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<2> ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」における「引用」私論2006

 これまでは、ショスタコーヴィチを語る上で避けて通れない「引用」の類型について、いろいろ分類などしてみたが、今までの考え方を使って、今、私が考え得る「交響曲第5番」における「引用」について、述べてゆきたい。かなり、いろいろな作曲家にもご登場いただくこととなろう。
 ただ、一部の「引用」「影響」の指摘にまま見られる、何となく似ている、といった、多分に主観的な書き方は極力排除して、具体的な類似点を挙げつつ書き進めたい。・・・けれど上手くいくかしら。

<2−1> ベートーヴェンの交響曲第5番

 まずは、何と言っても、「運命交響曲」である。番号が共通するのはさておき、でも、作曲家としては充分意識するだろう・・・第5番チャイコフスキーマーラーも随分、ベートーヴェンの第5番を意識している。何と言っても、ベートーヴェンの代名詞、「苦悩を突き抜け、歓喜に至れ」、「暗黒から光明へ」、・・・この筋書きで、感動的大作を書きたくなるのは、うなずける。
 ショスタコーヴィチも、まず、この大前提を踏まえ、短調から長調へと推移する全体像を、交響曲第5番に付与した。これも、ベートーヴェンからの「借用」と言えるだろうが、この程度の借用なら、誰だってやっている。それ以外に、ショスタコーヴィチにおける固有の事例として、作曲技法的な観点より、ベートーヴェンの交響曲第5番からの「借用」を2点を挙げる。

 @リズム動機の楽章間を越えた展開

 ベートーヴェンについては、説明無用だろう。「タタタ・ター」というリズムが第1楽章冒頭で提示されるや、第1楽章では徹底的に、繰り返し活用、展開される。本来、対立すべき第2主題においても、背後で鳴っているほどだ。後続楽章においても、主要な主題にこのリズムは内包している。第3楽章スケルツォの低弦の序に続く、ホルンの主題。第4楽章の第2主題。

 ショスタコーヴィチにおいては、ベートーヴェンに遠慮したか、1つ音符を少なくして、「タタ・ター」というリズムを徹底的に活用している。
 第1楽章の4小節目にさりげなく、序奏的部分の最後に1回鳴らされるこのリズム、その後、折りに触れて出現し、第2主題(50小節目以降)の伴奏としてくどい程に反復される。その後の展開部における活用の徹底ぶりは、説明不要だろう。
 第2主題のスケルツォにおいても、中間部(ヴァイオリン・ソロ)で、何度も現われる。
 第4楽章においても、特にクライマックス(119小節目)において威圧的にトロンボーンで登場するなど、目立った役割を負っている。

 A第2楽章再現部における管弦楽法
 
 ベートーヴェンにおいては、第3楽章の冒頭の主題が、再現部において、弦のピチカートと木管を主体とした、ささやくような静寂の中に表現されるが、ショスタコーヴィチにおいても、第2楽章の再現部(157小節目以降)が、全く同様の発想で、冒頭の提示部に対して管弦楽法が変更されている。
 これは偶然ではなく、「スケルツォ楽章の再現部」という場所自体が共通しており、明らかに意識的なものであろう。

 さらに、細かいところ詳細に見ていけばまだあるかもしれない。例えば、B楽曲終結における主和音のみの強調
 ショスタコーヴィチにおいて、フィナーレの最後13小節は、全く不純物のないニ長調の主和音のみが鳴り響き、この「純粋さ」(ドミソ以外の音は使わず)「くどさ」(他の和音を挿入せずに突っ走る)は、ベートーヴェンの第5番を想起してもいいかもしれない (このベートーヴェンに匹敵するのは、マーラーの2,3番の交響曲の結びくらいか。)。
 それにしても、20世紀も中盤、1937年に、ここまでやるのは、やや意固地な感じもするな・・・。どうだ、これでも納得しないのか・・・と。

(2006.3.7 Ms)

<2−2> ブラームスの交響曲第4番、そしてバッハ?

 いきなり、脱線である。ブラームスの「引用」があるという話ではない。ベートーヴェンが出たついでとして、「古典」への崇拝の念、について触れておきたい。このあたりから、「?」が付きまとうので、くれぐれも、ご用心。

 ブラームスは、リスト、ワーグナーが新たなるロマン派音楽の開拓を目指したの対し、伝統を重んじる態度を鮮明にしていたが、ブラームスの交響曲第4番においては、大きく2点、以前の交響曲にはない、伝統の尊重を思わせる特徴を持つ。

 まず、第2楽章冒頭や、第4楽章冒頭の主題の低音部(7小節目)にバロック以前の教会音楽における「フリギア旋法」の特徴を取り入れた点。
 また、第4楽章にバロック時代の変奏曲スタイル、「パッサカリア」を採用、さらに主題そのものもバッハからの影響の強いものである(音楽之友社刊のミニチュア・スコアの解説では、カンタータ第150番の「シャコンヌ」の主題に言及している。)
 曲の構成も、大きな3部形式で、中間部を長調にしている点が、やはり、バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番の「シャコンヌ」と同様であり、さらに、ブラームスにおける中間部の主題(トロンボーンの旋律)のリズムは、このバッハの「シャコンヌ」の主題と同じリズムを使用している。
 
 ちなみに、この無伴奏ヴァイオリンのシャコンヌを1877年にブラームスは、左手だけで演奏するピアノ作品に編曲し、
「ただ、貴女への愛情のためだけで書きました」と記して、右肘を脱臼したクララ・シューマンに贈ったとのことだ(音楽之友社刊 「大音楽家 人と作品 10 ブラームス」 門馬直美著)
 この編曲作業を通じて、交響曲第4番の第4楽章のアイディアが醸成された可能性はあるかもしれない。   

 
 さて、翻ってショスタコーヴィチを見れば、ブラームスと同様、@第1楽章の「フリギア旋法」については多く指摘されているとおり(6,7小節目で主題提示。展開部で最大限に活用される)。
 先に述べた、弦楽四重奏曲第8番への「不完全引用」でも触れたが、A−G−F−Es−F−Dという旋律線であるでなく、Esの音を使用しているため、「フリギア旋法」と分析される)
 また、この旋律線は、ショスタコーヴィチの交響曲第4番の第2楽章中間部の主題として使用されていたものに類似しているが、それとの関係は後述したい。

 さらに、Aバロック音楽との関係については、前述の千葉潤氏著作(P191)でも、第1楽章について、
「冒頭の序奏主題は、荘重な付点リズムとカノン等、バロック風の特徴をもち・・・」
と言及されている。
 例えば、バッハの管弦楽組曲などの序曲を思い出していただければわかるが、いわゆる、バロックにおける「フランス風序曲」の特徴、付点リズムを伴った緩やかなテンポによる開始、との類似である。

 これら@Aをもって、具体的な特定の曲からの「引用」とは言い切れないものの、バロック音楽、さらに昔の音楽からの影響と見るなら、ブラームス同様に、「古典」への崇拝の念、が作品に投影しているという解釈は成り立とう。

 しかし、ここで私が思うのは、権力側の「批判」に対する「回答」として、この作品を眺めれば、まさに「荒唐無稽」、「カオス」と前作歌劇を批判された以上、「秩序」「伝統」を重視する姿勢を、とにかく明確にするためのポーズとして、この、「古典」尊重と受け取られるのが可能な楽想が「借用」され、冒頭に掲げられたのではないか、という推理である。
 それも、いきなり第1楽章冒頭7小節間で、矢継ぎ早に提示され、かなり意識的であったと考えられないか。

 つまりは、この<2−2>(「古典」への崇拝を思わせる「借用」)と、<2−1>(ベートーヴェンの交響曲第5番からの「借用」)の指摘をあわせることで、「カオス」ではない音楽を創作すべく、ベートーヴェン、バッハなどの古典を真面目に勉強して新作を書いたんです、というアリバイが用意されている、というわけだ。
 (一方で、1948年のジダーノフ批判の際の「回答」、オラトリオ「森の歌」は、スターリンを称える言葉や、民謡によって、かなり安易な形で、体制に擦り寄っている。交響曲第5番における「回答」の方が、自己保身と芸術家としての良心の絶妙なバランスの上に成り立っていると言えそうだ。)

 かつてのショスタコーヴィチは、交響曲第2番ではヒンデミットの「管弦楽のための協奏曲」歌劇作品ではアルバン・ベルクの「ヴォツェック」交響曲第4番ではマーラー、と、かなり20世紀音楽からの影響を濃厚に示していたが、ここで、生き残りのための、大真面目な「古典」尊重、という姿勢が急浮上しているのではないか(もちろん、ショスタコーヴィチにおいては、ピアノ協奏曲第1番も「古典」を意識したものとして有名だが、本人曰く、「笑い」を喚起する作品として狙っており、パロディとしての性格が強すぎる点、交響曲第5番との相違が見られよう。)

 と、ここまでは、従来からの指摘の範囲かと思うが、「古典」尊重という姿勢から、さらにバッハに絞って、「引用」について考えてゆきたいのだが・・・。

(2006.3. Ms)

 バッハからの影響という点では、1951年の「24の前奏曲とフーガ」が最も相応しい存在だが、それ以前にも、バッハの影はちらついているように思われる。

 例えば、1940年のピアノ五重奏曲の第1、2楽章も、同様に「前奏曲とフーガ」と題されている。これらの2例は、楽曲の形式の模倣、として解説できる。
 また、交響曲における最初のパッサカリアの使用を行った、1943年の交響曲第8番も、同様の文脈で語ることが可能かもしれない。

 その前後においても、さらに具体的なバッハの特定の作品との関連を匂わせる作品として、まず、1941年の交響曲第7番「レニングラード」の第3楽章について、例えば、前述の千葉潤氏著作(P195)では、
「この楽章の特徴は、両端部分に見られるバロックの模倣である。数オクターヴに広がる冒頭のコラールは、オルガンの荘厳な響きを連想させ、つづく弦楽合奏の即興的なフレーズは、バッハの無伴奏ヴァイオリンの音楽を彷彿させる。」
と言及されている。
 ちなみにバッハの無伴奏ヴァイオリン的な楽想は、18小節目以降現われ、コラールと対話しながら何度も登場し、クライマックスにおいては(341小節目)、トランペットで高らかに吹奏される。

 さらに、1939年の交響曲第6番の第1楽章については、日本におけるショスタコーヴィチ文献の祖である、井上頼豊氏の「ショスタコーヴィッチ」(音楽之友社刊)によれば(P90)、
「いくぶん厳粛なラールゴの主要主題はバッハの旋律形のあるものを思わせ、六度から導音への進行は平均率ピアノ曲集第1集のト短調フーガ、または第2巻のイ短調フーガを思わせる。」
と言及されている。
 私個人としても、この第1楽章7〜9小節目の主題は、バッハのブランデンブルク協奏曲第6番第2楽章の主題を想起させる。

 H.Ottaway著、砂田力訳の「BBCミュージック・ガイド・シリーズ25 ショスタコーヴィチ/交響曲」においても(P45)、
「最初の素材の解釈にソヴィエトの評論家たちは、J.S.バッハを引き合いに出すのがお気に入りのようで、ひとつまたは2つの音程―例えば変ロ音から嬰ハ音への下降―と対位法的展開を解釈の拠り所としている。」
と言及されている。

 この一連のバッハとの関連が、ここまで継続的に出現してくると、「偶然の一致」ではなく、それぞれが意識的な「借用」、もしくは「引用」(交響曲第6番においては、旋律線の類似ということで、「不完全引用」と解釈できないか)との可能性も高まろう。

 そして、ようやく本題となるのだが、この流れの発端として、交響曲第5番は位置するように私には思えるのだが・・・その根拠としては・・・。

 具体的には、交響曲第5番の第3楽章の24小節目から出る、第1ヴァイオリンの旋律が、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番第2楽章のフーガ主題「不完全引用」と思われる。バッハにおける1小節の主題提示がほぼそっくりな形で(音符の長さこそ倍に拡大されているが)引用される。ただし、この指摘については、私の知り得る限りでは未見なので、「完全引用」とは断定しないでおこう。
 この主題自体は、79小節目においても低弦で再現されるが、何と言っても、クライマックスの121小節目以降、木琴を伴った鋭角的な響きで鳴り渡るのが印象的だ。

 これら、交響曲第5番から第7番におけるバッハとの関係をどう見たらよいだろう。
 もちろん、ショスタコーヴィチの本心として、バッハへの尊敬の念、これも無かったとは言えないだろう。
 さらに、自身の延命のため、「古典」重視のポーズ、これは考慮されているだろう。
 そして、これらが、「借用」なり、具体的な「引用」とするなら、何らかの意味付けはあったののだろうか・・・。
 
 まず、借用元、引用元が、標題や歌詞を持たない絶対音楽であるので、「修辞的」ではなく、「非修辞的引用」との可能性は高いだろうが、それにしても、全て、緩徐楽章、それも、短調的な現われ方、そして、これらの「バッハ」的発想の部分の切々たる訴えかけるような情感、ここにショスタコーヴィチの何らかの思いを私は感じずにはいられない。
 (なお、蛇足ながら、この3例ともに、緩徐楽章の冒頭に提示されず、主題提示部の2番目の楽想として登場し、かつ、それぞれが、強奏される箇所を持っている点が共通している。)

 ここで、「24の前奏曲とフーガ」の作曲背景を私は思い返す。ジダーノフ批判の後、体制讃美の声楽作品(オラトリオ「森の歌」、カンタータ「我が祖国に太陽は輝く」など)、体制讃美の映画音楽(「ベルリン陥落」「若き親衛隊」など)を、1953年のスターリンの死まで書き続けた彼にとって、「24の前奏曲とフーガ」は、「体制」、「政治」に媚びることのない芸術至上主義の現われではなかったか・・・。
 当時の状況下では、ささやかな抵抗の色を帯びてはいなかったか・・・。
 ショスタコーヴィチにとって、バッハこそ、創作活動における純粋な芸術性の拠りどころとなっていたのではないか・・・。

 そう考えた時に、交響曲第5番から第7番の緩徐楽章のバッハからの「引用」または「借用」は、単なる「非修辞的引用」を越えた主張を匂わせてはいないだろうか。
 その発端としての、交響曲第5番の第3楽章における、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番第2楽章からの「引用」について、私はおおいに着目したい。
 「政治」や「体制」に穢されない芸術の存在、そんな思いが、バッハに仮託された形で私には聞えて来るのだ・・・。
 多分に個人的「曲解」なのだが、この我が思い、全くの的外れだろうか???

(2006.3. Ms)

<2−3> ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番

 ショスタコーヴィチとラフマニノフの関係というのは興味深いテーマだと思っている。
 以前もこのHPで触れました(交響曲第14番 ブリテン ラフマニノフ ’99 10月 )が、ここでは、最も重要な接点、二人を強烈に結び付ける「怒りの日」というグレゴリオ聖歌からの引用、といった視点とは違った指摘をしたい。
 第1楽章の構成についてである。

 まず、ショスタコーヴィチの交響曲第5番から。
 第1楽章は、Moderatoで始まり、楽章の中央に位置する展開部で加速し、再現部でその加速は止まって、最後はまた最初のModeratoのテンポに落ち付くのはご存知のとおり。
 この、展開部そのものがアッチェレランド的な構成というのは、この作品の、かなり特徴的な性格とは言えないだろうか。

 ただ、古今東西の作品で、当然、曲中に加速を伴うものは存在する。
 ソナタ形式の第1楽章において、緩やかな序奏の後、加速してアレグロの主部に到達するもの(シューマンの交響曲で第3番以外は全てそうだ)。 また、アレグロの主部の後、コーダでさらに加速するもの(ベートーヴェンの交響曲第5番、ブラームスの交響曲第1番のフィナーレなど例は多そうだ)。

 これらに比較して、展開部がほぼひたすら加速、というのはそんなに頻繁に見られないだろう。
 ショスタコーヴィチの場合を詳細に見て行けば、106小節目から展開部が始まるものとして、まずテンポは、四分音符=「84」(提示部の第2主題と同じ)からスタートし、ピアノの低音が不気味に鳴り始める121小節目から、「92」。そして、「104」「126」(Allegro non troppo)、「132」と進む。ただし、小太鼓のリズムに乗ってトランペットがフリギア旋法の主題を吹奏する188小節目で、Poco sostenuto、「126」とやや落ち着くものの、再度加速して、217小節目で、「138」と最高速に達する。その後、241小節目で、ritenuto。その2小節後に、Largamennte、「66」と主題の再現がクライマックスとなって圧倒的迫力でもって訴えかけられる。

 さて、この構成は、果たしてショスタコーヴィチが最初に考案したものなのか、どうなのか・・・と思い巡らすと、どうも似た感じの作品がありませんか。
 それこそが、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第1楽章
 はて、こんなショスタコーヴィチのような加速があったかしら・・・とお思いの方も見られるでしょう。ラフマニノフの楽譜も詳細に見てみましょう。

(2006.3. Ms)

 やはり、この作品も冒頭はModerato、二分音符=「66」。展開部が、練習番号7の後のMoto precedentoから始まるものとして考えれば、まず速度は「72」からスタート。練習番号8で、Piu vivo、「76」。その16小節後に、さらにPiu vivo、「80」。練習番号9から、poco a poco acceler.で、16小節後に、Allegro、「96」。その後、rit.及び、a tempo、さらにrit.となって、再現部は、Maestoso(Alla marcia)で、落ち付いたテンポでの冒頭主題の力強い回帰となる。

 さて、この類似が、意識的なものか、無意識的なものか、私に判断する術はない。ソヴィエトから亡命していったラフマニノフの作品が、ショスタコーヴィチに影響を与えるような状況だったかもわからない。
 ただ、およそ30数年前に作曲された自国を代表するピアノ協奏曲である。ショスタコーヴィチが知っていた上で、このアッチェレランドする展開部という構成を真似た、つまり、「借用」したという可能性は全くないとは言えないのではないか。とすると、どんな意味がそこに考えられるだろう。

 もちろん、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は標題音楽ではない。何らかの言葉が掲げられた音楽ではない。しかし、彼の他の作品とは決定的に違う、重みを持った作品であることは確かであろう。
 自身の最初の交響曲として、野心と自信をもって書き進められた交響曲第1番。この作品の初演の失敗が彼の精神をただならぬ状況に追い込み、作曲が不可能なまでの挫折、苦悩を味わった。そして、数年にわたる「自己暗示療法」により、「絶対に作曲する。傑作を書く。」という信念が、彼の代表作の誕生へと結実する。そんな、自伝的要素が少なからず付きまとう作品ではなかろうか。
 そして、この史実は、その30数年後のショスタコーヴィチが知るところとなっているのなら、何らかの影響を与えなかったと言えるだろうか・・・ちなみに、ラフマニノフの交響曲第1番の失敗は、初演の指揮者グラズノフの無理解・無気力が原因の一つであり、そのグラズノフこそショスタコーヴィチの師であったという因縁めいたつながりもあったりする・・・。

 ここで、ショスタコーヴィチが交響曲第5番を書くまでの背景を思い起こせば、歌劇、バレエ音楽への権力者からの批判、そして、「自分の創作活動の信条(クレド)」(前述の千葉潤氏著作、P189)として書き進められた交響曲第4番の撤回、これらの挫折からの作曲家としての復活を担った作品として、交響曲第5番は出現してくるのだ。
 私の推理によれば、ピアノ協奏曲第2番の創作をもって、挫折から立ち直り、作曲家として見事復活を遂げた先輩ラフマニノフにあやかって、ショスタコーヴィチは、交響曲第5番の冒頭楽章に、ラフマニノフの復活記念作品の第1楽章の展開部の構成を「借用」した、のではないか?というわけなのだが・・・さてどうだろう。

 さらに言えば、このラフマニノフからの、第1楽章における「借用」は、前述(<2−1>)のベートーヴェンの「運命」からの「借用」と併せ解釈することもできよう。
 「運命」もまた、標題音楽ではないが、ベートーヴェンの自伝的要素を背負った作品として見られてはいないだろうか。作曲家としては絶望的な耳の病気、そして自殺を考え、しかし、思いとどまり・・・こういった作曲家の挫折と復活が、色濃く作品の構成に投影していると解釈され、また、そんな鑑賞が今や通常となっていると思われる。ショスタコーヴィチの時代のソヴィエトにおいて、「運命」が全く自伝的要素を排除して鑑賞されていたとするなら、この解釈は成立しないのだが・・・。
 ベートーヴェンとラフマニノフの、挫折と復活を象徴する代表作、成功作の構成をまず下敷きにして、ショスタコーヴィチは、交響曲第5番のアウトラインを構想した・・・というのが私の曲解であります。

 ということで、この交響曲第5番の最も根底に位置する主題は、「復活」なのではなかろうか?と思うとき、まさに、その「復活」という言葉を伴ってこの作品の中に、「完全引用」、それも「修辞的引用」がなされているではありませんか!!!

 ショスタコーヴィチの作品46。交響曲第5番の直前に位置する歌曲集「プーシキンの詩による4つのロマンス」について、次に触れましょう。

 

 『余録』

 ラフマニノフからの、構成の「借用」について書いたついでに、ひとつ指摘をしておこう。
 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第1楽章の第1主題のC-D-C-D-Cと揺れ動く主題は、そっくりな形で、ピアノ協奏曲第3番の第1楽章の冒頭、主題の出る前の前奏においても用いられているが、この動きが、ショスタコーヴィチの交響曲第5番第4楽章においても見られる。
 展開部の最後、ハープの登場のすぐ手前、231小節目からの低弦である。この部分自体は、提示部に現われた旋律を拡大したもので、もともとは、第4楽章16小節目の旋律線に由来するもの。このアレグロの速さでは、ラフマニノフとの関連はほぼ見落とされるが、展開部におけるゆったりとしたテンポの中では、おぼろげに、ラフマニノフの影が見えるようである・・・しかし、私自身、この部分を「引用」と言えるかどうか、迷いはある。2つの音を行き来するだけの5つの音をもって、「不完全引用」と見るか、「偶然の一致」と見るか?ここでは問題提起だけしておき、先に進もう。

(2006.4. Ms)

 

<2−4> 自作の歌曲「復活」(「プーシキンの詩による4つのロマンス」作品46より)

 この歌曲「復活」については、今や、ショスタコーヴィチの交響曲第5番を語る上で必ず付きまとう、触れずにはいられない重要な作品として既に認識されたもので、今さらここで、くどくど書き足すこともないだろう。例えば、今、手元にある、NHK交響楽団の定期演奏会パンフレット「フィルハーモニー」の2005年5月号における千葉潤氏の解説でも、この歌詞の全文を掲げて説明がなされている。前述の千葉潤氏著作、P80においても同様である。
 以前の(5年前の)私の文章でも、歌詞の全文を紹介しています(こちら)が、ここでも念のため、掲げておきましょうか。

第1曲 復活

未開人の画家が うつろな筆さばきで 天才の絵を塗りつぶし 
法則のない勝手な図形を その上にあてどもなく描いている。

だが 異質の塗料は年を経て 古いうろこのようにはがれ落ち
天才の創造物はわれわれの前に以前の美しさを取り戻す。

かくて苦しみぬいた私の魂から かずかずの迷いが消えてゆき
はじめの頃の清らかな日々の幻影が 心のうちに湧きあがる! 
 (全音楽譜出版社 ショスタコーヴィチ歌曲集 1 より 以下同じ)

 まさに、これがショスタコーヴィチの本音をうかがわせはしないだろうか。第4番の撤回と第5番の作曲との間に、敢えてこの詩を選び、歌曲集の冒頭に置いたのは、それなりの思い入れがあってのことだろう。
 この「復活」が、葬り去られた第4番の復活なのか、(家庭人が優先され、ひとまず葬り去られた)芸術家ショスタコーヴィチの復活なのか、それとも、とにかく「人民の敵」というレッテルをはがし世俗的成功をおさめるべき、という意味においての「復活」であるのか、それはここでは断定できない。しかし、とにかく、生きて、作曲を続ける決意、という意味では、どの「復活」も共通していよう。生きて、それらの「復活」を見届けることこそ、彼の次なる命題となったことをこの歌曲は物語っているのではなかろうか。

 音楽的な観点からは、まず、歌い出しの音程が、A−D−E−F、と交響曲第5番第4楽章冒頭主題と同じであること、そして、上記の歌詞の第3節の伴奏型が、同じく第5番第4楽章の展開部の最後に現れるハープの旋律(239小節以降)と同一であること、が指摘できよう。
 つまり、交響曲第5番のフィナーレの鑑賞の前提として、この「復活」という詩は欠かすことが出来ない、密接不可分な存在と見て良いのではなかろうか。

(2006.4. Ms)

 <2−3>の最後において、私が、この交響曲第5番の最も根底に位置する主題は、「復活」なのではなかろうか?などと大書した時、権力者の批判によって作曲家生命の危機を迎えた彼が、交響曲第5番を引っさげて「復活」する、という文脈で語っている。未開人たるソヴィエト権力が、ショスタコーヴィチなる才能を塗りつぶそうとしながらも、その才能は時を経て復活する、というわけだが、ここで、以前、私が書いた「復活」の意味するところの数種類の例示を読み返すなかで、再度、気になってきている点が、「葬り去られた第4番の復活」という視点である。

 この歌曲の第3節の伴奏型が、交響曲第5番第4楽章239小節以降のハープの音型として「完全引用」されていることにより、「修辞的引用」の引用元として、この歌詞は、交響曲第5番を理解する上でかなり重要な役割を持つので、充分な吟味が必要だろう。
 また、第4楽章においては、ハープがこの部分にのみ使用されおり(他の楽章においては、もっと頻繁に使用されている)、奏者、指揮者、及びオーケストラ音楽の鑑賞に慣れた聴衆にとっては、このハープの存在は、かなり意識して聴かれるような配慮がされていると考える。ショスタコーヴィチが、この引用に気付いて欲しい、と言わんばかりに私には思える。

 (ちなみに、もう一つの「引用」と思われる、歌曲の歌い出しと、交響曲第5番第4楽章の冒頭主題との類似は、リズムの異なっている4つの音の動きだけをもって「完全引用」と断言はできないものの、2作品の密接な関係を思う時、「偶然の一致」とも断言しかねるので「不完全引用」と私は位置付けているが、この点については異論もあるかもしれないだろう・・・。この「不完全引用」「修辞的引用」として解釈するならば、交響曲第5番第4楽章の冒頭主題は、「未開人の画家」を象徴するものとなろう。)。

 交響曲第5番の第4楽章の再現部、つまり、全曲の結論が近づく中で、ハープによって「かくて苦しみぬいた私の魂から かずかずの迷いが消えてゆき はじめの頃の清らかな日々の幻影が 心のうちに湧きあがる! 」という歌詞が暗示される。この幸福感を思わせる気分の前提として、「天才の創造物はわれわれの前に以前の美しさを取り戻す。」と歌われているのを見れば、「天才の創造物」が、当時のショスタコーヴィチにとって葬り去られた作品、という解釈が成り立つ余地はあろう。とすれば、撤回された交響曲第4番の「復活」を思い描きつつ、ショスタコーヴィチはこの引用を行ったのではなかろうか?と私は思うのである。

 次に、ショスタコーヴィチの交響曲第4番と第5番の関係について見てゆきたい。将来における、交響曲第4番の復活を思い描きながらも、そもそも、交響曲第5番そのものの中に、交響曲第4番の復活が仕組まれてはいないだろうか・・・。

(2006.4. Ms)

<2−5> 自作の交響曲第4番

 交響曲第4番と第5番とを聴き比べ、音楽的に同じ素材が使われている点に気付いている方は結構多いのではないかと思う。
 前述のファーイ著作(P137)においても次のような箇所がある。

 ショスタコーヴィチの無二の親友で、その一番の後援者であったソレルチンスキーでさえ、交響曲第5番は交響曲第4番の「残り物」でできていると断言したそうである。

 ここで、第4番からの「引用」なり、「自作間流用」と思しきものの主なものを列挙してゆこう。まだ他にもあろうが、主なものということで許されたい。

@ 第5番第1楽章の3小節目の旋律線(ヴァイオリンによる)
   ・・・第4番第3楽章の1171小節目の旋律線(ホルンによる)
  
 第5番における当該部分は、付点8分音符と2つの32分音符という特徴あるリズムが繰り返され、このリズムは、その後も、9,15,19小節目と幾度となく現われ、37小節目に至っては、第4番の例と同様にホルンでも奏されるため、関連性は一層強く感じられる。また、再現部のクライマックスにおいても243小節目、Largamennteで真っ先に強奏、再現されるのは、このリズムを持つ旋律線であり、第5番の第1楽章において相当に重要な役割を負ったものであることが認められる。
 第4番においては、フィナーレの最大のクライマックスが打楽器群の強奏により(1146小節目)瓦解して後に現われる、コーダの厭世的ムードの入り口にこの部分は相当し、このホルンの旋律は続いてフルートにおいても確保される。リズムは正確に言えば第5番とは同一ではないが、2分音符と8部音符2つの組みあわせで、類似した印象は持たれるだろう。
 以上、この類似は、私にとっては、まるで、交響曲第4番が終わった地点から、交響曲第5番が始まっているようにさえ感じられる。かなり意識して類似の楽想を持ってきているのではないか・・・ということで、意識的な「引用」と見て良いのではないか?ただリズムの細部や音程関係は完全な一致を見ず、無意識のうちの「偶然の一致」という可能性もなくはないので「不完全引用」ということにしておこう。

A 第5番第1楽章の6小節目以降の旋律線(ヴァイオリンによる)
   ・・・第4番第2楽章の中間部の主題、124小節目以降の旋律線(ヴァイオリンによる)

 これは、様々な所で指摘されている。この私の論考でも<1−2>や、<2−2>@において触れられた箇所である。A−G−F−Esという3全音の下降旋律線である。
 全音楽譜出版社の第4番のスコアの解説(P11)においても、当該箇所は、
「冒頭の下降旋律から、この主題は第1楽章のエピーグラフの下降モチーフから発していることが分るし、この後で作曲された第5交響曲の主要主題を予告している。」
 と説明される。前述の千葉潤氏著作(P190)でも「予告」と指摘されている。
 特徴的な3全音で、かつ、音高も同じ。引用元の特定も、反対意見も少なかろう。「完全引用」としてみて良いのではないか。

 ただ、ここで、注意しておきたい点が2点ある。
 まずは、この旋律線の伴奏、である。第5番においては、中低弦が、D音とA音を繰り返し鳴らし、D音が主音であることを少なくとも2小節間は確実にしている。そのおかげで、この旋律線は、Dの音へと解決し、フリギア旋法として認識され、一種、安定した響きを持つ。
 しかし、第4番においてはどうか。ビオラによるC音の連続(第5番で中心的なリズム主題となる、タタター、というリズムで)が背景にあり、ニ調またはフリギア旋法という確立はなされず、旋律線もD音への解決はなく、極めて無調的である。第4番においては、続く139小節目以降もこの主題は繰り返されるが、今度は、F−C−Gesという不協和音での伴奏となり、さらに無調の感が強まる。そして、この主題は、318小節目以降、ホルンにより高らかに奏されることとなるが、その際の伴奏は、木管群によるニ長調の主和音となり、旋律線のF音と、伴奏のFis音が半音でぶつかる歪んだ響きを引き起こす。
 
 この2曲は、同じA−G−F−Esという3全音の下降旋律線を使用しながら、第4番は無調、不協和的に使用され、第5番においては、調的、協和的に処理されているのが鋭く対比されている。
 第5番において、第4番の素材を使いながらも、分りやすさ、または古典的秩序、に配慮した様が、如実に、そして象徴的に、この例から見て取れないだろうか。

 続く2点目として、前述の全音スコア解説にあるとおり、A−G−Fという3音は、ずばり、交響曲第4番の冒頭主題(エピーグラフ)に一致する点に注目しておきたい。第4番においては、第1楽章の冒頭主題と第2楽章のトリオの主題を関連させ、楽章間の統一を図っている。この主題を、第5番の第1楽章の主要主題として配置したこと自体、ショスタコーヴィチの、第4番の復活への意思を推し量るのは、曲解に過ぎるだろうか?

 この3音の一致の指摘もあえて、項目をBとして独立させておけば、

B 第5番第1楽章の6小節目以降の旋律線(ヴァイオリンによる)
   ・・・第4番第1楽章の冒頭の主題、1小節目以降の旋律線(木管と木琴による)

 となります。

 それにしても、第5番の冒頭わずか7小節間において、第4番の主要な主題を次々と登場させているのは、私としてはかなり意識的な「引用」(不完全であれ、完全であれ)と思えてしまうのだ。
 そして、これらの主題は、曲の展開において、重要な役割をもって何度も何度も登場してくる。第4番撤回の怨念が吹き荒れているような第5番第1楽章、という姿を見て取るのは、ショスタコーヴィチの本意でないと断言できるだろうか・・・?

(2006.4.Ms)


 さて、ちなみに、この3音の順次下降旋律線は、第4番においては、第3楽章の1020小節目以降、金管による勝利のファンファーレ的な和音に相対する存在として、1028小節目以降何度も繰り返される。そして、1066小節目以降、この3音下降が、短調的な変化(1066小節目以降のEs−Des−C。そして、より直接的には、1076小節目以降のEs−D−Cの反復4回。まさにハ短調の響き。)を生じるのをきっかけとして、第3楽章冒頭の葬送行進曲の主題の再現が準備されるという、この交響曲の結論を左右する最重要な役割を担っていることは、強調しておかねばならない。
 第1楽章冒頭の、悲痛な叫びに似た3音下降は、第3楽章最後の、取って付けたような勝利のハ長調の凱歌を破壊し、悲劇的な結末を決定付ける力を付与されているわけだ。この第4番の中心的主題を、第5番の第1楽章の主要主題が内包しているのである。
 ・・・そして、第4番同様、第5番においても、最後の最後で、この3音下降、聞こえてきませんか・・・。

 第5番第4楽章342小節目以降の金管の旋律線、C−B−A。第4番のフィナーレの悲劇がふと想起されるような一瞬ではなかろうか?
 前述のN響「フィルハーモニー」2005年5月号の千葉潤氏解説でも、スコアの該当箇所に印を付けてこう指摘されている。

 このファンファーレは、何度も途切られて間延びしたものとなり、まさに最高音に到達する箇所ではニ長調の文脈のなかに物悲しい短調のフレーズが挿入される。

 この、ニ短調のフレーズたる、3音下降が、第4番の結末を想起させるや、第5番は先に述べたように(<2−1>B)、主和音のみが鳴り続けるのみ、新たな音楽の展開はない。つまりは、この3音下降、C−B−Aこそが、第5番の、(旋律的な動きとしては、)最後の主張、となっているのではないか。この意味するところは大きいと私は感じます。
 つまり、この3音が第4番を想起させるのならば、第5番の最後の金管の背景に、決して現実に演奏はされず、耳には届かないものの、第4番を知るものにとっては、第4番における葬送行進曲の再現が浮かびあがってくるように仕掛けられてはいないだろうか。

 ここで、2曲の冒頭(第4番においてはまさに冒頭。第5番においては6小節目ですが。)に掲げられた3音の一致(A−G−F)と同様に、短調的な変位をした3音下降が、作品の結末で長調のフレーズの中に挿入されるという共通点をもって、項目を独立しておきましょう。

C 第5番第4楽章の342小節目以降の旋律線(金管による)
   ・・・第4番第3楽章の1066小節目以降の旋律線(木管と木琴による)

 結果、BCは、Aの引用が、それぞれの作品での展開過程において、冒頭と結末に同様の箇所が出現するという意味では、同じ指摘に過ぎないのだが、整理の都合上、わかりやすく項目を独立させておきました。

 以上により、第5番に、撤回された第4番のエッセンスが要所に内包されており、第4番の精神、第4番における訴えが、第4番を知る者にしか分らない形で、第5番の中に復活している、とは言えないだろうか。
 そして、将来、第4番そのものを発表する、という意思をも込めて、自作歌曲「復活」を引用しているのではないか、とも私は思うのだが・・・。

 ・・・ただ、Aまでは異論も少ないと想像するが、BCについては、こじつけ、と思われる方もみえるだろう・・・。たった3音の類似。あまりに限定的で、少ない音の組みあわせ、でしかない。偶然の一致の可能性は極めて高かろう。これをここまで強調して、作曲家の意識的なものとして主張できるかどうか?でも、これはご本人しにかわからないことなのだろう。
 ただ、逆に、BCは、全くの無意識のうちの「偶然の一致」であると断言するのも難しいだろう・・・。
 私の現在の思いは、BCも含め、ショスタコーヴィチからの、切実なるメッセージとして受け取っている次第です。

 そして、さらに、D番目の指摘も用意しておりますが、これは、かなりな曲解なので、要注意です。

D 第5番第4楽章の3小節目以降の旋律線(金管による)
   ・・・第4番第1楽章の6小節目以降の旋律線(ヴァイオリンと金管による)

(2006.4.Ms)

 ようは、第5番のフィナーレの第1主題は、第4番の第1楽章の第1主題の素材を使用して作られた旋律ではないか?という指摘なのだが、いかがだろう。・・・今まで指摘してきた、引用や流用という、あからさまなものではないけれど・・・。

 まず、トランペットとトロンボーンのオクターブで主題提示されるという共通点は容易に見て取れる・聴き取れるはずだ。ただし、第4番においては、ヴァイオリンも重ねられているが、聴いた印象では、断然、金管の存在感が大きく、よく似た響きとして感知されるであろう。

 さらに、旋律線を細かく見るなら・・・
 第5番の主題の特徴は、何と言っても、4小節目にみられる上行音型、E−F−G−B−F(↑)という思い切った跳躍にあろう。それに先行するA−D−E−Fの4音は何の変哲もない、ニ短調の枠の中の音の動きだが、その続きが、その枠を越えるような勢いを持ったものであることは、ちょっと口ずさんでいただくだけでも感じられないだろうか。この特徴が、第4番の主題にも見えて・聞えてこないだろうか。

(余談・・・A−D−E−Fについては、再度、項を改めて触れる予定です。)

 そして、第4番の主題を見ると・・・
 まず、G−A−Hという、16分音符2つと8分音符の動き、これは、第5番におけるE−F−Gと同じく、小節をまたぐところにありリズムも同一、音程も3度の上行順次進行である。そして、第4番においては、上行する順次進行がさらに続いてはいるが、8小節目の3拍目に、H−C−D−As(↑)というと跳躍が見られる。この7度の音程の急激な上行は第5番のG−B−F(↑)と、私には符合しているように思える。
 つまり、第4番の主題提示の2小節間の動き(から上行順次進行が始まり、若干の下降もあるけれど、結果、Asという1オクターブを超える音高に到達)を、極端なまでに要約すると、先ほどの第5番のE−F−G−B−F(↑)になるという訳だ。

 さらに、第5番の主題を見ると、初め2小節は上行指向、続く2小節は下行指向。これが2回繰り返されている。
 その下行指向の部分は、主に順次進行で降りてきており、その2回目の下降、つまり9小節目に注目すると、その1拍前のAsという最高音から、As−G−F−Es−D−C−B−Aと降りてきているが、この動きは、やや装飾的な動きを伴って、第4番においても、先ほど触れた、8小節目の3拍目のAsから、同様にAまでオクターブにわたって下降する線として現われてきている(Es音・B音は、第4番においてはE音・H音となっているが)。

 こじつけがましい、と感じられる方も多々みられるでしょう。正直なところ、私もそう思わないではないです。
 しかし、他にも、この主題提示の前後もあわせて考えるなら、まず、楽章の冒頭第1小節目が、管楽器による全音符のロングトーンにより開始されている点も共通している。第4番は装飾音、第5番はトリルによって飾られてはいるが。
 そして、その短い前奏のあとに、1小節間の八分音符の刻みにのって主題が提示される点も共通している。第4番は低音域の木管・弦楽器、第5番はティンパニ。
 さらに、第4番の、その八分音符の刻みは、CとEsつまり、主調たるハ短調の第1、3音で成り立っているが、第5番においても、その主題提示の後、11小節目において、DとFつまり、主調たるニ短調の第1、3音で八分音符の刻みが登場し、次の主題の伴奏として活用されている。

 以上、この2つの楽章の冒頭部分は共通する発想でもって作曲されている、と私には思えるのだ。

 これは、「偶然の一致」と見るべきか?それとも、無意識のうちにに似てしまったのか?それとも、意識的に、「不完全引用」したのだろうか?
 これもまた、本人にしかわからないレベルの話ではあろう。しかし、第4番の撤回後もなお、この作品が、ショスタコーヴィチの頭の中を長らく旋回していたのではないか?そして、この、第5番の結論たるフィナーレに何を配置するか、といった時に、第4番で主張したかった思いを象徴する存在として、第4番第1楽章の主題が、一度解体され、そして、第5番のフィナーレに再構築されて、配置されたのでは・・・と私は邪推したくなるのだ。

 しかし、それが、無意識ならともかく、意識的なものであれば、その心、は何だろう。
 第4番そのものの復活への思い、だろうか?
 それとも、第4番の精神なり主張の復活を込めた、のだろうか?
 だとすれば、第4番の精神なり主張とは、何か?

 ここで、ショスタコーヴィチに、第4番に対する思い、を語っていただこう。

(2006.4. Ms)

 わたしは、自分の仕事の一種のクレード(綱領)となるような第四交響曲の仕事にいよいよとりかかろうとしているところだ。
 いまわたしは、どんな基本的課題をになっているか。
 それに答えるには、現在という時間をふりかえってみなくてはならない。
 学生時分わたしは、音楽というものはひと組みのさまざまな音の結合であって、その「ひびきのよさ」が音楽作品の質をも決定するというふうに考えていた。それからしばらくして、音楽がじつにさまざまな思いや感情を表現できるきわめて強靭な芸術だということに気がついた。そこではじめてわたしの世界観のためのたたかいが始まった。それは今でもつづいていて、やがて終りをつげるようにも思われない。(中略)

 いまわたしは、独特の、単純な、表現力にとむ音楽語法をみつけるという基本的課題をになっている。(後略)

「ショスタコーヴィチ自伝 時代と自身を語る」ラドガ出版 (P61)

 これは、自伝巻末の「初出誌一覧」によれば、「イズヴェスチヤ」1935年3月5日号に掲載のもの。第4番の作曲は1935年9月13日(前述の千葉潤氏著作による。P189)であり、作曲前の意気込み、宣言、ということか。
 また、前述のファーイ著作(P124)によれば、交響曲自体は、1934年11月に着手され、その後その原稿は破棄されたようだ。それならば、第4番作曲の試行錯誤の最中の発言、ということになろうか。

 さらに、最近では、あまり資料として活用もされないのかもしれないが、ヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」においても、

 戦争は多くの新しい悲しみと多くの新しい破壊をもたらしたが、それでも、戦前の恐怖にみちた歳月をわたしは忘れることができない。このようなことが、第四番にはじまり、第七番と第八番を含むわたしのすべての交響曲の主題であった。(中略)
 わたしの交響曲の大多数は墓碑である。(後略)

 とある。

 また、前述の千葉潤氏著作(P190)においては、1974年のグリークマンとの会話として、

 ”音楽の代わりの支離滅裂”の後、指導部が、私に懺悔して自分の罪を償うように、執拗に説得した。だが、私は断った。当時は、若さと肉体的な力が私に味方したのだ。懺悔の代わりに、私は交響曲第4番を書いた。

 という言葉を紹介している。

 第4番にかけたショスタコーヴィチの思い、ただならぬものがあっただろう。
 「さまざまな思いや感情を表現」すべく、第4番は試行錯誤を重ね、自作歌劇に対する権力側の「プラウダ批判」の後も簡単に屈する事無く作曲が続けられた。そして、その第4番を通じて語りたかった主張が何かは、私には断言はできないが、しかし、初演は撤回され、口は封じられた。

 言いたいことが言えない。表現したいことが表現できない。
 でも、ショスタコーヴィチは、その表現したい主張までも撤回したのだろうか?第4番という作品は撤回したものの、その、主張は、第5番にも何らかの形で流れついてはいないだろうか?それを解く鍵として、今まで見て来た、2作品共通の音の動き、を着目するのは、全くの的外れなのだろうか?

 あくまで私の主観によるなら、「戦前の恐怖」そして、その被害者たちの「墓碑」、この2点のイメージを、第4番から強烈に感じ取っている。
 そして、その「恐怖」「墓碑」といった感覚は第5番にも共通するトーンとして響いてくるように思える。そしてその「恐怖」「墓碑」を表現する楽想を、第5番でも活用しているように感じ取ってもいる。
 これ以上に、確定的なことは決して断言はできないだろう。しかし、あえて、無謀を承知で、具体的なイメージをここに表わしてみたい。

 決して、この2つの交響曲は、標題音楽・交響詩ではない。が、私は、ここで一つの仮説を提示したいと思う。

 2作品ともに、全曲の冒頭と最後に目立つ形で置かれている、全曲の象徴とも取る得る、3音の下行順次進行(前述のABC)が、「墓碑」を象徴しているように思える。
 2作品ともに、A−G−Fという3音に端を発する下行順次進行は第1楽章の重要な主題としてあり、中間楽章でも折りにふれ回想されている(例えば、第4番においては、第2楽章中間部・124小節目以降で。第5番においては,第3楽章第2主題・33小節目以降で。)。

 そして、第4番においては、第3楽章の最後の勝利の凱歌の最中に、「墓碑」が登場することで葬送行進曲が再現、死屍累々たるコーダへと導く。

 第5番においては、第4楽章のコーダで、表面上は長調の和音で満たされるものの、確かに「墓碑」の3音は存在している。単純な歓喜ではないことを、まさに、如実に物語ってくれる3音、ではないのか?


 また、さらに、あえて、根拠薄弱なる前述のDに絡んで言うなら、戦争中の恐怖ではない「戦前の恐怖」、すなわち、スターリン独裁の恐怖は、前述のDによって、2作品に共通して表現されているのだろうか???・・・こちらはかなり怪しすぎるな・・・。

 こちらの指摘は、忘れていただいた方がいいかもしれない。
 ただ、前述の「墓碑」の指摘は、一度、皆様にも充分吟味していていただきたい内容として再度、注意を喚起させていただきたい。いかがでしょうか。

(2006.4. Ms)

 

『余録』

 第4番と第5番の、音符の共通点を追いながら、その密接な関係に迫ろう、というのが私の狙い、であった。まだ、蛇足ながら少々続けたいのだが、振りかえって、この<2−5>の項の最初に触れた、ソレルチンスキーの指摘、

交響曲第5番は交響曲第4番の「残り物」でできている

 に関連して、2点ほど、些細な指摘を。

E 第5番第4楽章の32小節目以降の旋律線(弦楽による)
   ・・・第4番第1楽章の13小節目以降の旋律線(オーケストラ全体)

 1拍ごとに、八分音符2つの同音と、3音の上行順次進行+下行、が繰り返されている。

F 第5番第4楽章の40小節目の旋律線(弦楽による)
   ・・・第4番第1楽章の687,688小節目の旋律線(弦楽による)

 1st ヴァイオリンによる旋律の動きはほぼ同じ。伴奏の発想(他の弦楽器による、1st ヴァイオリンの旋律と同一リズムによる和音の充填)もほぼ同じ。
 ただ、そもそも、第4番第1楽章の580小節目以降の、Prestoによる弦楽器の狂気じみた疾駆は、第5番第4楽章の前半の主題展開の先駆けのような感覚はあるのではないか。第5番の方が随分と、冷静さを持っているけれど。

 だんだん重箱の隅をつつくような指摘になっていること、ご容赦ください。確かに、12の音の組み合わせに過ぎない、のだから、どんどん詳細に見ていけば、あれもこれも、何かと同じ・似ている、となりかねないだろう。

 例えば、第5番第4楽章の冒頭主題の、A−D−E−Fの4音だけを取り出せば、第4番においては、第1楽章25小節目アウフタクトから低音楽器でそのまま現われるし、同楽章263小節目以降のファゴットの旋律もやや余分な動きはあるが、要約すればE−A−H−Cisとなり同じ。さらに、同楽章498小節目以降のファゴットも、Es−As−B−Cとなっていて同じだ(こちらはリズムも同様)。・・・きりがない。

 しかし、あれもこれも、同じ、似ていますね、という指摘だけで片付けたくはない、というのが私の思いである。少なくとも、前述の@からC、さらにDは重要な主題同士の共通点として、E以降とは別格な意味を持っているのでは、と思うのだ。単発で出てくる旋律が突発的に何かと似ているのと、重要な役割をもって、何度も展開されてゆく主題同士の類似を同列に見るわけにはいかないだろう。

 この<2−5>の項の私の主張だが、交響曲第4番の「残り物」を第5番の中から探しあて、それこそがショスタコーヴィチの言うところの

「音楽がじつにさまざまな思いや感情を表現できるきわめて強靭な芸術」

たることを物語っている証拠になりうるのなら、まさしく、「残り物」の中の「福」、ということになろう・・・そんな宝捜しに私が成功したのかどうか・・・これは、結局は、ショスタコーヴィチにしか分らないのだろう。
 しかし、この謎解き、かなり私は熱中して楽しませていただいた。ショスタコーヴィチに感謝。

・・・と、ここで終わるわけではありません。この第4番の背後にある巨大な存在にも触れざるを得ないでしょう・・・マーラーという巨人。

(2006.4. Ms)

<2−6> マーラーと交響曲第4番

 この、延々続く、まだまだ終わりの見えない稚拙な文章は、ショスタコーヴィチの交響曲第5番に関するもの、であったはずだが、前作第4番に触れた時点で、マーラーは避けて通れない存在だ。そこで、ショスタコーヴィチとマーラーの関係を確認しつつ、第4番におけるマーラーからの影響を見た上で、さらに第5番におけるマーラーの影響なども見てゆきたいと思う。

 とは言え、私は、マーラーに関してあまりに無知である。交響曲でこそとりあえず全部聞いたことがある、といった程度で、その詳細を語るにはあまりに無力だ。いまやマーラーに関する文献も山のようにあるが、それらを逐次確認しているわけでもない。ということで、私の「曲解」など出る幕は皆無である。よって、様々な文献からのまさしく「引用」をもって、この項は構成せざるを得ない。

〜 ショスタコーヴィチはマーラーについて何を語っているか 〜

 まず、公式見解的文章ということで、前述の「自伝」から、

 「オペラに関して言いたいことは、現代音楽では声楽のジャンルが非常にひろく普及しているということである。とりわけ声楽交響曲が。これは多分、オーストリアの偉大なグスタフ・マーラーの声楽交響曲から始まったもので、ちなみにマーラーは私の最も好きな作曲家の一人である。」
(自伝P418)

 「偉大なグスタフ・マーラーの音楽が全世界の称賛をはくしている時代に生きうることほどよろこばしいことはない。その天才の力は、音楽芸術を愛するあらゆる人びとを魅了する。まだそれほど昔ではないが、マーラーはなるほどすぐれた指揮者ではあっても、作曲家としてはつまらない、とよくいわれたものである。こういう批評ほど不当なものはない。」
(自伝P424)

 両者ともに、出典は異なるものの、1968年の文章だ。
 ちなみに、いわゆる前世紀末のマーラー・ブーム(もう、ブームは過去のもの。完全にマーラーの作品は定着していますもの・・・それにしても、自分は歴史の証人か・・・という書きぶりだな)の契機として、岩波新書「グスタフ・マーラー」柴田南雄著によれば、1960年の生誕100年におけるベルリンでの主要作品連続演奏、そして1967年の「ヴィーン芸術週間」においてほぼ全作品の演奏が行われたこと、を挙げている(柴田氏著作P6)。「これらの機会が」「ブームに拍車をかけたのである。」とのことだ。
 ちょうど、この時流にのった形で、ショスタコーヴィチのコメントは出ている。若い頃からマーラーに親しんだ彼としては、世界的にマーラーが演奏されてゆく風潮を、好感をもって見守っていたことだろう・・・ただし、余談だが、先ほどの自伝、P424の続きは、

 「ソヴェトの音楽家、音楽愛好家たちは、マーラーの作品を心から愛している。それらはそのヒューマニズム、その民族性によって近しいものとなっている。」とあり、さらに

 「マーラーは、人類の最もすぐれた理想を実現するためのたたかいにおいて、永遠にわれわれ、地上における公平な社会の共産主義建設者であるソヴェト人たちとともにあるにちがいない。」と結ばれる。

 結局は、いかにも体制側に立った固い公式見解風なもので、読むとおおいに違和感を感じるものではあるが、マーラーの音楽に対する愛好を積極的に語った貴重な文章ではあろう。
 自伝を見てゆくと、他には、ずっと遡って1938年、ムラヴィンスキーが交響曲第5番を指揮したことに対する感謝のコメントの中に、

 「リスト、ショパン、グスタフ・マーラーその他の大演奏家たちは、第一級の作曲家でもあった。したがってすべての演奏家にとって、作曲をすることは有益だとわたしは思う。そうすることによって、演奏する作品にいっそう行きとどいた理解がもてるようになる。ムラヴィンスキーが音楽院の指揮科だけでなく作曲科をも卒業しているのは喜ばしいことだ。」 

 とあり(P86)、1938年の段階で、マーラーを第一級の作曲家と位置付けているあたり、若い時からのマーラーへの意識の高さを物語るものと推測されよう。作曲家マーラーを、リスト、ショパンと並ぶ存在として当時、世界中捜してどれだけの人が認識していただろう?

(2006.5. Ms)

〜 さらに、ショスタコーヴィチとマーラーの関係を追跡すると・・・ 〜

 ここで、自伝以外をひも解こう。まず、前述のファーイ著作からマーラーとの関わりを示唆する部分を抜書きすれば、

 「マーラーの音楽を探究するようになったのは、ソレルチンスキーとの交際により生まれた、実りある成果のひとつにすぎない。」(P66)

 これは1927年春から芽生えたソレルチンスキーとの友情について語られた箇所での記述である。いわゆる「バッハからオッフェンバッハまで」幅広い音楽に対する興味を広げるのに貢献してくれた友人である。

 続いて1933年10月15日のピアノ協奏曲第1番の初演に絡んでの記述で、恩師シテインベルクの、当該作品に対する衝撃として、

 「なぜなら耳障りであるだけでなく、ベートーヴェン作品の編曲、及びハイドン、マーラー作品からの抜粋から、生きのいいオデッサ民謡や底流を成すジャズやミュージックホールの音楽に至るまで、不遜にもさまざまな様式が寄せ集められていたからであった。」とある(P101)。

 ここで言う「マーラー作品からの抜粋」の詳細は不明だが、世俗的な音楽素材の引用が極めて顕著に見られるこのピアノ協奏曲の背景にマーラーの作品が存在していることは想像できそうだ。マーラーの第1番の第3楽章における民謡の引用を改めて持ち出すまでもなく、マーラーの音楽の特徴を、ショスタコーヴィチも応用しようと試みた最初の例だろうか。
 ただし、ロシアにおいては、国民楽派の手法として民謡の引用は昔からあったわけで(ロシア五人組はもちろん、西欧派のチャイコフスキーも、有名な交響曲第4番のフィナーレを始め、初期の交響曲に例はある。)、民謡の引用自体が即マーラー的とも断定できないだろうが、マーラーにせよ、ショスタコーヴィチにせよ、民族の個性を芸術音楽に刻印させるべくした引用とは違う次元のものとして見るのが適当と思う。
 マーラーにおいては、「「崇高な」芸術音楽/「軽薄な」民俗音楽というヒエラルヒー(序列)に対する挑戦」 (村井翔著「作曲家◎人と作品 マーラー」音楽之友社刊(P18))という捉え方が参考となろう。
 ショスタコーヴィチにおいても、初期の映画音楽、舞台音楽で通俗的な娯楽音楽の要素は様々に使用しており、その経験が徐々に、高尚なる(高尚なるイメージで語られるべき)芸術音楽、それも絶対音楽たる協奏曲、そして交響曲へと広がっていったと想像する。

 ファーイ著作による、その次のマーラー関連の箇所はずばり、交響曲第4番に関するものである。

 「交響曲第4番を聴くと、ショスタコーヴィチがベートーヴェン後の交響曲の伝統、とくにマーラーの音楽に、異端者としてであれ強く惹き付けられていたことが分かる。」(P125)

 この論点はまた、第4番とマーラーとの具体的な関係ということで後で触れよう。この後も、ファーイ著作においては、例えば1953年6月の、文化代表団としてのオーストリア派遣に関連して、

 「もっとも早い時期から自分に最大の影響を及ぼしてきたオーストリアの作曲家はグスタフ・マーラーであると、仲間の一人の打ち明けた。」(P233)

 という記述もあるので補足しておこう。その他、ファーイ著作においては、交響曲第5番、第10番に関連してマーラーの名が現われる箇所もあるがここでは割愛しておく。

 

 また、前述の千葉氏著作からマーラー関連の記述を拾ってみると、1935年2月のソヴィエトの交響楽討論会でのショスタコーヴィチの主張として、

 「かつての自分のように、プロパガンダ的な歌詞を交響曲の内容とすりかえる安易な手法をやめ、形式主義の批判を恐れずに純粋に音楽的な手段によって内容を追求しようと呼びかけ、そのために西側の交響楽をより真剣に研究することを提案している。」

という点が紹介され、さらに、続いて、西側の交響曲の研究という提案に絡めて、

 「同じ会議でソレルチンスキイは、資本主義の危険を克服したソヴィエト音楽こそが、いまや衰退期にある西洋ブルジョア交響楽を、継承発展できる歴史的立場にある、というマルクス主義的な音楽観を主張し、最後のブルジョア交響曲作家マーラーこそが、もっともソ連の作曲家に近い存在だと指摘した。」

 そして、この討論の後、作曲された交響曲第4番は、

 「絶対交響曲の形式に民謡や通俗音楽の様式を並存した独特の音楽語法、それに随所に見られる引用のようなパッセージは、マーラーの影響なしには考えられない。」という訳だ。(以上P74)

 まさしくマーラーにおける、「崇高な悲劇性と軽薄な娯楽性の併置」(前述の村井氏著作「マーラー」P194。マーラーの交響曲第1番第3楽章に関する解説)を想起させる。さらに、マーラーとの関連について、より具体的に作品を挙げたものとしては、

 「同僚のフィンケルシュタインの回想によると、交響曲の作曲中、ピアノの譜面台には、終始、マーラーの第七番の楽譜が載っていたという。また、このころのものと推定される、マーラーの第三番からの抜書きも残されている。」(P189)

 と、いろいろ見て来たところで、次は、具体的に、交響曲第4番における、マーラーの痕跡を探究してゆこう。 

(なお、補足として、前述ヴォルコフの「証言」中公文庫においても、P75、P83にマーラーへの愛好が、P131にマーラーの交響曲をピアノで再現した逸話が記録されているので、付記しておく。)

(2006.5. Ms)

〜 交響曲第4番におけるマーラーの影響 〜

 このテーマで私が新たに書くべきことは、ほぼないだろう。様々な場所で様々な指摘がされているでしょうから、簡単に私の知り得る限りで列挙していきましょう。一般的な事項と思われる点については、あえて、出典は明らかにしません。

 まずは、外面的な事柄で、

@ 巨大なオーケストラの編成
A 長大な演奏時間

 これらはまず目に付く。これには詳細に触れず、続いて、音楽素材の共通点や、引用と見られる箇所で重要だと思われる点を挙げれば、

B 第1楽章における4度音程の「カッコウ」
 マーラーの全交響曲の開始を告げる4度の下行音程(A−E)。これが、「カッコウ」の鳴き声の模倣として、第1番第1楽章冒頭で繰り返される。
 また、この4度音程から、第1楽章の主題(62小節目以降。「さすらう若人の歌」第2曲の引用。D−A−D−E−Fis−G−A)は誕生し、その後もホルンのファンファーレ(208小節目以降。A−D−A−A−D)、その他にも、ティンパニの乱打等、4度下行は強調される。
 ショスタコーヴィチの第4番第1楽章においても、374小節目以降、「カッコウ」動機は現われる。この2音のみが単独で木管楽器により奏される。完全引用、と言えよう。しかし、ショスタコーヴィチにおいては、この「カッコウ」は、4度音程を崩壊させた形で、446小節目以降、グロテスクな変容を見せており、マーラーの単純な模倣にとどまらず、パロディ的にもあつかわれている。また、第1楽章の終結は、コーラングレに、この4度の「カッコウ」が託される。

C 第2楽章のレントラー的楽想
 マーラーの第2番第3楽章と同様に、速くない3/8拍子で、うつろなムードな弦楽器が16分音符の続く旋律を紡いでゆく。ただし、旋律線自体の共通性は低く、引用と言うよりは、借用と言うべきか。

D 第3楽章冒頭の葬送行進曲
 マーラーの第1番第3楽章と同様に、ティンパニの歩みにのって葬送行進曲が開始される。マーラーにおいては、@と同じく4度音程。ショスタコーヴィチは、増4度で屈折した雰囲気を醸し出す。また、その葬送行進曲の歌い出しの3音(2小節目以降。C−D−Es)が、マーラーの第5番第1楽章(練習番号2。Cis−Dis−E)との類似を指摘している文章を見た記憶がある。その3音だけで、即引用と断定はできないとは思うが気に留めておいても良いかとは思う。

E 第3楽章後半の勝利の凱歌を導き出す低弦の動き
 マーラーの第2番第3楽章の最後(練習番号51の3小節目)に一瞬現われ、さらに第5楽章冒頭(練習番号2以降)になって繰り返し聞かれる、C−H−C−G−A−Hという低弦の旋律線は、ショスタコーヴィチの第4番第3楽章968小節目以降ほぼ同じ音型で、それも低弦に出現し、結局は995小節目以降、まさにマーラーと同じ音高に収斂してゆく。8小節にわたり、わざわざ、マーラーからの引用だと、わかって欲しいかのように書かれているかのようだ。完全引用と見て良いのではないか(参考に、マーラーの第1番第2楽章108小節目以降も、音高は違うものの同様の音型が低弦にある点も留意)。
 個人的には、ショスタコーヴィチの該当箇所を聴くと、マーラーの「復活」第5楽章がよぎり、「復活」へ向けた新たな胎動、期待感が高まる効果を感じている。ショスタコーヴィチにおいても、この引用箇所を通り抜けて、最後のハ長調の凱歌が産み出されるわけだ。しかし、マーラーの「復活」のような終結は最後に訪れないのだが・・・。「復活」を知る人間に、肩透かしを食らわせているようにも思えてしまうのだが。
 ちなみに個人的には、不勉強なため、この指摘は他の文献で拝見した記憶がないもの。

F 第3楽章終結部の葬送行進曲再現
 マーラーの第7番第1楽章冒頭の、テノール・ホルンのソロ(2小節目)及び続く木管楽器の応答(9小節目)の反映が、ショスタコーヴィチの第4番第3楽章1167小節目以降のホルンに感じられる。管弦楽法上も、類似の音色を使用しているので気付きやすい部分と思う。
 テノール・ホルンの最初3音の下行(Fis−D−Gis)を反行させると、ショスタコーヴィチのホルン・ソロの冒頭3音(G−C−Fis)と類似している。ただ音程関係は完全には一致しないので、より類似を求めるのなら、マーラーにおけるテノール・ホルンの歌い出し3音を変化させたと思われるトランペットの音型(48、49小節目。B−E−H)とを比べれば、より分かりやすいだろう(4度と増4度の音程の積み重ねを上に向かうか、下へ向かうかの相違である。)。

 なお、ショスタコーヴィチのこのホルン主題自体は、楽章冒頭74小節目以降のコーラングレの旋律に由来するが、その時点では、4度と増4度の音程こそ一致するものの、後続の旋律のリズムはマーラーとの類似を思わせない。しかし、楽章終結部での再現においては、リズムが変化し、マーラーの例(木管楽器)に近く、引っ掛けたリズムになって、共通性を認識させている。ただ、音程関係を細かく見れば相違もあり、完全な引用元の特定はできず、不完全引用と見てどうだろう。
 ちなみに個人的には、不勉強なため、この指摘も他の文献で拝見した記憶がないもの。

G 第3楽章終結部の、短調を印象付ける第3音の半音下行
 マーラーの第6番「悲劇的」の示導和音(イ長調主和音とイ短調主和音の連結)における、第3音、Cis→Cという半音下行と同様に、ショスタコーヴィチの第4番第3楽章1197小節目以降にも、Fes(E)→Esという半音下行が見られる。こちらは、主和音同士の連結ではないが、短調主和音に解決する点では共通し、前述のOttaway著作P32でも、「楽章の終りに向かって、<運命的>イメージの長3度が短3度に沈み込むあたり(練習番号249)、重荷を背負った情景にマーラーの第6交響曲が重なってしまう(後略)」との指摘がある。

(2006.5. Ms)

 さらに、楽想の類似以外の、主に構成的は観点からの指摘としては、

H 第1楽章における、ソナタ形式の応用・破壊
 ・・・とでも名付ければ良いのか・・・この辺りは専門家にお任せしたいところだが・・・楽章の構成として、ソナタ形式を応用しながらも、単純な、古典的な、提示−展開−再現、という3部構成からかなり逸脱した形式感をもって、提示しながらも展開、さらに再現も全く同一の姿で再現しない、といったマーラーの特徴が、ショスタコーヴィチにおいてもこの第4番第1楽章では踏襲されているのではないか。
 ショスタコーヴィチにおいては、第1番は卒業制作として、比較的、形式としては穏健に書かれているとは思うが、第2、3番はソナタという形式自体を取り入れず無視している。第4番は、一応ソナタ形式的な構成を大雑把に押さえつつ、マーラー的な奔放なソナタ形式のあつかいに則って構成した、と見られるのではないか。

I 第3楽章における、葬送的楽想と通俗的楽想の交錯
 ショスタコーヴィチの交響曲第4番第3楽章は大きく4部に分かれ、第1部が葬送行進曲、第2部がスケルツォ、第3部が通俗的楽想の無秩序な連鎖(前述の全音スコアの解説では「市場風組曲」と名称されている。)、第4部が勝利の凱歌と葬送行進曲の回帰、と分析できるだろうが、この、古典的な構成感からするなら支離滅裂な感も強い形式感、この発想は、やはりマーラーの存在を感じざるを得ない。
 個人的には、前述の千葉氏著作P189の、同僚フィンケルシュタインの回想に引きずられて、葬送的楽想と通俗的楽想の交錯が、マーラーの第3番第1楽章を思い起こさせる(マーラーにおいては、第1番第3楽章に始まり、葬送行進曲の楽章の例は多いが、同一楽章において葬送の雰囲気を忘却させるほどに通俗的な馬鹿騒ぎを展開させる最も顕著な例として第3番をイメージしてしまう。また、トロンボーンのソロが活躍するという共通点も見出せよう・・・ただし、その使い方は全く正反対なほど性格的には異なっている・・・)。

J 第3楽章の唐突な勝利の凱歌
 Iでも触れた、ショスタコーヴィチの交響曲第4番第3楽章における4部の構成感における、第4部に関する指摘である。この、第4部冒頭の勝利の凱歌は、楽曲の推移からみて必然性を感じさせるものかどうか?
 これは多分に個人的な感想の域をでない事とは思うが、ベートーヴェンの「運命」「第九」に見られる周到な準備、そこに至るプロセスを経て「歓喜」がやって来る、といった類のものとは明らかに相違していないか。よって、この作り物の「歓喜」は葬送行進曲に取って代わられてしまうのではないか。
 この、脆弱な「歓喜」をマーラーにも認めるとするなら、彼の第7番のフィナーレを私は思い起こす。
 第7番のフィナーレについて、ここで深く立ち入ることはしないが、前述の村井氏著作「マーラー」P240以降に大変面白い指摘があり、そのほんの一部だが抜書きすると、

 「第一、第二、第三あるいは第五交響曲のように「苦難」から「栄光」への道筋、そのしかるべき手順が踏まれていないために、聴き手はこの唐突なハッピーエンドにどう対処したらよいかわからず、とまどってしまうのだ。」

 「終楽章の「栄光」は、「あまりに手近」に手に入ってしまうために、逆に「書き割りの空」、つまり偽物だということがばれてしまう(後略)」

 「理性が人類を幸福な未来へ導いていってくれることがまだオプティミスティックに信じられていた百年前ならいざ知らず、マーラーが第7交響曲を作曲した二十世紀初頭は、啓蒙主義のこうしたプロジェクトの破綻が誰の目にも明らかになった時代だった。」

 「マーラーがしたことは、交響曲という「伝統の形式」の命ずるところに従って、ハッピーエンドを作り続けることは1905年という時点においては、もはや茶番でしかないという内部告発であった。」

 これらの、第7番終楽章の解説を、そのまま、ショスタコーヴィチの第4番終楽章の第4部に掲げても何ら違和感はないのではないか。
 想像するに、ショスタコーヴィチは、マーラーの第7番のフィナーレの「書き割りの空」、必然性のない唐突な勝利の凱歌をさらに徹底して陳腐に書きあげ、それが「書き割り」だとして、剥がし、その裏にあるものまでも、明確に表現してみせた、とは言えないか。そして、その裏にあるのは、葬送行進曲の象徴される「死」であり、その点は、Gでも指摘したマーラーの第6番「悲劇的」の象徴を持ち出す事で、より強固な主張になっているだろう。
 蛇足ながら、剥がされた「書き割りの空」は、この世の楽園たる共産主義国家の幸福、ということか。

 さて、この楽曲全体の結び方、については、ショスタコーヴィチは終生、体制との関係において、悩みの種となったと想像する。
 体制側の欲する「楽天的フィナーレ」を採用するか、しないのか?
 採用したとして、どう書くか?
 第4番の撤回後、第5番をも含めて、ほとんど第10番まで全ての交響曲に付きまとった問題である。「フィナーレが弱い」という批判である。

 とした時に、この第4番の結びこそ、ショスタコーヴィチの最も素直な告白、かつ危険な告白、いや、「告発」ではなかったか。
 
 あえて前述の村井氏著作を真似て書けば、「指導部の執拗な説得に従って、ハッピーエンドを作ることは、1935年という時点においては、もはや茶番でしかないという内部告発」こそ、この第4番の結びではなかろうか?

 そして、この第4番の結びこそ、ショスタコーヴィチのマーラー研究の成果の最も重要なポイントを含んでいる部分ではなかったか?
 Iで触れた、第3番第1楽章の葬送と通俗の交錯
 そして、その結論としての、Jで触れた、第7番のフィナーレの唐突な歓喜
 さらに、その唐突さ、非論理性、必然の不存在ゆえの、葬送の回帰。続いて、Gで触れた、第6番「悲劇的」の象徴の出現。そして文字どおり「悲劇的」終焉・・・・・・。


 本筋からやや離れてしまったが、第4番あってこその第5番、という視点から、第5番を解く鍵を探すことも含め、少々長々と第4番の考察をしてきました。

 この第4番において、ソレルチンスキーの影響下で、マーラーを継ぐ者としての自覚がそうさせたのか、あまりにも多くの、マーラーからの引用、借用を行ったショスタコーヴィチ(あえて、この露骨さを他の作曲家に探すのなら、匹敵するのは、ブルックナーの第3番初稿版におけるワーグナー引用。そして、芥川也寸志の交響曲第1番におけるソ連作曲家の引用ぐらいだろうか)の姿が見えてくる。
 ただ、数えたらきりのないほどのマーラーの痕跡が認められるなかで、最後に触れた、GIJの指摘こそは、我が論考において、かなり強調しておきたいところだ。

 さて、第4番でマーラーからの多大な影響を表明した彼が、第4番の初演を閉ざされ、次に書く第5番において、そのマーラーからの呪縛を解いたのか、さらにマーラー漬けであり続けたのか、次の項で考えてゆこう。

(2006.5. Ms) 

<2−7> マーラーと交響曲第5番

 交響曲第4番において、強烈なほどに「ポスト・マーラー」を意識していたショスタコーヴィチだが、その「ポスト・マーラー」たるスタンスを第5番においては、あきらめたのか、そうでないのか。前項の、第4番とマーラーとの関係を基に洗いだして見よう。

〜 第5番において放棄したマーラー的要素 〜

 まず、@Aについては、放棄したと見なせるだろう。
 オーケストラの編成については、第4番のような巨大さからは縮小。演奏時間も1時間超から45分程度に短縮。

 そして、葬送行進曲的楽想も姿を消した。つまりDIも放棄された要素である。
 ただし、Fに掲げた旋律についてはどうだろう。
 <2−5>@でも触れたように、第5番第1楽章3小節目のヴァイオリンの旋律線が、第4番第3楽章1171小節目以降のホルンの旋律の不完全引用だとするなら、この第4番の例の引用元こそ、マーラーの第7番第1楽章9小節目にあり、結果として、第5番においてもマーラーからの引用が認められることとなる。ただし、ここで共通する付点8分音符と2つの32分音符の組み合わせによるリズムは、第4番では採用されず、第5番でマーラーの例と完全に一致する形として現われている点に注意しよう。より、マーラーの第7番からの引用であることを明確に示しているとも言えるかもしれないのだ。
 また、このリズムは、<2−2>Aでも触れたように、「バロック風」な特徴を持つもので、前述の村井氏著作「マーラー」P244においても、交響曲第7番第1楽章の解説で、「バロック時代の荘重なフランス風序曲をも思い出させる」との指摘があるもの。
 マーラー、ショスタコーヴィチそれぞれが、バロック音楽からインスパイアされて、交響曲の冒頭に偶然、この特徴あるリズムを置き、重要な主題としてその楽章において充分展開している、とも考えられるが、果たして、ショスタコーヴィチがマーラーからの引用という意識を持ってこの部分を書いたのかどうなのか、断定的なことは言えないが、<2−2>Aで言う「古典重視の姿勢」を掲げつつも、同時に、マーラーからの影響も未練がましく残した可能性がある程度には言わせていただけないだろうか。
 結論として、葬送行進曲は放棄されつつも、そこに含まれたFの旋律線は引き続き第5番でも採用された、というわけか。

 その他、放棄された要素、と言うより、第5番においては引用が使用されなかった旋律線、発想という点では、EGは、ここに挙げておくべきだろう(「復活」への胎動を予告するリズム、そして、「悲劇的」の示導和音)。

 ということで、今、挙げた以外は放棄されず、第5番でも活用されたマーラーからの影響、ということで話を進めてゆきたい。つまり、残った項目は、

B 4度音程
C レントラー
F バロックのフランス風序曲のリズム
H ソナタ形式の応用・破壊
J 唐突な勝利

 ということになる。・・・うーむ、いろいろ問題がありそうだ。特にJについては聴く側の感覚次第でどうとでも言えそうな要素ではあろう。が、とにかく、一つづつ検討を加えたい。

(2006.5. Ms)

〜 第5番においても採用されたマーラー的要素 〜

 まず、問題のなさそうな項目からつぶしてゆこう。

「バロックのフランス風序曲のリズム」

 Fについては前項において述べた通り。第5番においては、リズムに関して、第4番よりもマーラーとの一致の度合いが高まったもの。
あと4項目については、いづれも重要な論点であり、やや丁寧に見てゆきたい。

「4度音程」

 まず、Bの指摘について。
 第4番においては、マーラーから「カッコウ」動機が露骨に引用されているが、そうした、言わば安易な手法は第5番においては放棄されている。
 しかし、4度音程自体は、第5番において中心的な音程として充分に活用されており、第4番における表層的な「カッコウ」の引用以上に、本質的な意味においてマーラー的と言えないだろうか。

 最も分かりやすい例として、マーラーの第1番においては、冒頭に示された4度音程は、「カッコウ」としても活用されると同時に、第1楽章の主要主題を産み出す基ともなり、のみならず、第2、3楽章においても、特に、冒頭で単独で明確に繰り返し提示され、その4度音程の上に主題が歌われてゆく。

 翻ってショスタコーヴィチの第5番を見てみれば、第1楽章の序的な主題提示の後、4小節目の後半から、低弦そしてヴィオラが、カノンにより4度音程を伴奏として響かせる。そして、その4度音程は、展開部の最中、188小節目から、ティンパニ等の行進リズムに乗って現われ、それ以降も、再現部の243小節目以降、そして、コーダの313小節目以降、全てティンパニ主導で聞かれるわけだ。
 そして、第4楽章冒頭においても、そのティンパニの完全なソロにより4度音程が打ち鳴らされ、そのAとDの音が交互に鳴るその上に重なる形で、金管の主題は、A−D−E−Fと歌い出される。この金管の主題は第4楽章通じて何度も繰り返され、コーダにおいても長調で高らかに吹奏されると同時に、ティンパニにおいても、くどい程に叩き付けられる。

 ただ、これらのティンパニの4度音程について言えば、実は、古典的な常套句、である。そもそも、バロック音楽以前のいにしえの時代より、2台のティンパニの調律方法は、主調の主音と属音ということになっていて、つまりは、2台のティンパニの音程関係は、4度か5度のどちらかであった。
 ちなみに、その常套的な調律方法に革新を加えたのはベートーヴェンで、第8番や「第九」に聞かれるオクターブの調律は、効果的であり印象的である。
 ベートーヴェン以降、ティンパニの調律は、4、5度音程に限ったものではなくなるが、それでも、マーラーは4度音程が余程お気に召していたのか、各交響曲で、さかんに目立つ部分で4度音程をティンパニに託し、その2音を交互に叩かせている。第1番第1楽章の最後、第3楽章の冒頭。第2番第3楽章の冒頭。第3番第6楽章の最後等々、挙げてゆけばきりがない。その中でも、第1番、第3番は、ニ長調における使用法で、DとAの2音はまさに、ショスタコーヴィチの第5番と同じ音であることに留意したい。特に第3番は、楽曲の終止部分で、ティンパニにDとAの4度音程を託し、ショスタコーヴィチの第5番との関連性が想起されやすい。
 そして、この4度音程のティンパニ自体、特にソロで、主音・属音を交互に響かせるなら、マーラーを確実に想起させるものと思えないだろうか。ショスタコーヴィチにとってみれば、古典的であることを示しつつも(ショスタコーヴィチの第1番第4楽章における旋律的なティンパニの使用法に比較して何と退行したことか)ポスト・マーラーである主張をも同時に想起させる、カッコウならぬ格好の音素材ということで、第5番において盛んに活用したのではないかと想像したりもする。マーラーからの発想の借用、と考えてどうだろう。

 さらに、余談ながら、ショスタコーヴィチの交響曲において、再び4度音程のティンパニを活躍させているのが第12番の最後。
 しかし、基本的には第5番以降、第6番第1楽章、第7番第4楽章、第8番第3楽章(ここでの例は、あまり旋律的ではないかもしれないが)、第10番第4楽章、第11番第2楽章、第15番第4楽章等々、3台ないし4台のティンパニを旋律的にあつかって目立せる手法が復活しており、第5番の4度音程の多用は、交響曲の全体像から捉えなおせば、本来のショスタコーヴィチらしからぬ側面とも言えるかもしれない。

(2006.5. Ms)

『余録』

 もう一点、4度音程絡みで続けますと、第5番第4楽章冒頭の金管の主題、A−D−E−Fについては項を改めて触れる事とするが、この、アウフタクト、そして小節の頭、の2音における、A→Dという音の動き自体に注目して、これもまた、マーラー的なる象徴事例かも、という仮説も述べておきたい。これこそ、さらに曲解率の高いものであり、読み飛ばしていただいて構わない部分ではあります・・・。

 そもそも、マーラーにおける4度音程については、前述の柴田氏著作「グスタフ・マーラー」P46以降で詳しく触れられており、「西欧以前、あるいは非西欧世界への親近性」を感じさせ、また、バルトークやコダーイにおける、西欧化していないマジャール系農民の音楽における4度音程の重要性についても述べられている(参考までに、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」第1楽章における4度音程の重要性については、一つの例になるだろう。)。
 マーラー音楽における4度音程へのこだわり、は西欧よりも東欧に近いロシアのショスタコーヴィチにおいても、感ずるところがあったかもしれない。・・・これは根拠薄弱な邪推・・・。
 それを踏まえて、マーラーの作品をざっと見渡すと、4度音程を含む主要主題が多数あるなかでも、ショスタコーヴィチのこの事例と同様に、アウフタクトと次の小節の頭に4度音程(属音→主音)を持つ旋律線が思いの他多いことに気がつく。
 全てのスコアを検証するのも大変なので、交響曲の主要主題のみを、長木誠司氏著「グスタフ・マーラー全作品解説辞典」 立風書房刊 に掲げられた譜例を中心にして参考に拾ってゆくと、主なものだけでも、
 
 第1番
  第1楽章、ホルンのファンファーレ(208小節)。
  第2楽章、冒頭のスケルツォ主題(8小節)。
  第3楽章、冒頭葬送行進曲のオーボエによるオブリガート(19小節)。 
  もちろん、第4楽章のコーダ、ホルンの立奏部分の手前からも(652小節)
  さらには、初稿「花の章」の冒頭トランペット。

 第2番
  第1楽章、木管による下行旋律(26小節)。ただし、冒頭、低弦の旋律にも多数4度音程の強調部分あり(5小節目以降)。
  第3楽章、トリオにおけるニ長調の部分の金管と木管の掛けあい各々(練習番号37以降)。

 第3番
  第1楽章、まさに冒頭のホルン主題。
  第2楽章、冒頭はじめメヌエット、トリオの各主題(練習番号3、4)。
  第5楽章、冒頭、木管の歌い出し。
  第6楽章、冒頭のヴァイオリン主題。

 第5番
  第5楽章、冒頭のファゴット(4小節)。チェロによるフーガ主題(55小節)

 第7番
  第2楽章、冒頭のホルン主題。もちろん、主部の主題も同様(練習番号72)。
  第4楽章、冒頭のホルン主題(練習番号175)。
  第5楽章、冒頭の金管(トランペット及びホルン)(6小節)。

 これらは、各楽章の主要主題であり、つまりはその楽章においては多少の変容は伴いつつも、何度も何度も、登場してくるはずである。マーラーにとっての4度音程へのこだわりの一端が良く示されてはいないか。特に、第1、3、7番においては、複数楽章においてアウフタクトで始まる4度音程が散見され、特に楽章冒頭の主要主題にこれらの共通パターンが多数仕込まれており、見逃すことが出来ない一大特徴となってはいないだろうか?全曲を統一する最重要な要素と言って過言ではなかろう。

 そして、このようなマーラーの常套的旋律が、意識的または無意識のうちにショスタコーヴィチに入りこんで、彼自身の第5番の冒頭の旋律へと転化していった、などという可能性は果たしてあったのか、なかったのか。この2音をもって、マーラーと関連づけて良いものかどうか・・・これまた、邪推、であり、曲解の域を出ないだろう、と思いつつ、意外にショスタコーヴィチの本心を突いたかしら、との気がしないでもない・・・。
 こういったマーラーとの旋律線の一致については、A−Dの2音のみならず、A−D−E−F(またはFis)の4音に拡大して見比べても、意外に多くマーラーに見られるので、またおって探究したい。

(2006.5 Ms)

「レントラー」

 続いてCの指摘について。もちろん、第5番第2楽章についてである。
 第4番においては、あからさまにマーラーの第2番第3楽章を思わせていたが、第5番においてはどうだろう。私自身はさほど、マーラー的と受け取っていなかったが、様々な文献を見てゆくと、この楽章からマーラーを聴き取る方々が多いようだ。

 まず、同じロシアの作曲家ミャスコフスキーのコメント。前述のファーイ著作P137によれば、
「モスクワ初演に向けたリハーサルを何度か見たミャスコフスキーは日記にこう記している。「(前略)第二楽章は(メヌエット、レントラーの特徴が)マーラーの焼き直し。」」とある。
 
 また、前述の井上氏著作P73においても、
「彼のこれまでの曲の多くのものとちがって、自然な情緒をもち気どりのないこの楽章は、ワルツまたはレンドラー舞曲の交響曲化である((中略)むしろマーラーのスタイルによる交響曲化である。)。」とマーラーに言及している。

 具体的にどの部分が、という指摘があるものはなかなか見当たらないのだが、前述の千葉氏著作P192においては、
「中間部は、シューベルト=マーラー風のレントラーである。」との指摘がある。

 個人的なこじつけで指摘をするなら、低弦で始まる冒頭部分は、マーラーの第1番第2楽章と発想が似ていると言えなくもないだろうし、14小節目の木管のユニゾンなどは、マーラーでよく聴かれる響きでもあり(ショスタコーヴィチにおいてはすぐさまEsクラリネット独奏に移ってしまうが)、45小節目以降の旋律の付点リズムの連続はマーラーの第6番のスケルツォ楽章の主題と同様のリズム感であり、さらに、その部分の弦の伴奏の2,3拍のEs−Dという動きは、同じハ短調の、マーラーの第2番第3楽章でも繰り返し聴かれるもの・・・・と、細かく見てゆけば共通点は見出せ、その様々な積み重ねが、マーラー的な印象を持たせるのだろうか。
 ただ、今あげた4点、それぞれ一つだけに気付いても、マーラー的とまで思えないかもしれないが、マーラーの各交響曲を隅々まで聴いている方々なら、マーラーの真似じゃないか、と思わせる箇所がひっきりなしに、またかまたかと登場するわけで、「マーラー風」と感じることになるということか。

 さらに一点、この楽章がAllegrettoの3/4拍子であることは注目しておこう。
 実は、ショスタコーヴィチが、天性からのスケルツォ書きの名人であることは断言できるだろう・・・作品1さらに作品7といった10代の頃から、単独で「スケルツォ」という名の管弦楽曲を書き、交響曲第1番においても第2楽章は、個性的なスケルツォ楽章で彼の独自性を発揮したものとなっている。初演時にスケルツォがアンコールされてもいることからも察することができようが、独創的で魅力あるスケルツォと私も考える。
 そして、注目すべきは、それら全てが2拍子、もしくは4拍子で書かれており、ベートーヴェンや、ブルックナー、マーラーにおけるスケルツォ楽章が伝統的なメヌエットの残滓たる3拍子を採っているのとは違っており、ショスタコーヴィチも第5番以降においても、2、4拍子系のスケルツォを好んで書いている’(交響曲なら、7、8、10、13、15番を挙げておこう)。3拍子系のスケルツォももちろんあるが(交響曲なら、6、9番)、大抵は急速な3拍子で、1小節を1拍とカウントするものである。
 そんな中、自らの個性たるスケルツォの様式を捨てて、第4番では、Moderato con motoのあまり速くない3拍子を採用し、レントラーへの接近を感じさせているが、ショスタコーヴィチの全スケルツォ楽章の比較のうえでは、その第4番の路線の延長線上で第5番も捉えることができよう。
 スケルツォ書きの大家ショスタコーヴィチにおいて、人生で最もマーラー風なスケルツォ楽章に接近したのが、第4、5番であることは意識しておいて良いのではないか。

(2006.5 Ms)

『余録』

 余録続きとなってしまうが、この第2楽章に関連して、N響のヴァイオリニスト永峰高志氏の指摘を偶然、とある文献で見つけたので紹介させていただきましょう。
 「弦楽専門誌 ストリング 2000年5月号」レッスンの友社刊の、「新・オーケストラの聴かせどころ」という連載から、クイズとして、まさに今回の私の視点と同じく「第5番の第2楽章でマーラーから影響を受けたという事がよく判る箇所」がどこか?というものがあります。

 回答としては、ショスタコーヴィチ第5番第2楽章は、マーラーの第9番第2楽章を参考にしている、というもので、具体的に、ショスタコーヴィチの冒頭、低弦の主題に対しては、マーラーの第2楽章90小節目以降(TempoUの箇所)が、そして、ショスタコーヴィチの中間部、ヴァイオリンのソロに対しては、マーラーの第2楽章の49小節目以降が楽譜を用いて対比されています。

 永峰氏曰く、「こうして譜面を見比べるとたいして似ていると思わないかもしれませんが、実際に演奏していると響きやテイストが全く違うこの2曲の中で妙に同じ匂いがするというか、お互い引き合う所がこれらの場所です。他にもこのような所は何箇所もあります。(正解も!)」。

 私個人としては全く気がつかなかった点であり、音程、リズムの一致による音符の同一性という観点からの私の「引用論」とは違う視点からの指摘ですが、日々楽譜と付きあっているプロのプレイヤーの目、もしくは耳も、おおいに参考になりますね。

(2006.6. Ms)

「ソナタ形式の応用・破壊」

 続いて、Hについては、第5番第4楽章に注目したい。
 参考までに、第1楽章におけるソナタ形式は、2つの主題の提示、展開、再現がしっかり把握されやすいと思われる。ただ、243小節目以降の、再現において、かなり提示部とは変容された形となっているが、ベートーヴェンの「第九」第1楽章の例を想起していただければ、ショスタコーヴィチがさほど伝統から逸脱したことをしているとは思われないはずだ。
 しかしながら、第4楽章のソナタ形式ははっきり言って、私には分析ができない。ソナタ形式と言えるのかどうか?

 そこで各種文献を参照すると、

 全音スコアの園部三郎氏による解説(現行版のスコアとは相違)P16〜18においては、
「この楽章は大体においてソナタ形式であるが、ロンド形式の変形ともみることができる。」
「終楽章の主部は、第1楽章の提示部の場合と同じように、ただ単に2つのテーマを提示するというやり方ではなくて、いろいろな主題的な素材を発展させ、展開させるという形をとっている。」
「展開部には、普通の交響曲にみられるディナミークも、ドラマチズムもなく、(中略)新しい性格と内容をもっている。」

 前述の千葉氏著作P192においては、
「ソナタ形式だが、じゅうぶんな主題展開や確固とした再現部を欠いたまま、ニ長調の楽観的なコーダで結ばれるため、どこか性急でおおげさな印象を残しかねない。」・・・この指摘は、Jの「唐突な勝利」とも関連してこよう。

 さらに、前述のOttaway著作P41においては、
「これはどこから見てもソナタ型をした楽章の変形とさえ言えず、むしろ輝かしい即興曲であり、衝動的であるがよく抑制されている。」

 参考までに、この第5番のフィナーレ同様、第7番「レニングラード」のフィナーレも、ソナタ形式からの逸脱を思わせる構成となっており、全音スコアの第7番における寺原伸夫氏の解説でも、
「主要主題を提示したあと、すぐさま352小節にわたって延々と展開する。緊張し、突進するような長大な展開部を、彼は書かずにいられなかったのだ。」とある(ちなみに、マーラーの第1番のフィナーレも、いきなり主題提示とともに展開部を繰り広げているような様相ではある。)。
 第5番も、提示部において既に主題の展開は開始され、それがある種「即興曲」のような趣となろう。ただし、主題の展開はなされており、全くの無形式ではなく、「衝撃的」だが「抑制」のとれたもの、ということか。ただし、主題の展開を提示部でした以上、展開部にあたる中間部分では、まったく違う楽想が必要となり、ソナタ形式を応用しつつも、破壊されている、と見なせよう。

 こういった特徴が、マーラーの影響と見なせると思うのだがどうだろう。
 やはり、マーラーのソナタ形式においても、単純な、提示−展開−再現という3部構成は見られず、提示しながらの展開、本来の展開部における新規の楽想の挿入、再現部における主題の変容、短縮は見られるだろう。その例として、マーラーの第1番の第1、4楽章を挙げておこう。
 前述の村井氏著作「マーラー」において、第1楽章の解説(P193)で、
「主題をそのまま再現しなければならないというソナタ形式のお約束は、マーラー音楽の基本特性とまったく相容れない。なぜなら「突発」後には音楽がまったく違ったものにならねばならぬからだ。」
 第4楽章の解説(P194)で、
「展開部に入ってまもなく、音楽は「地獄から天国」へ至る一筋の光明を見出す。(中略)激しい闘争の末、(中略)曲を結ぶニ長調に達するのだが、まだ再現部が書かれていない!(中略)マーラーはいったん勝利をあきらめ、第1楽章序奏部の回想へと撤退する。その後、順序を逆にして第ニ主題の短縮再現、第1主題の短縮再現と続く(後略)」
 とあり、ソナタ形式を意識しつつも、自由な形式感をもって曲を構成しているさまが見て取れる。。
 マーラーにおける、ソナタ形式の応用・破壊は、ショスタコーヴィチにおいても第4番(第1楽章)にまず影響を与え、第5番(第4楽章)においても、第4番ほどの破天荒さはないものの、単純な古典的な形式感では掴みきれないあたり、マーラー的と言って完全な誤りではないと考える。

(2006.5.Ms)

「唐突な勝利」

 先に述べたとおり、ショスタコーヴィチの第5番のフィナーレが、先行3楽章で充分準備なされた後の必然的帰結なのか、それとも、唐突な勝利として腑に落ちないものなのか、これは多分に聞き手の主観でどうとでも捉えられる問題だろう。なので、深くは立ち入らないでおこう。
 ただ、第4番の第3楽章における唐突さ、のような、あからさまに違和感ある、歓喜の登場は避けられていることは明白だが、果たして、第5番も歓喜へのプロセスが納得いかない種類の音楽なのか、様々な人々の感想に耳を傾けることをしておくのは必要だろう。

 実際に、ショスタコーヴィチが計算づくで、「唐突」と思わせようとして書いたのかどうか、これは詮索しようもなかろう。公式見解を読んでも、そんな素振りは感じられない。当たり前の話ではある。
 前述の「自伝」P86において、初演後2ヶ月たった1938年1月の「文学新聞」でのショスタコーヴィチの以下のコメントが紹介されている。
 「わたしはこの交響曲で、大きな内的、精神的苦悩にみちたかずかずの悲劇的試練をへて、世界観としてのオプチミズムを信ずるようになることを示したいのである。」

 なお、第5番の成功に大きく寄与したと思われる、作家アレクセイ・トルストイによる、「人格の形成」というキャッチフレーズも、フィナーレのコーダを、素直な楽天主義の表明として受けとめ、そこに至る過程をも必然として理解したゆえのものであろう。

 また、余談ながら、私自身、ローティーンの頃から、第3楽章から第4楽章への転換も、第4楽章のコーダへの道程も、心ときめかせて必然として聴いてしまっているのだから、ここで、「唐突」であることを自ら証明しようなどとは全く思わない。

 ・・・が、各種文献を紐解けば、
 先程も引用した、千葉氏著作P192における、
 「ソナタ形式だが、じゅうぶんな主題展開や確固とした再現部を欠いたまま、ニ長調の楽観的なコーダで結ばれるため、どこか性急でおおげさな印象を残しかねない。」という指摘をはじめ、

 当時の批評の多くも、
 「最終楽章で示される喜びと「楽天主義」が本物であることを、完全に確信していたわけではなかった。」(前述のファーイ著作P135)
 第2楽章がマーラーの焼き直しと断じたミヤスコフスキーも、
 「第4楽章は刺激が強すぎる。中間部はいいが、最後が悪い。ニ長調の堅苦しい応答部。オーケストレーションはひどい。」(前述のファーイ著作P137)と日記に記し、
 前述の井上氏著作P77においても、「第五交響曲の終曲は、「その性格が、やや”デウス・エキス・マキーナ(器械じかけの神)”式であり、チャイコフスキーやベートーヴェンの特長である有機的統一を欠いている」としばしば言われ、書かれもした。」と、単純な讃美だけでなかったことは紹介されている。ここで言う、「器械じかけの神」の意味がはっきりしないが、有機的統一の欠如については、先程の千葉氏著作の引用部分とも関連する指摘となろう。
 
 さて、仮に、これら、フィナーレの弱点がショスタコーヴィチの意識的なものであって、さらに、その弱点が、マーラー仕込みなのかどうか、これを証明するのは困難だが、少し「曲解」を加えるのなら・・・

 ショスタコーヴィチにおけるフィナーレの開始部分の「唐突さ」「わざとらしさ」は、マーラーにも例があろう。
 マーラーの第1番のフィナーレの衝撃、を想起しよう。打楽器とブラスを駆使して、前楽章の静寂をぶち壊す。
 これは、第7番においても同様だ。ティンパニのソロに先導されて、煽動されて、ブラスが旋律を一人占めする発想はまさに、マーラー仕込みか。 ただ、ショスタコーヴィチの考えた安全策として、マーラーのように4台のティンパニを縦横無尽に叩き尽くすような開始は避けて、古典的な4度音程の繰り返しで、「古典尊重」の意思を示しつつ、第1楽章との関連性を重視している姿勢をも見せている。マーラーに倣いつつも、過激になりすぎない配慮があるようには思う。しかし、発想の根源にはマーラーがいると感じられないか。

 さらに、ソナタ形式としての不完全さ、については、前項「ソナタ形式の応用・破壊」でも触れたとおりだが、ここで、さらに、ショスタコーヴィチの第5番のフィナーレと、マーラーの第1番のフィナーレを重ねあわせて気がつく点を指摘しておく。
 マーラーにおいては、展開部途中で、それこそ唐突に、曲が終わりそうな勢いで、勝利の凱歌が現われる(378小節目)。しかし、この段階ではソナタ形式の公式上、再現部が書かれていないため、一度、勝利を引っ込めて、第1楽章の回想を挿入してから、第2主題、第1主題の再現をして、また、同じ勝利の凱歌を再登場させ(639小節目)、やっとコーダを導く。
 ショスタコーヴィチにおいては、今のマーラーの例で言うなら、展開部途中の勝利の凱歌をそのまま楽章終結部にしてしまったような形式感と私は考える。ようは、マーラーで言うなら、378小節目から一気に639小節目に飛んでしまう、というやり方となる。
 つまり、ショスタコーヴィチの例では、現に第2主題の再現が全くなく、また、第1主題の再現も随分と非力な印象であり、再現部を欠いたままコーダへ突入していると思わせる点が、ソナタ形式を途上で放棄した印象となり、この形式感こそ最も、「楽天主義」への懐疑、また、「唐突な勝利」と思わせている理由だと考えるが、この発想の原点は、マーラーの第1番のフィナーレにある!というのはいかがだろう・・・(マーラーの第1番においては、結果として、ソナタ形式の形を取りつころうことで、くどいほどの勝利の強調となったが、逆にショスタコーヴィチはそれを放棄した点で、マーラーとは聴後感が相違することとなったが・・・)。
 
 ショスタコーヴィチにおける第4楽章の形式が、マーラーからの借用、ということは、あえておおいに主張するものではないが、その可能性がないわけでもない、と私は考えている。

 以上、第4番と共通する、第5番における、マーラーからの影響について考えてきた。
 これら全てが、ショスタコーヴィチにとって意識的に、ポスト・マーラーたらんとした現われであるかどうかは断言できないが、決して、第4番で見せたマーラーへの接近を、第5番で完全に方向転換したわけではない、ということは言って差し支えないのではないか。
 プラウダ批判において、マーラーがまかりならん、ということになったわけではないので、「古典の尊重」は充分意識し、聴衆にその尊重が届くような配慮はしながら、第4番と同じく、大切な作曲家であるマーラーからの影響を随所に埋め込んだのが、ショスタコーヴィチの第5番である、ということは言えそうではないか。

(2006.6. Ms)

『余録』

 ショスタコーヴィチの第5番において、第4番では見られないが、新たに、マーラーからの影響を思わせるものについて、一点だけ付け加えておく。 

 <2−2>において触れた、バッハからの不完全引用と思われる、第3楽章の24小節目から出る、第1ヴァイオリンの旋律(バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番第2楽章のフーガ主題との旋律線の一致)について、さらに、マーラーの交響曲第6番第2楽章スケルツォのトリオ主題にも似ているという点である。
 具体的には、マーラーにおいて、106小節目以降のヴァイオリン(同様の箇所が、115、129小節も)、283小節目以降の木管等々、散見される。ただし、最初の同音連打が、全て一発多く、バッハの例のほうがより、一致はしているが。
 これもまた、不完全引用として可能性はあろう。
 ショスタコーヴィチの第5番の第3楽章、特にクライマックス(121小節目)において、木琴という共通の楽器を通じて、マーラーの第6番を思い起こさせる主題を聴く時、確かに「悲劇的」なる心持ちが一層強まるのは確かだ。

 こういう細かいところまで見ていけば、きっとまだまだ、マーラー的フレーズは発見されることだと思う。が、マーラー不得手な私としては、随分てこずってしまったので、今は、先を急がねばなるまい。

次項は、ショスタコーヴィチ自身の交響曲第1番について(2006.6. Ms)

 

<2−8> 自作の交響曲第1番

 さて、プラウダ批判を受けて、マーラーの影響下に交響曲第4番を時の政府に対する挑戦状として創作し続けたショスタコーヴィチだったが、自身の身の安全をおもんばかってか撤回、一転、名誉回復のための作品を書こうとした時、決して、後の「森の歌」のようなスターリン讃美の歌詞を用いずにそれを行おうとしたわけだ。このように、歌詞を伴わない、標題を持たない、純音楽たる「交響曲」のスタイルで、と決めた時、彼にとってのモデルは何であったか。
 もちろん、ベートーヴェンの「運命」「第九」。さらにそれらの延長上にあって、そして何より、ロシアの伝統をしっかりと受け継ぐ、チャイコフスキーの4番、5番であったろうことは想像に難く無い。運命を克服する、暗黒から光明へというプロットこそ必要とされた最大の条件だっただろう(もちろん、マーラーもモデルであり続けたが、それ以上の存在として、誰が聞いても文句なしの存在としてベートーヴェンとチャイコフスキーは意識されただろう)。が、一方、私がここで挙げておきたい存在は、自身の交響曲第1番である。

 「森の歌」方式により、体制べったりの歌詞を伴って復活を果たすのは彼にとって、良心が許さぬ、芸術家として恥ずべきことだったろう。まして、世界的作曲家なのである。ソヴィエト国内では名誉回復しようと、世界には通用しないだろう。その時、彼を勇気付けたのは、交響曲第1番の成功体験、であったと私には思われる。第1番の初演日を自らの第二の誕生日として祝っていた彼にとって、まさに「運命」を賭けた第5番に、第1番から受け継いだ要素は皆無ではないだろう。

 第一に、外見的に、オーソドックスな4楽章制を採っていること。
 もちろん、ベートーヴェン、チャイコフスキーらに倣ってのことだが、第2、第3番と単一楽章、第4番で、いびつな(巨大な両端楽章と小さな中間楽章)3楽章制を採った彼が、初心に戻ったのは、今さら指摘するまでもないか。

 第二に、管弦楽編成について。
 第2番における、サイレン、などという特異な音響、さらに、第4番におけるマーラーに匹敵する大オーケストラは破棄。第1番同様の標準的なサイズのオケである。
 ただ、それだけでなく、ピアノの活用も第1番譲りである。第1番ほどに旋律を単独で任されるような派手さはないが、第5番でも第1楽章の展開部における弦のピチカートとのコンビネーションなど目立っている。交響曲におけるピアノの活用というのも先人がいないわけではないが、オーケストラの楽器としてのピアノ(ピアノ協奏曲ではなく)の可能性を、彼なりに第1番から継続して探究したとは言えるだろう。
 
 これらだけなら、あえて項目として独立して書くほどのものでもないが、第三として、ホルンの独白、という点で私に思うところがあるので紹介したい。
 第1番の第4楽章の第2主題の確保で、ホルンのソロが聴かれる(131小節目)が、その背景で鳴るピアノの細やかなトリルまで耳にするなら、この部分が、第5番の同じく第4楽章の同じく第2主題の確保(126小節目)における、ホルン・ソロとその伴奏を思い起こさせるものであろう。旋律線こそ似てはいないが、伴奏は同じく高音域のトリルである(第5番においてはヴァイオリンだが)。楽曲の構成上、置かれた場所も、全く同じである。フィナーレにおける第2主題が全合奏で華々しく奏された後に、余韻を味わうような形で、弱奏によりホルンの独白が挿入されているというわけだ。

 ショスタコーヴィチにおいて、特に第1楽章及び最終楽章に置いて、大クライマックス(概ね、再現部の始めの辺り)が築かれた後、管楽器によるモノローグが引き継がれるケースがかなりある。
 ざっと例示するなら、第7番第1楽章のファゴット。第8番第1楽章のコーラングレ。同第5楽章のバス・クラリネット。第10番第1楽章のクラリネット。第11番第4楽章のコーラングレなど。
 ただ、こういう位置でのモノローグにホルンが活用されているのは第5番のみである。それも、第1、第4楽章双方にホルンが用意されている(第1楽章はフルートとのカノンだけれど)。この、独白させるホルン、という使用法は第1番での経験を踏襲したように思われる。まして、伴奏の類似を思えば、意識的な、自作からの発想の借用、と私は考える。

 だとすれば意図は何だろう。
 「お守り」?確かに、第1番の成功体験の再来を期して、との憶測もあろうが、それだけではないだろう。
 ホルンによるテンポの緩やかなカンタービレな旋律、という使用法、他にも例があろう。シューマン、マーラーももちろんホルンに重要なソロを預けてはいるが、ファンファーレ的でない歌を託した例としては、断然、チャイコフスキーの交響曲第5番第2楽章が燦然と輝いている。そして、その発想自体は、チャイコフスキーにとっては、第1番の第2楽章後半、第2番第1楽章序奏においても活用されており、ロシア民謡風な調べがホルンに託されている。
 彼の後継的存在、ラフマニノフにとっても、チャイコフスキーをかなり意識したと思われる成功作かつ復活第1作たるピアノ協奏曲第2番の第1楽章の第2主題の再現部においてホルンに旋律を吹かせている。
 国民楽派のボロディンの交響曲第2番第3楽章の冒頭なども好例であろう。
 また、ロシア的題材に基づくストラヴィンスキーのバレエ「火の鳥」においても、全曲版を聴けば、王子の登場場面にホルンのソロが幾度となく使用され、また終曲の冒頭のソロなどもおおいに印象に残るものである。

 私の想像では、ホルンのモノローグに、古典崇拝、それもロシアの伝統的作品への敬愛の念がにじみ出ている、という本心もしくは言い訳が見てとれるのではないか。それも、両端楽章の大クライマックスの直後という、印象に残りやすい場面での起用だ。私の新作は、ロシアの偉大なる伝統にインスパイアされているんです、とアピールできそうに私は思う。
 このホルン故を持って、とは言わないが、前述井上著作P77でも触れている第5番に対する当時の批評の一つ、

「ショスタコーヴィッチの音楽はそれまでにきいたどの音楽よりもスラヴ的な音だった。」

と言わしめる一つの要素として、第1番でも使用済みのホルンの独白、位置付けられないだろうか。

(2006.9. Ms)

<2−9> 歌劇「カルメン」の「ハバネラ」

 さて、本稿も核心に迫りつつ(?)あるようで、当方も慎重に筆を運ばねばならない。・・・随分と休憩をいただきました。
 その間に、東京芸大での、「ショスタコーヴィチ・シンポジウム〜ショスタコーヴィチ像の現在」(2006.10.21)が開催され、まさに、「カルメン」引用が話題の中心となるなど、この項を書くにあたっての影響も少なからずあり、その辺を整理しながら、書き進むべき内容の修正などもして望まざるを得なくなった、という面もある。さあ、待っただけのことがある文章となりますやら?

 まずは、私が1999年に当HPで展開した、「カルメン」引用について簡単にまとめておこう。(曲解」シリーズ第3回)・・・・『レコ―ド芸術2006年2月号』にて、亀山郁夫氏によって紹介していただいたことは、私にとっての大いなる支えとなりました。繰り返し、感謝の念を捧げたいと思います。

 ショスタコーヴィチの交響曲第5番第1楽章における第2主題再現、つまり、260小節のフルートから始まる旋律が、ビゼーの歌劇「カルメン」におけるカルメンの歌う「ハバネラ」の一節(ラ・ムール、ラ・ムール・・・「愛・愛」と歌う箇所)とほぼ同じであり、これは完全引用(誰が見ても引用元が特定できる)と考える(ただ、弦楽四重奏曲第8番の例のように、作曲家本人が言及しているわけではなく、偶然の一致、との可能性もないわけではないが、ここまで一致する旋律を書いておいて、偶然、とは私は考えにくいと思う。その気持ちは今なお不変である。)
 そして、引用する以上、何かしらの意味はあるはずであり、ここでブルックナーの「ワーグナー交響曲」の例のように、「ビゼーに対する敬意」を表する、という意味あいよりは、そこに歌われる内容、つまりは、「愛」それだけの単語に尽きるのだが、ショスタコーヴィチは、この部分で、聞き手に「愛」という意味を音楽に付与して欲しい、と思っていると、私は考えたわけだ。修辞的引用として、引用元の音楽に歌詞がある以上、それを伝達しよう、とするものである。
 そこで、当時(1999年)の私は、交響曲第4番の撤回を、娘ガリーナの誕生と結び付け、この交響曲第5番は、家庭人としてのショスタコーヴィチの妻そして子に対する愛が背景にあって誕生したのだ、と考えた。つまり、交響曲第4番を発表して、体制に挑戦状を突き付けるのをやめ、体制の中で生きるための作品を生み出す契機としての「愛」の存在を歌いあげた、というわけだ。

 さらに、第1楽章で「カルメン」の「ハバネラ」の存在を意識するなら、第4楽章のコーダで高らかに金管楽器で吹奏される主題(冒頭の主題を簡略化し、さらに短調から長調へ変化させたもの。325小節以降)も、同じく「カルメン」の「ハバネラ」の中の、合唱による、あいの手の4つの音(A-D-E-Fis)と同じであり(付け加えるなら、主旋律の下を支える内声、A-Fis-A-Dまでもが一致している)、リズムも拡大されてはいるが、それぞれの音価は同じとなっている(つまり、ショスタコーヴィチを速く演奏すれば、ビゼーがより明瞭に浮かびあがる)。
 ただ、たった4つの音(内声も含めれば8つの音だが)をもって、引用と言えるかは疑義が残る。確かに、これは次項で詳細を述べるが、「ソードーレーミ」という音の動きは、古今東西いくらでも例があり、偶然の一致の可能性は多いに高いものである(バーンスタインのTV番組のテーマにもなったもの)。
 しかしながら、この部分だけ見れば、偶然の一致と考えても良いが、既に、第1楽章で、露骨な「カルメン」、それも長大な歌劇の中での特定の「ハバネラ」という歌の一節が聞こえてきた以上、私の耳には「ハバネラ」の一節として、このコーダは聞こえて来るのだ。さらに、このニ短調の50分近い作品で、継続したニ長調の響きが聞こえるのは、まさにこのニ箇所のみ。調性まで引用元と同じである。私は、このコーダも、「ハバネラ」からの引用、として見る。ただし、第1楽章の例以上に異論もあるでしょうから、不完全引用(引用元が誰の耳にも明らか、とは言えない)としておこう。
 そして、やはり引用元に歌詞がある以上、修辞的引用として解釈するなら、この合唱は、「気をつけろ」と歌っているわけで、最後の高らかな凱歌に「ご用心」という意味を伝達しているのが作曲家の本心である、と考えるものである。
 その、用心は、何に対するものかは、「ハバネラ」の引用だけでは判断のつかないものである。「カルメン」においては、カルメン自身が、「私に惚れたらご用心」と歌うのだが、ショスタコーヴィチにおいては、それとは違う用心であろう(ショスタコーヴィチ自身が、人民の敵である私とつきあうのはやめたらいい、との思いを歌ったとも考えられようが、ショスタコーヴィチが引用しているのは、用心すべきは私、という歌詞の部分まで含んではいない)。そして、他の引用やら、成立過程などの検証を踏まえ、この「用心」は解釈されるものとなろう。ただ、個人的には、引用され長調で高らかに歌われる勝利の雰囲気(この作品の結論)こそが「ご用心」という単純な解釈こそ、説得力はありそうだ。

 なお、1999年における私の論考では、「カルメン」からの引用、として、その最後の「ご用心」の意味を愛にからめてみたり、そもそも「ご用心」という歌詞を離れて、「カルメン」と同様に女性主人公の悲劇を歌うショスタコーヴィチのオペラ「マクベス夫人」復活等々の意味付けもしているが、厳格にこの引用を考えるなら、「ハバネラ」における「ご用心」という歌詞部分のみをもって判断すべきで、オペラとしての「カルメン」全体に思いを馳せてしまうのはやりすぎ、なのかもしれない。
 ということで、この項も、「カルメン」の引用ではなく、「カルメン」の「ハバネラ」の引用、というテーマになっているのです(細かいですが)。

 最後に、私なりのポイント、なのだが、この2箇所の引用とも、音楽の構成からみれば、主題の最初の提示、で引用をしているのではなく、提示では「ハバネラ」との関連性はかなり希薄、である。そして、提示の後の展開で徹底的に取りあつかったあげく、最後に、引用であることが明される。ここに、ショスタコーヴィチのしたたかさ、があるわけで、主題提示の瞬間で、引用元がわかるような出し方をすれば、一体これは何の意味だ、と詮索されかねないだろう。しかし、主題の再現(古典派のようにまるっきり同じ主題として帰ってこないのは多分にマーラー的なのだが)において、引用元と似ている分には、主題の展開の結果がこうなったんです・・・偶然の一致でしょう・・・、としらばっくれることが可能であろう。意識して主題を引用したんじゃないよ、と言い訳するための方策なのではないか、と、この引用の登場は私には思わせるのだ。

 という具合いに復習したところで、最近の、「カルメン」引用説の、専門家の主張など紹介していこう。
 まずは、N響の定演プログラム雑誌「フィルハーモニー」2005年5月からの抜粋(第1541回定期、パーヴォ・ヤルヴィによる5番の名演を思い出す)。そして、先月の、ショスタコーヴィチ・シンポジウムにおける一柳冨美子氏の言及。この2つを取りあげる。

(2006.11.27 Ms)

 まずは、N響の定演プログラム雑誌「フィルハーモニー」2005年5月からの抜粋。

 千葉潤氏による、『運命のアイロニー プラウダ批判とショスタコーヴィチの<交響曲第5番>』より、

 この交響曲の最も目立つ特徴は、個々の音楽素材から楽章全体の様式にまで及ぶ引用性の豊富さである。特に、ベートーヴェンの<運命>や、<第9>への仄めかしは、ほとんど無意識的に、”英雄的”な連想をかき立てる。(中略)
 しかし、ベートーヴェンへの言及は、この作品に織り込まれた引用のネットワークの表層でしかない。この曲に複雑な陰影を与えているのは、むしろ、聴き取ることのより難しい他の引用であろう。どの引用を重視するかに応じて、作品解釈も大いに異なったものとなる。

 と、前置きして、数種の例を出しつつ、最後に紹介するのは、

 さらに、ロシアのアレクサンドル・ベンディツキ―や、マナシール・ヤクーボフは、第1楽章第2主題の再現と、ビゼー<カルメン>の<ハバネラ>の有名な”L’amour! L’amour!”との旋律的な類似(どちらもニ長調)を含む、両作品の主題連関を多数指摘し、1930年代半ばのショスタコーヴィチとエレーナ・コンスタンチノフスカヤ(結婚後、実際に”カルメン”姓を名乗った)との愛人関係が、この交響曲の内的標題であるとする(!)、驚くべき解釈を打ち出している。

 といった具合です。
 1年半ほど前、この指摘に初めて目を通した時、99年に私がHPで書き綴って、どうにもわからなかった、「何故、カルメンなのか」に対するあまりに的確な回答だ、と目を見張ったわけだ。まさか、ショスタコーヴィチの愛人に、将来カルメンを名乗る女性が当時存在しようとは、さすがに想像すらしなかった。結局、当時の私の結論は、妻子への「愛」(L’amour!)を歌いあげる引用としか想像できなったのだ。
 しかし、どうだろう、この交響曲の内的標題が、愛人カルメンに関わるもの、とまでは今の私には思えない。そういう一面もあったのかもしれない、しかし、それをクローズ・アップしすぎるのも曲解になりすぎないか?ということで、ショスタコーヴィチ・シンポジウム(2006.10.21)における、一柳富美子氏の主張が、この愛人「カルメン」を中心に据えた第5番解釈であったので、ここに紹介させていただきます。
 当日、配られたレジュメの内容を転記させていただきますと・・・

 まず、『関連年表』

1932   恋人タチヤーナ・グリヴェンコ、長男を出産。 
  ショスタコーヴィチ、タチヤーナを断念し、ニーナ・ヴァルザルと結婚。
1934   エレーナ・コンスタンチノーフスカヤとの恋(夏だけでも42通)
  愛称はリャーリャ(「リャ」はロシア語の「ラ」と全く同じ)
1935   エレーナと公然の交際。離婚危機。ニーナ妊娠、エレーナと別れる。
1936   密告によりエレーナ投獄さる。
  01.28. プラウダ批判。同日、エレーナの不幸について手紙で言及。
  05.30. 長女ガリーナ誕生。
  11月以降、エレーナ、渡西し記録映画技師R.Carmen氏と結婚。
1937 妻ニーナ、再び妊娠。交響曲第5番。
1938   05.10.長男マクシーム誕生

 続いて、『ビゼ<カルメン>からの引用との比較』 (レジュメにおいては、楽譜が紹介)

 続いて、『プーシキンの詩による四つの歌曲』から第1曲<復活>拙訳』

 交響曲第5番第4楽章再現部の手前で引用される、歌曲の伴奏部分に対応する歌詞として次のように紹介されています。

 かくして 苦しみ抜いた私の魂から
 誤解や思い違いは消え去り
 初めての頃の清らかな日々の幻影が
 心の中に湧き上がってくるのであった

 さらに最後に、『交響曲第5番終楽章コーダ(324小節目)のテンポとソ連国内の出版譜』

 1939年 四分音符=188
 1947年 八分音符=184
 1956年 八分音符=184
 1961年 四分音符=188
 1980年(旧作品全集第3巻) 四分音符=188

 324小節目から終りの358小節目の間に252回のラ(=リャ)が連呼される
 早いテンポだと「リャーリャ=エレーナ」、遅いと「ヤー=私」が強調される
 (作品に女性が登場する例:交響曲第10番第3楽章)

→  楽譜・書簡から判断すれば、政治や体制とは無関係の、従来とは全く異なる解釈が可能 

(2006.12. Ms)

 当日の一柳氏の主張を耳にした人間として、補足するなら、
 作曲当時1937年、直前まで続いた、かつての愛人リャーリャへの思いが作品に投影されている、という証拠として、「カルメン」の引用は位置付けられ、プーシキン歌曲からの引用にしても、歌曲全体の意味ではなく、引用された箇所に特定して意味を吟味し、そこに女性への思いが込められている、という解釈になるわけだ。参考に、歌曲全体の訳として、私がかつて転記したものを再掲すれば以下のとおり。

未開人の画家が うつろな筆さばきで 天才の絵を塗りつぶし 
法則のない勝手な図形を その上にあてどもなく描いている。

だが 異質の塗料は年を経て 古いうろこのようにはがれ落ち
天才の創造物はわれわれの前に以前の美しさを取り戻す。

かくて苦しみぬいた私の魂から かずかずの迷いが消えてゆき
はじめの頃の清らかな日々の幻影が 心のうちに湧きあがる! 
 (全音楽譜出版社 ショスタコーヴィチ歌曲集 1 より)

 歌詞全体を見渡せば、上演禁止になった歌劇や、発表を取りやめた交響曲第4番の「復活」を思わせるものともなろうが、一柳説ならば、恋心に重きを置く意味付けとしての引用になる。

 最後の、リャの連呼は、シンポジウムでも他のパネリストからも、やや異議をもって迎えられた主張。この指摘は、ラの音の連続をそこまで解釈できるかどうか、私としてはなかなか苦しいような気もする。ただ、絶対ありえない、とも言い難いのだろうが。

 ただし、一柳氏としては、政治・体制との関係で生まれたのではなく、人間ショスタコーヴィチの感情、それも恋愛感情が吐露された作品として、解釈したいとの念が強かったようだ。様々な作品に対する言及よりも、楽譜を詳細に検証することで、従来の解釈と異なるものが浮かびあがる、ということを力説されていた。しかし、やはり、そういった面もあるのかもしれないが・・・、というレベルに留まる話に思えてしまう。
 私の最大の疑問は、かつての愛人が、スペインでカルメン姓を名乗ったことが、ショスタコーヴィチに知り得たのかどうか、の一点。

 以下は、99年に私がHPでまとめた年表だが、36年11月以降のリャーリャの結婚の事実が、すぐロシアのショスタコーヴィチのもとに情報として届き得たかどうか?ただ、プロの研究者の方が主張されているので物証なりはあるのだとは思うのだが、それを確認しないと、私としてはにわかに信じられない。まして、投獄され海外へ亡命?した人間の消息が、まして大粛清の最中、それも、ショスタコーヴィチ自身マークされていた時期に、海外からの手紙なりで知ることは可能だったのだろうか?(現実の朝鮮半島北部の状況などから想像するに、ソ連史の素人なりにも、かなり困難と推測してしまうのだが。)

時期 作曲及び作品発表の状況 社会状況 家庭状況
1932/5/13     ニーナと結婚
1935/9/13 交響曲第4番作曲開始    
1936/1/28   プラウダ批判(歌劇に対する)  
1936/2/ 6   プラウダ批判(バレエに対する)  
1936/5/20 交響曲第4番完成    
1936/5/30     娘ガリーナ誕生
1936/8月   第1次モスクワ裁判(大粛清)  
1936/12月 交響曲第4番リハーサル開始
初演中止
この前後「プーシキンの詩による4つのロマンス」を作曲
   
1937/1月   第2次モスクワ裁判  
1937/4月 交響曲第5番作曲開始    
1937/6月   トハチェフスキー元帥秘密裁判・処刑
(ショスタコーヴィチのパトロン・理解者)
 
1937/7月 交響曲第5番完成    
1937/11/22 交響曲第5番初演(名誉回復への第1歩)    

 とりあえず、愛人がカルメン姓を名乗ったことをショスタコーヴィチが知らなければ、このヤクーボフ・一柳説は説得力を欠くわけで、そのあたりの詳細が今後明らかになれば、このHPのこの項も書き換えさせていただきたい。現状としては、こんな説もある、という紹介だけに留めたい。

 ということで、今現在の私の思いとしては、カルメンなる女性との関係は作品に関係付けず解釈したい。
 すると、やはり、第1楽章の「愛」の連呼たる、「カルメン」の「ハバネラ」の引用は、妻子への「愛」故にこの作品は存在する、という証明に思えてならない。一柳氏が、この引用をもって、人間ショスタコーヴィチの感情に思いを寄せたい!と主張したのと同様な気持ちは私にも感じるが、対象が、愛人ではなく、妻子、ということだ。一柳氏は、この「ハバネラ」の引用が、ホルンとフルートのカノンで奏される点も指摘し、ここに男女の思いを聴いているようだが、それは、私も同様。しかし、愛人とのデュエットではなく、妻とのデュエットとして聞こえるのだ。
 今一度、私の作成した年表を眺めても、娘の誕生が、交響曲第5番誕生への大きな役割を担ったような気がしてならない。
 確かに、妻が身ごもる中で第4番の作曲は批判後も続けられ、娘の誕生後も、第4番の発表へと彼のチャレンジ(独裁体制への挑戦だ)は続く。
 しかし、その発表後のことを想像するに、傍らにいる1歳に満たぬ娘の姿を見ながら、ショスタコーヴィチは何を思ったか?
 芸術家としての信念と、初めて父となった家庭人としての感情と、・・・・その両者にさいなまれたのが、1936年の年の瀬の彼の偽らざる姿ではなかったか?・・・(いつもの妄想・曲解ではある)。
 そして、結果として、第4番を撤回、名誉挽回の為の交響曲を書くとなった時、この作品の前提としてあるのは、家庭人としての彼の家族へのまさしく愛だと、作品に刻印するとなった時、彼に、まさに「愛、愛」と歌う旋律が去来したのだろうか・・・そんな想像も興味をそそるじゃないですか?
 結局、あれから私も7年、変わってなかったなあ。

さあ、それでは、第4楽章における「ハバネラ」の引用は「如何に」・そして「以下に」(2006.12. Ms)

 さて、今一度、ここで、もう少し詳しく、第1楽章の「ハバネラ」引用を見てゆきたい。とにかく、純粋に楽譜だけを頼りに、「ハバネラ」と、ショスタコーヴィチの書いた音楽を比較検討である。楽譜こそ、様々な議論の出発点である。・・・一柳氏も言ってみえましたね。この際、隅々まで目をこらし、そして、その結果は以下のとおり。

 ここでは、「ハバネラ」との、旋律線そのものの共通点以外に、その周囲やら、そこに至る経緯も含めて、気がついた点を列挙しよう。
 まずは、その旋律線の登場の仕方について2点挙げたい。

 @ 曲自体はニ短調で開始され、ニ長調に転調した所から、明るく朗らかに「愛、愛」と歌い始める。
 ショスタコーヴィチにおいても、一応、主調はニ短調で(かなり無調的だけれど)、初めてニ長調として安定するのが、「ハバネラ」の引用箇所の直前となっていて(259小節目。ハープの和音もニ長調主和音を強調する。)、続く260小節目からが「愛、愛」という旋律だ。
 また、その直前は、楽章冒頭に見られたニ短調からの無調的な逸脱に比較すれば、おおいにニ短調的(243小節目 Largamente以降。ティンパニのA−Dの繰り返しが安定したニ調を印象づけ、253小節目以降のAの音の保持も属音(第5音・・・調性音楽としては、主音に継ぐ重要な音である)としての機能を充分果たしていよう。ただし、あえて注釈するなら、楽章冒頭、主題提示で7小節目に現われているEsの音が、オーケストラの絶叫と化す243小節以降に頻出しており、フリギア旋法への指向は持っていて単純なニ短調とも言えないが・・・)で、ニ短調からニ長調へという、古典的な調性感が素直に感じられる仕組みとなっている(少なくとも構成音、Fisに変容する意味において、短調から長調への解決が聴覚的に確認できる)。
 この、素直な安心感を促す、明瞭な、同主長調への移行は、全曲を通じても異例(ちなみに、フィナーレのニ長調のコーダを導く直前に、ニ短調は微塵もない。60小節以上前にあるのみ。)である。ニ長調の明るい響きが、ことさら強調されているように思える箇所となっている。

 A また、ハバネラの伴奏リズムまでもが、歌い出しの直前に、暗示的に聴かれる。
 ビゼーの「ハバネラ」はもちろん、付点音符を用いた伴奏リズムが、常に歌の伴奏として聞こえているが、ショスタコーヴィチにおいても、「愛、愛」という部分における伴奏ではないが、その直前において、楽譜を仔細に見れば、そのリズムは浮きあがってくる。
 すなわち、254小節目以降のリズムだけを取り出せば、全くハバネラの伴奏音型リズムと一致してしまう・・・(偶然かもしれないが、恐るべき事実なのだ)。細かく見れば、ティンパニを主とするタ・タ・ターという、全曲を通じての指導動機 + 低音楽器による第1楽章冒頭の付点のリズム、この両者を同時に鳴らすと、ハバネラの伴奏リズムが完成。ちなみに、冒頭主題のリズムは、本来は、複付点8分音符+32分音符だが、この該当箇所では、付点8分音符+16分音符。あえて、ビゼーのハバネラ・リズムとなるよう、リズムの変更がされているのだ。
 「さあ、これから、ハバネラを歌いますよ」
という意識的な変更やもしれぬ・・・まあ、専門家に言わせれば、純音楽的には、トロンボーンにこのリズムを任せる際、あまり細かなリズムは不得手、という点、さらに、冒頭よりも重厚に時間をかけて響かせたい、という要請に基づくもの、と一蹴されるだろうが。あえて、ハバネラ・リズムになっている事実だけは大書して指摘したい気持ちではある。偶然にしては出来過ぎではないですか。)。

 とにかく、ニ短調からニ長調に転調する転換点で、ビゼー、ショスタコーヴィチともに「愛、愛」が歌われる点は意識しておいてよかろう。この、短調→長調という転換を経てすぐに歌われる「愛、愛」だからこそ、この部分が主人公「カルメン」の束縛を離れた自由な飛翔のようなイメージを持って立ち現れる点は、ビゼーにおいても、必然的な音楽の流れであったろうし、ショスタコーヴィチにおいても、「愛」こそが、荒れ狂う困難な時代にあって、未来への希望をつなぐ存在となっていたという告白として捉え得るのでは、と思わせるのだ。

(2007.2. Ms)

 「ハバネラ」引用を導くプロセスについて以上見て来たが、さらに続いて、B その「ハバネラ」引用部分を伴奏している和声についても確認したい。
 作品全体の結論として置かれた揺るぎ無い、フィナーレのコーダのニ長調以外で、唯一、長調(それもニ長調)を一定時間、確立させているのが、第1楽章のこの箇所なのだが、ニ短調を主調としながらも、無調的な部分もかなりの部分を占め、一定の調性を継続させない第1楽章のなかで、「ハバネラ」引用の箇所は、あまりに快い癒しを提供していないだろうか。
 だと認識していただけるなら、理由は、和声的な観点から言えば、ほぼ完璧な古典的なカデンツ構造(T−S−D−T)を響かせていることに由来しよう(<ド・ミ・ソ>−<ド・ファ・ラ>−<シ・レ・ソ>ー<ド・ミ・ソ>という、あまりに典型的な和声連結)
 ビゼーも同様の和声づけをしているが低音の分散和音での伴奏となっており、ショスタコーヴィチにおいては、弦5部とハープによって、純粋に和音そのものを同時に響かせていて譜面上も一目瞭然となっている。
 もちろん、ショスタコーヴィチも交響曲を始め、第5番以外にも調性的な音楽を書いてはいるが、あくまで「調性」、なのであって、古典的な和声感・機能和声に基づいた、ズバリ「調性音楽」でない方が多い。例えば、彼の交響曲第1番にしても、フィナーレのコーダで、へ長調の主和音が鳴ることはあっても、その前後はへ長調とは無関係な和音が鳴っていたりする(最後の1音の手前の和音は、変イ短調の主和音であり、コーダではこの和音がへ長調の主和音と交互に出てくる。)といったように、それ単体では協和音として使用していたとしても、古典的なカデンツとして各和音が連結されているとは限らない。ドビュッシー以降の20世紀の調性的な現代音楽は、多くがこのように書かれているはずだ。

 とするなら、第5番第1楽章第2主題再現は、わざわざ、この部分だけ、古典的、教科書的、18・19世紀的に、書かれている。書法の面から、かなり異質な部分、であることは認められ得るのではないか。19世紀の音楽をそっくり和声も添えて移植して来るからこんなことに・・・と言ってしまいたくもなる・・・。

(2007.2. Ms)

 さらに、根本的な観点から、眺めよう。なぜ、再現部で、この旋律線なのだ? 主題提示の部分と、旋律のおおまかな流れ(上に行くか下に行くか)は共通しながらも、旋律線の各音の音程関係が違っている。その展開の経緯を拾ってゆけばどうなるか。
 C 第2主題が「ハバネラ」に似てゆくプロセスを追う。
 あいかわらず、楽譜を記さずにドイツ音名だけである点、ご容赦ください。ちょっとわかりにくくなりそうだ。そこで、主題提示・再現におけるこの旋律自体は、2分音符のアウフタクト+ 6拍のロングトーン の組みあわせなので、その2つを「 」としてくくって、音程関係も( )で書いてみよう。オクターヴ上行は、oct、と略記します。

 主題提示(51小節目)・・・「B−(oct)−B」(4度上)「Es−(7度下)−F」(4度下)「C−(oct)−C」(7度上)「B−(3度下)−G」

 オクターヴ上行が、最も特徴的なのは明白。そして、7度の音程が、不安定なムードを漂わせる。
 続いて、展開部における変容の過程。

 Ver.1 (107小節目)・・・「Fis−(oct)−Fis」(4度上)「H−(7度下)−C」(4度下)「G−(oct)−G」(6度上)「Es−(3度下)−C」
                 ヴィオラによる。若干の音程の変更。7度下行が、短3度から長7度に変更で、不安定さを増す。

 Ver.2 (157小節目)・・・「F−(oct)−F」(4度上)「B−(7度下)−C」(6度上)「As−oct)−As」4度上「Des−(3度下)−B」
                 4分音符が続く、短縮型。前半は低弦。後半は木管。ただし、後半は最後の音が伸びずに、控えめな形(どさくさ紛れ?)
                 前半は主題提示と同じ音程関係。後半は、再現部における「ハバネラ」引用と同じ音程関係。

 Ver.3 (168小節目)・・・「C−oct−C」4度上「F−3度下−D」(oct下)「D−(oct)−D」(6度上)「B−(3度下)−G」
                 これも短縮型。低弦等による。前半が、「ハバネラ」引用と同じ音程関係。
                 後半は、Ver.1の後半と同じ音程関係。
                 (前半には、高弦による応答もあり。低弦の4度上を正確にカノンで。「F−F−B−G」)

 Ver.4 (220小節目)・・・「F−(oct)−F」(4度上)「B−(3度下)−G」(4度下)「G−(oct)−G」(7度上)「F−(3度下)−D」
                 こちらは拡大型。トロンボーン・チューバ等による。
                 前半が、「ハバネラ」引用と同じ音程関係(Ver.3の高弦と同じ音高)。
                 後半は、主題提示の後半と同じ音程関係。

 そして、主題再現(260小節目)・・・「(oct)(4度上)(3度下)」(5度下)「E−(oct)−E」(4度上)「A−(3度下)−Fis」

 フルートの旋律線を記したが、8つの音のうち、最初6つが、ビゼーと全く一致する。7つ目のA音も、オクターヴ相違するだけなので、事実上、7つの音が同じとも言える。
 念のため、ビゼーにおいては、旋律線は周知のとおり、「(oct)(4度上)(3度下)」(5度下)「E−(oct)−E」(5度下)「A−(4度上)−D」。
 さらに、主題再現で、フルートに対し1小節遅れで出るホルンは、「D−D」「G−E」「」「。音程関係は、フルートの旋律線に全く同じで記載は省略。さらに後半は、フルートの前半と同じ音高。すなわち、ビゼーの歌い出しの4音と同じ。つまりは、この再現部におけるフルートとホルンのカノンは、ビゼーの歌い出し「A−A−D−H」を全く同じ音高で2回繰り返す、とも分析でき、また、その歌い出しの、(oct)(4度上)(3度下)という動きを計4回繰り返す構図とも言える。

 この一連の過程を見れば、とても偶然とは思えない、作為が感じられないだろうか。
 ショスタコーヴィチの主題自体(提示部)は、「ハバネラ」と、オクターヴ上行・及び大雑把な旋律のアウトラインで共通性はあるが、「ハバネラ」そのものの音程関係ではない4音のグループ2つが連なっており、7度の音程が重要となっている。
 展開部においても、Ver.1は主題同様の傾向を持つ。
 しかし、続く、Ver.2及び3では、短縮型で、ビゼーの歌い出し4音と同じ音程関係の動きが登場。
 Ver.4において、拡大型で、ビゼーの歌い出し4音と同じ音程関係の動きが登場。
 そして、再現部では、ビゼーの歌い出し4音と同じ音程関係の動きが4度現われ、その最初と最後が、ビゼーの歌い出し「A−A−D−H」と全く同じ音高となる。提示部で目立ち、展開部でも活用された7度音程は完全に捨てられる。
 ショスタコーヴィチの主題が、ビゼーそのものに変容してゆく過程、あまりに計算され尽くしたものと言えないだろうか・・・それとも偶然、なのだろうか。・・・私には偶然には思えないほどに、綿密な設計図を見る思いだ。

(2007.2. Ms) 
 
 と、ここまで、第1楽章で「ハバネラ」を意識させた上での、フィナーレのコーダであるのなら、A−D−E−Fis(及び、内声のA−Fis−A−Dを含む)という旋律の形、そして、リズムの一致、は単なる偶然というより、充分に意識的なもの、と私は捉えたい。
 全曲中、唯一、かつて響いた、偶発的ならざるニ長調のハーモニー。これが、中間楽章で全く登場せず、やっと、フィナーレの最後に再現した時、ある聴衆は、第1楽章に経験した一時の安らぎを想起するかもしれない。その時、「ハバネラ」の「愛、愛」が聴衆の記憶に残っているのなら、フィナーレのコーダが、楽譜どおり、四分音符=188で駆け抜ければ、「ハバネラ」の「気をつけろ」が自動的に浮かびあがってこよう。
 ただし、「気をつけろ」というメッセージがそう易々と見破られないための布石として、多義的な意味を付与することが可能な、ソ−ド−レ−ミ、という使い古された、過去の名曲で使用例が頻出する旋律線であることは押さえておこう。次なる大きなテーマにもなろう。それは、さておき・・・ 

 第1楽章第2主題再現と、フィナーレにおける全曲の帰結・結論が、固く結びつく様を思う時、これは、ショスタコーヴィチの第5番固有の問題ではない、ということを気付かれる方もおられよう・・・フィナーレを導く重要な役割を持っている第1楽章第2主題再現・・・という図式、それは、ショスタコーヴィチの第5番に始まったことではないのではないか。ベートーヴェン、チャイコフスキーを思い出して見よう・・・。

 社会主義リアリズムという要請(強制)が、きっと、手本として、ベートーヴェンの「運命」「第九」、さらに同民族の先駆者としてのチャイコフスキーの4,5番あたりを想定していたのでは、と前項<2−8>においても最初に記したところだが、このような、一連の、「暗黒から光明へ(苦悩を突き抜け、歓喜へ至れ)」型交響曲には、その最後の、決定的な歓喜の絶叫に至るまでのプロセスが巧妙にかつ説得力をもって仕組まれている。ようは、伏線がしっかりと周到に張られているのだ。
 結論たる長調(例えば、ベートーヴェンの「運命」におけるハ長調)が、唐突に、その場限りの調性として出てくるのではなく、必ず、前もって少しづつ示されているのだ。そういった、過去の手本と比較するなら、ショスタコーヴィチの第5番においても、結論たるニ長調を共有する2箇所が強力に結び付いていることを主張できるのではないか?と考えるのだがどうだろう。ということで、ここから先に進む前に、一度、今、挙げた一連の、「運命」を克服する「歓喜」の交響曲たちの、結論たる長調への伏線の存り様を見ておきたいと思うのだ。

ベートーヴェンとチャイコフスキーとじっくり対峙したい・・・時間はいくらあっても足りないね(2007.2. Ms)

 

 

 

 

<2−10> A−D−E−F

 交響曲

 

<2−11> シューマン

 交響曲

 

 


<1> 「引用」総論

 ここで、一概に「引用」と言っているが、具体的な「曲解」に入る前に、前提として、独断的に分類などしておきたい。「引用」というのも様々なスタイルがある。

<1−1> 「自作の引用」と「他者の作品からの引用」

 まず、「自作の引用」と、「他者の作品からの引用」。まあ、当たり前な話、ではある。
 前述の弦楽四重奏第8番の第1楽章の、自作の交響曲第1番冒頭の引用、といった例もあれば、交響曲第15番の第1楽章の、ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲の引用、といった例もある。前者は「自作」、後者は「他者の作品」からの引用が数多く並んでおり、あまりにも、分りやすい例だ。

 ショスタコーヴィチ以前で、「自作の引用」で有名なのは、何と言ってもマーラーか。交響曲での自作歌曲の引用の例は有名、交響曲第1番第1楽章からして取り入れられている。R.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」における「英雄の業績」という部分における自作の引用なども、自伝的な意味を持たせたものとして目を引く。
 また、「他者の作品からの引用」では、ブルックナーの交響曲第3番の初稿でのワーグナーへの尊敬を念を込めた引用などもあるが、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」における、皮肉、軽蔑に満ちた、ショスタコーヴィチの交響曲第7番からの引用もある。

 ここで具体的な引用の形をちょっと細かく見てみよう。最も「引用」について語りやすい、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番
 「自作の引用」として、交響曲第1番冒頭、ピアノ三重奏曲第2番第4楽章の通称「ユダヤの主題」、交響曲第5番第1楽章主要主題。他にもあるが、とりあえず、この3例を比較すると・・・。

(2006.2.23 Ms)

<1−2> 「完全引用」と「不完全引用」

 こんな造語を仮に作ってみたのだが、前述の弦楽四重奏曲第8番を例に説明したい。
 まずは、交響曲第1番冒頭の引用。
 第1楽章15小節目から、1st Vn.が旋律を、そして2nd Vn.が対旋律(途中からVla.に交替)を奏でる。このニ重奏は、まさに、交響曲第1番冒頭の、Tp.とFg.の二重奏を、音符の長さを倍にし、さらに半音下げた形に一致する。正真証明、最も完全な形の「引用」の例である。誰が見ても、引用元が断定できよう。

 続いて、ピアノ三重奏曲第2番第4楽章の通称「ユダヤの主題」の引用。
 これは、弦楽四重奏の第2楽章126小節目から用いられる。旋律線のみが、やはり音価が拡大されて引用されている。伴奏形は全く違う表現を伴う。しかし、これもまた、引用元の特定は誰の目にも明らかだろう。前者同様に「完全引用」の例としよう。

 さて、交響曲第5番第1楽章からの引用。これは、先の例2つと趣が違う。
 弦楽四重奏においては、第1楽章55小節目から、E−D−C−Bという下降する4つの音が1st Vn.で奏される。これが、交響曲第5番第1楽章の5小節目から1st Vn.で奏される、A−G−F−Esという下降する4つの音と対応することで、「引用」と説明されることがある。実は、「ショスタコーヴィチの証言」で、本人自らが「交響曲第5番を引用」と語ったことになっているのだが。
 ただ、仮にこの言葉がなく楽譜だけ見ているのなら、「引用」と断言しにくいという面もあろう。引用元が確実に判明する前2例とは違い、ひょっとして、「偶然の一致」かも、と想わせる程度の一致でもある。
 曲の解説でも、交響曲第5番から引用、とは紹介されていない場合もあり、本人が意識的に引用したかどうか断定はできない、というスタンスなのだろうか・・・最近は「証言」の証拠能力も高くないようにも感じるし・・・(アールドルフ編「わが父ショスタコーヴィチ」における「僕自身の人生に捧げた作品(弦楽四重奏曲第8番)」という項においても、ショスタコーヴィチ自身のグリークマンへの手紙の中に引用元の列挙がされているものの、交響曲第5番についての言及はない。)
 しかし、数々の自作の引用がちりばめられた当作品においては、「偶然の一致」ではなく、たった4つの音の動きだけでも交響曲第5番の引用と推定することも充分可能と思われる(「わが父ショスタコーヴィチ」におけるガリーナの回想、弦楽四重奏曲第8番の完成の日のショスタコーヴィチの言葉「僕自身を記念する作品を、たった今書き上げたよ。」・・・彼を記念する作品において、彼の代表作について全く触れてないのも不自然な気もしないではない。この箇所については、千葉潤著「作曲家◎人と作品シリーズ ショスタコーヴィチ」においては、「交響曲第5番第1楽章第1主題へのほのめかしだろうか」といった表現をしている)

 結局、引用箇所自体が、完全に引用元を断定できないので、人によって解釈が変わってくる余地がある。ということで、私個人としては引用と考えるものの、衆目の一致するところとならず、「完全引用」ならぬ「不完全引用」とでも呼称しておこうと思う。

 (補足)ただし、この4音の一致については、音符の長さが同一であり、また、3全音(連続する音の音程差が全て3つとも全音)という、古典的な作曲技法では滅多に現われない特徴的なもので(中世の教会旋法、またはその影響を受けたドビュッシー以降の20世紀音楽に見られる)、無意識のものとは思いにくく、「偶然の一致」には私には思えない点、付記しておく。
 
 この、「不完全引用」か、「偶然の一致」か、という線引きの加減によって、新たな「曲解」も生まれてくるというわけで、この「不完全引用」をいかに「引用」として意味付けるかが我が関心事なのだ。

(2006.2.25 Ms)

<1−3> 「修辞的引用」と「非修辞的引用」

 さらに、こんな造語を仮に作ってみた。「修辞」とは、手元の辞書(角川国語辞典)に寄れば、「ことばをうまく使って、美しくたくみに表現すること」。つまり、音楽でありながら、「ことばをうまく」使うこととなる引用の方法か、そうでないか、という分類だ。

 端的な例として、既に引用の例として挙げた、ブルックナーの交響曲第3番初稿及びショスタコーヴィチの交響曲第15番とを比較しよう。
 両者ともに、ワーグナーからの引用が重要な役割を持っている、と考えられる。しかし、ブルックナーとショスタコーヴィチで意味あいが違うと思われるのは、引用元が、楽劇、という筋書きを持った、(いわゆる純粋に音楽だけで存立している交響曲などの絶対音楽ではなく)何らかの言葉を持った音楽でありながら、その意味を引用先で問題としているか否か、である。
 ブルックナーにおいては、ワーグナーへの尊敬、この一点に尽きるのではないか。私に、この点を詳細に論ずる資格はないが、丁度、今、手元に、この2月のN響定期演奏会(ブロムシュテット指揮でまさに当曲、それも初稿版が演奏)の有料のパンフレット「フィルハーモニー」があるが、こう解説されている(高尾知良氏による)。

「バイロイト献呈譜に示されている音楽上の特徴を一言で言えば、まさに「献呈稿」である。随所(特に第1楽章)にワーグナーからの引用が散りばめられ、オマージュにはまことにふさわしい。ブルックナーが交響曲という大規模な純粋器楽の構成法を体得していたと同時に、ワーグナーへの敬意と理解を具体的に示していたわけである。」

 一方のショスタコーヴィチにおいては、ワーグナーの尊敬の念も、ないとは断言しないが、それ以上に、その引用元から、音符だけでなくその背後にある「意味」をも引用してきている、と考えるのが妥当ではないか。
 つまり、一例を挙げるなら、第4楽章冒頭の、ティンパニのソロは、明らかに、「ジークフリートの葬送行進曲」からの引用だ(若干の相違はあるが、「偶然の一致」と主張する方が無理がありそうだ。)。この「葬送」という意味こそ、この引用では度外視してはならぬ要素であると考えるのが、様々な文献を読んで一般的と私は考えている。
 ここでは、ワーグナーの楽劇の、和声の斬新さ、金管楽器を多用したオーケストレーションなどといった、ワーグナー音楽の特徴を、敬いながら引用するといった方法論ではなく、楽劇における音楽以外の要素である、引用元が表現する標題、舞台設定を想起させるべく引用している、という訳だ。
 それを、ここでは「修辞的引用」と呼ばせていただこう。逆に、その引用元の音楽の背景を問わず、「修辞」を伴わなければ「非修辞的引用」となる。

 この、修辞的引用、マーラーの交響曲において自作歌曲などからの引用が目立っており、やはり、ショスタコーヴィチは、マーラーからその手法を学んだという可能性はあろう。ソヴィエトという全体主義国家における作曲家として、二重言語を操るための必須アイテムとして彼はこの手法に習熟していったのだろうか。

(2006.2.27 Ms)

 さて、ここで、最初に言及したシューマンにもちょっと登場していただこう。
 このマーラーの引用癖の先駆として、シューマンのピアノ曲「幻想曲」作品17は見過ごせない最重要作品である。
 ベートーヴェン没後10年を記念し、ベートーヴェンを称える作品として構想された当作の第1楽章は、ブルックナーのワーグナー尊敬と同様、ベートーヴェン作品の引用を伴っている。ただし、その引用元は、歌曲集「遥かな恋人に寄す」・・・ここで、この歌曲の意味をも考慮に入れた時、作曲当時のシューマンの思いがもう一つの意味を伴って伝わる。クララとの許されざる恋・・・。

 この引用については、春秋社刊「ショスタコーヴィチ大研究」のP182以降、森泰彦氏の論考に詳しいのでこれ以上は触れないが、作曲家兼ピアニストのショスタコーヴィチが、シューマンからも様々な学習をしている、という可能性をここでは指摘しておきたい。
 「修辞的引用」を利用しての二重言語、さらには、ショスタコーヴィチのイニシャルDSCH音名象徴。それらの発想の先駆者としてのシューマン像を今一度再確認しておこうではないか。

 ・・・「修辞的引用」の例は前述のとおりなので、音名象徴について補足すると、音名象徴は、(バッハ(BACH)の「フーガの技法」におけるものがさらなる先駆けとして重要だけれども、)シューマンにとっては、作品1の「アベック変奏曲」から既に、ABEGGという名前を音名に変換しており、代表作「謝肉祭」においても、ASCHという地名(クララではない別の恋人の住む所)を音名に変換、さらに曲集の中に、「スフィンクス」と題して、音名のみを掲げた楽譜を3種、謎めいた形で挿入させている。その他、デンマークの作曲家ゲーゼ(GADE=ライプチヒにおけるメンデルスゾーンの後継者であると同時に、カール・ニールセンの師としても見逃せない)なども作品に折り込まれている。事実上最後の作品、ヴァイオリニスト、ヨアヒムのために書かれたFAEソナタ及びヴァイオリン・ソナタ第3番も主要主題は、ヨアヒムのモットー「自由に、しかし、孤独に(FAE)」を音名化したものである・・・。
 ピアニスト、ショスタコーヴィチもリサイタルでシューマンの「フモレスケ」などを取りあげているようだし(ファーイ著「ショスタコーヴィチ ある生涯<改訂新版>」P39)、マーラーのみならず、シューマンから得ているものも少なくはない、と私は考えたい。

ショスタコーヴィチ・ファンの皆様にとっても、今年のシューマン没後150年は決して他人事にあらず、と思いたい(2006.2.28 Ms)

<1−4> 「引用」と「借用」

 今までは、引用の類型として、3通りの形を自分なりに整理してみたのだが、広義においては「引用」と言えなくもないが、狭義においては「引用」と分けて考えたい概念として、次に「借用」をあげておこう。

 どう違うんだ、と、突っ込まれそうだが、ショスタコーヴィチの交響曲第7番第1楽章中間部とラベルの「ボレロ」の関係を想起してみてください。
 小太鼓のリズムに乗って、旋律が何度も繰り返されつつ、徐々に楽器を増やし音量を増大させてゆく。という共通点を持っている。
 
 まず、この2つが「偶然の一致」とは考えられない。ショスタコーヴィチは「ボレロ」を知っていてこれを書いた。前述のファーイ著作によれば(P162)、グリークマンの前で、彼は・・・

 ラベルの『ボレロ』を真似たことを批難されるのは必死だと見越して、こう述べた。
 「勝手に批難させておこう。でも、戦争はぼくの耳にそんな風に聞こえるんだ」。

 ちなみに、この「ボレロ」の真似、について、参考文献においては、
 「<ボレロ>に似た構想」・・・音楽之友社「作曲家別 名曲解説ライブラリーNショスタコーヴィチ」
 「<ボレロ>の影響もある」・・・矢野暢著「20世紀の音楽」
 「<ボレロ>を彷彿とする手順」・・・千葉潤著「作曲家◎人と作品シリーズ ショスタコーヴィチ」

といった表現、説明がみられるところ。

 旋律線自体を真似ているわけではなく、今まで述べてきた「引用」とは違う方法論ではあるが、発想を「ボレロ」という他者の作品から拝借している点、引用に類するものとして、ここでは(他者の作品からに限って)「借用」という概念を使っておくこととしましょう(自作からの借用、という概念はここでは除いておく)。
 「引用」が、旋律線の比較から推量されるのに対し、「借用」は、もう少し大きな視点から、楽曲の構成、管弦楽法などの他者からの模倣、を指す概念として用いよう。

 さらに具体例の補足するなら、「楽曲構成の借用」については、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番第3楽章と、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第3楽章との関係に触れておけば分りやすいかと思いますが・・・

 両者ともに、躍動的な第1主題と、歌謡的な第2主題を持ち、それが交互にロンド形式的に現われるという構成で、それ自体は古典の時代からある形式感だが、コーダにおいて第2主題を大々的に再現させて圧倒的クライマックスを築き、その後、急速な終結部で華麗に結ぶ、という点が、古典とは違う方法論として、この2曲に共通している。
 ラフマニノフは師であるチャイコフスキーを手本にこの作品の構成を決めたのでは、という推測ができないか。まして、交響曲第1番の失敗により作曲が出来ないほどに打ちのめされたラフマニノフが、作曲家としての復帰を目指す過程で、師の成功作に寄りかかって再び立ちあがろうとする姿勢は十分に想像できる。この楽曲の形式感を「偶然の一致」と見るよりは、「借用」と見た方が私には自然に思われるのだが、いかがでしょうか。困った時に先輩の技を真似る、というのは、よくある話でしょうが、同じピアノ協奏曲というジャンル、それも同じ場所・フィナーレにおいて、弟子が師匠と同様の形式を採用しているので、この2作品における「借用」、かなり意識的と見られませんか。

(2006.3.3 Ms)

<1−5> 「引用」と「自作間流用」

 さらに、「引用」に似た概念として、「流用」それも「自作間流用」という概念をここで提起しておきたい。
 先ほどの「借用」は、他者の作品からの「借用」として捉えているが、こちらは、「自作」同士で、引用とまでは言えないにせよ同じネタを共有している、という意味で定義したい。
 ちなみに「流用」とは、辞書に寄れば「他の目的に使うこと」(角川国語辞典)。
 
 具体的なイメージとして、ベートーヴェンの「運命」の動機を想起してみてください。
 「タタタ・ター」というお馴染みのリズムだが、もちろん、彼の交響曲第5番の冒頭で提示され、全楽章通じて登場するものだ。しかし、この作品のみならず、同時期のピアノ協奏曲第4番の第1楽章、ピアノ・ソナタ「熱情」の第1楽章にも、この「タタタ・ター」が活用されているのは衆知の通りだろう。
 これは、どれかが引用元で、違うどれかが引用先、といった議論をしてもあまり意味のないことになるだろう。作曲家が、インスピレーションに従って楽譜に楽想を書きつけながら、同じ動機の様々な展開形を生み出す中で、それらが様々な作品に流れ込んで行くのは決して不自然ではなかろう。

 今の「運命」の例は、リズム動機の「自作間流用」だが、旋律を形作る音程の「自作間流用」として、ブラームス交響曲第1番と同第2番の関係も紹介しておこう。
 交響曲第2番において、低弦で冒頭に示されるD−Cis−Dという、半音を行って帰る動きは、第1楽章の主要主題として随所に活用されるが、第3楽章においては、冒頭オーボエがH−C−Hと半音の動きを反転させ、第4楽章は、第1主題がD−Cis−D、第2主題がFis−G−Fisと、同様の動きを持って、楽曲の統一感を堅固なものとしている。楽章間の素材の共有という面ではかなり徹底したものとして理解されよう(・・・余談ながら、この半音を全音にしてC-B-Cとすれば、今述べたような関係が、ショスタコーヴィチの交響曲第8番の各楽章にあてはまる・・・)
 さて、交響曲第2番を貫く、この半音の動きは、遡れば、交響曲第1番第4楽章の主部の主題のC−H−Cという動きと共通の発想である。第4楽章の主要主題として展開された後、さらにコーダにおいても、執拗にこの半音の動きは繰り返される。まさに、第1番が終わった地点から、同じ発想の音程関係を響かせて第2番は開始される(個人的には、第1、2番の連続性を強く意識させられるのだが)。

 この3つの音の動きの共通点だけを持って、「自作引用」とも言いにくいだろうが、それ以上に「偶然の一致」とも思えない。前述のベートーヴェンの例と同様に考えたらどうだろう。作曲家は自分の生み出した楽想を、どのように、どの作品に使用するか自由なわけだ。その際、意識的か無意識かはわからないにせよ、実態として類似の楽想が共通するなら、明らかに「完全引用」されているものは別として、この稿においては「自作間流用」というカテゴリーを設けておこうと考えた次第である。

 最後に、「引用」類似の概念として、「借用」を越えて「盗用」の例もあろうが、ショスタコーヴィチにおいてこれを問題にする事はないだろう。

 さあ、ここまでまとめた「引用」の類型をもって、我らがショスタコーヴィチの交響曲第5番と対峙したい。どんな作品像が浮かびあがるだろうか。

(2006.3.4 Ms)