第六章:Cクラスへの道は遠い :`99.前期

             ●6-1

 昨年と同じようにシーズン・オフはマフェトン・トレーニングと時々ジムに行くぐら
い。でも随分昨年よりは怠けてしまった。1月14日、タマさんと走る。小沢峠〜名栗
渓谷〜正丸峠〜グリーンラインで刈場坂峠〜顔振峠〜吾野〜299号で飯能〜所沢の約
100km。タマさんも一応準マフェトンでゆっくり目の低心拍走行を目指すが、地道に
築きあげてきた俺の敵ではない(但し心拍に限る)。最初のきつい上りの東京バーディ
クラブのところで俺が136、7で並走のタマさんは既に160オーバー。しかし心拍
無視なら太刀打ちできないんだからホントのところどうなんだろう。
 秋にオーダーして年末にでき上がったアマンダ・スポーツの20インチ・フレームを
自分で組み上げていたのが一部パーツの入手に時間がかかり、ようやく1月17日朝完
成。<ずれずれ草>「その2」のイラスト参照。これで多摩湖周辺、小沢峠、入間川自
転車道などを走る。
 2月28日、強豪アマチュアチーム<パインヒルズ>のトレーニングに参加。リーダ
ーの50歳にして今なおトップレベルの生きた伝説(バケモンともいう)、大塚和平氏
に「ウチの練習は最初はつらいだろうが来ていれば必ず強くなれる。Sクラスまでいける
よ。」と言われるが、「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、俺は、あの、そこまではと
ても。第一年齢的にも云々……。」「え、あんたいくつ?」「来月45。」「ええ?あ
んた若いねえ。」と、ウエアとサングラスのせいか大分年下に見られたようだ。この日
のコースは入間市に近い所沢の某所。3.2kmの周回で600m程の激坂を含むなかなかき
つい設定でトップは20周するが自由に止めたり再スタートしていいという。参加者は
中学生からの男性10名くらいと女性1名プラスみどりさん。一周目の上りはなんとか
集団の5、6m後を走れたがどんどん離され、女性よりは前を走れたものの2周目には
もう吐きそう。6周目、9周目、12周目にトップにブチ抜かれる。その頃には4、5
人を残して止めていたので俺も13周終えたところでギブアップ。 初めて来てこれだ
け走ったやつはいない、と褒められたが考えようによっては諦めの悪い身の程知らずと
いうことである。帰路同方向の人に聞いたら、この日の男は全員Sクラスだったそうだ。
パインヒルズでもたまにレースで俺より後ろの選手もいるからと不安を乗り越え参加し
たのに、疲れ倍増。

             ●6-

 今年も第一戦にした<第24回チャレンジ・サイクルR.R.>、4月4日。タマさんが
40になったのと会長がギリギリ40代なので10年後までない、初めての3人同クラ
スのB5-B。本来タマさんは上級のB5-Aなのだが昨年例の骨折で欠場のためBになる。
さて、一周目の<心臓破りの坂>までは先頭集団の見える位置にいたがそこまで。最後
の上りでは20番手ぐらいか。二周目からはずっと同じ選手と抜きつ抜かれつ。後続は
離したものの二人とも前に追い付くアシはない。彼は前に出るとすぐこちらに寄る癖が
あり俺の前輪と3回ばかり接触したのでなんとか離したかったが抜いてもいつの間にか
並んできて抜き返される。二周目最後の上りでは18番手、三周目の同じ所で前に出て
(この時は応援のおっさんに15番手ぐらいだと励まされる)クソッ、どうせ下りで抜
かれるなと思いつつもアタック、下りも必死に回し、行けるかも知れんと思ったがゴー
ル前の平坦路で並ばれこちらのモガキも通じず2台分ぐらいの差でフィニッシュ、17
位。後で走り方に文句もあったので色々話したが某有名アマ・チームのピストの登録選
手でロードはあまりやったことがないという40歳だった。最後の平坦でいくら俺がも
がいても通じない筈だ。タマは10位で表彰、会長に関しては彼のページを参照。とこ
ろで今のままのルールだと、20位以内は来年はB5-Aで走らなければならない。いやだ
なあ。

 4月25日、JCRC第2戦、群馬サイクルスポーツ・センター。大雨の中、4周で46
分02秒、『半分以内』の78名中34位だった。

 そして<ずれずれ草>に書いたので省略するが、5月22日地獄の<高尾〜糸魚川ファ
ストラン>が290kmを13時間24分24秒の194位(318名完走中)。リタイ
ア者数を勘定に入れればまん中近くではあるが、、、。来年はチューブは当然だがスペア
タイアも携行するかサポートカーを正式にチームで用意して俺も緊急用にケイタイを持つ
かしなきゃならん。

 一週間後の5月29日、コンジョーのないいぬふぐりの連中を置いて一人で修善寺へ。
JCRC第3戦。いつも中盤まで負けていて後半こちらが勝っている何人かには同じ様な結果
だったので、糸魚川の疲れは意外に残っていないのかと思ったが後日のリザルト表で58
名中36位というので落胆。ところでこの日スワコ・レーシングの田口氏という60代の
有名レーサーと駐車場で車が隣になり必然的に並んでローラー台を回すことになった。
ウォームアップしながら、チームの他の連中は今日は日程が当たってしまった実業団のレ
ースに行ってるんで一人なんだ、などという話から「ウチも先週<高尾〜糸魚川>に出た
んでバテバテで俺しか来てないんです。」という流れになり、「あれは距離はどれぐらい
?」「290kmです。」「へーえ、そりゃあすごいねえ。俺もずっと出たいとは思って
いるんだがこのトシだからな。」「いやあ、田口さんがそんなコト言っちゃって」等と会
話は進み、内心いささか得意だった俺は次の言葉に自転車から落ちたくなってしまった。
「ふ〜ん、300kmっていうといつもの俺の練習の倍だもんなあ。」!!!ガ〜ン。小柄
な田口氏は真っ黒に焼けたぶっといふくらはぎでガンガンとペダルを回しながら呟いたの
であった。

 6月6日、エンペラー・カップ。これは年令分けなので今年からタマと一緒。会長は先
日50になったので別クラスだ。序盤は第2集団のケツ、2周目の二つ目の上りで先行し
ていたタマの後ろに貼り付く。3周目で前に出たもののキツくて続かず、後に戻ってから
次第に離され追い付けなかった。最終5周目の最後の上りで40代の3分後にスタートだっ
た50代クラスの大塚和平氏にすごい速度差でブチ抜かれた。ゴールでスパートし50cm
差で一人抜けたが103名中42位と、同じ年令分けとはいえチャレンジC.R.R.とは大分違
う結果に終わる。しかしレース自体は色々展開があり面白かった。タマさんは24位。
    (左・早川、中・タマさん)
<チームメイトのアシストを受けてアタックのタイミングを計るエース>
と言いたいがタマは俺が前にでるまで背後にいることを知らなかったそうだ。
今度もし後ろにつけたらゴールまで気付かれずにいよう。なんというチームプレイ。

             ●6-3

 エンペラー・カップのあとはうまく出られるレースがないまま、小沢峠やパインヒルズのコースを一人で走る。その他には6月17日に俺のアフリカ壮行会ということで<いぬふぐり>で奥多摩周遊道〜ままごとやベロンベロン・コース。7月4日に一年振りに<CHAOS>のクラブ・ランに参加させてもらい、多摩湖〜小沢峠〜瑞穂・昼食〜多摩湖のコース。翌5日に打ち合わせの為Amanda号で吉祥寺まで往復したのを最後にアフリカへ。「アフリカ紀行」に詳細があるが、ザンジバル以外では治安が悪く脚で歩くことがなかったため、部屋で腕立て伏せをやるぐらいで運動不足。しかし、しっかりTourDeFrance の放送はあった。日本では5回のオムニバスだったが、ナイロビでは延々何時間も実況している日もあった。ヨハネスブルグでは毎日四十分位の放送があり、スポンサーはホンダでCMカット無しだぞ。なんて日本は遅れてるんだ、と思ったがその層の薄さのお陰で自分ぐらいのレベルでもレースに出てられるのかも知れないとも思う。
 帰国後8月あたまからちゃんと乗り始めた。しかしなまった脚と異常に暑いこの夏はこたえる。アフリカは暑かったろう、とよく言われたがあちらは一応冬だったから特に最後の南アなんて寒かったくらい。ローラーを2日ばかりやってから4日に久々に外を走る。25kmか16kmを一区切りにしてそれを2回やっていたコースなのだが、上りがきつくて10km足らずでダウン。休んでなんとかもう6、7kmやってから帰るがバテバテだ。こんな有り様で月末の乗鞍までに復調できるだろうか。
 8月16日〜20日<いぬふぐり>合宿。皆より一日遅れで17日の午前中、富士見パノラマ・スキー場で合流。ワカモノ、少年達はダウンヒルに興じる中、会長車にタープを張ってテーブルを広げタマさんは豚汁の下ごしらえ、会長はヤキソバの準備なんぞをしておる。到着早々缶ビールを手渡されてしまう。こっちは、さあヒルクライムだっ、と意気込んできたのにどうも二人とも二日酔いらしい。そそくさと軽く食べてからロード部四人は入笠山を目指す。パノラマの駐車場からは14km程だがなかなかきつい上り。自分の調子のバロメーターにしようとしたタマさんは全然手応えなく、単独行で1時間12分。6分程して会長とタマさんが一緒に現れる。こりゃあ相当ダメだ。3人で下るが途中後輪がパンク。極く小さいガラス片を踏んでいた。チューブ交換して汗だくで空気を入れるが、御存じない方も多いだろう、ロードレーサーの空気圧は高い。7〜9気圧入れる。だいたい乗用車で 2・2 気圧だから車用のコンプレッサーでは全然ダメなぐらいだ。これを携帯ポンプで入れるのは非常に辛い。肘の関節がガクガクに痛くなる。しかし二人は、オレのポンプの方が良く入りそうだな、等と論評しつつ各々のデジカメで修理姿を撮影なんかしちゃってて全く手伝おうとしない。おまけにタマさんは、穴のあいたチューブを商売柄きれいに巻いて箱に入れておいてくれたので、俺はその後しばらく新品だと思い込んでずっとスペアとして携行していたのだ。
 2日目は主目的の乗鞍ヒルクライム大会に備えたコース試走だ。昨年は試走1:34:31、本番1:23:42 だったから本番で20分を切る為にもなんとか今日は 1:30:00 はクリアしたい。しかし思いは虚しく空回り、1時間36分もかかってしまったではないか。思えば去年は試走時本番ともに曇天、本日はピーカン。その差なのだろうか。おまけにもっとショックだったのは、会長の次男・悠輝にあのマルイシ・スリッパ号を貸与したのだが始めてロードに乗ったというのに、小柄な中2の彼(陸上部)は俺とタマより10分も速かったのだ。荒れました。3日目はプール遊び(雨)。4日目はバラバラ。午前中蓼科の本拠地から一旦10km 下って芹が沢というところから引き返し麦草峠ピークを目指す。20km強を1時間29分23秒かかった。午後同じルートを走ったタマさんが俺より7秒遅かったのでその日は少しウレシかった。しかし悠輝に貸したマルイシで走っていたのでフクザツ。一体今までモゼールにかけた手間とゼニはなんだったの?

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 8月29日、乗鞍本番。7:47出走だが7時過ぎには集合場所の駐車場はすごいヒトで、会長と並びに行くが既に後ろの方だ。今年の四十代クラスは500人以上のエントリー(昨年350)なので、こりゃあスタート号砲から実際に動き出すまで1分ぐらいかかる。せめて2クラスに分けて欲しい。今日もピーカンではるかかなたまで上が見える。遠い(会長のページの写真参照)。トイレに行っていて遅く来たタマさんが脇の方をスイマセン、なんて頭を下げながらずりずりと前の方に移動していった。くそー。なんだかんだとばか話をしてるうち、シュ〜というエアの抜ける音がどこからか聞こえる。「あれ、パンクした奴いるんじゃないか?イヤだねえ。」などと言っているとナント俺の前輪がペチャンコではないか。一瞬にして奈落の底へ落とされた俺はもう動転してしまい、会長に「車のキイを貸してくれ!!」と叫んだものの、この人ごみをかき分けてずっと向こうの車まで行って修理してスタートに間に合うだろうか、ああもうリタイアか、とあたふた。すると「ここでチューブ交換しちゃえよ」との会長のお言葉、はっ、と我にかえる。いつものレースと違って道中長いからサドルバッグも小型ポンプも装着していたんじゃないの。で、ばたばたとチューブを替えエアを入れる。この時ばかりは入笠山のパンク時とは違い、会長が随分ポンプを押してくれて助かった。さて、スタート、相撲で言う「恩返し」にならって「会長、頑張ります」とさっさと先行させていただく。今回は軽量化(工具やポンプを付けているのも変だが)と上り対策でフロント・ギアを38T1枚にしディレイラーも取り外した。リアスプロケットもアフリカ以来なかなか戻らない脚力を考え軽い12〜27Tにした。しかし楽な27Tをつい多用してしまい、結果としては遅くなってしまったようだ。16、7Km地点でそれまで何度も離したり離されていたマークしていた選手を抜き去り、いいペースになって来た矢先、きつくなった所で両側の選手が同時に俺の方によろけて来て避けきれず、右のやつの左ペダルがこちらの前輪のスポークの間に入ってしまいゴロンと転倒してしまう。しかもコケたのは俺だけで、二人は謝りながら行ってしまった。とほほ。さっき抜いたマークしていたやつにも一群になって抜き返され、すぐ走り出し抜いたもののペースが乱れてしまった。1時間10分位のところで、これはもう昨年を上回るのは無理だと気付くがスタート前の混乱を思えば走れているのがありがたいのだと負け惜しみっぽく己を励ます。22kmのゴール地点でも失策。器械計測の関係でゴール前で左右に2コースに分けられ、せばまって追い越し禁止になるのだがきつい左カーブがある。内回りの左は距離が短いが勾配はきつい。右を行くのが当然なのだが前に遅いやつが現れ右に行ったものだからつい左に入った。するとカーブで失速したもっと遅いのが立ちはだかったのだ。パイロンの間から右に出ようかと思ったが失格になってしまっては元も子も無いので断念。悪あがきに過ぎないが。結果は1時間30分09秒、去年よりも6分半も遅い。順位も52位から104位と大幅後退。しかしこの悔しさをバネに後期をぐわんばるのだ!!

自転車一代記冒頭

表紙


第七章:地道な道 :`99.後期

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 というワケで気を取り直し、9月2日からトレーニングを再開。数日後のローラー台の数値ではなんとか戻って来ているようだ。早稲田所沢キャンパス周辺の激坂付きトレーニングコースで5月に出していたベストタイムに近い数字がでてすこし安心した。
 9月11、12日、JCRC 川場村ヒルクライム大会。例年通り初日個人T.T.、2日目クラス・レース。いぬふぐりはロード初レースになる期待の新人・悠輝、会長、部長(みどりさん)、事務局長(タマさん)と俺の5人出走だ。悠輝にはマルイシ・スリッパ号にミシュランの新品スリック・タイヤ(と言っても型遅れ処分品)を装着し貸与するという気前の良さ。「礼儀ってもんがあるだろ?俺に勝つなよ。」と言い聞かせておいた。結果は昨年のT.T.より1分速いがレースより30秒遅いという32分23秒82。昨年同様2日目の方が速くなればまずまずだ。と思ったのだが、あれ程言ったのに悠輝が30分34秒51である。スリッパ号はオーソドックスなクロモリ・フレームでパーツのグレードも低いから俺や会長、タマに比べ 1.5 kg 近く重いし、まだ背の伸びている最中の彼にはすこし大きい。これでジャスト・サイズのアルミ・フレームだったらどこまで速いのだろうか。あ〜あ。
 チーム内順位:1;タマ(30'04"12)、2;悠輝(30'34"51)、3;早川(32'23"82)、
        4;会長(39'40"53)、5;みどりさん(44'06"61)

 そして2日目はと言うと、昨年通り初日より速くなる筈が遅くなってしまったのだ。Dクラス50名、スタート地点で会長とみどりさんに「よしっ、行け行けえ〜!!」と大声であおられた俺はつい飛び出してガンガン踏んでしまいペースオーバー、3分ももたずに先頭集団から脱落、その後もどんどん順位を落とした。このクラスに4、5人がエントリーしている某チームを密かにライバル視していたのだが、昨日は俺より遅かったその中の3人(A(24):32秒遅れ、B(36):36秒遅れ、C(35):3分28秒遅れ)にもC選手を除いて抜かれてしまった。ゴール1km手前、前方に見えてきた先行選手(23)をなんとか至近距離にとらえ、気付かれずにこのまま行きゴール前で抜き去る算段をしていたらゴール地点の駐車場から下って来ていたかみさんが「ほらほら、抜け、抜けー、頑張れー!!」と大騒ぎしたのでテキに悟られてしまった。向こうも必死で踏みだして、一旦は並んだものの結局20秒も離されてフィニッシュ。惨敗の41位だった。
 悠輝はというと、Fクラスだったのだが、E、F、O(50歳以上)、W(女性)の53名で8位入賞、クラス1位。会長は自分がもはや俺の敵では無くなったので息子に全てを託したのであろうか。

              ●7-

 その翌々日、試しに悠輝に貸した方でいつものコースを走ってみたらいいタイムだ。しかも下りでは最速記録が。合宿最終日で30秒タマさんに勝った時もマルイシだったしなあ。モゼールよりやや小振りだからか、取り回しも楽で気のせいか走行中の両手離しでジャージのファスナーの上下やら背ポケットからの携帯食の取り出しまでも簡単みたいだ。ううむ。
 次のレース、9月23日のシマノ・もてぎロードも迫った20日、仕事先の広島から羽田に着いた俺は迷いに迷った末そのアシで北千住のショップまで行き、広島のギャラをぶっ込んで(ホントは後日振込みだけど気分的に)SPINAGYのSPOXというホイールを入手。スポークが金属ではなくベクトロンという、宇宙飛行士の命綱に使われる繊維でハブもカーボン製という軽量新兵器だ。果たしてこの私に雑誌等での評価通りの効果がワカルのだろうか。
 レース当日、3時過ぎに出発、5時40分<ツインリング・もてぎ>着。なにしろ参加者が多くてクラスも多いから開始が早い。会長と俺のエントリーした<オープン・メン2>クラスはしょっぱなの7時45分スタート。4.8km を4周だ。年令別クラスだとたった2周なので同じカネを払うならと年令オープンクラスにしたのだ。リストでは180名もいる。ゼッケン順の整列なのに92番の会長はズリズリ前へ。俺は98番。
 スタート後、とにかく大人数なのでコワイ。押しの強い会長は第一集団の前方、俺はすぐ続く第二集団の中程まで落ちてしまう。双方とも40人づつ位か。ゆるい上りしかないので団子状態が続き、接触、怒鳴ることもしばしば。2周目の上りでようやく会長をパス。3周目半ばまではバラけず、しかもこのコースではいくら上りで飛び出しても平坦路でごっそり抜かれるのでイヤになる。で、走り方を変更、後ろにつく相手を乗り換えつつ小判鮫走法。ゴールでは4、5人でのスプリントとなるが、0.03秒差でドンケツ。トップから5分遅れると失格ということで完走は116名、わしは1分45秒遅れの30分31秒71で76位に終わった。ま、半数以上が20代、俺より上位で同い年以上は5人しかいなかったから不得手なフラット・コースとしてはこんなもんか。


              スタート直後の大集団の中の早川選手

 
左:中盤               右:終盤の第?集団の2番手走行中の早川

              ●7-3

 またしても翌々日だが、レースで使ったSPOXホイールが今までとどれ位違うものなのか走りに行くが前項のマルイシの時よりも遅いでやんの。
 その翌日にはCHAOS のクラブ・ランに参加、一日おいてしつこく同じコースを一人で走る。
麗蘭レコーディングの合間を縫って10月1日、久し振りに多摩湖を走ったら昨年8月と今年4月に出していたベストタイムを大幅更新。
 10月7日、秩父・吉田町で龍勢ヒルクライムの試走。ふもとで着替え終わったらシューズを忘れていた。同行したかみさんは秩父市内に戻って買えとムチャを言うがいくらすると思ってんの?タイムの参考データにするのは諦め、スニーカーで上る。今年は昨年より3.3km 下からスタートだ。昨年のスタート地点からのタイムも計ったが41分08秒で前回レース時より43秒遅れ。本番でのタイムアップと靴の事情を考慮すればまあまあだ。
 10月24日、第2回龍勢ヒルクライム。ブリヂストン・アンカーのそうそうたるメンバーが来ている。トイレに並んだら、昨年までベルギーのプロチームで活躍していた橋川健、大御所・大塚先生、俺、の順だった。これは幸先がいい。10時26分、D(40代)、E(50以上)同時スタート。パインヒルズ4名(D2人、E2人)を含む先頭グループの7、8番手でなんとか大塚氏について走るが 4.6km の最初の激坂でおいてきぼり。更に2人ぐらいに抜かれる。その後も2人ぐらいにやられたかも知れない。苦しいので記憶も曖昧。やがて、去年2km手前で抜いた秩父のチームのT選手('98年 5-3 参照)が追い付いてきてしばらく並走。太田部峠を越えての下りでスパート、3分前スタートのCクラス30代選手を2人抜きつつぶっ飛ばしたらT選手は見えなくなってほっとする。最後の4kmの上りではもう同クラスの人間に追い付く可能性も無く、遅れたCクラスを抜いて行くだけだ。2km手前で C 4人の集団に追い付き合流、抜け出した先頭の一人と共に先行してゴール。44分59秒の9位。初のひと桁順位だが今回は参加者がDクラス30人と少なかったので差程嬉しくなかった。タマさんが来ていたら10位になるワケだし。それはともかく、下見のおかげで昨年より延長された部分や最後の上りの区間距離を把握できていたのは精神的に楽だった。全体にいいペースで走れて満足。

              ●7-4

 次なるレースもまた上りだ。11月6、7日の<第3回武尊(ほたか)ヒルクライム>。どんなものなのか知らなかったが「ゴール直前 20%150m の急坂を Ride On できるか!!」という、恐ろし気なコピー付きで、日本のロードレースでは最大傾斜、とまで書いてある。規模も分からずいささか不安を抱きつつ、通い慣れた川場村を経由して受け付けの武尊牧場に昼前到着。なんだか閑散としている。出走リストをもらうと、40代 Cクラスはなんと6名しかいない。入賞を意識して密かにキンチョー・コーフンする。全体では60名ぐらい。1時前に3km下のスタート地点に自走で移動、1時過ぎからクラスごとに5分おきにスタート。とはいえ我が C は少ないので50以上の D 、年令分けのない MTB と一緒である。C には知った顔がいないので、これはひょっとしたら、と不遜なことを考えてしまう。D は上り得意の良く見る人たちだ。スタート後すぐに速い50代3人と先頭集団を形成、しかしMTB が一人凄い勢いですっ飛んで行く。龍勢でクラス優勝してたヤツだ。暫くしていつの間にか同クラスの大柄なやつが並んできて先頭になる。後ろで様子を見るが、軽量な俺のほうが有利と見て最前に出たもののちっとも引き離せない。3km地点で再び抜かれた。ここから道も狭まり勾配もきつくなる。やがて D の3人にも順に抜かれてしまう。後続は全く見えず黙々と行くが、やがて D のKさんが上に見えてきて追い付き抜き返す。JCRC で同クラスだし川場では惨敗だったので結構意識していたのだ。あとの3人はたまに遠くに背中が見えるだけで全く追いつけずに初日の8.1km を C トップから55秒遅れの29分10秒39、二位で終える。
 2日目がいよいよ「Ride On できるか!!」のコースである。昨日のタイム順に一人づつ30秒間隔でスタートするT.T.形式だ。スタート手続きをしにいくと、なんと間違って30代でエントリーしていた40代のやつがダントツの C トップであることがわかった。申し込みの時点で39だったのだろう、人騒がせなこった。というワケで3位に転落。今日の4kmの距離じゃあ相手にトラブルでも起きないかぎり55秒を縮められる訳はないが、奇蹟を信じてスタート。とにかくきつい。全く気を抜けるところがない。奇蹟どころか、自分の30秒後にスタートした20代の選手に追い付かれないようにするのが精一杯だ。昨日は自分の方が速かったわけだから意地もあるのがかえって焦りになる。宣伝文句の急坂の前にも一ケ所相当きつい所があり、そのあと先のほうに例の坂を押しているのが2、3人見える。昨年も出た連中は「乗っていくか押していくか即断しないとよろけてコケる」などと言っていたし、スタッフのオバチャンも「去年はこの倍ぐらい人が来てたけど乗ってのぼれたのは5、6人だった」等と言っていた(これは絶対ホラだと終わって分かった)。そのせいで「あそこまで行けば降りられる」という逃げの気持ちなってしまって、たどりついたらアッサリ下車、押して上るが凄くつらい。上の方でよろよろこいできた後続に抜かれる。やはり乗ってみるべきだった。悔しい。全員が上り終わるのを待って下山、下でリザルト発表と表彰式。とにかく初入賞、銅メダルとリンゴひとカゴを貰った。しかし下車したのがいつまでも悔しくて、2週間ばかりは何度も再挑戦しに行こうかと思った。

                          

              ●7-5

 この月はめずらしく<いぬふぐり>で11日・早稲田、14日大泉樹林公園と立て続けに合同練習。みんなのページにとっくに書かれていたけど。次レースは12月12日の99kmなのでぼちぼち長距離もこなしておこうと、14日は18km走って皆と合流、30kmの模擬レース的練習のあと新宿に行き TOTO の部品センターで台所のカランを買ってぶっ飛ばして所沢まで帰って総走行98km。しかし80kmあたりから右腿がつり気味、90kmで足首がつる。帰宅、シャワー、昼食後ヒルネをしようと横になったらあちこちツリまくりドスンバタン、ギャア、という有り様で猫に迷惑がられる。
 しかしめげずに3日後多摩湖で75km、この日はつらなかったが尻がしびれて辛かった。なんだかんだしつつCOILのツアーなどもあり12月。4〜5日のCHAOS の合宿の初日のみ途中まで参加。清瀬〜多摩湖〜青梅〜奥多摩湖。皆はさらに奥の丹波山村まで行くがこちらはここで引き返し走行110km。8日、早稲田で50km走ってもう12日に向け万全。
 翌9日もいぬふぐりの何人かと早稲田で走ることになり独りコースに向かっていると、目的地近くで左のブロック塀の切れ目から車がアタマを突き出してきて、うわっと叫びつつ激突してしまった。身体はボンネットを飛び越え左肩から着地したが頭は大して打たず腕も動いたのですぐ自転車を見るが無惨にもフレームがヘッドチューブのところでポッキリ折れてしまっている。病院やら警察やらで一日つぶれてしまったが頭をよぎるのはレースに出られるかということばかり。それにしても家にやっと帰って当然会長のケータイから(俺は持っていない)「練習に現れずにどうしたんだ」という留守電が入っていると思ったのにそんな事は無く、全く他人の心配をしないヒトだというのが分かった。だいたい2、3年前に会長のバンドのライブを忘れて俺が家にいた時も全然電話かけて来なかったもんね。

 そんな有り様でまだ3日後だというのにレース、しかも99kmである。左肩は大きく動かしたり着替えだとかクシャミなんぞすると激痛が走る。前日、果たして耐えられるかどうかマルイシ・スリッパ号で12、3km走ってみるが、まずダンシングはダメ、またブレーキング時にフロントから伝わる僅かな路面の荒れがゴンゴン響く。しかし10月の世界選手権で序盤に転倒・負傷したバンデンブルックは見事先頭集団に復帰、260kmを最後まで優勝を狙える位置で活躍、7位ゴール。その後両手首骨折が判明したのだ。この程度じゃやめられん。翌朝3時半自宅を出るが俺の車はマニュアルなのでシフトチェンジも大変で手前に引くのが出来ないので1〜3〜5という乱暴な変速で玉川サイクルまで行き、会場のツインリングもてぎまではみどりさんに運転してもらう。
 さて9時15分、355名がどばーっとスタート。1.5 km のショートコースを2周後、4.8km の本コースを20周。第2集団だと思われる24、5人のかたまりで走る。5周目会長を周回遅れにする(ピットインしてウィンドブレイカーを脱いでいたそうだ)。40km位までは集団内で平均速度は37〜38km/h だったが、ふっと車間が空いてしまったら空気抵抗とぼちぼち来ていた脚の疲れから脱落。7分台だったラップタイムも8分台に。10周目50kmあたりでタマさんとタダシの背後にせまり、いきなり「わっ!!」と叫んで周回遅れにしかかるが思い直して暫く同行して体力を温存することに変更。なんだかつられたように10人以上も後ろに連なる。そうなると勝手なもので口には出さないが「おめえら俺らより若いくせに何やってんだ、タマにばっか引かせやがって。交替してやれ!!」と自分を棚に上げて思うのである。やがて離脱、先行する。60kmあたりでは9分台、アベレージ30〜31km/h に落ちてしまったが気分は良く、あと40km走れるんだ、と嬉しくなるが80kmあたりから回せなくなってきて軽くつり始めの気配がして来た。それまでフロントはアウターのみだったのについにインナーも使い出す。ついにラップは10分を越えアベレージ26〜27km/h まで転落。
 こんなにツライ時にタマの逆襲にあう。タマさんのページから無断転載;「残り6周で力(つとむ)に追いつくが集団からははじかれ匡志、力と3人で周回していると、ラスト3周で再度パン吉君に接近。3人はできるだけ気配を消し、下りで一気にパス成功。これでほぼ1周の差は有るものの周回遅れではなくなった。」なんて酷い仕打ち。チームのエースをアシストするという、ロードレースの基本が分かっていないヤツラだ。そして最終周回、残り3kmにしてついに両脚とも太ももとふくらはぎがこむら返り状態の世にもひどいツリ方に陥る。停まってマッサージをしようとしたが(すでにコースのあちこちにそういう人々がいた)停車することも出来ない。つっぱった脚で激痛をこらえてゆるゆる回す。ラスト300mがまた更にひどくなり泣きそうだったがここまで来てリタイアってのはないだろう。3時間06分31秒、なんとかゴールラインを通過するが止まれない。大分過ぎた所で脇に寄るが左足を地面についたまま動けず右足はペダルから外すことさえ出来ない。少し動くと新たな箇所がはげしく痙攣する。10分以上も誰にも見向きもされずそこで引きつりまくっていたのだった。ようやく右足をペダルに付けたままフレームに跨がった状態で、左足で地面をそっと蹴りつつピットにたどりついた。勿論左肩だって本当はヒビでも入っているんじゃないかと思う程後半は痛んでいたのだがそれどころじゃ無かった。今思い出してもオソロシイ。順位は総合143位、クラス(40代56名)22位、いぬふぐり内(7名)1位。なんと総合優勝は50歳の大塚先生、2時間31分17秒でありました。
 まあこうして99年最後のレースは終了。その後は怪我(全治4週間の強度打撲、ナントカ筋断裂)の具合や仕事がやや忙しかったこともありそのまま本年の自転車の道も終わったのだった。迷いに迷った MOSER の後継フレームは清水の舞台から会長とタマさんに突き落とされ PINARELLO の旗艦モデル<PRINCE>に決定。発注から納車まで半年とも言われているのにどういうワケか翌日玉川サイクルに入荷してしまった。私の来シーズンはどうなるんでしょう。

 

自転車一代記冒頭

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レース・リザルト

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