おかげさまで、完成しました!まだまだ抜けが多いので、折をみて追加していきたいと思います。
いつも、当HPをご訪問いただき誠にありがとうございます。
さて、皆様ご承知の通り、2001年8月25日をもちましてミ−ちゃんケイちゃんはデビュ−満25周年を迎えられました。この大きな節目25周年を記念しまして、当HPでは新ペ−ジ「ピンク・レディ−小辞典」を開設・更新しています。
一応辞典と銘打つからには、PLをリアルタイムでご存じない若い方にも役に立つ?初歩的な項目から、デビュ−以来のファンも楽しめるマニアック?な項目まで、できるだけ網羅したいと思います。などと、大風呂敷を広げておりますが、資料の持ち合わせがあまりないため独断・偏見・思い込みが中心になると思います(^^;)。したがいまして、訪問者の皆様が、当辞典記載の内容を事実と信用したためにいかなる被害を受けられましても、当方では損害賠償には応じかねますのでご容赦願います。また、項目の選定も作者の思い付くまま、気の向くままとなりますので、こちらも重ねてご容赦願います。
更新頻度は全くの気まぐれです。
以前掲載された項目がいつしか勝手に大きく修正される場合もあります。
掲載はあいうえお順、敬称は略させていただきます。
[PL基礎用語]・・・PLをリアルタイムでご存じない方のための基礎用語です。
「昨年」「2年前」など時期の表記は、「書き込み時点のもの」であり、現時点とは合わない場合があります。
あ行・・・このぺージです。
PLの曲で多用されるセクシ−なお声。当時、これにイチコロでダウンとなった青少年が多かったという(本当か?)例「UFO」・・・「地球の男にあきたところよ、あ−」他にも「カメレオン・ア−ミ−」の前奏・間奏部分、「パパイヤ軍団」などでも聞くことができる。「渚のシンドバッド」のイントロでは、変形「ああああ・・・」が使われる。
後期の名曲で大人っぽい曲。PLには珍しく阿久・都倉先生コンビの作でないもの。アメリカ進出時に発売されたため、テレビOAは僅かと言われる幻の曲でもある。
言わずと知れた作詞家。PLデビュ−のきっかけとなったスタ誕では審査委員(長?)を務める。辛口の評価で有名。スタ誕審査員席から見たお2人の印象は薄かった・・・(失礼ながら)「老けているなあ。」(当時、スタ誕に登場するのは10代前半から半ばが中心。PLのように高校3年生で登場するのは珍しかった)しかしながら、PLの曲の大部分を担当。PL現役時代で手がけなかった曲は数えるほどしかない。実際に(カバ−曲・アメリカ進出関連の曲を除いて)A面曲で数えてみると、「DO YOUR BEST」「愛・GIRI GIRI」「世界英雄史」「ラスト・プリテンダ−」のみが阿久悠以外の作。1990年再結成時の「2年目のジンクス」も担当。提供した歌手別売上げでみると、たぶんPLの曲が1位かな?したがって、マスコミでのPLに関する発言も多く要注目。近年、作家活動にも力を入れている。岩波新書「書き下ろし歌謡曲」「愛すべき名歌たち」はPLに関する記述があり興味深い。PL時代の作詞活動を振り返って「この時は本当におもしろかった」と回想されている。新聞によると、父親は警察官だったそうである。ひょっとして、これが「ペッパ−
警部」誕生のきっかけ??
PL最大のヒット曲「UFO」決めポ−ズの出来そこない。頭が山、手の平がUFOとなる。山からUFOが出るのが、有名な「UFO」の決めポ−ズ。頭から指だけ出るのが正しい形で、手の平全部が出てしまうと「あっほ−」になってしまう。近年、特にケイちゃんがテレビなどで正しい「UFO」の伝道師として指摘されているが、ご本人もPL当時かなり「あっほ−」になっていたという(^^;)。
PLのアメリカ進出は、一般的には?1978年4月のラスベガス公演から1980年のNBCレギュラー番組出演まで、足掛け2年にわたって行われたと言える。
本格的進出は、新曲のプロモーションを行った1979年春から、NBCのレギュラー番組を終える1980年春までと言えるから、実質1年間とも言える。「KISS IN THE DARK」のビルボードチャートインなど輝かしい実績も残したが、総じて当時のマスコミ評価は、芳しいものではなかった。私が興味あるのは、お2人が今、あのアメリカ進出をどう総括しているのかにつきる。数年前のケイちゃんの肯定的な発言も、印象深いところである。
PLの亜流グループは数多く存在した。いずれもPLの企画面のごく一部をパクっている。作り手が、PL成功の本質を理解していないので、例外無く失敗しているのが特徴。逆説的であるが、PLの魅力をより鮮明にしたという点で、PLファンにとっては感謝すべき存在とも言える。最も有名な亜流グループとしてキャッツ・アイ。こちらの比較表も参照。
飯田久彦
PL時代はビクタ−音産(現:ビクタ−エンタテイメント)のディレクタ−。専務取締役まで大出世!の後、テイチク社長へ。スタ誕決戦大会では、上司の方針(決戦大会で一番人気の清水由貴子さん)に果敢にも逆らいPLをスカウトした。PL産みの親、育ての親と言える存在で、ファンにとっては足を向けて寝られないお方。デビュ−当時PLとは「どんなことがあっても5年間はやっていこう」と約束されたらしい。「S・O・S」の頃の「実のところ、こんなに人気が出ると思わなかった」とのコメントは興味深い。元・人気歌手ということで、歌手の立場も良く分かる。スタ誕決戦大会にスカウトマンとして出ることが「人買いみたいで・・・皆の見てる前で落ちるのがかわいそう」と回想されるなど、人情味あふれるお方でもある。ミ−ちゃんケイちゃんにとっては、お兄様的存在かな?近年マスコミでのPLに関する発言も多く、要注目!今後もお2人を暖かく見守って下さいね。
衣装
PLの重要な構成要素の一つ。特徴はミニルックでの一貫性。数年前のテレビナレ−ションを拝借すると、極めて陳腐な表現ながら「生の足を大胆に出したセクシ−な衣装」となる。当時ロングの衣装やいかにもアイドルっぽいフリフリ衣装が主流のなか、PLの衣装は衝撃的だった。詳しくは衣装のぺ−ジを参照。
稲垣次郎
PLのステ−ジバンド「ソウルメディア」のバンドリ−ダ−。きっかけは、T&Cスタッフから口説かれたから?PLの能力を高く評価。
「まだ、彼女らのコスチュ−ムを見て、PLを決めつけている人がいるというのが悲しいですね。・・・もし、そうお考えの方にそれじゃなぜこんなにレコ−ドが売れているのかとお聞きしたい・・・」という当時のコメントは印象深い。
全くもって同感。PLは単なるセクシ−アイドル(=歌を出しても売れない)ではない!!
インスピレ−ション
PLのファ−ストアルバム「ペッパ−警部」に収録されたケイちゃんのソロ曲。CD「TWIN BEST」にも収録されている。ケイちゃんファン必聴?の伝説の名曲。ハスキ−なケイちゃんのお声にしびれます(^^)。なんとなく演歌っぽい唄い方の部分もあり、1997年の富士宮コンサ−トでの「雪国」(ケイちゃん熱唱)を彷彿とさせる・・・のは私だけ??
ウーレッツゴー!
PL親衛隊さんのコールで「ミ−ちゃん、ケイちゃん」と共に多用されるフレーズ。
詳細は当HPよりリンクしているHP「FOREVER PINK LADY」様から「シングル売上TOP10」を参照。当時の状況を思い浮かべながら、皆さんも練習してみては(^^)?
歌う
PLのメイン活動・・・歌うこと。歌が売れないと、バラドル化するアイドルが多い中(PLとなにかと比較される某グループも最初はバラドル的要素が強かったと言われる)、幸運にもデビュー曲からヒットしたPLは最初から最後まで歌うことがメインであった。そして、今でもテレビやステージで歌う姿を見せていただける。クッキー(注:高校時代のお2人のグループ名)以来のお2人の歌うことへのこだわりが感じられる。これは本当に素晴らしいこと。PLと同時期に活躍していた女性アイドルで、今でも歌を捨てていないのは数えるほどだと思われる。
うたかた
PL後期の代表的名曲。アメリカでのアルバムに収録されている「Strangers When We Kiss」の日本語バージョンがシングルになったもの。「うたかた」と「Strangers・・・」とではアレンジも違うので、両方聞き比べてみるのもまた一興。どちらも素晴らしく甲乙つけ難い。解散発表直後の曲だけに、涙で歌うシーンも多かったような気がする。衣装は白の(PLには珍しい)ロング。この曲や「マンデー・モナリザ・クラブ」を知っているかどうかで、一時的なPLファンか長期的なファンかを識別できる??
興味深いのは、PLファン以外(キャンディーズファンでさえも?)でもこの曲に対する評価が高いこと。HP上でもたまに見かける。私の個人的思い出としては・・・友人宅のテレビでこの曲を歌うお2人を見ている時に、友人一言ポツリと「この曲はいい!」ところで、この友人、とりわけPLファンということではなく、むしろキャンディ−ズのファンということが重要。部屋には2年半前に解散したキャンディーズの写真集がしっかりとあった(^^;)・・・引越したばかりなのに、しっかりと(^^)・・・
演劇部
中学三年の時に、静岡の末広中学でミ−ちゃんケイちゃんが出会った場。と言うことはPL誕生の場ということにもなる?文化祭で「松屋町筋」という劇を発表するに当たり、お2人が姉妹の役をすることになり親交を深めたという。ミ−ちゃんが姉役でケイちゃんが妹役。本当はケイちゃんの方が半年お姉さん(出生が早い)なのだが、逆になっているのも面白い。それにしても、PLデビューの4年も前に中学のステージとは言え、既にお2人が共演していたというのは驚きである。これがPLの原型・出発点なのだろうか。他のアイドル・グループには見られないPLの最大の特徴・・・それは長い前史と言えるのかも知れない。
OH!
PL4年7か月の活動を締めくくるラスト・シングル。これまた後期の名曲。1979年の「マンデー・モナリザ・クラブ(マン・モナ)」以来、久々(1年半振り)に阿久・都倉先生の黄金コンビが復活した。PLのシングルA面曲としては恐らく唯一のスローテンポの曲だが、いかにも両先生の作!という雰囲気が随所に漂っている。衣装は「マン・モナ」「KITD」以来久々のミニスカ(白)。PL後期は意外とミニスカが少ないので新鮮だった。振り付けは手の動きが中心のおとなしいもの。テレビで歌うのが見られたのは、解散前の1か月間と短いものだったが、解散直前ということで結構テレビ出演が多く、お昼のワイドショー的な番組でも歌う姿が見られた。テレビで印象深いのは、やはり解散前夜の「紅白歌のベストテン」「夜のヒットスタジオ」か。最近では1996年から翌年の「再会」において、ディナーショー・コンサートで久々に歌っていただけまして、大感激でしたね(^^)。そして、今年になってミーちゃんご出演のNHKラジオでも聞けました。また、お2人で歌うお姿が見たいものですね(^^)。
遅すぎたデビュー
PLのデビューは二重の意味で遅すぎたデビューと言える。第一の意味は当時のアイドルとしては。当時10代半ばのデビューが多い中で、PLのように高校卒業後というのは珍しかった。第二の意味は8月25日デビューということで、新人賞レースに参加するには。二重の意味で遅すぎたデビューも、決してハンディキャップにならずにブレイクしたところがPLのすごいところと言える。最優秀新人賞こそ逃したものの、新人賞レースにも滑り込みセーフ。当時の常識をくつがえしてデビューしたことが、結果として良かったということになるのだろうか。いかにもガキっぽいアイドルが多い中、PLは結構大人に見えたのかも?