たぶん、だぶん(多分、駄文)

記事の更新は不定期となるでしょう。たぶん。

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 このコーナーは、Msの独り言を書き綴ろう、という空虚なコーナーです。
 日頃思う事、時事ネタ、そしてもちろん音楽ネタその他もろもろについて書こうと思います。HP本編のネタの素材なども、予めこの場で紹介するかもしれません。その素材が、正式な記事として完成するかは???思いつくまま、勝手に書かせていただきます。

 ただし、新世紀の「たぶん、だぶん」どうぞご期待下さい、などとはとても言えない。
 昨年の駄文以上のさらなる駄文を書くだけになりそうだ。自分ひとりだけが書きこめる掲示板みたいなものか?たまったら消していきますので、どうぞお見逃しなきよう・・・。ちなみに、ここのコーナーの記事については、更新履歴には今後載せないこととします。


 2003年6月以降、仕事の多忙とパソコンのトラブルが重なり、期せずして我がHPも長期夏期休暇・・・(いや、夏季はとっくに過ぎ去った)、ヴァカンス・モードになってしまった(ヴァカンスが、ヴァンスカに見え始めたら、あなたもりっぱな北欧通)。
 2003年後半のコンサート・メモは、とりあえず「トピックス」に振りわけたので、結局、年後半の「だぶん」は、なし、ということに。淋しいですが、これも自分の怠惰のせいです。貴重な体験の記録が残らなかったのが、何よりも自分にとっての損失、です。ここに書き残さないと、ドンドン忘却の彼方へ・・・・。体験、感動、感想、妄想・・・気がついた瞬間に書きとめたいもの。

(2004.4.12 Ms)


 TVでの名演鑑賞。ピアノ、NHK芸術劇場(6/1)にて、エレーヌ・グリモー。ブラームスのラプソディや、ラフマニノフの音の絵など。堂々たる迫力と、スピーディな運動能力、惹きつけられた。女性とは思えぬ貫禄。
 同じく、芸術劇場の特集のコーナーでは、5〜6月に来日した、エストニアの女性指揮者アヌ・タリ。東京フィルの演奏。エストニアの音楽の紹介。日本初演のエッレル交響詩「夜明け」を中心に触れていたが、一瞬流れた、トルミス序曲第2番。これが、攻撃的な緊張感を持ったもので興味を持つ。日本では合唱曲はそこそこ知られているようだ。あと、これもまた一瞬ではあったが、彼女が祖国で演奏した映像、やはりお国モノのトゥービンの交響曲第5番を演奏しつつ、その時代背景である第2次大戦下のエストニアの映像を流していたというコンサートの模様。衝撃的であった。アヌ・タリへの関心、さらには、トゥービン、ペルト以外のエストニア作曲家の作品への興味、音楽の知的好奇心は尽きることなし。
 さらに、同じ5〜6月に来日の、ビシュコフ指揮のケルン放響ショスタコの「レニングラード」を堪能。今回のプログラムは他にも、マーラーの3番なども含まれ、海外公演とは思えないほどに大規模な作品が並ぶ。ビシュコフといえば、15年近く前のベルリン・フィルとのショスタコの11番のCDの思い出だ。当時まだ西側(!)の演奏のよるショスタコがあまりない時代、演奏の凄さ(第2楽章の虐殺シーンの暴力的なこと!)に感銘を受け、しかし、その後私にとっては音信不通的に活躍が情報として入らなくなっていた彼が、ショスタコをひっさげ日本公演を行ったのだ。懐かしさと期待で胸ふくらむところ。「レニングラード」といえば、昨年、ゲルギエフが、キーロフ&N響の合同演奏の生を聴いたところ。演奏は違うがCDも発売、おおいに話題となった。ゲルギエフは、鈍重な、といおうか、ずっしりした不動の存在感、重量感を感じさせる演奏だが、ビシュコフは、軽いとは言わないまでも、推進力を重んじた、勢いある演奏。やや金管が全体的におとなしい点は気になったが(ただフィナーレの最後では充分に鳴らして、曲全体の解決感という点では十分納得だ。バンダは、第1楽章主題の回帰で全員起立。そんな視覚的効果も心憎い。)、全体の統率という点では素晴らしい。また、かつての11番のCD演奏を彷彿とさせる、楽譜に無い、クライマックスでの突然の加速などもインパクトあり、また、私のCDによる11番体験ともあいまってニヤリとしてしまうと同時に、その効果に興奮のツボを見事に刺激。個人的には、ゲルギエフの、楽譜にない減速よりは随分しっくり来るのだが。
 来日オケをもう一つ。BSフジで珍しくクラシック番組。ミッコ・フランコ指揮のベルギー国立管。1〜2月の来日だったはず。メインの幻想交響曲があまり印象なし。ただ、プロコのVn協奏曲no.1は凄い。ソリストが。ジョセフォウィッツなる若い女性奏者。これがとても荒々しい演奏。第2楽章はTVにかぶりつくほどの状態。楽器が壊れる寸前といった感じ。音色は犠牲にしてでも、音量と打撃的なニュアンスを前面に出したかったのだろう。技術的にも凄さを見せつけていた。・・・若い女性がソロで出てくると、どうもロマン派でお嬢様っぽく、いかにも昔ながらの貴族的なクラシック音楽のイメージが浮かぶが、いい意味でそんな固定観念を払拭させてくれて私は嬉しい。それにしても、プロコもそうだが、特にショスタコなど、Vn協奏曲が完全にコンサート用の演目として定着した感を強くもつ昨今だ。昨年の、N響のベスト演奏会も、庄司紗矢香さんのショスタコだったわけだし。いい時代になったもの。

(2003.6月頃 Ms)


 BSから、ヨーロッパ室内管弦楽団20周年コンサート。アバド指揮、アンネ・ソフィー・フォン・オッターを迎えてのシューベルト歌曲を。ブリテン、ブラームス、ベルリオーズ、レーガーといった作曲家たちのよる管弦楽伴奏ということでの関心あり。
 まず、編曲作品に先立ち、シューベルトの原曲で、「ロザムンデ」からのロマンス。木管楽器による素朴な長調の前奏に続いて、いきなり同主短調で歌が出て来て驚き。この唐突さは、マーラーの6,7番の和声感覚ではないか。ほとんど管楽器のみで伴奏される雰囲気も、古典派というより、ロマン派、それも、やっぱりマーラーの歌曲の雰囲気に通ずる。あなどれんな。ロザムンデといえども・・・・そう言えば、序曲以外の劇音楽も、小松一彦氏の指揮、セントラル愛知の定演で5年前に聴いたけれど(その頃は定期会員で1年間通いましたっけ)、妙な転調も多くて、予想外に古典ばなれした感覚で驚いたもの。
 ブリテン編曲による「ます」。ピアノ五重奏曲の第4楽章の主題としても有名。どうも、あのサウンドで耳にこびり付いていて(小学校の掃除の時間にかかってて)、ピアノの軽やかな伴奏でないとしっくり来ないものはあったが、終始、クラリネットが、その6連符を担当し、道化役のクラによる滑稽な雰囲気は、歌詞に相応しいものとも感じられる。魚が主人公ということで、マーラーの2番の第3楽章の雰囲気を思い出したりもする。
 ブラームス編曲による「エレンの歌第2」。原曲は未知。終始、ほとんど、ホルン合奏による伴奏。ウェーバーの「魔弾」の狩人の合唱みたい、と当初思ったが、延々そんな調子で、だんだん感覚も麻痺して、ワーグナー・チューバ合奏によるブルックナー作品にしか聞こえなくなってしまう。普段見られないブラームスの姿を垣間見たか・・・・おれも鬱蒼たる森の国に住んでるんだ、と。大先輩シューベルトの歌曲を借りて、ワーグナー派っぽいオーケストレーションもお試しのようだ。
 レーガー編曲が多く演奏されたが、その中でも、「糸を紡ぐグレートヒェン」、オペラのアリア、それも、ヴェルディあたりの、えらく大袈裟な、訴えかけるような・・・ドラマティックさ。シューベルト、最晩年、「歌曲はやめて、交響曲と歌劇に専念!」との宣言が達成されぬままの死は惜しかった。オペラ作家としても名を成せたかも。同様に、「タルタロスの群れ」、リストっぽい半音階やら、無限旋律のようでさえある不安な転調の連続・・・なかなかの作品じゃないか。レーガーの編曲もさることながら、シューベルトの作品そのものに敬意を表しましょう。
 べルリオーズ編曲による「魔王」。これは凄い。冒頭から、Gの弦の強烈な刻み・・・・マーラー「復活」だよ、これは・・・・イントロクイズの引っ掛けに最適なネタではある。ただ、刻みがピアノ伴奏同様3連符指定で、「復活」冒頭よりは、粒が粗い・・・ので、一度知ってしまえば、引っかかりはしないでしょう。魔王と子供と父親の歌い分けをしっかり鑑賞しましょう!と、中学の音楽の時間で言われましたが、これ、ベルリオーズの豊かな管弦楽伴奏のほうが、より分り易いな。トランペットとティンパニの効果が素晴らしい。なだめすかす、魔王の甘い誘いから一転、怖いよー、と叫ぶ子供の心理にイヤがおうでも引きずり込まれる。見入って、聴きいってしまった。もちろん、オッターの素晴らしい歌唱力あってのことだが。楽しい一時だった。しかし、このMs、ロシア&北欧専科だったはずが、とうとうシューベルトの歌曲にまで手を伸ばしたか・・・・と感慨にひたりつつ、この背後に流れているのは、休日出勤の帰りに中古レコード屋で入手した、200円弱の、ハチャトリアン自作自演(ロンドン響)の「ガイーヌ」「スパルタクス」だったりして、そのあたり不変であり、個人的には普遍か。ただ、自作自演のくせして楽譜どおりやってないんだなー。「レズギンカ」の最後の壮大さ、とか、「剣の舞い」のドタバタぶりとか、笑いの寸前か。ハチャさんの生誕100年ネタ、今後も取り上げてゆこう。

(2003.5.19&26 Ms)


 ピアノ小品への興味、続編。ドビュッシーの感性が20世紀の新たな和声感を切り開いたと言えるのだろうが、そのインパクト、きっとシベリウスにも、と感じさせる、美しい小品の数々に出会う。GW中の大垣行きの途中、名古屋の芸術文化センター、アートライブラリーにて、CD、楽譜の探索。特に、中期、作品34の「バガテル」、作品58の小品集が秀逸。特に前者、第8曲の「ハープ弾き」は心にジーンと来た。心の琴線に触れる体験(大オーケストラの迫力とかは別として)、近年にないもの。美しい和声、そしてはかなさ、これ以上単純には出来ないほどに、簡素に、さりげなく書かれた作品ながら、こころに迫るこの感動は例えようもなく。交響詩「吟遊詩人」の下書き、スケッチとも言えそうなムードも良い。こんな経験、まだまだしたい。シベリウスのピアノ作品の森もまた、私を呼んでいる。作品58からは、交響曲第2番第1楽章展開部の発想をピアノに移したような、でも、ドラえもんの「♪あったまてっかてーか」という歌のモチーフが滑稽な第6曲「対話」、さらに交響曲第7番のスケルツオ主題と同じ節回しが微笑ましい第4曲「羊飼い」など興味深い作品も見つけて嬉しい。
 さて、さらに北欧モノでは基本中の基本、「ペールギュント」、組曲ではなく、劇音楽版で楽しい思いをさせていただいている。北欧音楽の大御所ブロムシュテットの名盤、サンフランシスコ時代の録音を中古で入手。小太鼓や木琴が活躍する「山の魔王の娘たちの踊り」(木琴のグリッサンドって、「火の鳥」のカスチェイの魔の踊りが最初かと思いきや、まさか、グリーグが先にやってたとは・・・・)、さらに悪魔たちがペールを攻撃する際の、銅鑼の響きも驚き、さらに、「禿山の一夜」のような、教会の鐘で悪魔が退散する趣向など、興味は尽きない。同じく通俗組曲「アルルの女」も、元の劇音楽版と壮絶に違う音楽を我々に提供していて驚愕してしまうが(他者による編曲である第2組曲など、ビゼーが聞いたら「ふざけんじゃねー」だろうね。)、こちらの「ペール」も、グリーグの作品中他で見られないような革新性を見逃させている面で、組曲ばかりが有名なのはちょいと残念。せめて、「白鳥の湖」並に、組曲以外の抜粋、という形ももっと聴かれていいはず。
 新譜情報としては、やってくれます。ヴァンスカ・ラハティ響。シベリウス、未出版作品。「大洋の女神」「春の歌」「カッサツィオーネ」の異稿含む、世界初録音ずくめ。とにかく、聴いていただくしかない。晩年の「ロマンティックな小品」など、あまりに美しい。異稿は、やはり現行版より劣るものだが、部分的には、以外といい部分もあったり。一方、愛国的な行進曲の編曲はやや珍品。管打楽器が、軍楽隊的に派手に行進曲してる背後でずっと弦楽器が、「ポヒョラの娘」の一節を思わせる機械的音型を継続、いかにもシベリウスしてるが、一般受けしなかったのもわかるような。興味尽きぬ1枚。意外と、交響曲あたりのシベリウスを敬遠する人々にオススメか・・・・もちろん、ピアノ曲の森もそうだけど。

 BSからは、昨年の、徳永兼一郎追悼コンサート再放送。ブラームスの弦楽六重奏曲第1番につられれて。第2,4楽章のみだが。つい先日、大垣で、生で熱い演奏を聴いてきたばかり、TVではやはり伝わらないなあ、と多いに感じた。演奏自体も、まろやかなムードで、大垣での鋭角的な激情はあまり前面には出てこなかった。さらに、徳永ニ男氏、明るい音色は感じられるが、ヴィブラートの雰囲気が、私の思うところと違うんだなあ。光線のように感じてしまう。自然に受容できないヴィブラートと感じる。
 ヴィブラートと言えば、今年1月の、長久手での今村氏コンサートで、弦の先生が、最終的に音楽に命を吹き込むヴィブラート、などと説明され、適当に聞き流してしまっていたが(ノン・ヴィブラートによる「G線上のアリア」の方が、曲の雰囲気により相応しい、と私は感じてしまったため・・・)、今回の、ブラームス聴き比べ(生演奏とTVではあるが)で、ヴィブラートが音楽の印象を大きく左右する、と如実に感じる事多大。
 そこで、ふと感じるのは、この人間的、動物的な、ファジーな、ヴィブラートなる音の不安定性、揺らぎこそが、音楽の奥行きを深くしているんだろうなー・・・・確かに、先日新聞広告で出ていた、未販売音源を含むYMOベスト盤発売、など見るにつけても、学生時代のファンとして、これは買わねば、と思う一方、シンセのあのYMOの世界は、音楽的には今の話とは異空間の隔たりだと思うもの。そして、我が、打楽器の世界もしかり。唯一揺らぐ楽器、ヴィブラフォンのヴィブラートはやはり、機械の動きであって人間的なものではあるまい。でも、ヴィブラートと無縁なピアノも、はたまたオルゴールもまた、癒しの音楽としても、ヒトの脳を揺るがせているよなあ。打楽器だけでも、オルゴールよりは音楽的な音楽ができないものか?(夏の信州、オルゴールの博物館、結構人も入って盛況だったっけ。オルゴールには負けられんな。)
 YMO的な打ち込み型な打楽器ではない、打楽器の自己主張、これが私の今の関心ごとになりつつある。・・・でもYMOの機械的ビートも大好きで・・・吉松隆氏曰く、カエルの電気ショック的運動たる音楽もまたヒトを快楽へと導くし、ディスコなんてのも何度となく行ってたし・・・・。

(2003.5.13 Ms)


 世の中、いつの間にやらゴールデンウィークらしい。ただ、特大連休、という訳でもなし、テンションは低そうなGW。
 さて、当方、はたまた仕事の内容も変わって、慌しく過ごしているところ。とにかく、休みが待ち遠しく・・・・そんな疲れているんか・・・という訳でなく、休日の間に、平日にこなせなかった仕事を片付け、新たな仕事の勉強も。休日に仕事しなきゃ、大パニックが待ち受けている、てな具合で、音楽も縁遠く・・・・といかないのが私のしぶといところ。
 ピアノ小品に凝っています。この冬、上京を捉えてCD大量購入。そんな中、ドビュッシーとバルトークのピアノ曲が愛聴版。とにかく、交響曲とか、落ちついて聴く状況になく、数分の曲を、薬のように服用。これで、意外と自分の音楽の対する渇きは癒されるもの。
 ドビュッシーなら、前奏曲集。有名な「亜麻色の髪の乙女」を含む彼の代表的ピアノ曲だが、全貌はよく知らなかった。第1巻の中でも、「沈める寺」などは、私が大学時代、某音楽学校に入門し、楽理専攻の先生に、(自分では近代フランス風と勘違いしていた自作に対し、勉強を進める意味で)不協和音の美しい鳴らし方の模範として勉強、分析を勧められたものでなつかしいな。それは、ともかく、ざっと聴く中で、最も心惹かれたのは「帆(ヴェール)」。全音階の神秘的な実験作ともいえる作品。さらに、当時の通俗的な音楽をもじった「ミンストレル」など楽しく微笑ましい。
 バルトークは、ドビュッシーやストラビンスキーと時を同じくして、革新的な響きを初期から求めていたのが興味深い。「ペトルーシカ」を思わせる複調や、全く解読できない無調が、ストラビンスキー以前の初期の「14のバガテル」「7つのスケッチ」で見られる。初期バルトークの前衛性は、もっと知っていていいのでは。一方、民俗音楽からのピアノ曲への翻案なども現れ、それらの東洋的なムードも手伝い、シンパシーをとても強く感じる。後に管弦楽化された「ハンガリーの風景」に収められた、「村の夕暮れ」「熊の踊り」「ほろ酔い加減」「豚飼いの踊り」などの原曲ピアノ版もとても楽しめるが、それ以外にも、「3つのチーク地方の民謡sz35」(日本の民謡にも通じる即興的な節回し。哀しさと明るさの同居・・・ルーマニア民俗舞曲の第1曲に通ずる美的感覚。鼻歌でつい口ずさんでしまう毎日。)、「2つのルーマニア舞曲sz43」(伊福部昭作品のルーツが隠されていそうな、粗野な土俗的ムードがたまらなく好き。「ゴジラ」の劇伴にしても通用するような。)、「ソナチネsz55」(不思議な音の外し方が耳に残る。)などなど、個人的に大ヒット曲オンパレード、これらを知った喜びは格別。特筆すべきは、「9つの小品sz82」に収められた「タンブリンの踊り」。タンブリンの響きをピアノで表現した、まさに打楽器としてピアノを扱った、ノリノリな作品。打楽器奏者は必聴、聴くべし。
 とにかく、好きになれる音楽がワンサカ詰まっているCDでワクワクして少しずつ聴いている。この、ドビュッシー、バルトークのピアノ曲で試された響き、リズム等々、これが、20世紀の音楽の土台にかなり流入しているんではなかろうか。20世紀音楽を好んで聴く者にとって、これらの至宝、知らないのは、人生の損失、とすら考えてしまう。それぞれに、気に入った和声、旋律を探してみてはいかがでしょう・・・・(古典しか認めんという方には勧めませんが、そんな方はこのページは最初から見てないような・・・)

 TV音楽鑑賞からは、ギル・シャハムのVnリサイタル。とにかく、バッハの無伴奏パルティータの「シャコンヌ」の凄い事。緊張感、密度の濃さ。ブラームスの交響曲第4番の第4楽章のシャコンヌも凄いと思っていたが、あれを一人、それもVn1台のみでやってのけ、というのだから・・・・ブラームスが、バッハのパクリとすら思える。こんな音楽があるのか・・・・と改めてバッハの凄さを痛感。無伴奏ソナタの「フーガ」以来の感激。まだまだ私、無知ですね。今後も勉強させてもらいます。

 先日、昨年のニールセン交響曲第4番「不滅」の超名演を指揮した、山田和樹氏のタクトにて演奏、あの熱さ、と説得力に感服。音楽を生かすも殺すも、バラバラな個性の集合体であるオケにあって、タクトの重要性をすンごく体感した。詳細を書く時間は今ないけれど、とりあえずの速報で。(2003.4.29 Ms)


 毎日、イラク戦争のニュースばかりで、ゲンナリしてしまう。そんなニュースに埋もれて、私のもとにすぐに届かなかった知らせ。作曲家の訃報。石井真木氏、享年66歳。昨年の伊福部昭氏米寿コンサートの指揮など、活躍ぶりは聞いていたところ、突然の、早過ぎる死である。冥福をお祈りしたい。
 邦人作曲家と言えば、少年の私にとって、まず、芥川也寸志。そして、そのつながりで、伊福部そして、「3人の会」(団、芥川、黛)、が心を捉えた。しかし、その次の存在としては、訳のわからない、いわゆる現代音楽で、闇の世界(「ラプソディ」の外山は、例外だが)。高名な、武満などは、「オーケストラがやってきた」でも取り上げられた記憶はあるが、全く意味不明でしかなかった。そんな、少年時代の現代音楽の空白域を最初に埋めたのが、石井氏である。FMをやみくもに聞きまくった、高校の頃か。大オーケストラを駆使した、二つの作品「響層」そして「曙光」、これは、私を驚かせた。野蛮主義ストラビンスキーの延長にあるような、ダイナミックな、豪快な、燃え上がるような作品だったと記憶する。
 現代音楽といえば、武満のような「静」のイメージが強かったのだが、石井の「動」、これが、私に現代音楽も決して、わかりにくいものばかりではない、というまさに「曙光」を与えたと言えそうだ。現代音楽に対する、悪しき先入観をとっぱらってくれた石井作品、決して聞く機会に多く恵まれたわけではないが、何かしら私の心に存在し続けたことは確かである。
 最近の作品としても(10年近く前かもしれないが)、バレエ「輝夜姫」は、興味深くTVで見た、聴いた。ほとんど打楽器だけによる、アグレッシブなサウンドは、彼の面目躍如たるもので、期待を裏切らなかった。
 もっと、私自身知っていて良かった作曲家だろうし、さらに、もっと知られていて良かった存在であったと、改めて思う。少なくとも私の成長過程においては、重要な役割を担った、かけがえのない存在であったのだから。

 さて、最近のTV鑑賞から。まずは、NHK芸術劇場、庄司紗矢香のリサイタル。放映は随分前だけれど。ベートーヴェンの「クロイツェル」はフィナーレが最近お気に入り(鼻歌に適して、かつ、あのやや意表を突いた転調はヤミツキ)。ピアニストの好サポートにも恵まれ、スリリングな興奮度の高い演奏。選曲としても、プロコの1番のVnソナタ興味深く聴いた。あまり、楽天的ではないシリアスなムードが意外ではあった。それにしても、彼女も意欲的に取り組んでいて好感アップ。やや物足りなかったものの、N響との、ショスタコの協奏曲1番なども。積極的に、ソビエトものもやっていただきありがたい。ああいう存在の奏者が繰り返し演奏する事で、楽曲も浸透してくるし。そう言えば、ショスタコの協奏曲1番、今年、実演オンパレードで、驚き。20世紀のヴァイオリン協奏曲としては、ベルクや、シベリウスと並び、いや、凌駕するかの勢いで実演が増殖中か・・・・少なくとも、音楽史上、サン・サーンスの3番や、ラロのスペイン交響曲などよりはクローズアップされているだろう。
 続いて、先週放映のバレエ・ガラ・コンサート。チャイコの「眠り」、プロコの「ロメジュリ」「シンデレラ」に混じって、グラズノフの「ライモンダ」意外といいぞ。ボロディンあたりの、アジア風味もちらした、それでいて上品な逸品。大御所プリセツカヤの登場した、「牧神の午後」。ニジンスキーの耽美な、世紀末ムード漂う振りつけも興味深し。
 「題名のない音楽会」では、高木綾子。ソプラノ歌手や、ヴァイオリン奏者は比較的なじみの作品(「春の声」「チゴイネルワイゼン」)なのに、彼女はイベールの協奏曲・・・・さすがやってくれる(個人的には、もしやニールセンのフルート協奏曲?と期待したりもしたが・・・)。
 BSフジにて、ヤブロンスキーの、ピアノ・リサイタル。メインは、プロコの戦争ソナタ(7番)。フィナーレはやっぱりカッコイイ。7/8拍子の不安定な感覚でスピーディに押しまくっていやおうなく興奮。
 NHKBSでは、パリ管、ブーレーズの、バルトーク、「管弦楽のための協奏曲」。重さ、深刻さ、研ぎ澄まされたムードの皆無な、不思議な演奏。これがパリ管らしさであろうけれど。ラベルでも聞いているかのような、感覚的な、美しさは前面に出ていて面白い。汗,血は絶対流れ出ない、極端さやダイナミックな表現は遠ざけられている。1,2楽章は、驚きを持って聴いたが、段々物足りなさは増幅。ただ、オケのカラーがこれだけ出るのも凄い事ではある。

(2003.4.12 Ms)


 仕事に忙しい生活ながらも、幸い音楽に囲まれた日々ではある。ただ、膨大なインプット(入力)に追われて、なかなかアウトプット(出力)が出来ない。つまりは、制限された自由時間に新たな音楽との出会いが充実しながらも、このHPの更新は遅々たるもの。2月の、N響ニールセン体験ももっと感想から自分の思い、楽曲分析など取り組みたいながらも手につかないままだ。この、日本におけるニールセン受容史における最大のイヴェント月の思い出が風化する前に是非是非・・・・。
 未見のヴィデオもたまって困った。そんな中、BSで、ラトル、ベルリンフィルのマーラー5番には大感激。特に第1部の濃厚な表現にはグッと心をつかまれた。ぶっちゃけ、独身の頃ほどマーラー、聞きもしないし熱中もしない。万年青年のうわごとなど・・・・なんて感じたり、1時間以上も付き合えるほどヒマじゃない・・・・ということなのだが、久しぶりに再発見といった感じ。やはり、名曲たるもの、名演奏に恵まれれば必然的に熱狂してしまうわけだ。先日のN響アワーでの、スヴェトラーノフのマーラー7番フィナーレも(カット版で短かったからというわけでもないが)好印象だったし、旧友マーラーとの旧交を喜ぼうか、この春は。
 その他、BSからで、ショスタコーヴィチの歌曲集「風刺」が面白い。メゾソプラノによる歌唱。ショスタコの歌曲といえば断然バスのイメージなのだが、女声によるものもいい。歌、というより、訴え、か。何かしらの切実さ、がにじんでいる。聞き流すのではなく、耳を傾けざるを得ない力がある。これは、彼の音楽の本質的なものだろうが、再認識させられるものであった。
 アイヴズのピアノトリオ。こんな作品もあるんだ。不協和音の並ぶ聞きにくい曲ではあったが、第2楽章、スケルツオ的な楽想ではやはり、フォークソングの類が無秩序に引用。楽しい。久しぶりにこちらも眺めて見よう。読みなおしてみて、我ながら面白かった・・・・今、珍妙なアメリカ変奏曲を聞くのもまた一興か。
 名古屋フィルの1月定期でバルシャイが客演。深夜番組にて放映。全ては未見。弦楽四重奏曲第4番による室内交響曲は貴重だ。ただ、確か事前のビラでは、8番によるものだったはず。突然の曲変更か。また、名フィルの苦戦ぶりが印象的な番組づくり。うがった見方をすれば、バルシャイの団員に対する言葉が、アマオケに対するものにも聞こえないわけでもない。名古屋におけるクラシック界の出来事としてバルシャイの客演は、TV放映に値するだろうが、それ以上に果たしてどうだったのか?TVだけでの判断は差し控え。
 その名古屋フィル。来年度から若手の沼尻氏が常任に。その事前のお見合い的な定期演奏会が3/6。なんと、メシアンのトゥーランガリラ全曲。ピアノ、児玉桃。オンドマルトノ、ハラダタカシ。熱演であった。この作品も、ゲンダイ音楽から、もはや古典、クラシックの範疇になったかな。大曲ながら退屈しない。移調の制限された旋法、つまりは、調性感はしっかりと残っている。あと、オンドマルトノの音色の美しさ、さらにグリッサンド等の効果など、耳に残る。ハラダ氏の人気も客席の反応で感じられた。あと、第5楽章が、N響アワーのテーマになったのも曲のイメージupか。ただ、その第5楽章は、N響アワーでの演奏に比較して、ダサい。オケの音色に洗練されたものがない。金管のやや貧しい音色が、前面に聞こえて中高生にブラバン風な印象が真っ先に。あの、N響アワーの冒頭、淡いピンク系の画面とセットになったあの音楽の私のイメージとは別の音楽として聞こえてきた。比較対象があるとどうしても名フィルへの評価が落ちる。あの楽章以外はいい演奏だ、と素直に思えた。ただ、この曲で安心して音楽鑑賞に専念できたのは、指揮者の手腕としてもおおいに評価したい。愛知県民として沼尻氏歓迎である。最後に、プログラムに一言ツッコミ。あの、炎のコバケンが去るわけだが、コバケン常任のもと、名フィルとしては、プロブラミングとしては、何らの進展なく、沼尻氏のメシアンにおおいに期待云々、と書かれ、これは、かなり辛い(からい)な。ただ、私の体験も、彼がやって来た当時の、看板でもあるチャイ5はともかく、カップリングのショスタコのVn協奏曲no.1のアレグロ楽章を鑑賞不可能なくらいなスローテンポでやられて閉口。定番曲以外の「燃えない」演奏にがっかりした記憶あり、辛辣なコメントを素直に受け止めもした。でも、あの場であの手のコメントを読むというのは普通はないこととも思う。

 横浜情報の追加。詳細はこちら
 川崎市市民ミュージアムにて、企画展「ポスターのユートピア 〜ロシア構成主義のグラフィックデザイン〜」。これは面白かった。帝政時代末期から、スターリン体制確立までのポスターデザインのいろいろ。機械的な図案や、写真のコラージュなど。色彩感の明快な対比(赤と黒が多い)、印象派とは正反対に微妙な絵具の混ぜ具合、色調の変化とは無関係。・・・・そんな視覚的体験を重ねるうち、これこそ、ショスタコの音楽を生んだ土壌かも、と思う。初期の舞台音楽、交響曲など、この美術界の動向と無関係ではあるまい。逆に手法としては、かなり類似していないか。
 そんな思いを巡らしつつ、最後のポスターが、マヤコフスキーの劇「南京虫」のもの。文字だけが並ぶものでデザインとしてみるべきものも少ないが、ありました、「音楽、ショスタコーヴィチ」の活字。もっと劇、映画のポスターが沢山あれば、タコ関連のグッズも期待したが、1枚のみ。ただ、興味深かったのは、1932年、マヤコフスキーの著作本のなかの見開き2ページのデザイン画「恐ろしき笑い」。赤地に、黒の兵士たち5人が全く同じ大きさスタイルで、銃口を一方向に向けている。兵士たちが笑っているわけでもない。見る者は、銃口の向こうに、見えてはないが、「恐ろしき笑い」があるのではと想像する。笑え笑えと鞭打たれ、「それがお前たちの仕事だ」と。この1枚は、当然にショスタコの「証言」の交響曲第5番フィナーレに関する記述を思わせるものだ。ショスタコ・ファンならずとも、ショスタコの5番を選曲する演奏者の皆さんは必見、と思う。4/6までなのでお早めに。この企画展、ショスタコを語る上で絶対見逃せないと私は断言します。(広いスペースに、休日ながら客はまばらでしたのでゆったりと鑑賞できるはず。)

 横浜タワーレコードもお世話になっている。ショスタコ映画音楽CD、「ベルリン陥落」等の試聴も2月ダスビの帰りにお世話さま。今回は、ゲルギエフの新譜、没後50年のプロコフィエフ試聴。時間の都合で、スキタイ組曲の2曲目だけ。相変わらず重い。へえ、こういう演奏もありか、とは思う。しかし、プロコの6番の壮大な終わり方も楽譜から自由過ぎていかがかとかつて思ったが、今回も、変化球だな。N響キーロフ合同演奏会の、タコ7の第3楽章クライマックスでも感じたが、度を越してきてるかも。楽譜をいじる許容範囲も、聴衆それぞれ、曲によりけりだが、今回のスキタイは、私の許容外か。
 余談、横浜の夜は、「スカンディア」。デンマークそのものと言える、オープンサンドに感涙。コペンハーゲンで食べた、あの味が、横浜で・・・・今までランチを2回体験、ディナーは、オープンサンドを自由に選べて大正解。
 さらに、旅行の楽しみ、途中下車、静岡は、由比の、桜えびづくし。開花亭にて。これも素晴らしい。自然に恵まれた、駿河路、そして遠州路、もっと開拓したいもの。

(2003.3.22 Ms) 


 このところ、イベントの裏方をやったり、休日の事務所詰めなどで忙しく、このコーナーで取り上げるべき音楽ネタも少ない。
 2週ほど前は、我が市のお隣、御津町(これで「みと」ちょうと読むのは難読。壬申の乱の後、持統天皇(飛鳥時代の女帝)がはるばる東国への示威にやってきたので、上陸地を「高貴なる港」として名付けられたという由緒ある名だ。町内の字(あざ)名では「御馬」なんてのもある。船から馬に乗り換えたということか?ただ町名としては、全国的な市町村合併の荒波の中で消えていくかもしれない。)の農協にてのイベント。地元の和太鼓団体やら、ハリケンジャー・ショーの合間にお仕事。結構新鮮だったりして。
 1週前は、同じくお隣の音羽町(こちらは、東名高速のインターもあるし読めますか。「おとわ」)の農協にて・・・それにしても農協づいてて田舎加減がわかってしまうな。・・・1時間ずっと、「おさかな天国」を大音量で聞かされて参った。それにしても、いい名前だな、音羽。この語感、個人的には、メンデルスゾーンが聞こえそうじゃないですか・・・そう「歌の翼に」、名歌曲だ。私が町長なら、町歌は、これに決まり!!なんとスマートなセンスだろう・・・・ただ、こちらも近々消えていく町名かもしれない。少なくとも、町村の将来を否定するかのような悪名高き国の「西尾私案」なる合併構想によれば、人口1万人以下の町ということで、合併しなっかたら様々な自治権限が剥奪されうると聞く。
 ユニークでかけがえのない「ふるさと」、各地域で模索していると思うが、合併がその芽を摘みやしないか、この2週間ほどいろいろ飛び回って考えるところもある。
 さて、その、音羽町は、旧東海道、「赤坂の宿」を擁し、隣の宿場が、今も松並木の残る「御油の宿」。こちらは豊川市のなか。御油の近くが、律令制時代、三河の国の政庁があった国府(こう)の町。持統天皇も寄られたことでしょう。ある童謡作曲家の生誕地で、「童謡サミット」も控えているそうな。作曲家名はちょっと失念。「ないしょばなし」「かわいい魚やさん」などが有名。こんな「ふるさと」であるならば、たまには、「おさかな天国」じゃなく「かわいい魚やさん」を聞かされてもよさそうだ。皮肉ではなしに。ある一部のひとだけのための「童謡サミット」ではなしに、全住民あげてのイベントとして成功するかどうかは、こういった視点も必要なように思う。愛知万博もしかり。豊川市・音羽町の話に戻れば、「童謡」の町から、「音羽」町へ、という旧東海道の道、随分と音楽的なまちづくりも出来そうだ。「かわいい魚やさん」とメンデルスゾーンが同居する「歌の道」「歌街道」などいかがだろう。当地区にオーケストラなどできれば、メンデルスゾーンを冠して恐れ多くも「ゲヴァントハウス」を名乗ってしまえ????

 さて、その、本物のゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者である、ブロムシュテットの番組をNHKで見た。敬虔なキリスト教徒、禁欲的な生活(徹底した菜食主義)、律儀でまめな仕事ぶり、が伺えた。現在は、スイスに住み、仕事のないシーズンは、施設に入っている弱った妻を引き取り、家事をこなし、目一杯の世話をする。大指揮者で、こんな苦労、というのが衝撃でもあり感動である。番組中、昨年の来日演目、ブルックナー5番、シベリウス7番も紹介されていたが、本拠ライプツィヒでの定演におけるマーラー5番の紹介に多く割き、年老いた仲睦まじき夫婦の様子とマーラーのアダージェットとが、今までにないほどの感激を醸し出していた。
 
 さて、その、ブロムシュテッド、今月はN響定期で、毎回、ニールセンを取り上げる。既に、一昨日の定期、「ヘリオス」序曲を、FMで聴いたところ。相変わらず、颯爽たる、推進力をもった演奏だ。(個人的には、ロジェストベンスキーのCDで慣れているので、やや遅目が好みだけれど)
 続いて、交響曲第6番「センプリーチェ」(英語でいう「シンプル」だが、単純ではなしに素朴、という語感であろう)、そして、問題作「クラリネット協奏曲」、おおいに期待したいところです。ちなみに、我が生誕の地、豊川市、「センプリーチェ」なるイタリア系レストランもあり、早速、ニールセン伝道者による日本での演奏を祝し、冬休みに、腹一杯のランチを食してきました。さすがに、ニールセンはBGMではなかったけど。

(2003.2.8 Ms)


 今年もまたこの時期、休日出勤など増え、このHPに向かう時間も限られつつあるので、ネタもまとめてランダムに、書き散らしてしまう点、ご了承のほど。記事にまとまるまでの時間差もあって申し訳ない点も。
 1/7〜19は(もう過ぎてしまったけれど)、豊田市美術館にて、「アルバー・アールトの住宅展」。20世紀後半を代表するフィンランドの建築家。彼の設計した住宅の写真、模型を展示、その独創性を拝見。自然の中での調和、住空間に取り入れた曲線の癒しの効果など感じた。作曲家コッコネンの自宅なども興味深い。シベリウスのアイノラと同じくヤルベンパーにあることは知っていたが。
 最近、福祉、経済、その他IT、世界的な携帯電話メーカーの話題はもとより、北欧の情報は各段に増えている。機能的でシンプルなデザインの北欧家具、食器など人気が高まっていることもあってか、今回の展示も大盛況。意外だった。ただ、以前から北欧マニアだった私としては、やや淋しさもありか。popularになりすぎてもなぁ、とは贅沢か。5年以上前に、名古屋の中心、栄のナディアパークでやっていたフィンランド・デザインの展示に人が少なかったのを思い出しても、隔世の感ありか。
 そのアールト展に合わせて、ピアノ・コンサートなどもあり。シベリウスの作品からは、「もみの木」「ロマンスop.24−9」の2曲。やはり、この2曲は、代表的なピアノ作品とみて良しかな。あと、「即興曲op.5−5」もそろえば文句なし。日本シベリウス協会15周年のコンサートの幸福な体験も思い出す。女性奏者だから、といっては失礼かもしれないが、「ロマンス」は、ややダイナミックな表現が不足か。交響曲第1番のフィナーレを思い起こさせる、大きく大らかなクライマックスの表現。ただ、スペシャリスト舘野氏と比較するのは酷か。「もみの木」は、とても繊細で、そしてうら淋しく、でも孤高で凛々しく、いい曲だと聞き入ってしまう。ほとんどの人がきっと初耳なのだろうが、曲が終わって、プログラムなど見て確認する人も他の曲に比較して多かったように思われ、訴えるものも多かったかも。ちなみに、美智子皇后も愛奏されていたこの作品、もっと聞かれる機会があっても良さそうなのに・・・・でも有名になればなったでまた、淋しい・・・・なんて思うのだろう。

 うってかわって、仕事のついでで立ち寄った豊橋市役所の昼休み、市民ロビーコンサートとして、マリンバのアンサンブルを耳にした。時間の都合で最初だけ聴いただけだが。「豊橋マリンバの会」のメンバーとのこと。内容的には、全く堅苦しくなく、馴染みの作品ばかり。ただ、マリンバと言えば、安倍圭子さんの演奏(2回ほど生で聴いています)が圧倒的なもので、比較しては可哀想と思いつつ、やや物足りないな、などど感じたのが第1印象。(音の厚み、凄み、そして集中力、第一人者はさすがだ。)
 まず、比較的若い2人組で、ハンガリー舞曲第5番、シューベルトの「ます」など。ミスタッチもやや気になり、また、旋律担当が2本バチ、伴奏担当が3本バチと、もう少し和音に厚みのあるアレンジだったらなと思いつつも、「ます」は、ピアノ5重奏の原曲に近く、かなり早弾きなパッセージもあって、見所はあった。
 続く2人組は、60才を過ぎていると思われる。「春の海」を演奏。どうも、打楽器専攻の方では無いようだ。奏法を見ればわかる。しかし、前のグループと同様、暗譜で演奏しているのだから、たいしたもの。この曲、冒頭の琴のテーマからして、楽譜どおりでなくアドリブ風に動くのが常で(最初の1音のあとタメが入る)、旋律と(各小節の3拍目が)合わなかったりする。その点のアンサンブルは、もう少し詰めた方が良かったか。あと、全曲やると、やや単調な感じもした。あと、旋律の音の伸ばしにもう少しトレモロを入れた方が表現力は増しただろう・・・・などと思いつつ(審査員みたいなイヤな客なものだ)聴きながらも、老いてなお(失礼とは思いつつ)、マリンバに魅せられ、練習し、暗譜し、観客の前で演奏するというパワーに心打たれた。この二人が登場する前に、「マリンバが好きで好きでしょうがない、というお二人の登場です!」などと紹介していて、とっさに子供でも出てくるのかと思いきや、そんな具合で、あっけにとられてしまったのも確か。
・・・・・半年休んで、手首が腱鞘炎。一方、40肩になったらどうしよう、まあ生き恥さらすくらいなら、あと数年で引退だはなぁ、と漠然と思うこともあるなかで、何か、力を与えられたような気もする。確かに、アマオケ業界は、恥をさらしている人も多く感じられ、若い時分を知っていればなおさら、老いは悪とすら感じざるを得ない面もある(団体全体に迷惑をかけ続けてなお、居座るのは御免)。余談ながら一種、三島由紀夫へのシンパシーは、どこかに存在し得るな。でも、私の今後、彼女達の「春の海」が、私の目の前を明るく照らし続けてくれそうな気がして、嬉しく思った。ちなみに、私の初ボーナスが化けたVibraphonは、今実家で眠っているが、そのお披露目でお客さんの前で始めて演奏したのは、高校の後輩のフルート奏者とのデュオで「春の海」だったりする。懐かしさもあり。
 最後は、子育ての終わりつつある主婦、仲良し4人組、との紹介。ジャズやラテン、そして「サザエさん」などが予定されていたようだ。私は席を立ったが、「川の流れのように」が私の背後に柔らかく、エレベーターに乗るまで聞えて来るのを感じつつ、堅苦しいホールの中の、アマにありがちかもしれぬ「芸術もどき」とは違う、「音楽そのもの」について思いを巡らせた。そして、エレベーターのドアが閉まり、音楽が止んだ時、自分の頭は午後の仕事のことにとっさに切り替わった。

(2002.1.23 Ms)


 そう言えば、触れるのをすっかり忘れていたのだが、ノーベル賞、日本ダブル受賞。小柴さん、田中さん。すっかり田中さんブームのうちに年は暮れていったが、一方の小柴さんも、地元豊橋ご出身ということで、我が家近辺の地域では、いろいろ取り上げられる機会も多かった。
 日本人の受賞も最近は多くなったのだが、ノーベル賞の授賞式や、受賞の日前後のストックホルムの映像までTVで、日本で詳細に見られたのは、今回がたぶん始めてでは。これは、癒し系、田中さんのマスコミおっかけによるものか。私自身、注目していたのは、授賞式の音楽。大江健三郎氏の際は、当時、朝日新聞の記事で、ニールセンの交響曲第6番第2楽章が流れるなかの受賞(???)(打楽器と、おならのようなトロンボーン・グリッサンドの音楽で?マジかよ!<By三村風>)などというのが印象的で、今回、一体何が流れるのか?と期待したのだが、特に面白い音楽ネタはなかったようだ。
 ただ、受賞式後の広間での晩餐会の映像を見るにつけ、3年前の北欧旅行では、あの階段の前で、急に青ざめ、ぶっ倒れてしまった思い出もまた懐かしく、さらに新婚旅行で、市庁舎売店で妻がカメラをすられたり(ストックホルムの前に立ち寄ったオスロの写真が全滅)、と、当時は冷や汗、今はお笑いな思い出に浸りつつ、市庁舎を眺めるのも悪くないもの。
 実は、今頃何故、このネタかといえば、1/12、BSで、ノーベル賞受賞者討論会なる番組あり偶然見たから。BBCのキャスターが司会をし、討論が始まる。さぞ、高尚な話題と思いきや、特許の制度の話やら、研究資金の不足のことやら、妙に下世話な話で奇妙に感じた。英語で矢継ぎ早に討論されているなか、日本勢2人は、終始討論に加わらず、言葉のハンデを思い、可哀想とすら感じた。日本の二人にはキャスターが一度づつ、話をふって、なんとかやりとりできた、という雰囲気だったのだが、実は小柴さんの話が面白かった。
 それぞれに、史上始めての発見があって今回の受賞があるのだが、私たちが発見せずとも遠からず続く若い人が発見することととなっただろう、という話。要は、時間の問題、と。それに対して、ある受賞者が、1万匹のサルにワープロの習得をさせればそのうちシェークスピアの戯曲を書くのか、書けるとすれば、何万年もかかる、などと発言。小柴氏は言う。研究の対象たる客体と研究の主体が分離していれば、の話。モーツァルトのピアノソナタは、彼の感性でしか書けない。彼がいなかった場合、何百年待っても、全く同じソナタは作曲されないだろう。ソナタという芸術作品は、モーツァルト自身の感性と不可分な存在。自然科学における発見は、研究者と研究対象が分離しており、モーツァルトの例と同じ次元にあらず、と。あなたの認識は誤りだ、と、あの目を細めた笑顔のまま、Mistakeと言い放った姿には、感動してしまった。
 小柴氏の話だけが、特許や金の話ばかりの討論のなかで、異彩を放った話題であった。唯一、受賞者討論会らしい話題とも感じた。また、芸術という、人間の創造行為の素晴らしさも、改めて認識。自分にしかできない、表現できない、創造できない、という個性。そんなことに思いを馳せて、演奏者、さらには表現者として、私も切磋琢磨したい。アマに甘んじては、いけないな。自分にしかできない表現が、みんなあるはず。

(2003.1.16 Ms)


 2003年スタート。あいかわらず、社会は不安定、不確定、戦争の危機と隣り合わせな年始である。このHPが、今年も1年間継続できるようなのどかな世の中であってほしいと切に願いたい。「文藝春秋」2月号の、対北朝鮮戦争の話など読むと、正直恐怖だ。

 さて、年末年始は9連休と久々に長期休暇となった。数年前こういった長期の年末年始休みに、大寒波のウィーンに行ったこともあるが、今年はこれといったトピックもなく、世間一般的な平凡な休みであった。年賀状のなかに、新婚旅行で小澤のウィーンのオペラデビューを見てきたというのがあり(「ジョニーは演奏する」という20世紀作品)、うらやましくもあり。

 冒頭ページで紹介した、テレビ愛知の早朝番組、主だったところは録画、さらに一部は見てみた。やはり、カラヤン・ベルリンベートーヴェン交響曲全集は圧巻だ。さらに不思議なのは、テンポ感にほとんど違和感がない。カラヤンのベートーヴェン、常々CDで聞いていたわけではないのに、全てしっくりくる。彼の演奏が完全にお手本、理想として知らぬ間に刷り込まれてしまっているのか。彼の演奏が、さも、作曲家の意図かのような説得力をもつ・・・・カラヤンの呪縛のもとに我々はある。若手、ハーディングの試みは(今月のトピックス’01.11月参照)、そういった巨匠からの呪縛にあるが、なかなか突き崩すのは困難か。すくなくとも20世紀後半の巨匠の呪縛はカラヤンと同時代の空気を吸って生きてきた我々には一生ついて回るものかもしれない。
 一方、バーンスタインは、違和感を感じた。ウィーンフィルとのシューマンの交響曲自体、ベートーヴェンよりは、演奏スタイルが固まっていないことにもよるか。演奏者それぞれに、オーケストレーションを改変したり、テンポの揺れなども、ロマン性を前面に出す出さないで全然異なる状況にある。そのあたり、21世紀で、シューマンにおいてもベートーヴェンのように、一定の模範的な演奏モデルができるのかどうか興味深いと思う。ただ、2番の演奏は、バーンスタインの思い入れは大変伝わるのだが、一面自己陶酔に過ぎるとすら感じた。第3楽章、私の最も好きな楽章において、私は取り残され、彼について行けない。丁寧過ぎ、遅い。逆に緊張感がもたない。過度な表現、聞き手を白けさせる、かな。まあ、2番については、彼の生涯最後の、札幌PMFでの演奏もそうだったと記憶する。・・・そこまで書いて、再びカラヤンを思い起こせば、逆にカラヤンの演奏には、そういった一種人間臭さ、みたいなものは感じにくかった。どちらがいいとも悪いとも言える話ではない。意外と、今や遠くになりつつある彼らと正面きって本格的に向き合う機会として、とても面白く見させていただいた。テレビ愛知さんには、毎度毎度お世話になります。毎年始、クラシック番組今後もよろしくお願いします。
 あと一言。アーノンクールによる、ブランデンブルグ協奏曲も第1番がとても面白かった。ホルンの超絶技巧には感服。さらに、8分音符で音楽が進行する中、ホルンだけが3連符で進行。かなり斬新な発想だ。昨年11月に地元の奏者、上里はな子さんのリサイタルで感激した、無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番のフーガに続く、バッハ開眼の機会である。まだまだ、我々には知られざる至福の時が埋もれていて知らないだけ、であろう。

 なんだか、HP発足当時に比較して、20世紀ネタが減少、えらく古典指向を強めているようにも思うが、自分としては、やっと人並みに退屈せず古典も聴ける耳ができつつある、ということか(今月のトピックス’02.12月然り。ハイドン後期交響曲もまた楽し)。20台までは、ニューミュージック(古い表現だね)やらテクノまで含めてpopsから、社会主義リアリズムまで、20世紀音楽にゾッコン(これまた死語か)でしたが、趣味もいろいろ変わりゆくもの。変わるというよりは、守備範囲の広範化か。

 そうだ、20世紀ネタといえば、NHK名古屋のニューイヤーコンサートで、没後50年の名目でプロコフィエフを取り上げていたのをみて、我に萌ゆる心あり。しかし、アマチュアオケでプロコというのも、東海地区では非現実な選曲で諦念、個人でもっていろいろ楽しもうと画策。年内に一度演奏機会は設けたい。
 今年のテーマ。「プロコ始め、ソ連音楽の演奏、私演であれ、試演であれ、私縁あるなしに関わらず、支援願いたし。私怨ある方も含め社会主義リアリズム芸術を共に考えよう。」
 言葉遊びはさておき、昨年のウォルトン生誕100年は個人的には不発で残念だったこともあり(せめて、交響曲第1番くらいはライブ体験したかった)、本気で、プロコには記念年、親しむ機会を与えていただこうか。

 最後に、我がショスタコーヴィチ。プロコ没後50年ということは、同日に死去したスターリンもまた没後50年。それを踏まえてか、年始早々、「ベルリン陥落」がにわかにブレイクだ。ショスタコが、第2次大戦後、時の政府から大批判を浴びたのち、映画音楽作曲の能力を買われて延命、イヤイヤながらに書いた、スターリン個人崇拝映画のための音楽。昨今の国外情勢みるにつけ、時代は変わってないような。ともかく、新譜も2種ほど最近でたようで。ちなみに「ベルリン陥落」の音楽についての考察は、こちら(トピックス’01.1月)
 バンドジャーナル誌においても、吹奏楽編曲版がレンタル開始との広告。
 さらに、音楽誌のみならず、「歴史街道」2月号。NHK大河の「武蔵」の事前知識を得ておこうとパラパラめくっていたら、いきなり、ナチス崩壊後のベルリンに飛行機からおりたつスターリンの写真。まさに、「ベルリン陥落」のラストシーンか。ただ、当誌においては、映画の名は紹介されず、「スターリンによるベルリン開放」なる見出しのついた記録映像として、ロシアのゴス・フィルム・フォンドに眠っていたとの解説あり。ショスタコの名も当然ないが、今となっては貴重な歴史的遺産に違いあるまい、この記事、買い、だ。今年あたり、映画そのものも見る機会がないものか。ま、ただ、この時期、全体主義国家の独裁者の映画なんて、危険で外に出せないか。

 そういえば、今度こそ、最後に、元旦の「朝まで生テレビ」、国家社会主義体制をとる自民党政治からの脱却、なんていう議論聞くにつけても、現代日本と、20世紀ソ連との親近性は強まるばかり、さらには、その体制に翻弄される一市民の苦悩の軌跡たるショスタコの音楽、全くもって、共感のうちにか日本にドンドン浸透していくさまを見るにつけ、正直、屈折しつつも、嬉しく思ってはいけないのかな、と改めて自問。いまさらながら、「ショスタコなんて、暗い音楽、よく聴いてるね!」などと、白い目で見られる時代の方が社会全体としては幸福なんじゃないかとすら感じたりもして。ただ、世界のトヨタが偶然いるがために、何となく日本全体からすれば日本の危機にやや鈍感なりと思われる愛知、その鈍さは、幸福か、いや不幸か、私にはわからない。脱線ご容赦。

 昨年に引き続き、前年の反省、我がHP、随分書き散らし、未完の企画など多々あり、反省しきり。相変わらず、「曲解」の停滞・・・ショスタコの「前奏曲とフーガ」、「ダスビ鑑賞、12番」、さらにニールセン・・・・。どうも、トピックスを追い過ぎ・・・本年は、その辺り方向転換、できるかな・・・。(2003.1.11 Ms)


過去のだぶん

 2002年 2001年 2000年


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