風便り op.5


投稿 風便り #5

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op.70 海の記憶3 飯蛸 森川秀安さん(小諸市)H26/09/20

 父が東京に転職したので、昭和6年夏に大阪から母に連れられて兄弟3人も上京したが、その時私は4歳だった。東京に居が定まるまでの数カ月は、母の実家のある千葉県保田町(現安房郡鋸南町)の伯父の家の世話になっていたが、そこは南と北を岩礁に挟まれた500メートルほどの西向きの砂浜まで、県道を跨いで50メートルほどの距離の処にあった。
 母や従兄に連れられて、はだしで渚を歩いたり、砂浜の波打ち際に近いあたりに沢山ある巣穴を素手で掘り返してカニを捕まえたり、磯へ行って岩に付着している巻貝を獲って家に持ち帰って茹でて食べたりした。
 秋になると、東京湾で育った黒鯛の当歳仔が群をなして磯の若い海藻を食べに湾口に回遊して来るのだが、競って浅いところまで来るので、寄せる波に乗って勢い余って波に残された2匹が砂浜に横になって次の波を待っているのに出会ったこともあった。
 冬の初めには、潮の干満に合わせてまだ暗い早朝に伯母と母がそれぞれ小笊を持って磯に行き、波にゆらめくはば(岩海苔)採りをするのに付いて行ったこともあったが、温暖な地域であったので少しも寒さを感じなかった。とにかくこの時の数カ月は、浜に出れば毎日が感動で、驚きと楽しさの連続だった。

 小学校高学年になると、夏休みには子供たちだけで伯父の家に厄介になったが、中学生になると冬休みや春休みにも伯父の家に出かけた。その時代を今振り返ると、数々の思い出を残して帰京するや先生の講義も上の空で夏休みを回想し、年が改まれば早くも夏休みに思いを馳せるという風で、私の少年時代は夏休みのために有ったと言っても過言ではなかった。伯父の家には男2人、女1人のいとこが居ていずれも私より年長であった。長男は6歳上、二男は兄と同じ2歳上で、従兄たちは私のもぐり漁の師匠だった。
 夏休みの最大の目的は「もぐり」、あま漁だった。房州は女が稼いで、男は遊んでいるか子守り程度だなどという極論もあるが、男も本来漁師稼業である。私の浜にも数人の男の漁師はいたが、素潜り漁専業は男も女も居なかったようだ。漁業に就いていても活動範囲の磯に素潜りの対象となる獲物が少なく、もっと効率のよい漁法、対象となる魚などがいたのだろう。
 しかし、みずき(見突きの意か)という、単身用の小舟を漕いで周辺の岩礁地帯に乗り入れて、片手片足を使って操船し、口にくわえた箱メガネで海中の獲物(わかめ等の海藻の場合も)を探し、細竹の先に付けた数種類の銛(海藻の時は鎌)の中から獲物に適したものを操って船上に引き上げるという、水中には入らず一年中出来る漁法の漁師も居て、私の浜にも2、3人居たようだった。

 素潜りと海水浴は全く別物で、達成感はたとえ不漁の日でも海水浴とは比較にならないが、その疲労度は私の場合、3倍以上はあったと思う。そもそも海であろうと川であろうと水泳は、水中に居る時は体温よりかなり低い水温の中に居るためその時は疲れをあまり感じないが、もぐりから帰って普通の気温の中で時間が経過すると、身の置き場に窮するほど激しい疲労感に襲われる。
 従兄たちについて行ったもぐり漁の初回は1時間ほど海中に居るのだが、私のような初心者はせいぜい水深3メートルくらいまでしか潜らないのだが、天候、海流、干満の時間帯、岩礁の場所などにもよるが、水温は海面とは全く違って低いのだ。
 だから水から上がった時に日照がなく風が5メートルもあれば、本当に木枯らしが吹いていると錯覚するくらい体が芯から冷え切っているのだ。
海から上がって30分くらいは休むのだが、その間は磯に打ち上げられた乾燥した木片を集めてたき火をし、充分温まってから海に入るのだが、2回目、3回目は初回の長さほど海中に居ることは出来ない。
 効率よくもぐるには、なるべく潮が引いた時が良いのだが、大潮の時期ほど干満が大きくない小潮の時期がある上に、1日2回の干満のピークの時間も異なるし、それ以外にも、海の荒れ具合や、海水の澄み具合も潜りの重要な要件だから、出発の時間や獲物の選び方もそのつど変える必要があるのだ。
 
 本編では、潜り漁の講釈をするのが目的ではないのに、またながながと説明調になってしまったが、我々の素潜り漁の獲物の第一はあわび(鮑)で、次に生態があわびに似ているが貝の背の列状の孔があわびのように盛り上がっていないこと、長さが5、6センチどまりのとこぶし(常節)で、ともに海中で見つけるのも、道具を使って貝が吸着している岩や石からはがすのも簡単ではない。さざえは見つけ易いところにもいるし、素手で獲れるから逆に面白くない。
 もぐりには、あわび起こしの鉄製の道具は獲物入れ同様海中での携帯必需品だが、それ以外の物は念のため磯まで持参しても、もぐりのじゃまになるから普段は陸に置いて海に入るのだ。
 だから獲物を探している過程で伊勢海老やタコに遭遇してももったいないと思いながらも銛が無ければ見逃してしまうのだ。一度、かなり大きな蛸を従兄が手掴みしたが、捕まえられた従兄の腕に8本の足で巻き付き、周りの者も手伝って蛸の足をはがすのを手伝ったが、なにしろ8本あるから海中で泳ぎながら取り押さえるのに苦戦した。従兄の腕は豆絞りの手ぬぐいのような痕がついたばかりか、一か所蛸に食いつかれて出血したことがあった。

 素潜り漁の対象ではないが、今回は私の磯の獲物の一つ飯蛸(イイダコ)について思いつくままに記したい。飯蛸は瀬戸内海が有名だが、東京湾にも居て蛸釣りも盛んなようであるが、私が飯蛸に出会うのは、砂地ではなく、岩場である。勿論、岩場にも砂地の部分があるから、蛸が砂地から岩場へ、岩場から砂地に移動するのを目撃するは珍しいことではないし、見るたびにその変わり身(カモフラージュ)の鮮やかさに感心させられている。東京湾内で育った飯蛸は産卵のため千葉県南部の岩場に移動して来るようだが、麦刈り蛸という言葉があるように、最盛期は麦秋の頃と一致するようである。
 私は春休みの大潮(潮の干満差が大きい)の頃に磯に降りて蛸獲りに熱中したことがある(昭和22年前後)が、満潮時に水没し、干潮時に平坦な岩場が広がって潮だまりがあちこちに出来る蛸獲りに絶好の場所のすぐ上に伯父の家はあった。
 蛸に限らずアワビもそうだが、素人はそこに居ると指さされても、その存在が見わけられないのが普通だが、春先の大潮の頃だったと思うが、潮の引いた磯を渡り歩いて蛸探しをしていたら、初めに見たときは目に入らなかった蛸が二度目には視野の片隅に大きく入ってきた。なんなく捕獲したのだが、二度目に私の目に入った蛸は移動してきたのではなく、初めに私が蛸を見たときに蛸の方も私を認識して警戒色に変わっただけで、興奮状態になって蛸が鮮やかな赤色に変わったため私に見つかり獲られてしまったので、まさに「雉も鳴かずば撃たれまい」ということだった。

 蛸は岩場の汐溜まりの穴状のところを好むようだが、夏以外は獲る方も、せいぜい膝から下くらいしか水に入らないから、蛸が穴状の処に休憩中の方が捕捉しやすいのだ。私は柄の短い銛を使うが、土地の人たちは手ごろな長さの竹竿の先に鉤状の鉄器のついたもので、蛸のアタマ(胴)の縁を引っ掛けて捕獲する手法だった。この方法では胴の縁を引っ掛けさえすれば簡単に捕獲できるが、蛸が休んでいる時には胴の縁を引っ掛けられやすい状態にしているとは限らない。むしろそんな姿勢でないのが普通の状態だろう。そこで獲り手は、鉤の反対側の竿の先で蛸のアタマ(胴)をくすぐるのである。すると、なんと蛸は穴から出て、どうぞお取りくださいと言わんばかりに穴の前に全身を無防備にさらすのである。だから獲り手は蛸のアタマのどこでも引っ掛けやすい個所を選んで獲ればよいのである。そんなバカなと思う読者も多いと思うが、これは伝聞ではなく私が目撃した事実だ。
 ただ、稿を改めて記す予定だが、戦後数年の、船舶による不法投棄による海やけ等で,海藻もあわびも飯蛸もいなくなった不毛の磯となってしまったので、今はこの飯蛸漁法は絶えてしまったのではないかと思うが、この数十年、従兄の家を訪ねることはあっても、海岸に出たことはないから、今どんな回復状況かは不明だ。しかし東京湾の飯蛸釣りは盛んだろうし、成長した蛸の南下もあるだろうから、岩礁地帯の豊富な房州(千葉県最南部)の飯蛸はたくましく生きている地域があるかもしれないので「くすぐり漁」が伝承されているところがあるのかもしれない。
 飯蛸について記述予定のメモを見ると、16本足の飯蛸、捕食中の飯蛸からあわびを横取り、素手で獲った飯蛸の最大は430グラムなどがあるが長くなりすぎたので他日に譲ることとして、最後に「浪打ち際に枕を並べて酔っぱらった飯蛸」の話を記して筆を擱かせて頂く。

 夏の終わりの、大雨を伴った台風が去った翌朝,浜に行ってみるとまだ余波で海は荒れていたが、波打ち際にはおびただしい海藻が根こそぎ岩からはぎ取られて横たわっていた。数人の人がその間を歩きながら何かを拾っている。見ると何匹もの飯蛸だった。弱っているが死んではいない。まだ誰も歩いていない波打ち際を行くと、海藻の影に蛸が沢山横たわっているが動きは弱い。私も良さそうな蛸を拾って家に持ち帰った。
 蛸がこんなに渚に打ち上げられているのに遭遇したのは、この時だけだったし、活きのよい甲イカが何かに追われて波打ち際の砂浜に乗り上げたのを拾ったことはあるが、この浜で一匹でも弱った蛸が打ち上げられているのを見たことはない。私の推理では、蛸が大荒れの浪に揺さぶられることはあっても、磯に生活する生物がそんなことで簡単に避難している岩礁からはがされることはないと思う。
 この時の台風は大雨を降らせたから、蛸の居た浅い岩礁地域は豪雨のため一時的に急速に塩分濃度が低下したと考えられる。蛸は塩分が希薄化するのを嫌うと何かで読んだ記憶があるが、もしそうなら揺さぶりを耐えている時に、酔っ払い状態にされそれが長い時間になって、ついに耐えきれなかったのではないかと思う。そんなことがあっても、蛸はまた時が経てば勢いを盛り返したと思うが、あの台風は多分、昭和20年代、それから70年、人類はどれほどそのエゴによって自然界を傷つけたのか、どれほど反省して修復に努めているのか、現段階ではまだまだマイナスが大きすぎるのではないか。

op.69 海の記憶2 龍飛崎 森川秀安さん(小諸市)H26/06/27

 東京オリンピックは丁度50年前の1964年昭和39年)だが、その年を除く1962年から66年までの新緑のころに毎年1週間から10日をかけて小学校以来の親友K君と東北地方に限定して延べ1万数千キロを自動車旅行した。
 その頃の東北には高速道路はなく、大都市ではバイパス道路工事中の渋滞に遭遇することも珍しくはなかった。だから早朝深夜に走ることも多かったが、幹線でさえ乗用車にあうことは稀で、行き交うのは長距離トラックばかりだった。日中の主役は路線バスだが、2車線だろうと4車線だろうとセンターラインを跨いで道路の真ん中を走っていたが、荷車をはじめ他の車は当然のように路線バスを優先していた。しかしそのバスに遇うことも稀なくらい通行量が少ない道が多かった。

 観光地も新緑の奥入瀬でさえ、路線バスの最終便は午後3時台だったし、北山崎は同じ時期、1日1便だったと記憶しているが、あるいは午前と午後各1便だったかもしれない
久慈―宮古間)。
 東京―青森間の大動脈、国道4号線でさえ盛岡を過ぎて暫く行くと砂利道となり、雨上がりのぬかるみに上下線を跨いで電柱より細めの丸太が置いてあるのを乗り越えての悪路だった。自動車のクーラーはまだ一般的でなかったから、乾燥した悪路を走る時は砂埃りを避けるためには前車に相当の距離を置くか、前車を追い抜くしかなかった。しかしそんな時代だったからこそ観光バスが来る前の無人の湖沼群の静寂を満喫できたし、観光バスが帰ったあとの夕日に映える浄土ヶ浜の石の輝きを心に刻むこともできたのだから、悪路であっても二度と見られないあの頃の景色が今は懐かしい。

 第3回目の東北ドライブ旅行は、職場が多忙で5月に休暇を取ることが出来ず6月6日の出発となった。午後10時に東京を発ち、翌朝7時半には気仙沼に居たと日記にはある。
 釜石、宮古、浄土ヶ浜
真崎と絶景の海岸線を北上して午後6時前に岩泉に着く。翌日は龍泉洞を見てから小本へ戻らずに悪路を承知で山越えして島の越で海岸線に出て平井賀から更に北上して目的の北山崎へ行ったが浄土ヶ浜同様に絶好の日和だった。旅行記を読んで頂くのが目的でないのに、脱線(脱輪?)したので、本題の「竜飛崎」に戻します。
 当時の旅行案内書や道路地図は、今ほど種類もなく、変更に素早く対応出来なかったりして正確性に欠けるものがあったし、電話で地方自治体に確かめてさえ実態と異なるものがあった。
 たとえば桧原湖に行った時、車で一周可能かどうかをスタンドだったか街道の商店だったか既に記憶はないが、確かめたらそれまでに我々が得ていた情報と同じく「可能」だと言うので左回りで走らせたら、一周直前で「通行止め」の看板が出ていた。夏とはいえ既に薄暮の気配、車は故障したわけではないが、肝心のガソリンが元の道を戻って湖入り口まで到達するには不十分だったし、一周道路にはスタンドなどない。一周手前で満タンにするべきだったと悔やんだがどうしようもない。詳細は省略するが、土地の人のお世話になって危機は回避されたが、苦い経験となった。
 
 さて、3回目の
K君との旅は、北山崎のあと久慈、八戸を経て下北半島の広漠とした太平洋岸を北上して恐山へ行ってから薬研温泉に泊まった。翌日は仏が浦行きの観光船に乗るつもりで佐井村の乗船場まで行ったのに休航だったので、陸路を車で行けるところまで行って車を措き海沿いのそま道を徒歩で片道2時間かけて、陸から仏が浦の磯に降り立った。此の時も晴天で、白昼に仏が浦の奇岩の中を歩いているのは我々だけで観光客は居らず、あとは木々を渡る風音と岩を洗う波音だけだった。連日酷使した車は佐井村で故障したが村の鍛冶屋に応急処置をしてもらい、青森市まで戻って修理工場に車を預けることが出来た。

 翌日は国鉄とタクシーで竜飛崎を目指したが車でなかったことが反って幸いした。三厩まで鉄道、その先は竜飛までタクシーだったが、運転手は竜飛から日本海側の道を小泊方面に行くのは乗用車では無理だというので、車で来なくてよかったのだ。青函トンネルの計画はすでに周知のことだったが、竜飛への道路は資材搬入の拡幅の測量を始めたばかりだった。車が無くてよかったとはいえ、このまま青森に戻るのも能が無いので
K君は船で小泊へ出て予定通り弘前へ行こうという。何事も積極的な彼は岬の漁協の事務所へ入って行った。「お客さん海を見て下さいよ」と年配の漁協幹部は言った。窓外に広がる海は一面に白波が立っている。「この程度なら大したことないじゃないですか」とK 君は言う。「いや、これから風が強くなって大荒れになるんですよ」と漁協幹部も譲らない。押し問答の結果、小泊まで行けてもそれから竜飛に戻るのは困難だから、船頭の宿賃を負担してくれるかと出航の条件を出してきたので、K君はそれを承諾した。

 船頭が乗り場に横付けした漁船は5人から10人くらいが乗る大きさの木造の動力船(ポンポン蒸気)だった。彼は我々くらいの歳格好だった(38歳)が無口な人だった。
 竜飛漁港を出て岬を左に回れば日本海、ほぼ南北に伸びる津軽半島の海岸線に沿って南下すれば小泊漁港は1時間ほどだと私は思った。ところが船を走らせて間もなく、岬の真下あたりで軽快な音を出していたエンジンが急に止まってしまった。船頭は慌てる様子もなく機関の修復をしているらしいが、舳先の方に居る
K君と私には彼がしていることは何も見えない。船頭は何も言わずに修復に懸命だし、声をかければ仕事の邪魔だろうから二人とも沈黙していた。気がつくと船はゆっくりと岬下の岩礁に近付いている。浪に削られた大小の岩は背後の断崖を城壁に譬えると、城を護る武将群の如く威厳をもって迫ってくる。しかし実際はこちらの船が潮の流れか風に押されて岩礁に接近しているのだ。
 
K君と私は顔を見合わせた。「もう少ししたら、飛びこまなきゃ危ないな」「そうだな」と彼も応じた。そのような状況になれば船頭から何らかの指示があるだろうから、それまではポンポン蒸気の修復を待つしかない。船頭も時折、周囲に目をやっているから状況は把握している筈だ。海に飛び込まざるを得ないと考えたのは、船が浪の力で岩礁に激突するかもしれないと思ったからで、その衝撃で体にダメージを受ける可能性を回避するにはその前に船を離れなければならないと思ったからである。浪はそれほど大きくないし、船が強い海流に流されているわけではないが、岩礁の間に船が流されると岩と岩の間が狭いところでは、海面下の隠れた岩の状態にもよるが、海面がそこだけ盛り上がったり、流れが逆行したりすることがある。二人が顔を見合わせて苦笑いした時、ポンポンポンという軽快な音が復活した。船頭は柔和な表情で我々を一瞥しただけで、言葉は発せず舳先を沖に向けた。

 岬を離れた船は、日本海側を津軽半島に沿ってその沖合を南下し始めた。日本海側はいつもこのくらいの荒波なのか、漁協の人が言っていたように荒れ始めたのか
白波立つというよりは大浪が目立つようになってきた。私は船に乗るのは好きだが、湖のように波が無かったり、船が大型で波を感じなかったり、ホバークラフト船のように波に乗らずに蹴散らすタイプも好きではない。観光で沿海や湖水で船に乗ったことは多々あるが、自分の気に入った舟行にはなかなか巡り合えない。経験不足もあるが、今までに船酔いしたことはないから、船が波に揺られるのはむしろ望ましいのだ。
 気がつくと船頭は舵を頻繁に切り続けている。船は小泊に向って南下しているのだが、沿岸に沿って南下するということは、沖から沿岸に向って押し寄せる浪を真横に受けるから転覆する危険性が高い。船頭はそんなことは百も承知、船の状況、海の荒れ具合などを総合して操船しているに決まっているから、素人がとやかく考える必要はない。
K君は1時間ほど前から、船室に立っている私の足元に横たわっているが、私は船に迫る次の大浪の盛り上がりを見ながら船頭の対応を推測していた。船は南下しなければ小泊に着かないが、転覆しないためには舳先で大浪を切りながら進まなければならない。つまり進行方向を90度近く右に切って大浪を乗り切り、左に90度戻して南下することを繰り返さなければならないのだ。大浪には大小や次の大浪との間隔も様々だから、総合判断して大波によっては無視して舵を切らずに、多少の横揺れは覚悟の上で南進を続けることもある。
 私は操船しているわけではないから高見の見物なのだが、大浪に舳先を向けるか、無視するかの予測は次第に船頭の操船結果と一致してきた。大浪に舵を切っても時には切った波のしぶきが立っている私目がけて飛んでくる。大浪を乗り切った直後に振り返ると、今まで見えていた陸地は全く見えず、浪がしらの幕の上は空のほかは何も見えず、次の大浪の背に乗って船の位置が高くなると、やや低い位置に津軽の海岸線が見えるのだ。
 こんな経験は初めてだったが、不安とか不快とかいう感情は全くなかった。船は小泊の港近くまでジグザグ航行を続けたから航行距離は倍、時間はそれ以上かかったが、今もって忘れ難い船旅だった。


 K君は自力で下船出来たが、30分ほど港の店で休んでから、タクシーを呼んで弘前に向った。途中で十三湖の夕景を楽しんだが、眠っている彼を私は敢えて起こさなかった。毎度のことだが独りで運転を続けて5日目、この日は運転しなかったが疲労が蓄積している彼は弘前に着くまで眠り続けた。
 49年も経つのに昨日の如く鮮やかに記憶がよみがえる、スリルもある快適な船旅が出来たのは、今は故人となった
K君の積極性がなかったら実現しなかったことを思うと、あらためて彼に敬意と感謝を捧げたい気持ちでいっぱいだ。

op.68 海の記憶1 安乗の稚児 森川秀安さん(小諸市)H26/04/10

「椰子の実」を投稿してから早や一カ月が過ぎてしまったが、海に関わる投稿を予告させてもらったその時は、月に一編くらいなら時間的余裕も十分と思っていた。しかし、相変わらず時間ぎりぎり、または時間切れにならないと机に向かわない性癖は改まらず、自分の心づもりでいた一カ月を何日も過ぎて、ほかの懸案を後回しにしてパソコンの前に腰かけたところである。もちろん、後回しにした懸案の中には後回しにできないものも含まれているのだが。

第一回は、「椰子の実」で触れた伊良子清白の詩「安乗の稚児」について記したい。特に難解な用語はないが、文語体であること、明治時代の作品であるので、現代の若い人にはなじみのない印象があるかもしれない。原文にルビが付いている文字もあるが、私が適当にルビを付したり、仮名遣いを今流に改めたものを僭越ながら掲載させて頂く。

     志摩の果て安乗(あのり)の小村(こむら)
     早手風(はやてかぜ)岩をどよもし
     柳道木々を根こじて
     虚空(みそら)飛ぶ断(ちぎ)れの細葉

     水底(みなぞこ)の泥を逆(さか)げ
     かきにごす海の病(いたつき)
     そそり立つ波の大鋸(おおのこ)
     過(よ)げとこそ船をま(待)つらめ

     とある家(や)に飯(いい)蒸(むせ)かえり
     男(を)もあらず女(め)も出(い)で行きて
     稚児ひとり小籠に坐り
     ほほえみて海に対(むか)えり

     荒壁の小家(こいえ)一村(ひとむら)
     反響(こだま)する心と心
     稚児ひとり恐怖(おそれ)をしらず
     ほほえみて海に対(むか)えり

     いみじくも貴き景色
     今もなお胸にぞ跳(おど)る
     少(わか)くして人と行きたる
     志摩の果て安乗の小村

僻地医業に専念するため十八編の詩を選び「孔雀船」を刊行して詩壇から遠ざかった伊良子清白の格調高い五七調の作品であるが、刊行時からかなり後に中央詩壇から再評価された作品だということである。

第一節、第二節で、沿岸で局地的に起きる疾風(はやて)が襲来して海が大荒れになった様を述べており、第三節では稚児独りを残して若い夫婦が飯炊きの途中であるにも拘わらず家を空けた緊急事態を述べているが、具体的理由には言及していない。私の想像では、多分そのころの漁村は磯回りの一人か二人乗りの小舟よりも、数人ないし十人以上が乗り込む共同作業の漁法の方が主流であり、船の推力は海流、潮の干満も重要な条件である帆(風)、櫂(人力)による。また現今のように船溜りも整備されていなかったから、漁船も水上に繋留するのではなく、砂浜に押し上げて置くのは珍しくなかった。

傾斜した砂浜に押し上げるのはかなりの労力を必要とするから、舳先に結んだ綱を手押しの巻き取り機で巻き上げたり、船底と砂浜の間に細い丸太を敷いて船の動きを良くしたり、漁師だけでなく女たちも手伝ってのひと仕事だった。だから経験にもとづいた安全な位置に効率よく船を措くわけだが、この詩のような予想外の急速な荒天に遭遇すると、大波で船が海に戻されてしまい、岩礁に船体を叩きつけられたり、浅瀬で横転したりして漁師一家の生活が脅かされることになる。だから何を措いても漁船に駆け付け、船を移動させて安全を確保しなければならない。まして若手の漁師となれば、この一大事に遅れをとってはならないから、若妻を引き連れて浜に向かったのである。

小籠の中とはいえ置き去りにされた稚児はいつもより猛々しい風音、潮騒いにも拘わらず、悠然と海に対してほほえんでいる。第三節、第四節の結びの句で、詩人は「ほほえみて海に対えり」と重ねて謳っている。そして第五節で、遠い昔の光景を「今もなお胸にぞ跳る」「いみじくも貴き景色」と謳い上げている。

私は、ほほ笑む稚児の心情を思うと文部省唱歌の「われは海の子」の第二節、第三節が浮かんでくる。

     生まれてしほ(潮)に浴(ゆあみ)して
     波を子守の歌と聞き
     千里寄せ来る海の気を
     吸いてわらべ(童)となりにけり

     高く鼻つく磯の香に
     不断(ふだん)の花のかおりあり
     なぎさの松に吹く風を
     いみじき楽と我は聞く
               (原文と異なる字遣いあり)

幼いころ、潮騒、潮鳴りを枕辺で聞いていた私の体験から、よい情景ではあるが詩人が感動するほど、安乗の稚児が疾風(はやて)の最中に悠然と海に対していたことについて感銘はない。母なる海への日ごろの思いからすれば、稚児は小籠の中で居心地の良いひと時を過ごしていたに過ぎないと思う。

op.67 椰子の実 森川秀安さん(小諸市)H26/02/25

 
 私は出生地の大阪市郊外で四年ほど過ごしたあと、一家が上京してから七十七年という長い年月を東京で暮らしていた。私は小諸に居を移して六年目になるが当地に地縁血縁があったわけではなく、転居する一年ほど前に家族の増えた息子一家が群馬県嬬恋村から小諸に新築転居してきたこと、妻が東京で飼っていた老犬に、せめて死ぬ前には良い空気を吸わせてやりたいと言い続けていたこと、息子に宅地を売ってくれた人が息子の敷地に隣接する土地を譲ってもよいと言ってくれたこと、私も東京を離れてもよいと思っていたことが重なって実現したものだった。息子の家は小諸駅からはタクシーで約十分かかる田畑の中に住宅が点在する場所で、坂の多い小諸では自転車の利用は難しく、「ここは車がなければ暮らせない処だ」と家を建てる前から息子には言われていた。

   車の運転ができない老夫婦は、息子の嫁が日常の買い物に行く時に便乗すればよいのだし、都合がつけばそれ以外にも、遠出仕事で外泊の多い息子に代わって嫁が運転するのだが、幼い子が二人いるので何時でもというわけにはいかないからタクシーを利用することも多い。しかし坂が多いことは良い面もあって、我が家から南に下がりながらの斜面の畑が、我が家より低く東西を走る高速道路の高架下まで続いていて、その向こうには千曲川対岸の御牧が原一帯が見えるし、目を挙げれば南に八ヶ岳、視界が良ければ真西に槍ヶ岳とそれに連なる北アルプス連峰が一望できる。我が家と息子の家から高速道路までの畑とわずかな灌木林は数千坪の広さがあって他には何もないから、見晴らしも良いし日当たりも良い。それにわずかな我が家の庭の雑草取りに手こずっている私にとっては労力も税金も必要ない広大な快適空間なのだ。 後はこの状態が続くことを願うばかりで、大木のクルミの木が二本あって、遠望に目障りだったり庭の畑に日陰ができたり枯葉が飛んできたりすることくらいは余慶に比べれば我慢の範囲内のことだと思っている更に北側の玄関方向からは正面に高峰山が富士山型に形よく見え、それより東方向に黒斑山、浅間山と続く。浅間山は葉を落とした枯れ枝の間から白雪の雄姿が見えるが、季節が移り新緑の頃には豊かな緑葉にさえぎられて、玄関から二十歩ほど歩かなければ浅間山は見えないが贅沢は言えない。駅、商店、郵便ポストから遠いのが難点だが、とにかく私が満足している立地条件の処だ。
 
 転居して来る前の小諸についての知識と言えばやはり島崎藤村の詩であるが、私の記憶では、小学校三年生の時の学芸会で歌った「椰子の実」が藤村との出会いの始まりである。学芸会は毎年三月のある日、講堂(雨天体操場)の舞台で劇や独唱、斉唱、遊戯などが行われたが、観客は全校生徒と父兄で、出演する生徒は先生たちがあらかじめ選んだ者だけだったが、当時は私の小学校に限らずそれが当たり前のようだった。小学校で合唱を習った記憶はなく常に斉唱だったが、出演の生徒に印刷物は配られず音楽室の黒板に先生が書いた「椰子の実」の詩の全文を見ながら、先生の歌唱やピアノに合わせて生徒がなぞって覚えるという遣り方だった。詩の終りに近い「思いやる八重の汐々」の汐という字は小学校では習わなかった字だから、黒板に書かれた詩のこの部分は印象が強かった。ところで私の三年生の学芸会は昭和十一年三月で、「椰子の実」を練習する前にこのメロデーを聞いた記憶は全くなかった。大中寅二作曲の「椰子の実」が国民歌謡としてNHKラジオで放送されたのは昭和十一年八月だが、私自身は今でも「椰子の実」を歌ったのは三年生の時と思い込んでいるのだが四年生の時、つまり昭和十二年三月だったのかも知れない。

   藤村の「千曲川旅情の歌」の一「小諸なる古城のほとり」は中学の国語の教科書にも載っていたと記憶するが、中学四年生頃に買った本で題名は忘れてしまったが竹中郁という人が編集した明治大正期の日本の代表的詩人の代表的な詩を載せた中学生向きの本に、藤村の「小諸なる古城のほとり」も載っていた。詩の第二節四行目の「麦の色わずかに青し」が「麦の色はつかに青し」となっていた。「はつかに」に注記があったような気がするがそれ以上の記憶はない。本も東京大空襲で焼失してしまった。先日ネットで竹中郁氏の項目に著書一覧が載っていたが、その中には該当する書籍は見当たらなかった。この本に、題名は忘れたが大木篤夫の短いが印象に残った詩「浜は静かに潮満ちて 藻草は昼を薫りけり これかや父の母の海 涙流れて止めあえず」(字の遣い方が違うかもしれない)があったが、私は敦夫と篤夫は別人かと思っていた。最近ネットを見たら大木敦夫は1932年まで「篤夫」と名乗っていたと記されていた。

   当時の私がこの本にある詩の中で最も印象に残ったのは「安乗の稚児」だったが、肝心の作者名が全く記憶に残っておらず、詩も全文暗誦していたわけではなかったので長年気にしながらももどかしい思いをしていた。今なら安乗の稚児で検索すれば詩文はおろか作者名や経歴まで詳しく判るのだがネットがなかった時代もあり、私がネットの遣い方に不慣れだったこともあって長年の懸案だった。ところが、年に一度の小旅行を楽しむ四、五人のグループで数年前に伊勢志摩に行ったとき、志摩のホテルからタクシーで海岸を回って帰ろうということになり、お定まりの大王埼へ行くところを私は同行の全員に頼み込んで安乗埼に変更してもらった。安乗埼に行けばきっと詩碑があるだろうと思ったからだが、予想どおり灯台の手前の緑地に「安乗の稚児」の二節目の詩文の碑があり、長年知りたかった「伊良子清白」の名が刻まれていた。しかしその名は思い出したのではなく初めて知ったという感じで、われながら意外だった。「安乗の稚児」に感動しながらも作者名は記憶に留めなかったということなのだろうか。家に帰ってからネットで清白の生涯を調べてみたら、それまでの作品を厳選した詩集を刊行したあと作家活動を一切停止して詩壇から遠ざかり僻地の医業に専念したこと、自転車で往診に出かけた際に転倒して、七十歳で生涯を閉じたことなどが記されていた。

   記憶に残る三人の詩人の詩を挙げたが、たまたま海に関わるものばかりだ。近頃『風便り』にすっかりご無沙汰してしまったが、老人病で帰山の機会も減っているので、せめて寄稿だけは復活させて頂こうと一念発起したところで、次回以降しばらく海についての随想を投稿したいと願っている。お読み頂いて『風便り』にご感想をお寄せくだされば幸いである。

  

op.66 気仙沼みちびき地蔵堂にて Webmaster-Mugen H25/04/02



俳優の滝田栄さんらが作られた気仙沼みちびき地蔵堂で落慶法要をさせていただきました。
インディアンフルートとの初コラボは、魂に染み入る感じでした。


op.65 代々木公園 Show見さん(横浜市)H24/05/21



今日も代々木公園にまいりましたが、きのうとうって変わってぽかぽか陽気です。
人出も多く、初夏を満喫しているようでした。
代々木公園は大木が多く、一瞬自分が都会に居ることを忘れさせます。
あの大樹の下で坐禅したら気持ちいいでしょうね。

op.64 ZEST カフェ Show見さん(横浜市)H23/11/29


 

先般仕事で行った恵比寿で多分master 好みだなと思う店を発見いたしました(笑)
店の名はZEST(ゼスト)カフェですが、1950年代のアメリカンテイストの店です。
ここで結婚式を開いた時に、田舎からの招待客があまりの外見のキタナさに目をシロクロさせたそうです。
写真は店頭にあるガソリンスタンドの給油機ですが、ご存じですか?

知りませんがまあ何とも味わい深いたたずまいで(^^;)


op.63 東京タワー Show見さん(横浜市)H23/11/17


みなさま、こんにちは。ご機嫌いかがでしょうか?
先日の仕事帰り時なのですが、東京タワーがあまりにも幻想的でしたのでメールいたしました。
この日の東京は一日雨で結構肌寒い日でしたヽ( ̄д ̄;)ノ

op.62 古都参拝 Webmaster-Mugen H23/09/21



 郷里の高知に帰省の途中、亡父の青年期の足跡を求める思いで奈良から京都を訪ねてみた。
 まずは大阪中央区千日前で店をやっている従兄弟を訪ね夕食をご馳走になり、そこは亡父とは関係ないが日本一大きな古墳で有名な堺市の仁徳天皇陵に行ってみたいと話していたら、店のカウンターの自分の隣に座っていた方が教育委員会の人でその辺りの事情に詳しく、仁徳天皇陵だったらむしろ聖徳太子ゆかりの四天王寺(大阪)と法隆寺(奈良斑鳩)を勧めると熱心に話してくれたので翌日はそうすることにした。

 翌日は移動の時間を考え四天王寺は車から参拝し、まずは法隆寺を目指した。
 
 四天王寺や法隆寺は聖徳太子の時代だから仏教が日本に入ってまもなくの寺院。ちょうど先だって長野市の某美術館で京都清水寺の至宝展を見て、平安鎌倉期の様々な仏像に深い感銘を受けていたのでそれらと同じ時代の寺院や仏像に会えることがとても楽しみだった。

 法隆寺ではあの国宝釈迦三尊像を始め、何と言っても日本最古の木造建築でもある五重塔は感激である。大講堂辺りから五重塔と金堂を何枚も撮った。

 宝物館の夢違観音は昔から好きだったので、門前の土産物店で夢違観音の素晴らしいのを見つけ迷わず買い求めた。

 活禅寺の乳粥の会でもご活躍の滝田正叡居士から薬師寺の話を伺ったことがあり、いつか行ってみたいと思っていたが、ナビで見ると割と近くだったし、あの鑑真和上ゆかりの唐招提寺も近くだったが、この二箇寺はやはり移動の時間を考え、惜しみながらも車から参拝。

 私の亡父は奈良県天理高校(当時の天理中学)の卒業で、ラグビー部主将を務めた折の全国制覇の記念写真は、天理教教祖物語でも紹介されたりしている。

 薬師寺、唐招提寺を経てその天理高校を目指した。

 天理を訪ねるのはもう数回目で、街並みから感じる清浄観はいつも同じである。高校の正門前に車を止め、しばらくその空気に浸った。

 どこかで宿をとり一日ゆっくり天理を散策してみたい思いに引かれながら、京都か滋賀で高速に乗れるだろうと思い夕刻の渋滞を北上しているとやがて夕闇が迫ってきたので、今夜はこの辺りで泊まろうと思っていたら宇治の標識が目に留まった。

 やはり亡父の天理高時代に宇治の平等院鳳凰堂前で撮った集合写真があって、いつか自分もそこに立ってみたいとずっと思っていた。今夜この場所で泊まろうと思ったのもそんな縁があったのかもしれないなどと思いながらナビで平等院を探したらもう目と鼻の先だったのでとても嬉しく、宿を探し翌日平等院を心ゆくまで散策した。

 高知にいる姉からメールが入り、京都にいるのだったら三十三間堂にも行ってみたらどうか。かつて祖父無形大師が参拝の折に、「千体観音の一体に入魂をした、わしの門弟ならそれがどの一体かわかるべきだ」と公案のような話を残してあったとのことである。

 三十三間堂は正式には「蓮華王院三十三間堂」というそうだが、私はテレビで見た通し矢でしかそこを知らなかった。

 観光地だからそれは仕方のないことで、車で移動の時は拝観中はどこでも駐車料金が必要になるが、三十三間堂は大勢の参拝者で賑わっているにもかかわらず駐車料金が無料だったのが印象的だった。

 夏の強烈に暑い日だったので水を飲みたいと思い、境内で係の女性に自動販売機の有無を聞いたらとても丁寧に教えてくれ、まさに信仰から芽生えた身口意の行いの大切さを教えられた気がした。

 さていよいよその千体観音であるがまさに圧巻で、中央に座する立派な観音像を中心に、左右に長い堂内に同じ姿の等身観音立像が千体。

 無形大師がそのうちの一体に入魂をしたというのだから、無形大師をそこに感じながら後を付くように歩いてみた。

 千体の観音であるがその御相は全てが微妙に違う。それはそれぞれにそれぞれの仏師の特徴が出ているであろうことと、製作から一千年近くの歳月を経てきたことの微妙な色合いの変化もその御相の内に感じられるなどと思った。入魂をするのであるからやはり真っ向から対し合える距離だろうとも思い、そんな風に思いながら歩いていたらその一体の観音像がそこに居られた。

 探すという感覚ではなく、そこに居られるべくして居られた感覚で、瞬間的に間違いないと確信でき、わかってよかったという感慨よりは、その御一体からは無限に尊く無限にありがたい、無限のやさしさと慈悲を頂戴できる思いが強く、その御一体の前から離れたくなくなった。

 まさに生きて呼吸をしておられる感じがとても強く、阿弥陀来迎図に見るように、その御一体が他の全ての観音を引き連れそこに居られると強く感じた。

 後で思ったことだが、無形大師は始めから入魂をしようと考えそこに居たわけではなく、その御一体と巡り 会った瞬間に御法息が和合し、自然と何の障りもなく御入魂に至ったのではないかと。

 それでももう一度改めて見てみようと思い、大勢の参拝者の肩を縫うように早足で堂内を一周しそこにまた  戻ってみたがやはりこの観音様だと確信できた。

 亡父の母校を見て修学旅行先の平等院鳳凰堂にも立ち、それぞれの歴史ある伽藍と仏像にも触れ、そして最後に無形大師ゆかりの観音像にも出会え、とても幸せな気持ちで帰路につき、途中で「観音様わかったよ」と姉にメールをしたら、自分よりももっと興奮した姉からの返事がすぐに戻ってきた。

 

 

op.61 鯉のぼり Show見さん(横浜市)H23/04/21

こんにちは、今日は仕事で東京タワーに来ています。
タワーの足元には無数の鯉のぼりがはためいています。
ちょうど一年前にご案内いただいた

高知の四万十川に泳ぐ鯉のぼりを思い出しました。


op.60 空振 森川秀安さん(小諸市)H23/02/08


 新燃岳の噴火は宮崎、鹿児島に多大な天災をもたらし連日トップニュースで報道されているので、噴火による爆発で生ずる空振(くうしん)も今や耳慣れた言葉となってしまった。その連想でまた昔のことを思い出した。
  私は少年時代の夏休みの大半を、神奈川県横須賀軍港対岸の東京湾口にある千葉県南部、鋸山の麓にある伯父の家で過ごした。

そこは当時の私の精神的指導者で6歳年長の浅山勝覚さん(和尚)、あわび、とこぶし、さざえ獲り、伊勢海老突きなど素潜り漁のだいご味を手ほどきしてくれた弟の菊二さん兄弟と我々兄弟との楽しい休日の舞台であった。

 横須賀軍港対岸一帯の千葉県南部は要塞地帯に指定されていて、以前から海岸での写真撮影は禁止されていたが、太平洋戦が始まると地元の漁師でさえ鑑札を所持していなければ海岸に立ち入ることを禁止されてしまった。海岸に軍事施設があるわけでもないのに、要は横須賀に出入りする軍艦の情報漏れを防ぐのが目的だったようだ。房総西線(当時はSL)の客車は海際の鎧戸を強制的に閉めさせたが、のちに山側も閉めさせたので日中の車内は点灯しないから真っ暗で走っていた。駅の乗降は規制がないから何のための鎧戸下ろしなのか理解できなかったが、軍による馬鹿げた規制の一つだった。

 話題が逸れてしまったが、昭和14、15年頃の夏休みだったか春休みだったか記憶が定かではないが、寒くない季節の穏やかな晴天の日中、地震ではないのにガラス戸や障子が記憶では10秒くらい微振動して、やや間合いがあって同じような微振動が2、30分繰り返された。
会話を中断して聴いていた勝覚さんが「また連合艦隊が大島沖で砲撃訓練をしている」と言った。それは戦艦か巡洋艦など大型艦の主砲(口径30センチ乃至40センチ)の実弾射撃のようだった。100KMほど離れた遠い洋上なので音は全く聞こえないが振動だけが伝わって来るのだった。火山噴火の空振ではないが、私は70年も前に洋上はるかからの空振を体験していた。

 やがて太平洋戦が始まると、主力艦隊ははるか南方洋上に出撃して行ったが、大本営発表と裏腹に1年も経たないうちに物量を誇るアメリカ軍に圧倒され、日本海軍は前途有為な兵員もろとも壊滅的打撃を受け制海権も失って行った。
昭和19年7月にサイパン島を占領した米軍は、ここを基地にB29爆撃機による日本本土空爆を開始、昭和20年3月10日には初の夜間大空襲の焼夷弾攻撃で東京は焦土と化し我が家も父と弟妹4人を失った。
疎開禁止地区に指定されていた従兄の町は、東京の壊滅的打撃のため急遽指定解除となり、母とこの年に生まれた妹の3人で母の実家である伯父の家に避難した。

 そして3月の硫黄島守備隊の玉砕に続き4月には米軍の沖縄上陸があり、日本本土でさえ制空権も制海権もない状態となっていた。6、7月頃だと思うがある夜、地震かと思う大きな揺れとともに爆発音が轟いた。多分5分間も続かなかったと思うが就寝していた皆が飛び起きるほど強烈なものだった。
航空機の爆音は全くなく、艦砲射撃以外は考えられなかった。米軍の大型艦艇の主砲のものらしかったが局地的なもので軍の発表もなかったが、多分千葉県南部の太平洋側に夜陰に乗じて接近して射撃後急速に退避したものと従兄弟たちと私は推測した。

 もう千葉県に限らずこの時期は太平洋岸の日本列島のあちこちで、このような艦砲射撃に見舞われた処があったと思うが、私の経験では爆撃機の空爆は見当がつくからさほど怖くないが、艦砲は着弾位置の予想が出来ないし、威力も相当あるようだ。

 伯父の家で艦砲射撃に遇った夜の攻撃で被害情報はなかったから、音と振動は激しかったが着弾したのは太平洋沿岸地域だったのだと思うが、日本中に戦禍が拡がっている時代だから、何日も話題になるようなことはなかった。

 さて、新燃岳の噴火活動はいつ収まるのか、空振の被害はまだ続くのか気になるところだが、気象庁が時々発する空振(からぶり)だけは極力ないようにねがいたいものだ。


 

op.59 白鵬敗れる 森川秀安さん(小諸市)H22/11/17


 昨日、大相撲九州場所二日目、破竹の勢いだった横綱白鵬が敗れ、双葉山の記録を更新するどころか63連勝で記録に終止符を打った。勝った力士は称賛に値するが、日頃「心技体の、心に最も自信がある」と言っていた横綱が珍しく冷静さを欠いたことが敗因、つまり自らに負けたのだと私は思った。だが年間6場所90日が本場所だから、白鵬にはまだまだ双葉山の記録を塗り替えるチャンスはある。

 双葉山が70連勝目を阻まれた時に私は小学6年生だったが、男児はみんな相撲好きで、ラジオしかない時代(NHKのみ)相撲の実況中継はたいてい聴いていた。 横綱双葉山の相手は前頭の安芸ノ海だったが、実況で「安芸ノ海が外掛けで双葉山棒立ち」までは聴きとれたが、あとは国技館が割れんばかりの大歓声で今のような高性能のマイクではないから、我が家のラジオが故障したのかと思うくらい聴きとり不能の状態がしばらく続き、ようやく「双葉山が敗れ土俵下で安芸ノ海が泣いている」というアナウンサーの振り絞った声が聴きとれた。

 双葉山は安芸ノ海に負けた翌日、両国に打っ棄られ、その次の日には鹿島洋に寄り切られて3連敗した。どこか体が悪いのではないかと医者に行ったら「どこも悪いところはない、負け癖がついたのではないか」と言われたと新聞に書いてあると母が子供たちに伝えた。そのあともう一度、9日目か10日目頃に玉ノ海にも負けた。 玉ノ海は、打倒双葉に執念を燃やしたが盲腸炎で急死した土佐出身の名横綱玉錦のおとうと弟子だから、双葉山が3連敗しなかったら玉ノ海の勝利はもっと劇的だったのに惜しいことをしたと思った。

 双葉山が69連勝した時代は、1月と5月の年間2場所26日が本場所だから、大記録には足かけ4年7場所を要した。現在の6場所制と、記録達成にどちらが有利か一概に言えないが、4横綱時代、さらに平幕にも曲者揃いだった当時の双葉山の記録が偉大であることは間違いない。これを塗り替えられて双葉山の名がかすむのを快しとしない私は、白鵬には悪いが連勝ストップにほっとしているのが偽らざる心情である。(終わり)


op.58 南沙諸島 森川秀安さん(小諸市)H22/10/15


【投稿間隔が延びてしまっているのに、雑用が多くてしばらく執筆出来そうもないので、最近も話題になっている南沙諸島を表題にしている旧作(商取ニュース紙平成7年8月22日掲載)を提出させていただきます】

 今年の3月、姪の結婚式に出席するためシンガポールへ行くことになった。たまたま東京を発つ日は雨で、日暮里駅で山手線を下車する時、旅行鞄は息子が持ち自分は傘を持ってホームに降りた。電車が走り出した瞬間、網棚に手提鞄を置き忘れたことに気が付いた。中には現金、パスポート、空港での搭乗券引換証などが入っている。搭乗券引換証は空港で落ち合う妹たちの分も一緒だから、同行者は全員搭乗できない。

 駅員に話すと、ラッシュの時間帯は車内に入って忘れ物を探すことはできないので、一時間ほどして一周してくるから該当する電車を待ってくれという。さいわい、一時間五分ほどして回って来た電車の置き忘れた場所に手提鞄はあった。更にさいわいしたのは、同行者の希望で安売り航空券だったから、出発二時間前までに行って引き換えることになっていたので、一時間以上遅れたにもかかわらず、冷汗はかいたものの全員無事搭乗することができた。

 常夏のシンガポールは、七、八年前に来た時と比べて一段と整備された都市国家になっていた。マレーシアと個別に独立国家となったことが両国に幸いしたなどと思いをめぐらしていたら、忽然と「昭南特別市」という名称が浮かんできた。太平洋戦争で日本がシンガポールを占領していたはかない時期、シンガポールを「昭南」と称して悦に入っていた。そういえば玉砕したアッツ島は熱田島、隣のキスカ島は鳴神島、ウエーキ島は大鳥島、グアム島は大宮島と称していた。以前から統治していたサイパンやテニアンなどは日本語でないのに隣のグアム島だけ大宮島とはおかしいと少年時代に首を傾げたことまで思い出した。

 日本が仏印(ベトナム)に進駐した太平洋戦前夜頃だったと思うが、新聞に日本の新領土として「新南群島」の記事が載った。岩礁の上に漂流者か漁民のものらしい丈の低い日本風墓石がある写真入りで、古くからこの群島に実績があることを強調するものだった。その時の新聞の「新南群島」を示す地図から、これはいま注目を集めている南沙諸島であるように思う。当時は、地下資源など考えていたわけではなく、その地域にまで日本の領土があるという既得権を主張して、周辺が領海であることに意味があったのではないだろうか。 

 海鳥と魚、時には地域の漁師の楽園であった珊瑚礁は今や「新南群島」以上に、多くの国々の領有権争いの場と化している。当時より領海も拡がり、地下資源の採掘も容易になったことから、東南アジアの火種となることが懸念される。既得権を狙って中国の軍事施設?が構築されている写真を見ると、すでに美しい楽園の破壊が始まっているとの感が深い。数多くの悲惨な過去が消え去らぬ中に、性懲りもなく悲劇の種を播く人間の業の深さは計り知れないが、これにブレーキが掛けられないようでは人類の終焉もそう遠くないのかもしれない。

(平成7年8月記)

op.57 工作 柳沢ひろえさん(長野県大町市)H22/10/08



母の部屋に久しぶりに入ったら私の小学生の時の工作が飾ってありました(^_^;)
木の板に絵を書いて危なっかしい感じでカットして彫刻刀で彫って色付けした物です。
自分の子供の頃の写真を見せるより、ある意味恥ずかしいです。(>_<)

op.56 東京スカイツリー H22/09/24


 

雨の日のスカイツリーです
Show見さん(横浜市)

 

2010年9月18日現在、高さ470mです
片山 学君(東京都)

op.55 日本寺大仏様 (千葉県安房郡鋸南町鋸山)片山 学君(東京都)H22/09/14



前の日にテレビで観た鋸山を訪ねて日帰りで行ってきました。
石大仏(薬師瑠璃光如来)は迫力あり、沢山の登山客で賑わっていました。
階段がきつくて良い運動になり、沢山の観音様があちこちにあったので手を合わせてきました。
鋸山は空気が澄みきっていて気持ちが良かったです。

op.54 レンタルお堂 柳沢ひろえさん(長野県大町市)H22/09/04


来年のNHKの朝の連続ドラマは安曇野が舞台ですが、先日も美麻のそば畑で撮影があり
今日は私の地区のお堂を貸して欲しいと話がありました。
最初は欲しいと言われたみたいですが、昔からある物なのでさすがに断り貸す事に。
クレーンで吊ってそのまま穂高に持って行くそうです。
昔から遊んだりしていた場所で珍しいと思った事も無かったのに
今では珍しく、こういうのは残っていないそうです。