練習船日記

東京→ホノルル

1月10日 東京晴海H-K岸壁

 5日に正月休暇を終え帰船、諸々の準備(免税品等の積み込み等)をして今日は出航の日。期待と不安の入り混じる複雑な気持ちでこの日を迎える。
 昼に中学時代からの友人が見送りにやって来た。僕に直接関係のある見送りは1人だけだったが、それだけで充分だ。これ以上来たら出航が辛くなる。
 1350すべての繋留索を放す。そして登檣礼、遠洋航海出航とあって実習生は皆緊張の色が隠せないようだった。フォア・マストに翻る星条旗と出港旗、岸壁からの声援、それらのすべてが僕を感傷に浸らせようとする。ふと日の出桟橋のほうに目をやると、そこでは僚船「海王丸」も同様に出航しつつあった。
 付近の船舶は皆「UW旗」(「良い航海を」と言う挨拶)を掲げて僕らの出航を祝ってくれていた。

さあ、ホノルルへ!!

1月11日 34-28N, 144-35E

 昨日の出航以来約1日の間機走を続け、本日1315、総帆を開く。北の風、風力2と比較的穏やかな天気だったのだが、いざセイルをセットしようという時になって突然「あられ」が降り始め、冬季遠洋航海である事を改めて思い知らされた。この先いったいどのような航海になる事やら…
 この「あられ」もすぐに止んで、今度は僕等の前途を祝福するかのような美しい虹が現れた。この虹だけが見守る中で帆綱をひき、僕等は白い翼をゆっくりとひろげた。
 僕は写真班の代表としてこの日の展帆作業の撮影を行っていた。

1月12日 33-39N, 148-02E

 日曜日、毎週日曜日は「ワッチ・シフト」の日。実習生に全部の当直時間を体験させる為に本来不動の当直時間帯を意図的に変更するのである。
 具体的には、2ヶ部でしている当直を1ヶ部入直にして08-Noon直、Noon-16直にしてやる。するとこの2ヶ部の次の2ヶ部は今まで0-4直だったのが4-8直となる訳だ。
 僕の所属する5部は8-0直となる。

0 04 08 12 16 20 24 04
通常当直時 A, B C, D E, F A, B C, D E, F A, B C, D
ワッチ・シフト時 A, B C, D E F A, B C, D E, F A, B

1月13日 33-31N, 152-46E

 出航以来軽度の船酔いが続き、食欲もあまり無い。初めて天測を行うが、まともな点はもらえなかった。天測とは太陽や星の高さを六分儀で測り、その時の推測船位と正確な時刻(世界時)から計算で船位を決定する方法で、原始的であるが最も信頼できる船位決定法である。航海者となるにはまずこれを覚えなくてはならない。これにはスピード、精度、回数にそれぞれノルマが課せられていて、これをこなさないと下船できないという噂もある。果たして下船できるのか不安になってしまう今日の天測だった。

1月14日 33-31N, 155-26E

 日本を出航してから初めてラジオのスイッチを入れると、「ラジオ短波」(日本唯一の民間短波放送)が入ってきた。大洋航海中はFMはむろんのこと中波も夜間を除いて入感しなくなるので「ラジオ短波」や「ラジオ・ジャパン」(NHKの海外向け短波放送)等の短波放送だけが個人的な情報源となる。ICF-2001(ソニーの短波ラジオ)よ頑張ってくれ。

1月15日 33-10N, 160-11E

 午後の課業整列の際、成人式が行われた。今航海の実習生のうち68名が北太平洋上でこの日を迎える。(無論僕もその一人である。)各校代表の手に「成人の証」がキャプテンから渡される。
 20-M.N.直ではシャワー(一過性の強い雨)を三度も浴びる。これは本船の北側にある978ミリバールの低気圧の影響らしい。最後のシャワーのときなど、瞬間最大16.5ノット(一説によると17ノットを超えたとか)の速力を記録した。どうやらキャプテンはこの低気圧を追いかけて距離を稼ぐつもりらしい。ローリング(横揺れ)こそ激しいものの、僕の嫌いなピッチング(縦揺れ)は皆無に等しいので身体はすこぶる快調である。

1月16日 34-20N, 165-59E

 天候も段々落ち着き始め、課業でセイルを作り始める。一口にセイルを作るといっても、横帆で一番小さいロイヤル・セイルでも35畳分、コースに到っては112畳分、総面積で800坪分もあるのだ。いかに大仕事か想像がつくだろう。日本丸建造当時には、2組のセイルがありそれぞれA帆、B帆と呼ばれている。C帆と呼ばれる3組目を最初の実習生(1年前)から作っているのだ。

1月17日 34-23N, 171-01E

 金曜日、この日は大掃除の日。毎日当番で掃除をしてはいるものの、人数が少ないので細かい所まで行き届かない。毎日当直に天測に追われて部屋や個人のボンク(寝棚: ベット)の片付けなんかできやしない。そこで毎週1回こうして最低限の当直員を残して総出で大掃除をするのだ。

1月18日 34-19N, 173-42E

 08-Noon直では無風につかまって漂うにまかせていたが、「引継ぎをしたら僕等の当直はもう終わり」という時になって風が吹き始める。それも今のヤードの状態では走れない方向から。
 なんてこったい! 最後のおつとめ「ブレース引き」。
 20-M.N.直、再び低気圧に接近する。20時頃と23時頃の2度に渡ってウェアリング(帆船の操船法の1つ、風を受ける舷を変える)を行い、又ブレースを引く。メン・スルのシートを張り込もうとしていたら、ストッパーが効かなかったかどうかして列の先頭数人が飛ばされそうになる。荒天とはかくなるものであった。

1月19日 34-53N, 175-38E

 最新の地上天気図によると、昨日からつかまっている低気圧は中心気圧956ミリバールという凄い低気圧(台風並だ)らしい。もっとも、気象庁の作成する天気図は気象衛星からの写真と僕等洋上の船舶から通報される気象電報のデータを基に理論で作り出すのであって本当に観測した結果ではない。特に海上は船舶からしか情報はないので、陸上程の精度は得難い。もしかしたら、この低気圧に関しては日本丸からの情報のみで作っているのかもしれない。
 話を元に戻そう。本船で観測した最低気圧は966ミリバールである。昼前にこれを観測してからは上昇を続けているが、Noon-16直中に最大速力18.2ノット(本船の最高記録である。)を記録、傾斜角も片舷40度以上(船に取り付けられているクリノメータが振り切れてもう判らない)という驚異的なものだった。船楼甲板は波に洗われ、ウォーターウェイは海水をすくい続ける中で僕等は当直をした。ハンドレールやライフラインに安全ベルトを掛け、瞬間最大風速76ノット(風力12)という風にも耐えて。僕等は決してこの嵐を忘れないだろう。
 このような荒天の最中のワッチ・シフトは危険なため、延期。又、この日の夕食は激しい動揺のためにまともな料理ができず、ハムのスライスや野菜のきざんだ物を立ち食いする…といった具合だった。
 さしもの荒天も夜になっておさまり始め、20-M.N.直ではたまにシャワーが来る程度となった。このシャワーが通り過ぎた後、月の明かりによる虹がでた。白っぽいアーチがミズン・ロワー・ヤードの両方のヤーダム(ヤードの先端)から海面へ伸びている。まるで白い虹のゲートに向かって進んでいるような感じ。まさに幻想的という言葉がぴったりの一時だった。

1月20日 32-35N, 179-31W

 08時38分27秒、待望の日付変更線を北緯32度43分で通過。通過を祝してロング・ブラスト(汽笛を長く鳴らすこと)を1発鳴らす。夕食にはお祝いの缶ビールが一人に1缶づつ配られる。
 昨日延期したワッチ・シフトを行い、0-4直となる。この当直は睡眠が分割(~2330と、0430~に)されるので、生活が不規則になると思われる。

1月20日R 32-25N, 175-15W

 昨日のデート・ライン通過に伴い、本日も20日である。
 Noon-16直で僕はサブ・ワッチになり、インナー・ジブ・セットの号令を掛ける。デート・ラインを通過して以来、天気も良く穏やかな航海である。

1月21日 32-50N, 172-53W

 M.N.-04直で月明による星測(天測)を行ったが、まともに船位が出なかった。
 夕方、中国船籍と思われる船を視認。東京を出航してから12日ぶりに見る船とあって、実習生は一目見ようとしていたが、これがとんでもない船だった! 後で聞いた話だが、レーダーに付いているARPA(自動衝突予防装置)が、この船と本船の衝突を予告していた。士官も慌ててVHFで相手船を呼び出したら、なんと相手は操舵をオートパイロットに任せてブリッジには誰もいなかったのだ! こっちは風まかせの帆船だからそう簡単には変針できず、間一髪だったそうだ。いかに大洋航海中と言えど、見張りの責任は重大である事を学んだ。

1月22日 33-14N, 169-54W

 平穏な1日だった。
 午前観測(昼前の太陽の天測)の時にクロノ・メーター(時計: 世界標準時に合わせてある)を5分読み間違えられて、天測計算が目茶苦茶になったぐらいかな。

1月23日 30-59N, 166-45W

 風力1程度の凪につかまり、4時間で7マイル位しか走らなかった。帆船の時代には時化には2種類あった。1つは普通の嵐、そしてもう1つは凪なのだ! なぜかはすぐにおわかりだろう。帆船は、風が吹かなかったら走れない。走れなければ、港に着かない。港に着かなければ食糧、水等が補給出来ない。補給出来なければ死ぬだけさ。とまあ「風が吹けば…」みたいな理屈だが、これは本当に死活問題だよね。そんなときは、普段は御法度の口笛(嵐を呼ぶと言われる)を風の吹いてきて欲しい方向に向かって皆でふくのだ!
 一方僕等はと言うと予定より早い位なのでのんびりと構えているし、最近は晴天続きなのでデッキの上でゴロゴロと寝ていられるという至極快適な生活をしている。

1月24日 30-03N, 165-42W

 正午の位置でハワイまでの残航が1000マイルを切った。本船も針路を変え、南下を開始する。
 遠航2回目の大掃除、ハワイも近付いたことだし船をピカピカに磨きあげよう。

1月25日 29-12N, 163-28W

 今までは天候の都合でやらなかったのだが、毎週土曜日は運動日課である。今日はJ3/Oの指導だった。狭い船内のため日頃運動不足になっていて、全身ガタガタになってしまった。
 日本は厳しい寒波に見舞われていると「ラジオジャパン」が告げていた。日本の皆は元気でいるだろうか?

1月26日 26-59N, 160-25W

 ワッチ・シフト、4-8直となる。16-20直に入る当直交代の前、船尾から流していた釣り針に信天翁(あほう鳥、アルバトロス)がかかった。キャプテンの指示でこいつをデッキに上げてやると、4ヶ部の実習生と2組の当直士官、乗組員約60名の前でピタピタ、ドタドタ歩き回る、羽をバタバタさせたが飛べず、最後にグェ~ッと一声鳴いて左舷から飛び降りてやっと飛ぶことができた。信天翁は海で死んだセーラーの生まれ変わりであると信じられていて、これを釣り上げてデッキの上を歩かせてやるのはよい供養になるのだそうだ。

1月27日 26-05N, 159-30W

 正午の気温がついに20℃を越え、午後課業整列時に夏服宣言がなされた。以後Tシャツでの当直や課業が許可される。
 米軍のA-7コルセアII艦上攻撃機が1機、本船の後方から爆音と共に飛来する。日本丸を見るためか、機体をロールして右舷を通過する。さすが航空機! 微風をつかまえようと努力してもなお進まない本船の(昨日正午から今日の正午までの平均対地速力は3.26ノット)視界をあっという間に通過してしまうんだから。

1月28日 23-39N, 157-56W

 毎週火曜日は操練(消火活動、救命艇の降下・退船等が迅速に行えるようにするための訓練)の日。これまでもそうだったのだが、海面状態が良くなかったり、微風をやっとつかまえて順調に走っているのを止めてしまうと二度とこのスピードまで出せない懸念があって実技はやめていた。今日は前者の方で中止、第1教室で「救命艇内での生存の技術」のビデオを観た。
 僕のラジオで中波帯をスキャンしたら、多くの英語放送が受信できた。ただハワイ諸島のどの島からのものかは確認できなかった。

1月29日 21-44N, 157-31W

 0545レーダーによりオアフ島のコーラウ山脈を観測。続いて夜明けと共にランドフォール(陸地初認)。雲に紛れていたため、自分の目でオアフ島を見たのは7時を過ぎてからだった。[この時は僕等が当直だった。]
 0730船内放送で「右舷2ポイント、45マイルにオアフ島が見える。」と当直士官が言うと、実習生がドッと上がってきて来た。日本を出航して20日目で、しかも全帆走と言うのはかなりの記録らしい。

1月30日 21-07N, 157-40W: ダイヤモンド・ヘッド沖

 くじらを見かける。ここら辺はペンギンバンクという所で、有数の鯨の生息地だそうだ。実習生は手に手にカメラを持ってなんとか写真を撮ろうと四苦八苦していた。無論僕もその1人である。
 望遠レンズまで持ち出して撮れた写真ははっきりしない潮吹きと尻尾だけだった。
 今日の時刻改正(船内時計の正午と太陽が正中する時刻をだいたい同じにするために1日1回時計を操作する。東へ走る時は時計を進め、西に走る時は時計を遅らせる。その日の走り方によって操作量は異なる。)で船内時はホノルル標準時(日本標準時-19時間)となる。

1月31日 20-47N, 157-32W

 オアフ島の沖に達したものの、入港できるのは2月7日なので、島の風下側で漂流を始める。これは帆船独特のヒーブ・トゥーという操船法によるものである。
 C/Oより清水の使用制限を解除する旨の連絡があった。大洋航海中は週に2回の海水風呂、洗濯は洗濯板を使っての手洗い等の厳しい清水の制限があったのだが、明日からは内航中と同じように週3回の清水風呂、洗濯機の使用が許可されるわけだ。

2月1日 20-46N, 157-37W

 '86日本丸遠航記念トロピカル杯争奪大運動会が行われる。
 僕等の5・6部合同チームは総合3位、実習生中1位という優秀な(?)成績を収めた。僕は「青春のステージ」という障害物競争に参加したが、ボットム(底、転じてドベ)だった。

2月2日 21-03N, 158-02W

 今日は名実共に日曜日。当直も無いし、課業もない。ポカポカと暖かい太陽の下でのんびりとデッキに寝そべって過ごした。

2月3日 20-49N, 158-16W

 操練日、1、3、5号艇を降下する。僕は5号艇に乗っている。
 この日乗艇する実習生はカメラの携帯が許可される。一生に一度の、フルセールで帆走している日本丸の姿を撮影するチャンスを与えられたのだ。一見平穏に見える海面も、小さなボートで降りるとうねりが大きい事がよく分かる。僕は例によって船酔いと闘いながら日本丸の撮影をした。酔ったのは僕だけかと思ったら、気分の悪そうなの顔がちらほらとあり、安心してしまった。

2月4日 20-53N, 158-02W

 帆走を再開、微速でホノルル港外へ向かう。その間に実習生はドクターから「応急医療」、「性病」の講義を聞く。
 入港が近付き、夜のワッチの無い時ににわか床屋が活躍をしている。切る方も、切られる方も恐々と鏡を覗いて、安心する。中には士官から「髪を切らんと上陸なし!」と宣告され、不承不承切ってもらっている者も。

2月5日 21-11N, 157-51W

 0700機走を再開。ホノルル沖へ向かう途中僚船「海王丸」と邂逅する。この船とも26日ぶりである。並んで走るのかと思ったが、やはり55歳のおばあちゃんでは少々無理があるようで、じりじりと差がひらいてくる。
 0930主機を停止、総帆を開く。キャプテンは帆走投錨を企てているらしく、ロイヤル・セイルを畳んだり開いたり、行き脚を調整していた。この日は総員ワッチの態勢で、食事も半分づつ交代でとる。後組の僕等が飯をかき込み、食後の一服をしようかという時、「各マスト、スクェアー・ヤード!」のオーダーが船内マイクで流れる。脱兎の如く飛び出して、ブレースを握る。ちょうど本船はダイヤモンドヘッドの沖に達していた。ここからホノルル港へはワイキキビーチの沖を通る事になる。観光のヨットなんかがやってきて、「アロハ!」と呼び掛けてくる。14時頃無事投錨を終えて部署が解除になり、やっと休むことができた。

2月6日 ホノルル沖 <Anchor>

 入港前なので1日中掃除。朝から船内の真鍮(大はタイムベルや舷燈のカバーからビレイピン、ハンドレールのプレートや銘板といった小物まで)をピカピカに磨きあげる。午後は大掃除、教室の机をどけて洗剤で磨いたり(ソーピングという)して埃一つ無いぐらいまで船内を掃除する。そして「外地入港諸注意」がC/Oよりあって、もうこころはホノルルの街に飛んでいる。