税の改革に関しては、自治体におけるコスト意識を醸成する上で不可欠ですし、税源委譲に関しては、自治体が自ら政策を考える力を付けるために不可欠です。補助金はもちろんこの税の地方配分増加にともない、縮小されなければなりません。つまり、どこから始めるのは問題ではなく、すべてを併行的に取り組んで、最終的にどのように調整していくかの方が重要なのです。
 中央の人達は税源委譲や交付税の縮小にともない、国による政策的な統制が効かなくなり、ナショナルミニマムが達成されないことを恐れているようですが、そもそもナショナルミニマムの範囲が大きすぎるのではないでしょうか。私は各地域がもっと自由にナショナルミニマムを設定できるようにした方が良いと思います。(そうなった場合、ナショナルミニマムとは言わないのでしょうか。)「私の地方に高速道路は要らない、その代わりに医療費を補助して高齢者が住みやすいまちにする」といった選択もありえます。地方分権とは言え、まだまだ地方における自由度は低いですし、自治体職員もその環境に馴染んでしまっている感はあります。また、このような社会的な画一性の高さが、多様性のある社会の発展を阻害しているようにも見受けられます。
 一方、「権利」を移すことは「責任」を移すことでもあり、自治体側にもそれなりの覚悟が必要かと思います。この前、あるビジネス関係週刊誌で、ヘッドハンティングによって社長になったある人が「時期決算で黒字にならなかったら責任をとって辞める」と、言っていましたが、そこまでいかなくても大きな事業を手掛ける時は同じぐらいの心意気が行政幹部や議員にも欲しいと感じます。

 

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