たぶん、だぶん

記事の更新は不定期となるでしょう。たぶん。

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 このコーナーは、Msの独り言を書き綴ろう、という空虚なコーナーです。
 日頃思う事、時事ネタ、そしてもちろん音楽ネタその他もろもろについて書こうと思います。HP本編のネタの素材なども、予めこの場で紹介するかもしれません。その素材が、正式な記事として完成するかは???思いつくまま、勝手に書かせていただきます。

 ただし、新世紀の「たぶん、だぶん」どうぞご期待下さい、などとはとても言えない。
 昨年の駄文以上のさらなる駄文を書くだけになりそうだ。自分ひとりだけが書きこめる掲示板みたいなものか?たまったら消していきますので、どうぞお見逃しなきよう・・・。ちなみに、ここのコーナーの記事については、更新履歴には今後載せないこととします。


 遷延性意識障害

 日本脳神経外科学会は

@ 自力移動ができない
A 自力摂取ができない
B 排泄が失禁状態
C 目で物の動きを追っても何か認識できない
D 「手を握って」などの簡単な指示に応じてもそれ以上の意志疎通ができない
E 声は出しても意味ある言葉が言えない

という状態が、医療努力によっても改善されずに3ヶ月以上続くことと定義している。

・・・・・2004年10月30日付け朝日新聞朝刊での記事より抜粋させていただいた。
 こういった、重い意識障害が長く残る患者が、我が国に2万人と推定されているという。本日、10/31に「家族会」が立ち上り、国に対し、実態調査、支援制度の設置などを要望する。

 きっと、今日のこの動き、ほとんどの方がご存知ない、見落とされているのではないでしょうか。きっと、かつての私もそうであったでしょう。でも、身近に、患者を持つと、そうもいかないわけです。とうとう私のケースも、「医療努力」からは事実上、見放され、出口のない、家庭介護の道への準備が始まったところ。しかし、こういった事例、2万人、とは意外に多いな、と思いつつも、今後どんどん増加するのは必至だろう。我が家のケースも、きっと、現代医療の進歩が、落命を回避したものの、全く人間の尊厳などと言ってられないレベルの、生物として必要最小限の「命」だけを確保してくれた。きっと、21世紀、「命」は、こんな「命」がもっともっと身近なものになるのだ。今のうちから、この現状と、問題意識、より多くの人々に持っていて欲しい。明日は、我が身。今日の報道を忘れずに。

 我がHP、音楽に特化したつもりのHPなれど、あえて、社会的に少数な立場の人々の存在を知っていただくためにもここに掲げさせていただきました。我がHPが今後普通に今までどおり続くことで、こんな問題を抱えつつも、なるべく人並みに、社会生活が送れていることの証左となれば幸い。 

 正直なところ、複雑な心境である。あえて21世紀的な事象として提起したい。20世紀であれば、もう少し、「命」は、あっけなかったのではないか。
 この辺から音楽ネタを挟みますが、実は、この夏、こんな事情もあってか、ニールセンの交響曲第4番、いわゆる「不滅」にすがる心持ちは私の中に確かに存在した。聴く機会を2度得た。その「不滅」だが、より原題に近いニュアンスとして「消し難きもの」という翻訳もある。私は、あえて今までの通例に従って「不滅」と言わせて頂いている。「消し難きもの」でも実は邦訳として言い得ていないという考えもあるようなのだ。
 出典は今、思い出せないが、原題のニュアンスとして、「暖炉の火を消したはずが、まだチョロチョロ火がくすぶっている」といった時に形容される表現らしいのだ。
 「巨人軍は不滅です」なんて言う時の「不滅」は当然かけはなれた言い回しなのだが、「消しがたき」「滅ぼし得ぬ」でも何だか違う。もっと、不確かな、あやうい、存在しているか存在してないかの境界線の微妙さ、を言い表せなければ正確な邦訳にならないのだろうが、それを一言の日本語で言い尽くすのは難しそうだ。

 そんなことを考えながら、一応、我が患者の「命」もまさしく「不滅」なのだが、その「チョロチョロしたくすぶり」の様が、きっと、ニールセンが第1次大戦最中に考えたものと、私が今、目前にしているものと、随分違っていよう、と思わざるを得ない。ニールセンが描く音楽においては、「滅」より「不滅」の方が断然、絶対的に尊く、希望を内在させた楽天的エネルギーへと転化するのだけれど、我が21世紀の「命」の「不滅」性は、そんな絶対的な楽天性を謳歌するものか・・・・・。

 ここで、冒頭の新聞記事の抜粋から再び、

 某大学教授の指摘として、「患者と家族が置かれた現状では、日本は先進国とは言えない」。
 昨年から開かれている、家族と医療関係者による「意識障害を考える会」での意見として、「これまで医療側が救命治療実績の向上に熱心でも、救命後の患者と家族にはあまり目を向けなかったことを反省」。

 「命」の質、ここまで踏み込んだ「救命」のあり方、これは、21世紀医療の課題である。この問題に対し、患者はもちろん、残る家族も、あまりに非力だ。医療関係者に対し責任ある行動を求めていくしかないし、また、その医療のあり方、介護支援制度のあり方について国はどんな責任を取っていただけるのか。救急医療の発達、そして高齢化社会がますます進む中で、この「遷延性意識障害」の問題は、まさしく国家的課題であり、この課題に直面した一人の日本国民として、今後、この問題とつきあっていく所存。

 いつか、ニールセンの「不滅」を、懐疑の心無く、鑑賞できる日を望みつつ。

重い話題にて失礼。しかし、今、私が書くべき、かけがえのない話題には相違ない(2004.10.31 Ms)

 この、極、私的な重い話題ではあるが、自分の気持ちの整理のためにも、過去の関連の文章など下記にまとめる。

 BSで、N響・読響といった放送局のオケをTVを通じて見る機会も多くなったが(N響は、教育TVのN響アワー以外にも、全ての定期が見られるし、この4月からは、月曜の朝8時から過去の演奏<概ねこの10年くらい>を1時間見ることができる。読響は火曜、BS日テレの「ブラボー・クラシック」)、最近、偶然チャイコの「悲愴」をそれぞれで聴き、奇しくも聴き比べが出来、面白かった。オケのカラーとしては、金管の華やかさが全く好対照。読響の方が聴いてて気持ち良し。N響、最近、特にTp.がパワー不足が気になることしばしば。放送設備の良し悪しも関係するのかもしれないが(全体に読響の方が、画面も明るく、音もクリア。)。本来は同じホールで、生で聴き比べたいものの、在京住人でなし、なかなかそこまでは・・・。
 ただ、指揮の違いという点では、読響のアルブレヒトは、オーソドックスな極めて普通な感じであったが、N響のスクロバチェフスキは、テンポの揺れなども効果的に、自然と惹きこまれていた自分。第1楽章のアレグロ、やや緩いテンポで始めつつ、細やかな動きが、ほぼ同時に書かれた「くるみ割り人形」の小序曲を思わせたり(音楽の性格は正反対ながら、譜面の書き方は似てる・・・・「運命」と「田園」の主題提示の共通性なども思い出す。全く異なるキャラと思いきや、やはり作曲家も人間、同じ時期に書いた作品、作り方は似てることもあるわけだ。)、おや、と思わせ、ああ、こんな演奏もいいね、と頭に残る。あと、同じく第1楽章提示部、金管がでたところでテンポが突然、前に動き出す。はっとさせられる効果だ。その後は第3楽章も含め、アレグロの速さが心地よい・・・・・スクロバ氏、同じ月曜の時間枠で、他の曲も(ベートーヴェンの7番は、この下にも書きました)聴く機会をもったが、年老いた巨匠、といったイメージよりは、随分若々しい溌剌とした演奏を聴かせてくれ、好感度上昇中だ。・・・遅ればせながら、か。皆さんもうご存知でしたか、失礼しました・・・・私的には、今頃、最近になって、その素晴らしさに気付いた、ということです。 

 「悲愴」に続き<メモ程度のNHK教育TVの「N響アワー」の雑感>(気になった曲のみのコメントにてご容赦)をここで挿入させていただこう。
 
 
6/6(日)放送今年5月の定演から。
 1515回定期(2004.5.13) マーラーの交響曲第6番「悲劇的」。サラステ指揮。
 熱くない、ドロドロしていない。爽やか!なんていうと大袈裟な気もするが、不思議な演奏だった。マーラーでも最も主観的といおうか、自己没入の度合いも高く、今までの私的には、辟易、敬して遠ざけていた感も強いこの作品を、軽く、濃厚な味つけもなく、押しつけがましさのない快演としてくれた。これじゃ「悲劇的」ではない、と怒る方も多かろうが、私的には、大食漢が汗だくになってのたうち回るような、ぶよぶよした重々しく、決してスマートならぬ本作を、清潔に、クリーンなイメージでやっていただいたことに感謝したい。こんな演奏なら、遠ざけはしなかった。今までの経験が、そんな先入観を植え付けたということか。
 第一、冒頭の低弦の行進リズムからして、武骨に、全身全霊でぶつけるような、いきなり疲労感を感じさせるものではなく、音符そのものだけが存在するかのようで、他の虚飾が皆無。かといって、全編にわたり別段、なよなよしたわけでもなく、豪快に鳴らすことは厭わない。不必要なまでの力みを全く感じさせなかった。ネット上の意見など拝見しても、「シベリウス的なマーラー演奏」といった比喩もみられた。なんだか、想像しにくいけれど、体験してみると、意外とそういう表現は、その演奏を的確に表現しているかもしれない。
 クラシック音楽愛好家歴も長いと、自己の感性、体験も凝り固まって、「バカの壁」も障壁となる。こういったカベを突き崩す演奏、大歓迎。身近に、こういう体験ができる時代
(BSの導入後、クラシックの演奏映像は各段に身近となった。外来オケも含めて。)であり、環境であることを本当に感謝したい。下にも書いたように([2004年、これだけは言いたい]なる一文、是非とも)、将来の日本の見とおしの暗さなど思うと、今、音楽ファンとして恵まれていることの感謝、もっとかみしめたい。将来も続いて欲しいな。やや余談。

 さて、「悲愴」に「悲劇的」に、どうにもクライ音楽ネタばかりになった。
 こういった音楽が最近私の前に、放送媒体から流れてきたという偶然だけで、私の聴きたい音楽として聴いた訳ではない。しかし、こんな日常のなかで、不思議なもので、我が父の病気の進行、余命数ヶ月、という話が飛びこむ。
 頭の病気である。正式な病名も、現代医学では突き止められず。3年前から、苦しんでは来たが、この半年は入院、次第に、体の自由は奪われ、声もない。言葉が失われた。この病気の進行にあって、「悲愴」やら「悲劇的」は、何ら感ずるものなく、自分の今の感覚とずれている。ようは、生々しさを欠いた作りものに過ぎなかった。音楽を聴き、父を思い、涙する・・・・ような性格の音楽ではなかった。

 そんな頃、BSから流れてきた、シューマンの「ヴァイオリン協奏曲」、読響の演奏にはっとさせられた。シューマンが精神疾患を患いつつも書いた遺作である。随所に、彼らしさは折り込まれている。でも、その楽想の連鎖の具合がしっくりこない。言いたいことが言い出せない。言葉を選んでいる間に、言いたいことも忘れられて行くかのような、空しさを、曲全体から感じた。言葉を失いつつも、必死にもがき、しかし、思いを伝達することままならず、涙する毎日の父、・・・・つらいよ。その涙すらいまや・・・・。

父の日も、むなし(2004.6.23 Ms)

 父の病気のこともあって、頻繁に実家に通っている。この半年、母は病院にピタリと付き添い、家を一人で守ってきた90歳を超える祖母も、さすがに心細くなったか、やはり、身内がそばにいて欲しいという感情を明らかにするようになった。休日も許す限り、片道30Kmの山道を往復し、また、平日も、泊まれる時は泊まっている。その時は、朝6時には起きて、6時半には家を出ることとなる。そこから1時間のドライヴ通勤、結構大変だな。・・・・それぐらい、もうやっているよ、という人も見えるでしょうけど・・・。
 といった具合で、HPの更新もはたまた停滞気味。せっかく、昨年の空白を埋めるべく頑張ってきたものの、また、記事が追い付かなくなって失礼します。また、落ちついたら、一気に書きためて公開していきましょう。
 音楽活動ができないからこそ、このHPの場、自分にとってはかけがえのない場、だし、このHPに向かう時だけが、日常の雑事を忘れさせてくれる。

 ただ、仕事と家庭上の諸々で忙殺されるのも自分としては、空しさもあり、なるべくチョットした変化も、生活の中で必要。
 つい1週前の土曜日は、岡崎のこども美術館まで行って、
トーベ・ヤンソンの「ムーミン谷の素敵な仲間たち展」を見る。ムーミンの作者トーベ女史の、ムーミン以外の絵画作品も含め、イラストやら、マンガの原稿など見る。フィンランド旅行(2001年)の際、タンペレでの体験(ムーミン谷博物館)を思い出させてもくれ、懐かしさもひとしお。また、フィンランドの風刺雑誌「ガルム」の表紙は、けっこう興味深い。第二次大戦中ながら、ナチスへの批判を込めたもの(フィンランドは、ソ連の侵略に対抗するため、ドイツと協力せざるを得なかった)、また、スターリンへの批判・・・・なかなかに反骨精神旺盛な様子を伺う。ただ、そんな表紙の傍らに常に、ちっちゃくムーミンが潜んでいるのがごあいきょう。つい、顔が緩む。
 ムーミンに関するグッズも、北欧の本家本元から入手してあって、これまたナツカシや。「ムーミン・ミュージック」というタイトルの音楽が流れるオルゴールのややチープなムード(私もヘルシンキにて購入したけれど)、結構好きだなア。(岡崎でのムーミンの展示は7/11まで。その後は、確か東京でやるんではなかったか。北欧フリークの方は是非お運びくださいませ。いろいろ発見あると思います。)
 日常の雑事から逃れた一時・・・ながら、その帰りはそのまま山の実家へ、そこから、翌日日曜出勤、朝9時前から夜9時過ぎまでの12時間超の労働、疲労困憊。1週間の労働がきつかった・・・でも、ちゃんと、エネルギー充填、立て直して、とりあえず、これだけ今日はご報告。

(2004.7.11 Ms)

 私自身の演奏活動も全て休眠状態となり、音楽への渇望はいまや絶頂といった感もある。自分のアイデンティティーの一つが封じられて、自分がどこに向かうのか、今の自分にもよくわからない。でも、意外とサバサバ、現状を受け入れている。また、音楽に追われている状態から、完全に、音楽を追っかける立場に逆転し、これが、実は自分の中で何らかの高揚感・燃え上りを見せている。この際、貪欲に、音楽をむさぼり聴き、演奏の現場を見、体感し、(ついでに、片っ端から文献もあさり、)数々の本物の音楽との出会いにときめき、すら感じ・・・・。というのは、大袈裟だが、今の立場で出来る限りの音楽体験を重ねよう、と決意している。この期間が、一体いつまでかは、神のみぞ知る、が、この期間を抜け出た時の自分が、何を目指すのか、数段、高次の自分になっているのか?ならないのか? 楽しみ、である。

(2004.8.9 Ms)



 当コーナー、若干構成を変えまして、「N響」関連、と、「室内楽」関連は、通常の「だぶん」から独立して、まとめて、下の方に置きました。


 新年あらたまってしまっていますが、年末から年始にかけての音楽番組を総おさらい。今年は見るべきものがとても多かった。録画したものを見るだけでも随分時間もかかってしまう。中には、ご飯食べつつ、また食事の用意しつつ、といった状態で見たものも多々。真剣な感想、ともならないが、記録だけしておこう。

 年末恒例「第九」については、生で聴けた都響、また例年TV放映されるN響については、他の項で触れますが、TV上、今回注目したのは、読売日響、BS日テレでの「ブラボー・クラシック」第九とはいえ、ショスタコの「第九」を年末押し迫った12月30日に放映。随分洒落たことを。吉松隆作品の指揮でも名を馳せている藤岡幸雄氏の演奏。ただ、期待ハズレに終わった。覇気に欠ける。何か白け切った雰囲気。金管もカスレ気味。うーん、景気良く年を越そうと思いきや、消化不良に。いつも力のこもった演奏を聴かせてくれていたのに。そういや数年前のロジェストベンスキー指揮のプロコフィエフ「スキタイ組曲」も期待した割に白けていたっけ。たまに、くじ運が悪いようだ。
 プロムス2004、ラストナイト。選曲があまり・・・。ドヴォルザーク没後100年で、お馴染み「謝肉祭」。こういう祝賀ムードにぴったり。随分タンバリンも華やかで良い。ちょっと気にしていたのが、オルガンとオケの作品で、バーバーの「祝祭トッカータ」でしたか、祝祭の割に暗い不協和音もガンガン鳴って難しい感じも。
 NHK教育では、きっと東海地区のみの放映となろうが、岐阜県交響楽団の定期演奏会の紹介。アマオケながらも、定演以外にも多彩な演奏活動を続けている団体。ベートーヴェンの「皇帝」とチャイコの4番から抜粋。指揮は小松一彦氏。
 2003年の東京公演(なんとサントリーホールで)の成功もあってか、かなり注目を浴びている証左。今後もこういった番組は必要。日本国の財政破綻のしわ寄せが次々に国民へ増税、地方自治体への財政支援打ちきりという形で表面化している昨今、大都会は別として、芸術のパトロンとして地方自治体が機能しなくなるのは必至。岐阜県発信のこういった番組は、芸術切り捨ての風潮の防波堤にもなろう。もっと「公共の電波」が「交響の伝播」たらんことを望みたい。そのためにも、魅力ある番組、さらには当然ながら、より魅力ある演奏を今後も期待したい。
 この辺の話題は、今年の私の主要主題としたい。地方自治体の破産は迫りつつあり、必要に応じて何らかの警鐘を鳴らしてゆきたい・・・そう言えば、今年は1905年、「血の日曜日」100周年。ショスタコの交響曲第11番ゆかりの年。その第4楽章「警鐘」が1年間私を突き動かすこととなるのか?
 また、2005年、ショスタコ没後30年、2006年、ショスタコ生誕100年。さてどんな盛りあがりが世界を覆うのか覆わないのか?

 新年のカウントダウンは、東急ジルベスターコンサート。10回記念で、このコンサートの初代指揮者の大野和士氏を再び迎えて「ボレロ」。やはりしっくり来ます。ここ数年、コバケンの「幻想交響曲」や、さらには井上ミッチーの「ショスタコの5番」など面白かったが、年の最後にしては重い内容かも・・・やはり、「ボレロ」いいですわ。ちょっと今回は最後間に合わないようなスリル感もあったが間一髪最後の音が0時0分に滑り込み。
 その他選曲としては、協奏作品が地味だった。Vn.は渡辺玲子氏を呼びながらも、クライスラーの「中国の太鼓」ではもったいない。ピアノは大御所、中村紘子氏。ショパンの作品ながらも、協奏曲ならぬ、モーツァルトの「ドンジョバンニ」の主題による変奏曲(正式名は違います・・・)。作品2でしたっけ。シューマンが「諸君、脱帽したまえ」と音楽誌に紹介したもの。大野氏がベルギーのモネ劇場率いて来日する際の演目が「ドンジョバンニ」なので絡めてのことながら、チョット冗長な感じの変奏曲だった。最後は合唱団とともにワーグナー「マイスタージンガー」で華々しく締める。
 東急ジルベスターはTV東京系。同系列はBSでも「スーパー・ワールド・オーケストラ」のコンサートを番組化。世界の一流オケ・プレイヤーを集め、エリック・カンゼルの指揮で。映画音楽中心の選曲。途中、山下洋輔氏のピアノによる「ラプソディ・イン・ブルー」もあったが。そんな中、冒頭だけは、ウォルトン「スピット・ファイアー」前奏曲。これがまた素敵。映画音楽でもあるのだが、第二次大戦中に戦闘機を生産する過程を描いた映画・・・。「スターウォーズ」や「ハリー・ポッター」と何げに並べて全然違和感ないし、音楽の質としてはやはりキラリと光るなあ。演奏会の冒頭に、もっと是非とも選曲してみて欲しい。客の心をグッとわしづかみ。

 新年恒例、関西の放送局で制作するクラシック番組が、3が日の間に早朝放映される。これがなかなか毎回楽しみ。外来オケの大阪での演奏会を取り上げることが多いようだが今年は、Vn.のクレーメルと彼の率いる「クレメラータ・バルティカ」。弦楽オケである。これは聴きに行きたかったものの行けなかったもので大変ありがたい。
 放送された曲が凄い。バッハのブランデンブルク協奏曲、3番の全曲、6番の抜粋。それはまあ、新春バロックってえのもいいものです。そして、何とシュニトケの合奏協奏曲、1番の全曲、3番の抜粋。新春の早朝から、不協和音の嵐、そしてジョン・ケージ考案の「プリペアード・ピアノ」の来たもんだ。日本もまだまだ捨てたもんじゃない。芸術音楽の層の厚さを認識できる。
 さて、バッハとシュニトケ、時代も国も遠く離れた二人を結びつけたのが、クレーメル。合奏協奏曲なる形式の現代的なアプローチの立役者だ。クレーメルが亡きシュニトケとの交友なども語り貴重な番組となっている。シュニトケ作品は両者とも、バロックの様式のパロディが露骨に出てきて面白い。そのバロックがドンドン現代音楽へ化けて行く過程が刺激的。ピアノ、チェンバロを効果的に使っているのも特徴だが、第3番においては、チャイムがさらに効果的に出てくる。両手を使った過激なグリッサンドはショッキング。確かにこういった音が交響曲にも使われていたっけ。映像で始めて見た。楽器にキズが付きそうなほどの激しさ。
 アンコールはロシアの作品だと思われるが「サーカス」と言う接続曲風なもの。文字どおり「サーカス」的ムードの通俗的音楽がメドレー的に流れて行く。ショスタコの初期バレエの感触もある。突然歌い出したり、打楽器が小太鼓とシンバルだけでドラムセット的ないろんなニュアンスを出してアクセント付けていたのも好感大。バッハと現代音楽だけのコンサートというのも堅苦し過ぎるかも、そこへ洒落た音楽でのサービス。
 さすが弦のプロフェッショナル集団だけはある。また機会あれば是非とも生で体感したい。

(2005.1.16 Ms)


 今年も早いものでもう年の瀬、HP更新もこのあたりで最後になろうか。
 今年前半までパソコンがダウンして、演奏会の感想など昨年からたまりにたまったものを書くうちに、間に合わないまま今年も終わってゆく。いい演奏会も多くて(演奏会の感想は是非とも自分の記憶の確かな間に記録しておきたいのだが)嬉しい悲鳴ではある。記憶から抹殺されて良いような演奏会だったら聴くだけの時間が惜しいもの。そんな演奏会に巡り合うことはそうそうないが、今年の様々なコンサート、プレイヤーたちとの幸福な時間の共有、これらの出会いに感謝したい。来年もまたそんな幸せを味わえたらよいもの。

 さて今年の総括などと思いつつ、記事も全部書ききれてないし、またの機会となるでしょう。しかし、ちょうどBSの番組を見たので一点。
 今年はチェコ音楽の記念年。ドヴォルザーク没後100年が最も盛りあがったということでしょうか。彼の生涯を辿る番組など興味深く見た。人の良い、素朴な人柄など偲ばれる。極貧の若い頃、叶わぬオペラ歌手との恋、その思いが、彼女の重病を知って書かれた晩年のチェロ協奏曲に投影される場面など、改めて涙。美しい。この素直な感情の発露、胸を打つ。
 ブラームスに認められ作曲家として名をなしたきっかけが、ベルリンのジムロックという出版社に応じて書いたスラブ舞曲。この大ヒットによって、ジムロックはとにかく、大曲より大衆向けの軽い、売れる曲を求める。そこに、交響曲や大規模な宗教音楽などに力を向けつつあった彼との齟齬が生じる・・・(交響曲第8番をイギリスから出版したのは有名な話)、しかし、いつの間にやら関係も修復、「新世界」の後、ちゃっかりジムロック向けに「ユーモレスク」なども書いていたりする。
 イギリスでの成功は、私の未知な「悲しみの聖母」でもたらされる。子供たちの相次ぐ死、情感こもる作品に結実。その成功は、交響曲第7番の作曲依頼の契機となる。西欧の名だたる作曲家たちと並んでの委嘱に、力みまくった結果が、あの壮大で緊張感にあふれた傑作を生むわけか。
 などなど納得しつつ彼の作品もあまりに知らないよなあ、などと改めて思う。宗教音楽をかなりメインに据えて紹介していたりして。
 また、今年の5月の大垣音楽祭でも、彼の室内楽を聴く機会を設けたが、いい作品はまだまだありそうだ。交響曲などオケ作品は、やや通俗っぽさが前面に出て親しみやすい反面、軽く見られがちだが、やはり、書き分けているんだろう。ドヴォの交響曲だけ聴いて、ドヴォださい、などとのたまっている人たちは、そういうあなたにも簡単にわかる曲をわざわざ書いているんだ、という彼の優しささえ知らず、強がっているようにさえ感ずる
(ショスタコーヴィチに限らず、「交響曲」などオケ作品は、なるべくわかり易く、親しみやすく書く、という傾向、いつの時代にもあるのでは?ブラームスに特に最近それをよく感じる。室内楽の渋さこそ、彼の本領か。)
 様々な作風の作品を聴きながら、常に素直に音楽に感動したいものだ。

 ドヴォルザーク絡みで、NHK音楽祭、今年は「ラスト・シンフォニー」がテーマで、様々な海外オケで最後の交響曲を聴く。TVでも全て放映されているが、全部は聞ききれないものの、ニューヨーク・フィル、マゼール指揮の「新世界」は記憶に残るもの。テンポの揺らし方が頻繁かつ極端なユニークなもの。チャイ5とかなら普通に聴くアプローチながら、「新世界」だと随分新鮮。また、金管の充実した響きは目を見張る。ちょうど、N響のブラ4、ウィーン響の「グレイト」との聴き比べになったんで、余計にそう思わせた。トロンボーンのやや節操のないほどの主張は面白い。
 ウィーン響のトロンボーンが何とも上品な響きで耳を捉えたこともあってなおさら(またそれ以上に冒頭ホルンのユニゾンの美しさは特筆)。
 と書きつつ、我がN響、何も金管にこだわったわけではないが、海外のオケに比較しての「売り」に欠けた印象は漠然と感じる。日本らしいオケの響き、確かにあまり意識したことはない。でも、欧米のオケには確かに、ある。さて、今後、日本の響きを私は見つけることができるやいなや。

 そんな日本の響きとは?などと思いつつ、サイトウキネンオーケストラの演奏を聴く。
 さすが弦の名手ぞろいの団体だけある。斎藤秀雄の編曲による、
バッハの「シャコンヌ」には大感激である。Vn.一本の無伴奏作品から2管編成の標準的なオケを使ってこれだけのスケールの大きな音楽を構築した斎藤氏にも脱帽ながら、その大きさを表現し得た、オザワにしろ、オケにしろ、これは並はずれた名演だ、もう何も言葉は不要。日本人として、世界に誇って良い。
 続いて、ベルリンでの演奏で、バルトークの「弦楽器・打楽器とチェレスタのための音楽」。2群の弦楽オケによる複雑怪奇な難しい音楽なのに、でも、生命感あふれる、人間味に富んだ熱さを感じる。そして、弦の響きの厚さ、深さ。弦楽器と日本人の相性、このあたりに一つの回答があるか・・・。少なくとも、日本人と西洋の管楽器との間以上のフィット感なりを感じるような。

 さて、さらに、今年の「日本音楽コンクール」のダイジェストを教育TVでやっていたところだが、BSでも4日にわたってじっくりと演奏を紹介、一通り鑑賞(毎年の楽しみでもある)。やはり、Vn.のレベルの高さ、は感じる。管楽器や声楽、ピアノが低いということは決してないが、サイトウキネンの例も見ながら、欧米と肩を並べ得る層の厚さは、認めても良いのではないかと思う。
 Vn.において、プロコフィエフの2番の協奏曲など素晴らしい出来を示していたし、サンサーンスの3番も個人的にさほど意識にある曲ではないものの、引き込まれる魅力を感じさせる演奏などあり素晴らしい。
 その他分野でも印象的な演奏は結構あった。フルートで、ドビュッシーの「パンの笛」、オーボエで、ラベルの「クープランの墓」など。
 また、毎回、どうも難しさばかりが先行する作曲部門、今年の1位は、純粋に面白く感じた。作曲者が50台の男性、というのも驚きであった。強烈なリズム連打を伴う部分など、頭だけでなく、体で感じられる音楽で共感を持つ。宮澤一人氏の「主題のない7つの変奏曲」。

 (2004.12.29 Ms)


12月16日(木)から、25日(土)まで、JR名古屋高島屋10階にて、「北欧展」
「ムーミンの世界展」もあわせて行われておりますが、とにかくオススメなのが
「食」です。

スウェーデン料理店「ガムラスタン」は、国内でも有数の北欧料理店ですが、東京の吉祥寺時代からその美味に心惹かれ、
しかし、東京の店を閉めて、蓼科のみとなったのが残念に思っていたところ(今年の夏は蓼科まで追いかけて行った次第)、
こんな近くでまた味あわせて頂けるとは・・・・素晴らしい。
1,575円のコースはかなりリーズナブルで一度お召しあがることを是非お勧めします。
オードブルのニシンの酢づけなど大変おいしくて、遠く離れていながらも北欧が日本と同じ海洋民族の血を多く引いていることを
まじまじと感じさせてくれるでしょう。

さらに、ずっと贔屓にしておりました、京都の小さなパン屋さん「キートス」さんも出店、
フィンランド仕込みの、穀物入りの
ヘルシーかつ味わい深いパンの数々がお楽しみ頂けます。
なんと、「キートス」さんのパンとサーモンを使っての、フィンランド政府直属のシェフによるオープンサンドのイートインも
美味しそう!!私はありつけませんでしたが・・・・
超人気で品薄、早目に行かなきゃ食べられません・・・。
サーモンやチーズ、野菜などと一緒に食べると素晴らしく美味しく感じられるんですよ。
店長さんともお話することが出来ましたが、京都の高島屋での出店が好評につき名古屋も今回登場とのこと、
あの小さなパン屋さんが・・・と店を知るものとしては嬉しい限り。
ネットでも入手できますし、この機会に是非ともお試しください。(2004.12.19 Ms)

 といった紹介など、Indexページにて書かせていただいたところだが、やはり、このシーズン、クリスマスと来れば、サンタクロース、そして「北欧」といった流れは確かにある。それにしても、年々、「北欧」が日本においてますます身近になっているようだ。我が家近くの駅ビルでも、年末の福引の1等賞は、「フィンランド旅行」である。6年前、始めて北欧旅行した頃はまだマイナーなイメージが付きまとっていた北欧も、いまやポピュラーそのものじゃないか。嬉しくもあり、また・・・。
 さて、TVでも、NHK総合にて、お昼の番組で、ノルウェイの民俗楽器、「ハルダンゲル・ヴァイオリン」奏者の山瀬理桜さん(「りお」というお名前だそう)がゲストで、ノルウェイの民俗舞曲など中心に演奏していた。アメリカの西部のダンス・ミュージック、フィドルなども思わせるその音色は、いかにもフォークロアなムードだが、その楽器について詳しく見たことはなかった。通常のヴァイオリンどおり4本の弦があるが、その下部に、4or5本の弦が張られていて、それをじかに弓で弾く事はないものの微妙に共鳴して、開放弦の雰囲気を増強したような効果が生まれているようだ。
 ちなみに、その共鳴弦の調弦、いろいろあるようだが、今回の調弦は、E,Fis,Gis,Hと使われていて、もちろんノルウェイの作曲家グリーグもこの楽器を愛していたことから、この調弦からある有名曲が生まれたという。「ペール・ギュント」の「朝」である。まさに、ハルダンゲル・ヴァイオリンの調弦からその冒頭の旋律は生れている。この事実は初耳、興味深いもの。
 (ちなみに、グリーグの晩年のさほど有名でないピアノ曲集「スロッテル」は、この民俗楽器を使った民族音楽をピアノに移したものだが、舞曲の激しいリズム感と、細かな装飾など、民俗音楽の野趣をよく伝えている。この作品は、バルトークあたりにも多いに影響を与えたと聞いている。)
 また、番組の中でも、グリーグがフランス近代音楽へ多大な影響を与えたこともちらりと紹介していた。そうです、古典的なドイツ的な厳格な和声法から逸脱した民俗音楽に接しつつ、グリーグは過激ではないものの、和声の変革を試み、その延長にドビュッシーらのフランス音楽もある。これは、グリーグの故郷、ベルゲンのグリーグの博物館で購入した本でも「新しいグリーグ」としてフランスで絶賛されていたなあ。ハルダンゲル・ヴァイオリンの響きからフランス音楽を嗅ぎ取るのはチョット困難だが、共鳴弦の心地よい音のぶつかり、不協和音は確かに当時としては、素朴ながらも新しい音楽の創造の源になったのかも。
 なお、番組においては、そんな小難しい話はなく、「ムンク美術館」の盗難事件の後、その美術館でコンサートをした、とか、ノルウェイのクリスマスの過ごし方やら、サンタの代わりのトロール(妖精というより妖怪と言った方がよさそうな)のお話、さらに共演のギタリスト、荘村氏との地方公演でのエピソードなど(「函館の女」の盛り上りぶり・・・クラシックの鑑賞態度との差の歴然さに驚いた、とか)のお話。「アメイジング・グレイス」「涙そうそう」などの演奏も交えて、お昼の番組らしいほのぼのとした雰囲気でありました。

(2004.12.20 Ms)


 BSにて、ドキュメント番組を見る機会あり。
 まずは、指揮者フルトベングラー。未亡人が出て来て思い出話に花を咲かせ。彼の作曲した、ヴァイオリン・ソナタや歌曲なども紹介されていた。指揮者としてよりも、作曲家として認められたかった、というのが本人の弁。しかし、未亡人が彼の死後も随分長生きしていたとは。私にとっては半世紀前に亡くなった、歴史上の人物に過ぎない存在ながら、意外に昔の話でもないのか、と思い至る。
 ただ、番組としては、彼の生涯をざっと辿ってゆくという視点は特になく、未亡人の話が散発的にいろいろな話題を提供してはいたが、焦点がボケ気味だったかも。彼の業績を網羅しようというよりは、無秩序にいろいろ紹介した、といった感じか。でも、珍しい彼の作品を聴けたのは面白い。取り上げられた作品は、若い頃の習作か?随分当時としては古典的だとは思うが。

 続いて、作曲家コープランド。彼が取り上げられるのは意外に珍しいのではないか。「庶民のためのファンファーレ」や、それを引用した「第3交響曲」、さらに、バレエ音楽で「ロデオ」、出世作となった「アパラチアの春」、「サロン・メキシコ」など有名どころを紹介しつつ、コープランド本人のコメント等も交えつつ、彼の生涯をわかり易くたどってゆく。フランクフルト放響の演奏と、指揮者ウルフ、伝記作家のコメントがうまく連動しながら番組は進む。
 ガーシュインと違って、中流階級生れ。若くしてパリにも留学。ヨーロッパには、フランスのはフランスの、ドイツにはドイツの音楽がある。アメリカにも、そういった国籍が刻印された作品がなければ、という信念のもと、ジャズ的なアプローチと西洋の手法をうまくバランスさせながら、アメリカの音楽を創造していく過程は興味深い。また、留学中に知ったマーラーの交響曲に感銘を受けたとのエピソードは興味深い。壮大な音絵巻、マーラーの影響あって、第3交響曲は生れた、と。確かに、マーラー的宇宙、壮大さをアメリカ的楽天性と結合した、といってハズレではあるまい。
 出世作、「アパラチアの春」は、もとは13人の室内楽編成。タイトルは作品が完成してから、委嘱者であるダンサーが、言葉の響きが気に入ったとかで勝手につけたようだが、コープランド曰く、「よく、この作品は、アパラチア山地の春の雰囲気を伝えてますね」などと誉められ、苦笑いしてしまうわけだ。オケ版よりも、今回コメントしている指揮者は、原典の小編成が優れている、と。素朴な田舎の家庭的雰囲気を透明感ある筆致で巧妙に描いているというわけ。
 1930〜40年代の有名作が当然主に紹介されていたが、50年代のオケ伴奏の歌曲集なども、有名作に劣らぬいい雰囲気だった。ただし、最後に紹介された60年代、とうとうストラヴィンスキー同様、12音技法にまで手を染めたオケ作品、どうもイマイチとの評価・・・・ただコープランドらしいサウンドと、和声的な書き方は見られたように思う。数十秒聞いただけでは私自身はまだ判断できない。その作品で番組がとじられたのは意外であり、また、消化不良的な、ちょっと解せない後味を残したか。やっぱり、芸術音楽におけるアメリカ音楽を確立した立役者として、第3交響曲あたりで楽天性満点に閉じてもらったほうが収まりは良いが、アメリカで制作された番組でないところ、そういった配慮もなかったか。

(2004.12.14 Ms)


 7月に、5月に催された伊福部昭の90歳コンサートの模様の感想を書いたところだが、その時の演奏会の全体が、改めて放送されたので見た。やはり「日本狂詩曲」は素晴らしい。第1曲のヴィオラ・ソロと打楽器群のアンサンブルなど巧妙な効果だし、ああいう発想を思いつけた才能は凄い。1930年代に師であるチェレプニンのおかげで、ルーセルらによってフランスで認められた作品だけに、シベリウスがこの作品を知って高く評価したのは、日本人の誇り、だが、ユーラシア大陸の遠く離れた両端ながら、北の人間どおし心通わせることが出来た、という事実、音楽を聴いてまさに、実感できる。これが映像としても楽しく鑑賞することが出来て、大変に満足。
 最近発見された、「フィリピンに贈る序曲」は、戦時の国策用作品だろうが、いまいち印象薄く。ピアノ2台の効果もさてはて、といった感じ。

 地元ネタも触れておこうか。
 愛知県に住んでて、国内的には知名度も低い「万博」のニュースはよく聞えて来るのだが、音楽関係としては、万博関連で、東海地区のプロ・オケ合同で、シェーンベルクの「グレの歌」を演奏するとかで。確かに大編成だけれども、地味な選曲だなあ。大昔、ラジオで聞いた記憶はあるが、なかなか親しめなかったなあ。今なら親しめるか?12音技法ではなく、後期ロマン派の最後の究極の作品なわけで、興味もないわけではない。21世紀初頭、ちょうど100年前の20世紀初頭の音楽の再評価などするべき時代でもあろう。個人的には、「グレの歌」の作詞者がデンマーク人ということで、我がニールセンの初期歌曲でもお世話になっており、アンデルセン記念年とあわせ、デンマーク・イヤーのイベントとして位置付けたい。・・・なんて誰も思いません。ね。

(2004.11.30 Ms)


アクセス40,000件への謝意


 いつも、「曲解」HPを訪れていただき、誠にありがとうございます。
 前世紀からこのHPを始めて、早5年を超えました。
 私のような若輩者の戯言にこれだけ多くの方々にお付き合いいただき、驚きと同時に、感謝の気持ちで一杯です。
 これだけ続けてゆくことができたのも、皆様のおかげ、に他なりません。ありがとうございます。

 今後も、頑張り過ぎず、自分の出来る限りのことを、自分のペースで続けてゆければ、と考えています。

 さて、そもそも、クラシック音楽の曲目解説、「曲解」の紹介を発端として開始したHPではありますが、最近は、自分の記憶、控えのための音楽鑑賞記、程度の内容になってしまいました。まあ、その鑑賞記自体も、「曲解」に満ち満ちたものではあります。今後も、こんな形でしか存続できないなあ、というのが正直なところです。昨年から1年ほどのパソコンの不調もあって、その当時からの記事がまだ停滞しているのも申し訳ないところです。
 私としては、10歳からピアノを習い、その後アマチュア・オーケストラの一員として大学から本格的に音楽に関わることにはなったのですが、結局は、何もわかっちゃいないわけです(HPを立ち上げたときは、わかったつもりにはなっていましたが、所詮は狭い世界でのお話でした)。オケの音楽を中心に聴いていただけですが、それ以外にも素晴らしい音楽は沢山あり、今はそれらを知らずにいることが、何とももったいない気がしてなりません。きっと、その辺の視点での記述は続くような気がしています。(家庭の事情が、アマオケ離れを促し、それを結果、逆手にとっているのですが。)

 ショスタコーヴィチ、そしてニールセンの音楽への愛情は、失せたわけではないのですが、このところ、それらのコーナーから一歩引いて、ろくな更新もできていません。が、いずれ、未完成な部分を埋めてゆきたいと思います。
 また、私の未知なる領域を埋めてゆくことで、彼らの音楽への理解なども変わった視点からの評価も可能になるでしょう。それが、「曲解」なる所以でもあるわけで、相変わらず、長い目で見ていただければ幸いです。

 個人的には、クラシック音楽ファンなるもの、「クラシック」とはすなわち、「古典」つまり、歴史の蓄積なわけで、ファン各々一人一人が、自分なりの「音楽史」を持っているはず、と思います。

 「ブラームスの交響曲は、先人ベートーヴェンのそれを意識して作曲された」・・・・有名なこういった話が納得できれば、自分の中でそういった歴史観をどこかで感じつつ、鑑賞をしているわけでしょう。そういった、歴史の蓄積、作曲家同士の関係を重ねあわせつつ、自分の知る範囲においての「音楽史」が暗然とながら存在しているはずです。
 私は、人生の最後の時までかけて、自分なりの「音楽史」をまとめたい、と思います。思わぬ曲と曲とのつながり、それを見つけて、教科書にない、学問的には「曲解」なる「音楽史」を作りたいと思います。そのための、散らかった原稿の山、が我がHPといった雰囲気でしょうか。

 一つ、私の仮説を紹介すれば、上記のブラームスの例に倣えば、「ラベルのボレロは、先人ニールセンの交響曲第5番第1楽章を意識して作曲された」・・・・いかがでしょうか。
 詳細にまで触れるのはやめますが、他にも、ニールセンの音楽が西洋の音楽からは傍系で、グリーグや、シベリウスとまとめて、国民楽派的にみられるようですが、その位置付けには疑問を感じており、19世紀ロマン派の時代にあって「古典」を大事にしたメンデルスゾーン、そしてその後継者のゲーゼ(ニールセンの先生です)、そして「新古典」を標榜したブラームス、それらの先人たちと、20世紀の「新古典」ストラヴィンスキーを結ぶ「ニールセン」像などに思いを馳せるのは楽しいものです。 

 ニールセン、ショスタコーヴィチ以外でも、ハイドンの最後の交響曲がベートーヴェンやシューマンに与えた影響、シューベルトの晩年作品(室内楽・ピアノ作品)がブルックナー、マーラーに与えた影響など、私の「音楽史」の空白域にもまだまだ興味深い音楽は潜んでいそうですし、時間をかけてそういった音楽とも貴重な出会いをしていけたら、と思う次第です。

 長々と書いてしまいましたが、結局、同じことを、アクセス50,000件の時にも思い、書いているんだろうな、と想像しつつ、この辺でだらだらした駄文は筆を置かせてもらいます。
 これからも、おひまな時間にでも、このHPをのぞいていただけたら幸いに存じます。 

(2004.11.16 Ms)


 NHK教育、芸術劇場から、バッハ音楽祭2004。クイケン指揮。ラ・プティット・バンド。古楽演奏である。
 大バッハ、のカンタータ第11番「神をたたえよ」。3本のトランペット、ティンパニを含むやや大きな(古楽にしては)編成。30分くらいの作品で、最初と最後で祝祭的雰囲気。やはり、心に素直に訴えるものあり。カンタータ作品も意外にいいじゃない・・・・宗教音楽こそバッハの本領なのだろうが、まだ全くの初心者だ。やっと有名器楽作品(無伴奏チェロなど)に手が届いたところ。まだまだ、「クラシック・ファン」、と自認できんレベルだなあ。
 続いて、子の、エマヌエル・バッハオラトリオ「キリストの復活と昇天」。これまた珍しい。1時間あまりの大作。長さは気になるものの、大バッハから、ハイドンあたりをつなぐ作品らしい雰囲気はある。対位法的な込み入った書法ではなく、古典派風なすっきりとした感覚ながら、和声の趣味とかがバロックを思わせたり。楽器法は、バロックよりは一歩進んで、部分的には、通奏低音からFg.が独立してソリスティックな曲があったり、曲の冒頭近くで、「山が揺れ、川が逆流する」などと歌が入る時に、ティンパニが、トランペットとは全く違う形で現われ、トレモロを強奏で轟かせるなど、目新らしい使い方は、まま見られ興味深い。また、曲の最初は低音だけが不気味な旋律を奏でるのだが、リムスキーの「シェエラザード」の冒頭のシャリアール王の主題をも思わせ、和声的にも、調性をあいまいとさせるような感じを受け、ハイドン以前としては、かなり斬新。バッハの息子たちの偉業も、意識して今後気にしていきたいが・・・・なかなか機会はないかもしれないか。貴重な体験ではあった。クイケンさんに感謝。

(2004.11.6 Ms)


 BSクラシック番組雑感。
 8/22付けで、ラウタヴァーラ作品、最近、電波によく乗っているということで数例挙げた次第だが、さらに、また。名古屋、電気文化会館での収録、ストリング名古屋で、「ディベルティメント」という初期の作品、1950年代。3楽章からなるが、ショスタコあたりと同レベルな調性感で安心。そして、緩やかな楽章では、フィンランド風というより、アジア風な、優しい子守唄のような旋律が耳に心地よい。また聴いてみよう、と思わせる現代作品、歓迎したい。そして、こういった体験の蓄積もあってだろう、電波ごしではあるものの、日本においてどんどん彼が認知されてゆく過程を感じつつある。過去の骨董品のみならず、芸術音楽も同時代性を感じていかなきゃ。

 その北欧への日本の認知。音楽にとどまらず。特に旅番組はもちろん、家具やデザインなど、BSを見ていても特集番組、けして少なくない。世界の鉄道を紹介するプログラムでも、この1年くらいで、北欧4ヶ国はすべて取り上げられ。最近は、マーケット・市場の紹介の番組もあった。歴史ものでも、ヴェルディがオペラを作曲した「仮面舞踏会」、これはスウェーデンでの話・・・・2時間で、この「仮面舞踏会」で国王が暗殺されるまでを見る。かなり面白い内容だった。BGMとしてヴェルディも流れていたが、どうもスウェーデンの音楽も使われていたように思うが、何せ無知である。やっと、ステハンメルの序曲「エクセルシオール」(高みへ)、は気がついたがその他は不明のまま。

 ベルリンフィルの野外コンサート。ラトル指揮で、チャイコフスキー特集。今をときめく若手、ランラン氏を迎えてのピアノ協奏曲第1番。この恐ろしいまでのテクニックは何だ???フィナーレ冒頭の余裕は凄い。あの跳躍する主題を余裕で歌って、オケを見て・・・・ここまで必死さが伝わらない演奏というのは、たいしたもの・・・ヒラリー・ハーンのショスタコのVn協奏曲もそうだったけど。
 後半は、「くるみ割り人形」の第2幕全曲。そして、驚くなかれ、アンコール、当然チャイコと思いきや、ラトルのあいさつ「楽しい曲をやりましょう・・・」。続いてタクトが下りるや、ショスタコの「黄金時代」、それも「ポルカ」さらに「ダンス」。N響の今年のヨーロッパ公演でもアシュケナージの指揮で、ショスタコの5番の後、「ポルカ」をやって、かなり人を食ったような後味を楽しませてくれたが、ベルリン・フィルまで、このタコの毒を体験させてくれようとは。クラシックは真面目、という偏見めいた観念を破壊させるショスタコには今後も頑張ってほしいところ。

(2004.10.17 Ms)


9/12(日)午後9時、NHK総合、
NHKスペシャル「アシュケナージ・自由へのコンサート」
は、ご覧になられましたか?

「独裁下の芸術家たちは?」と新聞TV欄にもありましたが、
ソ連、スターリン独裁下及びその後の時代の芸術家たちの苦しみを描いた見ごたえたっぷりの特集でした。

9/14(火)の深夜に再放送がございますので、是非ご覧下さい。

アシュケナージの指揮で、何とショスタコーヴィチの映画音楽「ベルリン陥落」の一部が、映画の映像とともに流れますし、
スターリン死後もなお続く弾圧への抵抗の象徴としての、同じくショスタコーヴィチの交響曲第13番「バビ・ヤール」
取り上げられています。当局からの命令による第1楽章の歌詞の修正の話など、細かな点にまで触れています。
一方、音楽以外の分野では、真っ向から体制批判した詩人の哀れな末路、
映画「イワン雷帝」を巡る、映画監督エイゼンシュテインの葛藤なども紹介され、
辛くも生涯を全うしたショスタコーヴィチとの対称が鮮明に描かれており、感銘深いものでした。

最後に「バビ・ヤール」の第4楽章「恐怖」が流れる中、アシュケナージが、現代社会に対する警鐘を鳴らします。
スターリンの作りあげた組織と、彼の後継者たちに苦しめられたアシュケナージだからこその重みある言葉。
是非、現代を生きる私たちも耳を傾けねばならないでしょう。
まだ、スターリンの恐怖は世界に存在しているのです。
他者の考え方を認めない、という風潮は確かに増殖しつつある。
現代におけるスターリン・・・・さて、それが何を指すかは直接語られはしませんが、
特に、BシュさんやKズミさんにも見ていただきたいなあ。

それはさておき、ショスタコ・ファンなら初見のお宝映像満載、そうでなくとも、ロシア音楽ファンなら断然楽しめますし、
そもそも、音楽を愛する人であれば、「詩」や「映画」と異なる、「音楽」の存在を根源から見直させてくれる視点が
おおいに感興をそそるのでは、と思います。今年の最高のTVドキュメントです!!見なきゃ損ですよ。

(2004.9.13 Ms)


 防災の日を前に、日曜日に訓練動員。
 最寄りのJR新幹線停車駅、地震により多数の帰宅困難者、滞留者発生。広大な土地が駅前にはなくパニックも予想され、安全な場所へ避難。4〜5km歩いて公園へ、というシナリオで、今回始めて取り入れられた内容という。
 折りからの台風で、風雨に途中見舞われつつ、ご老人(80歳近い方も参加!!)、お子さんなども含め100人くらいが、3ヶ所に分れて、のんびりと歩きながら、1時間超かけての避難訓練。
 避難地である公園近くの自主防災会の人々がメインで、駅員がホームから駅構外に誘導し、その後、渡された地図をもとに公園まで、途中、支援ステーションとなったコンビニなど寄りつつ、避難。
 なかなか、わが町なれど、ゆっくり歩いてみることは少ない、ということが見て取れたのが興味深い。
 駅前の大型百貨店が撤退、更地となり、「次は何か来るんだろうか」などと話しつつ、やはり、駅前の衰退振りは改めて気にもなるような会話で始まる。車で目的地と自宅だけをつなぐ線上のみに暮らしていては、意外と見えてこないかも。
 歩道の歩きにくさも、ところどころ感じる。なんといっても日本は車優先ですから。国益を握る国策産業の支配というべきか。一案としてデンマークのような、市街地の自転車専用レーンもそろそろ考えたらどうなるか。
 歩道を広げたはいいが、街路樹は元の位置。歩道のど真ん中に木がある。木を撤去したところも、反射材のついた棒だけが立ってて見た目どうだろう・・・等々、のんびり歩いてこそ、街の姿も見えてこよう。
 やはり、現場主義、は大事。現状をまず自分の目でしっかりとらえよう。防災訓練ながら、今までの経験とは一味違った訓練ゆえに、街づくりの原点を感じさせてくれた。日本の社会人たち、自分の現場、改めて歩こう。そして歩く速度で現場を見よう。見えた現実を素直に分析、改良しよう。これで、日本の閉塞感も変化しないか。現場から遠く離れた位置に身を置く方々こそ、常に心に留め置かれたし。

 音楽もまた現場主義で。CD鑑賞だけでは音楽鑑賞にあらず。最近とみに思う。努めて生を体感すべし。特に始めて聞く音楽を始めて生で聞くスリルは格別。生れ、すぐ消えて行く音の流れ、これをどれだけ自分の耳が捉えられるか?そんな、作曲家との一期一会の真剣勝負は、たまらなく面白い。この真剣勝負、室内楽への興味とリンクしつつ、自分の新たな音楽体験の柱となっている。曲との出会い、2度目以降の、新たなる発見も楽しいが、初対面のスリルが楽しくてしょうがない。
 ・・・ただし、一方で、アマ演奏者たる私達へはさらに釘をさそう。アマの現場だけで現場主義を標榜しても、危険。まして自分の音だけに酔いしれている井の中の輩は勘弁。「井の中」現場主義だけで何が語れよう、「大海」現場主義を忘れず。私のような田舎ものも、ほっておけば、「井の中」。情なや。とにかく、現場にいこう。音楽創造の現場に。

 さて、そんなことほざきつつ、いつものBSネタにて、擬似空間の音楽体験になってしまうのが田舎ものの悲しさよ。

(2004.8.29 Ms)


 この夏の、読売日響・ヴァンスカの「不滅」の感動は、生涯忘れ得ぬ思い出となろうが、その際、最初に演奏された、ラウタヴァーラ、最近聴く機会に多く恵まれたので、書きとめておく。BSでいろいろ取り上られていたため。
 ラウラ・ミッコラのピアノ・リサイタル、名古屋、電気文化会館での収録。ラウタヴァーラ作品の初演も手掛けているだけあって、リスト、ショパンと並べて、「パッショナーレ」「ナルキッソス」の2作品を。両方とも、比較的聞き心地良い調性感に支えられたもの。ロマン派作品と並べても、さほどの違和感なし。作風は2作品とも随分似通った感じ。
 オケ作品では、ケルン・トリエンナーレ。20世紀の音楽を集めたコンサート2題。サカリ・オラモ指揮、バーミンガム。お国もので、シベリウスの5番をメインに、北欧出身ソリスト、ムストネンを迎えてのプロコの3番のピアノ協奏曲。最初に、ラウタヴァーラの「至福の島」(1995)
 もう一方は、サバリッシュ指揮、フィラデルフィア。R.シュトラウスの「家庭交響曲」の前に、ラウタヴァーラの交響曲第8番「旅」(1999)
 前者が、2000年5月27日、後者は、同じく24日の演奏。
 同時代の音楽として、もっと取り上げてしかるべし、という印象は持った。ただ、個人的に熱狂、とまではいかなかったが。読響での「カントゥス・アーティクルス」の印象も含めての感想、日本における、初期・吉松氏を思わせる作風を先駆けて提示しつつ、そのスタンスを大きく変えずにいる、といった感じ、と言えそうな気もしたがどうだろう。

 現代作品つながりで、BS、読売日響の「ブラボー、クラシック」にて、矢代秋雄の交響曲(1958)。
 ヤシロ・アキならぬ、アキオ。
 作品自体は、フィナーレがよく吹奏楽コンクールで取り上げられたりで、ある程度知っていたものの、しっかりと意識して鑑賞したのは始めてだが、いい曲だ。調性感もかすかに感じられ、十分わかりやすい。留学先フランスでの学習の成果が全面に出ているような、格調高さ、品の良さがある。とは言え、偶数楽章はヴァイタリティあふれる書法でみなぎり、また、リズミカルな、人懐っこささえ感じさせもするポピュラリティをも持つ、魅力的なもの。和太鼓の雰囲気を模したと思われるアイディアも、純和風ならぬ洗練が感じられ、いいバランス感だ。もっと、この日本産の重要交響曲、聴かれて良い(ちなみに、第2楽章のリズム・パターンが、6/8+2/8+6/8のオスティナートとなっていて、祭り太鼓の掛け声、「テンヤ・テンヤ・テン・テンヤ・テンヤ」てな説明が加えられていて、ユニーク。ただし、例えば、小山清茂作品の雰囲気とは全く違うもので興味深い。和太鼓の現代フランス的解釈かもしれない。)。
 今回、この作品を手掛けた、指揮者、下野竜也氏。意欲的で好感大。これからも期待したいところ。オケも、フィナーレがやや緻密さを欠いたきらいも感じられたが、総じて、作品の素晴らしさを十分に伝えきった感あり。金管のパワフルさ、落ちついた重厚さが特筆すべき。打楽器群の活躍も、もちろん。
 矢代作品の余白には、フランス現代の、フランセの作曲した、ピアノと木管のための6重奏曲「恋人たちの黄昏時」の抜粋。20世紀のパリ下町酒場の雰囲気が楽しい。オーボエの、下降グリッサンドの繰り返しは笑いを誘う。猫なで声。
 読響メンバーに加え、ピアノに、指揮者の上岡敏之氏。これまた面白い。ただ、かつてラフマニノフの3番の協奏曲なども弾いてたりして、今時、凄い指揮者だ・・・指揮の腕前も、読響との以前のシューマンの4番をTVで見て気に入ったところ。今後も注目したい。

 ショスタコのポルカ・ネタ2題。ショスタコのポルカといえば、木琴のソロでお馴染み、バレエ「黄金時代」のもの。
 7月のN響海外公演のうち、ベルギーのブリュージュでの演奏は、N響アワーでも2週にわたって放映、BSでも1度ならず放送され、皆様もご覧のことと思います・・・・が、私は、肝心のショスタコの5番のみまだ未聴。アシュケナージの音楽監督就任お披露目的コンサートなれど、どうも、過去においてアシュケナージのショスタコ演奏に感銘をあんまり・・・なので躊躇するうち1ヶ月過ぎてしまった・・・が、壮大なフィナーレの後の、アンコールの「ポルカ」の腰砕け的、はぐらかし、には共感大で、面白く聴かせていただく。
 一方、編曲ものでも、Vn.のジュリアン・ラクリンのリサイタル、BSにて。ハ短調、運命動機の連鎖で、絵に描いたほどに深刻な、ベートーヴェンかぶれな、ブラームスの「スケルツォ ハ短調」の後に置かれた、タコ・ポルカ。これまた、いい味だしてる!!
 先月、触れた、鈴木恵理子さんのVn.でのショスタコ小品2曲に次いで、Vn.作品がBSから流れたわけか・・・ホントにもう、定着したなあ。

 さて、ちまたは、アテネ・オリンピック一色。メダル・ラッシュも凄いもんだ。そんななか、アクロポリスをTVで見つつ、ニールセンの「ヘリオス」がとうとうと頭を流れゆく。CD聴き比べ記事を書こうと決めながら、ああ、結局、時間だけが流れゆく。

お盆も、夏休みも、人並みに行事をこなして、やっと一息、HPに向かってたまった記事を整理(2004.8.22 Ms)

 上記記事をUpして、そのまま、ヤフーHPを見たら、ムンクの「叫び」など、かれの代表的絵画が盗まれたとのニュース。
 ああ、私も、1998年の北欧旅行、ノルウェイのオスロで生の絵を見たなあ・・・写真も取り放題、随分開放的な雰囲気ではあった・・・・しかし、次の目的地、ストックホルムにてカメラ盗難・・・ムンクを収めた写真はそのまま帰らず・・・、せめて、本物だけは返してくださいよ。絶対に!!
 


 BSの番組から。
 今年5月31日の、伊福部昭氏の卆寿記念コンサート。放映されたのは、毎度の、ゴジラの主題を含む「SF交響ファンタジー第1番」、今回のメイン、交響ジュゲ「釈迦」から第2,3楽章、そしてアンコールの、タプカーラ交響曲第3楽章。「釈迦」は混声合唱を含む大規模なカンタータ風作品、有志も募っての記念コンサートとなった。
 お約束、ゴジラも駆け付け、伊福部氏に花束贈呈。
 お元気で何より。90歳にして、コンサートに出向く、気力体力に感服・・・・どうも、全てが私の今置かれた立場との比較になっちゃうな。90歳で遠出外出するのも周りも大変だよなあ、なんて。ふと思う。
 それは、さておき、私も昨年3月のヴァイオリン協奏曲(正確には協奏風狂詩曲です)の演奏時に氏の元気なお姿を拝見、初めて、のことでした。やはり、人間、長生きするものだ。特に才能ある芸術家は。氏も、ここまで生きておられるから、この成功を自分の目で確かめられる。世の芸術家たち、なかなか、自分が認められる前に他界してしまう場合も多々。
 演奏について。指揮は、本名徹次氏(私が始めて大学オケでお世話になったのが、本名さん、活躍ぶりは嬉しい)。オケは日フィル。「SF」や、「タプカーラ」の後半での、ハイスピード感は特筆しておこう。ドライヴ感良し。ただ、それにしても、オケのテンションがどうも弱いように感じられて残念。特に弦が、最初から、金管打に消されるのを前提に本気だしてない、ように見えるし、聞こえる。せめて弦だけの和音打撃とか、旋律線とか、がむしゃらにやってほしかった。やや、欲求不満。ただ、聴衆はおおいに盛りあがっていたようだ。・・・・久しぶりに、伊福部といえば「新響」さん、聴いてみたいなあ、と思わせた番組ではあった。

 余談ながら、「新響」さんといえば、芥川也寸志氏、そして「交響三章」〜トリニタ・シンフォニカ・・・・三位一体、なんて毎日のニュースで聞えて来るが、その三位一体こそ「トリニタ」であり、こんな時代ゆえか、ナクソス・レーベルから、とうとうCD出るようで嬉しい限り。私もまだ未聴の「ラプソディ」がカップリングとのこと。それも楽しみ。

 続いて、最近BSにて注目の、読響。
 下野竜也指揮のシューマン「マンフレッド」序曲。これは良かった。焦燥感に満ちた、落ちつかない、でも過分にロマンティックな作品だが、今回、いつもはややつまらなく聞こえてしまうこの作品に、生き生きとした生命が吹きこまれたような感じを受けた。
 続く小山実稚恵のソロでシューマンのピアノ協奏曲。これも良かったがさらに良かったのがアンコール。スクリャービン「左手のための小品」からノクターン。ショパンあたりを思わせるロマンティックなもの。片手のみの演奏とは思わせないのも素晴らしい。久しぶりに、音楽に「うっとり」とした瞬間であった。ありがたや。

(2004.7.24 Ms)


 トップ・ページにて久々に画像など入れて紹介させていただいた、Ms企画の打楽器アンサンブル・ネタ2題ですが、無事に終了。関係の皆様方に感謝です。本当に、返す返すも、感謝の気持ちで一杯です。我が近況近辺に渦巻く「惰性」にを入れるような、私の人生の中でも一つの大きなトピックとして、生きてる限り忘れえぬ出来事となりました。音楽に対するを癒す出来事でもありました。最近、時として「?」な演奏に付き合うこともママあったばかりで、そんな思いは強調された傾向も否めないが。
 ただ、体調的には、かなり自分としては無理をしてたようでもあります。特に、前半の「花博」のコンサートの後は、緊張感が切れてしまったか、かなりキツイ毎日でした。仕事にやっと行けてる程度。それでも、後半の「サウンド・ボックス」は、私の年齢の半分ぐらいの方々に囲まれて、これまた熱に浮かされるように、音楽に没頭しました。ちょうど1年ほど前に、自分を奮い立たせて始めた「アンサンブル」が、「花博」にて花開き、また、その勢いに乗って、勢いがさらなる勢いを得て、「サウンド・ボックス」なる逆「玉手箱」のフタを開け放った、という感じ。
 これらの活動を次につなげて行くのが、また、困難を伴うこと必至なのだろうけど、自分の「生」の使命、とすら、思う(などと言い放つのは危険か?使命と「思いたい」といったところか。自分がそれに使える時間の少なさに憂いを感じている・・・・・・・・・・・・・)。

(2004.5.24 Ms)


 パソコン複調に伴い、我がHPも再開可能となったものの、中断中に書いたもののみ紹介して、その後が続かず・・・・。とにかく年度始めのこの時期、仕事も忙しくて・・・・と言い訳がましくみっともない。
 忙しいのもあるが、その上、休日は強行軍の連続、気になるコンサートが多過ぎ、なのだ(それはあとで)。

 また、別途紹介した(詳細はSPPページへ)、打楽器アンサンブルの依頼がなかなか楽しくもあり、また、時間がとられてしまう。練習もそうだが、自分で楽譜をあつらえて、今回集まったメンバー(現役高校生から、打楽器経験のない音楽の先生なども含めての混成メンバー。時間的な制約からも本格的な、オリジナルな、打楽器アンサンブルの既存の楽曲はやりにくい状況か。)の力量に合った楽譜を作成。久しぶりに、本格的な創作活動、ときたものだ。
 実は、昨年のHP中断中のことだが、(財)音楽文化創造様より、私めが表彰を受けることとなり(詳細は「トピックス」(2003年11月)にて)、自分の音楽活動も、いろいろ幅を持って、もっと多くの人たちとの関わりをもって進めたい、という意欲もあり、今回のアンサンブルも、準備時間がないのに快諾させていただいた。恩ある、高校時代の先輩の依頼ということもあってだが。
 さらに、自分が主催する、打楽器アンサンブルの計画も、GW明けに初めてのステージを迎え本格始動・・・正直、かかえているものが多過ぎ。でも、今やらなければ、一生出来なくなることばかり、と認識している。確かに、人生の時間の中の、仕事のウェイトは年々高まる一方だし(四捨五入40歳という年齢のことを考えれば、今までこんな学生時代の延長っぽく振舞えていたこと自体が、恵まれ過ぎか)、何かあれば、音楽どころじゃない、という段階に自分もとうとう追い込まれた。覚悟を決めて、やれること、それもやりたいことを厳選して、効率よく、自己実現をしていかなければ、後悔ばかり、となってしまう。
・・・・・ということで、このHPにかかわる時間が、この4月、ほとんどなく過ぎていった・・・。結局、今まで以上に、自分本位で、このHPと関わることになりそうだ。特に演奏会の感想などは、自分の控えメモ程度の軽いものになってしまうかな・・・今まで夢中になって書いていた側面も多々あるが。リアルタイムに書けないと(忙しさにかまけて先送りしてしまうと)、あとで書くのは、記憶の鮮明さも薄れ、いい記事とはならないな。この半年強の中断が、自分にとってもリアルタイムな興奮を損失したようで、淋しい気もしているのは確か。・・・反省というか愚痴というか。ま、こんな話はやめましょ。

 さて、このHPを見ていただいている方々にとって、お役に立てる情報でもないのだろうが、今月の、私の、七転八倒ぶりを紹介。自分にとって目新しい試みばかり。打楽器アンサンブルの実験、である。

5/9(日)午前10時頃より正午前まで
 愛知県は、碧南市、碧南市芸術文化センターの「スタジオ」にて、
「アンサンブル・センプリーチェ」の公開リハーサル
 ただし、雨天時は、外に向かっての扉の開放が出来ないので、「公開」はしません。また、隣の図書館さんからの申し出によっては、途中で中止になるかもしれません。まあ、碧南市民のみなさんが、本を読みにおいでのさい、偶然、珍しい打楽器のアンサンブルを発見するかも、といった程度の認識で考えています。翌週5/15(土)に、浜名湖花博での演奏を控え、野外でどれくらい音が飛ぶのかの確認をしたい、ということです。
  
 内容は、ヴィブラフォンと鉄琴、さらに各種打楽器による3人編成のアンサンブル。
 アンダーソン「プリンク・プランク・プランク」
 ドビッシー「亜麻色の髪の乙女」
 バルトーク「タンブリン」
 プロコフィエフ「キージェの誕生」
 ハチャトリアン「剣の舞」
 最後に軽く、「星に願いを」

 以上、自分の好みの曲を、自分でアレンジして、自分の好きなように演奏します。
 打楽器アンサンブルというと、大規模で、楽器の調達だけでも大変。さらに、現代音楽オンパレードで、打楽器をやっている人たちしか聴きに来ない、というイメージを持っています。私は、必要最小限の人数、楽器で、打楽器の性質にあった、それもちゃんと旋律のはっきりした近代の音楽を(バリバリ現代音楽を演奏する力量がないのが正直なところ)、打楽器だけの音楽を聞いたことのない人達の前で演奏したいと考え、今回の試みを実行に移しました。果たして、どんな結果となるか、それは、いろいろな方々に判断していただくしかありません。

5/15(土)午後4時30分から午後5時まで
 静岡県は、浜松市、浜名湖花博会場内、「のたねステージ」にて、
「アンサンブル・センプリーチェ」お披露目コンサート
 内容は、上記、公開リハーサルのとおり。さてさて、ちゃんと、止まらずに演奏できるのか?

5/23(日)午後2時から
 愛知県は、小坂井町、フロイデン・ホールにて、
楽団サウンド・ボックス アンサンブル演奏会
 メンバーの様子は
SPPページを参照。

 以上が、自分の演奏活動。
 その練習の合間をぬって、素晴らしい名演の数々を、旅行を楽しみつつも体感。

 5/2(日)第10回大垣音楽祭
  ドボルザークの室内楽の数々を、日本のトップアーティストたちの熱演で

 4/25(日)ストリング・アンサンブル・ヴェガ演奏会 山梨県高根町にて
  日本の若手奏者たちが年1回、緻密な練習の成果を披露。オネゲルの交響曲第2番に感激

 4/22(木)名古屋フィルハーモニー管弦楽団 第302回定期演奏会
  広瀬悦子さんの、ラフマニノフの3番のピアノ協奏曲。繊細かつ豪快な演奏

 4/18(日)ブルーメン・フィルハーモニー 第23回定期演奏会 東京都葛飾区にて
  今をときめく、若手指揮者、山田和樹氏のタクトで、シューマンの「春」のさっそうたる快演

 3/27(日)広瀬悦子CDデビュー・リサイタル 大阪市にて
  リストやラフマニノフによる、編曲ものを、技巧と歌心に満ちた演奏で

 とにかく、幸福な時間をありがとう。せっかく、21世紀の日本、それも、東京と大阪の、ド真ん中に暮らしているのだ。素晴らしい音楽を探す旅にでるのに躊躇する必要など、ない。井の中のカワヅじゃあ、もったいないよね。

(2004.5.3 Ms)
HPの記事整理にともない、少々変更(2004.6.27 Ms)


 とりあえず、休業中の「だぶん」記事は2003年のページに掲載。コンサート体験は「トピックス」へ移動済み。ページの体裁だけは取り繕ったので、おって、本年の「だぶん」も再開予定です。
 半年の中断中に、N響への関心が高まり、そのあたりも今年はちょくちょく取り上げたいと考えています。

(2004.4.14 Ms)
 NHK教育TVの「N響アワー」の雑感。(気になった曲のみのコメントにてご容赦) ・・・・ 別コーナーへ移動します。



(仮称)N響・雑記帳

 2003年夏からの、HP、半年の中断中に、N響への関心が高まり、「だぶん」にても、いろいろ書いてきましたが、それを1箇所にまとめてみました。

 N響アワー

 4/4(日)放送
 今年1,2月の定演から。

 1506回定期(2004.1.15) ハチャトリアンのピアノ協奏曲。デュトワ指揮、ジャン・イヴ・ティボーデのソロ。
 高校時代に偶然エアチェックして、一時期良く聴いたが、その後、20年近く聴く機会もなく、何かしら懐かしく、甘い気分になった。偶然、思い出深き高校時代の後輩にばったり出会った翌日だったというせいもあるか? 曲も、少々の現代性はあるも、旋律美、そして人懐っこいポピュラリティに満ち、楽しく鑑賞。第2楽章の、珍しい「フレクサトーン」によるメロディは、超絶技巧。やはり、芸達者ぞろいですよ、N響。番組のなかでも、「フレクサトーン」を若村嬢が鳴らしていましたし、演奏の中でもしっかりアップで長時間、映像も拝ませていただき、TV史上、貴重な体験といえようか。

 4/11(日)放送
 N響と38年ものつきあいとなる、ハインツ・ワルベルクの指揮で。

 (1966.6.18−定演ではないようだ) シュトラウスU世 「美しく青きドナウ」
 N響との初顔合わせプロの一つが、シュトラウス特集。珍しい、Vnの弾き振り。

 876回定期(1982.6.25) ブラームスの悲劇的序曲
 私が中学の頃、懐かしい顔ぶれだ。それにも増して、重い厚い、いかにもドイツ的な、最近のN響とは違う、かつての伝統的な響きに改めて驚きすら感じる。そう思わせたのはテンポが遅いという点だけではないはず。また、現・愛知県芸大教授の、今村氏のTimp.も懐かしさとともに、今見ると意外とインパクトあり。

 1510回定期(2004.2.27) ヒンデミットの交響曲「画家マチス」第3楽章
 ヒンデミット自作自演3枚組CDなども最近入手し、ぼちぼちと興味も増しつつあるヒンデミットの代表作を聴く。ヒンデミットについては、改めていろいろ考えてみたいところ。
 調性感はありそうで、でも親しみやすさは薄い。かと言って、分りにくくはなくカッコイイ場面すらある。オーケストレーションの巧みさは確かにある。でも、派手に鳴りつつも音楽そのものは地味。何とも捉えにくい作風と感じる。
 生前は、大家であったろうに、最近は顧みられることも少ないか。彼を直接知る世代(ワルベルクも然り、ブロムシュテットもCDを沢山出してる・・・・80台が頑張ってヒンデミットの火を絶やさぬよう演奏を重ねているかのよう)と、それ以降の世代ではヒンデミットへの関心がかなり差がないか。そんなこんなで、一度、しっかり聴きこんでみたい。
 さて、演奏は、手堅く、しかもオケも華やかに鳴って気のきいた素晴らしいもの。ただ、この定期のカメラ・アングルは独特だ。ヴィオラ・トップの店村氏のアップ、顔の表情、鋭い眼差し、情熱的な雄姿、音楽に対する真剣勝負がTVごしでもぴりぴり伝わるのだ。・・・彼ばかりではないが、真摯さを感じる故に、このところN響への傾倒が私にある。その辺り、また、おいおいいろいろな演奏を通じて私を揺さぶり、このコーナーにて紹介することともなろう。

(2004.4.14 Ms)

 5/2(日)放送
 今年4月の定演から。
 1512回定期(2004.4.15) ベートーヴェンの交響曲第7番。スクロヴァチェフスキ指揮。
 巨匠として持ち上げられている彼について、余りよく知ってはいない。しかし、年老いた巨匠、というイメージは、重厚な、または、枯淡の境地、なんていうステレオ・タイプ的発想になりがちなのだが(少なくとも私は)、演奏を聴けば、全くそんな感想は持ちえない。血気盛んなベートーヴェン。攻撃的で、聴くものを追い立てる、スリルを感じる。BSにおいて、「英雄」「運命」なども聴く機会を得たが同様。
 あと、「おや」と思ったのは、7番における楽章間の処置。3,4楽章のアタッカ、はよくあるが、その全く逆をいくユニークなもの。つまり、1,2,3楽章を休みなくアタッカでつなげ、フィナーレの前で初めて休息を入れるもの。フィナーレの勢いは、際立って感じられる。面白い効果である。

 5/16(日)放送
 標題音楽の特集。珍しいところで、スクリャービンの「法悦の詩」。80年代の演奏だったか。充分、派手な演奏。もっと、大人しい時代かと思いきや。曲の性質にもよろうが。ベルリオーズの「幻想交響曲」第4,5楽章。デュトワ指揮。これは、名演だ。色彩感豊かで、デュトワ効果の最たる真骨頂たる演奏か。

 5/23(日)放送
 ゲストの会で、画家の片岡鶴太郎氏を迎え。しかし、隔世の感あり。「ひょうきんベストテン」のマッチ役(これを知る人も少なくなりつつ。土曜夜8時のフジTV「おれたちひょうきん族」においての1コーナー。近藤真彦ことマッチ・・・・などと、改まって解説するなよ。)で、随分ひどい目にあってた頃とは大違い。いまやNHK教育で講師やってたりするわけで。
 さて、画家、ということで、今回も標題音楽の特集めいた選曲。池辺氏が彼に進める、いわゆる名曲の数々。「新世界」の第2楽章やら、一流の風景画家、メンデルスゾーンによる「フィンガルの洞窟」、ヨハン・シュトラウスU世の「ウィーンの森の物語」。ここ1,2年の演奏から。改めて聴いて「フィンガル」のオーケストレーションの当時としての色彩感(ベルリオーズのような反則ワザを使わない、古典編成における色彩感)の巧妙さは発見。あと、この作風の影響下にやはりゲーゼの「オシアンの余韻」があるのも再確認。ややマイナー話にて失礼。デンマークのロマン主義の開祖たるゲーゼ、である。

(2004.5.25 Ms)

 6/6(日)放送
 今年5月の定演から。
 1515回定期(2004.5.13) マーラーの交響曲第6番「悲劇的」。サラステ指揮。
 熱くない、ドロドロしていない。爽やか!なんていうと大袈裟な気もするが、不思議な演奏だった。マーラーでも最も主観的といおうか、自己没入の度合いも高く、今までの私的には、辟易、敬して遠ざけていた感も強いこの作品を、軽く、濃厚な味つけもなく、押しつけがましさのない快演としてくれた。これじゃ「悲劇的」ではない、と怒る方も多かろうが、私的には、大食漢が汗だくになってのたうち回るような、ぶよぶよした重々しく、決してスマートならぬ本作を、清潔に、クリーンなイメージでやっていただいたことに感謝したい。こんな演奏なら、遠ざけはしなかった。今までの経験が、そんな先入観を植え付けたということか。
 第一、冒頭の低弦の行進リズムからして、武骨に、全身全霊でぶつけるような、いきなり疲労感を感じさせるものではなく、音符そのものだけが存在するかのようで、他の虚飾が皆無。かといって、全編にわたり別段、なよなよしたわけでもなく、豪快に鳴らすことは厭わない。不必要なまでの力みを全く感じさせなかった。ネット上の意見など拝見しても、「シベリウス的なマーラー演奏」といった比喩もみられた。なんだか、想像しにくいけれど、体験してみると、意外とそういう表現は、その演奏を的確に表現しているかもしれない。
 クラシック音楽愛好家歴も長いと、自己の感性、体験も凝り固まって、「バカの壁」も障壁となる。こういったカベを突き崩す演奏、大歓迎。身近に、こういう体験ができる時代(BSの導入後、クラシックの演奏映像は各段に身近となった。外来オケも含めて。)であり、環境であることを本当に感謝したい。別の機会に書いたように([2004年、これだけは言いたい]なる一文、是非とも)、将来の日本の見とおしの暗さなど思うと、今、音楽ファンとして恵まれていることの感謝、もっとかみしめたい。将来も続いて欲しいな。やや余談。

(2004.6.23 Ms)

 7/4(日)放送
 今年6月の定演から。クリヴィヌ指揮の、ツェムリンスキー「人魚姫」。生で聴いてきたので、「トピックス」にて紹介しましょう。

 7/11(日)放送
 「名演奏プレイバック」。徳永兄弟のソロによる、ブラームスの二重協奏曲。及び、大バッハの息子ヨハン・クリスティアンの協奏交響曲イ長調の第1楽章(1990.5.7)。後者において、カデンツァが楽譜上書かれてなく、指揮のサヴァリッシュに言われて演奏会前日に急遽、弟が、楽譜を書いたというエピソードが面白く。確かに無名作品の古典の協奏曲、誰もカデンツァ書いてないはなあ。有名曲はいろいろなソリストが楽譜を残してるが。プロ奏者も、カデンツァの、文字どおりの即興演奏なり、創作を求められるんだ、大変だ、と。ちゃんとした、主題を変奏させつつ、技巧的パッセージも折りこんだ、カデンツァに仕上がっていました。

 7/18(日)放送
 アシュケナージ指揮で「田園」。このたび、音楽監督就任ということで、2000.10.25の第1416回定期から紹介。私にとって、彼の指揮は、まだ未知数。見た目はあまり上手そうには見えないが、さて演奏としてはどうなのか?「田園」だけではよくわからなかった。今後、見守りたいもの。

(2004.7.24 Ms)

 7月のN響海外公演のうち、ベルギーのブリュージュでの演奏は、N響アワーでも2週にわたって放映、BSでも1度ならず放送され、皆様もご覧のことと思います・・・・が、私は、肝心のショスタコの5番のみまだ未聴。アシュケナージの音楽監督就任お披露目的コンサートなれど、どうも、過去においてアシュケナージのショスタコ演奏に感銘をあんまり・・・なので躊躇するうち1ヶ月過ぎてしまった・・・が、壮大なフィナーレの後の、アンコールの「ポルカ」の腰砕け的、はぐらかし、には共感大で、面白く聴かせていただく。

(2004.8.22 Ms)

 9月12日放送。名演奏プレーバック。シプリアン・カツァリスのピアノを堪能。
 リストの「ハンガリー幻想曲」,第971回定期(1985.10.16)とシューマンの協奏曲,第1049回定期(1988.4.1)。
 前者はとにかく、楽しい。華麗な技巧誇示に勝る曲を、見事に曲芸的演奏でみせてくれる。
 その代わり、後者は、何かもの足りぬ。指は勢い良く回っているが、技巧誇示の要素が強くて、シューマンの雰囲気が伝わってこないような気がする。エラそうにすみません。でも思い入れがある曲なんでどうも気に入らないとなると気に入らないわけで・・・・。

 9月19日放送。池辺晋一郎の音楽百科。「ラスト・シンフォニー」
 今年のNHK音楽祭のテーマがまさに、「最後の交響曲」なわけで、それにリンケージした企画。
 まずは、モーツァルトの41番「ジュピター」からフィナーレ。第1195回定期(1993.2.24)。フランスの巨匠、ジャン・フルネ。堂々たる貫禄の演奏。
 続いて「新世界」。フェイントで第3楽章。(2003.1.15)。第九のジンクスなど池辺氏、紹介。
 ブラームスの4番のフィナーレ。第1454回定期(2002.2.9)。ヴァイグレ指揮・・・未知だなあ、それにしても、ブラームスとは思えぬほど軽い演奏でした。
 曲間。ブラームスの4曲の交響曲の主音を順番に並べると、C−D−F−E・・・・モーツァルトのジュピターのテーマになります・・・・それを1音下げると、シューマンの交響曲の主音の並びになります・・・・という説明。偶然といえできすぎたお話。知っておいて損はないマメ知識ですね。
 チャイコフスキー「悲愴」フィナーレ。第1459回定期(2002.4.19)。スクロヴァチェフスキ指揮。
 ここらで終わりと思わせて・・・・なんと!
 ショスタコーヴィチ。15番の第1楽章。第1068回定期(1988.12.1)。ヤノフスキ指揮。
 それにしても、遅い、たるい演奏で・・・。残念。溌剌さもないなあ。
 随分昔、きっと、この演奏からさほど経過していない頃、岩城宏之が司会のN響アワー、作家の島田雅彦氏がゲストで、ショスタコ特集(ショスタコ・フリークとしても有名。例えば「ドンナ・アンナ」という小説は、タコの14番を歌うソプラノ歌手の物語)。その際にも、その15番のフィナーレを放映していたはずで、やはり思わしくない記憶。
 ただ、今回の第1楽章、Timp.の百瀬氏がよく映ってて、派手なパフォーマンスを見せてくれて面白い。
 対して期待もせず眺めていた番組ながら、しっかり、最後はやってくれました。これだから、みのがせないのよ。

 9月26日放送N響ほっとコンサート(2004.8.29)。家族で楽しむ、「オーケストラからの贈り物」。(BSで、演奏会の全体を放映したので、そちらでの感想)
 クラシックのカヴァー・ヴァージョンてな趣向で、本田美奈子が「新世界」など歌っていたり。また、オケのみでは、バッハ「トッカータとフーガ」のストコフスキー編曲をやっていたり。
 後半は、ホルストの「木星」・・・・いまや「ジュピター」という名で紹介、テロップまで出るありさま。平原効果か・・・・それじゃ、他の曲やるときも、「マース」とか「ヴィーナス」なんて紹介するんだろうか?
 最後に、「1812年」。派手なオーケストラ曲で、迫力満喫という趣向か・・・大砲まで出て来て(音はシンセサイザー。でも大砲は煙を吐いてたりして、面白かった)。
 指揮は、岩村力氏。私も奏者としてお世話になっていて、活躍ぶりを見るのは頼もしい。ただ、演奏について、純粋なオケ作品であるこの2曲について、ややテンポも遅めで、正確さ、緻密さにおいて、なるほどと思わせる演奏ぶりながら、物足りなさは感じたか。
 また、冒頭の、コープランドの「庶民のためのファンファーレ」。どうも金管群の不安が先立つ。「ほっと」できない危うさを感じるのだ。

(2004.9.29 Ms)

 N響は、アシュケナージを音楽監督に迎えてのシーズン到来。10月から。
 まずまず、演奏面では、さいさきの良いスタートができたのでは。台風襲来の日の、就任記念演奏会(2004.10.10)。「運命」の集中力、推進力に、ハッとさせられる。今後が楽しみ、と思わせるのに充分なほどの演奏で頼もしい。・・・ただ、アレ?「レオノーレ」序曲第3番、最後でHr.落ちていたんじゃ・・・。ま、枝葉末節にて失礼。10月17日放送N響アワーでも放送されたので気付いた方も・・・。

(2004.11.6 Ms)

 アシュケナージ新音楽監督のもとで。
 新音楽監督の初の定期は、第1523回定期(2004.10.15)、エレーヌ・グリモーを迎えてのシューマンのピアノ協奏曲。そして、R.シュトラウスのアルプス交響曲
 グリモーは、ソロ・コンサートの模様を昨年だったかBSで見ているが、その時のラフマニノフの「音の絵」の激しさにドギモぬかれて以来気になる存在ではある。今回のシューマンも、優しさ、可憐さよりは、ダイナミックな力強さ、パワーに満ちたもの。私の、曲に対する印象とは随分違った演奏ではあった。ピアニスト出身指揮者のサポートということもあってか、オケがかなり控えめ過ぎるくらい。ピアノの独壇場・・・も少しオケとの絡みも聴きたかった。フィナーレのコーダの軽やかな流れるフレーズも、「この幸福よ、いつまでも」と後ろ髪ひかれるセンチメンタルな抒情を私は感じているが、グリモーはひたすら、猪突猛進のごとく突き進む。・・・・やや個人的にはとまどいの演奏か。
 ソリストのアンコールは、「音の絵」からハ長調のもの。激しいものではなく、しっとりした作品。
 「アルプス」は爽快。大オーケストラの魅力満載。スケール大きく、表現も多様、楽しく鑑賞できますね。ただ、山頂の手前、「危険な瞬間」のテロップとともに、やや危なげなトランペットのソロが大写しになり、まさかジョークじゃあるまいに。

 続いて第1524回定期(2004.10.24)、チャイコフスキーの交響曲2曲。3番と4番
 3番は、何度聞いても釈然としないものであったが(以前のゲルギエフ、N響でもそうだった)、今回は、以外といい曲じゃないの、と思わせてくれた。とにかく1時間近い長さ、冗長さが先に印象つけられてきたものながら、不必要な感情過多を排除し、先へ進む推進力にあふれさせたところが勝因か。4番も、同様のアプローチでテンションの高さを維持していた。
 なお、11月14日放送N響アワーでも、シューマンのピアノ協奏曲と、チャイコの4番の一部は放送されたところ。
 また、チャイコ・プロにおいては、中越地震という惨事の時であった点以上のアクシデントにみまわれたようで、初日の演奏で、アシュケナージの指揮棒が彼自身の左手に刺さり、後半の4番は急遽指揮者なしでの演奏に。これが名演だったという。TV放映されたのは2日目、無事アシュケナージが指揮しているもので。初日の4番も聴いてみたいもの・・・・。4番を指揮者なしというのは、特に第1楽章などスリリングすぎます・・・。

(2004.11.21 Ms)

 11月21日放送、名演奏プレーバックは、ヴィオラのバシュメットとの過去の共演を。これまた90年頃の演奏で、モーツァルトのVn.とVaのための協奏交響曲。ブラームスのヴィオラ・ソナタを現代作曲家ベリオが編曲したもの。モーツァルトは第2楽章が美しく切ない、さすが天才の霊感に満ちた素晴らしいもの。両端楽章の印象は薄いが。ブラームス、実は私に響くものはなく。オケへの編曲もなんだかダサい。ブラームスの室内楽も、弦楽六重奏曲第1番やピアノ五重奏曲といった若き時代の情熱家ブラームスを入口に探検を続けているものの、最近は、晩年作の簡素さ、淡白さにやや物足りなさも感じ、まだまだ私も青いものか。でも、諸井三郎の著作でも、ブラームスについて、技術があるからどんな作品も完成度は高いが、霊感が不足している時の作品はそれだけに聴いててむなしい、といった趣旨のコメントあり。最近、同調する瞬間も多い。まさに、それを裏付けたのが今回の作品。・・・もちろん、交響曲はじめ、霊感に満ちた作品が、隙のない構成で完成されたものなどへの敬意は不変、である。このあたり、諸井氏の著作の紹介がてら、掘り下げてみたいテーマではある。急がず、じっくり、まだまだブラームスの室内楽も聴いてゆきたいと思っている。

(2004.11.30 Ms)

 11月28日放送。宇宙飛行士、毛利衛氏を迎えて。スペース・シャトルからの映像などとともに音楽を。
 やはり、何とでもあってしまうバッハ。まず無伴奏チェロ組曲第1番プレリュード。次に、いわゆるG線上の「アリア」。おお、なつかしや。スヴェトラーノフ指揮。第1190回定期(1993.1.22)。
 モーツァルトのピアノ協奏曲第21番、児玉桃のソロ、デュトワ指揮。定演ではない演奏会(2000.6.18)から。
 最後はやはりホルスト「惑星」。「水星」と「木星」。今回は「ジュピター」という紹介ではなく、普通に。そりゃ、マーキュリーとジュピターなんて紹介された日にゃ、セーラー○○○か、ということになるし。
 演奏は、第1347回定期(1998.4.2)。こちらもデュトワで。「木星」最後のティンパニ・ソロ、百瀬氏のアクションが素晴らしい。演奏としては、やや活気不足、テンポを遅目に控えたゆえに、爽快さがない。
 「ホルスト」は宇宙のことをよく知っていたんじゃないか、なんていうコメントもあったが、当然、ホルストはご存知ないはず。星占いからインスピレーションを与えられた。とはいえ、その音楽には宇宙的なイメージがつきまとう。宇宙空間と占星術、神秘性の音楽化という面で両者は結びつく、ということか。毛利氏いわく、「木星」は、「宇宙から見た地球のようだ」と。確かに、「快楽の神・木星」の健全さ、明るさ、は、暗黒の宇宙空間のなかにあって、生命の希望を強く感じさせているかもしれない。中間部の賛美歌風旋律が祈りを思わせ、人間性を感じさせてもいるか。

(2004.12.7 Ms)

 12月12日放送。11月の定期から。サヴァリッシュ、2年ぶりの来日公演から。ブラームスの1番。
 前回の来日がキャンセルになったこともあり、ファンの間でも心配されていたが、元気な姿を拝見して安心(ただし、座っての指揮。歩く姿も辛さを感じる)。もう、N響と40年のお付きあい、とのこと。過去の演奏ぶりなどの画像も見るが、やはり、N響といえば、まず、サヴァリッシュの指揮というイメージは子供の頃から、無意識に刷り込まれている私である。風貌の特徴的な面から、ホルストシュタインやマタチッチなどの絵も思い浮かぶけれど、やはり一番拝見する頻度が多かったと思う。
 その若かりし頃のブラームス演奏と、見比べ、聞き比べると、やはり、年齢、を感じずにはいられないのが痛々しくもある。正直なところ、今回、指揮ぶりはかなり弱々しいもの・・・音楽のスピード感も往時との比較は辛い・・・でも、その少ない指揮の動きから、音楽の本質を突いた表現は充分に感じられる。逆に、若さありあまって、全曲情熱的にやたらと派手に動き回る指揮よりも、ここだけは絶対大事、というニュアンスが厳選されて見て取れ、演奏家の音楽への集中度も高く、決して、往年の大家による名誉職的演奏なんかではない。
 ただ、今回の番組の中で彼へのインタビューが流れ、指揮ぶりから想像するほどの衰弱では決してなかったところが救われた。
 今回の来日では、2回のN響定期を振り、特に、ベートーヴェンの7番を振った方に多いに感銘を受けた。これはN響アワーでは取り上げられなかったので別の機会に書こうと思っているところ。ブリテンのヴァイオリン協奏曲の感動は是非お伝えいたいし。

(2004.12.19 Ms)

 12月19日放送。池辺晋一郎の音楽百科。「オーケストラは変貌する」
 オーケストラの変遷。編成の大きさに着目して。
 ハイドンの交響曲第86番第3楽章。ベートーヴェン「エロイカ」第1楽章。ベルリオーズ「レクイエム」から「怒りの日」。と、巨大化をたどり、最後に先祖帰り。プロコフィエフの「古典」。演奏として、特筆すべきもあまり感じられなかった、が、「エロイカ」は良かったな。ワルベルクの指揮。曲の冒頭にある和音打撃に象徴されるように、スフォルツァンドの表現を特に大事にして、攻撃的な印象。ベートーヴェンの意思の強さを思わせる。これこそベトーヴェン、と言いたくなる。

 12月26日放送。ゲストの回、古美術の鑑定士を迎え。
 こういう回はえてして、名曲ぞろいとなるものの、過去の名演など聴けるのが嬉しくもある。
 第1301回定期(1996.10.5)のホルストシュタイン指揮の「エグモント」序曲など、改めて素晴らしいと思う。必ずしも速くないテンポのなかで重い音楽を作っている。続く、デュトワ指揮の「ローマの謝肉祭」序曲も色彩感豊かな名演。以前も感想を書いた演奏なので省略。
 その他、モーツァルトのピアノ協奏曲のニ短調。最後に新作の鑑定をお願い、という趣向で、同年夏の現代音楽演奏会から、マクミランの「イゾベル・ゴーディの告白」これも以前、感想を書いたもので省略。

(2005.1.3 Ms)

 

 N響 最近の演奏会から

 N響5月定期は、フィンランドの俊英サラステ氏の指揮で。しかし、北欧モノは皆無。マーラー6番、ブルックナー5番、チャイコ4番と、予想外のところを突いて来た。チャイコのカップリングは、同じく北欧で、注目度も高いピアニストのムストネンで、ストラビンスキーのピアノ協奏作品2曲。いかんせん曲がイマイチなんだが、思い入れもたっぷりに、でもメカニックに、この風変わりな作品の映像を確認させていただく意味でも興味深し。なかなかやらないし。
 さて、5月定期で一番の印象はマーラー「悲劇的」。全楽章楽しませていただいたが、N響アワーでも両端楽章は紹介されたので詳細はそちらで。

 (2004.6.23 Ms)

 BSで放送の、6月分の定演、指揮者タルミとの相性も良くなかったか、かなり荒さが目立つ。
 特に第1519回定期(2004.6.24)、ドボ8などは、フィナーレのコーダのテンポ設定がどうも団内統一的にまとめきれず、辛い。全体的にギクシャクした曲の運びが気になる。一方、シベリウスのVn.協奏曲、ソロのジェームズ・エーネスがかなり美しくキメていただけに残念。ソロは、綱渡り的な、高音への音の飛躍もバッチリ当ててきてるし感心。映像的には、ヴィオラのソロの絡みが無視されて、ちょっと不服。店村氏の自信満々の雄姿をその場面で見たかった。・・・しかし、最近演奏頻度高いよな、シベリウスの協奏曲。ショスタコの1番もだが、ソリストの選曲も、20世紀モノへとシフトしつつあり嬉しいね。

(2004.7.24 Ms)

 N響夏・おろしぁ国楽夢譚(2004.7.23)。指揮、マーク・ストリンガー氏。私自身、この夏(7/29)、静岡県は掛川市にて彼の指揮で「田園」など聴いているが、印象は悪くない。今回は、「ルスラン」「はげ山」「だったん人」「スラヴ行進曲」「展覧会」といった、ロシアもの特集。この手の選曲といえば、なんといっても、巨匠スベトラーノフの指揮によるN響が、ノリに乗せられ、壮絶な演奏を繰り広げた驚き、が強烈。決してそれを超える凄みはなかった。比べる相手が違いすぎか。破綻なく、手堅くまとめているが、細部にまで細かいニュアンスの表情が付けられているのが印象的で、適当に聞き逃せない演奏という意味では、面白く聞けた。
 例えば端的に、「展覧会」冒頭プロムナードなども、単なる4分音符の連鎖ながら、表情の豊かさが感じられ、全体的に滑らかな曲の運びも特徴的か。大胆さ、よりは緻密さをより感じさせる指揮ぶりであった。
 また、定演でないこともあって、若手の台頭なども興味をそそる。特にOb.トップは、今年入団した池田さん(女性です)。しなやかなソロを随所で堪能させていただく。一方、若手に限らないが、打楽器も、最近よく見かける機会も多い植松氏によるティンパニは、気楽に叩いているように見えて、超弩級のサウンドが体感できるので面白い。「展覧会」の最後は、ティンパニと大太鼓の応酬が楽しい。また、あの大音響のなかトライアングル、前打音のソロがしっかり聞こえているのも良い(なかなか聴き取ることの困難なもの)。
 ボロディン「ノクターン」も弦楽合奏で美しく。ただ、編曲に難あり、Cb.の使い方がイマイチと感じた。ドリュー編、とは果たしてメジャーな編曲なのか?
 アンコールは、チャイコの組曲第1番の「小行進曲」。木管高音域の大活躍するかわいらしい小品。j自分の感想として、組曲全体としての印象は薄いように記憶していたが、こうやって1曲だけ取り出してみると、意外と楽しめる曲だ。新たな発見感謝。

(2004.8.29 Ms)

 BSにて、N響のコンサート。正反対の2つのコンサートを見る。
 Music Tomorrow 2004(2004.7.4)。現代作品。
 石井眞木の遺作、交響詩「幻影と死」。平清盛の栄華と死を取り上げた舞台作品からオーケストラ作品として成ったもの。いかにも和風な音響。さらに、オスティナート風な部分。随分とわかりやすい。オケの鳴らし方も爽快。
 マクミラン作曲「イゾベル・ゴーディーの告白」(1990)日本初演。スコットランド出身の作曲者による、スコットランドの歴史上の悲劇、独立を奪われたこと、凄惨極まる魔女狩り、などを表現した作品という。本人の指揮による。冒頭の穏やかな部分は美しい。イギリスの伝統上にありそうだ・・・ヴォーン・ウィリアムス、ウォルトン、ブリテン・・・。このスコットランドの平和な風景を思わせる(私はみたことないが)部分が最後にも再現して曲は閉じられ、その中間部分においては激しい楽想が展開。それにしても、調性感はあって聴きやすい。この傾向は歓迎したい。
 他2作は、やはり、「わからない」「むずかしい」が正直なところ。あえて紹介は省略。

 N響ほっとコンサート(2004.8.29)。家族で楽しむ、「オーケストラからの贈り物」。
 クラシックのカヴァー・ヴァージョンてな趣向で、本田美奈子が「新世界」など歌っていたり。また、オケのみでは、バッハ「トッカータとフーガ」のストコフスキー編曲をやっていたり。
 後半は、ホルストの「木星」・・・・いまや「ジュピター」という名で紹介、テロップまで出るありさま。平原効果か・・・・それじゃ、他の曲やるときも、「マース」とか「ヴィーナス」なんて紹介するんだろうか?
 最後に、「1812年」。派手なオーケストラ曲で、迫力満喫という趣向か・・・大砲まで出て来て(音はシンセサイザー。でも大砲は煙を吐いてたりして、面白かった)。
 指揮は、岩村力氏。私も奏者としてお世話になっていて、活躍ぶりを見るのは頼もしい。ただ、演奏について、純粋なオケ作品であるこの2曲について、ややテンポも遅めで、正確さ、緻密さにおいて、なるほどと思わせる演奏ぶりながら、物足りなさは感じたか。
 また、冒頭の、コープランドの「庶民のためのファンファーレ」。どうも金管群の不安が先立つ。「ほっと」できない危うさを感じるのだ。

(2004.9.21 Ms)

 9月のN響の定期などまとめて感想を。
 すべて指揮は、ネルロ・サンティ。イタリア・オペラの巨匠。2001,3年と来日、N響とも信頼関係が確立、評判も上々、過去の演奏も最近BSで拝見したところ。今回、協奏曲は皆無、必ずロッシーニの序曲を取り入れ、とにかく彼の得意なところ、やりたいところを全面に出した、ということか。

 第1520回定期(2004.9.18)。
 さて、そのロッシーニ、「ウィリアム・テル」序曲。お馴染みな作品ながら、最近は定演ではなかなかお目にかからないような。しかし、改めて聴くと、派手でオケの鳴りも良いし、各所の名人芸も聴き応え充分、オケの楽しみを再認識させてくれる。
 冒頭のチェロの五重奏、シブイ発想ながらも、首席木越氏のビブラートたっぷりな麗しい雰囲気が素晴らしい。そのソロを支える4人の奏者のソロもまた、安定してじっくりと聴かせてくれる。
 続く「あらし」は、ややゆっくりではあるが、その分、トロンボーンの素早い音階的なフレーズが滑らず、迫力をもって迫る。
 そして、コーラングレとフルートのデュオ、これもまた聴かせてくれる。各フレーズごとに、やや速めに始めて、フレーズの終わりに向かってテンポを緩める。変わった効果だ。しかし自由自在に、普段、オケのコンサートでは聞かれないほどに、歌を歌わせる、というスタンスが濃厚に出ている部分、サンティならではの解釈、なのだろう。それにしても、木管セクション、秀逸だ。毎回、満足度が高く、ほんとに素晴らしい。
 終曲の行進曲、何度聴いても、かつての「ひょうきん族」を思わずにいられない世代である。それにしても、ワクワクさせるこの興奮、年を経ても変わらない・・・ショスタコ(彼と「ひょうきん」は無縁ながら)が生涯、この「行進曲」の影響の下に作品を書き、その種明かしを最後の交響曲でやったのも分る。ある種、洗脳させられる強烈な個性を持った音楽。あなどるなかれ。
 モーツァルトの35番「ハフナー」。サンティは、古典もお好きなようでよく取り上げる。ただ、個人的に新鮮味は・・・・。
 ドヴォルザーク「新世界」。これは儲けモノ。やや、珍品的アプローチ。特筆すべき点2箇所。2、4楽章。それぞれにテンポが速い。まず、第2楽章、有名なテーマ、思い入れもたっぷりに行くのが常なところ、とにかく前へ。同様に、フィナーレも。それは第2主題、郷愁をさそうクラリネットの独白に顕著。速いところが速いのは爽快ながら、ゆっくりのところが速く、歌い切れないじゃないの。最近聴いた、N響、メルクルの演奏(8/9の記事)が逆にゆっくり目で感動的だったため、その思いも強かった。しかし、これが最後のクライマックスでその速さゆえの効果が見えたのだ。聴き慣れぬこの演奏、まるでオペラの幕切れを思わせるような切迫感をもって迫る。この感覚は始めてだ。問題解決に向けての急展開、そして登場人物全員がそろっての大団円、そして、オケのみ残った後奏の中、拍手のうちに緞帳は下がり・・・・こんな幻影を抱かせる幕切れ・・・面白い。そういえば、テンポこそ速めながら、表現のオーバーさ、はいろいろ感じられるものがあり、その集積あってこの感覚に至ったのかな。

 第1521回定期(2004.9.24)。
 またもやロッシーニ、「シンデレラ」序曲。私にとっては思い出深い。子供のころのアメリカのアニメ絡みで。「トムとジェリー」。「こうもり」序曲やら、ハンガリー狂詩曲第2番は、演奏会そのものがアニメの舞台となって、とても楽しいものだったし、有名だ。その流れを汲んでの「シンデレラ」序曲、ご存知だろうか。確か、「ウッドペッカー」の30分番組の3本立ての真ん中の枠、のら猫が主人公のものがあり、そののら猫たちが夜中の街の場末で演奏会。フルートが水道管の蛇口部分風な感じだったり、きっとガラクタを集めてのコンサート風景と記憶している。
 さて、こじんまりと、古典的な編成での演奏。・・・気がついた点、もう少し後で書いておこう。
 ハイドンの88番の交響曲。第2楽章のチェロ・ソロ。それにオーボエが重なる。シューマンの4番の先駆けである。ハイドンの緩徐楽章というと、あっけらかんとした軽さ、をイメージしてしまう(「驚愕」「時計」など)が、この作品は、カンタービレ、歌、である。それが意外。やや、きつい不協和音が繰り返し用いられるのも面白い。さらに、第3楽章のトリオの、民俗舞曲風な雰囲気は、古典の和声感を逸脱した浮遊感が特徴。バルトークの民謡作品をはるか遠くに見据えたかのようにも感じた・・・・ハイドンも「ハンガリー」での宮廷仕え、バルトークと同じ民謡を聞く機会はあったかも。
 演奏は端正なものながら、ただ、メヌエットの冒頭主題に特徴的な装飾音系に統一感が感じられず、詰めの甘さは少し感じた。
 後半は、まず、「モルダウ」。詰めの甘さを引き続き感じさせる。随所にアンサンブルのほつれ。サンティの指揮の魅力は、そんな細かなところにはないのだろうが、やや残念。トロンボーンが弱奏部分(夜の妖精たちの場面)でバランスを崩したのも残念。
 そして、最後、お国モノで「ローマの松」。デュトワにはかなわないにせよ、豪快、華麗に描ききった。この曲は細かいこと言わず、オケの奔流に身をまかせれば良し。バンダは、客席でなくステージ上。ただ、二周りくらい大きいトランペットが珍しい。以前、ヴェルディの演奏時も、チューバの変わりに、トロンボーンを大きくして曲げたような楽器を使用していたし、楽譜の指定に従った楽器なのかしら。

 第1522回定期(2004.9.30)。
 メンデルスゾーン「スコットランド」。特筆すべきはヴィオラの充実か。スケルツォがややガサツにも感じたが総じて無難な印象。
 後半が小品ぞろい。パガニーニの「常動曲」。ひたすら1st Vn.が細かく動きまわる。ソロの曲を編曲したんだろう。いまや、オケ奏者みんながパガニーニ級ですよ、ってことか。続いて、マルトゥッチなる、19世紀イタリアの作曲家の小品2曲「ノットゥルノ」「ノベレッタ」。まさしくイタリア風。イタリア・オペラの間奏曲を思わせる。最後に、やっぱり、ロッシーニ、「セミラーミデ」序曲。彼の序曲で最大の演奏時間。しかし、内容はいつもどおりの序奏つきソナタ、展開部なし。軽妙なタッチ。これも、次の項にて。

 NHK音楽祭(2004.10.3)。
 ラスト・シンフォニーをテーマとした一連のコンサートの最初のもの。
 9月の定期を受けて、前半は、ロッシーニの序曲3曲。「シンデレラ」「セミラーミデ」「ウィリアム・テル」。そして、ブラームスの4番
 同じオケ、同じ指揮者ながら、特に木管の奏者が入れ代わり、その辺の聴き比べが面白い。特に、「シンデレラ」「セミラーミデ」の主部アレグロの第2主題は、木管楽器によるソロの受け渡しで顕著。微妙な節回し、間、比較的淡々といく人もあれば、色気を出す人もいる。奏者の得手不得手、感覚もあるだろう。クラリネットに顕著にその差が出たと思う。どちらが良い悪いではなく、ほぼ同じ時期に聴いたので、よく差が認識できた、ということ。ブラームスは、うーん、特にコメントできる部分がなかった・・・・普通・・・・。アンコールが、ハンガリー舞曲第5番。しかし、要所の速度の遅い部分が何かと遅くてくどかった(主部の最後、及びトリオの後半)・・・が、最後のゆっくり部分だけはインテンポで突っ走って一気に曲を終わらせた・・・こんな解釈は始めてだ。驚き。してやられたって感じ。
 サンティ氏、演奏中も、また演奏後も要所で笑みをたやさず、お茶目な側面もある。そんなお茶目さも手伝って、アンコールでのちょっとした遊び心につながったか。

(2004.10.11 Ms) 

 BSにてN響定期、アシュケナージ新音楽監督のもとで。
 新音楽監督の初の定期は、第1524回定期(2004.10.15)、エレーヌ・グリモーを迎えてのシューマンのピアノ協奏曲。そして、R.シュトラウスのアルプス交響曲
 グリモーは、ソロ・コンサートの模様を昨年だったかBSで見ているが、その時のラフマニノフの「音の絵」の激しさにドギモぬかれて以来気になる存在ではある。今回のシューマンも、優しさ、可憐さよりは、ダイナミックな力強さ、パワーに満ちたもの。私の、曲に対する印象とは随分違った演奏ではあった。ピアニスト出身指揮者のサポートということもあってか、オケがかなり控えめ過ぎるくらい。ピアノの独壇場・・・も少しオケとの絡みも聴きたかった。フィナーレのコーダの軽やかな流れるフレーズも、「この幸福よ、いつまでも」と後ろ髪ひかれるセンチメンタルな抒情を私は感じているが、グリモーはひたすら、猪突猛進のごとく突き進む。・・・・やや個人的にはとまどいの演奏か。
 ソリストのアンコールは、「音の絵」からハ長調のもの。激しいものではなく、しっとりした作品。
 「アルプス」は爽快。大オーケストラの魅力満載。スケール大きく、表現も多様、楽しく鑑賞できますね。ただ、山頂の手前、「危険な瞬間」のテロップとともに、やや危なげなトランペットのソロが大写しになり、まさかジョークじゃあるまいに。

 続いて第1525回定期(2004.10.24)、チャイコフスキーの交響曲2曲。3番と4番
 3番は、何度聞いても釈然としないものであったが(以前のゲルギエフ、N響でもそうだった)、今回は、以外といい曲じゃないの、と思わせてくれた。とにかく1時間近い長さ、冗長さが先に印象つけられてきたものながら、不必要な感情過多を排除し、先へ進む推進力にあふれさせたところが勝因か。4番も、同様のアプローチでテンションの高さを維持していた。
 なお、11月14日放送N響アワーでも、シューマンのピアノ協奏曲と、チャイコの4番の一部は放送されたところ。
 また、チャイコ・プロにおいては、中越地震という惨事の時であった点以上のアクシデントにみまわれたようで、初日の演奏で、アシュケナージの指揮棒が彼自身の左手に刺さり、後半の4番は急遽指揮者なしでの演奏に。これが名演だったという。TV放映されたのは2日目、無事アシュケナージが指揮しているもので。初日の4番も聴いてみたいもの・・・・。4番を指揮者なしというのは、特に第1楽章などスリリングすぎます・・・。

(2004.11.21 Ms)

 

 N響 過去の演奏会から

 BSで、N響・読響といった放送局のオケをTVを通じて見る機会も多くなったが(N響は、教育TVのN響アワー以外にも、全ての定期が見られるし、この4月からは、月曜の朝8時から過去の演奏<概ねこの10年くらい>を1時間見ることができる。読響は火曜、BS日テレの「ブラボー・クラシック」)、最近、偶然チャイコの「悲愴」をそれぞれで聴き、奇しくも聴き比べが出来、面白かった。オケのカラーとしては、金管の華やかさが全く好対照。読響の方が聴いてて気持ち良し。N響、最近、特にTp.がパワー不足が気になることしばしば。放送設備の良し悪しも関係するのかもしれないが(全体に読響の方が、画面も明るく、音もクリア。)。本来は同じホールで、生で聴き比べたいものの、在京住人でなし、なかなかそこまでは・・・。
 ただ、指揮の違いという点では、読響のアルブレヒトは、オーソドックスな極めて普通な感じであったが、N響のスクロバチェフスキは、テンポの揺れなども効果的に、自然と惹きこまれていた自分。第1楽章のアレグロ、やや緩いテンポで始めつつ、細やかな動きが、ほぼ同時に書かれた「くるみ割り人形」の小序曲を思わせたり(音楽の性格は正反対ながら、譜面の書き方は似てる・・・・「運命」と「田園」の主題提示の共通性なども思い出す。全く異なるキャラと思いきや、やはり作曲家も人間、同じ時期に書いた作品、作り方は似てることもあるわけだ。)、おや、と思わせ、ああ、こんな演奏もいいね、と頭に残る。あと、同じく第1楽章提示部、金管がでたところでテンポが突然、前に動き出す。はっとさせられる効果だ。その後は第3楽章も含め、アレグロの速さが心地よい・・・・・スクロバ氏、同じ月曜の時間枠で、他の曲も(ベートーヴェンの7番は、この下にも書きました)聴く機会をもったが、年老いた巨匠、といったイメージよりは、随分若々しい溌剌とした演奏を聴かせてくれ、好感度上昇中だ。・・・遅ればせながら、か。皆さんもうご存知でしたか、失礼しました・・・・私的には、今頃、最近になって、その素晴らしさに気付いた、ということです。

(2004.6.23 Ms)

 月曜午前8時の枠で、デュトワ指揮のものが多く取り上げられた。2002.2.14の第1455回定期の、ベルリオーズの幻想交響曲。 2002.6.13の同じく序曲「ローマの謝肉祭」。彼の指揮による演奏、やっぱり聴いておきたいと、今更ながら思わせる。彼のこれらのお得意18番を聴きつつ、華やかで鮮烈なる演奏に、感銘も新た。そのくせ、ベートーヴェン7番、チャイコ5番などは、さほど。得意不得意が結構鮮明に出てしまうという点は確かにあるが・・・・。

(2004.7.24 Ms)

 準・メルクル指揮の過去の名演。
 1440回定期(2001.9.14)メンデルスゾーン交響曲第4番「イタリア」。闊達で、生き生きした、まさしく名演。TVの画面から飛び出してきそうなほどの勢いの音楽の奔流を感じる。第1楽章の冒頭から掴んでくる。ただし、勢いだけでなく、細かいニュアンスの表情も、自由自在に変化して、メルクルの棒のもとに、N響が、水を得た魚の如くスイスイ気持ち良さそうに泳いでいるかのよう。すがすがしくもあり、一点の曇りもない、まさしく「イタリア」そのものか。フィナーレの、無窮動的なサルタレロ舞踊も、聴く者の緊張を解く事無く一気呵成に。ちなみに、ティンパニ奏者の百瀬氏の引退公演だったはず、彼のサービス・ショット満載というのも儲け物。張りきりぶりが好感大である。

 1426回定期(2001.1.27)、ドボルザーク「新世界から」の第4楽章のみ放映。
 一転して、こちらは、勢いというよりは、重厚さすら感じる貫禄の演奏。速過ぎないテンポ設定にやや意外性を感じつつ、十分そのテンポに耐えられる緻密さすら感じる。最も感動的だったのは、第2主題の長大なクラリネット・ソロ。この、神秘性すら感じるソロは絶品だ。沈黙・静寂と紙一重な弱音の表現が、神々しい。さらに、その弱音から、次第に力を得、ソロから全合奏に音楽の勢力が波及して行く過程が(弱音の効果が効いているからこそ)背筋がゾクゾクするほどの感動的場面と化した・・・・。第2楽章のコーラングレ・ソロばかりが郷愁を誘うわけじゃない。この、クラ、こそ、頭から離れない故郷を思う、切々たる思いに満たされたドボルザークの本心じゃないか。「新世界から」の思いが、このクラに象徴的に表現される・・・・こんな曲だったんだ。このソロの存在で、その後の曲の流れの印象がずいぶん変わった。展開部以降ワンサカでてくる先行楽章の主題の際限ない再現が、「新世界」での体験の総括であり、そして、その総括は、帰郷へのイメージを促す。「早く、帰ろう。おみやげは、あれとこれと・・・・」そんな、雰囲気を感じ取ってしまったわけだ。
 とにかく、個人的には、アマの演奏くらいしか聞く機会に恵まれず、聞き古された超名曲、という認識であったが、ドボルザークさんには悪かった。・・・・・・ただ、思うのは、世のアマ・オケだって、良い指揮者に恵まれれば、聞き古されていようが人の心を突き動かす演奏、決して困難なわけではない。プロ奏者しか、今回のような演奏が不可能とは思えない。ただ、導いてくれるだけの指揮者の存在の有無、あとは、最初から「アマだから下手で当然」という開き直った驕りの有無。そんな驕りに満ちた人ほどに、ドボなんてつまらん、などといって逃げるのが実態か。
 感動、したい。感動、させてほしい。その、感動、を求めての私の旅路は、今後も続く。 

 最後に、メルクル氏に感謝。そもそも、今に続く、毎回の定演を聴かずにいられないほどの、N響に心惹かれるきっかけを与えてくれたのが、昨年の富士公演。眩惑的なR.シュトラウス。個人的な作曲家の好き嫌いを超えて、感動を与える演奏、にノックアウト。嫌いな曲、そこまで行かずとも、取りたてて好きじゃない曲を、演奏の力で、感動的にしてしまう、この魔術。この魔術に一歩でも近づこう、という意識なきものは、ステージに上ってはならん。

(2004.8.9 Ms)

 N響過去の定期から。最近かなり評価の高い、ネルロ・サンティ氏の指揮。ヴェルディ、ロッシーニの歌劇の序曲。
 1447回定期(2001.11.23)。まずはヴェルディ、「ナブッコ」「シチリア島」など有名どころ・・・しかし、個人的に熱狂できるタイプの曲ではないが、珍品で、「レニャーノの戦い」序曲。金管のマーチ風楽想で開始、いかにも、戦闘ネタ、なのだが、面白い。「オテロ」のバレエ音楽なども、アラビア風なムードが楽しい。あと、チューバの代わりに、トロンボーンを変形して巨大化させたような初めてみる楽器が使われていた。ベルディの活躍していた当時使われていた低音金管楽器、ということだろうか。特に、ソロ的な部分はなく音色の違いなどは不明。
 1489回定期(2003.5.28)。ロッシーニの初期だろうか、ほとんど室内楽に近い小編成で、「絹のはしご」序曲。とにかく細かい音符の連続ながら、意表をつく終止などもあって、気の効いた軽い曲ながら難曲か。オーボエの茂木氏には脱帽。たいしたもんだ。全体としても一糸乱れぬ演奏。サンティ氏の統率力、十分感じられた。

(2004.8.29 Ms)

 N響過去の演奏から、ネルロ・サンティ指揮のもの。ヴェルディ作品の次は、ワーグナー作品集。以外に「マイスタージンガー」が良くて驚き。細かく書かれたオーケストレーション、細部まで随分と聞き取れる、丁寧な演奏。普段聞き取れない些細なパッセージもクリアで、曲の本当の姿を始めて聞く事ができたと感じる。それこそ聖徳太子ではないが、一度に複数の声部がちゃんと聞えて来る。今まで何を聞いていたんだろう・・・。素晴らしい演奏との出会いは、聴き慣れた作品も新鮮で、楽しい。  NHK大阪ホールのこけら落とし公演(2001.11.17)より。

(2004.9.11 Ms)



(仮称)室内楽・雑記帳

 BSの番組から。鈴木理恵子さんのVn.吉野直子さんのHp.によるデュオ。ショスタコ作品2曲が嬉しい。「子守唄」「踊り手」、前者は劇音楽「人間喜劇」からのロマンス。後者はピアノ曲「人形の踊り」からの1曲。気楽な、親しみやすいもの。自然に、ショスタコが取り上げられる時代となって久しい。オケのみならず、こんな軽いものまで、取り上げられることも多くなった。滋賀県栗東市にてこの4月収録のもの。

(2004.7.24 Ms)

 ショスタコのポルカ・ネタ2題。ショスタコのポルカといえば、木琴のソロでお馴染み、バレエ「黄金時代」のもの。
 7月のN響海外公演のうち、ベルギーのブリュージュでの演奏は、N響アワーでも2週にわたって放映、BSでも1度ならず放送され、皆様もご覧のことと思います・・・・が、私は、肝心のショスタコの5番のみまだ未聴。アシュケナージの音楽監督就任お披露目的コンサートなれど、どうも、過去においてアシュケナージのショスタコ演奏に感銘をあんまり・・・なので躊躇するうち1ヶ月過ぎてしまった・・・が、壮大なフィナーレの後の、アンコールの「ポルカ」の腰砕け的、はぐらかし、には共感大で、面白く聴かせていただく。
 一方、編曲ものでも、Vn.のジュリアン・ラクリンのリサイタル、BSにて。ハ短調、運命動機の連鎖で、絵に描いたほどに深刻な、ベートーヴェンかぶれな、ブラームスの「スケルツォ ハ短調」の後に置かれた、タコ・ポルカ。これまた、いい味だしてる!!
 先月、触れた、鈴木恵理子さんのVn.でのショスタコ小品2曲に次いで、Vn.作品がBSから流れたわけか・・・ホントにもう、定着したなあ。

(2004.8.22 Ms)

 先に触れたように、先月は、ジュリアン・ラクリンのVn.で「黄金時代」のポルカ、先先月は、鈴木理恵子のVn.で小品2曲、とBSで取り上げられたショスタコの愛らしい作品であるが、今月もまた。リ・アルティジャーニなる団体。Vn.Cb.とアコーディオンという変わった3人編成(アコーディオン以外は日本人。団体名は「音職人」と訳していた。)。
 ジャズ組曲第2番の「第2ワルツ」
及び、映画音楽「馬あぶ」から「手回しオルガンのワルツ」の2曲。もう、似合いすぎ。この編成のために書かれたと思わせるくらいのマッチぶり。知ってみえれば想像はしていただけよう。ピアソラが身近な存在になって、バンドネオンの音色が聴き慣れたものになってきたせいか、アコーディオンも耳に馴染んでいるということか。個人的には、小学校の頃の器楽合奏では、どうもアコーディオンをやる機会が多くて、そんな懐かしさも含め、アコーディオンによる、素朴で俗なショスタコを親しみを持って聴いていた。
 その他、ヴィヴァルディの協奏曲などもこの編成ながら以外やしっくりと聴けた。子供の頃、イギリスの団体で「ケンブリッジ・バスカーズ」という、リコーダーとアコーディオンの二人だけでクラシック名曲を演奏するのを、TVやラジオでよく聴き、覚えている(確か、今も、「クラシック・バスカーズ」と改名して活動しているような記憶。)。その雰囲気も懐かしく思い出す。

 長谷川陽子チェロ・リサイタル。ラフマニノフのソナタをメインに。歌、全開の楽曲。ピアノ協奏曲第2番に続く作品。そう言えば、チェロ・ソナタ、ベートーヴェン・ブラームス以外の有名どころはロマン派では特に思いつかないし、チェリストに愛奏されてしかるべきものだと感じ入る。
 ロシア作品による演奏会のようで、その他、「剣の舞」や「3つのオレンジへの恋」の行進曲なども聴く。乾いた音色でガツガツと。しかし、どうも、チェロのキャラクターではしっくり来ないようでもある。特に後者は、生でトランペット編曲版を聴いたばかり、差は歴然か。「剣」も、イマイチな雰囲気。編曲は有名なウェッバー(ミュージカル「Cats」)だったようだ。

 ウィーン・トロンボーン四重奏団。ウィーンからやってきただけあって、この編成ながら、ジャズ、ポップス系はなし。気楽なところでは、ヨハン・シュトラウスもの。その他は意外な感じで、シューマンのピアノ・ソナタ、ベートーヴェンの弦楽四重奏などを編曲してやっていた。特に感銘深かったのは、ブラームスのピアノ五重奏曲の第3楽章。6/8拍子で、裏拍の強調も多いものなので、この編成だと、作品に隠れたジャズ的フィーリングも感じられ、ブラームスとジャズのギャップを楽しむ。ちなみに、ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタにも、ストラヴィンスキーが「ブギウギ」と形容した、ジャズ風なリズムがでてくるが、これもまたこの編成に似つかわしいのではなかろうかとふと思い出す。

 フォルクハイト・シュトイデ弦楽四重奏団なる若手で、オーソドックスに。ハイドンの「ひばり」、シューベルトの「ロザムンデ」。
 「ひばり」は、小学校の頃購入し愛聴していた、NHK名曲アルバムのカセットのなかの唯一の弦楽四重奏作品で、耳にこびりついている。第1楽章冒頭主題の美しさな比類なし。第1楽章以外は知らなかったが、フィナーレの無窮動な感じも楽しい。
 この夏、蓼科で聴いたシューベルトの弦楽五重奏曲に感銘を受け、後期シューベルトの室内楽作品に興味も高く、一度ちゃんときいてみよう、と。第2楽章は、有名な「ロザムンデ」間奏曲の主題でおなじみ。それ以外は期待したほどでは無かったのだが、気になった点として・・・
 第1楽章。主題の展開に心くだく作曲家の姿が全面に出てる感じ。ちょっとくどいな。ベートーヴェンへの意識か・・・シューベルトの弦楽四重奏は、大半が自分たちで楽しむ程度のノリ、だが、この「ロザムンデ」から、出版や他者による演奏を意識した作品となったようで、気負いが十分ということか。第3楽章メヌエット。旋律美に欠ける地味でウラ淋しい雰囲気がなぜか心に残る。主部の最後で、どう聴いてもブラームス、みたいな雰囲気の場面がある。第4楽章は、奇数楽章の暗さを払拭しきれない、明るく穏やかな舞曲風な気楽な雰囲気。リズムが、ブルックナーの「ロマンティック」のフィナーレの第2主題で出てくるものと一緒。おい、また「ロマンティック」か。弦楽五重奏のときのそうだったが、晩年シューベルト作品には、ブルックナーのモチーフがかなり頻出しているようで・・・・影響受け過ぎ。

(2004.9.11 Ms)

 今夏の八ヶ岳でのコンサート、シューベルト弦楽五重奏曲を通じて、彼の晩年の作品に興味を惹かれ、いろいろ聴こうとBSで待ち構えるなか、田部京子氏で、ピアノ・ソナタ「幻想」を聴く。第1楽章の美感は、この世を超越せんばかり。あい変わらず長い、のだけれど。さらに、冒頭の緩やかな主題自体に、どうも「第九」が偲び込んでいるようでもある。和声の趣味は、もうシューマンにかなり近づいている。シューマンといえば、フィナーレの軽やかな雰囲気は、「春」と共通性があろう。それにしても、はかなさを持った綺麗な音楽だ、こんな音楽がまだまだ未聴のままだったとは、私も甘いもんだ。青いもんだ。もっともっと、美感あふれる音楽、新たに聴きたいもの。
 ちなみに、シューベルトの最後の弦楽四重奏曲もCDを入手したのだが、マーラーの6番の「悲劇の動機」の背後に流れる、長調と短調の主和音連結がいきなり冒頭に置かれてて驚愕・・・・もう時代の先を行き過ぎているよ・・・・さらに弦楽四重奏なのに刻みを多用して、ブルックナーそのものといった音響。
 このシーズンの、クレーメルの来日で、このシューベルトの15番の四重奏を、弦楽オケで取り上げる。私は行けそうもないが、是非、後期ロマン派に心酔している御仁は、聴くべきだろう。その瞬間から、シューベルトを神として奉ることになろう・・・・。ホントです。この作品(まあ、第1楽章が飛び抜けているのだが)聴かずして、ブルックナーもマーラーも語れる資格はなさそうだ、とまで衝撃を受けたので、知らなかったら是非とも体験してみてくださいね。シューベルトの晩年作品あってこそのロマン派、なんだよなあ・・・つくづく。「未完成」「グレート」だけではお寒い限り。オケ・オンリーの偏狭さは恥ずべし・・・。

(2004.10.17 Ms)

 バッハの無伴奏チェロ組曲に凝ってしまっている。ただ、まだ、曲ごとに旋律がしっかり頭に入ってないけれど・・・・6曲からなる組曲が6シリーズ、CD2枚組み、計36の音楽。
 そもそもは、この夏(7/17)の作手村での、デュオ・モリタの森田満留さんの、6番の演奏が素晴らしかったため。その演奏を追う形でいろいろなCDを収集するも、その時の感激を追体験させる演奏には今のところ出会っていない・・・・。前奏曲の、攻めの推進力、あの時の、尖った鋭角性、開放弦の豊穣な響きを多用したスケールの大きさ、あの体験は忘れられない。
 歴史的名盤と言われるカザルスのもの。まさにこの曲集を発掘、コンサート・プログラムへの道を開いたパイオニアの1930年代の録音。確かに、時代ゆえの技術的な甘さは感じられないではないが、一つの模範的・理想的演奏であろう。
 古楽器を使った、ビルスマのもの。半音低いのがどうも気持ち悪いが仕方ない。演奏自体は、とにかくサクサク速く。妙なロマン的味つけ、テンポの揺れとか、強弱の頻繁で極端な差とか、そういった小細工なしのストレートさは爽快。
 逆に、かなりユニークな、不必要なまでに厚化粧な(、と思わせる)、シャフランのもの。ビルスマと見事に対照的。ロマン的。独特な解釈の宝庫。聴いてのお楽しみ。
 3種も入手してしまった。シャフランに至っては、ロシアということもあり、ショスタコーヴィチ本人との共演による彼のチェロ・ソナタ、さらに、シャフラン編による、ヴィオラ・ソナタの編曲などの存在もあって、タワーレコードの、韓国レーベル、イェダンの10枚組みBoxまで入手・・・1枚300円強という特価ではある。とにかくこの夏以来、チェロづくしなんである。まあ、某人の影響といえばそうなのだが、自分の未知なる世界がまだまだ広く存在し、その未知の世界の中に、感動を呼び起こす数々の宝が山のようにそびえ私を待っている。今の私に対して、前を見つめ、前へ進む力を与えてくれる。

 さて、毎週1度のこの項の恒例が、BS番組紹介となってきているが、その無伴奏、鈴木秀美氏で2日に分けて全曲を。ただし、5,6番は時間の都合で抜粋。それがまず残念。後半の作品こそ、超絶技巧も高みへ。スリリングな演奏が期待できるのになあ。さて、古楽器での演奏。ビジュアルで見ると、現代奏法との違いが興味深く、また、難しさもよくわかる。それにしても、その技術的困難さを克服しての、チェロ1本とは思えぬ変幻自在な多用な世界の表出、バッハさらに鈴木氏に敬服しきり。これほどの音楽が、楽器のために用意されているチェロ、うらやましいですね。

(2004.10.24 Ms)

 木曽音楽祭。4日に渡ってBS放映。今年の8月末、長野県の木曽福島にて。30回という長い歴史を誇る室内楽の音楽祭。
 ドヴォルザーク記念年にちなんでか、弦楽セレナーデ、管楽セレナーデ、ピアノ五重奏曲など。その他、弦管交えて様々な作品を。
 面白かったのは、R.シュトラウス「ティル」の室内楽版。Vn.CB.二人の弦、と、Cl.Fg.Hr.3人の管という五重奏。あの大オーケストラ作品のニュアンスは十分伝わる編曲。特に、Vn.の小林美恵さんの活躍が光る。もちろん、N響の管の実力者たちも素晴らしかったが、それは折込済みみたいなもの、まさか、この曲でVn.をここまで魅せてくれたとはという驚き。
 あと、ドヴォの管セレ、第3楽章が面白い。7番の交響曲の第2楽章を思わせる素朴な田園風景、しかし、ホルンの伴奏がなんだか、ジャズ・ポップス風に最初聞こえ、おまけに拍子感も狂わされ、なかなか拍子が理解できず。単純な2拍子なのに、やられた、という感じだ。

(2004.11.6 Ms)

 BSのクラシック番組から。いろいろヴィデオも溜まって観るのも大変。興味の幅が広がって、今は貪欲に様々に。
 まずは、変わったところで、河口湖音楽祭、シエナ・ウィンド佐渡裕の指揮。久しぶりの吹奏楽、なのだが、ここで取り上げるのは純然たる吹奏楽ではなく、何よりも、ボディ・パーカッションの名曲、シンスタインの「Rock Trap」が嬉しい。岡田知之打楽器合奏団や、アンサンブル金沢などで、TVでも見る機会も多かったこの作品、実は私も、某結婚式の余興で演奏したりしているが、やはりプロは役者だなあ。アクションも決まってるし、何しろ笑いを取れる余裕が。とにかく楽しい一品。口じゃ、いや活字じゃ説明できず。見る機会があったら是非ともご覧下さい。としか言えないな。

 ウィーン・フィルハーモニア・ピアノ五重奏団。シューベルトの作品。でも「ます」は聞かず、ピアノ三重奏曲変ロ長調D.898より第1,4楽章のみ。後期のシューベルト、最近、注意して聞く機会あれば逃さぬよう聴いているが、この曲は、後のブルックナー、マーラーを思わせるものはなく、ひたすらモーツァルト風な古典的な趣向を感じさせ、ちょっと残念。ただ、全曲聴いたわけじゃないので確定的なことも言えないか。

 シューベルトつながりで、ロンドン・ピアノ・デュオの演奏。2台ピアノによるソナタD.617。これは、転調の面白さが心地よい。枠としては、まだ古典派ながらも、自由さを感じる。また、ピアノ3重奏に比べ、二人の奏者が絡み合うさまが緻密だ。ピアノ連弾の大家たる面目躍如か。しっくりきていた。
 また、シューベルトとは無関係だが、2台ピアノの演奏は、2人の奏者が向かい合うスタイルで2台を並べて配置するが、いっそのことその形でピアノを合体させた楽器をつくってしまったものがロンドンにあるらしい。長方形のピアノを両端の鍵盤を前に2人で演奏している写真なども紹介され興味深い。

 パノハ弦楽四重奏団。チェコの名曲2作品。スメタナの弦楽四重奏曲第1番「我が生涯より」、ヤナーチェクの弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」。
 スメタナは、情熱的だ。ヴィオラの主導権が強いのも特徴か。2楽章の楽しい民族舞踊、そして3楽章の情熱的なロマンス。それを受けて、作曲家としての成功を突き進む明るく快活なフィナーレが、突如Vn.の超高音のロングトーンで遮られ、力なく主題再現があって寂しげに終わってゆくのが深く心に刻まれる。耳の病気による作曲家としての諦念、辛いものあり。
 ヤナーチェクは、いかにも彼らしい(「シンフォニエッタ」も思わせる)、細かな動機の積み重ね、どんどん変わってゆく楽想の変化といった特徴が作品全体を貫く。600通を超える、30歳以上年下の女性への手紙との関連のあるこの作品、最晩年なのに、とにかくテンションがずっと高くて聴くだけでも疲労度強し。楽章間の性格の変化はあまりないし。それにしても、この複雑さ、混乱を見事まとめあげている演奏のレベルの高さは特筆すべし。

 最後に、これまたチェコつながりで、イッサーリスのチェロ、マルティヌーのチェロ・ソナタ第3番。1番が大変に感銘深く、3番も期待して聴いた。この作品は、緊張感、悲愴味よりは、明るさに満ち性格は違うものの、メカニックなリズム、近代的な和声感覚など共通性もあり面白く聞けた。
 その他、ブラームスのソナタ1番。ドヴォルザークの小品。マルティヌーの面白さと比べると・・・・。

 (2004.11.21 Ms)

 10月末、N響アワーの枠で、「思い出の名演奏」。1990年のライヴ、Vn.のイヴリー・ギトリスバッハの無伴奏、パルティータ2番の有名な「シャコンヌ」、ソナタ3番の「フーガ」。さらにバルトークの無伴奏ソナタ。かなり個性的。虚飾を排した、という感じ。情感豊かというタイプではなく、研ぎ澄まされ過ぎ、か。特にバッハの「シャコンヌ」でそう思う。バルトークはそういうスタンスで良いのだろうが・・・ただ、生で聴いた、2002年、N響、ブロムシュテットのシベリウスのVn.協奏曲のアンコールでテツラフの演奏したバルトークに比較して、音程がやや明瞭ならず、訳わからない度数が高かったなあ。バッハの「フーガ」は主題が「ロンドン橋」を思わせて楽しい。単純な主題が、(ソロでありながらも)壮大なフーガという構築物を作りあげてゆくさまは壮観だ。バッハ無伴奏チェロへの愛好も先日書いたところながら、そろそろ無伴奏Vn.も全体像をつかんでよい頃かな。CDをぼちぼち探そうか、というきっかけを与えてくれたギトリス翁に感謝。 

(2004.11.30 Ms)

 バッハの無伴奏チェロへの傾倒について10月に書いたところだが、先のギトリスに啓発されて、無伴奏ヴァイオリンも、この際、勢いにのってCD購入。いいCDをずっと探してはいた。地元で聴いた上里はな子さんのリサイタルでの1番のソナタの「フーガ」に触発されて以来(聴くたびにショスタコの交響曲第5番第3楽章の主題の引用元としか思えなくなり、その真意に思いを馳せるのが私の人生中盤の主題となろう)、気にしていたが、なかなかこれというCDに絞りきれず、でも、じつは家の近くの古本屋で、何と609円にて、ウート・ウーギの2枚組を発見、ネット上でも評判は悪くないと見て、あまりの破格価格ということもあり入手。これが、また、美音。格調高く素晴らしい。惚れ惚れする名演だ。CD解説書にはウーギと読めるサインも書かれ、この真偽は???

 Vn.ネタが続いて、NHK芸術劇場にて、レーピンのリサイタル。ペルトの「フラトレス」、フランクの「ソナタ」を前半に、後半には、シェーンベルクとシューベルトの「幻想曲」を配するという意欲的なプログラム。
 レーピンのテクニックは超人的で、ショスタコの協奏曲第1番のCD演奏などオイストラフと並ぶ名盤と信じて疑わないのだが、今回のプログラムから、いわゆる超絶技巧的な、ショーめいた華麗さは必ずしも明瞭に浮かびあがらず(確かに「フランク」などは、和音も少なく単音で歌う旋律勝負のうような作風だし)、やや選曲に対する物足りなさはあった・・・・ただ、その物足りなさは、4曲に及ぶ気の効いたアンコールでしっかりサービスしてくれて、チャイコの「ワルツ・スケルツォ」、バルトーク「ルーマニア民俗舞曲」(何と全曲)、そして駄目押しは、パガニーニの「ベニスの謝肉祭」の舌を巻くほどの変奏・・・・とにかく芸達者、楽しませてくれた。
 といってプログラム本体が不満というわけはない。フランクなども、力を感じさせる、熱い演奏で充実したもの。また、ピアノのルガンスキーも、ただの伴奏ピアノを超越したものでレーピンと対等なアンサンブルを繰り広げ満足。ソロならぬ、デュオ・リサイタル、これぞ室内楽の醍醐味を味わう。
 さて、やはり、最近気にしているシューベルト晩年。今回の「幻想曲」D.934もなかなか美しく面白い作品。30分弱、休みなく連続で、さまざまな楽想がやや無秩序にでてくる構成。モーツァルトのピアノ・ソロのハ短調「幻想曲」などと同じような構成感か。
 ピアノの弱奏のトレモロからVn.の息の長い旋律が紡ぎ出される冒頭などあい変わらず、ブルックナーの予告だ。長調と短調をあいまいにさまよう様もシューベルト晩年らしい雰囲気か。続く、当時のハンガリー風と思われる舞踊性に富む部分はやや古典的。そして、さすがシューベルト、というべき転調の美しさをもつ歌謡性に富む部分は、もうこの世のものとは思えない美感。しかし、これが、パガニーニほどではないものの技巧的な変奏を延々繰り返すに至り、ああ、冗長なるシューベルトが顔をのぞかせる。この展開でなければかなりいい線いく曲なのに、惜しい。しかし、この主題そのものの素晴らしさは否定できない。冒頭の回帰のあと、元気の良い、いかにもハ長調という性格のフィナーレ風楽想となる。そのなかでも、美しい歌謡性部分は循環し、構成への配慮はあり。技巧的なパッセージも交えつつ、かなり面白い転調も耳をとらえつつ、華麗に終結。決して悪くはない。いわゆるシューマンら前期ロマン派的な「幻想」性よりは、幾分古典的な味わいもあって、「幻想」というよりは、個人的にはせいぜい「即興」性を感じるのだが、ロマン派への種はしっかりと蒔かれた魅力ある一品とみた。今後も、特にシューベルト、D番号900台は注目したいもの。

(2004.12.5 Ms)

 

 


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