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思いついたことを徒然なるままに掲載したいと思います。
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2005/7/26 『2007年のデフレ』
 団塊の世代が退職し、大量の人材不足が発生することを2007年問題なんて言ったりしますが、私は別の問題が隠されているのではないかと考えています。団塊の世代と呼ばれる人々の多くはまだまだ元気に仕事をできますし、そのような願望を持っている人も少なくありません。一方、彼らはある程度の財の蓄積があり、大きな収入を必要としない可能性もあります。そこで、NPO等が活躍場所として想定されているわけですが、このような団塊の世代によるNPOが増えると結果的に通常の民間企業との競合も出てくると考えています。労働力という面で言いますと、NEETの問題が挙げられますが、彼らと団塊の世代が労働市場でバッティングする可能性も否定できません。団塊の世代の能力を継続的に社会に還元することは重要ではありますが、退職という制度によって能力の市場評価が下落すると結果的にデフレに結び付くのではないかと危惧しています。団塊の世代の安価な労働力供給がもし拡大するならば、高価な若年世代の労働力の価格も相対的に低下する危険性があるのではないでしょうか。デフレだから必ずしも悪いとは言えませんが、労働市場、他の市場とのバランスが保てるかどうかが焦点にはなろうかと思います。

2005/7/13 『セルフサービスに思うこと』
 セルフサービスのガソリンスタンドを使うことにはすっかり慣れましたが、とうとう近所のスーパーマーケットでセルフサービスのレジが登場しました。機械的には店員が扱っているPOSレジにお金の収受機能を追加したようなもので、自分で商品のバーコードを読ませ読み取り機の隣にあるビニールの買い物袋に商品を入れて行く仕組みです。商品をすべて読み込ませると合計金額が表示され、その金額を機械に入金します。不正な利用を防ぐ仕組みとしては単純でバーコードを読み込ませないで買い物袋に商品を入れると重さを検知してブザーが鳴り店員が駆けつけるようになっています。まあ、その他にも監視カメラ等、いくつかの仕組みはあるとは思いますが。このようなセルフサービス化について二つのことを考えてしまいます。一つは過当競争による人件費削減の波はスーパーマーケットにまで押し寄せて来ているんだなあということです。もう一つは以前お話した性善説社会への回帰のきっかけにならないかということです。田舎の方に行くと農家の前に野菜がならべられ取った分の料金を料金箱に入れるというセルフサービスがあったりしますが、そういう風な利用者への信用が背景としてある程度あるのではないかということです。実際には不正利用を防ぐ仕掛けがたくさんしてあるとは思いますが、本気で不正利用をする人を防ぐことは難しいのではないでしょうか。

2005/6/30 『国の経営責任とは?』
 近頃、増税の話題が出ていますが、「ちょっと待て」と言いたくなる人は少なくないでしょう。我が国の借金が膨大な額に達していることは重々承知していますが、この借金に対して誰がどれだけの責任があるのかは定かではありません。責任の所在が明らかでないのに、国民が(しかもサラリーマンが)負担するということは、国民(サラリーマン)に責任があるというようなものではないでしょうか。
 企業であれば、経営に失敗し借金が増えた場合、経営者が責任を負うことになります。昨今、経営者の経営責任を問う株主代表訴訟の件数が増えているようです。また、経営者や社員が給料の減額という形で責任を負う場合もあります。国を会社に例えると、我々国民は税金という投資をしその運用を国に委託しているいわば株主です。経営の失敗を株主が取るということは、現状の企業社会ではあり得ないと思います。では、企業の経営者や社員に当たる人は誰でしょうか。それはやはり政治家であり、公的機関の長や職員になると思います。しかしながら、このような人達が国の借金に対して十分な責任を負っているようには見えません。
 公的機関の失敗に対して、このような個人が責任を負わず、公的機関という組織が責任を負っても、結局その負担は財政負担であり、国民の懐に返ってきます。ジレンマを回避するためにも、国においても、ある程度個人レベルでの経営責任というものを明確にして行くことが不可欠と考えられます。
 もちろん、我々国民にまったく責任がないとは言いません。株主のような厳しいチェックも行わずに、任せっきりにしていた責任があります。しかしながら、今後は株主としての役割を十分に果たし、より厳しい目で国の経営をチェックするためにも、経営責任が追及できるような仕組みづくりが求められるような気がします。
 ちなみに、自治体レベルでは、厳しい財政に対応すべく、首長や職員が大幅な給与カットを行っている自治体も存在するようです。民間企業では、ボーナスなしという企業も珍しくありません。ボーナスなしの行政機関ってあるのでしょうか。借金の額を考えるとボーナスなしでも追いつかないとは思いますが。。。

2005/5/13 『広告モデルから出てこない情報』
 最近、多くのマスメディアが広告モデルによってその運営を成り立たせていますが、このモデルには重大な欠点があることに皆さんはお気付きでしょうか?
 それは商品やサービスの「買い換え時期」に関する情報が得られないということです。
 広告費用で採算を取っているマスメディアでは、スポンサーとなる企業の商品を批判できないと言われていますが、それでも報道番組では企業に関する事件等は取り上げますし、雑誌では商品の比較評価等も掲載されます。しかしながら、いつが買い換え時なのか、という情報に関してはマスメディアから聞いたことがないようにも感じます。理由としては、やはり市場そのものを収縮するような行為は広告収入という自分の首を絞めるからではないでしょうか。評価してどちらかの商品が良いということを言うのであれば、市場の収縮は起こりません。しかしながら、買い換え時ではない、と言ったとたん、市場は収縮してしまいます。
 「買い換え時を待っているといつまでも買えない」、と言う方がいらっしゃいますが、私は買い換え時という時期は明確に存在すると思っています。核となる技術が黎明期であったり、技術的に大きなモデルチェンジが予定されていたり、理由はいくつか存在します。そのため買い換え時を間違えると、製品の寿命が短くなったり、余計な費用がかかったりします。その分野の専門家はこのような情報を持っているのかもしれませんが、一般的な人が特定の商品について買い換え時期を正確に判断することは難しいでしょう。
広告モデルは利用者に直接利用負担が発生しないという点からフリーペーパーに代表されるように歓迎されている仕組みですが、「買ってはいけない」という本にあったような情報はなかなか得にくいというのが一つの欠点と考えられます。

2005/4/22 『リアリティが良いわけではない』
 テレビゲームでも映画でも良いのですが、エンターテイメント系のソフトウェアを作成する時には、従来、「リアリティを出す」というのが一つの重要なテーマでした。SF映画に代表されるように話の内容自体が現実とかけ離れているのはかまわないのですが、その中でいかに人間味を出すかとか、テレビゲームに出てくるキャラクターの動きをいかに人に近付けるかということが重要だったような気がします。
 しかしながら、最近ではこのテーマが少し違ってきているような気がしています。言い方が少し難しいのですが、つまり、「ソフトウェアの利用者がそれを人工物だということを前提にして見ることを前提に作っている」ということです。例えば、最近見たテレビドラマに関して言えば、客観的に見ると、一般的な人はそんなことはしないということを登場人物が平気で行い、ドラマの中での良い役と悪い役を明確に分けているような気がします。カット割りも、話が流れるようにというよりは、要所要所をつまみ食いしたような感じになっています。もちろん、水○黄門のように従来からそのようなソフトウェアはあったのですが、現代ドラマにおいてもその傾向が顕著になってきたような気がします。テレビゲームに関しても、必ずしも動きがリアルなソフトウェアがうける訳ではなく、ゲームらしさへの回帰が見られるような気がします。
 このような人の変化とメディアの変化はどちらが発端かは分かりませんが、それぞれの相互作用によって着実に変わってきています。ただし、リアリティじゃないということを前提に構成されるソフトウェアに対して、皆がリアリティじゃないということを理解して利用できているか、というのは一つの課題だと思います。

2005/4/11 『身近なS字曲線』
 世の中の事象をグラフ化(点と線で表現)する場合、直線になることはほとんどないということが言われており、当てはまり易い一つのモデルとしてS字曲線を挙げることがあります。S字曲線の場合、例えば携帯電話の普及なんから代表的な事例として挙げられますが、横軸に時間を取ると、導入当初の左下では、その普及は緩やかですが、ある閾値を超えると、外部性等が働き、急速に右上がりで普及が進みます。そして、ある程度時間が経過し、人口のほとんどの割合に普及した後には、再び緩やかな曲線へと変化します。また、S字曲線はこのような財やサービスの普及を説明するだけでなく、物事が二極化することを説明するのにも用いられます。つまり、S字曲線で説明できるような事象では、真ん中当たりは非常に不安定であり、両極端の安定的な位置に容易に変化するのです。
 話が少々難しくなりましたが、このような事象を最近、身近に発見しました。私は最近、ある大学の側に引っ越したのですが、最寄りの駅からは徒歩15分ぐらいと少々離れています。にも関わらず、駅前から私の家の間にあるコンビニは駅前にある3件と大学の隣にある1件のみです。私の家から駅までにはたくさんの家が建っているので、駅前に3件も立地して過当競争するよりは、中間地点に立地した方が良いようにも感じますが、実際には人の流れを考慮すると、その両端(駅と大学)に立地した方が良いのでしょう。
 たいした話ではないのですが、本日、駅から自宅まで歩いていて、ふと気付いたのでしたためた次第です。

2005/3/2 『性悪説社会の優性遺伝』
 性善説と性悪説に二分化できるほど我々の社会は単純ではありませんが、社会的な制度設計をする上で、その制度に乗る人達がどのような行動をとるかを予測することは重要です。ここで少し気になるのは、社会がどちらにでも傾くことが可能かどうか、ということです。現状の社会を見ると、経済的な諸条件等によって性悪説に傾いているように見えますが、これが再び性善説の社会に戻れるでしょうか。
 話がいきなり飛んで恐縮ですが、生物では子孫を増やしてその特質を後世に残す際に優性遺伝というものがあります。これは、交配によって二つ特質(遺伝子)が混ざった場合、優性の遺伝子の方が表に出るという現象です。私は性善説と性悪説の関係もこれに近いのではないかと感じております。
 例えば、近年、スマトラや新潟の大地震等、大規模な災害が多発しましたが、それに乗じて嘘の募金活動が結構行われているようです。彼らは募金箱を持って街頭に立ち募金を集め、その募金されたお金を自分達の収入とします。中には募金のためであることを証明するために、集めたお金の一部を本当の慈善団体に支払う場合もあるそうです。このような嘘の募金活動があることを知るとどうなるでしょうか。誰でも同じだと思いますが、募金をしなくなるでしょう。つまり、このような嘘の募金活動が行われることで、本当に慈善活動の一環として募金活動に取り組んでいる人達が被害を受けるのです。最終的には、我が国全体の募金額等にも影響が出て、これまで困っている人の救済に役立てられていた資金が回らなくなるという現象が発生します。加えて、このような事象が一度起きると、なかなか以前のように募金活動を信用することができなくなってしまいます。
 したがって、私は性善説を基にした社会よりも、性悪説を基にした社会の方が優性な遺伝子を持っているのではないかと考えております。「振り込め詐欺」もそうですが、性悪説社会の優性の度合が高まっている昨今、それに合わせた制度設計が必要になりますが、その場合、性善説の社会へ回帰できなくなるのではないかということが心配であります。

2005/2/25 『習熟の力?』
 携帯電話の多機能化が進み、他のデバイスを飲み込んでいっている感がありますが、ひょっとしたら近い将来、パソコンに取って代わるのかもしれないと感じています。そのように考えるきっかけになったのは通勤電車で見た光景でした。私の隣に立っていた女の子が何やら忙しそうに携帯電話を操作しています。私はゲームでもやっているのだろうと思っていましたが、違いました。実は、彼女は携帯電話で学校のレポートを作成していたのでした。手元には手書きのレポートの素案みたいなものがあり、それを見ながら一生懸命に文字を打ち込んでいます。打ち込んだデータを最終的にはパソコンで加工するのかも知れませんが、個人的にはその使い方に驚かされました。
 携帯電話は持ち運びが便利な反面、入力や出力の機能はパソコンよりも劣ります。特にテキストの入力は、短い電子メールなら良いのですが、長い文章には適していないと思います。しかし、私が見た女性の入力スピードはものすごく速く、パソコンでの入力にもあまり引けを取らないレベルでした。つまり、携帯電話のようにあまり使い勝手が良くないと感じるようなインターフェースでも、習熟すれば、それなりの効果が得られるのです。そう考えますと、持ち運びに優れた携帯電話の操作に習熟することは、パソコンのブラインドタッチと同様に、今後、必要度の高いスキルになるかもしれません。私ももう少し携帯電話での入力速度を上げ、色々な情報を様々な場所で入力するようにしていきたいです。

2005/2/4 『FTTD』
 FTTHの契約数が昨年9月時点で200万を超えており、光ファイバーの普及も順調に進んでいるようです。そのため、昨今では「ギガビットサービス」に注目が集まっています。ただし、FTTHに変わるもう一つの課題が見えてきています。それはFTTDです。家庭までギガビットの回線が引かれていても、そこから端末までの接続する回線が遅ければ、結局、利用者はその速度でインターネットにアクセスすることになります。したがって、端末までの回線も光ファイバー(あるいはそれに相当する通信手段)化することが望まれます。ちまたではFTTH=Fiber To The Deskとされていますが、無線LANや携帯電話等によるユビキタス化を考慮するとFiber To The Deviceとした方が適切だと考えています。
 現在、家庭内で使われているルータのほとんどは速くても100Mbpsの有線LAN(100BASE)のポートと54Mbpsの無線LAN(IEEE802.11a/g)を装備している状況で、光ファイバーのONUもルータとの接続口が100BASEになっています。つまり、最高でも100Mbpsしか通信速度は出ないのです。本当にギガビットの通信速度を利用者が必要としているかどうかの議論は別にして、ギガビットサービスの真の便益を享受するためには、この家庭内における端末までのアクセス回線(特に無線)をさらに高速にすることが必要です。具体的な通信手段として現時点で期待されるのがIEEE802.11nとUWBという無線技術であり、いずれも通信速度が100Mbpsを超えると言われています。それぞれ標準化に苦労しているようですが、早く市場に出回ることを期待したいものです。

2005/1/26 『制度だけでは。。。。』
 世の中が多様化し、複雑化し、アナーキーな状態に近付くのを防ぐために制度を用いることが必要であると考えていますが、実際には制度の運用(マネジメント)まで含めた取り組みが重要であると考えられます。「仏作って魂入れず」という言葉をたまに耳にしますが、制度に関しても、制定するだけでは何にもならず、これを適切に運用しなければ効果は生み出されません。したがって、比較制度分析等を行う際にも、実際の制度の運用に目を向けることが非常に重要になります。
 例えば、つい先日、総務省から自治体におけるパブリックコメントの制度化状況が公表されましたが、制度化しているかどうかだけを見ると、制度化率は決して低くありません。都道府県で85.1%、政令指定都市で61.5%となっています。しかしながら、実際には、制度化している自治体間でも、パブリックコメントの利用状況が大きく異なっています。年間20〜30件程度のパブリックコメントを求めている自治体もあれば、利用が0件/年の自治体もあります。年度によって政策案件数が増減することを踏まえても、やはり制度の運用に大きな違いが生じていることがうかがえます。パブリックコメントが多ければ多いほど良いというつもりはありませんが、制度化後の運用によって大きな違いが出ることを端的に表した一つの例と考えられます。
http://www.soumu.go.jp/s-news/2005/050119_2.html

2004/12/28 『保守の社会へ』
 建造物の新規建設が飽和していることから、建設業界は建築からメインテナンス市場へ移行すると言われています。また、昨今のリフォームブームもやはり、古い家を改善して継続利用するという発想から来ています。そこで気になるのが、情報化において重要な役割を担う(コンピュータ)ソフトウェアに関しても、このような保守型市場への移行が進むかどうかということです。
 古くから情報システムを使ってきた企業や行政機関では、基幹系システムを刷新しているところも少なくありませんが、刷新に係る費用の割に業務効率が変化しない場合も少なくありません。また、パソコンレベルにおいても同様であり、OSのバージョンアップによって機能的な大きな差異を作り出すことは難しくなってきています。実際、OSのバージョンアップスパンも長くなってきているのが実情です。
 このようなことを考慮すると、ソフトウェアに関しても、開発中心から保守中心へと市場の移行を図る必要があると考えられます。ドッグイヤーという言葉に惑わされて、無理に5年後に刷新するのではなく、いかに長期的な視野での価値を高めるかを考えるべきでしょう。初期費用が少しくらい高くても、保守期間が10年という風に長ければ、ライフサイクルコストは返って小さくなる可能性もあります。また、刷新に付帯して必要になる研修、職員の習熟等の費用や損失も最小限に抑えることが可能です。保守中心(メインテナンスセントリック)なソフトウェア、情報システム、あるいはサービスへの移行を真剣に考えても良いかもしれません。

2004/11/13 『地域情報化における共有地の悲劇』
 私自身がITの多大なる恩恵にあずかっていることもあり、情報化の推進は非常に重要であり、国策として推進していくことにも賛成です。もちろん、そういう意思があってこのようなホームページを開設しているのですが。ただし、情報化を推進には少なからず矛盾があり、推進者(自治体とか)が本来、意図したところと違った方向に進むリスクがあることにも十分留意する必要があります。例えば、このようなことが起こる可能性があります。
 ある中山間の村Aでは、村民の生活環境の向上、若年層の流出防止等を目的として、公費を活用して全戸に光ファイバーを敷設しました。これによって住民のインターネット利用率は急速に向上し、コミュニケーションにおける利便性も向上しました。インターネットにより村民が村外の人とコミュニケーションする機会が拡大することは、村民の活力(バイタリティ)向上等が期待される反面、地域内の近所付き合いが希薄になる可能性があります。また、経済的な面においても、地場産品等を地域外に販売する機会拡大が期待される反面、村民のオンラインショッピングが増え、地域内での消費が減退することが危惧されます。つまり、地域における情報化の推進が、必ずしも地域において良い結果をもたらさない可能性もあるのです。
 このように情報化の期待と結果に乖離が発生する理由は、住民という個人のメリットと、地域社会のメリットが必ずしも合致しないからで、ゲーム理論で言われる「共有地の悲劇」に該当します。住民個々が自分の生活にとってメリットが大きい行動をした場合、結果として地域社会にとっては望ましくない結果が生まれるのです。また、このようなリスクが高い場合、過疎地においては、情報化を推進しなくても、推進しても地域社会が衰退するというジレンマに陥ってしまいます。もちろん、情報化の推進によって悪い結果が出る確率が分からないのであれば、推進した方が良いに決まっているのですが、悪い結果が出る可能性を減らすような方策を少しでも講じることが不可欠であると感じます。

2004/11/10 『Webアンケート調査について』
 昨今、IT関連の調査を行う際、Webアンケートを活用することが多くなってきていますが、最近、その有効性についてやや疑問を感じ始めています。Webアンケートは、多くの回答を迅速に得られること、回答の再入力が無く迅速に集計できること、映像や音声も活用できること等の多くのメリットがあります。個人的には、アンケートの発送作業等の雑務を省略できるという点で非常に重宝しております。ただし、情報の精度という面では、少々問題があると考えています。もちろん、インターネットと関係ない調査を行う場合、Webアンケートは回答者がインターネット利用者に限定されるため精度が落ちるのは当たり前なのですが、インターネットに関する調査を行う場合においても、必ずしもインターネット利用者全体を網羅できていないと感じています。例えば、以前、Webアンケート調査を実施した際、ブロードバンド利用者とナローバンド利用者の比率は7対3になり、ちょうど当時の比率と逆になりました。また、インターネット利用頻度も同時期に郵送調査で行った結果と比較すると、異常に高く、郵送調査において「1日一回以上利用」が45%程度であったのに対して、Webアンケートではこの割合が9割以上になっていました。つまり、Webアンケートでは調査のサンプルとなるモニター自体がいわゆるヘビーユーザーに属する人々に偏っており、インターネット利用者の平均像を映し出しているとは言いにくいのです。
 このようなことから「インターネット利用者に関する調査だからWebアンケート」という発想は必ずしも望ましくなく、Webアンケートを手法として選択した時点で大きなバイアスがかかっていると考えた方が適切な気がします。しかしながら、現状に目を向けると、利用者側にこのようなリテラシーのないまま、Webアンケート調査結果が一人歩きしている場合がほとんどです。
 Webアンケート調査結果に関するリテラシーの啓発、あるいはWebアンケート調査に代替する精度の高い調査方法の開発が今後の課題として挙げられます。

2004/10/13 『紳士という言葉は流行るか?』
 「紳士」という言葉は我が国には馴染まないのでしょうか?なぜこのようなことを書くかと言いますと、最近、比較的年齢が上の人々のずうずうしさに辟易しているからです。もちろん、すべての人がそうではないのですが、店のレジや電車の乗車で並んでいると平気で割り込んでくる、周りを気にしない大きな声で会話をする等の場面によく出くわします。そのたびに「なんて節操がないんだろう」と思うわけです。その理由を考えた際、彼ら(彼女)らが、紳士(淑女)でないのは、その言葉そのものが文化として根付いていないからではないかと仮説を立てました。外国では日常会話として“He is a gentleman.”というフレーズを使いますが(私の限られた経験によると)、日本では「彼は紳士です」と言うことはありません。この辺が行動にも表れてしまうのではないでしょうか。
 実際、少しインターネットで調べてみると、紳士という言葉の語源はどうやら聖徳太子が作った冠位十二階という制度にあるようで、語源そのものは我が国の歴史を発端としています。ただ、問題なの“gentleman”という言葉の訳という割には日常的な言葉として定着しなかったということでしょう。
 我が国で「紳士」という言葉をなんとかもっとメジャーにすることはできないものでしょうか。もちろん、言葉だけ流行ってもしょうがないのですが、言葉が定着するということは、思想や文化になんらかの影響を与えるのではないかと考えています。

2004/9/2 『ある通勤電車にて』
 先日、通勤電車に乗っていると奇妙な光景を見かけました。座椅子の端とドアの間のスペース(たぶん座椅子の幅とドアまで20センチぐらいの四角形で、良く人がもたれかかって立っている場所)に女性が座っているのです。座っていると言っても、床に座り込んでいるのではなく、あたかもそこに座椅子があるように座っているのです。私は空気イスという、かつて中学校時代に部活でやっていた苦行を思い出しましたが、どうやらそうではないらしく、当の本人は安らかな寝顔を見せておりました。結局、その人が下りる際になって分かったのですが、彼女はイスにもなる杖のようなモノに座っていたのです。ただ、その光景を見た瞬間、私は非常に悲しくなりました。
 彼女はもちろん、足に障害を持っているため杖を持っていたのであり、普段は長時間歩けないため、休憩を取るのにこのイス付きの杖を使っているのかも知れません。しかし、彼女がそのイス付きの杖で座っていた場所は電車の優先席のすぐ隣だったのです。「誰も譲らなかったから彼女は杖に腰をかけていた、あるいは誰もが譲ってくれないことを分かっているから彼女はイス付きの杖を持ち歩いている」、こう考えてしまうと、なんて寂しい社会だろうと、落ち込んでしまいそうになりました。
 他人に対する無関心が形成される理由には様々あると思いますし、実際、呼び込みやビラ配りの人にまで関心を持つことは無理だと思います。それでも、もう少し他人を思いやれるような社会にしなければいけないのではないかと、痛切に感じました。

2004/8/17 『行政アウトソーシングで雇用が創出できるか?』
 今頃、基本的な疑問の話をして恐縮ではありますが、行政機関が行っている業務をアウトソーシングすると雇用が拡大できると言われていますが本当にそうでしょうか。
 アウトソーシングする時によく理由として挙げられるのが、「民間企業の方が専門化しており効率が良い」ということですが、実際に民間企業の方が効率化良いなら、雇用は減ってしまうのではないかと初歩的な疑問があります。
 例えば、現在、行政機関において400人日/年、つまり2人を一年間雇用する労力をかけて行っている業務があるとします。これを効率の良い民間企業にアウトソーシングした場合、200人日/年の労力しか必要ではなくなったら、雇用できるのは1人に減少します。アウトソーシングした行政機関によって業務が無くなった分、2人の雇用が削減されるならば、差し引きで社会全体として1人の雇用が減少したことになります。これではアウトソーシングによって雇用が創出されるという発想はなりたちません。
 では、どうすれば成り立つのでしょうか。簡単です。人件費と生産性を落とすのです。行政機関では400人日/年の労力のかかっていた業務をアウトソーシング先の企業では600人日/年をかけて処理するかわりに、人件費を3分の2に落とします。そうすると、行政機関と同じ人件費で3人を雇用することができ、行政機関で2人の雇用が減っても1人の雇用を創出することができます。
 少し考えると分かることかも知れませんが、すなわち、「効率の良い民間企業へのアウトソーシング」と「雇用創出のためのアウトソーシング」というものは両立しないのです。
 もちろん、実際には行政機関側の人がすぐに減るわけではありませんし、波及効果等もあるので、一概にそうとは言えませんが、単純化すると上記のように考えられます。

2004/8/5 『機能分散型の合併は成り立つか?』
 合併特例法の期限が延長されたとは言え、本来の期限であった今年度末に向けて市町村合併を行う自治体が増えてきています。その中で気になるのが機能分散型の合併が出てきていることです。例えば、A、B、Cの市町村が合併することになったとすると、どこか一つの庁舎を本庁舎、残りを支庁舎とするのではなく、庁舎Aには総務と産業振興、庁舎Bには保健と福祉、庁舎Cには土木と環境といったように、機能を分散して配置するのです。
 確かに合併の際に自分の自治体の庁舎が支庁舎になることは公共サービスの低下や近隣の衰退をイメージする可能性もあるので、機能分散は合併したすべての地域が対等であること強調する意味で有効かも知れません。しかしながら、長期的に一つの自治体として活動していくことを考慮すると、どう考えても非効率ではないでしょうか。機能が分散するということは、窓口も分散化してしまい、多様な行政サービスを利用したい住民は複数の庁舎に出向かなければなりません。このような問題を回避するため庁舎間にテレビ会議システムを整備する自治体もあるようですが、果たしてうまく機能するでしょうか。サービス利用者側だけでなく、行政職員の側においても様々な問題が予想されます。組織横断的な調整には庁舎間の移動がともない、政策の決定においても余計な時間を要しそうな感じがします。
 合併とは一つの地域になることであり、その背景には住民の生活範囲の拡大や小さな自治体規模による非効率があったはずです。にも関わらず、このような機能分散型の運営を行うことは本末転倒でしょう。新たな地域において適切な選択と集中を行い、効率的な地域経営を実現してこそ合併をしたことの意義があると言えるのではないでしょうか。

2004/7/20 『協働のための資金システム』
 論文等のアーカイブで「脱官民社会の制度設計」というタイトルでアイデアを書いたのですが、すでに具体化されているようで、少し恥ずかしい感じではあります。ご存じの方も多いと思いますが、税金をNPOに還元する仕組みは数年前からハンガリーで導入され、その後スロバキアでも導入されているようです。もちろん、税金を再配分するという意図よりは、税金の一部を寄付するという感じのようで、この辺は寄付の文化が社会に根付いているかどうかの違いはあるようです。
 そして、私がアイデア出ししたITを使った再配分モデルにしても、近い将来、某自治体(一応、名前は伏せさせていただきます)が導入するという話を先日うかがい、驚きました。その自治体は市税の1%を住民の電子投票によって配分する仕組みを考えているそうで、NPOだけでなく、ボランティア団体等も対象となっているようです。
 これ以外にも某省において住基カードを活用した地域通貨のモデル事業を行うようで、この地域通貨をNPOへの助成(のための評価)の目安にするという話もあるようです。こちらに関しては、あくまでも「行政からの助成」というスタンスになっているので、個人的にはどうかと思うのですが、地域通貨を活用するアイデアに関しては興味深いと感じております。

2004/7/13 『組織に関する少考』
 流行物で恐縮ですが、「踊る大○△線」のビデオを見ました。この映画には面白い問題提議があったと思っています。それは、トップを要するピラミッド型組織と、トップ不在のネットワーク型組織はどちらが良いのか?ということです。
 昨今、インターネットの普及にともない、自律分散型の情報通信ネットワークが当たり前になり、その上で稼働するサービス等に関しても、同様の形態が見られます。つい最近話題になっていたWinnyもその一つではないかと思います。
 昨今、上記のようなインターネット上の動き、あるいは官僚主義の弊害から、ネットワーク型組織が今後の主流であり、ピラミッド型組織を旧態依然の組織(レガシー)として否定するような話が多いように見受けられますが、個人的には一概にそうは言えないと感じています。確かに社会全体として個人主義に傾倒していることを考慮すると、ネットワーク型組織の方が適しているような気もしますが、これはモラルハザードが起きないという前提に立っての話だと思います。実際には、モラルハザードが起きる可能性は否定できず、Winnyも不正コピーに使われて問題になりました。
このようなことを考慮しますと、端的に二つの解が見つかります。一つはネットワーク型組織においてモラルハザードが起きないような仕組みを用意することで、法制度やセキュリティ技術が例として挙げられますが、実効性の面では現状において役不足と言わざるを得ないでしょう。もう一つは、ピラミッド型組織における統制を残しつつ、これをネットワーク型に近付けることであり、これに関しては依然から組織のフラット化として取り組みが進められています。
 漠然とした話になってしまいましたが、前者が理想としてあったとしても、性善説が成り立たない社会の現状を考慮すると、後者が現実解であり、前者を目指すことは多大な社会的費用と労力を要するのではないかと考えます。そうは言っても後者の可能性を完全に消すことはないと思いますが。。

2004/6/5 『政治という仕組みで地域経営ができるか』
 モジュール化、ネットワーク化等の社会的な変化を考慮すると、キャノンの成功例を出すまでもなく、企業経営において競争力を維持するために重要なことは「選択と集中」です。これは地域経営においても同様で、産業振興を図る場合においても、分野や地域を絞り込むことが非常に重要だと思います。しかしながら、地域の限られた資源は、多くの場合、公平性を確保するために地域全体に分散して投入され、かえって効果が低くなっているのが実状ではないでしょうか。
 このような状況を招いているのは「政治」という社会的な仕組みであると思うのですが、この仕組みと地域経営の調和が今後の課題と考えられます。ちょっと極論になるかも知れませんが、「狭い視野しか見られない(利己的な)有権者」によって成り立った政治家は狭い視野で政治活動を行うことになり、地域全体を考えた広い視野による「選択と集中」とは相いれない可能性があります。この問題はeデモクラシーを実現した場合においても同様であり、皆が利他的、あるいは利社会的に行動するとは思えず、参加者が増えるほど利己的な人の割合が増える可能性もあのではないでしょうか。
 ここで、以前お話したスローとスピードの話につながるのですが、果たしてスローを推進するであろう、eデモクラシーを含む住民参加の進展は地域としての競争力につながるのかどうかが、ということが個人的に非常に大きな関心事です。
 端的に考えると、「選択と集中」が図られるためには、やはりどこかで少数の経営者(首長等)が戦略的に判断できるオプションを用意するか、住民や議員の多くがマクロ的、利他的な視点を持つことが必要と考えますが、後者に関しては難しい気がしています。そう考えると、「選択と集中」が弱い現状から経営者の権限を強めるような動きの方が地域経営という面では望ましいのかも知れません。

2004/6/2 『政策的なトレードオフについて』
 「デフレ」という言葉がすっかり定着してしまった感がありますが、確かに身近な物が安く買えると実感する時があります。しかしながら、デフレが続くことは経済的に収縮している証拠であり、景気回復のためにもこのデフレを止める必要があると考えられ、政策的にもデフレ対策が継続的に行われています。(効果を上げているかは別にして...)
 ここで個人的に頭にひっかかるのは、もう一つの政策的なトレンドとのトレードオフです。今、官民だけでない、新たな社会の担い手としてNPOや社会起業家等への注目が集まっており、政策的にもこれらの組織を支援する動きや、これらと行政の連携を図る動きが多く見られます。しかしながら、このような新たな担い手は、参加者の高い意欲に裏打ちされ、民間企業で提供されるサービスよりも低価格になる傾向が強く、逆にデフレを加速する要因になります。
 このようなトレードオフ関係にある政策が併行することは珍しくないのかも知れませんが、政策的なベクトルが拡散することは非効率であり、政府として整合や調整が図られているようにも見えないような気もします。もちろん、後者の政策に関しては、新たな担い手によって雇用を確保する等、景気を上向ける要因は期待できるわけですが、それとデフレとは別次元の話ではないでしょうか。
 ちょっと、話を延長して、デフレについて個人的な意見を書かせていただくと、デフレが景気悪化に直結しているため、デフレを止めるような政策になりますが、むしろその関係性を緩和するような政策を進めることで、デフレを容認しつつ、景気回復するような方法もあるのではないかと思います。むしろ、現状のデフレ対策の内容を見ると、古い組織の延命を助長し、経済の本質的な再生を遅らせる可能性があると考えられ、デフレを容認し、新たな担い手等による新たな社会形態への変革を推進した方が望ましい気がします。

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