ピンク・レディー小辞典


ライブ盤

PLのLPは、ほとんどがライブ盤(コンサートの実況録音盤)であったのが特徴と言える。その理由は定かでない。シングルが売れているからLPに手間をかける必要がなかったからなのか、忙しすぎてレコーディングの時間が取れなかったからなのか。初めてのライブ盤は、1977年東京の郵便貯金ホールでのチャレンジコンサート。「私がミーです。」「そして、私がケイです。」の自己紹介も懐かしい。以後、SF’77(これは2枚組で豪華でしたね。)、武道館、ラスベガス、後楽園と、大きなコンサートの後には必ずライブ盤が出された。ライブでないLPは、最初の「ペッパー警部」の後、ベスト盤を除くと「星から来た2人」「PLの不思議な旅」などごくわずか。サウンド面のPLにも期待していたファンは、もっと多くの本格的アルバムを期待していたのではないだろうか。

ラスベガス公演 

1978年4月、ラスベガスのトロピカーナ・ホテル・ファウンテン劇場で行われた公演。PLにとって一連のアメリカ進出の第一歩となった記念すべき公演。デビューからわずか1年8か月で海外の舞台を踏んだわけで、そのスピードに驚かされる。
ショーは2日間で本番2回。構成的には日本の公演に準じたものだったようだ。当初、オリジナル曲は英語で歌う予定もあったようだが、結局日本語で披露した。公演の模様は日本テレビが後日OA。公演特集の写真集もシンコーミュージックから出ている。個人的に、なぜかこの写真集気に入ってます(^^)
当時はアメリカ発着が羽田空港だったわけで、時代を感じさせる。(成田のオープンが延期になった。)この後にギリシャ訪問(TBS特番+写真集)もあるのだが、この時は成田空港でしたね。若い方には?でしょうが・・・


LOVE

ファンクラブの会報。今でもネットオークションや古本屋などに時々出回るようだ。表紙は見るだけでも楽しめる?中身的には、1979年以降やや複雑な気持ちにさせるものもある。


リハーサル
PLの超過密スケジュールは、今や伝説化していると言える。忙しい時の比喩表現として「PL並の・・・」と今でも使われる。その過密スケジュールの必然的結果として、削られたのがお二人の睡眠時間とリハーサル時間と言える。「UFO」の振り付けを覚えるリハーサル時間が、本番前数時間であったのは有名な話。当時の東京12チャンネルでリハーサルして、そのまま「ヤンヤン」?の収録となったようだ。このリハーサルの模様は、最近もよくOAされるので、記憶されている方も多いのでは。お二人の本番では見られない笑顔が消えた真剣な表情、これまた真剣な表情の土居先生と当時の飯田ディレクターがとても印象的。わずか数十秒の映像から「これぞPLプロジェクト!」といった熱気が伝わってくる。
リハーサル時間が少なかったということは、ぶっつけ本番が多かったいうこと。これにはテレビを見ながら心配していた。特に生放送が続く「魔の月曜日」。レッツヤンの後の日テレ「歌ベスト」。この番組は、持ち歌披露の他に何やら余興?のコーナーがあった。そして、フジテレビ「夜ヒット」。この番組は、冒頭に他の歌手の歌をリレー形式で歌うコーナーがあった。いずれも、失礼ながら、お二人がリハの時間無しで間違えないか、密かに心配していたものだ。ところが、それは全くの杞憂で、本番に強いPLに改めて感心したものだ。最初のコンサート=チャレンジコンサートでさえ、本番前の深夜に覚えた曲もあるようだ。
近年ケイちゃんが「歌うことで(緊張して)あがったことはない。」という趣旨の発言をされている。これは、PL前史=クッキー時代の存在と、リハーサル無し=ぶっつけ本番の多さが、度胸の強さに結びついているのでは・・・と思われる。

リメンバー

1980年解散発表後、「うたかた」の後に発売されたシングル。「やるだけやった・・・後悔はない」というPL自身の心情を吐露したようなフレーズとPL史上に残るカッコイイ振り付けが印象的。


留守(るす)
PLが日本を留守にした期間が、4年7か月の間に何回か存在する。主にアメリカ進出絡みのものが多かった。ファンとしては、お2人の芸能活動の発展のためには、と思いつつも、ちょっぴり寂しい思いをしたのも事実。1978年4月は、ラスベガス公演で1週間とちょっと。レギャラーのNHK「レッツヤン」も1回くらいお休みしたはず。次が1979年4月「ジパング」の頃。これは、アメリカでのキャンペーンのためで、ちょっと長かった。しばしば出演していた「紅白歌のベストテン」で、アメリカからのコマ送り?のような画像を見て、欲求不満になった記憶も(^^)。最後が、1980年1月から4月初めのもので、NBCのレギュラー番組出演のため。普通「PLのアメリカ進出」というと、これを指す場合が多いようだ。4月の帰国会見までの長さといったら・・・・

レコード大賞
歌手にとって最も名誉ある賞。PLは、デビューの1976年「ペッパー警部で」新人賞、1977年大衆賞、1978年「UFO」で大賞と3年連続の受賞。デビューから大賞受賞までが、わずか2年4か月の短さである。当時、大賞はいわゆるベテラン歌手が受賞することが多かったので、3年目のPL大賞受賞は、当時としてはスゴイことだった。スタ誕出身者に限っても、大賞受賞はPLの他に確か中森明菜さんだけだったと思われる。
1978年の大賞受賞に関しては、解散後も結構話題になるが、私が興味深いのはデビューの1976年。結果としては、5人の新人賞には選ばれたものの、残念ながら最優秀新人賞は逃してしまった。ミーちゃんケイちゃんは「二人の力が足りなくて・・・」当時の飯田ディレクターが「もうこんな悔しい思いをするのはよそうね。」といった会話があったようだ。冷静に考えてみると、8月25日デビューで、その年の新人賞5人に選ばれるだけでも快挙!と言えると思うのだが。失礼ながら、レコード会社からもスタ誕スタッフからも期待されていなかったPLが・・・であるから、なおさらである。
当時PLのスタッフは、最優秀新人賞は射程距離にあるとして、マスコミ攻勢をかけたようだ。週刊誌で詳細は忘れたが「(マスコミ攻勢で)PLの二人が週刊誌の記事を飾らない日(週?)は無くなった。」というような趣旨の記事を読んだ記憶がある。
当時の記憶はあまりないのだが、時期的には11月から12月のことだったのだろう。結果として最優秀新人賞は逃したものの、この時期のマスコミ攻勢が功を奏し、PLの認知度を高めることになったのではと、今となっては思われる。そして、それは、翌年以降のPL旋風につながっていく。「(最優秀新人賞を逃した)災い転じて福となす」の典型と言えようか。

レッツゴーヤング
NHKの歌番組。月曜日収録で日曜日OA。PLは1978年春から1年間レギュラーであった他、たびたびゲストとして出演。この番組の楽しみとしては、A面曲の他にもう一曲見られることだった。PLの場合は、勿論振り付きでB面曲やコンサートで歌う洋楽が多かった。
印象に残るシーンとしては、確か「UFO」の頃「ピンク・レディーVSキャンディーズ」と銘打って、解散間近のキャンディーズと共演したこと。PLの作曲でおなじみの都倉先生が司会者で、「キャンディーズは人気があるグループです。そして、PLも人気がありますよね。」のような感じで紹介されたのが、なぜか記憶にある。曲を提供していないキャンディーズならともかく、PLの名付け親でほとんどの曲を提供した都倉先生自らが、PLのことを「人気がある」と言われたのが、(失礼ながら)とても微笑ましく思えたものだ。

ロングの衣装
PLの衣装と言えばミニルック。「雨の日も風の日も、寒くてロングをはきたいGパンをはきたいと思ったこともありましたが、ずっと超ミニで通してきたこともひとつの思い出です。」(1977年あるPL本よりミーちゃん談)
では、ロングの衣装は皆無だったのかと言えば、答はNO。数こそ少ないものの、ロングの衣装も存在した。記憶にある最初のロングの衣装は、デビューから約2年後の後楽園でのコンサート。ミーちゃんが青、ケイちゃんがピンク?のロングスカートだった。ステージでのPLのロングは、この時初めて見たような気がするのだが、とても新鮮だった。A面曲のロングと言えば、真っ先に思い浮かぶのは「うたかた」の白い衣装である。その他にも「KISS・・・」「リメンバー」や「透明人間」「ジパング」の一部もロングの衣装と言える。こうして、記憶のあるロングの衣装を数えることができる(と言うことは数えるくらいしかない!)ことからも、いかにPLのミニルック路線が徹底していたかが分かる。ピンク・レディーの衣装も参照


若さ
PLのデビューは、高校卒業後の夏、お二人が18歳の時。と言ってもケイちゃんは、すぐ19歳の誕生日を迎える。当時、他の新人歌手が10代半ばでデビューしていたのに比べれば「若さ」という点で、若干のハンディがあった。
ところが、これを逆手にとって、「思い切って色っぽくしたら・・・」ということで、PLのイメージができたらしい。
20歳の頃、「あまり若くないですから・・・」と自嘲気味に語るお二人が、なぜか印象に残っている。それから、二十数年たった今、同年代の元アイドルと比べても、いろいろな意味で「若さを維持している」お二人には、驚嘆させられるばかりである。

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