第四章:Dクラスへの回り道 :`97.12~`98.前期

             ●4-1

 さて、97年のシーズンは終わり、しばらくのんびりしてから軽くオフトレを開始。
よく分からんが冬は走り込みは軽く抑え、水泳、筋トレなどをした方がいいと雑誌に
書いてあるからそうする。まあ確かに一年中ガンガン走っていては気力が持たないよ
な。 年も明け、一月のある日、書店で取り寄せて手に入れたのに読んでいなかった
「マフェトン理論で強くなる」(ランナーズ社)をツアー先の九州で読み始めた俺は、
これだっ、と思った。プィリップ・マフェトン博士なるアメリカ人の提唱する、トラ
イアスリート向けトレーニング方法である。簡単に言うと、一般的な220−年令を
最大心拍数としてそれの何%の状態で運動するかをトレーニングの強度レベルとする
ものと違って、180−年令を上限とする10心拍の範囲(つまりその時の俺だと1
80−43=137だから127〜137)の低レベルで淡々と運動することによっ
て遅筋を効率良く使う体質に変えて行き、多くの運動選手が壊してしまっている身体
全体のバランスを回復させ、且つ全体的にレベルアップしていくというものだ。これ
によれば、ピークは40過ぎ、しかもそれ以降もある程度の水準を維持できるのだ。
しかもストレッチ等の準備運動はイカンというので、用意がすんだらさっさと走り出
したくてソワソワと端折った体操をしていた俺にはピッタリだ。しかし最初のベース
作りの期間、つまり137をオーバーしてはいけない期間は通常四ヶ月、鍛え上げた
人間でも最低10週間は必要だと書いてあるが、四月のアタマにはあのチャレンジ・
サイクル・ロードレースがあるから、家に戻ってからすぐ始めても10週間丁度でレ
ースだ。九州で毎朝、二日酔いの日は除いて、ホテルの部屋で腕立て伏せや椅子に乗
ったり降りたり運動をしていた俺は、くそっ、心拍計を持って来るんだったと悔しが
った。で、帰宅後すぐに自己流マフェトン・トレーニングにとりかかる。後輪固定の
ローラー台で、負荷を7段階の4にセット。 TIOGA の心拍計はシンプルで、ターゲ
ットを前述の127〜137にセットするとデータとして<138以上><126以
下><範囲内>の時間が保存されるのでこの値とスピード・メーター上の10分ごと
の走行距離を記録していくことにする。また、15分づつのウォームアップとクール
ダウンを前後に入れる。始めはすぐ心拍がオーバーしてしまい範囲内におさめると4km
/10分を超えられなかったが、徐々に慣れて一週間後の1月30日には 4.05/4.11/
3.98というように、概ね20分は4kmを維持、そのあとはだんだん落ちるという具合
になる。外では一定の心拍で走る事など無理だし、ちょっとした坂でも140〜150
にはすぐ上がるからひたすら室内でぼたぼた汗を流す。 3月11日には 4.16/4.01/
4.00/3.93/4.13 。しかし会長は「ほんとにそんなんで強くなるかね。だいたいマフェ
トン博士なんて聞いたことないぜ、出版社のデッチアゲじゃないの?」などと言う。
会長以上にゼコゼコ・バクバク・トレーニングの好きなタマさんは対抗して「脳汁理
論」を打ち立て、最高負荷でとにかく意識モウロウとなり脳味噌が鼻汁と共に流出す
るまで漕ぎまくるという荒行をやっているらしい。俺としても、このまま身体が高心
拍に慣れていない状態でレースに出るわけにはいかない。ついに教えに背き、7週間
にして翌日からロードに出る決意。しかしそれはそれとして事件は起こっていた。
10日夜、ひばりが丘のホルモン屋で会長らと飲んだタマが帰り道ママチャリで道路
標識に激突、鎖骨を骨折。しかも失神している間に先行していた会長らは気付かずに
帰ってしまったという。更に、痛がりながらも骨折とは思わず翌日また一緒に飲んで
いたというではないか。あの怒濤の練習が無に帰すかと思うと、俺は適当に玉川サイ
クルの方向を定めて頭を垂れて合掌したのだった。  

             ●4-2

 そして多摩湖をメインに、奥武蔵グリーンラインと奥多摩周遊道を一回づつ、あと
はマフェトン・ローラーで整えて4月5日、第23回チャレンジ・サイクルR.R.に臨
む。一年振りのこのコースはやっぱりきつい。一周目の心臓破りからもう<リタイア>
の文字か頭の隅に。最後の坂ではギブス姿のタマさんに「今27位!」と励まされる
そばから抜かれる。先で構えられている妻のカメラの手前、よろけるわけにはいかん
と踏み込むが<あと2周もこれをやるのか>と思うとお先まっくら。このコースに関
しては肉体的にはともかく、どうも心理的にはデビュー戦の時から進歩がないようだ。
2周目以降何度か小集団になるが、ペースメーカーに決めた選手には離され、次に決
めた選手には上りで抜き下りで抜き返されるという、嬬恋同様の展開。最終周回の最
後の上りで死にそうになって二人抜いたがホームストレートへの下りで一人、ゴール
ライン目前で一人、と抜き返されてしまった。がっくり。なんで?こんな終盤で俺よ
り遅れて行った奴になんでそういうことが出来るんだ?と、ゴール後吐きそうになっ
てハンドルに突っ伏しながら思う。結果は68名中33位、33分21秒46で昨年
を6分4秒短縮できた。会長もワタシの敵では無かったものの、オフ・トレをせずに
昨年より1分近く速かったので良しとしたもよう。昨年リタイアに終わったみどりさ
んも27位完走。かえすがえすも、昨年クラス13位だったタマさんの怪我が残念。
また、ロードレース初出場のツトム、飯塚君の若手二人が共に周回遅れ失格というの
も残念なのだが、彼らのクラス(十代、二十代)は内部で力の差がかなり有るのに周
回数が多いのでもっと細かいカテゴリー分けが必要だ。

 今年はなるべく多く参加するつもりである JCRC のレースだが、4月19日、第4
戦の群馬サイクルスポーツ・センターを自分の緒戦とする。修善寺と同様のクローズ
ド・コースで1周6kmだがこちらの方がアップダウンはこじんまりした印象。やはり
ここにも<心臓破りの坂>がある。 E クラスは3周18km。会長と共に前のほうに陣
取るがまたしてもクリートがうまく入らずズルズル後退。修善寺ほど坂がきつくない
のでなかなか集団がバラけず、タイトコーナーが多くヘアピンまであり固まったまま
だから結構怖いし中々前に入れない。1周目後半の上りでややバラけ会長も前方に見
えて来る。4.5km ぐらいの所で会長を含め4人の集団の後ろに付き時々前に出るがワ
シラのレベルでも前と後では空気抵抗が全く違い、きつくて後に回ってしまう。2周
目中盤の上りで前方に次の集団が見えてきたがこちらもペースが落ちてきたので意を
決してアタック、なんとか一人で追い付く。第2集団だったらしく、コース脇から
「ヨーシ、いいよこの集団、いけるよ!!」と声援を受けるものの、ここからが<心臓
破り>でバラけていく。以降はチギレた者同士で競ったり単独になったり。最終周回
ラスト2kmで一人をとらえ、いつも俺がやられるようにゴールでパスしようと目論ん
でいると更に一人前方に見えたためそいつがガゼン頑張り出し必死で追うが追いつけ
ず結局3人繋がってゴール、16位。後日リザルトを見たら28歳と29歳だった。
オーシ、この次はやるぞっ。

 

 

 

 

 

98. 8/2 /JCRC 先頭で坂を上ってくるように見える早川選手

             ●4-3

 翌五月は21、24日と立て続け。まず21日が JCRC 第5戦、富士スピードウェ
イでの100分レースだ。先頭選手が100分前後でゴールラインを通過した時点で各
選手のその周を最終周回とするもの。タマさんは医者に適当なことを言って「サイク
リングならいいでしょう」と、許可を取ってきて JCRC初出場。また、みどりさんの
ダンナ、正彦さんも出ることになるが新マシン購入で目移りしていて機種選定が間に
合わず、ローラー台据え付けの我がマルイシ・スリッパ号を貸し出す。会長車に5人
で朝4時に新座を出発、FISCOに5時50分着。この日はここでインターナショナル
・レースのTour of Japan の第4ステージがあるので殊更に出走時間が早く、7:30
だったのだが更に突然10分繰り上げられレース時間も90分に短縮されたらしいが
慌ただしく良く分からないまま、約460名がクラス順にスタート。最初から結構な
ペースで大集団だ。 1周 4.47km 、1周目終盤の上りで先にスタートの D と混ざった
集団が二つ形成され第2集団に位置、伸び縮みしつつ5周目に入る頃までは 2,30m 先
に前の集団も見えていたが次第にばらける。45分、6周目を走行中にゆるい上りで
S、A、B から成るトップグループにパスされるが、長い集団がザーっという音をさせ
凄いスピードで行ってしまう。半周後にセカンド・グループに抜かれる。このコース
はテレビで車のレースを見た感じではそれ程の起伏はなさそうだが、実際自転車で走
って、しかも何周もするとやはり坂は坂、きつくなって来る。右のふくらはぎもつっ
てしまった。10周目に二回目のパス。この時、第2集団に必死で付いていったらア
ノヒトを周回遅れにしてしまった。シケインでは付いて行けるが上りでは全くレベル
が違うので邪魔にならぬよう離脱。やがてトップが14周目に入る時点でラスト周回
になりこちらは12周 53.6 km を1時間31分で終了となった。降りるととにかく尻
の筋肉が痛くてまともに歩いたりしゃがんだり出来ない。ヨタヨタと片付け、車でコ
ンビニに行き食料とビールを入手、再びコース脇に戻り小宴。Tour of Japan のパドッ
クをうろうろしたりする。初来日のイタリアのチーム、Cantina Tollo は昨シーズンは
俺と同じフレームを使っており応援していたのだが今年ランキングが上がったのと一
緒にマシンもPinarello にグレードアップしてしまったので常々文句を言ってやろうと
思っていたのだが「あ〜、キャナアイ テイク ア ピクチャア?頑張ってね。」等と言
ってしまうのであった。それにしてもガイジン選手はデカイ。カッコイイ。勿論小柄
な選手も他のスポーツよりは多いしカッコ悪いヒトもいるが。こういう連中に混じっ
てヨーロッパで、しかももっと上のチームで走っていた今中や阿部ってスゲーんだな
あ、と変な感動の仕方をしてしまう。やがて始まったレースを、フェンス越しに草む
らのなかから観戦するが、素面の松嶋家にひきかえ、燒酎をガンガン行き始めたあの
二人はパンツ一丁になりやがてそれすらも取ろうとするのでホントは30周134km の
ところを4、5周を観て帰路につく。後日の通知で通常の上位6名の他に16位まで
を条件クリアで昇級する旨、13位だったので念願の昇級はあっけなく決まってしま
った。そうと分かってりゃあ、俺もパンツ姿に・・・。タマさんはBクラス認定の快挙。

 さて、僅か二日空けでまたレース、昨年失格の因縁のエンペラー・カップだ。今回
は会長と二人。 昨年のコースに直線路を付け足しUターンして戻ってくるようになっ
ている。やはり去年の多量失格者はマズイと思って距離を延ばしたのだろうが無理矢
理の感がある。11:20スタート、2列目に並んだがいつものようにズルズル後退
してまん中あたりになるが周回半ばの上りで前に出る。このあたりから第1、第2集
団が出来、第2にへばりつく。次の長い上りでばらけるが湖畔に出てまた集団。この
あとも棒状に連なったりばらけたりするものの、案の定付け足された Uターン路で毎
周詰まって集団に戻ってしまいなかなか展開しない。最終の5周目で前方のトップ集
団がペースを上げ離され始めたので4、5人で飛び出し前を追うが結局Uターンのと
ころで捕まる。このあたりの力の配分はアタマを使わにゃあいかんな。そのあとの二
つの上りで大分ばらけ湖畔に戻ってからは必死に踏み続け、最終コーナー後二人をか
わし、修善寺の二の舞いはゴメンなので死ぬ気でスパートしてゴール、全然止まれず
そのまま 3,400 m 先でブッ倒れ状態。というわけで、自分としてはかなり充実した内
容だったと思い込んでいたのだが後日送られてきたリザルトを見たら全くたいしたこ
と無く96名中44位でガックリきてしまった。

             ●4-4

 6月はJCRCの三宅島と新潟があったのだが三宅島は仕事の都合で出られず、新潟は
平地のクリテリウムらしいので俺には不利だから出場を見合わせた。その間、[CycleClub
CHAOS ]の富士スバルラインのヒルクライムや小沢峠のトレーニングに参加させてもら
ったり、いぬふぐりで奥多摩や奥武蔵グリーンライン(顔振峠、刈場坂峠)を走ったり
した。シーズンイン後もマフェトン・トレーニングは続けており、例の10分ごとの距
離というのも浮き沈みはあるものの順調に延びていた。
 そして7月12日、昨年はツアー中で出られなかったミヤタ・カップ。今回はJCRC
との共催となったので昇級後初のDクラスのレースになる。4月19日同様、群馬CSC
で3周だ。9時、約140名のスタート。大集団のままタイト・コーナーを進んで行き、
ブレーキ指示のかけ声や怒号が頻繁に飛び交う中、前方で1台転倒。幸い巻込まれはな
かった。2周目でいくつか上る内にやっと周りが減ってきて6、7人のかなり伸び縮み
のある集団になるが付いて行くのがやっとで前には行けない。しかし最終3周目の心臓
破りでペースが落ちたので、まだ早いとは思ったがつい飛び出してしまった。しばらく
はリードを広げていたが上り終わってのバックストレートではズラーッと後ろにつなが
っていたようでラストの左コーナー後6、7人にまとめてパスされた。もう全く余力が
なくて追いつけぬままゴール。結果は84位。E で出た4月より2分20秒速かったの
に半分以下なのだから前途多難である。

 

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 番外:MTB

 元々<いぬふぐり>はMTB のチームで主力はクロスカントリーであった。触れてい
なかったがクロカンやダウンヒルではチームの青少年達が活躍しているし会長もタマさ
んも上位入賞経験がある。そんなわけで「一度位はコテパンもあの爽快さを味わえ。ほ
んとに苦しいけど。」と会長に無理強いされて翌週シマノ・リエックスという、4日間
に渡るMTBの大会の2日目、クロカン・レースのシニア・クラスに出ることになった。
会長の本心は「爽快さ」云々よりも「マウンテンなら早川に負けるわけがない」という
所にあるのは明白で、その通りの放言をタマさんと飲むたびに繰り返していたらしい。
まあ俺もいつかは走ってみたいと昨秋にモデルチェンジのため格安になったMONGOOSE
の、フロント・サスにROCK SHOX INDY XCが付いたやつを買ってはあったのだ。11
〜12月にかけ3回ばかり狭山湖周辺の林道を走ったがその度にドロドロになるので洗
車が面倒臭く、やがてマフェトン・トレーニング期に突入してしまったので全然乗って
いなかった。6月に玉川サイクルに部品を取りに行くのに気分転換にこいつで出かけた
ら、現れた会長に「せっかく丈夫な自転車できたんだ、飲むしかないだろう」と言われ
結局泥酔。帰路、黒目川自転車道というのを走っていてなぜだか自転車ごと前転した。
一体どういう態勢だったのか、左肘をズルムケにしたうえ右肘、右膝、左腰にも酷い打
撲で自転車のほうも左右のバーエンドの上側、すなわちこの自転車の一番上の部分がひ
どくすれて削れておりサンマルコのサドルもサイドが裂けてしまった。つまり、どうも
MTBに関しては会長の陰謀のニオイがぷ〜んとするのだ。しかしひるむわけにはいかん。
7月19日、長野・小海町の会場に意を決し乗り込む。コースはスキー場のゲレンデと
周辺の林、小川で構成されている4.4kmを2周。まずゲレンデの下から蛇行しつつ上を
目指す。途中一旦フラットなところがあり、いぬふぐりの少年達がいて15位だと教え
てくれる。そこから急な上りになり2人抜く。上り切って右にターンして今度は外側の
林の中の細いダートを下るのだが、バイクは跳ねまくるしラインを選ぼうにもどんどん
スピードが上がってしまうからついブレーキを使い何人にも抜かれる。最後にタイヤ幅
しかない大石の間を垂直に飛び下りるかのような所を下る。もう、トホホである。人が
見ていなかったらバイクを先に落とし尻餅をつきながらズリズリ下りるところだ。ここ
からフラット・ダートでゲレンデの一番下へ。ここまでで1周かと思ったら細い砂利道
を下って真っ暗な森に突入。ひどいでこぼこ、丸太を3本合わせた橋やら小川を突っ切
る箇所やら全く乗れないガレ場などが待ち受ける。しかも幅がないから後ろから迫られ
てもそうそう譲れない。どうしようもないズルズルの所を押して走っているともう吐き
そうでコース脇で休みたくなるがそんなわけにもいかん。後ろからも駆けて来る。前の
やつが飛び乗って走り出した地点で俺もそうするが結局動けずまた押し走りに戻すこと
もしばしば。こんな所をもう一度走るのかとゼツボウする。しかしやっと森を出ると舗
装の急坂で、ロード野郎としてはこっちの方がはるかに楽だ。2人抜く。そしてゲレン
デに戻りスタート地点を越え2周目。1周目はフロントはセンターギアで済んだこの上
りももうインナーにしないとダメだ。何人か抜いたとは思うのだが、下りでは1周目よ
りデコボコが身体に響いて遅くなりどんどん抜かれる。森の中でもラインミスから降り
ざるを得なくなること多し。舗装の上りで1人、スタート地点先ゲレンデ中程のゴール
ラインまでの上りでもう1人抜いてフィニッシュ。先にゴールしていたタマさんが頭か
ら水をかけてくれる。完走29名、39分22秒の21位。タマさん34分25秒、8
位。会長は42分37秒、26位。MTBでもこんなことになるなんて、会長、ずっとト
モダチでいてくらさいね。しかしあんなことをビュンビュン下れるやつなんて、オッカ
シイんじゃないの、人間として。

自転車一代記冒頭

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   第五章:Dクラス真中以上への道 :`98.後期

             ●5-1

 夏のある日の夕方、玉川サイクルにたむろしていた会長は思いきった行動に出た。
私の想像ではおそらく午後から飲み始めていたビールから既に焼酎に切り替えていた
のであろう。某輸入代理店にトツゼン電話をかけ、イタリアの高級車、リアルレーサ
ー、シロートには乗りこなせないと言われる <De Rosa> のフレームを酔いにまかせ
オーダーしたのだ。そして強引にもタマの分まで注文したと言う。その夜、「へっへ
っへ。いひひひひ。」とだらしなく笑いながらの電話でその事実を知らされた私はチ
ーム内最高級車から一挙に3位に転落したことに全く動揺せず、けっ、いいもんね、
いくら機材が良くなったってな、と彼等に祝杯をあげつつ、うーん、大分太くなって
きたな、と自分の腿をさするのであった。

 8月2日、JCRC第9戦。3時起床、ネットで Tour De France の状況をチェック。昨
日の T.T.でウルリッヒ1位になるも、パンターニも3位で総合トップは変わらず。よし
よし。コーヒーを飲んで3時45分かみさんと出発、玉サイ前で会長の車に乗り換え。
会長はデビューする De Rosa をしっかり布団でくるんでいる。去年積み込みの際に俺
のMoser にペダルをぶつけて塗装のえぐれる傷をつけた時は「なんだ、どうってこと
ないよ、こんなの。」と言って笑って済ませたくせに。またしても人間性を見ちゃっ
たなあ。4時20分、会長、みどりさんと4人で修善寺へ。タマさんはそうそう日曜
日に店を閉めるわけにもいかないので今回はパス。7時の開門の少し前に着。雨と風
が出て来たのでバッグ、ローラー台、自転車を持ってメインスタンドの屋根の下に陣
取る。コース試走後、まず8時にみどりさんが出走。ローラー台でウォームアップし
ながら見ていたが2周目、いつまでたっても戻って来ない。どうしちゃったんだろ、
と心配しつつコース内側に移動してアップ。
 今回は逆周り(時計周り)ショートカット4kmを周回する。9時にC(6周)、9
時1分我がD(5周)、2分にE(4周)がスタート。最前列に並びクリートも珍しく
一発ではまり好スタートと思いきや、やっぱりどんどん抜かれる。が、すぐ上りなの
でつい前方に出てしまう。心拍を見て、待てよ、まだ先は長いのだとセーブする。下
りコーナーは皆速く、ずるずる後退。上りになると抜き返すという毎度の形に早くも
なってしまう。初めての逆周りは、いつものチャレンジ・ロードより楽だと聞かされ
ていたのに意外につらい。特にスタート/フィニッシュのホームストレートに向かう
最後の上りがこたえる。一周目でもうガタガタで、9月10月のことまで頭に浮かび、
もうレースはやめてツーリングにしよう等と弱気になる。しかし3周目半ば、10km
過ぎたあたりから気分が変わり、E ならあと1周で終るが俺はあと2周走れるんだ、と
いう気になってきた。いつものように何人か決まった連中と伸び縮みしながらの展開
だが5周目には周りが下がっていってしまい、ずっと抜きつ抜かれつだった一人も切
れてからは殆ど単独で走る。6周目後半の上りでずっと先に数人見え始め序々に追い
付き一人抜き、最後の上りで二人を抜く。前月のミヤタカップのようにゴール前にゴ
ッソリ抜き返される羽目にはなるまいと必死で踏むが後続はもう力尽きていたようで
追っては来なかった。フィニッシュ後、カメラマンの妻と先に終わっていた会長とに
ねぎらわれてスタンドに戻ると落車で満身創痍といった有り様のみどりさんとビアン
キがいた。お気の毒さまでした。
結果は70名中40位。当面の目標の「半分以内」には及ばず。                                                                                                                                                                                   ●5-2

 De Rosa 事件は無視しようとしてもやはり少々無理があった。信州での怒濤の夏季
合宿後、ついに俺も清水の舞台の4分の1あたりから飛び下りた。ツールで有力選手
達がこぞって使っていた、フランスのTime のカーボンフォークを装着することに。
軽くて衝撃吸収性が高いと言うが値は張るし果たしてノーマルとの違いがいい方向に
行くか、そもそも違いが俺に分かるんだろうかと随分悩んだのだが思いきってオーダ
ー。ついでに更なる軽量化の為にPMP のチタン製ハブシャフト、ステム・ボルトも購
入。シートポストはモゼールの固定方式が特殊なためカーボン、チタン製品での大幅
な軽量化は望めないが唯一入手出来るグレードアップ品の Timec社のKNIFE というエ
アロ形状のものにする。これで 合計446グラム軽くなった。定価で計算すると100g あ
たり2万円以上である。普通のヒトから見たらアホだよなあ。そんな事より脚力を付
けた方がずっと効果はあるよな。しかしカーボンフォークだけは重量以上に路面から
の振動吸収の面で明らかな利点は体感出来た。   

交換パーツ

ノーマル部品との重量差

Time EQUIP PRO

760g-467g=293g

PMP ハブシャフト前後

168g-70g=98g

PMP ステム引き上げボルト

40g-20g=20g

Timec<KNIFE>

270g-235g=35g


 こうして臨むのは、ずっと出てみたいと思っていた乗鞍のヒルクライムである。毎
年8月の最終日曜に行われるこの大会は3、000人以上が集まる一大イベントで、
標高1400m の観光センター駐車場から岐阜県境の2800m まで22km ひたすら上り
続ける。実は夏季合宿で試走したし、その後上記の軽量化を施したので気持ちはラク。
とは言え、前日検車を受けいぬふぐり蓼科支部の山荘に宿泊したのだが早々と酔って9
時に寝てしまったら零時に目が醒めてしまい、またビールを飲んでうつらうつらして4
時出発だったので万全ではない。霧雨の中、7:30スタートのチャンピオン・クラス
を皮切りに3分おきに各クラスがスタート。40代クラスは7:46。350人もいる
が先は長いので後ろの方でスタート、セーブしつつ前に出て行くがハイペースで抜いて
行く奴もいる。10分程で殆ど抜かれることは無くなり、前にスタートしている若いモ
ンを次々と抜く。むふふ。いつものようにスタートで強引に前に陣取っていた会長を抜
くのに意外にかかった。なにしろ人数が多く、途切れることなく続いていて規則通り右
から抜こうにも手こずること多し。中盤の一番勾配のきついと思われるところはさすが
に苦しい。しかし時おり後ろからスタートしているMTBクラスのトップ選手(年齢区分
なし)がダンシングでえらい速さで追い越して行く。終盤の、樹木の無くなったところ
は合宿の時は霧と強風でヨロヨロだったが今回は弱風。ラスト2kmは少し斜度がきつく
なるが「ゴールで力を残さないように」という、Funride誌の<乗鞍攻略ガイド>を思
い浮かべ限界走行でフィニッシュ。1時間23分42秒、クラス52位(351名中)、
総合460位(多分3100名位)。10日前より11分ほど速かったのには軽量化に
散財したことが大きかったと思いたい。
 前年のデータでは各クラスの平均は、16〜25歳/1時間34分16秒、26〜30
歳/1時間42分50秒なのでまずまずか。しかしチャンピオン・クラスは1時間13
分48秒、コース・レコードは三章で触れた<サラリーマン山岳王>村山利男氏 の55
分30秒だからなあ。わしらのクラスのトップは 1時間05分台 だったし。蓼科に戻る
途中、諏訪の焼肉屋「南大門」で打ち上げ、泥酔。帰路、買出し等をしたのも知らぬまま、
風呂が沸いたぞと起こされる。入浴後タラチリでまた打ち上がる。

             ●5-3

 9月12、13日、JCRC第8戦<川場ヒルクライム>。昨年D認定を受けた所である
し通称「コテパン」と呼ばれているからには山岳王パンターニの今年のダブル・ツール
(同じ年にジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスを制覇すること)に泥を塗らな
い成績をおさめなくてはならない。しかし初日の個人T.T.で昨年を47秒短縮するも順
位は大して上がらず。二日目のクラス別レースでも更に1分45秒も短縮したのに上か
ら3分の2ぐらいのところだったのでガックリ。しばらくやる気を無くしてしまった。
 ま、何ごとも都合良く忘れっぽい性格なので暫くしてトレーニング再開。10月12
日には顔振峠〜刈場坂峠と走ったあと、ええいとばかり秩父に下りて更に北上、11月
の<龍勢ヒルクライム>のコース試走に吉田町まで足を延ばす。

 10月25日、第五回ツール・ド・嬬恋。JCRCの第12戦になる。上りで抜いて下り
で抜かれる毎度の展開。47分11秒、昨年を3分近く短縮。121名中62位、『半
分以内』には届かなかったがなんとかDクラスまん中になれた。実は前日にも宇都宮で
第11戦があったのだが俺はかみさんと嬬恋村の鹿沢温泉に前ノリしていたのだ。ダブ
ルエントリーの選手が多ければ体力的に有利では、と踏んだのだが風呂と大量の料理と
酒ではどちらに転んだのだろうか?

 11月15日、この年のJCRC最後の参加大会になる第13戦は千葉のフレンドリー・
パーク下総。1.5kmのほぼフラットなコースを10周という、目まぐるしいもの。集団
は長く延び、ずっと先頭の見える第一集団の後方にいたが最終周回で大失敗。あまりに
短いコースなのでもう1周あるような気がしてしまいゴール前のスパートに見事に取り
残されて38位。14名が周回遅れで失格しているものの俺の後ろはいなかったようだ。
とほほ。

 シーズン最後のレースと決めた秩父・吉田町の城峰山での<第1回龍勢ヒルクライム
>、11月23日。11km 、650m の標高差だが2ケ所ぐらい結構な激坂があるのと最後
の2km ダラダラのぼりが続くのがポイントか。年令分けなので40代に突入したタマさ
ん、会長、俺とが同じクラスで走るというロードでは初めてのこと。しかし勿論チーム
プレイは無い。スタートからハイペース、タマを含む4、5人が先頭、次の5、6人の
第2集団で走るが最初の激坂でこちらの集団はバラけ俺も順位を下げる。その後は抜い
て行った選手を大分経ってから抜き返したり、早くスタートしていた20代、30代の
チギレてきた選手を抜いたりと淡々とゼイゼイ進行。最後のダラダラ坂で乗鞍で俺より
4分近く速かった選手をスパートをかけて抜いたら左ふくらはぎがつってしまったがそ
のまま引き離してゴールできた。39分34秒の10位。タマさんは37分11秒で5
位、会長は25位。参加者のやや少ない新規大会だが、まあ兎に角10位というのはい
ままでの最高順位だ。シーズン最後としても「万歳!!」ということにしておこう。            

 

自転車一代記冒頭

1999

2000

2001

レース・リザルト

表紙