前田慶次郎 ???? 〜 ????
武将列伝
利益。滝川益氏の子供らしいが、母親が慶次郎を連れ子として前田利久の元に嫁ぐ。前田利久には子が無く、前田家の子として育てられる。前田利久が弟の前田利家に家督を譲った際は、父母と一緒に城から出る。前田利家が能登七尾城主と成った際に、六千石の扶持で仕官する。若年の頃より傾き者であったらしく、その出で立ちが人々の目を引いた。粗暴であったが、和歌や茶道にも通じていたようで、当時の文化人でもあった。また後年、合戦でもその実力を発揮する。しかし叔父の前田利家とは馬が合わず、慶長三(1598)年に前田家を出奔して浪人となり、京都へ住みつく。そこで上杉家の家臣であった直江兼継と出会うことになる。その縁で関ヶ原合戦の際は上杉家に従軍して、武功を立てるが上杉軍は敗北。合戦後は上杉家に仕官したとも、大和で隠棲していたとも言われている。
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前田 利家 天文七(1538)年〜慶長四(1599)年
武将列伝
槍の又坐との異名を持つ戦国の武将。尾張荒子城主であった前田利昌の四男であり、犬千代と名乗っていた当初、織田信長の小姓として使える。が、些細なことにより、信長の同朋衆を惨殺し、一時期織田家より離れる。が、永禄一二年(1569)に罪を許され、再度織田信長に仕える。また織田信長の憶え良かったからか、兄の利久に代わり前田家を継ぐことになった。それからの軍功はめざましく、姉川の合戦や、長篠合戦、特に越前平定戦でその才を発揮。その功からか天正三(1575)年には越前府中城を与えられ、その翌年には能登一国の大名の待遇を受ける。本能寺にて織田信長が横死すると、はじめ柴田勝家方に付くが、賤ヶ岳の合戦では中立を保ち、羽柴秀吉方有利に事を運んだ。その選考から羽柴秀吉より加賀一国を加増され、加賀百万石の基礎を築いた。豊臣政権の中では徳川家康等とともに、五大老に付いていたが、実質は豊臣秀吉に次いでナンバーツーの地位であった。徳川家康であっても利家に対してだけは、一目おいていたと言われている。豊臣秀吉の死後、五奉行の一人である石田三成が、福島正則や加藤清正等に徳川家康を加えた武闘派との対立が表面化すると、その争いを仲裁し大事に至る前に食い止めていた。しかし利家でも病には打ち勝つ事が出来ず、豊臣秀吉の死を追うかのようにして、慶長四年にその生涯を閉じる。関ヶ原の合戦が起きたのはその翌年のことであった
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前田 利久 ???? 〜 天正一五(1587)年
武将列伝
尾張荒子城主前田利昌の嫡男として生まれる。前田利家の実兄。父前田利昌の死の翌年、織田信長の許しを経て、永禄三年に前田家を継いで荒子城主となる。実弟であった前田利家とは違い、戦場での槍働きには縁の無い人物であったようである。永禄一二(1569)年に織田信長の命により、前田家を実弟の利家に譲ることになる。その後、妻と養子の慶次郎、側近等数名を従えて実弟の利家の元から去り、浪人となる。それから一二年後の天正九(1581)年、能登七尾城主と成った弟の利家から乞われて、再び前田の家に戻ることになる。天正一五(1587)年、弟利家等に見守られて、この世を去った。


前野 長康 ????〜文禄四(1595)年
武将列伝
将右衛門。蜂須賀小六の弟分。一度は織田信長の陪臣として滝川氏に仕えるが野に降るが、永禄年間に羽柴秀吉に仕え、織田家の美濃攻めに尽力する。その後は蜂須賀小六と共に、羽柴秀吉に従いながら、近江、越前と転戦。本能寺の変後も山崎の合戦、さらに小牧・長久手、小田原攻めに参戦し、天正一三(1585)年には播磨の三木城から五万三千石を賜り、出石城へ在城する。その後但馬を賜り、但馬守を名乗るようになった。聚楽第築城の際には作事奉行に抜擢される。豊臣政権ないでは確固たる地位を築いたかに見えたが文禄四(1595)年、息子の景定が秀次謀叛に連座していたとして切腹。長康はそれを追うようにして中村一氏の館にて自刃。
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松平 清康 永正八(1511)年〜天文四(1535)年
武将列伝
次郎三郎。三河松平家宗主。松平信忠の嫡男。松平広忠の父であり、江戸に幕府を開府した徳川家康の祖父。幼名は竹千代。大永三(1523)年、父である信忠が一門衆によって、半ば強引に隠居させられ、清康が松平家の家督を継ぐ。大永六(1526)年に三河安祥城から、現在の岡崎城に居城を移る。その後三河国内の諸城を攻め、諸将を屈服させ、また国人衆を従属させていった。この頃に松平姓から世良田姓を名乗りを変えている。三河をほぼ統一した清康は、次の目指したのは隣国の尾張。天文四(1535)年、織田信光が籠もる守山城を攻めていた時、家臣の安部弥七郎正豊に斬られ、その生涯を閉じる事となる(守山崩れ)。ちなみに安部が清康を斬った刀は、「村正」であったと伝えられている。三河国大樹寺に葬られた。


松平 信康 永禄二(1559)年〜天正七(1579)年
武将列伝
三郎。父は徳川家康,母は築山殿。幼い時分は駿府において生活。桶狭間の合戦で今川義元が討死後,今川家臣である鵜殿兄弟との人質交換で,父家康の元である三河岡崎へと赴く。永禄一〇(1567)年,織田信長の娘である徳姫を妻に迎える。そして元服の際に信長より一字を賜り信康と名乗る。天正三(1575)年の長篠合戦において初陣。父の徳川家康が浜松城に居を移した後,岡崎の城主として城に留まる。天正七(1579)年,武田家との内通の嫌疑をかけられ,また岳父の織田信長からからの嫌疑もあり幽閉される。そして遠江二俣城にて自刃。
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神子田正治 ????〜天正一五(1587)年
武将列伝
半右衛門。御子田。父は神子田肥前守。古くから秀吉に仕える。秀吉の長浜時代には、黄母衣衆として活躍。天正元(1573)年には近江の地で、二五〇貫の所領を受ける。秀吉の中国攻めにも従い、天正五年頃には播磨において五〇〇〇石の知行を得ていた。その後も三木城攻めや、本能寺の変以降の、山崎の合戦や賤ヶ岳の戦いにも参陣している。のちに備中にて一二〇〇〇石の大名に出世。天正一二(1584)年の小牧・長久手の戦いにおいて、尾張二重堀の守備を命じられていたが、織田信雄の攻撃を受け,防戦すること叶わずに軍勢を退けてしまった。この行為が軍勢の混乱を招いたという咎を受け、所領を没収され放逐されてしまう。諸国を放浪した正治。天正一五(1587)年、九州攻めで豊後に出陣していた秀吉の陣へ赴き、そこで帰参を願い出る。しかし許されなかった。それどころか秀吉から自害を命じられ、その地において自刃して命を絶った


三好 長慶 大永三(1523)年〜永禄七(1564)年
武将列伝
天文元(1532)年、父元長が細川晴元によって討ち死にを遂げ、一〇歳にして三好家の家督を継ぐ。阿波にいったん退くが、天文三(1535)年に細川晴元の被官となり室町幕府に出仕する事となる。しかし幕政の事で細川晴元との対立し、兵を挙げるが和睦して摂津に領地を得る。その後も四隣に兵を出して平定。天文一六(1548)年には河内守護の遊佐氏に打ち勝ち、畿内では大軍事力を備えることになる。天文一七(1549)年には叔父の政長と対立したことから、長慶は細川晴元、さらには足利義輝と争うことになる。近江の六角義賢の仲裁により和睦を成し遂げて危機を脱する。しかし翌年には再度、将軍である足利義輝と不和になり、合戦まで発展したがこれを打ち破り、畿内での実力者に登る詰める。この頃が長慶の絶頂期でもあった。長慶の勢力圏は五畿内をはじめとして、阿波、讃岐などの四国、さらには丹波、近江、播磨まで占めていたとという。また幕府の持っていた権利のほとんどを長慶が握り、実質は三好政権であった。しかし長慶の時代も長続きはしなかった。永禄四(1561)年に実弟の十河一存、その翌年には三好義孝が相次いで亡くなり、さらに追い打ちを掛ける様にして、息子の義興もこの世を去ってしまった。そして永禄七(1564)年長慶が落胆している所へ、宿老の松永久秀の讒言があり、安宅冬安を謀殺してしまう。その二ヶ月後、長慶は河内にてこの世を去るのであった。


向井 正綱 ????〜????
武将列伝
向井氏とは元来、伊勢の北畠家に従う水軍を指揮する家であったそうだ。正綱の父政勝の時に、駿河へ進出してきた武田家へ仕えたと言われている。この時、正綱も父に従って水軍を率いる家臣として、武田家に仕官していたのであろう。天正七年、駿河持船城が落城し父の政勝も討死。それでも正綱は最後まで武田家水軍の将として海を舞台に戦っていた。武田家滅亡後は徳川家康に仕え、徳川家の水軍を率いる将となったと言われている。


村井 貞勝 ???? 〜 天正一〇(1582)年
武将列伝
織田信長の臣である。信長の上洛の際に、京都所司代として京の治安の警備、および朝廷との交渉の任に就く。また、信長と足利義昭との不和を取り持ったり、大阪本願寺攻めに出陣したりと、上方方面にて活躍をする。また安土城の築城や、南蛮寺の建築にも携割っていたようだ。本能寺の変の際には、自邸より織田信忠の籠もる二条城へ赴き、信忠に殉じるかたちでその生涯を閉じた。


村上 義清 文亀三(1503)年〜天正元(1573)年
武将列伝
北信濃の豪族。また清和源氏の流れを汲むとも言われる、村上氏の子孫である。義清の代では北信濃の大半を支配するほどの勢いであった。その実力は近隣諸国にも伝わる程であり、向かうところ敵なしの勢いであった。甲斐の武田信玄が怒濤の様にして、信濃へ進撃していたが、義清はその侵攻を阻んでいる。上田原の戦いである。この戦いでもって義清率いる村上軍は、武田家の板垣信方および甘利虎安といった重臣を討っている。さらに本拠地であった砥石城が攻められた折も、武田の攻撃を防ぎ、続けて武田信玄を敗退させた結果は、偶然の賜物ではないであろう。しかし合戦では勝利できたが、真田幸隆の謀略によって、居城の砥石城から追われる事になる。その後は越後の上杉謙信を頼り、旧領を回復すべく、何度か越後より信濃へ攻め入るが、そのたびに武田軍に追い返されるばかりであった。永禄四(1561)年の川中島の戦いも参陣していたが、旧領へ戻るという悲願は達せられず、天正元(1573)年、越後根知城にて息を引き取った。
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毛利 隆元 大永三(1523)年〜永禄六(1563)年
武将列伝
中国地方の覇者となった元就の嫡男である。少年時代に一時期、周防の大内義隆の元で人質生活を送る。その地で元服し、義隆の諱を貰い受けて隆元と名乗った。天文九年に父元就の元へ返され、同年に元就が隠居。そして隆元は毛利家の家督を継ぐのであった。しかし毛利家の実権は元就が握っていた様である。陶氏の反乱によって大内氏が滅びると、中国地方の戦力均衡が破れ、厳島の合戦を経て、毛利の時代が始まる。吉川元春と小早川隆景という二人の弟を両腕として、中国地方統一に力を発揮し、父元就をはじめ毛利家重臣等に名実共に毛利家の跡継ぎとして認められようとしていた矢先、永禄六年に尼子征伐の途中で急死してしまう。その死因に関して、毒殺説や暗殺説など色々と有るらしいが、詳細は不明のようだ。関ヶ原の際、西軍の総大将となった毛利輝元は、隆元の子である。


毛利 元就 明応六(1497)年〜元亀二(1571)年
武将列伝
「三本の矢」の逸話で有名な元就。毛利氏の先祖は鎌倉時代の大江広元。この大江氏が相模の毛利庄へ移り住んでから、毛利氏を名乗ったと言われる。それから四七代、安芸の小豪族であった元就は、当時中国地方を二分する勢力、尼子氏および大内氏の大勢力に囲まれながらも、知謀を駆使しして生き残る。次男の元春を吉川家に、三男の隆景を小早川家の養子に出すこと事で、瀬戸内水軍は小早川家に、山陽方面は吉川家をとそれぞれ勢力の拡大を図る。天文二四(1555)年の厳島の合戦では劣勢であったが奇襲を用いて、陶晴隆を討ち倒して大勝利を得た。その二年後には周防、長門をはじめとして大内氏の領土の大半を得ることができた。その後は山陰に勢力をはっていた尼子氏の本拠である月山富田城を陥落させ、毛利氏は中国の覇者としての地位を確立した。元亀二(1571)年元就はこの世を去るが、そこに嫡男隆元の姿は無く、家督は吉川元春・小早川隆景を後見とし、孫の輝元が継ぐ事になった。
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毛利元就   □影武者   □山霧  


最上 義光 天文一五(1546)年〜慶長一九(1614)年
武将列伝
最上家一一代目当主。最上義守の嫡男。少年時代、湯治に出かけ山賊に遭遇した際に、躊躇すること無くその頭目を一刀両断したという武勇伝が残っている。天正二(1574)年、実弟の義時が隣国伊達輝宗の後援を受けて挙兵し、義光と対立する。しかし義光は伊達輝宗と和睦を図り義時の勢力を押さえ込む。しかしその後も最上家の内紛は度々起こった。隣国の伊達家の干渉にも屈せず、天正十年前後までには出羽国内の平定に成功。時勢を読むのにも長け、豊臣秀吉が小田原の北条攻めの際は、本陣に参じ本領安堵される。また次男を徳川家康の質とし、豊臣秀次には娘を側室として差し出しいる。朝鮮の役では釜山に渡海している。慶長五(1600)年の関ヶ原の合戦の際は、徳川方に付き、会津の直江兼継率いる上杉軍と戦う。この功により戦後は五十七万石の大名となる。義光の妹は伊達輝宗の夫人であり、伊達政宗の母である。
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最上 義守 大永元(1521)年〜天正一八(1590)年
武将列伝
最上家一〇代目当主。中野吉清の次男。わずか二歳で最上家の家督を相続する。長男の義光よりも次男の義時を寵愛し家督も譲り渡そうと計り、最上家に内紛の火種をまく結果となり、嫡男の義光は対立して最上家は二派に別れる事となる。そんな中で義守は家老の氏家某の助言を受け入れ、家督を嫡男の義光に譲り隠居する事で騒動は治まった。その後も国内では反義光派が蜂起する度に、義守自身も加わり父子で争いがおこっていた。しかし義守は二度と最上家当主の座に返り咲く事は出来なかった。娘は伊達政宗の母である。


森  長定 永禄八年(1567)〜天正一〇(1582)年
武将列伝
成利。蘭丸。森可成の三男。幼少時より織田信長に仕えた小姓。長定は織田信長の小姓そして衆道として寵愛された。それだけではなく織田家中で事務官としての才能を開花させつつあった。諸奉行や、主君への取り次ぎの任にもあたっていた。天正一〇(1582)年の武田攻め後、美濃岩村城を与えられる。しかし岩村へは入城せずに間もなく、織田信長に従い上洛。京の本能寺において明智光秀の急襲を受け、弟の坊丸、力丸等と共に織田信長に殉じた。現代では美麗な容貌と伝承されているが,定かではない。