風便り op.4
○○○ 投稿 風便り #4 ○○○
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op.53 夜の秋 森川秀安さん(小諸市) H22/8/12
日本中が記録的酷暑だった今年の夏安居は、満願の8月7日も猛暑でした。しかし帰宅したこの日の夜、久しぶりの自室の窓から聞こえて来たのはコオロギでした。この日は立秋、昼は盛夏でも暦どおりに夜はもう秋が来ているのでした。
次の8日も昼は真夏だったのに、涼しくなった夜9時頃に今度はコオロギのほかにカンタンが一匹鳴き出したのです。メモを見たら去年の初鳴きは8月19日でした。去年はたびたび小諸を不在にしたから不正確ですが、つぎにカンタンを聞いたのは9月になってからでした。
我が家のあたりでは9月がカンタンの最盛期、今夜のは早熟児の単独一番乗りなのか、それとも酷暑の夏は秋の訪れが早いのか。9日も10日も一匹だけが鳴いていますが、カンタンの成虫は短命というから同じ虫かどうかは判りません。
ところが今夜11日は、自室の窓から複数のコオロギの声に交じってカンタンは相変わらず一匹だったのですが、念のため180度反対のベランダ側に出てみると、やや遠い草叢からカンタンの合唱だけが闇の中から聞こえて来るのです。
東京にいた時は 「カンタンを聴く会」 が奥多摩で催される記事や放送で知ってはいたものの、多忙とものぐさから一度も参加したことはありませんでした。
これから当分、居ながらにしてカンタンの声を楽しめるのも、草深い処に住んでいる者の特典と言えるでしょう。
op.52 潮干狩り 森川秀安さん(小諸市) H22/7/5
有名日刊紙三月上旬のコラムに「信じがたい気もするが、東京の湾奥でアサリ、ハマグリがじゃんじゃん獲れた」という書き出しで、幕末の書画に品川で貝拾いに興じる女性や子供、深川あたりの砂浜に潮干狩りに繰り出した人々が描かれている画や、深川には貝を漁する者がとても多いとの記述があることなどが紹介されていた。
しかし幕末まで遡らなくても私が深川に住んでいた少年時代、中学の同級生の父親は月島の漁師だったし、隣の小母さんの越中島の身内も漁師だった。わが裏町にも毎朝、納豆売りの少年とともに、荷台に貝を積んだ小父さんが自転車を漕ぎながら「アサリー、シジミー」と毎朝、声を張り上げていたし、毎日ではないが東京湾内で獲れた活きのよいイワシを入れた盤台を天秤棒で前後に担いだ威勢のよい売り声の若者や、同じく揺れる盤台の水に甲羅を洗わせて、歩き方も呼び声もイワシ売りより静かな「活きたワタリ蟹売り」も辻辻を回っていた。
ところで、水かけで有名な深川八幡の本祭り五十数基の神輿渡御は、氏子町内8キロを練り歩く神輿の順番は大祭の都度決められるが、毎度しんがりの「深濱」は変わらない。この深濱というのは町名ではなく昭和三十七年に漁業組合が解散する前の深川濱十四ヶ町の漁師で構成されているという。消えて行ったとはいえ戦後しばらくは、漁業を生業にしていた人たちも深川にいたのだ。
深川の東隣りで、今は同じ江東区の砂町と江戸川区の葛西を分ける荒川の下流の、上げ潮になると海水が入って来る葛西橋周辺は小学生時代の遠出の遊び場で、そこでは魚釣りと「かいぼり」(狭い水たまりを堰き止めて水をかい出し、フナ、ウナギ、エビなどを一網打尽にする)が主だった。 葛西橋の下あたりで小舟に乗った漁師が、上げ潮に乗って上がって来るシャコを四手網で掬っていたが、子供たちは真上の橋から飽かずにそれを眺めていた。橋を渡って並行する中川べりの海に近い葦原の前は引き潮になると大きく砂地が現れるが、そこではカニを捕まえたり貝を掘ったりした。そこで獲れる貝は主にアサリとシジミだったが、シジミは短時間でいくらでも獲れた。帰り道に重くなり、こんなに獲るんじゃなかったと後悔しながら家に着いたら「こんなに沢山どうするの」と母親 にいやな顔をされたので、それ以来シジミを獲るのは止めた。
とにかく江戸前で、昭和になっても生業になるほど魚や貝が獲れたのだが、「江東昔ばなし」など戦前の江東に関する著書も多い、砂村(大正十年に町制、昭和七年から東京市城東区)で生まれ育った明治三十八年生まれの田辺貞之助氏の著書によると、氏の母堂の話では、明治二十年前後には小名木川(隅田川と旧中川を結ぶ掘割)にも清流にしか棲まないタナゴがいたそうだ。また明治三十六、七年頃夜突きに出た親戚の男の銛に畳一畳敷きもありそうな赤エイが掛かり、折よく通りかかった沖に出てゆく漁師たちの助けを借りて小舟に揚げてもらい、持ち帰って切り分け村中に配ったが、大味で旨くなかったと母堂が言っていたとある。
コラムの執筆者は年配の人であるにしろ、戦前を知らない世代なのかもしれないが、新聞を見た読者の多くは遠い幕末に思いを馳せ、戦前の昭和にまでその面影が残っていたとは思い及ばないだろう。近頃、昭和時代、とりわけ前半の昭和の情報を端折ったり、誤り伝えないでほしいとの思いが強くなっている。
註 平成17年4月某紙に寄稿したものを補筆
op.51 はじめまして たんぽんあんさん (千曲市) H22/6/12
はじめまして。毎日、HP~風の詩~を拝見させていただいております。負けん気が強く、有言実行を座右の銘としている生意気な私としては、 とても穏やかな気持ちになれます。 現在、毎日ではございませんが、活禅寺にて坐禅をさせていただいております。このご縁は、義父よりいただきました。
義父は以前、活禅寺に入門していたことがあり、当時のことを涙ながらに話をしてくれます。そのたびに、「活禅寺へいこう!」と思いながらも、思っているだけで終っておりました。今、主人と一緒に学習塾を経営し始め、8年目になりました。私は、学歴なんてものは持ち合わせておらず、でも、実の父が他界し、母と障害者の兄がいる家族関係の中、先祖が残してくれたモノを守るために、何かをしなければならないと考えてた時、主人とのご縁と、この仕事のご縁がありました。
仕事上、テストの点数を上げることが責務で、でも、学歴が全てではないと思う自分と背中合わせの中、今の自分にできることを考え、「頭が良かろうが悪かろうが、努力の量は一緒だ!」と、子供達に伝え、キレイごとも言いたくないので、時にはストレートに、時にはオブラートに包んで、保護者とも触れてきました。また、経営者として起動に乗るよう、必死に業務に勤めました。微力ながらも、なんとか起動に乗り、会社を興すことができました。円形ハゲも毎年できました。
よし! 会社も興したことだし、気合を入れていくぞ!と 気持ちを新たにしたところ、社員の動きが思いのほか、ついて来ていないことに気がつきました。経験者からのアドバイスや、人材育成をどうするか日々考え、 意識付けをするようにしたり、共通認識をどのようにすれば共有できるかなど、あれこれやってみました。
「うまくいかない……」 現場では、子供達の親たちが、自分を棚に上げて言いたいことを言ってくる。学校も自分の身を守ることが精一杯で、嫌なものから目を背ける。そんなことが年々増加してくる。自分に何ができるのかと振返る。自分に試練だと思うので、できることからやろうと思う。ぶちあたる… 環境のせい、人のせいにしている自分がいる。こんな自分が嫌で坐禅に参加させていただいております。
今、義父より赤本をお借りし、難しい言葉が多く、知らない私は電子辞書を片手に読ませていただいております。皆々様の行に対する想いが伝わってきます。でも、私は何をどうすればいいの?と素直に受け止められない私もいます。義父からは、「何かを考えて躊躇しているのではなく、自分に自信をもつための坐禅だからね。 不安があったら和尚様のところへ行ってみるといいよ。自分に自信をもてるようになるから。」 と聞き、自分に御粗末ながら活を入れて、活禅寺へ向かうのですが、何がなんだかわからないまま、 時間が過ぎていきます。
和尚様とお話もしてみたいと想うのですが、お邪魔じゃないかと、お忙しいのではないかと、今だ躊躇しています。先日の坐禅中、名前は存じ上げませんが、和尚様に姿勢をただされました。その前日は、「くそっ!なんでそうなるんだ!」と従業員に不満をもった日でした。ふぅ、とこんな自分にため息ばかりです。ただただ不満が多いこんな自分から脱出できるように、坐禅に取組む!と自分に活を入れて、また活禅寺へ向かいます。
op.50 ふるさと 森川秀安さん(小諸市) H22/6/4
信州出身の国文学者高野辰之が作詞した「故郷」は、私の小学生時代の唱歌の教科書にも載っていたが、大正初めの教科書にもすでにあって、以来今日まで時代を越えて長く愛唱されて来た。
隅田川沿いの下町育ちだった少年時代の私の行動範囲は、江戸川区南部の葛西にまで及んだが、そこではエビ・カニ・アサリ・シジミ採りや、コイ・フナ・ハゼ釣りのほか四手網でウナギやボラの子なども獲った。われわれ少年は「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川」ではなく、「うなぎ追いしかの川 小鮒釣りしかの川」という、四方みわたしても山が見えない、護岸のある川と縦横に走る用水路ばかりのところで遊んでいた。今やその辺りは公共の建築物や住宅群となって地下鉄東西線が通り、海だった処にも街が伸びてJR京葉線が走っている。私の場合は七十年前との比較だが、日本には、もっと短期間に著しく変容してしまった地域も多い。
「如何にいます父母 恙がなしや友がき」と言っても、今や「友がき」も長男でさえ故郷を出てしまっている者も多い。そして盆や正月に帰省した時にだけ、まるで同窓会のようにその時に同じく帰省した友に会えるのが現実であろう。しかもその時代も終わって「帰省する人」も著しく減ってしまい、中には五十代の人でさえ、父母の故郷に「行く」のであって、都会生まれ、都会育ちの人には「帰る」という感覚はないと思う。更にその子供たちに至っては、親に連れられて祖父母の出身地へ行くのであって、不便な住居に泊まったり墓参は必ずしも歓迎されないのではないだろうか。
「志をはたして いつの日にか帰らん」と歌っても、当今は志を果たしても故郷には帰らず、そのまま都会に居ついてしまう人が多い。各人、理由はいろいろあろうが、「山は青き故郷」の山も今はドライブウエイに削られて傷跡のように岩肌をあらわにし、護岸に固められた川には葦のそよぎもなく、湧き水も井戸もなくてカルキ臭い水道では「水は清き故郷」の郷愁も湧かないから「帰りなん いざ」という心境にはなれないだろう。だが郷愁を感じないのは、プロパンガスに代わってかまどに紫煙棚引くこともなくなった田舎ばかりか、同じ処に住んでいながら「故郷」がなくなってしまった公害の密度の高い都市住民も同様である。
かくして記憶にしか残っていない故郷を「夢は今もめぐりて」と熱い想いで歌い続けて行くのであろう。
(平成22年5月31日記)
op.49 カッコウ? 柳沢ひろえさん(大町市) H22/6/1
先日、従姉妹の家の窓に激突した鳥です。
しばらく脳震盪を起こしてカゴで保護、元気になってから山に帰しました。
ガラスに写る景色に突進してしまうのか、こういう事故も多いんです。
他の鳥の巣に卵を産み付けて、成鳥になるまで他の鳥に育ててもらう託卵(たくらん)を行う
カッコウ(大きさ35㎝)ツツドリ(32㎝)ホトトギズ(27㎝)のいずれかだと思うのですが、
姿は三者とも殆ど同じなので、成鳥の鳴き声を聞かないと区別がつかないのです。mugen
op.48 あけびの花 柳沢ひろえさん(大町市) H22/5/11
今日も晴れ(≧∇≦) 甥っ子にホタルイカを貰ったり、あけびの花も満開です。
op.47 東京スカイツリー その3 片山 学君(東京都) H22/4/16
会社の屋上から建設中の東京スカイツリーが見えたので写真2枚を送ります。
op.46 東京大神宮と外壕の桜 片山 学君(東京都) H22/4/10
東京のお伊勢様、東京大神宮をお参りしてきました。三枚目は法政大学の近くの橋(一口坂)から外濠の桜を撮りました。
op.45 「花や今宵」の歌 森川秀安さん(小諸市) H22/4/9
私が小学生の時の唱歌の教科書に「青葉の笛」というのがあったはずだが、歌った記憶がない。教科書は国語(読方と言った)でさえ時間切れで全部学習出来ない年度があったくらいだから、唱歌はなおさら習わずに終わったものが多い。だから、大和田建樹作詞、田村寅蔵作曲の「青葉の笛」は詞も曲も成人してから認識したのだが、滅びゆく平家の武将(というより公達)を悼んだ優れた作品と感じた。当初の教科書の題名は「敦盛と忠度」という公達の名前に因んでいたが、昭和になって「青葉の笛」という第一節の歌詞にある笛の名手、平敦盛に因んで改題されている。
一の谷の軍破れ 討たれし平家の公達あわれ
暁寒き須磨の嵐に 聞こえしはこれか青葉の笛
更くる夜半に門を敲き わが師に託せし言の葉あわれ
今わの際まで持ちし箙に 残れるは「花や今宵」の歌
清盛の末弟、平忠度は文武両道の達人として有名だが、討ち死にした時に箙(えびら=矢を入れる携帯武具)に、「行き暮れて木の下かげを宿とせば 花や今宵のあるじならまし」という一首を残していた。この歌は古今集にある藤原公任の「春来てぞ人も訪いける山里は 花こそ宿のあるじなりけれ」を本歌としている。
公任の歌は、待ちかねた春が来て公卿たちが花見を楽しんだ後、山荘のあるじの公任がこれをもてなして歌会を開くさまを想像させるが、忠度の歌は、後退する平家の軍勢に合流すべく源氏の勢力下を縫うように落ちてゆく途次の野宿の歌であって、まさに対照的である。
「青葉の笛」の第二節に「更くる夜半に門を敲き わが師に託せし言の葉あわれ」とあるのは、死期を悟った忠度が西に落ちてゆく軍勢と別れて都に引き返し、歌の師である藤原俊成の門を敲(たた)き自選の歌集一巻を師に託して、もし次の勅撰集の御下命があった時この中に相応しい歌があればぜひ採用して頂きたいと願ったことを指している。その四年後に勅撰集である千載集が編まれ、俊成は忠度の一首「さざなみや志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」を選んだが、源氏の世をはばかって「詠み人知らず」とした。
読む人は、長等山のさくらの変わらぬ美しさと、いにしえの志賀の都の荒廃の対比の妙を鑑賞したことと思うが、これが忠度の歌であることは当時、千載集を手にした誰もが知っていたであろうから、志賀の都にさかのぼることもなく、栄華を極めた福原が灰燼に帰したこと、歌会で顔を合わせていた貴公子忠度が討ち死にたことを昨日のごとく偲んで、世の無常を痛切に感じたことだと思う。 忠度が託した一巻の百余首の中には千載集にもっと相応しい歌があったかもしれないのにこれを採ったのは、俊成もこの歌にやり場のない無常観、忠度への哀惜の情に迫られたのではないだろうか。
さくらは華やかさより哀しさをそそることが多いと感じるのは、私の歳のせいなのだろうか。(平成22年4月8日)
註 和歌の漢字とかな遣いは、あえて原文と異なる部分がある
op.44 浅草寺の大銀杏 Show見さん(横浜市) H22/4/7
浅草寺境内の大銀杏です。
鎌倉時代に参拝に来た源頼朝公が植えていかれたそうですが、
東京大空襲の時大半が焼けてしまい、
もうだめだとあきらめていたところ、
すぐに芽吹いてきたそうです。
今では御神木としてお祭りされています。
鎌倉の大銀杏倒壊の記事がありましたので、
銀杏つながりでご紹介です。
op.43 北アルプス便り 柳沢ひろえさん(大町市) H22/3/30
今朝は冬に逆戻りしたみたいに寒かったですが、アルプスはとても綺麗でした。
野生動物も春の訪れが待ち遠しいのか、活発に動いているようです。
op.42 東京スカイツリー その2 片山 学君(東京都) H22/3/27
今朝の日刊スポーツの社会面に載っていました。今建設中の東京スカイツリーです。
op.41 福寿草 柳沢ひろえさん(大町市) H22/3/22
小川の親戚の家で春を見つけました(^_^)v福寿草です。
op.40 東京スカイツリー その1 Show見さん(横浜市) H22/3/19
浅草から見るスカイツリー、今月末に東京タワーの高さを越えるとのことです。
op.39 浅草にて Show見さん(横浜市) H22/3/17
こんにちは、 今日の仕事は浅草のコースです
浅草の近くにはあのバンダイの本社ビルが有るんですよ(^O^)/
op.38 大銀杏 片山 学君(東京都) H22/3/15
こんにちは。片山です。今日は鎌倉に来ています。先日、天候で倒れた鶴岡八幡宮の樹齢
1000年の大銀杏を見に来ましたが、規制されて近くまでは行かれませんでしたが、大混雑でした。
op.37 螢の光 森川秀安さん(小諸市) H22/3/13
私が小学生の頃の祝祭日(旗日と言っていた)は、官公署、会社、工場同様に普段と変わらない日もあったが、「紀元節」「「天長節」「明治節」などは、授業は無かったものの式典のために登校した。校長が厳かな声音で読み上げる「教育勅語」と訓示のあとは、それぞれの式典用の歌を斉唱する慣わしだった。
当時私の小学校は児童数が二千名を超える年もあったから、卒業式の時は五年生全員が在校生を代表して出席し、式典の終わりに五年生が「蛍の光」を、六年生が「仰げば尊し」を斉唱した。近年は公立でも「蛍の光」も「仰げば尊し」も歌われなくなってきたと聞く。文語体の歌詞が堅苦しい上に用語も難解だからという理由だそうだが、私にはやはり「蛍の光」と「仰げば尊し」が懐かしい。
しかし私の頃でも子どもたちは、式典の時に斉唱していたこれらの文語体で書かれた歌詞の意味をほとんど理解していないか、曲解していた。 「仰げば尊し」の歌詞に「今こそ別れめ」とあるが、「分かれ目」と思っている者が多く、「こそ」のために「む」が「め」になるという文法は中学か高校で習ったはずだが、成人しても「分かれ目」と思っている人もいる。けれども、歌詞を理解していようといまいと、歌う時に支障は無かった。当時の義務教育は小学校の六年間だけで、卒業と同時に住み慣れた街を出て奉公(年休二日の住み込み就職)する者もいたから、式場には別れにふさわしい雰囲気が漂っていた。
「仰げば尊し」に代えて「巣立ちの歌」というのが歌われて人気もあるとのことだったが、大分前のことだから今も歌われているかどうかは知らないが、CDで聴いてみたら、なかなかよい曲で歌詞も平易だった。しかし歌詞をよく読んでみたら、口語体と文語体が入り混じっているが古い世代の私にも耳障りではなく、「食べれる」「着れる」などという新しい口語?を聞くたびに催す違和感はなかった。
op.36 奇抜な時計 H22/3/12 Show見さん(横浜市)
こんにちは、今日も仕事は銀座コースです。
奇妙な時計を見かけましたので送信します。
銀座和光の入口のリーフレットですが、
実際の時計にはなっていません、
ご参考までにf^_^;
op.35 昔のお金 H22/3/8 柳沢ひろえさん(大町市)
片付けをしていたら、昔のお金が出て来ました。 家にあった物、
おばあちゃんに貰った物、小さい頃は昔のお金をもらっても
嬉しくなくて、これだとお菓子が買えないなと思いつつ、
ありがとうと握りしめていました。
天保通貨、寛永通貨、十銭ですね。
大正の年号が入っているのもあります。
それと何故かイスラエル通貨?がありますが、模様が綺麗なので好きですね。
op.34 芝浦の運河にて H22/3/3 Show見さん(横浜市)
今日は芝浦の運河でお昼休みです。
パンくずを鳩にやっていると
カモメが餌を横取りするんですね(O_O)
スズメとかヒヨドリもやって来てビックリです。
op.33 セルフィン・プレコ 森川秀安さん(小諸市) H22/2/27
(BBS 風の詩 2月19日の水槽の魚を見て思いつき、平成6年9月27日に某紙に寄稿した旧作を補筆して投稿させてもらいました。)
地下鉄水天宮前駅の箱崎ターミナル寄りの構内の歩道の壁に沿って観賞魚の水槽が置 いてある。その中に五種類六匹の淡水魚が飼われていて、水槽の台にはカタカナで名称を示した魚の絵が描いてある。
みな熱帯魚らしく美しい模様や鮮やかな色彩のものばかりだが、その中に一匹、その水槽でいちばん大きい「セルフィン・プレコ」という名の12.3センチの魚がいる。
黒地に目の細かい薄い橙色の網をまとった斬新な図柄で、体つきからは底魚なのだ が、腹を反したところを見てもまんべんなく同じ柄をしたしゃれたヤツである。
この模様の衣裳を軽やかにまとった女性が銀座を歩けば注目されるだろうなどと考えながら人形町方面の出口に向かって歩いていたが、ところで何という名前の魚だったかと思い出そうとしても、どうしても名前が出てこない。つぎの日に水槽の前に立って魚の絵を見ながら、そうそうセルフィン・プレコだったと確認した。
毎日餌をやり、水槽の掃除も怠りなくやっているからこそ、魚も元気だし水もきれいなのだ。スポンサーの名前など見当たらなかったから地下鉄が飼っているのかもしれ ないなどと考えながら地下道を半分ほど行ったところで、そうだ魚の名前は何だったかなと考えたが、どうしても思いつかない。
気に入っている魚なのに名前を覚えられないのは残念と、三日目に水槽のところに行って、大きな口をガラスに押しつけながら泳いでいるセルフィン・プレコの名を確 かめると、この日は何も考えず早速、落語の与太郎のように、「セルフィン・プレ コ、セルフィン・プレコ」と胸中繰り返しながら歩いた。
人形町方面に上がるエスカレーターのところまで来て、もう大丈夫と思って唱えるのを止めた。それからは「セルフィン・プレコ」とすぐに浮かんで来るが、どのくらい繰り返したのか後日計ってみたら、七十回ほど唱えたことになる。
ふと気がつくと、駅に限らず街並みも公園も一昔前に比べれば様変わりに綺麗になっ ている。地下鉄の構内も例外ではない。
そしてはるばる熱帯から、魚でさえ大旅行して日本に来ている。水温も水質も適度に管理され、餌も労せずして口に入る。だが外敵からは守られていても、彼等の行動範囲はわずか数十センチしかない。
今日、洪水に流されても、明日、外敵に喰われても、生まれ故郷で命がけの餌をあさ り、伴侶を獲得するのにしのぎを削るのと、彼等にとってどちらが幸せなのだろう か。