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過去の輪跡
1997

第1章:自転車への道
第2章:ロードレースへの道 :`97.1~4.
第3章:Dクラスへの道 :`97.4~11
1998
第4章:Dクラスへの回り道 :`97.12~`98.前期
番外:MTB
第5章:Dクラス真中以上への道 :`98.後期
1999
第6章:Cクラスへの道は遠い:`99.前期
第7章:地道な道:`99.後期
2000
第8章:Pinarelloと共に:`00.前期
第9章::`00.後期
2001-1,2
第10章:`01.前期    
第11章:`01.後期 
2002
第12章:`02.前期
第13章:`02.後期
2003
第14章:`03.
2004
第15章:`04
2005
第16章:`05

2006
第17章:05年総括〜ブログへ以降のお知らせ

Race Results <更新日:'06. 2

わっぱ自慢帖 厳選(でもないか)の10台tumagoi-971.gif

 


    第一章:自転車への道

 1986年頃、FUJIのマウンテン・バイクを手に入れた。まだアウトドア・マニアの連中ぐらいしか乗っておらず、近頃のようにそこいらじゅうをモドキが走っているような有り様ではなかった。当時は八王子の浅川(多摩川の支流)の近くに住んでいたので河原〜まだ芝生なんかで整地されていない、雑木林やヤブ、岩場といった自然に近い状態だった〜を走り回ったり、車に積んで行って山で走ったりしていた。そのうちなんだか街にMTB が見る見る溢れだし車も四駆だらけになって来てキャンプ場も騒がしくなってしまった。で、元来天の邪鬼の俺はあまり乗らなくなり、オフロードに行くこともなくなった。

 所沢に引っ越してからスイミング・クラブに通うのにオートバイを使っていた俺は、だいたいせっかちでプールサイドで準備運動なんかしてられないので自転車で通えば無公害、低燃費、ウォームアップと、一石三鳥になることに気がついたのである。やがてプール以外にも色々設備の整った新しいスポーツジムに移ったのであるが、96年の暮、かみさんがジムに行ったついでに横にあった雑貨店でスリッパを買ったのが運命の分かれ道。頼みもしないのに店の人が申し込んでくれた商店街の抽選会で知らないうちに電動アシスト自転車が当たっていたことを後日電話で知らされた。この年式までは結構な値段で定価14万位だったが、どう見ても乗りたくなるような物じゃなかった。受け渡しに商工会から指定された自転車店の、こずるそうなオヤジに下取りするようもちかけて僅かな追金を払ってマルイシ・エンペラーのRX100仕様のロードレーサーを発注した。ブレーキレバーがチェンジレバーを兼ねるようになっている進歩が近年あったことなど知る由もなかったがそれは単なる町の自転車屋のオヤジも同じで、いやあ組み方がわかんねえんだよ、と催促した電話口で言われてようやく手に入ったのは正月休み明け。しかしレコーディング期間中だったので一度近所を走っただけで一月の半ばを過ぎた。

 ある日、仕事仲間というかなんというか、俺の参加している<緑化計画>というバンドのリーダー、チェリストの翠川敬基氏にスケジュールの打ち合わせのFAXで、彼がMTB でレースをやっているのは知っていたから、いいだろー、と自慢げに書いておいたら早速連絡。なんとロードも始めたので稽古をつけてやるから一緒に走れというではないか。そして忘れもしない一月二十日、我々は狭山湖下で待ち合わせた。まず、<狭山湖入り口>の信号から狭山湖へ上っていくが当然どんどん離される。そこから一旦下るので少しは持ち直すがユネスコ村への上りは 600m ばかりだがド素人には超激坂である。必死にこぐがどんどん速度は落ち蛇行してしまう。心臓は飛び出しそうだし膝はガクガクだ。ピークの手前20mで断念、押して上る。この時は何も知らなかったがフロントのインナー42T、リア12〜21T という重いギアしか付いていなかったのだ。後で雑誌を読んだらツールでプロが使っているのより重いのだと分かった。しかしこの時の屈辱をバネに今日の、仲間内では小手指パンターニ、略してコテパンと敬意をもって呼ばれる私があるのだ。結局この日は多摩湖の回りを走りつつ翠川氏に色々教わる。しかし翌週、あの屈辱の坂を独りゼイゼイ上ったり下りたりしている新米ロードマンがいたことは言うまでもない。              

自転車一代記冒頭

表紙

            


 

   第二章:ロードレースへの道 :`97.1~4.

 そして始まったトレーニングの日々。早くも4月6日の修善寺CSC チャレンジ・サイクル・ロードレースを目標にする。すこしずつレーサー・ウェアも購入。しかしなんと言っても寒いからそうそうは走らない。二月末までで280km。また、2月27日、初めてチーム<いぬふぐり>ロード部の面々と顔を合わせる。会長・翠川、事務局長でチーム最強の玉川譲司、ロード部長・松嶋緑女史という顔ぶれで奥多摩湖畔車をデポ、周遊道をひたすら上ったのだ。勿論リアは12〜25Tに交換済み。始めの5、6kmは玉さん、会長らはかろうじて視界にあったがやがて全く見えなくなりそれからは本当につらかった。頂上までの12.5km におそらく一時間十分近くかかったのではないか。玉さんは二往復していた。えー、参考までに、この年の9月には48分台、翌98年9月は43分台です。 そして奥多摩の帰りには青梅の清酒「澤乃井」の直営店「ままごと屋」でベロンベロンになるというチームのしきたりも学んだ。気が付くと家の前なので楽である。3月はひたすら多摩湖のまわりを計580km走る。そしていよいよデビュー戦。

 1997年4月6日、伊豆、修善寺サイクル・スポーツセンターは見事な雨。9時からの17歳以下、30代の昨年上位者のレースを見るがリタイヤが続出しており不安がつのる。おまけに会場中見回しても俺のマルイシが一番安そうだ。高校の自転車部の連中からしてコルナゴ、ピナレロ、コッピなど高級イタ車ばかりに見える。こちとら齢43にして開始2ヶ月半でのデビュー、睡眠2時間、おまけに雑誌によればクローズド・コースとしては日本で一番キツイところだって言うでないの。もうシラン。さて、午後になってようやく40代クラスのスタート。我々は5kmのコースを3周の15km。まわりはベテランばかりでキンチョーする。雨は小降りになった。60名の出走者が10人ずつ並び、ゼッケン22の俺は3列目だというのにスタートしたとたんアレヨアレヨという間に押し退けられるように後退。初の集団走行は、こ、こわい。それでも最初の上りでは集団のまん中あたりで抜きつ抜かれつ。前の方にいた我が会長も抜いてしまったが調子にのってオーバーペースだったか次の上りで抜き返される。もう一度抜いたのだがまたどこかで抜かれ、その頃にはもう、頭はガンガン、息はゼコゼコ、脚はガクガクで<リタイア>の文字が頭上にちらつく。難所の<心臓破りの坂>に至るともう、こんなことがあと二回も出来るんだろうか、なんでこんな苦しいことをやってるんだろう、等という思いばかりである。そのあとのメインスタンドまでの下りの高速コーナーでなんとか持ち直し二周目に入るがすぐに苦しくなる。もう他の選手もチラホラしかいない。しかしここで終わったらほぼ一周を回収トラックの荷台でサラシモノになって戻らなければならない。それだけを気力のもとに走る。タマさん、緑さんが坂の脇で声援をくれる。そしてなんとか三周目。これでようやくトップに周回遅れで失格という脅迫観念から解放されたがもうヨロヨロだ。何度も足をつこうと思ったが持ちこたえ、よろけながら心臓破りを越えて最後は死ぬ気でスパートして散ったのである。 こうして終わったデビュー戦は49位、39分25秒40(えー、参考までに、98年は68名中33位、99年17位)。レース中はもうこんなことするもんか、と思いもしたのに翌日もう郵便局で次に出場するレースのエントリー費を振り込んでいる俺であった。  

自転車一代記冒頭

表紙

                 


   第三章:Dクラスへの道 :`97.4~11

 相変わらず多摩湖の廻りを走りまわったり、友人から貰った、粗大ゴミに出してあ
ったのを拾ったという三本ローラー台でトレーニングしている日々だったが、レース
以来ムクムクといいバイクが欲しくなってきていた。 とりあえずMAVIC のディープ
リムCXP30 で新たにホイールを組んでしばらく物欲を抑え込んでいたのだが、とうと
う五月半ば我慢出来なくなり、イタリア、モゼールのアルミフレームをオーダー、パ
ーツはデュラ・エースでタマさんに組んでもらう(実はタマは新座市野寺「玉川サイ
クル」の店主だったのだ)。初レースの時は会長の車にみんなで乗り、イイモン順に
車内に積んでいったからマルイシは土砂降りの中、ルーフキャリアで泣いていたのだ
がこれで一挙に俺様のバイクがチーム内最高級車になっちゃった。あとは鍛練のみ。
しかし、五月二十五日のエンペラー・カップには組み上げは間に合わず、まあ主催が
丸石だからそれもいいと思ってマルイシで出場。これも年令分けで四十代のエントリ
ーはリスト上148名。公道レースでロケーションは良かったものの 2.7km という短
いルートを8周。実力別じゃないからこの短い周回では終わるまでにトップに追い付
かれ失格というのは確実だ。事実、完走わずか57名だった。72番手で走行中に失
格を言い渡された俺はアタマにきて帰宅後まっ先に我がマルイシのフレームから <
EMPERROR>のロゴを剥がしてしまった。 そして六月一日、モゼール完成。正直な
ハナシ、初めはサイズ以外あんまり違いがわからなかったが気分はイタリアン・レー
サー。徐々にセッティングも煮詰めて確実にタイムは向上した。しかし八月まで仕事
が忙しくて距離は延びず、レースも日程が合わず出られない。 九月に入り、久々に
<いぬふぐり>で奥多摩に出かける。この時は会長、タマさん、それに仲間からコル
ナゴを格安で手に入れたMTB乗りのツトム少年との四人。上り始める時にデータをメ
モしていて遅れたのが原因で少し先の交互通行の工事現場で俺だけ一分以上も停車さ
せられたが頂上では会長とツトムに20秒遅れで到着したので実質俺の勝ちだ。いや
あ、進歩したモンだ。帰りは当然ままごと屋でべろんべろんになった。次のレースが
翌月、平均勾配9%という川場村のヒルクライムなので、この月はその対策として一
人でもう二回上りに行きタイムアップを図る。そして十月十一、十二日、JCRC 第9戦
・川場大会。会長を始め、いぬふぐりのメンバーは俺の華開いたクライマーとしての
才能に恐れをなしたのか、出ないというのでカミサンと武尊温泉に宿をとる。
 JCRC(日本サイクル・レーシング・クラブ)のレースというのは最上級の S からA、
B、C、D、E までの実力分けクラスで行われ、初参加者は F というクラスで走った結
果で次回からの出場クラスが決まる。また各クラスの上位六名は昇級、下位六名は降
級される。これらと別に女性のW 等もある。初めての俺は初日はF 、とはいってもこ
の日は個人タイムトライアルだからクラスは関係ない。距離は7kmと短いが平均9%
ということは場所によっては12%ぐらいはあるワケでなかなか厳しい。20秒ごと
に311人が走る。スタートして1、2kmはきつかったがだんだん身体が慣れてくる。
とはいえ勿論苦しい。またしても、どうしてこんなツライことを、という思いが浮か
んでは消える。前半に二人、後半に一人抜いたが十四、五人に抜かれたろう。結果は
241位。Dクラス認定のラインの35分を34分12秒でクリア。この日のトップ
は元ヨーロッパ・プロの市川雅敏氏で22分21秒、速い!!           

 さて翌日はいよいよクラス・レース。9:10スタート、60人位の中程に並んで
いたのに左のクリートがいつまでも入らず、始めから上りだから失速してしまい遂に
止まってやり直す。やっと走り出すとビリから二番。えいクソっ、と五、六人抜くが
すぐ疲れてしまい何人かに抜き返された。あとはマイペースでひたすらゼイゼイ上る
のみ。前方に見えていた集団もばらけ始め何人かをパスする。やがて10分前にスタ
ートしていたE の選手もポツポツと落ちてくるが先行集団にはとても加われないので
孤独なレース。やっと見えてきたゴールに、なんとか35分を切りたい気持ちとカミ
サンのカメラにうまく写るようにと、先にスタートの前を行くE の二人を必死に抜い
て飛び込む。もう吐きそう。49位、ジャスト35分だった。昨日の市川氏にも驚い
たが本日トップはサラリーマン山岳王の村山利男氏(38)で驚異の21分台。
 で、こうしてDクラスの下のほうにしがみつくことになったかというとそうではな
かった。次のJCRC は同月二十六日のツール・ド・嬬恋。受付締切りの時点ではまだJ
CRC未参加だったワケだからF で参加申込みをしていた。当日でも本部で申請すれば
良かったのだがよく仕組みの分かっていない俺は、敬愛する会長もF なんだからイイ
か、とそのまま出場。自動的に川場での認定は無効になった。さて、ここは浅間高原
の農道を使った一周11.5km の起伏に富んだコースで我々F-2クラスは二周23km。出
場出来なくなってしまった緑さんが夏だかに下見をしていて詳細なマップと高低図を
作っておいてくれたので、それを元に作戦を立てポイントになりそうな坂の地点、長
さをビニールテープに書き込みハンドルに貼る。会長と共に160名の前のほうに並
んでスタートするがどんどん割り込まれアッというまに四分の三ぐらいの位置にさが
る。押しの強い会長はずっと前の方で見えない。しかし 3.8kmの最初の上りで追いつ
いて、せんえつながら「つらいねえ」と声をかけ先行させていただく。会長の後談で
は俺はすぐ見えなくなってそれきりだったそうだ。アシストしなくて済まん。そもそ
も<いぬふぐり>は協力するよりまず身内に勝つことを優先する風潮があるからなあ。
会長の人柄だろう。しかし次に現れた2kmの上りは厳しかった。抜きつ抜かれつ、川
場より楽なはずだと言いきかせてのぼる。短い下りコーナーの後の 5,600 m のきつい
上りで最高地点になりここから4km近い下りである。ガンガンこぐものの上りで抜い
た連中に抜かれてしまう。会長も下りは滅法速いので背後が気になるが現れない。そ
うして二周目に突入。この頃になると同じ顔ぶれの5、6人と、上りで抜いて下りで
抜き返されることの繰り返し。最後の下りでは必死に踏んで 68.5km/h をマークするが
三人のかたまりに抜き去られ全く追尾できない。結局ゴールは単独。
リザルトは158名中86位、50分09秒。後日の通知で、悔しいことにこの日の
D の認定ラインは50分だったことが分かった。俺より2分04秒遅れ、104位の
会長と共にE クラスに所属することになった。82位の選手は50分01秒だったか
ら俺よりもっと悔しかったろうな。俺より下位の十代、二十代も30人以上いるよう
だったからまあいいか?始めた時には、二年後には互角に走りたいと思っていたアコ
ガレの会長に勝ってしまった俺は美酒にグデグデになったのであるが、今度は D 昇級
を目指して翌々日からトレーニングを再開した。そうそう、会長の名誉の為に言って
おくが、十一月の西湖のレースではこちらが39秒の負け。あそこはほとんど平らだ
からな。

自転車一代記冒頭

1998

1999

レース・リザルト

表紙