風便り op.3


投稿 風便り #3

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op.32 消灯ラッパ 森川秀安さん(小諸市) H21/8/22


 イタリア奇想曲はチャイコフスキーが療養を兼ねたイタリア滞在中に想を得て作曲された、ロシアの憂愁を湛えた曲趣の多い彼にしては珍しくイタリアの明るい風光を映した作品として知られている。トランペットの序奏で始まるメロデーは、滞在中の宿に近い兵舎から毎晩聞こえて来るラッパの音色を模したものと言われているが、後に華やかに展開されるこの曲も、冒頭の管楽器が奏でる部分ではまだイタリア的な明るさは感じられない。私には旧日本陸軍の消灯ラッパにも似た哀愁を帯びたものに聞こえる。

 太平洋戦末期に兵役年齢は二十歳から十九歳に引き下げられ、私も東京大空襲後、避難先の町役場に手製の竹槍持参で点呼を受けたが、召集される前に戦争は終わった。軍隊には行かなくても戦前の中等学校以上の男子には「教練」という軍事訓練の必須科目が課され、通常の訓練の他に、第二学年からだったと思うが卒業するまで毎年一週間前後は、陸軍の演習場の兵舎に宿泊して原野を駆け回り兵隊並みの訓練を受けた。この時、起床、食事、点呼、消灯などはラッパの合図だったが、同級生の誰が吹いていたのか、ラッパの合図で行動開始したのが幾つあったのかはもう記憶にない。この時に聞いたとは限らないが当時は日常どこかで、あるいは映画などで度々耳にしたので今でも、進軍、突撃、君が代(捧げ銃)など旧陸軍のラッパの音色の多くは覚えている。

 先日ふと思いついて、自衛隊のラッパはどうなっているだろうとインターネットで探ってみたら、思ったとおり旧軍のものは使用せず、旧軍の分類と同一ではないが、起床、点呼、食事、消灯など十数個が自衛隊用に作曲されている。唯一つ海自の国旗掲揚に旧軍の君が代とほぼ同じもの(国歌とは無関係の曲)が使用されていたが、テンポが速すぎて荘重さが感じられなかった。儀礼用の旧軍の「君が代」吹奏時には直立不動の姿勢で、指揮官は抜刀し、兵は着剣した銃を捧げ持つものだったが、戦死者の葬送にもこの曲は用いられた。

 大戦中、大本営発表というラジオによる唯一の国民向け軍事情報は、虚構を含む大戦果の発表前に先ず勇ましい軍歌を流すのが常だったが、私の記憶では山本聯合艦隊司令長官の戦死を発表する際に、それまでの軍歌に代えて初めて「海行かば」の曲を放送した。大伴家持の歌に信時潔が昭和十二年に作曲した優れた歌曲だが、この荘重な曲を選んだことは適切だと思った。しかし、敗色濃厚となって米軍に拠点の島々を占領され日本軍の全滅(大本営発表は玉砕と称していた)を発表する時も「海行かば」が先ず流された。そして次第に「海行かば」を耳にする度合が増えていったのだが、この曲がラジオから流れると「今度はどこで玉砕か」と皆が暗い気持ちで聞き入ったものだった。

 大本営発表に用いられるまでは、単に歌曲として知っていた「海行かば」は、戦後あまり耳に入らなくなった曲だが、聞けば直ちに「玉砕」を連想し、今でも戦死者を思って一気に暗い気分になる。話題がそれてしまったが、私はラッパの「君が代」を聞くとなぜか同じく戦死者の葬送を連想してしまう。同様に消灯ラッパが、旧陸軍のもイタリア奇想曲の冒頭も深い哀悼の響きに聞こえるのは、私の脳裏に沁みついている大戦の数々の悲劇を、ラッパの音色によって呼び起されるためなのかもしれない。   (終わり)


op.31 裾野の小鳥 森川秀安さん(小諸市) H21/6/27


 私が中学生(旧制)の頃は教練という週二時間、その後強化されて週四時間前後の軍事訓練の必須課目があった。 そして二年生か三年生以降は毎年一回、学年別に初夏から夏にかけて一週間前後、富士の裾野か今は東京のベッドタウン化している千葉県の習志野、下志津の原野にある兵舎に宿泊して、雨天の時は教学または兵器の入念な手入れの時間もあったが、ほとんどは野外を駈けめぐる訓練に明け暮れた。

 中学(五年制)とはいえ学校には小型兵器が支給(貸与)されていて、高学年になると、軽機関銃、歩兵銃、擲弾筒の編成で、実弾こそ射撃場での特別訓練時以外は支給されなかったが、管理は厳重だったものの原野での散開訓練には軽機関銃と歩兵銃の空包は支給された。

 大部分を占める歩兵銃は実戦で使用していた三八式歩兵銃で五発が一聯になっていて、一発撃つ毎に薬莢を抜かなければならないのだが、薬莢は後に陸軍の兵器廠に行って新しい空包と交換するのが必須条件だから紛失は許されない。

 しかし草むらに落ちた薬莢を一瞬見失うこともあるが、前進の合図があれば自分だけ遅れて散開訓練の隊列を乱すわけにはいかない。到達点に待ち構えて双眼鏡で生徒たちの動きを逐一監視している配属将校の中には気合いを入れて鉄拳を飛ばす者もいる。薬莢を失くせば二時間交代の不寝番を罰として一晩中やらなければならないから、草むらに落ちた薬莢の紛失は徹夜か鉄拳の二者択一なのだ。

 配属将校というのは現役の陸軍将校で、ほとんどが若い尉官でまれに年配の佐官が配属されることもあったが、中には血気の若者もいて当時の風潮として軟弱を嫌ったから、校長が認めても配属将校が首を横に振れば卒業できないとまで言われていた。学校は教員として予備役の将校を常時雇っていたが、こちらは職業軍人ではない尉官止まりの将校で現役ほどの経験も迫力も権限もないから、生徒にとって大して怖い存在ではなかった。

 この「廠営」と称していた野外軍事訓練が近づいたある日、普段は訓練を教員の教官に任せていた配属将校が、銃を持って校庭に整列したわが学年を一人一人丹念に見て回った。帽子をあみだに冠っている生徒の庇を掴んで額が隠れるように引き下げたり、服装などを注意したりしていたが、私の前に来ると一瞥したあと、いきなり胸のポケットから手帳を引き抜いた。教練用の携帯手帳ではなく、全く私用の手帳だったが配属将校はぱらぱらめくりながら手帳を見ているのだ。見られてまずいような内容はないと思いながらも一瞬どきっとした。手帳の後半になると見るというより読んでいる感じだったが、こちらが思ったほど長い時間ではなかったのかもしれない。無言で手帳をポケットに押し込んだ配属将校はもう一度私の顔を見てから隣の生徒に歩を運んだ。

 廠営が三、四日後に迫ったころ、寝冷えしたのか下痢気味の日が続いたのだが、登校できる程度の症状なのだから軽々しく欠席届を出す雰囲気ではないのだ。 思い切って配属将校室に行き症状を説明して廠営参加の可否について伺いを立てたら、「そんなことを口実にサボる気か」と一喝されると思いきや、穏やかな口調で「それはお前が判断することだ」と至極当然の答えでボールは投げ返された。多少はサボる下心があったのだが、体調は少しずつ改善して行ったので、結局「自分の判断」で富士の裾野の廠営に参加することにした。

 その年の廠営は雨の日が無かったので、毎日炎天下の野外訓練が続いたのだが、後半に入ったある日、朝食後の小憩を終わって兵舎の前庭に武装して整列した生徒に向かって、いつものように配属将校が本日の訓練予定の概略を伝えたが、最後に「森川、本日お前はここにとどまって留守番をせよ。他校の演習も増えてきたようだ。不審者が我々の建物に立ち入らないよう監視せよ、わかったな」「はい、本日森川は不審者が我々の建物に立ち入らないよう監視いたします」私の復唱が終わると、昨日まで一緒に原野を駆け巡った一団は私独りを残して黙々と出て行った。

 今日も晴天、多分夕刻まで誰も戻って来ないはずだが油断は出来ない。不審者の侵入より、昨日まで馬を駆使して我々を叱咤して演習場を駆け巡っていた配属将校が突然見回りに来ることもありうるのだ。上着を脱いだり脚に巻いたゲートルを外すのも危険だ。兵舎は左右の窓に沿って一同の寝所兼居間があり、中央は通路の土間になっているから靴を脱ぐ口実もない。私は日ごろから寝付きが悪く昼寝も嫌いなので、寝不足ながら寝ようとは思わなかった。ましてや学友が汗水流して今日も銃を担いで炎天下を駆け足に喘いでいるか、草いきれの中を匍匐前進していると思うと横になる気など起こらなかった。

 それにしても、配属将校はなぜ私に留守番を命じたのだろう。いままで留守番役を置いたことはないし、我々の兵舎で留守中に盗難があったわけではない。隣接した兵舎は無いし演習場で他校と行き交ったこともなかった。小柄であまり元気に見えなかったかもしれないが、私はダウンしたわけではないし、不調を訴えたわけでもないのだ。 留守居を命ずるという名目で私に休養の機会を与えたとしか思えないのだが、厳格な対応で知られた配属将校が、私が体調不良を理由に廠営参加の可否を問うたくらいで、こ のような配慮をしてくれるとは想像できなかった。

 誰もいない兵舎であれこれ思いめぐらしていたが、廠営直前の教練の時間に配属将校が私のポケットから手帳を抜き取って無言で読んでいた光景を思い出した。あの手帳の後半にはリルケとヘッセの訳詩が幾つか書き記してあったのだが、あのころの学生の読書の三大作家はトルストイ、ドストエフスキー、ヘッセだった。あるいは彼もヘッセの愛読者だったのかもしれない。ヘッセは敵国人ではなかったが、横文字の詩など歓迎されない戦時下であり、彼は配属将校だからそんなことは話題にするはずもなかった。現に昨日帰営する行軍中にも、彼の指示で我々が声を張り上げて歌ったのは「どこまで続くぬかるみぞ 三日二夜は食もなく 雨降りしぶく鉄兜」という軍歌だった。

 静まり返った兵舎の外へ出てみると、気がつかなかったが周囲の林から小鳥のさえずりが聞こえてくる。新緑の林を通ってくる風も心地よい。兵舎のすぐ前の林に入って立ち止まり、辺りを漫然と眺めていると突然一羽の小鳥が私の目の前に舞い降りた。今思い出してもはっきりしないのだが、小鳥が下りた場所は、私の腰くらいの高さの切り株か岩だった。小鳥は頭と羽が緑、嘴の下から腹にかけて紋黄蝶のような鮮やかな黄色だったが嘴と脚の色は記憶にない。多分地味な色合いだったのだと思う。 緑と黄しか記憶にないこの小鳥は、私が今日まで見た図鑑にはそれらしい鳥を見出すことは出来なかった。小鳥は私を珍しそうに見ているが全く警戒心がない。どうも姿は一人前だが幼鳥のようだった。私はどうせ飛び立つだろうと思いながらも、戦闘帽を脱いで小鳥を捉えようとした。私が戦闘帽をすばやく小鳥に被せたら、なんと小鳥は逃げ出さずに戦闘帽の中にいるではないか、一瞬これは夢ではないかと自分を疑った。だが戦闘帽の中から小鳥をそっと掌で覆うように掴んだが、小鳥はもがいたり、嘴でつついたりしないで私を見ているだけだった。気がつくと近くの梢で親鳥がしきりに鳴いている。親鳥の声には反応するものの、相変わらず掌の中でじっとしている。

 私はこの幼鳥を飼うことについて考え始めたが、つぎの瞬間、自分が富士の裾野にいること、配属将校に兵舎の留守番を命じられていること、明日からは自分もまた炎天下の訓練に出かける現実を思い知った。私が掌をゆっくり開くと、小鳥は親鳥の鳴く梢の方向に飛び立って行った。今思うと、どうせ時間の問題で小鳥を死なせてしまうのだから、親鳥に返して良かったのだが、それにしてもあの裾野の小鳥は何という鳥なのだろうか。  (終わり)


op.30 寅さんは生きている 森川秀安さん(小諸市) H21/3/10


 相変わらずの雑忙と気力に欠ける日々で、気に掛けながらも「風便り」になかなか投稿できずにいたところ、先月下旬の「窓」に寅さん絡みの柴又の写真を見て急に思いつき、掲載記事を探し出して平成8年の旧作ですが無厳さんに掲載をお願いしました。

 これは仕事を通じての友人であり、大伝法第8期の一会でもある、活禅寺に私を導いてくれた故菊池秀岳さん発行の情報紙「商品取引研究」平成8年9月20日号に掲載されたものの再録です。

 この年の8月に「寅さん」役の渥美清が亡くなりました。

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 日本中の人に愛された「寅さん」は、二十七年、四十八作をもって終末を迎えた。

 いつ、どのようなかたちで幕を下ろすのか、いずれは終りが来ると思いながら見ていたが、それは主役を演ずる渥美清という名優の死によって突然訪れた。

 しかも最終作のマドンナは「寅さん」に最も相応しいとの呼声高かった、四度目登場のリリーであったことも劇的だ。  

 「寅さん」には多くの人が何らかの共通点を見出して、一層の親近感を持ったことと思うが、私も寅さんに共感を覚えることが多々ある。私は東京の下町育ちであるが、華やかな下町というより哀感漂う裏町に住み、しかも「寅さん」の同業の露店商人が多く住む「縁日横丁」とも云われていた場所に暮らしていた。

 昭和十年前後、すでにラジオ体操はあったがラジオを所有する家は少なく、毎朝、天気予報の時間になると、縁日商人のミヨちゃんのおっ母さんが小走りに我が家の路地の窓の下で聞き耳を立てていた。

 我が家に近い大通りには七の日に縁日が立ったが、このグループはここには出店していなかった。

 しかし縁日横丁の人たちは雨天でなければ毎日どこかに出掛けて行き(主に夜店)、夜中の一時、二時、時には明け方に荷車のわだちをきしませて帰って来た。

 小さな家が軒を連ねて並んでいた我が家の裏通りは、間借りの世帯もあったので三十世帯を越えていたと思うが、中学(現高校)を出たインテリ?は父と縁日商人の親分だけだった。

 しかし、二代目の三十歳台のこの親分は、仲間を取り仕切る力量に欠けていたので「若隠居」させられて、遣り手の乾分が場所割り等の実務を代行していた。

 今でも人の好さそうな優しい親分の表情をはっきりと思い出す。

 縁日の準備作業などを見る機会が多かった私は、「寅さん」の商売には子供の時から親しみがあった。

 また、柴又は小学校三年生の遠足(昭和十年)で帝釈様へ行ったのが始まりで、中学の時には「寅さん」がよく歩いていた江戸川の土堤下の、当時は一面の葦原だった河川敷を開墾して畑作りに毎月のように通ったので、むかしからよく知っていた処である。

 当時の帝釈様の周辺は畑か野原であったように思うが、遠足の時は、境内で昼食の時に大きな蛇が出てきて大騒ぎになったし、中学の時には、周辺の農家でナスやキュウリを買って帰り母に喜ばれたりした、まあ云うならば東京の田舎であった。

 戦後の都市部人口集中化によって、空地に住宅や商店が満遍なく立ち並び、東京周辺の集落は切れ目なく繋がってしまったが、現在の二十三区内には、柴又のような周りを田圃か畑で囲まれた集落が沢山あった。

 だから戦前の東京下町に住んでいた私から見れば、柴又は下町とは映らないが、「寅さん」によって柴又は、一躍、庶民的下町人間の住む処として全国的に有名となった。

 朝晩の挨拶なしでは一日も過ごせぬ、煩わしくもあるが隣り近所が頼りになる下町は次第に消滅しつつあるが、貧しさの中で肩を寄せ合う暮しが過去のものとなり、経済的豊かさが住宅事情も生活スタイルも変え、プライバシーが優先される時代となったのだから致し方ないことだと思う。

 だから多くの人が「寅さん」に共感と、失なわれ行くものへの哀惜を覚えるのであろう。

 もしかしたら現在の旧東京下町よりも柴又の方が、現実にもむかしの東京下町的であるのかも知れない。

 ところで、「男はつらいよ」シリーズの映画第一作は昭和四十四年(一九六九年)であるが、その二年前に私たちは、卒業後二十八年ぶりに小学校のクラス会を開い た。親友のKと私は共に終戦の年に十八才で父を失い、一家の生計の支えとして戦後の苦難の時代を過ごして来たが、丁度四十才、ようやく生活も安定して、厳しかった時代を笑顔で話し合えるようになった頃、話が小学校の恩師と級友たちに及んで、にわかに懐旧の情が湧き、クラス会を始めようということになった。

 東京大空襲で壊滅した町であったから、そこに再び住んでいる同級生は唯一人、他は生死さえ判らない状況だった。

 「寅さん」と関係ない話だから詳細は省略するが、あたかも刑事が犯人を追う如く、親友と二人で級友探しに熱中し、ようやく恩師と八名の旧友を数ヶ月かけて探し出した。

 それから十七年後(卒業後、実に四十五年ぶり)に現在の最後の級友を探し出すまでに、一人、二人と合計十六名の級友の所在が判った。

 恩師と八名で第一回のクラス会を開いてから今年春のクラス会まで二十九年、四十五回を数える。

 この間に他界した者は親友のKを含めて三名、恩師は高齢のため教年前から欠席している。

 この春のクラス会の時、万年幹事である私は、第五十回をもってクラス会を終了することを提案した。主な理由は、高齢化が進んで来たが、クラス会は葬式参列や病気見舞いのためにあるわけではないということである。

 私は幹事として、「クラス会に行ったが未だ帰って来ない」などと家族に責められても困ると言ったが、そういう私自身がいちばん早くボケるかも知れないのである。

 第五十回の時に、延長可能かどうか検討するという条件で、私の提案は受け入れられた。

そしたら今月また一人の級友が亡くなった。

 その知らせを電話でしたが、三名の級友は病床にあった。

 最近は年二回開いているから、第五十回は平成十年の秋ということになるが、それがクラス会の限度であるように思う。

 「寅さん」は、平成八年、第四十八作をもって終了した。

 わがクラス会は、平成八年春で第四十五回、ことによると第五十回を数えずに終るということもあり得る。

 因みに、渥美清の誕生日の三月十日は私の誕生日でもあるが、私は彼よりも一歳年長である。

 私は「寅さんファンクラブ」の会員だが、三万五千人が集まったという「お別れ会」には行かずに、独りひっそりと彼の死を悼んだ。

 テレビや新聞、雑誌に、「寅さん逝く」という記事や、「寅さんが死んだ」、「二度と会えない寅さん」などの発言があるが、死んだのは渥美清であって「寅さん」ではない。

 渥美清によって演ぜられた「寅さん」を目にすることはもう出来ないが、「寅さん」は風の吹くまま気の向くまま、どこかで生きている。

 彼は、庶民的人情が色濃く残る縁日や村祭、日本的素朴さの美しい風景がある限り、その中にいつまでも旅を続けていることであろう。 (八月二十三日記)


op.29 ノスタルジアを読んで 高木妙親さん(所沢市) H20/9/10


 しばらく前に「少年時代」という映画を面白く見ましたが、私たちの年代は、ランニングシャツに半ズボンの男の子達が登場してくる最後の世代、末席あたりなのでしょうか。 楽しく遊びまくってるなあ...というのが、第一印象で、郷愁も伝わってくる良い文章ですね。幼い頃は、私も生き物相手に、良く遊び、結構思い出があります。まねをして、少し書いてみます。

 裾花川という川によく遊びに行っていました。そのころはフナだのハヤだのが結構いたので、それを浅瀬に追い込んで、石を積んで囲いを作り捕まえようとするのですが結局逃げられてしまい、捕まえることはできないにもかかわらず、飽きずによくやっていたものです。メダカは楽勝で、二人でハンカチを拡げているとその上に流れ泳いで来て、たくさん捕まるので、家に持ち帰って水槽に入れるのですが、翌朝見ると一匹残らず白いお腹を上にして浮かんでいたのでした。

 裾花川の裏手には水道山という山があって、夏の早朝、クワガタとかカブトムシを捕りに行きました。(でもいつも捕れるとはかぎらず、緑や赤のかなぶんとかが圧倒的に多いのですが)木をゆすったり蹴飛ばしたりするとパタパタっと落ちて、それを見つけた子の物になるので、われ先にと探すのですが、大きな獲物は結局力の強い男の子の物となり、こくわがたとかメスが自分の物になるのですが、これがまた可愛らしく、家の中で放して遊ばせたり、ちょっと目を離したすきにどこかに行ってしまって、部屋の隅っこで見つかった時の嬉しさだとか、小さなお皿にサトウ水を作ってあげると、赤い舌(?)を伸ばして飲むのを見ているのもまた楽しく、夏の間、二三ヶ月ぐらいは長生きしてくれて、共に楽しんでいたのでした。

 家では犬とか猫が飼えなかったので、近所の空き家で迷い込んだ犬を飼っていました。四人位で毎日学校帰りに通っては、給食とかパンを残してあげたりしていましたが、そのうち子供が生まれて抱いたりすると、ウンチとかを一斉にしだすので、大騒ぎであわててダンボールに戻すと、母犬は大量の排泄物を全部なめて綺麗にしてしまうので、犬のお母さんは、えらいなあと...。

 昭和四十年位は野良犬が市民権を得ていた最後の頃で、毛が豚に似ているのでブーコと名ずけて可愛がっていた白い雑種もいて、何年か近所に住み着いた後、よその軒下で子供を生んだ結果、保険所行きとなり、子供ながらどうすることもできなかったのですが、二三日後保健所から逃げ、子の元へ走って戻ってきたのです。たまたまそこに居合わせたのでしたが、目が合い、何も知らない母犬の勇姿、今でも目にやきついているのです。

 野鳥には縁がありませんでしたが、つがいで十姉妹を飼い、卵を産んだのでヒナがかえるのを楽しみにしていましたが、待てど暮らせどヒナはかえらず、飼育本には無精卵というのがあり、日にかざしても中身が見えないと書かれており、かざしてみると確かにそうで、あきらめて割ってみると中は空っぽ、二三度繰り返してもやっぱり同じで、友達の家のは孵ったという話などを聞くと残念でした。次に飼ったセキセイインコは言葉を覚え、「ピッツ、ピッツ、ピーコチャン!本日は晴天…… 晴天さ… 晴天なり」とウォーミングアップよろしく「本日は晴天なり、本日は晴天なり、ぴーこちゃん!」と絶好調、口ばしと足を使って、ガチャガチャと鳥籠づたいに運動をすませると、止まり棒の上で、しばしまどろむぴーこちゃんなのでした。(次回に続く)

op.28 小諸なる古城のほとり 森川秀安さん(東京都) H20/1/21


 島崎藤村の標題の詩は中学の国語教科書にもあったと思うが、その後読んだこともあるこの好きな詩は今でも全文暗誦することが出来る。

 しかしその小諸に住むことになろうとは思ってもみなかったが、今年の夏にはそこに転居することになっている。

 小学生から中学時代までは深川、卒業して軍需工場に勤めて一年で東京大空襲に遭い東京を追われ、房州(千葉県南部)の伯父の家に厄介になって近隣の軍需工場に通って半年で終戦、一年ばかり釣り三昧のある日、家に幾ら金が残っていると思っているのかと母親にどやされて就職のため上京し、初めは高円寺の伯母の家に寄宿、やがて幼い妹を連れて六畳一間に同居の母と一年後に近所に借家、五年後には阿佐ヶ谷の借家に転居、さらに三年後に練馬区の大泉にようやく念願の建売住宅を得た。

 昭和六年、一家が大阪から上京して深川に住む前に半年ほど江戸川区の平井に居たから、平井、深川、高円寺、阿佐ヶ谷、大泉と東京の東から西へ、あるいは北西へと移動したのだが、大泉にたどり着いた時に、区部でいうならまさに「都の西北」のどん詰まりだから、これで我が家の民族大移動も終わりだねと冗談交じりに家族と話し合ったのだが、それは持ち家を得た安堵の思いでもあった。駅から徒歩十分足らずの処だったが、当初は縁側に座したままで畑の向こうに富士山が見え、春先にはうるさいほどひばりが囀る田園地帯で、夏には向かいの農家の納屋から夜な夜なふくろうの声が聞こえてきた。

 ここに四十年以上住んだ晩年には、富士山も建物にさえぎられて二階のベランダから身を乗り出しても見えず、ふくろうは無論、初夏の楽しみだったカッコウの啼く音も絶えて久しく、子供たちがクワガタ採りに夢中になっていた向かいの農家の屋敷森も伐採されて、あとにはアパート群が立ち並んだ。

 都市化が進んで郊外の良さが失われてゆくのは何も我が家の周辺に限った現象ではないが、庭仕事が好きだったにもかかわらず、生垣越しに庭に投げ込まれた自動販売機の空き缶、風に飛ばされて庭の草木にまつわりつくコンビニの空き袋の回収、自分の家のペットでない犬猫の糞の始末などに時間を取られ、庭を楽しむ余裕など皆無に等しい状態になってしまった。

 一時は「終の棲家」になるかと思ったこともある大泉だが、庭を楽しめなくなったのが最大の要因でマンション暮らしをすることを決断した。

 転居に当たって制約となったのが大型犬の存在だった。ペットに寛大となった昨今でも大型犬許容のマンションは限られているが、八年前に我々が探した時にも適当なところがなく、ようやく足立区内に大型犬をも想定した設計のマンションを見つけたが、部屋が狭いので転居には二戸を必要とした。

 犬は一頭なのでこれを機会に犬、妻とは別居し、自分に都合のよい物件を他に求めることとして現住の処を選んだのだが、偶然、それは少年時代を過ごした深川を含む江東区だった。江東はやはり終焉の地になるのかと時おり思ったりもしたのだが、七年経った昨年秋からそうでない方向に事が進んでいる。

 大泉時代の晩年、田舎暮らしを提案した時に断固反対し、強行するなら着いて行かないと言っていた妻が、昨年息子一家がそれまでの浅間北麓の嬬恋村(群馬県)から南麓の小諸市(長野県)に居を移したのを機に、環境が悪くなった現在のマンションから自分も信州に転居したいと言い出し、老犬も最後は空気のよいところで死なせたいと強調するのだ。

 口には出さないが、我々の唯一の孫、二歳の女児のそばで暮らしたいのが本音のようだが、自分の住まいを売却した金で息子の隣の土地に我々向きの平屋を建てるというのだから反対はできない。

 それに私も年金以外の収入が無いので、東京で二世帯を維持するのは困難な状況にあるから、早晩妻とは合流せざるを得ないのだ。

 かくして東京のはるか北西の小諸に本年五月末に転居することになったわけだが、ここが私の「終の棲家」になるかどうかは皆目判らない。

 いずれにしても、最後は西方浄土に達したいと願っている。

op.27 うなぎ その4  森川秀安さん(東京都) H18/11/2


 ノウゼンさん、拙文をお読み頂き有難うございました。私の少年時代の遠出の遊び場は荒川河口の葛西の、今はマンションが林立する整備された都会ですが、水路が縦横に走る田園地帯で、そこで小魚釣りや、狭い場所の水を掻き出してうなぎや鮒を一網打尽に生け捕る「掻い掘り」など、遊びに夢中のあまり徒歩一時間以上の帰り道は暗くなることもあって、よく母親に叱られたものでした。だから少年時代は「うなぎ追いしかの川、小鮒釣りしかの川」で山は全くないのです。

 いままた少年時代に読んだうなぎの話を思い出しました。戦国大名の蒲生氏郷だったと記憶しているのですが、魚を獲るのが大好きな殿様がいたそうです。殿様でなければ出来ないことですが、日時を定めて川沿いの領民を駆り出して一斉に川に毒物を投げ入れさせて、魚が浮き上がったところを掬い取るのです。だから大河ではなく流れの速い所でもないと思います。獲物は人が食べるのですから人に有害な毒物ではなく、魚が一瞬浮き上がる程度の、唐辛子粉などを大量に投棄させたのです。

 明日その魚獲りが行われるという前夜に、土地の有力者の家に墨染めの衣をまとった旅の僧が訪ねてきて、川の魚を皆殺しにするような無益な殺生を止めさせるようにできないかと懇願したのですが、家の主人は殿様の命令だから如何ともし難いと鄭重に断り、折角お出でになったのだからと粟飯を馳走して退散願ったそうです。

 翌日予定どおり一斉魚獲りが行われたのですが、その中に川の主かと思われる一際大きなうなぎがいたそうです。食べるために腹を割いたら粟飯が出てきたので、昨夜の墨染めの僧はこのうなぎの化身だったのかと人々は語り合ったということです。

 殿様は急病で亡くなったとのことですが、今回、蒲生氏郷を調べてみたら40歳で病死したとあるが、毒殺説もあるとのことでした。

 今日はうなぎに縁のある日で、さきほど賀状交換だけで2、3年会っていない愉快な知人から電話があり、中曽根元首相や本田宗一郎さんも好んだ、すごく旨いうなぎ屋を見つけたから案内したいとのことで、来週出掛ける事にしています。

op.26 秀安さんの大うなぎ読ませていただきました ノウゼンさん(浜松市) H18/11/1


 大うなぎの話で思い出したのですが、こちらは昔から養鰻池があちこちに見られました。数年に1回だとは思うのですが池がえといって、鰻を全部出して池をきれいにするらしいのです。そういったときは大勢の人が手伝いにやってきます。すると最後に泥の中にすくんでいた大きい鰻も出てきて捕まえるんです。これは普通の蒲焼では硬くて美味しくないとのこと。そんな鰻を短冊に切ってしょうゆや砂糖お酒で甘辛く煮て炊きたてのご飯に混ぜてお昼に振舞ったのだそうです。現在では婦人部の皆さんが現代版にアレンジして、ごぼうの笹がきを入れ、盛り付けたら青じそのせん切りを散らしさらに美味しく食べられるように紹介されています。こんな食べちゃうお話ですみません。 昔養鰻池だったという田んぼを見ながら、曾じいちゃんもやっていたのかななどと思ったりしました。秀安さんにまたお会いできるのを楽しみにしています。

op.25 うなぎ その3  森川秀安さん(東京都) H18/10/17


 風便りop.2 うなぎ その1(H18-2-27)で樺島の大ウナギのことを書き、 長崎市の観光案内に触れられていないので、大ウナギがもう棲息していないとか、井戸がなくなったとかいう理由でないことを望むと書きましたが、今日たまたまネットの地方新聞のニュースで近況を知りました。

 8代目の「うな太郎(楼)」の年1回の測定が今月13日にあり、身長は昨年比1 3センチ増の181センチ、体重は0.9キロ増の16.6キロということでしたが、彼は7代目亡き後、1986年に鹿児島県の養殖場から取り寄せたものだという ことです。

 写真を見ると、井戸には2枚の金網の蓋があって、もう人は利用していな いようでした。それに近所に世話人がいて、毎日餌を与えているとのことですから、 成長も早いのかもしれないし初めから或る程度大きかったのかもしれません。

 工事の関係で、稚魚が入る水脈が断たれたらしく、もう自然にウナギが井戸に入っ てくる状態でないので養殖場のウナギを放流したとのことですから、もう子分のウナギもいないのだと思います。

 1923年に国の天然記念物に指定されていて、今でも 観光客が大勢やってくるとのことですが、1986年以降は天然記念物と言えるのか疑問です。そう思うと、最後の親分、7代目の大ウナギに会えたのは本当に幸せでした。

op.24 托鉢 森川秀安さん(東京都) H18/9/2


 私が少年時代を過ごした東京深川の裏通りは、門のある家はなくて玄関が直接4メートル巾の公道に面していて、反対側の勝手口は2メートル巾の路地にあった。木場が近かったので建具屋や木箱造りなど木工の自家営業の家はほとんど3間(5.4メートル)間口だったが、それ以外の普通の家は2間(3.6メートル)間口で、建物と建物の間は猫も通り抜け出来ないほど隙間がなく、トタン屋根の木造二階建ての家がひしめいていた。 4メートル巾の公道は、それぞれ6メートル道路にT字路で結ばれていて、この間8.90メートルに2メートル巾の路地もあったが、片側15、6戸の家が並んでいた。つまりこの4メートル道路に向き合って30戸くらいの家があり、露店商人、建具屋など自営以外の住人は、川並(貯木場の筏師)、製材所や鉄工場に通う工員、倉庫の荷揚げ人足、日雇いなどで、サラリーマンは我が家のほかには居なかった。

 この裏通りに朝から晩まで、おでん屋、団子屋、べっこう飴屋、ぎゅうてん屋(お好み焼き)、カルメ焼き屋、おしんこ細工屋など子供目当ての小商売が屋台を引いてやってきたが、毎日来るのと日を置いて来るのがあった。紙芝居も毎日3人来たし、通りには駄菓子屋もあったから、一銭単位であっても、子供一人につき日に10銭では足りなかった。もちろん子供の言いなりになるような懐具合の所帯などなかったから、1日せいぜい2、3銭を子供が自分の好みで食べ物を選択するのだった。

 私の母は買い食いを認めず、3時になるとおやつを子供たちに配ったが、食べながら戸外に出ることを許さなかったので、転居間もないころは「森川さんの家の子供たちは可哀そう、なにか食べているのを見たことがない」と近所で評判になっていると隣のおばさんが教えてくれたと母が言ったことがあった。

 この裏通りには毎日、乞食も幾人かやってきた。一口に乞食といっても、なにもしないでただ銭や食べ物をねだる男、どこにでもあるような商品を売りつける赤ん坊を背負った女、虚無僧、山伏、僧形の托鉢、仏像を納めた厨子を背負った男(喜捨すると、くるりと背を向けて厨子の仏像を拝ませてくれる)など、日を置いて定期的に来るものから二度と来ない者までさまざまだった。

 住人はみんな貧乏暮らしだったが、信仰心の厚い、痛みの解る人達が多かったので求めに応ずるのは日常茶飯のことだった。といっても1日に何人も来るのをいちいち付き合ってはいられないから、身内の命日とか、お不動様の縁日とか、なにかゆかりの日に供養する人が多いようだった。供養といってもただの乞食に恵むのと同様に物ではなくゼニで、普通は1銭だった。

 一口に物乞いといっても、このなかには真摯な托鉢の僧、修験者も居たと思うが、多くは乞食を生業にしている者のようだった。喜捨を受けるにはそれなりの出で立ちのほうが効率がよいので、自前で、あるいは乞食の親分の支給で僧形をしているのが多いから真贋を見分けるのは困難だ。

 虚無僧は尺八の音色で数軒先から判るが、托鉢僧は玄関前で鈴か鉦を鳴らして到来を知らせた。そして読経を始めるのだが、喜捨をしない場合はすぐに「お通りください」と言わなければ、喜捨をするというのが暗黙のルールだった。

 大方の家には子供が居るから、子供が在宅の時は「お通りください」と告げるのは子供の役目だった。その声を聞くと虚無僧は吹くのを止め、托鉢は読経を止めて隣の家に移動するのだった。数は少なかったが単なる乞食にも、恵まない時は「お通りください」と言った。

 初めに記したように、2間(3・6メートル)間口の家が多く、数歩で隣家の玄関前だから、断られても1分も経たないで次の仕事が出来るのだ。しかも夏は玄関が開いていてすだれ越し、子供が出たり入ったりするから夏でなくても陽気のよいときは開けっ放しの家が多い。3間間口の家は玄関などなくて、通りに面した板の間を仕事場にしているから、年中開放されているし人が必ず居る。

 それ以外の家は、亭主が仕事に出たあとおかみさん連中はたいてい内職しているから留守の家は滅多にないし、留守はたたずまいで解るから素通りして、次の家の前に立って尺八を吹くなり鈴を振るなりすれば、人影が見えなくても用件は家人に通じるのだ。

 通りの左右、約30軒の中1軒の喜捨であっても30分ほどで1銭、たまには5銭、10銭の白銅貨ということもあるし、1日中歩いてもこんな裏通りが続いているのだから極めて効率がよいのだ。

 しかし、二・二六事件(1936年)、翌年に始まった日中戦争開始ころからの思想統制や軍国主義の飛躍的強化によって乞食や托鉢も規制されたのか、何時の間にかすべて姿を見せなくなってしまった。

 そして空爆による下町の消失、敗戦後しばらく続いた庶民の乞食以下の生活、復興後の住宅構造の変化、世相の激変によって裏町の戸ごとの物乞いも托鉢もついに復活することはなかった。

op.23 朝の雨  柳沢ひろえさん(長野県大町市) H18/6/16


 風の音 「朝の雨」 の写真を見させてもらったら、坂村真民さんの詩で、「二度とない人生だから 一輪の花にも 無限の愛を そそいでゆこう  一羽の鳥の声にも 無心の耳を かたむけてゆこう 二度とない人生だから 露草の露にもめぐりあいの不思議を思い 足をとどめて みつめてゆこう」 (坂村真民 『二度とない人生だから』 からの抜枠) を思い出して癒されました。 いつもいい写真ですね。

op.22 愛の賛歌  柳沢ひろえさん(長野県大町市) H18/5/15


 今日は三輪明広の、愛の賛歌を観てきました。三部構成で三時間の予定が、四時間程に延びましたが、とても感動して、いい涙を流してきました。不思議と三輪さんがかわいい女の人に見えたり、きれいだったり、プロって凄いと思いました。一番前で観にくかったですが、感動でした。それと、昨日の夕方に、母と甥が親子シカを見たと言っていて、今日の帰り、光ものがみえて、良くみたらシカでした。でかいです。それから昨日橋本さんが、知り合いの所で山羊産まれたけどいらない?草食べるしいいよ~って言われました。少しぐらっときたけど、母に、牛で苦労したからいらないと言われ、あえなく却下されましたが、 田舎だからできる話ですね。

op.21 自家用人力車 森川秀安さん(東京都) H18/3/24


 私が少年時代を過ごした下町の内科の開業医は往診用に人力車を持っていた。いつ頃まであったか覚えがないが、昭和十年前後、その医院の玄関脇に人力車置き場があって車夫が所在なげに待機しているのを通りがかりに見かけたことが何度かあった。車夫が居ないこともあったから、車引き以外にも仕事が有ったのかもしれない。

 当時は円タクという四、五人で乗れば場所によっては交渉次第で市電並みの料金で行けるタクシーもあったが、自家用車は余程のお金持ちでなければ持っていなかった。

 私の住んでいた裏通りなど一年に一、二度しか自動車は入って来なかったし、来れば子供がもの珍しげに集まって来た。テレビで見る発展途上国で取材の車に群がる子供たちとそっくりの情景だった。

 わが街の開業医が往診に行くには普通徒歩で、自転車はあまり見かけなかったが、医院は何処にでもあったから、患者もほとんど徒歩圏にあった。外科、耳鼻咽喉科などは別にして、だいたい医者には診せずに売薬で済ませるのがほとんどだったように思うし、内科だって付き添いと一緒に行くことはあっても、高い往診代が負担だから患者が医院に行くのが普通だった。

 経済的に滅多に往診など頼めないのだから、医者が診に来るということは病人がかなりの重病だという場合がほとんどだった。だから○○先生の人力車が家の前に停まっているということは、二、三日したらその家からお葬式が出る前触れだった。