徒然ノート バックナンバー6

思いついたことを徒然なるままに掲載したいと思います。

2001/5/11 『ドッグイヤーの論理』
 情報通信技術、昨今で言うところのITの進歩は、そのスピードが通常の技術開発より速いことからドッグイヤーと言われています。では、なぜ他の分野の技術開発よりスピードが速いのでしょうか。これには技術特性と労働力、二つの理由があると私は考えています。
 まず、技術特性に関してですが、従来の技術というものが、我々の生活において部分的にしか影響をもたらさなかったのに対して、ITは我々の生活の大部分に対して大きな影響をもたらします。例えば鉄板のプレス技術は、鉄板を利用した製品を作成する製造業にしか影響しませんが、ITはこのような第二次産業だけでなく、第三次産業にも影響を及ぼしますし、ビジネスだけでなく、プライベートの生活にも大きく関与します。このような技術の影響範囲と技術革新のスピードにはある程度相関があると私は考えており、この特性がIT分野の技術革新が速い理由の一つとして挙げられます。
 次に労働力に関してですが、これは特にソフトウェア分野に該当すると思います。IT分野における技術者の雇用を安定確保するためには、仕事を継続的に作り出す必要があります。このためにあるソフトウェアが発売されると(もしくはその前から)次のバージョンの開発が始まるわけです。ソフトウェアに関しては、更新しても機能がほとんど変わらないものも少なくありません。にも関わらず、頻繁に更新されるのは、雇用確保としての側面があると言わざるを得ません。効果の薄いソフトウェアの更新を皆が行うのはおかしな話ですが、これにもいくつかの理由が存在します。代表的な理由としては、周りでの新しいバージョンの利用が進むこと、ソフトウェアのサポート期間が終了すること、OSが更新されること等が挙げられます。また、新たなハードウェアへの対応も理由として挙げることができます。
 この労働力の話は批判の多い公共事業に共通する部分もありますが、現状では正味の技術革新も比較的大きいのであまり表に出てきていないような気もします。それでも、昨今、米国ではIT企業のレイオフが多くなってきているようで、雇用の流動性、柔軟性というのが今後、我が国の大きな課題であるような気がします。

2001/5/5 『携帯生活について』
 今回は書評みたいになってしまいますが、興味深い本を読んだのでそれについての感想を述べさせていただきます。読んだ本は博報堂生活総合研究所の『ケイタイ生活白書』とうタイトルで、携帯電話が今後のライフスタイルにどのような生活を与えていくか、というテーマで書かれていました。
 この本で関心を持ったのが携帯電話等の通信変化を「非用件・パーソナル化」というキーワードで整理していたことで、私も最近同じようなことを考えていたので非常に共感を持ちました。また、参考になったのが生活者ニーズを抽出するために行ったアンケート調査結果であり、母数が少ないため、精度の問題はあるものの、自分がニーズが高いと予想していたものが案外ニーズが低いのに驚きました。アンケート結果は年齢別や性別にも整理されており、調査結果をもとにユーザーを雄型と雌型に分類していたところには感心しました。加えて、未来の携帯に関するイメージが掲載されていたり、日本のIT化が遅れているという風潮や、すべてが携帯化するという考え方に対する反論も書かれており、この部分でも面白く感じました。
 一方、少し気になるところもありました。この文献で行っているアンケート調査では13〜19歳のいわゆるティーンエイジャーは対象外になっています。理由としては流動的で市場としても比較的小さいということを述べています。しかしながら、その後の通信の歴史に触れる記述ではそのような若年層でのポケットベルの利用が社会に大きく影響を与えたこと等が挙げられており、矛盾していると感じられました。また、デジタルディバイドという言葉も要所で用いられている訳ですが、デジタルディバイドが一概に悪いことなのかどうか、是正すべきなのかどうか、という議論なくして使われているようで軽薄な感じを受けました。
 少し気になる部分はあるものの興味深く、一日で読める程度のボリュームと読み易い本なので、このような分野に関心のある方は読まれてはいかがかと、お薦めします。

2001/4/23 『地域情報化と行政情報化の違い』
 従来、地域情報化、行政情報化という言葉が使われてきましたが、最近これをIT(戦略)等という言葉でひとくくりに表現するケースが増えてきているように思います。確かに従来から言われているように地域情報化と行政情報化は情報化の両輪であり、重複する部分も少なくありません。これを総合的に捉えるのも良いことだと思います。ただ、個人的な感覚としては地域情報化が主で行政情報化は従であり、地域の情報化が進んでいる地域では行政情報化も進むが、逆に行政の情報化が進んだからといって地域の情報化が必ずしも進むとは限らないと考えています。つまり、地域のIT化にとって行政情報化は必要条件ではあっても十分条件ではないのです。
 なぜ、このようなことを書くかと申しますと、某雑誌に「全国IT先進都市ランキング」なるものが出ていて、中身を見ますと、要は電子政府、行政情報化のランキングだったわけです。タイトルだけ見ると地域のIT化をランキングしているように思うわけですが、これでは行政情報化=地域情報化/地域IT化と誤解していまします。確かに昨今、電子政府や電子自治体のキーワードが頻繁に出回り喫緊の課題となっていますが、行政の取り組みだけで地域のIT化をランク付けするのは行き過ぎではないかと思います。
 IT革命と頻繁に言われますが、e-governmentだけではITのメリットを十分に享受できません。G2C、G2Bだけでなく、B2B、B2C、C2C等も含むe-societyの形成が方向性として考えられます。地域におけるこれらの進展度合の違いを無視して全国一律に電子自治体化を進めることには疑問があり、いかがなものかと思います。

2001/4/16 『情報化が地方に不利に働く理由(part2)』
 よく社会の大きな動きを示すキーワードとして「価値観の多様化」という言葉が使われますが、これは情報化と密接に関係しています。なぜなら、価値の多様性というのは、その前提として情報の多様性が必要であり、様々な情報を人々が取捨選択して、初めて価値の多様化が進むと考えられるからです。従来、価値観の多様性は人口の大きさに比例すると考えられており、実際、地方と都心の双方に居住した経験のある私もそうであったと思います。しかし、昨今におけるインターネット等の普及は都心と地方の取得可能な情報量の格差を是正しており、これにともない地方においても価値観の多様化が進むことが期待されます。(価値観の多様化が進むことの是非に関しては、今回は省略し、多様化が進むことが望ましいという前提で議論します。)
 ところが、いくら情報量が増加しても地方において価値観の多様化が進むのには限界があると予想されます。その理由は二つあります。一つは価値が人間個々に帰属するものであることです。個々人が複数の価値観を持つことができたとしてもそれには限界があります。したがって、価値観の多様性は人口の大きさに比例する部分が少なからず存在することになります。
 もう一つの理由は、価値というものが個々人にのみ帰属するものではなく、他人と共有(物理的な空間を含む)してこそ有用なものも多いことです。スポーツの例にとると分かり易いでしょう。インターネットを通じて、過疎地域のAさんがスポーツX(日本全体のスポーツ人口500人で、団体スポーツ)に興味を持ったと仮定します。AさんはスポーツXに関する情報をインターネットから取得したり、スポーツXをしている仲間とコミュニケーションしたりできますが、実際にプレイすることはできません。なぜなら、近隣にスポーツXをする人がいないからです。スポーツXをプレイするためにAさんは仲間のいる都心へ移動する必要が出てきます。このような移動のコスト、労力等を考慮するとAさんのこのスポーツに対する興味が存続するかどうかは疑問な部分もあります。逆に地域内でスポーツXをする人を増やすことも考えられるわけですが、他の地域住民も個々に価値観を持っていることからそれ程容易ではないでしょう。
 このようなことから、地方では「情報量増加→価値観の多様化→価値を共有者の不足→価値観の多様性の収縮」という流れができ、人口が集積し、多様な価値を比較的容易に共有できる都心より情報化のメリットが小さくなります。これも情報化が地方にとって不利に働くのではないかと考えられる理由の一つです。

2001/3/22 『情報化が地方に不利に働く理由』
 保守的な国民性のためか、はたまた魅力的な商品がないためか、我が国におけるオンラインショッピングは思ったほど普及していない感があります。それでも、電子商取引推進協議会等が行った『平成12年度電子商取引に関する市場規模・実態調査』によると、2000年の電子商取引の市場規模は昨年の調査の予測を上回っており、将来的には更なる普及が期待できる材料もあります。このような電子商取引の普及に関して、多くの人は地方から商品を販売する良い機会だと捉えるようで、多くの地域が地場産品を販売する仮想商店(街)を設けています。しかし、このような仮想商店街でうまくいっているという話はあまり伺いません。これは都心と地方の産業性向の違いを要因としており、この点で情報化が地方に不利にはたらく可能性があります。
 消費者の視点から考えてみましょう。何だったらインターネットで買っても良いと思うでしょうか。おそらく、インターネット経由で直接内容が確認できるもの、シェアウェアや音楽、映像等のデータ等は購入するでしょうし、また、インターネット経由でなくても雑誌等、他のメディアで情報があふれているCDや書籍等も買うでしょう。加えて、コンピュータ・ネットワークとしてインターネットが発展した経緯から、コンピュータ関係商品もよく売れているみたいです。しかし、食料品等に関しては、鮮度、味、状態等をネット経由で確認できないことからオンラインショッピングに向いていないと思われます。
 地方の仮想商店(街)で地場産品として販売されているものにはこの食料品が多く、これでは大きな販売拡大は期待できないような気がします。多くの場合、購入者は一度その産品を味わったことのある人に限定されますし、これまでファックス等による通信販売を行っていれば、その顧客達がインターネットへ移行するだけかも知れません。味が想定できる農産物や魚介類でも鮮度や状態を考慮すると、ある程度信頼関係が必要になります。
 一方、前述したような、オンラインショッピングに向いているであろう商品、サービスの多くは都心で生産されています。こう考えますと、今後、電子商取引が普及すると、地方における消費が更に都心の流出ことが危惧されます。確かに、都心の企業が展開する仮想商店(街)はこれまで地方の店舗では買うことができなかった、書籍やCDの購入を可能にしてくれます。これは消費者個々人としては望ましいです。しかし、この購買行動は地方で消費される金額を確実に減少させます。つまり、地域経済という単位で捉えると望ましくありませんし、これは消費者個々の収入等にも跳ね返ってきます。結果、地方と都心の経済格差が更に拡大することも十分あり得ます。

2001/3/18 『社会人義務教育の提案』
 前回、道徳教育等の話をしましたが、今回はそれを発展させた少し過激?な話をさせていただきます。突飛な部分もあるので、半分冗談みたいな気持ちで読んでいただければ幸いです。
 昨今、デジタル・ディバイドという言葉をよく耳にしますが、このような格差に関しては教育全般に言えるのではないかと考えています。一つの切り口だけで社会を捉えることは妥当ではないと思いますが、ここでは人々の教育のレベルを単純に「高い」と「低い」の2つに分けてみます。「高い」に属する人は一般的に高収入(自己投資に余裕があり)で、学習意欲も高い状況にあります。「低い」に属する人は収入がそれ程高くない(自己投資にあまり余裕がない)場合もありますし、学習意欲が高くない場合もあります。このように考えると、教育レベルに関する格差は拡大する方向に働くと考えられ、実際に社会の状況を見ても二分化が進んでいるのではないかと感じる時があります。この二分化は、以前の物を中心とした社会から情報や知識を中心とした社会へシフトしている趨勢を考慮するとあまり望ましいことではありません。また、前述した道徳面の問題もこの教育格差に密接に結びついていると考えられます。
 学校教育が十分な成果を挙げているのであれば、問題ないのですが、偏った知識や価値観のまま卒業し、そのまま社会人とし生活している人も少なくないでしょう。このようなことから今回は社会人向けの義務教育実施を提案してみます。内容は、現在、労働省で行っている就業支援のための教育ではなく、一般常識(道徳)や社会の仕組み、コミュニケーション能力育成等がテーマになると考えています。義務教育なので、それを受講するために会社を有給で休むことが可能であり、その費用は税金から負担されることになります。対象となるのは子供を持つ前の25〜35歳くらいの人でしょうか。大人になると頭が固くなるので教育してもダメという話があるかも知れませんが、子供の時には教えられても分かり難かったことが社会人を経験したから理解できる、という部分もあると思います。
 一つの課題は、既に高いレベルの教育を受け、今回提案した社会人義務教育の内容も十分知識や能力として身につけている大人に関しては、退屈な内容になるということです。ただ、この社会人義務教育を地域単位で行えば、地域内の新たな交流機会創出にもなると考えられ、この面でも社会的にメリットがあるのではないでしょうか。

2001/2/25 『ネットワーク社会こそ道徳教育を』
 普段インターネットの利便性を享受している私ですが、インターネットの個人能力の拡張性を考えると恐ろしくなることもあります。人間はこれまで他人に影響を与えるのに距離による物理的な制約がありましたが、インターネットはそれを取り払います。近所には趣味や嗜好が同じ人がいなかったけど、インターネットの中では身近に出会うことができるとか、それぞれの社会的な肩書等を気にせずに情報交換できるとか、良い面も多々あります。しかし、その反面、悪意のある人の影響を拡張する機能も備えているわけです。コンピュータウィルス、ネット詐欺、スパムメール等はその典型でしょう。したがって、インターネット等の情報通信ネットワークを多くの人が利用する、所謂「ネットワーク社会」になればなる程、その利用者個々人のモラルが問われるわけです。仮に国民のモラルが低く治安の悪い混沌のした独立社会があると想定し、そこにインターネットが普及した場合を考えますと、その社会は間違いなく更に悪くなるでしょう。つまり、実社会が良くなった場合、ネットワーク社会によりそれが更に拡張されますし、実社会が悪くなった場合はネットワーク社会により更に実社会が悪くなると考えられます。このようなことから私はネットワーク社会こそ、道徳や正義に関する教育を更に重視しなければいけないと感じるわけです。昨今、実施が進められているIT講習会でもパソコンやインターネットの利用方法だけでなく、ネットワーク上のモラルやネチケット等の教育も忘れずやっていただきたいと思います。

2001/2/19 『環境比較指標』
 私は会社に自分のコップを持ち込んでお茶を飲んでいます。他の人は紙コップを使ってお茶を飲んでいます。傍目に見ると私の方が環境に優しいように見えますが、本当にそうでしょうか?私はお茶を飲むために毎日コップを洗っており、水をいくらか消費しますし、また洗剤も使います。これと紙コップを一つ消費するのと、どちらが環境負荷が大きいか、はっきり言って分からないと思います。こういうことを考えると、環境負荷を客観的に評価した指標みたいなものがあると便利だなと思うわけです。自動車による移動と電車による移動との環境負荷比較とか、空き缶と空きペットボトルの環境負荷比較等が明確な数値で表すことができれば、これは非常に参考になります。
 もちろん、これらの比較は随時変化するものと思いますし、条件によって異なるものと思います。例えば、ガラガラの電車と大人数が乗っている自動車では、自動車の方が環境負荷が小さいかも知れません。そういう条件を考慮しても、ある程度指標みたいなものがあった方が便利であると私は思います。環境会計や環境アセスメント等、環境負荷を評価する試みは行われていますが、通常の生活にはあまり関連がなく、一般住民には分かり難い気がします。どこかに私が考えているような指標があるのかも知れませんが、とりあえず現状では見つけられませんでした。しかし、下記のHPには近い内容のものが掲載されており、非常に興味深く感じましたのでお知らせします。このHPに紹介されているような生活に密着した環境指標に関する情報がもっと増えれば良いのに、と思う今日この頃です。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~y_suzuki/

2001/2/4 『退屈の経済学』
 世の中には時間が足りなくて困っている人も多いと思いますが、私を含めすべての人が常に明確な目的を持って行動しているわけではないと思います。明確な目的のない時間を人間が過ごす時に問題になるのが「退屈」です。皆さんが常にそうではないでしょうが、ほとんどの場合、人間は退屈に我慢できません。そこで、イベントや流行という一過性のものが人生には多数存在するのです。最近の消費者の消費行動を見ていると、「マーケティング」という言葉より、この「退屈」というキーワードで説明した方が妥当なのではないかと思うことがあります。
 まず、「退屈」という観点から考えますと、人間は従来と同じよりは新しいものを選ぶことになります。例えば、同じ品揃え、同じ値段で商品を売っているスーパーマーケットがあったら、人間は新しいスーパーマーケットに行くのではないでしょうか。昨今における大手デパート、スーパー等の経営不振はこのような人間の嗜好にも原因があるのではないかと私は考えております。
 もう一つはこの前もお話しました買い物自体のイベント性です。欲しい物がなくても買い物をすること自体が退屈をなくしてくれます。したがって、安価に時間を消費できる100円ショップ等が普及したのではないかと考えられます。もちろん、安価で商品が良ければそれに越したことはありません。そういう意味ではユ○クロ等がこれに該当すると思われます。ただ、もしユ○クロが今後も同じコンセプトで経営を続けたなら、後から同じ価格、品質、ブランドを提供できる店が出現した場合、やはりそちらに消費者はシフトすると考えられます。
また、都心への集積もこの「退屈」で説明できる部分があります。多様な人がおり、それが多様な行動を行っていること自体が他の人々の「退屈」をなくしてくれます。そのため地方と比較すると都心は「退屈」が少ないということになります。逆に地方では都心に負けないように「退屈」を減らす必要があり、多様な活動を推進したり、人々がある程度集積するようコンパクトなまちづくりを行うことが望まれます。特に多様な活動推進という点では、インド舞踊学校とか、アフリカ音楽教室とか、これまでその地方になかった習い事教室を開く場合、地方公共団体が補助金を出す等があっても良いのではないかと私は考えています。

2001/1/10 『安価な耐久消費財』
 この前、床屋のおじさんに聞いて驚いたのですが、最近は自転車の一番安い物で7千円程度で買えるそうです。最近自転車に乗っていないので分かりませんが、私が知っているころの自転車と比較して明らかに値段が下がっています。また、自転車だけでなく、テレビ、ビデオ、パソコン等の電化製品の値段が下がっていることも明らかです。このような耐久消費財の値段の低下にともない起こる問題の一つとして、買い換えサイクルの短縮によるゴミ増加があります。
 私が子供の頃は自転車は比較的高価で、また小学生の頃は体の成長も速いことから、なかなか新しい自転車を買ってもらえませんでした。しかし、今の子供は自分の小遣いでも自転車が買えるので、中には体の成長にあわせて1〜2年置きに買っている者もいるのではないでしょうか。このような短い買い換えは使わなくなった自転車をゴミに変えていまいます。他人に譲る等、リサイクルされている物もあるかも知れませんが、安いのであれば、他人の利用したものよりも新品を選ぶ人も多くなります。
 こういう安価な耐久消費財がもたらすゴミの問題を考えますと、各パーツ毎に原材料に戻し再生するという、真の意味でのリサイクルシステムが確立されることが急務です。逆にこのようなリサイクルが可能でない耐久消費財には税をかけるぐらいでないと、消費者の過剰消費になることが懸念されます。個人的に商品が安くなるのは非常に嬉しいのですが、そのためにまだ使えるものを安易に買い換えてしまうのは非常に問題で、私もこの点に十分気を付けて消費活動を行いたいと思います。

2001/1/4 『15年前からの年賀状』
 例年、お正月は実家で過ごすため、私宛の年賀状を受け取るのは家に帰ってくる3日ぐらいなんですが、今年は珍しく実家に私宛の年賀状が届きました。よく見ると、日付が1985年○月×日になっており、「大昔に配達し忘れたものが出てきたのか?」と思いましたが、そうではありませんでした。年賀状には「タイム・カプセル」と記述がされており、あらかじめ21世紀の最初である今年の元旦に配達されるように設定されてあったようです。つまり、私が中学校の時分に現在の私宛に出されたものなのです。差出人は隣の家のおじさんでした。おじさんは10年以上前になくなりましたが、小学校、中学校にかけて私をよくかわいがってくれました。小柄で華奢でしたが、ハキハキと物事を言う快活な人で、私が熱帯魚を飼育しており、おじさんが観賞魚の販売をしていたことからも色々とお世話になる機会が多かったと記憶しています。そんな隣のおじさんが15年前の筑波博の時に私宛に年賀状を出してくれていたことは非常に嬉しいのですが、こういう年賀状を出しているということは、今日まで自分は生きられないだろうと悟っていたのではないか、と考えるとたまらなく哀しくなります。それでも、この年賀状1枚のおかげで、私の21世紀最初の日は格段に違ったものとなったのは確かであり、新年、新世紀に対する意気込みも明らかに倍増したと感じております。年賀状をくれたおじさんに感謝しつつ、今年、今世紀も仕事に、遊びに頑張りたいと思います。

2000/12/12 『カップラーメンのカップについて』
 我が国では(海外ではどうか知りませんが)週刊誌で頻繁にラーメン店の特集が組まれるほどラーメンが食文化として定着していますが、私も類に漏れずラーメンが好きであります。また、一人暮らしの時から結構カップラーメンが好きなのですが、最近食べる機会が減っています。理由は紙カップのカップラーメンが減少しているからです。以前は、私もそれ程気にせず発砲スチロールのカップラーメンを食べていたのですが、これは燃えるゴミでないということに気付き、それ以来買わないようにしております。ちょうどその時分、環境ホルモン等の噂から紙カップのカップラーメンが普及し始め、これも私が紙カップのカップラーメンだけを食べるようになった理由です。
 しかしながら、最近のカップラーメンにおいて紙カップの占める割合はどんどん減少しているような気がします。一時期、私は数年後にはすべて紙カップにかわる未来を描いていたのですが、それとは大違いです。理由としては、いくつか考えられます。1つは紙カップの方がコストが高くなるためメーカーはコストの安い容器を選択しているということです。もう1つは紙の容器には限界があり、すべてのカップラーメンを安全に食べるのに適しているわけではないということです。そして、もう1つは、カップラーメンを頻繁に消費するような人はあまりゴミ、環境問題に関心を持っていないということです。1番目が非常に有力だと考えられますが、3番目の理由も案外当たっているのかもしれません。私としては早くすべてのカップラーメンの容器を紙容器にかえていただきたい。そうすることで私一人かもしれませんが、消費は増えますし、逆に燃やせることによりゴミも減量化されることになると思うのですが、いかがでしょう。

2000/12/5 『ペーパレス化の難しさ』
 情報のデジタル化が進めば、紙の消費が減少し、ペーパレス化が進むと一般的に言われておりますが、本当にそうでしょうか?本日、たまりにたまった書類を整理していて、非常に疑問に思いました。今日一日で私は膨大な量の紙をシュレッダーにかけました。この量を原料の木に換算するとどのくらいになるかは見当が付きませんが、森林伐採に結構貢献?しているのではないかと考えてしまいます。ここ数年のインターネットの発展に伴い、電子メールで文書の受け渡しを行ったり、ホームページから必要な情報をダウンロードできるようになりましたが、かえって紙の書類は増える一方のような気がします。その原因は、モニターを介しての文書の読み辛さや、モニターの文書へは書き込みができないこと等です。私は書類や本を読む時、重要なカ所に付箋をを貼ったり、蛍光ペンでラインを引いたりします。これは情報を頭の中で効率的に処理するための私の癖で、ちょっと変えることは難しいです。それ故、必要な情報はどうしてもプリントアウトすることになってしまします。私みたいにプリントアウトする人間が多いのも紙が減らない原因ですが、ネットワークを介して流通する情報が大幅に増えたことにも原因があると考えられます。インターネットの普及やプリンタの普及にともない、家庭で情報をプリントアウトする機会は格段に増加していますし、家庭での紙の消費量も確実に増加していると予想されます。一方、オフィスでもインターネットから多様な情報を取得するため各個人がプリントアウトする書類の量は数年前と比較して数倍になっているのではないでしょうか。
 私みたいな人間が多い世の中でペーパレス化を実現するためには、紙と同じくらい持ち運びが簡単で視認性に優れたパッド(タブレッド)型ディスプレイ、もちろんコンピュータ内蔵、と膨大なデータを保存できるメモリー、そして付箋や書き込みができる機能が必要と考えています。特に難しいのは視認性だと思いますが、密度を現状の数倍細やかにできるようなディスプレイ技術のブレークスルーが不可欠でしょう。いずれは実現されることと思いますが、もうしばらくは紙の利用が続きそうですね。

2000/11/21 『標準語について』
 先日、友人の結婚式に参加するために大阪へ行ったのですが、ささいなことにすごく驚いてしまいました。何に驚いたのかと言いますと、電車の案内放送が標準語(もしくは標準語と呼ばれているもの)であることです。京都まで車で行き、京都から電車で大阪の結婚式会場へ向かったのですが、その電車の車内アナウンスは関東とほとんど同じでした。久しく、関西方面に来てなかったということもありますが、ある程度の関西なまりを期待していた私はすごくビックリしました。
 電車は公共の交通機関であることから、ある程度ユニバーサルなサービスが求められます。そういう点で方言よりは標準語でアナウンスすることが基準として設定されているのかも知れません。もし、他の地域の人が観光で訪れた時、車内アナウンスが理解できないのでは困りますし。他の地域の電車がどうであったか定かではありませんが、このような点に注目すると標準語という(もしくはそう呼ばれている)ものは非常に便利であると改めて感心しました。学校教育やマスメディアの効果により、方言を多用する地域の人々でも標準語は理解できます(しゃべれるかどうかは別です)。これは全国共通です。このような言葉が存在すると非常に便利です。そういう面から多様な人が利用する公共機関では標準語を利用することが望ましいと考えられるかも知れません。ちなみに、上述した内容を国際的な視点から考えると、標準語が英語にとってかかわることになります。

2000/11/21 『電車に乗る権利』
 先の話から少し電車の話に変わりますが、電車が公共の交通機関と言われていることを考えますと、それぞれの人は適正なお金を払う範囲で電車に乗る権利を有していると考えられます。しかしながら、最近、一部の人はこの権利を確実に奪われています。その人達と言うのは、ペースメーカー等の医療用機器を身につけている人達です。電車にのると、必ず「携帯電話の電源をお切り下さい。」とアナウンスがありますが、これを実行している人がどれくらいいるか非常に疑問です。ましてや何食わぬ顔で電車の中で携帯電話をかけている人を毎日のように見ます。このような電車にペースメーカー等を付けている人達が安心して乗ることができるでしょうか?はっきり言って、我々は自分の快適性のために他人の権利を侵害しています。
 ペースメーカー等の医療用機器を使われている方は、携帯電話を利用している人を対象に訴訟を起こしてもおかしくはありませんし、そうすべきであると思います。実際には、国民全体を訴えることはできないので、携帯電話会社が訴訟の相手になりますが、携帯電話会社がもし損害賠償を支払えば、このお金は自動的に利用者に転嫁されるので、訴える相手が変わっても負担者は同じです。
 かく言う、私もたまに電源を切るのを忘れていたり、混んでなければ電源を入れていたりする訳ですが、医療機器を付けている人の事等も含めて安心できるよう、携帯電話が絶対利用できない車両なんかを公共交通機関で作っていただけないか?なんて虫のいいことを考えています。もちろん、もっと注意して利用するようには心掛けようと思っていますが...

2000/11/10 『高速ネットワークの実現性』
 昨今、CATVやDSLによる高速なインターネット接続サービスが普及し始めています。2000年10月時点で郵政省が発表したデータによると、CATVインターネットの利用者数が46.3万人、DSLサービス利用者数2,537人となっています。各通信事業者もDSLをサービスを強化し、各CATV会社がインターネットサービス提供に乗り出しており、加えて政府も支援施策を打ち出そうとしていることから、今後、これらのサービスの普及は更に加速すると予想されます。また、FTTH(ファイバー・トゥ・ザ・ホーム)への取組も、NTT及び他の通信事業者で進められており、近い将来試験サービスが開始されることが予定(既に一部の狭い地域では実施されていますが)されています。
 ここで私が高速ネットワークの実現において懸案事項として考えるのはインターネットのネットワークを構成するサーバの能力です。インターネットはネットワークのネットワークなので、サーバを介してルーティング(ルーター等でも可能ですが)が行われます。しかし、現在、ビジネスで使っていると、ちょっと大きなファイル(数メガバイト程度)を送ったり、それがいくつか同時に起こったりするだけでサーバがダウンする場合があります。高速ネットワークになれば、ユーザー間で数メガあるいは数十メガバイトのデータをやり取りすることも珍しくなくなると思われるのに、このようなサーバが多いネットワークでは安定した利用ができないのではないか、と危惧してしまいます。現在の最高のサーバの能力がどれくらいか詳しくは知りませんが、高速ネットワークを実現する上で各サーバの高機能化は不可欠でしょう。高速ネットワーク時代には、大容量の動画データを取得するため一度に何千人、あるいは何十万人もの人がサーバへ同時にアクセスする可能性があることからも同じことが言えると思います。

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