デビューから僅か7か月後、1977年春に開催されたPL初のコンサート。コンサートのレッスンの合間に、お2人でラジオ出演されたことがあった。「ダンサーの方と一緒に踊るんですよ!」と、ケイちゃんが嬉しそうに語っていた記憶がある。既にPLは売れっ子で多忙のため、練習時間があまり取れなくて「本番直前の夜に初めて覚えた曲もあった」とか。
私には、このチャレンジコンサートの成功が、お2人を大きくしたと思われる。と言うのは、それまでは「いかにも新人」といった雰囲気を漂わせていたが、このコンサートの後では、お2人の言動に「トップアイドルとしての貫禄」が出てきたように思われるからだ。そういう意味で、このコンサートは歌手PL飛躍の原点と言えるのかも知れない。
ミニルックが特徴のPL衣装の一形態。時期的には、「ペッパー警部」から「ウォンテッド」までの初期PLで多かった衣装。中期から後期は、ホットパンツの方が多かったような気がする。超ミニと言っても、PLの場合、中身?はホットパンツだったので極めて安心。ここが、パンチラが売り物のB級アイドルと違い、「PLが健全派」と言われる所以(ゆえん)か。
つ
つきあい
「あまりに長いつきあいだから、いつのまにか二人は、同じ血が流れはじめたみたい。あなたの顔を見ただけで、その日の気分がよくわかる。でもね、わかりすぎる寂しさって、わかるかしら?」1977年に出版されたあるPL本の文章から。当時、私はこの「長いつきあい」の部分が理解できなかった。まだデビューから1年しか経過していないのに「なぜ長いつきあいなのか」不思議だった。PLに前史があることを知ったのは、もう少し後だった。
さて、ミーちゃんケイちゃんのおつきあいは、中学三年、末広中学の演劇部から。1972年?と言うことは、今年でなんと!お二人のおつきあいは、29年にもなる。中学時代は演劇部つながり、高校時代はクッキーとして、つまり、PL前史は4年にもなるということで、前述の「長いつきあい」も理解できる。PL時代は4年7か月、そして解散後は、また親友(実際は親友を越えたもの)に戻ったことになる。今年3月で解散後20年になる。
昨年の紅白関連報道で「(PL解散後も)一緒にカラオケに行くなどして親交を保ってきた」という感じの記事があった。でも、私に言わせれば、今でもお二人ご一緒に食事をされたり、カラオケに行かれたりするのは、お二人の長いつきあい(29年!)の中の自然な流れであって、親交を保つための手段なんかではないと思われる。そんなお二人の長いつきあいに裏打ちされているからこそ、(再結成を含めて)PLを安心して見ることができる。「お二人の仲の良さ」これもPLの大きな魅力の一つである。29年に渡る親友・・・皆さんは、いますか?
つとめます
「一つも悔いのないように、こんな雨ですけども、最後まで一生懸命
つとめます!」
1981年3月31日、後楽園ファイナルにおけるケイちゃんのお言葉より。「つとめます!」・・・印象深いフレーズである。
て
T&C
PLの所属事務所。PL以外にはベテランで(引退間近の)南沙織さん、新人では天馬ルミ子さんなどが所属していた。
南沙織さんは、確か引退の際、PLと「夜ヒット」で共演した記憶がある。ケイちゃんが「同じ事務所・・・」とコメントされていたような・・・「透明人間」の頃でしたか。
天馬ルミ子さんと言えば、NHK「レッツヤン」でのPLとの共演が印象深い。サンデーズ?のメンバーでしたか?
デビュー
PLとしての正式デビュー日は1976年8月25日「ペッパー警部」。初登場のテレビOAは、その10日くらい前「スター誕生(スタ誕)」のデビューコーナー。「スタ誕のデビューコーナー」・・・当時、この番組を見ていた方ならば、とても懐かしいものなのでは?前途に希望を抱いた新人歌手が、初々しい姿を披露する。しかし、翌年まで生き残るのは、ごく僅かという厳しい現実。そして、
世紀末紅白に出場したスタ誕出身者はPLのみという現実。さて、このコーナー、客席のど真ん中で歌ったりするシーンが多かった記憶がある。PLの場合は、高い特設?の舞台で回りを観客が取り囲んでいた。などと知ったかぶりしているが、これは後の回想番組で知ったことで、残念ながらPL最初のスタ誕の記憶は薄い。
PLデビュー当時は、深夜番組なんかでも歌っていたらしい。この点からも、当初は子供相手ではなかったことがうかがえる。「ペッパー警部」に動きが出るまでには、2か月くらいかかったということで、世間的にPLが認知され始めたのは、この年の10月以降のことのように思われる。
と
土居甫
PLの歌の振付師として有名。レッスンは、かなり厳しかったらしい。雑誌等のお2人へのインタビューでは、「ちょっとでも悪いところがあると、スリッパとかお盆とかでたたかれてしまう・・・」なんてコメントがあったので、当時私にはミーちゃんケイちゃんをいじめる鬼教官に見えて、あまり好きになれなかった(^^;)。その厳しい指導の甲斐もあってか、PLデビュー25周年の今でも、振付が忘れられずに伝承?されているのは素晴らしいこと。四半世紀もの間、ある歌手の振付が伝承されるという現象は、PLが最初で最後なのではないだろうか。そうした意味で、あの振付を生み出した土居先生の功績は、長く歴史に刻まれることになるのだろう。
土居先生がテレビ番組で回想されていたが、デビュー曲「ペッパー警部」の脚を開くところが、レコード会社で問題となったそうだ。確かに当時のアイドルとしては、やや過激。でも「信念をもってやっているので、そこだけ変えるのなら降りる」と頑張ったそうだ。なかなかスゴイお話である。
PL現役時代は、結構テレビでお2人とご一緒に出演されることがあった。ある番組では、お2人を前にして「デビュー前からホットパンツなんかはいていたので、是非脚は出そう・・・決して変な脚ではないし・・・」なんて語っていたので、PLのミニルック路線は先生の発案なのかな?今後も、またご一緒に出演されて、当時のお話など聞かせていただきたいものです。
都倉俊一
言わずと知れた作曲家。作詞家の阿久先生との黄金コンビで、PLの歌の作曲・編曲を担当。PLが歌謡史上に残る存在になったのも、都倉先生の力による部分が大きいと思われる。「ピンク・レディー」というグループ名の名付け親でもあるし、ファンにとっては足を向けて寝られない偉大な先生。PLデビューのきっかけとなったスタ誕の審査員や、PLもレギュラーであったNHK「レッツゴーヤング」の司会者としても活躍された。
シングルで担当したのは、デビュー曲の「ペッパー警部」から「DO YOUR BEST」そして「OH!」。再結成では「2年目のジンクス」。大半の曲は、都倉先生の作曲・編曲兼務となっているが、「マン・モナ」「DO YOUR BEST」「OH!」などは、別の方が編曲を担当。そして、ほとんどの曲が阿久先生とのコンビだが、「DO YOUR BEST」の作詞は阿久先生ではない。この曲の分だけ、阿久先生より都倉先生の方がPLとのかかわりが大きいことになる。と言うことは、都倉先生の方がPLへの思い入れが強かったのかな?最近の阿久先生の回想では、スタ誕でお2人を見た感想として、阿久先生は「インパクトが弱かった」のに対し都倉先生は「いいね」と、もらしたそうである。都倉先生の方がPLとのかかわりが大きいのも、このあたりが原因か?ちょっと飛躍しすぎかな(^^)。
1997年、NHK番組にケイちゃんが出演された際、都倉先生からケイちゃんへのFAXメッセージが紹介された。以下、一部を再現する。「僕は縁を信じます。僕の前に増田
啓子と根本美鶴代が現れたのも。あの日、僕が審査員として指名されたのも。ペッパー警部のイントロが出来た時、レコード会社の反対にあっても、何か新しいことをしたい時期だったので、強引に押し通したのも。そして、何より我々が素晴らしいスタッフに恵まれたのも、みんな縁としか言いようがありません。その後、ピンク・レディーは日本の音楽史の一ページを飾る存在になりました。・・・ピンクとの活動は、僕にとって一生の財産になっています。泣き虫だったケイも、今は素敵な大人の女性として各方面で活躍中と知って、安心しています。・・・」
このメッセージに、ケイちゃん「すごい嬉しい」と思わず涙。特筆すべきは、あの都倉先生が
「日本の音楽史の一ページ」「一生の財産」という言葉で、PLに対し
最大限の賛辞を送っていること。都倉先生とPLとの深いかかわりを示すものとして、印象深い。
常葉学園
ミーちゃんケイちゃんが高校時代に通った静岡市内の学園。3年間お2人は同じクラスになれなかったが、授業と授業の間の休憩時間に廊下で会ったり、昼休みはミーちゃんの教室にケイちゃんがやって来たり・・・という状況で親交を深めていたようだ。当時から2人の仲は有名であったらしい。PLデビュー後も、何回か訪問しており、テレビの映像や写真集でも紹介されている。最近では、1997年「再会」において、夜の教室で一緒に語り歌うお2人の姿が印象深い。