ある程度外出はできるようになったものの、一日も登校はできないまま卒業式が近づいてきたある日、突然娘が「卒業式に出る」と言い出した。こちらはもう全く諦めているので、「無理をしなくても良いよ」とさえ言ったのだが、本人は「出る」と言い張った。こちらの方が心配だった。
卒業式の当日は、ときどき家を訪ねてくれたクラスメートの中に混じって、立派に卒業証書を受け取った。帰ってくる頃には手にべっとりと汗をかいていたから相当の緊張もあっただろうが、不安を乗り越えられるだけの強さが戻ったのだろう。本当に涙の出る一瞬だった。
心の中の意欲は瓶の水にたとえられると思う。精神的に傷を負っている状態というのは瓶の底に穴が空いている状態に似ているのではないか。だからそんな状態を放っておいたのでは、元気を出させようとして回りがいろいろな工夫をして上から水を注いでも、底に空いた穴から水はどんどん抜けてしまうために意欲が溜まっていかないように思うのだ。
だからこうなったからには、まず瓶の底に空いてしまった穴を、時間を掛けて塞ぐことが肝腎で、それがある程度塞がれるのを待って、次には「日々の意欲」という水が少しずつ増えて瓶を満たす日を待つしかないのではないかと、そんな風に感じていた。最後の最後でやっと水が瓶の口から溢れるようになったのだろう。
中学校もはじめはすんなりとは行かなかったが、次第に馴れて一年が経過した頃、今度は故郷札幌へ転勤することとなった。またまた心配をしたのだが、札幌の中学校でも親切に対応をしてくれてあっという間にクラスに溶け込んだ。
札幌での生活が一年経った頃に松本の友人から手紙が届いて、その中に「最近○○君が学校へ来ていないんだよ…」という一節があったらしい。それを読んだ娘が「私、○○君に手紙を書いてみようかな」と言ったときに、やっともう後戻りすることがないのだな、という確信を得ることができた。
この三年間がなければ「親である」ということを真剣に考えずに過ごしたことだろう。今では我が家の宝の三年間だ。
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