風便り op.1


投稿 風便り #1

#2 #3 #4 #5 みなさまからのお便りもお待ちしています

op.8 羽黒山の石段  森川秀安さん(東京都) H15/6/16



 私はいつも微熱があって体調が悪いのですが、風邪とも違うらしいのです。自律神経失調とか、膵臓が悪いとかいわれているのですが、その処方で治るでもなく悪化するのでもないのです。何十年も前から 「今日は体調が良いという日は1年のうち2日か3日しかない」と言い続けてきたのですが、最近はその良い日もなくなってしまったのです。といって病臥するほどでもないのです。前置きが長くなりましたが、要はそのために自分に課した執筆計画が思うように進まないのです。「出来ないのではない、やらないのだ」という無形大師のお言葉は常に念頭にあるのですが、ついつい体調を理由にして期限を先送りしてばかりいるのです。相変わらずの状態が続いている今月に入って、ふと無形大師が羽黒山に登拝されたお話を思い出しました。数多の人の業縁をお身代わりされている大師が、歩くことが困難なほど衰弱されたお体で、霊山に登ることを決意され、羽黒山の2446の石段を麓から這うようにして上られ、上りきった時にはすっかりお元気を取り戻されたというお話をお聞きしたことがあるのです。自分と限られた周辺のことしかやっていない私ですが、大師にあやかって羽黒山登拝することを急に思い立ちました。羽黒山には今までに2度か3度行ったことがありますが、観光客のほとんどがそうであるように、本殿はじめ歴史博物館、鏡池などが集中している頂上に車で上がりました。菊地秀岳さんと共通の知人の父親が、羽黒山の40ある宿坊の一つを継承していて、この人に羽黒山の斎館で、秀岳さんと精進料理をご馳走になったこともありましたが、この時も車で頂上に上がりました。今回は当然のことですが、初めて麓から石段を登頂することにしました。折角上るのだからと、日も近かったので大師のご命日に実行することにしました。初めはあの辺りの温泉旅館を物色したのですが、物見遊山に行くのではないことに気がつき、調べたら東京発午後11時に鶴岡行き夜行バスがあったので、それで出掛けることにしました。 寝台車などでも寝つきが悪いので、初めて乗る夜行バスの睡眠不足は覚悟しましたが、やはり到着の朝まで寝心地の悪いままでした。朝食後、羽黒山行きのバスに乗り、麓の隋神門に着いたのが8時40分でした。神橋を渡るまで5分ほどは、なだらかな下りで、あとは3つの長い急坂を含む上りで、すべて石段ですが、朝食を摂ったホテルのフロントの人は私の質問に1時間では無理だと言いました。後で茶店で貰った案内図を見たら、上り60分下り50分とありましたから、フロントは私の風体を見て1時間ではムリと言ったのかもしれません。平日の上に時間が早かったためか人影はなく、見上げても見下ろしても長く続く石段と樹齢数百年の老杉で、聞こえるのは野鳥の声ばかりでした。途中に見晴らしのよい茶店があって、つい呼び込まれてしまい、予定していなかった休憩をしたのですが、この時初めて、私より後から上ってきた3人連れに遇いました。3分の1くらいは上ったのか茶店の人に訊くと、「そう思って上れば後は楽ですよ、ここは丁度真ん中です」と言いました。休憩時間を含めて1時間40分で、本殿のある頂上に達しました。急坂は楽ではありませんでしたが、予想より骨の折れない行程でした。帰りは新庄から新幹線を利用しましたが、家を出てから帰りつくまで18時間の短い旅で、羽黒山周辺は晴れか薄曇りで道々で花が咲き乱れていました。翌日、懸念された脚の筋肉痛もむくみもなく、気がつくと出掛ける2日前から痛み出した歯の腫れもすっかり引いていました。「出来ないのではない、やらないのだ」と言う無形大師のお言葉どおりであることを確認できた、短いみちのく独り旅でした。

op.7 石塔寺(いしどうじ) 亀田いつこさん(長野市) H15/6/9


百五十段あまりの階段を上りきると そこは明るく開けた台地だった 大きな五輪塔を中心に 無数の石塔がおかれている 琵琶湖の東に位置するその名も石塔寺 一千年以上も前の世から この地一帯は戦乱に明け暮れていた 戦いで死んだ夫を 父を 子供たちを思い 人々は石仏を刻んだ 幾星霜 それらは戦いのたびに埋められ掘り出され 昭和の世になって この台地に集められ安置されたという 数万体ともいわれる石塔や石仏たち 整然とならんだ その姿に私は恐れをなした 度重なる この地の争いで かれらは何を見てきたのか 石たちは語ってはくれない 鼻が欠け地に沈みそうな小さなもの 苔むし その彫りさえ定かでないものたちが 遠い日の村人たちの石打つ音だけを伝えてくれる 今 風の止んだ台地に 母親の忍ぶ泣き声も地を這う子等の叫びも 全てを飲み込んだ石たちが 辺りを埋め尽くし押し黙っている

op.6 カルガモ  斎藤 隆さん(千葉県) H15/5/2


 千葉ギターアンサンブルのつなみおじさんこと斎藤 隆です。毎朝、近くの里山コースを歩いています。食パン一切れを持参して給餌しています。雛を連れてくるのを楽しみな毎日です。カルガモです。私たち(の餌)を待ってくれているようです。写真は散歩仲間の安田さんが玄米パンをあげているところです。この川は印旛沼に流れ込んでいる支流の一つで手繰川と言います。浮土橋近辺にいるカルガモは3羽(2+1)で、2羽に追われてもいじめられても、もう1羽がくっついて行動しています。


op.5 寅さんファン  森川秀安さん(東京都) H15/3/17


 無厳さんも寅さんのファンとお見受けしましたが、私もかなりの寅ファンです。 それはクビキリバッタにも書いたように、柴又の江戸川河川敷を良く知る先輩でもあるからです。先輩というのは、私が渥美清より一年早い同じ誕生日の3月10日生まれだから勝手に先輩面しているだけですが。 ところで寅さんの誕生日を知ってますか、、、、案外知られていないのですが、第26作によると昭和15年11月29日で渥美清より一回り下の辰年です。 寅さんがまだ行っていないのは、富山県と高知県だけで、高知へ行っていないなんて意外に思いましたが、次の49作目は舞台が高知でシナリオも出来あがっていたというから、惜しかったですね。寅さんは北海道によく行きましたが、長野県にもちょくちょく足を運んでますよね。 別所温泉の旅館で旅役者に大盤振る舞いをして、無銭飲食で警察のご厄介になったり、小諸の病院の女医に惚れたりと、五、六作ありますね。 などと知ってることを書き連ねましたが、実は期限を過ぎた原稿書きに追われていてこんなことしている余裕はないのですが、無厳さんの「寅さん」の文字を見て急に投稿したくなってしまったのです。


op.4 長野の智慧の元  森川秀安さん(東京都) H15/2/19


 活禅寺HP49999の来訪者として無厳さんから記念品として「長野の智慧の元」を贈るというご案内を頂いて楽しみに待っていましたら、今日「奥信濃どぶ」というお酒が届きました。私は50歳ころから記憶力に衰えを感じていましたが、近頃は三つ用を足そうとして二つ忘れるようになってしまいました。だから、「長野の智慧の元」というもので知恵はともかく、その前の記憶力の後退を防ぐのにも役立つものだと良いがとひそかに期待していました。お酒を飲んだらますます記憶力が減退してしまいそうですが、見るからに美味しそうなお酒です。ところが私は全くの下戸なのです。 何時か無形大師が東京にお見えの時、ホテルの中の日本料理屋で、これなら大丈夫だから秀安も飲めといわれ、小さな杯に一杯だけ頂いたのですが、秀岳、勝元両和尚に支えられてその夜は、無形大師とご一緒のホテルに泊まってしまったほどアルコールに弱いのです。 どぶろくは20歳くらいの時に飲んだことがあり、口当たりがよくて美味かったという記憶がありますが、勿論この時もダウンしました。 折角頂いたのだからすべての準備をして、寝る前に飲んでみようと思っています。 どぶろくといえば、60年近く前の終戦から数年間の食糧不足の時代、大都市住民は縁故を頼って食糧運びに田舎へ出かけたものですが、東北地方から上野に戻る夜行列車は荷物と人でいつも満員でした。丁度今ごろの寒い季節、客車は暖房と人いきれで暖かくなっています。列車が東京に近くなった頃、網棚でぽんという爆発音がするのです。それは水筒に入れたどぶろくが適度の高温と列車の揺れで醸成が進み、中の圧力で蓋を飛ばしてしまう音なのです。 折角苦心して手に入れ、密かに大事に飲むためにはるばる持ってきたのに、周りの人の衣服を汚し、匂いだけ車中にばらまいてしまったのですが、当時はよく見かける光景だったようです。 買出しというと、今の人は市場に仕入れに行く事と思うかもしれませんが、当時、買出しといえば、正規の流通に乗らない闇物資の食糧を、取締りを気にしながら田舎に買いに行く事で、コネがなければ、ほとんどの人がそうなのですが、生きるために食糧を求めて農村地帯を歩き回ることなのです。古い話を持ち出しましたが、その頃の記憶なら山とあるのに、今朝のことを覚えていないのですからおかしいですね。

op.3 霊巌山寺の輦台(れんだい)  森川秀安さん(東京都) H14/11/8


 1993年6月から7月にかけて所用で中国に行きました。まず上海に降りて二日間用を足し、三日目に蘇州に遊びに行くことになりました。上海空港からホテルに行く時のタクシーが、自転車と歩く人の雑踏の中をかなりのスピードですり抜けて行くだけで神経が疲れてしまったのに、蘇州への悪路を人と車を縫ってのマイクロバスの3時間にはいささか参りました。お定まりの拙政園、虎丘、寒山寺を回って昼食となりましたが、かねて無形大師からお聞きしていた霊巌山寺はさほど遠くないので、この機会に行くことにしました。平地を走ること3、40分で岩山の麓に着きました。そこから歩いて参道を登り始めたのですが快晴で気温も高く、お寺とは無縁の5人の同行者も私も大汗をかいていました。道を曲がった日陰に、笠をかぶった農婦のような身なりの女が二人、輦台のような乗り物を挟んでしゃがんでいました。輦台(れんだい)というのは、むかし大井川などで川を渡る客を乗せた、板の両側に棒を付けて前後を人夫が担いだ乗り物のことですが、ここのは四方に高さ15センチほどの板囲いがあったと記憶しています。それを見て、同行者の一人が、「森川さん、あれに乗った方が楽ですよ」と指差したものだから、女たちは輦台を持って寄ってきました。皆が奨めるし、私だけが飛び抜けて年長だったので乗ることにしました。左右に揺れたりしてやや安定を欠きましたが、歩くよりずっと楽です。周りの景色や同行者の歩く姿を見ていましたが、ふと女たちに目をやると黙々と足音も立てずに汗を拭きながら歩いています。歳は20台と30台に見えました。若いとはいえ、坂道だから後ろの担ぎ手は特にたいへんです。50キロもない私ですが、夏の日の照りつける山道は慣れてはいてもきついに違いありません。上を見るとまだまだ先があります。気の毒に思って降りたくなってしまいましたが、そうもいかないので彼女たちの負担を軽くしようと、効果はなかったかもしれませんが、台の上で体を動かしてバランスを取ったりしたので、反って気骨が折れました。下山する時も、山門の傍らで待っていた輦台に乗りましたが、同行の5人の体を眺めながら、担ぎ手のためには、やっぱり乗るのは私でよかったと思いました。麓に着いて、彼女たちの労をねぎらおうと60元のところを100元渡したら、通訳を引き受けてくれた女性教授から「多すぎます」と言われてしまったけれど、教授が傍らで見ていなかったら200元出すつもりだったから、今でも彼女たちの労苦を思うと多くなかったと思っています。(写真は中国霊巌山寺関係のHPよりお借りした輦台の写真ですが、最近のはこのようなカゴの形に変わっているようです)


op.2 クビキリギズ  森川秀安さん(東京都) H14/10/10


 ノスタルジア84の、女たちの社交場でもある小川の洗濯場を読んでいる中に遠い記憶を呼び覚まされたので投稿させて頂きました。
私が住んでいた戦前の東京の下町には、共同水道というものがあって、やはりおかみさん達の賑やかな社交の場でもありました。
町にはガス管も水道管も縦横に張り巡らされていましたが、ガスも水道も入っていない家もありました。貸家には家賃は安いが設備も悪いのがあり、入居する方もガスなど使わないという家庭も多くあったのです。町は木場に近く、製材所や建具屋など木材加工を業とする家も沢山ありました。だから、そこで働いている人たちが木っ端を持ち帰るのは日常のことでした。そうでない家でもガスのない家庭の子供は、木っ端拾いが日課で、雨の日もあるから常に木っ端を絶やさぬように拾い集めなければなりません。宿題はやらなくても木を拾って来ないと晩御飯にありつけないこともあるから、遊ぶ人数が足りないときなど仲間も一緒になって、製材所や木工所の周辺に出かけて行って、其処ここに落ちている木っ端拾いを手伝ったものです。

 ついでながら電気についても触れておきましょう。もちろん各家庭に電灯はありましたが、二種類あったのです。ひとつは電気会社が毎日一定時間だけ送電し、電球の数も明るさも制約されるが、メーター制より料金が格安なのです。現在のような電化製品はなかったから、電気が日中来なくても特に不自由ということはなく、雨の日は部屋が薄暗いという事と、アイロン掛けが出来ないという事くらいでした。電気会社の点燈・消灯時間は日の出、日没が基準ですから、夏と冬では異なりました。私の住んでいた裏通りは定額電灯制の家が多かったので、日暮れ時になると一斉に点灯するから、ぱっと通りが明るくなるのです。だから遊びに行く時に「電気が点いたら帰ってきなさい」という、口癖になっている親の言葉には実感がありました。

 さて、肝腎の共同水道に話を戻しましょう。
江戸時代の長屋の井戸端を連想させる共同水道が、裏通りや路地のところどころにありましたが、水源は普通の水道と同じ東京市の上水道です。長屋の井戸と違うのは、その地域の人が全員利用するのでなく、水道局と契約してその共同水道蛇口専用の鍵を渡された人だけが使用できるのです。料金は利用者一律ですが、各戸配管の水道よりかなり安かったと思います。共同水道の隣でも自家水道があって利用しない家がある一方、五軒も六軒も先から水汲みに来る家庭もありました。だから井戸端会議のように地区全員、長屋全員ではなかったのですが、水道端会議の面々とそれ以外の人達との確執はなかったようです。共同水道の利用には自ずから秩序ができていて、朝夕の水汲みラッシュ時には食器洗い洗濯など場所や時間をとる行為は避け、鉢合わせしてもお互いに譲り合っていました。なお、風呂のある家は何処にもなく、みな銭湯を利用しているから、骨の折れる風呂の水汲みはありませんでした。水汲みも子供が手伝うのは当たり前で、十歳にもならない女の子が上体を斜めにしながら大きなバケツを運んで行く毎朝でした。「見て御覧なさい、民ちゃんはあんな大きなバケツを運んでいるのに」と、それより年上なのに、細腕、非力、ずぼらな私達兄弟を母はいつも嘆いていました。もし我が家にも水道が引いてなかったら、私も活禅寺の作務の時もう少しマシな動きが出来たかもしれないと今思っています。共同水道には流し台がないし蛇口も太いから、空のバケツの底まで1メートルくらいの落差を勢いよく水が落ちると、かなり大きな音が響きます。職人の町は朝が早いから、暗い中からこの水音で眠りを破られたものです。

 ノスタルジアには田園風景や農作業の描写が数多く出てきますが、私が戦前住んでいた下町は雑草の生える余地も無い住宅密集地で、植物は鉢植えのものが窓辺や軒下にあるくらいでした。田園風景といえば、千葉の伯父の家に行く時か、学校の遠足くらいでした。ましてや農作業など無縁のものでした。ところが、中学三年生の時、突如として、農業体験をすることになったのです。しかも開墾から収穫まで毎月のように農作業に従事し、多分五年生の卒業近くまで続いたのです。

 突然ですが、皆さん「寅さん」の映画を見たことあるでしょう。寅さんが江戸川の土手や原っぱになっている河川敷をおなじみの鞄を提げて歩くシーンを思い浮かべてください。実はあの原っぱは私が中学三年までは見渡す限り葦原だったのです。そうです、お察しの通りあそこは私が、いえいえ私たち東京東部の男子中学生が汗と涙で切り開いたのです。人間がすっかり隠れてしまう丈の高い葦は、サボる時は都合がよかったのですが刈り取るのが一苦労でした。刈り取って隠れる場所がなくなってからはもっと大変でした。ご承知の方は解って下さるでしょうが、竹のように縦横に張った地下茎を掘り起こすのはかなりの重労働なのです。一応、葦を取り払ったところで、あらためて東京東部の中学校と女学校に開墾地が割り当てられたのです。かくして戦時食糧増産のため学年別交替で農作業に励んだ、いや励まされたのです。だから寅さんがあそこを通る度に農作業を思い出す事になるのです。河川敷だから土地が肥えている上に、日当たりも風通しもよいので、小麦や馬鈴薯が意外によく穫れました。土手の上で足踏みの脱穀機で小麦を脱穀したあと、両手で掬った小麦を空高く放り上げると、川風で塵が飛ばされて小麦が足元の莚の上に落ちるという原始的作業を繰り返して、やがてかますに小麦を詰めるのでした。土手の斜面に寝転んで空を見ながら一休みして聞く脱穀機の物憂い音や、川風を受けながら眺めた江戸川の景色を思い出しますが、柴又の駅から真直ぐ土手を越えて畠に行くだけで、帝釈天にお参りした記憶はないのです。

 ところで、どなたかクビキリというバッタをご存知ありませんか。
私は江戸川の土手で何度か出会ったのですが、当時でも数の少ないバッタでした。われわれはクビキリと呼んでいましたが、学名は知らないのです。そのうち図書館で調べてみようと思っているのですが、体長5、6センチで米搗きバッタに似ています。地方によって呼び名は異なるかもしれませんが、特徴は、捕まえて虫の口を衣類などに触れさせると、すぐに食いついて絶対に離さないのです。だから羽と後ろ足を捉まえたまま、シャツに食いつかせて引っ張るとバッタの首だけが残るのです。クビキリを捕まえると、虫嫌いな友達の胸元に押し付けて引っ張り、虫の首だけ衣類に残して面白がったり、自分の襟にバッタの首をバッジのように付ける虫好きもいたのです。私も一度だけ友達からクビキリを貰って実験したことがありますが、無益な殺生をしたものと今は猛省しております。クビキリに土手の草原で何回か出会ったのは、そのような処を好む虫だったのかもしれませんが、いつも独りだったから、群生しないし数も少なかったのでしょう。

 私は職場の上司やそのまた上司、時にはトップの役員と言い争ったりするので、親しい人から「今に足元を掬われるから止めなさい」と度々忠告されていました。それなのに概ね自説を通して勇退するまで四十数年、同じ職場にいることが出来たのはクビキリのお蔭だったのではないかと思います。つまり、あまり強く食いついていると、首が飛ぶという事をクビキリに身をもって教えられていたので、潜在的に食いつき方を加減していたのかもしれないのです。クビキリ君ありがとう、その後の君の消息を知りたいのです。


op.1 トンボ  森川秀安さん(東京都) H13/11/29


 ノスタルジア74を楽しみに、いつ出るかとインターネットを見ていたけれどなかなか出ないので最近は活禅寺のページを開かずにいました。今朝久しぶりに開いてみたら待望の74が出ているではありませんか。しかも大好きなトンボ、今やまぼろしとなってしまったトンボの話なので懐かしさのあまり筆をとりました。私は貯木場の堀の多い下町で育ったのですが、当時の東京には数多くの種類がいて、私の町で見かけなかったのはオニヤンマくらいでした。最大のトンボ、オニヤンマはギンヤンマと違って時々地上に下りたり部屋の中へ入ってきたりするので田舎(千葉県)の伯父の家の池の端で手掴みにしたこともあります。われわれは小学校高学年になると、シオカラやムギワラには飽きて(というより下級生の手前)ギンヤンマばかり追いかけたのですが、トンボを捕るには(網ではなくモチ竿だった)堀の周辺が獲物が多くて良い場所なのです。堀の水面にはギンヤンマが飛んでくることが多いので、親からも学校からも禁じられている堀に浮かぶ筏に乗ってしまうのです。夏休みが終わって登校すると、1人か2人、男の子が堀でおぼれて顔をみせないのです。それでも足元を気にしながら筏に乗ってトンボを追いかけるのです。ノスタルジア74の神様トンボは、われわれがオハグロと言っていたトンボだと思います。車トンボはオクルマと言っていました。糸トンボはトオスミと言っていましたが、草むらを歩くと湧き出るように青や赤い尾の小さいのが舞い上がりました。伯父の家の方では東京の糸トンボより大型で胸が緑で尾が黄色の鮮やかなのが沢山いました。赤トンボは種類が多く、今でも東京で見かけるのは西洋アカチンと言って赤というより褐色ですが、ノスタルジアのかげろうやんまは、尾が真紅で秋のはじめごろに東京でも群れ飛んでいた赤トンボ(アキアカネ)のことでしょうか。今でもトンボたちの羽をひるがえす時のかすかな羽音が耳に残っています。無厳さんトンボを思い起こさせてくれてありがとう。