徒然ノート バックナンバー1

思いついたことを徒然なるままに掲載したいと思います。

1999/6/18 『どうなっているJR東日本』
 本日も信号機故障とやらで、通勤電車に長い間乗っていました。運命の巡り合わせが悪いのか?今月は電車トラブル月間でありまして、6月だけで10回以上こういう風な電車のトラブル見回れています。しかも、すべてJR東日本(やっぱり東日本は付けないと西日本では事故が少ないのでは申し訳ない気がします)です。特に中央線・総武線でのトラブルが多く、昨日も立川で人身事故だとか。
 人身事故は乗客側の責任もあるので、一概にJR東日本を責める訳にはいけませんが、その後の対応が悪かったんです。私はお茶の水にいたのですが、改札を通った瞬間人身事故の情報を聞いてどの経路で、オフィスのある田町に戻ろうかと考えました。でも、場内アナウンスで目の前に止まっている中央線がとりあえず神田まで行くというので、神田まで出れば山手線で帰れると思い飛び乗りました。
 ところが、電車はお茶の水ー神田間で止まってしまい、しばらくの間(10分ぐらい)動きませんでした。だったら、「神田まで行きます」なんてアナウンスしないで欲しい。この時、総武線は動いていたので、秋葉原まで出て京浜東北線(快速)に乗り換えた方がよっぽど早く田町に着くことができたはずです。
 と、まあ、対応の悪さに怒っているのですが、最近、JR東日本はインフラということで、人々が使わざるを得ないのをいいことに、殿様経営になっているのではないでしょうか。こういった社会資本を司る企業においてもCS(顧客満足度)経営を徹底していただきたいと思います。

1999/6/14 『情報の信憑性について』
 最近、人伝に聞いていた情報と、本人から直接聞いた情報が大きく違っているということがありました。微妙な差異は日常茶飯事なので誰も気にしていないでしょうが、今回のは大きかったので私も気になりました。それで、思ったんですが、やっぱり情報を正確に伝達することってかなり難しいことでして、人を経由していれば絶対の何らかしらのフィルタやバイアスがかかるのではないでしょうか。
 そこで、問題になるのが、情報の信憑性と分かり易さのトレードオフです。以前も仕事で問題になったことがあったのですが、情報の発信源である某組織の担当者に記事を執筆してもらうべきか、それともヒアリングして私が執筆するべきか、ということです。確かに私がヒアリングして執筆すると私自身のフィルタがかかってしまうので信憑性は低下してしまします。しかし、自分で言うのもなんですが、文章を書くことにはある程度慣れているので、文章の分かり易さという点では私の文章の方がその担当者の方の文章よりは分か易いのではないかと思います。実際、昨年の仕事では責任の所在等の視点からその担当者の執筆したものをそのまま載せたのですが、「人を介したことによる信憑性の損失」を「情報の整理による分かり易さの向上」が上回る場合は、文章作成能力のある人を介した方がいいのかも知れません(新聞記者等が代表的な例)。ただ、この判断は非常に難しく、私がヒアリングして文書化したものがオリジナルの情報と比較して「信憑性は変わりません」と断言できるか?というと、そうでもないんですよね。やはり個人的な考え方が反映されていますし、また、その人が喋った時点でフィルタやバイアスがかかっている場合も多々ありますから(自分の考えていることは必ずしも正確に表現できるとは限りませんから)。

1999/6/9 『労働福祉国家?について』
 我が国は典型的な労働福祉国家ですね。自民党は当面の雇用対策として地方自治体や国で失業者の受け皿を創出する案をとりまとめたそうですが、本当に安易な手法で将来的な事が考慮されていないと思いました。
 これに関しては、慶応大学の竹中平蔵教授が的を得た見解を、本日の日本経済新聞に掲載していましたので参照していただきたいと思います。
 だいたい、地方公共団体や国において一時雇用するということだが、「雇用期間=景気低迷期間」という都合の良い構図が成り立つとは思えません。結局のところ終身雇用になるのでは?という危惧が残るし、このような政策は行政改革に取り組んでいる地方公共団体の動きとも相反するものです。きつい言い方をさせていただくと、国会議員の選挙対策のために地方公共団体等の組織を犠牲にするという見方もでき、政治家のエゴイズムを反映した政策と言うこともできるのではないでしょうか。
 公共事業といい、この労働福祉政策といい、いい加減にその場しのぎで、かつかえって未来に負債を背負わすような政策を止めていただきたいと思います。

1999/6/7 『メディアリテラシーについて』
 数ヶ月前にあるメーリングリストにも書いたのですが、我が国においてメディアリテラシーの教育体制を整備することが早急に必要だと考えています。メディアリテラシーとは情報リテラシーの中の一つであり、その情報が作られた背景、過程や、違う角度から見方等を踏まえ情報を捉える能力の事です。
 我が国の学校教育においては現在、これを教育内容に正式に取り入れている事例はないような気がしますが、海外ではある程度普及しているみたいで、知人が大学院の授業でイギリスの小学校か中学校で使っているメディアリテラシー教育のテキストを使ったと言ってました。なぜ、メディアリテラシーが必要か?と言いますと、一つの理由は経済的な活力向上に寄与するのではないか?と思うからであります。経済学というのは個々の人がすべての情報を基に合理的かつ的確な判断を行うという前提に立っています。しかし、メディアリテラシーが十分でなく、マスメディアが生成する情報に振り回されている現状では、効率的な経済活動に支障を来します。
 この前、少し書きましたが、土曜日の昼間に放映している「○○のブランチ」をはじめ、各マスコミが大々的に取り上げたことにより、オープン時の横浜ベイサイドマリーナが猛烈な混雑を引き起こしたそうです。この混雑が引き起こした外部不経済はかなりのものであると考えられ、みんなに少しでもメディアリテラシーがあり、他の人がどういう行動をとるかとか?どのくらい混雑するか?等を考えていれば、このような現象は少しは回避できたかも知れません。
 この前のダイオキシン報道しかり、もっと情報の奥行きを気にしながら、自分の中で丁寧に情報を処理していきたいと思う今日このごろであります。

1999/6/4 『高学歴??について』
 昔の話で申し訳ないのですが、最近になってふと思い出したことを書かせていただきます。それは言葉の解釈の話なのですが、私が入社した当初同期のヤツが「○○先輩は3高だよね、高学歴だし、身長もそこそこあるし、収入もあるし」と言っているのが気になりました。私が気になった言葉は「高学歴」という言葉です。確かに○○先輩は有名な私立大学を出ていますが、最近では当たり前になりつつ学部卒です。それなのに高学歴なのでしょうか?修士とか博士課程まで進んでいたら高学歴というかも知れませんが、私はこの表現はおかしいと思いました。
 もう一つ、同期のヤツの言葉使いで突っ込んだことがあります。ドイツの自動車チューニング会社にAMGという会社があります。これを私が「エー・エム・ジー」と英字読みしていたら、同期のヤツにそれは「アー・マー・ゲー」と読むんだよと笑われました。でも、その同期のヤツはBMWを「ベー・ム・ベー」とは呼ばず、「ビー・エム・ダブリュー」と英字読みしていました。
 どちらが正しいかは別にして、言葉がよく考えられずに使われている代表的な事象のような気がして、私も気を付けなければと思う次第であります。

1999/6/3 『地域の税収について』
 以前、地元で消費行動を行うことにより、一部が地方公共団体へ税金として環流し、環境改善、行政サービス向上等の形になって消費者本人に返ってくる、という話を書いたと思いますが、現在の税制では必ずしもそうではないらしいですね。つまり、企業の場合、本社で税金を納めることになっているので、大手の支店、チェーン店が多い地域では地元で消費しても税金は地元ではなく支店やチェーン店の本社がある場所に還元されることになってしまいます。したがって、地元に密着した個人商店等で消費することが、代金の一部を地元の税金に環流させる確実な方法と言うことができます。ただ、チェーン店においても、フランチャイズ契約を結んで地元の人が経営している店なんかでは売上が経営者の収入として地元に還元されるみたいですが(税金に詳しくないので不確かですが)、これらを見分けるのは結構困難かも知れません。
 個人的には、地域における消費がその地域の税金として還元されない現在の税制は見直されるべきだと思いますし、そうでなければ、税金がどこの地域に支払われるか各店に表示ししていただきたい、なんて思ったりもします。

1999/5/31 『政策の矛盾について』
 建設省が「産業構造転換に即した都市政策研究会」や「都市再生委員会」を6月に設置して、都市再生対策を取りまとめるそうですが、この取り組み自体に矛盾を感じるのは私だけでしょうか。私は常々日本の産業構造の転換が早急に求められると考えておりますが、「産業構造の転換」とは他の先進諸国と比較して土木・建設や社会インフラに関連する産業分野へ偏重した産業構造を改めることであると認識しております。しかし、この建設省の政策はやはり、土木・建設や社会インフラ関連産業の継続的な発展を前提としているような気がして仕方がありません。新聞記事には「経済界の要望に応じて」というような記述もありましたが、産業構造の変革を行わなければならないのに、現状を維持しようとするであろう経済界の要望に応えていて目的が達成されるとは思えません。それよりも、今後、発展するであろう(すべき)産業や技術を基に具体的な産業構造のビジョンを作成し、土木・建設や社会インフラ関連産業等から、今後、発展が期待される産業分野へ労働力がスムーズに異動できるような政策や環境整備が急務であると考えられます。
 このような政策の矛盾を考慮すると、やはり、景気回復よりも、都市の再生よりも、何よりも政治や行政等、国に関わる組織を、社会的変化に応じたものへ大きく変革することが先決のような気がします。

1999/5/26 『ブランドについて』
 私は「ブランド」という言葉に対してあまり良い印象を受けません。ブランド品が嫌いなわけではないのですが、巷にブランド品が氾濫しており、何も考えずにそれを真似ている人達が増えていることに(少し言い過ぎかも)憤りを感じているのかも知れません。ブランド品を買うということは、商品の保証を求めている部分もあるのですが、(持論としては)ある部分ではファッションに関して試行錯誤することを止めていると考えています。したがって、世間的には少し変わったと思われるかっこうでも、自分なりのセンスで試行錯誤しているようなファッションの方が私は好きです(TPOにもよりますが...)。
 冷静に考えるとと、私が「ブランド」をあまり好きでないのには、もう一つ理由があります。それは、ブランドによって自分の弱さをカバーしているような印象を受けるからです。私個人の被害妄想かも知れませんが、どうもブランドというのは、自分に自信がない部分を物でカバーしているような感じがして仕方がありません。したがって、私はブランド品を買う時、なるべくブランド名が入っていない商品を購入します。ブランド名が大きく、もしくは全体に入っているような商品は、明らかにブランドをアピールしていて自分の弱さの象徴のような気がしますし、デザイン的にも問題あるのではないでしょうか。

1999/5/24 『不動産関連産業の規模適正化について』
 私は以前から不動産関連産業の就業者が過剰で、これをうまく動産関連産業(含むサービス産業)の就業者へシフトさせることが我が国の経済活性化のキーポイントであると考えています。しかし、実際には流動的でない我が国の就業環境や、依然として続いている地方の公共事業依存体質により、このような就業者のシフトは進んでいない気がします。
 ところで、不動産関連産業の就業者がなぜ過剰になったのでしょうか?私は今頃になって気付いたのですが、やはり消費のライフサイクルとそれによる需要の飽和が十分に考慮されていなかったことによるところが大きいのではないでしょうか。高度成長期からバブル期にかけて、不動産業や建設業は発展してきましたが、建物のライフサイクルや人口の停滞を考慮するとオフィスや住宅も飽和してきた感があると私は考えています。もちろん、持ち家率等を指標とすると全然飽和ではないのですが、賃貸住宅も含めると供給過剰な状態に入っていると見ることも可能でしょう。
 単純に考えますと、飽和している場合、「総保有量÷ライフサイクル」が年間の消費量になります。もし、建物の市場が飽和していて、建物のライフサイクルを50年とすると、年間の消費量は建物の総保有量の50分の1です。ただ、飽和に達するまでの供給期間はライフサイクルと同様とは限らず、これにより需給のギャップが生じます。つまり、飽和になるまでの建物の供給が20年間で行われた場合、「総保有量÷20年(供給期間)」が供給能力となる訳です。この場合、飽和後の需要量は供給能力の2.5倍になります。
 既存の不動産関連産業の雇用を守るためや、一時的な景気の回復のために、必要性の低い公共事業を行うより、不動関連産業の就業者の動産関連産業(含むサービス産業)へのシフトを促すことに税金を使っていただきたいと節に思います。

1999/5/20 『「都市への集積」について』
 最近になって、ようやく『日本経済再生への戦略(経済戦略会議答申)』を読む機会があった訳でありますが、そこで、ある記述がすごく気にかかりました。気にかかった記述は「U 重点的に取り組むべき戦略プロジェクト」の部分に書かれている『都市政策のベクトルを「都市化抑制」から「都市への集積誘導」に転換し』という記述であります。
 この記述はすべての都市に当てはまる訳ではなく、都市化抑制という記述から都心、つまり東京圏のことを指していると考えられます。では、都心において更に集積を誘導することが経済再生に寄与するのでしょうか?私はそうは思いません。
 東京には人も機能も十分な集積があると私は考えています。ただ、現状において景気が低迷し、個々の機能が低下していたり、人々の活力や消費意欲が低下しているだけではないでしょうか。更なる集積を行っても活力に直接は結びつかず、混雑、地価高騰、地方の衰退等、以前同様の集積のデメリットが発生するだけのような気がします。したがって、個人的には「都市への集積誘導」という政策は好ましくないと考えており、規模をそのままに機能強化、好循環形成を行うことが望ましいと考えております。

1999/5/18 『続・消費者の賢さについて』
 先日、消費者がもっと賢くならなければならない、なんてことを書きましたが、よくよく考えると結構難しいような気がしております。例に出した買い物する場所に関しても、地元でばかり買い物をしていては、地元の商店の競争心は育たず、日本の農業みたいに(競争力がなく)なってしまいます。かといって、価格や商品数等で買い物する地域を選んでいたら、人口の少ない地域の商店はすぐに衰退してしまう可能性もあるでしょう。ここに税金の概念や、ひいては移動コスト、消費行動が引き起こす環境負荷(環境経済学から)等を総合的に踏まえて最も妥当な選択を行うのは、まず、不可能でしょう。そう考えると、やはり現状のように、手に入る価格や商品情報なんかに基づいて消費する方法が、ベストではないにしても妥当な選択なのかもしれません。
 しかし、マスコミ情報により、オープン時の横浜ベイサイドマリーナが猛烈な混雑を引き起こしたことや、その混雑が引き起こした外部不経済なんかを考えると、やっぱりもっと賢くならなければならないかな?なんて思ったりもします。

1999/5/16 『消費者の賢さについて』
 経済学を学んだり、公共部門の非効率性を見ていると(すべてがそうではありませんが)、ゴチャゴチャと余計な介入は止めて市場経済に任せればいいのに、と思うことがあります。実際には、国際的な政治圧力等によって、政府や行政側においても介入を避けることが非常に難しいのでしょうが。
 市場経済がうまく機能する前提は我々消費者がすべての仕組みを十分に理解する程賢くて合理的に行動するということです。したがって、政府や行政等の公共部門の経済への介入は、我々消費者がすべてにおいて合理的、かつ効率的に活動する程賢くない、ということです(実際にはそれだけでなく公共財の存在等がありますが)。確かに、我々消費者が賢く行動しているか?というと甚だ疑問な部分はあります。逆に、公共部門が介在することにより、市場経済が十分に機能しにくくなっている部分もあるでしょう。
 例えば、消費行動について考えてみましょう。都市間を移動して買い物に行くことは今では当たり前ですが、自分が住んでいる地域の発展を考えると、住んでいる地域やまちで買い物をすることが望ましいとも考えられます。なぜなら、購入を行った先の企業や小売店の税金はその地域に納められ、地域の発展に反映されるからです。でも、そのようなことを考えて消費行動を行っている人は少ないような気がします。地元の商品が隣町で売っている同じ商品より100円高くても、売り上げの内の100円以上が税金として地元に還元されるならば、地元で購入した方が消費者にとっては得であるとも考えられます(実際にはそれ程還元されませんが)。
 地元で購入する方が絶対いいというわけではありませんが、そういう公共経済の介在やその仕組み等を理解して、我々消費者はもっと賢くならなければ行けないと思いますし、そうなることにより市場経済がより機能するような気がします。

1999/5/11 『ポイ捨てについて』
 私はポイ捨てが非常に嫌いであります。ポイ捨てができる人の感覚が理解できません。ポイ捨てをしないなんてことは当たり前で、人間の根幹に関わることだと個人的には考えております。したがって、どんなにカッコイイ格好をしている人でも、どんなに頭の回転が速い人でも、ポイ捨てしているところを見た時点で私の中ではたいした人物ではなくなってしまいます。
 なんで、こんな話をするかというと、今日久々にポイ捨ての現場を見たからです。タバコのポイ捨てではありません。タバコのポイ捨ても嫌いですが、最近は見慣れてきました。というか、別に見慣れたくはないのですが、あれで腹を立てていては自分の身が持たないと思っております。ちなみに今日見たのはタバコの箱のポイ捨てでした。やはり、カチンときました。本当はこういうことをする人、一人一人に注意したいのですが、はっきり言ってそこまで暇ではありません。そういう面では私も中途半端なのですが、親しい友人なんかには、ポイ捨てをしているところを見たら注意するようにはしています。
 で、どうすれば、ポイ捨てを止めさせられるか、ですが、はっきり言って公共広告機構が行っているように道徳面に訴えるのには限界があると感じております。なぜか、もちろんやっている側にはその道徳が欠如しているからです。では、どうすればいいか?一つの解決策は流行にしてしまうことです。「うわ、こいつポイ捨てしているダッサー」というイメージができればいいのです。個人的な希望としては、トレンディドラマの中でそういうキーワードを使ってもらったり、人気のあるアイドルが流行語としてテレビ番組の中で使うことなんかが良いのではないかと考えています。

1999/5/9 『まとまりについて』
 私事ですが、一番の趣味はサッカーでして、現在もいくつかのチームを掛け持ちしております。自分で言うのも何ですが、テクニシャンではないですが、それなりの仕事をしていると自負しています。
 そんなこんなで今日もサッカーの試合がありました。今年の公式戦第1戦です。結果から先に言いますと1−0で辛勝といったところでしょうか。個々の選手の力としてはうちのチームが明らかに勝っていましたが、うまくかみ合わず点が取れませんでした。
 社会人のチームでサッカーをやっているとメンバーが固定できない(みんな仕事等で来れない時がある)という問題もあり、大学時代と比べるとチームワークの面で格段に落ちる部分があります。プロのサッカー選手ならそういうこともないのかも知れませんが、いかんせん素人なもので。
 そういうことを考えると、「まちづくり」において、1つのまちの中で一体感を出すことは非常に難しいことだと改めて思いました。11人でも一体感を出すのが大変なのに、何千人、何万人という規模でしかも、人口移動が結構多いとなれば、まちのコンセンサス形成は実質不可能かもしれません。
 それ故、やはり一部の代表者が先導することもある程度仕方がないのかもしれません。

1999/5/7 『きれる?について』
 人伝に聞いた話なので間違っている部分もあるかもしれませんが、現在人気絶頂の某バンドが番組の公開録画において、司会者に「ビジュアル系」と言われたことに「きれて」、本来2曲演奏するところを1曲しか演奏せず帰ってしまったそうです。
 私はこのバンドの曲がすごく好きだったので、非常にショックを受けました。「きれる」とはなんなんでしょうか?これを期に自分なりに考えてみました。
 「きれる」とはたぶん「怒る」を通り越した状態ではないかと考えていますが、なぜ人間は急にその域まで感情を高めるようになったのでしょうか。私なりの仮説を言いますと、頭の中での言語処理能力、思考能力、表現能力、および忍耐力が退化してきているのではないか、と考えています。
 自分のかんに障る言葉を言われた場合、怒るのをひとまず我慢してそれを冷静に処理することが人間関係上望ましいと私は考えています。怒るのはいつでもできるので、相手の本意を十分に確かめてからでも遅くはありません。「ビジュアル系」と言われても、「我々はビジュアル系ではない」と言葉に出して表現することによって相手の誤解を解くことも可能です。このようなことができない人が「きれる」のではないでしょうか。
 実際には、マスコミにより、「きれる」ことが当たり前、一般的に存在することように報道されたことにも責任があると個人的には考えています。

1999/5/5 『本四架橋について』
 私は東京で働いているが、四国、徳島県出身であります。そういうわけでこのゴールデンウィークも四国に里帰りしておりました。掲題にあるような本四架橋が3つもできたことからフェリーを使わずに自動車で里帰りすることも可能になりましたが、通行料が高いことからもっぱら飛行機で帰っております。
 さて、本四架橋に関する私の評価は、といいますと、投資が回収できないものをまた作りやがって、という感じでしたが、このゴールデンウィークでこの評価も少し変わりました。
 実は5月4日、東京は戻るため徳島空港に行ったのですが、朝から天候が不安定で、とうとう飛行機が欠航してしまいました。ぎりぎりまで待たされての欠航に私は途方に暮れました。5月5日に出社して処理しなければしけない仕事があったため尚更です。
 欠航を知らされたのが午後3時。明日の飛行機は満席で乗れるかどうかも分かりません。これから徳島駅に行き、岡山行きの電車(正確にはディーゼル車)を探しても、4日中に東京に着くのは難しいでしょう。
 そんな折、見送りに来ていた父親が、「ほな、新神戸駅まで送っていったるわ」といって、大鳴門橋、明石大橋を通り新神戸まで送ってくれました。3時過ぎに空港を出て、新神戸に着いたのは5時半ぐらいだったでしょうか。
 この時は本四架橋の料金5,800円も全然高いとは思いませんでした。非常にありがたい存在に感じました。そんなこんなで、通常の価値観だけでモノを計ることはできないな、と思った次第であります。

1999/4/29 『エコカーについて』
 私はスポーツカータイプの自動車が好きであるが、最近の環境ブーム等の影響で、今度、買うときはエコカーかな?なんて考えていました。だが、本当にエコカーって環境に優しいのでしょうか?
 もし、エコカーを買うために今所有している自動車を処分すると、何らかしらのゴミが発生します。中古車市場で流通するにしても、車を所有する人の数は限られているので、新たに自動車を購入することは何らかしらの形で循環して自動車のゴミとしての排出につながっていると考えられます。つまり、エコカーの存在自体は他の自動車と比較して環境に優しい訳ですが、自動車の消費という行動自体は環境に負荷を与えているのです。
 したがって、経済学的に考えると「(エコカーに買い換えた事による環境負荷軽減)−(既存の自動車の処分による環境負荷)>0」が成り立たないと、真の意味で環境に優しいとは言えないのではないでしょうか?まして、処分した車が業者によって不法投棄されたり、タイヤが燃やされ多くの有毒ガスを発生していたりしたら、本末転倒のような気がします。
 でも、実際には、エコカーが出たからといって自動車を買い換える訳ではなく、車検等の理由でエコカーが出てなくても買い換えていた人がほとんどでしょうから、そういう人達の一部がエコカーに買い換えただけでも環境に貢献しているのかも知れません。ただ、買い換えという行動の環境負荷を考えている人はほとんどいないのではないでしょうか?

1999/4/28 『選挙について』
 選挙が終わって何回か綺麗な月を見てからこういうことを書くのも何ですが、現在の選挙活動は住民をバカにしているとしか思えません。名前を連呼して「よろしくお願いします」というだけです。つまり、頭に刷り込んで名前を覚えているという理由だけで投票してもらおう、という魂胆であります。オームや、最近では犬や猫でもあるキーワードを連呼するとそれを覚えてくれるというのに、我々はそれと同様に扱われているのです。
 この他にも気に入らないことがあります。それでは立候補者の政策でも少しまじめに聞こうか、と家のポストにはさまっていたある候補者のチラシに目を通してみました。それでまたショックを受けたのでした。私が見たチラシには減税(住民税、都市計画税の減税)や、環境整備、福祉充実等、住民の喜びそうな施策をならべ、あげくの果てには消費税をなくす等と書いてありました。住民の喜びそうな餌を列べてあるが、減税をして福祉充実や環境整備のための財源は確保されるのだろうか。こういう地域経営の仕組みを把握せず(実際には知っているのかもしれないが)、おいしい餌だけで票を集めようなどとは、やっぱりバカにされているとしか思いようがないのではないでしょうか。

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