練習船日記

東京→LA

6月2日 東京・晴海H-2

 マストに星条旗とブルーピーター翻る。航海科実習生にとっては2度目の遠洋航海ではあるが、それでもやはり緊張してしまう。プープデッキに総員が集合し、出航式が行われた。来賓の中には日本丸乗船中にお世話になった懐かしい面々も。
 汽船の出航に際しては、帆船のように華やかな登檣礼はない。しかし、青く澄んだ空をバックにした純白の船体、その陸側の舷側に総員が整列して行う「登舷礼」もたいした眺めだろう。何と言っても、汽船にできる最高の敬礼なのだから。
 1350繋留索を全て放ち、東京を、日本を後にする。
 密航者点検、異常なし。夕方に事務部から連絡が入り、免税品を分配する。これが済んでしまうと、もう通常の航海状態となる。
 20-M.N.直中に野島埼沖の変針点に達し、北緯38度を最高緯度とする集成大圏航法に移る。

さようなら、にっぽん

6月3日 35-03N, 145-16E

 さっそく天測を始めるが、長い(?)ブランクのため、たちまちパニックに陥る。そんな事をしている間に、船橋の当直士官やキャプテンは近くに居る僚船「海王丸」と連絡を取り合い、針路を一時変更、34-58N, 145-01Eで会合する。海王丸の近くでUWを交換した後、長三声で別れを告げる。一方僕等は天測計算をパスしたりして、カメラを片手にプープデッキへ、それでも時遅く、回頭の終了間際だった。夏の北太平洋は霧が多い。海王丸は次第に霧に包まれてその姿を消した。
 午後は防火部署操練。「実習生居室25号室から出火」という設定で消火、排水作業の訓練を行う。

6月4日 36-10N, 153-30E

 今日のM.N.-04直も霧に包まれていた。航海灯の紅や緑の光が白い霧を照らし出す。それはまさに光と影だけが作り出すことのできる美しい芸術だと思う。

6月5日 37-16N, 161-30E

 Noon、学友会主催の「日付変更線通過予想懸賞」の応募が締め切られる。

6月6日 37-48N, 169-47E

 大洋を航海するには、大圏上を航走するのが最短距離なのだ。(これを大圏航法という)しかし、空を飛ぶ航空機と違い、陸に阻まれたり、海域の気象条件により、あまり高緯度には上がらないようにした上での最短コースを航走する。(これを集成大圏航法と言う。)前にも触れたように今回は38度を上限としている。1000頃、この緯度付近に達したので、コースを<090>「真東」にする。
 ラジオ日本のゼネラル・サービスが中国、近畿地方の梅雨入りを告げていた。

6月7日 37-43N, 178-07E

 17時24分58秒、北緯37度42秒、デートライン通過。今航海が初の西経入りである機関科実習生の代表者、ドクター、員外事務員ら4人がデートライン通過直前に船橋に招かれ、通過のロング・ブラストを鳴らす。

6月7日R 37-41N, 173-43W

 昨日のデートライン通過により、今日も7日。
 今日、ドクターと看護長の手で、コレラの予防接種(1回目)が全実習生、乗組員に施された。士官の話では、この注射は物凄く強烈で、馬鹿なことをすると一発でダウンするそうだ。

6月8日 37-25N, 165-50W

 午後の課業でオーニング(プープデッキに張るテントのようなもの)の準備を始める。
 船で世界を一周するには2つの方法がある。まず1つは、古の航海者達を苦しめたケープ・ホーン(ホーン岬: 南米大陸南端)と、ケープ・オブ・グッド・ホープ(喜望峰: アフリカ大陸南端)の沖を航行する方法。そしてもう1つは今航海で通過する有名な2つの運河、パナマとスエズ。これにより航海者は随分と、(船乗りはもとより、船主にも経済的な面で貢献している。)楽になった。でも、この2つの地域は伝染病でも有名なのだ。パナマ運河のある中南米は黄熱、スエズ運河近辺のアフリカ、ヨーロッパは昔からコレラの流行があった。黄熱については内航中に既に予防接種を済ませている。そして今航海中にコレラの予防接種を行うのだ。
 夕食時、7日Rのコレラ注射のためお預けだったデートライン通過祝いのビールが配られる。

6月9日 37-23N, 157-35W

 Noonにコースを<095>とし、南下を開始する。

6月10日 36-53N, 149-20W

 今日は僕の誕生日。海をバックに記念撮影をする。
 総端艇部署操練、今回は酔わずにすんだ。
 本船の後方に、北太平洋東部にしては珍しく低気圧があって南風が吹いていた。

6月11日 36-25N, 141-43W

 ワッチ中海面を漂うゴミ(発泡スチロール等)を多数発見、まだまだ碧いけれど確実に汚れつつある太平洋を見て悲しくなってしまった。

6月12日 35-21N, 133-41W

 ドクターの講義、「性病」。船で保健の話といったらこれしか無いのだろうか。

6月13日 34-14N, 125-43W

 1100頃、米海軍のP-3C対潜哨戒機「オライオン」が飛来。船橋と同じ位の高度を飛んでいった。日本丸のときのコルセアにしろ、米軍はそんなに暇なんだろうか?
 コレラの予防接種(2回目)を実施する。前回は0.5ccだったが、今回は倍量の1.0ccである。それにしても痛かった。
 2000、ゴミの海中投棄が禁止となる。
 20-M.N.直、いよいよアメリカ西海岸に接近。僕の計算では、2330頃からレーダーに陸が映り始めるはず。しかしレーダー当番からの報告の無いまま当直時間は過ぎてゆく。これはM.N.-04直にずれこむか? と思い始めた矢先「見つけた!」の声。僕の計算もまんざらではないようだ。ただ、陸のどこが映っているのか確認するには時間が無かったので、公式の記録(ログブック等)は14日のM.N.-04直となるだろう。

6月14日 Los Angeles 沖 <Anchor>

 目が覚めると、そこはロス・アンジェルス。60マイル彼方に微かに見える、あれがアメリカ大陸だ。
 一口にロスと言ってもやたらに広く、ロス・アンジェルス港はかなりはずれのほう、はっきりいって田舎なのだ。
 1200頃仮泊、夕食には安着祝いのビールが出た。
 アメリカは夏時間(D.S.T.)を採用している国で、その期間中は1時間時計が進んでいる。一方銀河丸は正午を基準に今朝まで毎日行っていた時刻改正でアメリカ西岸標準時にはなっているものの、D.S.T.にはなっていない。そこで船内時1800に1時間の時刻改正、いきなり1900となる。おかげで日没は2006。巡検、掃除、旗章降下と当直部(僕等)は忙しくてしょうがない。

6月15日 Los Angeles 沖 <Anchor>

 午前中は入港前の定例作業、ブラスワークやデッキ流し。午後は大掃除。僕は焼却炉当番で、灰をおもいっきりかぶった。

6月16日 L.A.港91番岸壁

 0600総員起こし。居住区の掃除をして0640入港部署。僕等3部は船橋。岸壁へ向かう途中の水路にオットセイが一頭泳いでいて、銀河丸を歓迎しているのか手(ひれ?)を振っていた。0755着岸。
 船内に土産物屋が4軒店開きをする。ロスの地図や絵葉書、そしてなぜかスイス・アーミーナイフまで買ってしまう。
 入港後の諸手続きが終了し、午後C/Oからの上陸についての注意を受け、総員上陸。この日僕と一緒に上陸した一人が、例のランディングパーミット入りのバッグをバスに忘れてしまうというアクシデントに見舞われる。船の当直士官と連絡をとって、彼は独りで寂しそうに帰っていった。残った僕等はロングビーチにある豪華客船クイン・メリーと世界最大の木製飛行艇スプラスグースを見に行ったが、着いた時間が遅くて入場はできなかった。

6月17日 L.A.港91番岸壁

 僕等1・3部の半舷上陸、バス見学日。UCLA、チャイニーズ・シアター、ファーマーズ・マーケットを経由してディズニー・ランドへ。ディズニー・ランドでは8時間の自由時間が与えられたが、「8時間も何をすりゃあいいんだ?」と無知な僕は思っていた。ところがどっこい、ここは8時間では何も出来ない所だったのだ。東京ディズニー・ランドと基本的に同じ(逆かな?)なので、「東京ディズニー」経験者のガイドであっちこっちとびまわり、ローラーコースターを全部制覇するのがやっとだった。集合時間が近付き、皆は遊びから買い物へと方向を変え始める。入り口付近の土産物屋が白い制服で溢れる。手に手に巨大なミッキーマウスのぬいぐるみを持って…
 一方在船舷は船内の一般公開を行っていたが、訪れたのはたったの1人だった。

6月18日 L.A.港91番岸壁

 2・4部バス見学日。僕等は3号艇の手入れと、昨日に続いての一般公開を行うが、誰一人訪れる者は無かった。

6月19日 L.A.港91番岸壁

 朝別課で食糧とボンド品の積み込みを行う。例によって総出で船内の冷蔵庫(室?)への人間ベルトコンベアーを作って流れるように積むのだが、200人の胃を満たすためには莫大な量となる。おかげでL.A.最後の総員上陸は1000からとなってしまった。
 昼まで船虫(船に居残ること)をしたあと、Ports O'callという岸壁の近くの米国人の観光地へ行く。夕方になり船に帰ろうと道を歩いていると、地元のポリスが交通違反の切符をきっているのに遭遇。仕事が済むのを待って、May I take photos?と僕。すると、笑顔を浮かべてSure! と単車にまたがり、ポーズをとってくれた。