たぶん、だぶん(多分、駄文)

記事の更新は不定期となるでしょう。たぶん。

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 新年を迎えて。
 昨年は親の死という現実に向き合い、考えさせられることも多かった。今、思い返しても自分の人生における一転機であったと思う。自分の誕生から自分史を考えていたのが、今や、自分の死から遡及的に自分史を考えるわけだ。新聞でも、「40歳を過ぎたら遺書」などという見出しを見て、何の違和感も感じない。遺族に対し、しっかり準備した上で去ることこそ生きる者の責務ではないか。遺族としての壮絶なる実感だ。
 と書きつつ、死を恐れ、また、死をあこがれ・・・などという感覚は皆無である。死を身近に思っていることでこそ、いかなる生を生きるかを改めて考えている。昨年中、続いた、自分の親の世代にあたる身近な死はもちろん、本田美奈子.さんの死もまた、私にはおおいに意識せざるを得ない出来事であった。
 また、個人的な感覚として、音楽的には、死を思うことはマーラーの音楽に対する親近性を増しつつも、逆に鑑賞を遠ざけさせている。死に対する思いをそんなにも仰々しくさらけ出すことへの疑義はある。死に際に関するリアルな感覚がないからこその愛好であったかと自らの青年時代を振り返りもする。
 親の晩年の辛い生き様を見た視点からは、脳の劣化、言語の喪失、・・・シューマンの、特に後期の作品に関心を持ち始めている。ただ、シューマンの作品(後期に限らず)を聴き始めたことは、ニールセンの作風の一源流を思わせる発見もあったりと楽しい冒険、探検でもある。どこかで、その点、まとめ得る時が来るといいのだが・・・。子供の頃ピアノのレッスンでお馴染みだったピアノ小品から始まるシューマンとの絆は揺るぎ無いものであったことを再確認しつつ、自らフロンティアを開拓しようと思っている2006年初頭である。まさしく、シューマン没後150年。

我がHPもささやかなる「私事」始め、である。雑事に埋もれつつも、今年こそは、もう少しマメに更新したいもの。(2006.1.4 Ms)


 本田美奈子.さん逝去。冥福を祈ります。
 遺作CDの「アメイジング・グレイス」心に染み入ります。訃報を受け、翌日仕事帰りに寄ったCD屋で偶然試聴版あり、慎み拝聴。
 実は、訃報を知る直前に、我がHPのメンテをしていたのだが、ちょうど1年以上も前のマリンバ・コンサートの記事(2004.8.1)を書いていて、まさしく「アメイジング・グレイス」に触れていた時だっただけに、その時のショック、けして軽いものでもなかった。ファン、ということでもなかったが。38歳である。私とさほど変わらないじゃないか。最近、私も通院がちょっと続き(ほとんど縁遠く過ごしていたのに)、これから気をつけなきゃ、なんて思ってもいただけに、今年の身内の死もあって、「死」がやたらと自分に近いもの、と新たに思い知る。
 N響のコンサートにも出演していたが(TVでは拝見した)、クラシックの名曲に歌詞を載せ、新機軸を打ち出していた矢先のことだった。さぞ口惜しかっただろう。若く美しいままに死を迎える哀しさ、何ともやりきれないな。

(2005.11.18 Ms)


衆議員選挙。J民党歴史的圧勝。

 私が選挙権を行使するようになって、これほどの大きな変動があったのは始めてで、正直とまどっている。議席の2/3を越える巨大与党は、果たして国民の付託に応え得るのか?少数の声を聞く耳を持てるのか?
 国債30兆円枠なる公約を踏みにじり借金を重ね続け、また、「人生いろいろ」などと、年金未納にかこつけて北朝鮮拉致被害者家族の耳に届くように言い放つ無神経さ。非情さ、非常識さ。変人としてこれを笑うのは簡単だが、その「変」ぶりが確信的だからこそ怖い。ソビエトや第2次大戦前の日本の庶民の恐怖を自分の物として体感している自分がここにいる。正直、ショスタコーヴィチの音楽の中だけで良かったのだ。実感として体感させないでくれ。
 このまま、弱者切り捨て、地方切り捨てが進めば、(我がHPの立場からの懸念としては)日本各地の無形文化遺産など消滅するだろうし、その前に大都市以外での芸術音楽の鑑賞などままならぬことになるだろう。地方と弱者を間近に見ている自分は、大都市と強者に主張すべきは主張せねばならないと最近とみに思うようになってきたのだ。実質的に多様性を認め得ぬ社会が迫っているんじゃないか。

 さて、ショスタコーヴィチとの音楽との付き合いも長いが、たびたび、外界の事象が、どうしても私をショスタコーヴィチの音楽に向かわせる。
 大学時代、中国の天安門事件、「血の日曜日」が私に、ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」(まさしく、第2楽章は「血の日曜日」の音楽化である)のCDを買わせていた。
 もう、そう蒼くもあるまいに、今回の選挙結果は、その時の気持ちがふっと湧き返り、またもショスタコーヴィチを私は求めた。
 TVで選挙特番が始まるや、J民党300議席、M党100議席のグラフが飛びこみ、TVを消しCDを手に取った。
 交響曲第2番「10月革命に捧ぐ」。
 民衆の熱狂、それも、新たな時代の到来を望む期待と、とある一人の英雄への崇拝と。今の日本を覆った熱狂が、ここに音楽化されているのでは、と第2番をじっくり聴く。熱気はある。改革の気迫はある。しかし、これが本当の改革か?決して聴き心地の良くはない音楽が派手な演出を伴って繰り広げられる、しかし、その結論は、音楽であることを放棄し、「レーニン」と絶叫、シュプレヒコールする行為である。最後は何のことはない、何らの思考を伴わない「個人崇拝」であった。恐るべし、ショスタコーヴィチよ、今の日本がここにあった。
 続いては、交響曲第14番「死者の歌」。これは、第2番に啓発されて、声楽付き交響曲を聴きたくなり、今シーズン、N響が取り上げるゆえに聴いただけだが、シベリア流刑となった政治犯「デルヴィーク」への訴えなど、郵政法案に反対しながら郵政民営化反対のレッテルを貼られて追放され、また落選された方々には、相当共感されるのではなかろうか。

 翌日も不安冷め止まぬまま、交響曲第8番「スターリングラード」を聴く。これも、N響が取り上げるのがきっかけなのだが。
 ショスタコーヴィチは、「スターリングラード」でのソビエト軍の反攻が契機となり、第2次大戦がソビエトの勝利に終わることが確定的になると同時に、勝利を導いたスターリン独裁の強化を憂いた。その将来の恐怖、これもまた今の日本の恐怖だ。K泉氏はまさしく「レーニン」として独裁的権力を手に入れた。ソビエトにおいては、その延長にはさらなる権力への執着、スターリン的なる圧政が不可避。それが、対外強硬という共通項でもって日本においては、A部氏がスターリンを演じるのかどうかは今の私には見えない話ながら、この歴史が日本で繰り返されるか否かは我々の今後にかかっています。
 さらなる権力の暴走の下、暮らしにくい社会において、ショスタコーヴィチの描く第5楽章のささやかなる「個」の確立は、なんと弱々しくも気高く、そして、しぶとさ、タフさを持ったものか。逆境を行き抜く強さ、これだけは今後も持っていたいものです。ここで、私のショスタコーヴィチへの渇望はひとまずの決着を見た。また今後、外界の事象の進展如何ではさてさて・・・。それにしても、8番、J民党政権のもと、今後もっともっと聴かれる作品になることだろうなあ。

 なお、余談ながら、いまや政権党の大幹事長となったT部氏は「K泉改革はK泉革命となった」と曰く。「革命」とは、権力の正統、血統が別に移るはず。西欧の「市民革命」にせよ、中国の王朝交替たる「易姓革命」にせよそうだ。権力者がそのまま居座り続けるのに「革命」とは、一体なんぞや? 何のことはない、田中角栄以来の「旧橋本派」支配が、名実共に「森派」支配に移行することを表明しているわけだ。コップの中の革命に熱狂した国民のセンスは歴史が今後判断することとなろう。ただ、その「森派」支配が、霞ヶ関官僚支配をも崩壊させた時、本当の革命となる・・・その時が来るのが先か、日本の経済崩壊が先か・・・。
 しかしなあ、国民の総スカンを食らったM元首相が大活躍の政権とは、日本人の寛大さはおよそ、キリストや仏陀的境地なのかしら・・・理解に苦しむ。

 そして、選挙の週も終わり、夜遅くのレイトショーでリーズナブルに映画鑑賞をしたのだが、それは「ヒトラー 最後の12日間」。詳細をここで語ることもしないが、戦争が首都ベルリンの市街戦となり、多数の市民志願兵が犬死するなかで軍人がゲッベルスに詰め寄る・・・「武器もないまま戦争が続行できるか」・・・「自業自得だ。この運命を彼らが選択した。我々に政権を委ねたのは彼らだ。自業自得だ。」・・・そっくり、日本国民にもこのセリフ、吐かれていないか。

以上、歴史的選挙後1週間の一庶民の暮らしを書き留めた。歴史上、次なるレーニンの登場の際の参考としてください。(2005.9.19 Ms)

ホリエモン氏にショスタコーヴィチを見たか?

 選挙なんか行った事ない、権力なんか興味ない、というH氏が広島から衆院選立候補。その決意の会見などTVで見た感想。
 抱負は、「郵政民営化」、それに抽象的で具体性のない「改革」の連呼、それだけである。なぜ、IT界の雄が政界入りするのだ?
 「インターネットを通じた選挙戦なども考えていますか?」「いや、それが、法律でしばられて、下手なことすればやばいんでですよ」
 H氏が政治家になるのなら、その点こそ、争点じゃないのか?政界という閉じられた世界に、ITをもって風穴をあける。政治に興味を持たない若者に政治に向かわせようとするのなら、H氏の得意分野をもって政治を引っ掻き回す、・・・公職選挙法の改正やら、電子投票やら、そういう看板を引っさげて登場する方が納得できる。カリスマ主婦が「政治は料理と同じ」なんて言うのも私は良く分らないが、そういう発想で立候補するという神経は理解しよう。それが、H氏にはない。J民党の政権公約を丸写しにしたことしか言わないH氏。まさに、ソビエト共産党から原稿を渡され、自分の考えとは無関係に公式見解をメディアの前で朗読させられるショスタコーヴィチと同じだ。ああ、あわれなるH氏よ・・・

 と思いきや、そうでもないらしい。立候補によって、会社の業績をあげる。知名度をあげる。野球界進出、TV界進出をはばんだやつらに一泡くわすための売名行為としての立候補・・・次なる「広島カープ」買収のための布石との噂も高まる。

 H氏立候補の選挙区のかたには、充分見極めてもらいたいものだ。自分の利益のみのための候補者にまんまとひっかかるのかどうか。私にはどうも、政治家H氏としてのやりたいことが見えないし、国民本位とも感じられない。無所属ならば、H氏らしい彼しか掲げられない「公約」、政界をぶっつぶす、くらいのIT絡みの具体的政策を掲げて欲しかった。権力追従で、やるきのなさ(会社人としてのやるきは感じるが、政治家としてのやるきは・・・)だけが伝わるH氏に、ショスタコの影は幻に過ぎず。

(2005.9.3 Ms)

郵政・ガリレオ解散、だそうである。なぁるほど、などと思った次第なのだが・・・実のところは・・・。

 時の権力、ローマ教皇、カトリックの教義は「天動説」。地球は不動で、太陽や星がその回りを廻る。しかし、天体の観測という地道な研究の結果、「地動説」の方が、天体の動きをより明快に説明できる、と確信したガリレオ・ガリレイ、著作で禁を犯し、コペルニクスが唱え、その信奉者が火刑にもなった「地動説」を世に問うた。すると、権力側は、ガリレオを宗教法廷に引きずり出し、破門をちらつかせて、転向を促す。逡巡の結果、権力の横暴の前になすすべなく「天動説」を受け入れ一命は取りとめた・・・・しかし、彼はつぶやいた・・・「それでも地球は回っている・・・」。

 まさに、時の権力、K泉首相の教義「郵政民営化法案」を前に、その不備を指摘しながらも、J民党からの破門(公認取り下げ)をちらつかされては転向以外になかろう。J民党の反対派たちは、さぞガリレオの心情に思いを馳せているに違いない。・・・「それでも、郵政民営化法案は狂っている・・・」と。

 と思ったら、違うんである。K泉首相がガリレオとは、これまた歴史の曲解癖、ここに極まれり。 

 権力者の横暴に立ち向かい、屈服させられつつも、自己の信念まで曲がったわけではない、という気概を持つ事こそガリレオのガリレオたる所以だ。そもそも、権力者がガリレオであるはずはない。権力をかさに不当に他者を屈服させる役回りこそ、K泉氏のキャラクターだ。

 このところ、日本の様相を見ていると、ソビエト的傾向がますます強まり、私の頭のなかでは、常にショスタコーヴィチの音楽が鳴り続けている。これは常々書いてきたところ・・・。2月にも、国会答弁でのk泉氏のふざけぶりが、ショスタコーヴィチの交響曲第13番「バビ・ヤール」第2楽章「ユーモア」から第4楽章「恐怖」へと連なってゆくことを書いたが、今、K泉氏が自らを「ガリレオ」になぞらえながらも、彼の姿からは、第4楽章に続く、第5楽章「出世」(まさしく、ガリレオを引きあいに真の「出世」を歌うもの)だけは流れてはこない・・・第4楽章「恐怖」のままである。スターリン時代の悲劇を今の日本に写しだすのみだ。

 第5楽章は、こう歌う。・・・「地動説」を持ち出したガリレオは、当時の学者たちから笑われる。実は、みんな、地動説を信じていた。でも、自分の出世のために黙っていた。一人勇気をふるったガリレオを彼らは笑った。出世できなかったあわれな奴と。しかし、歴史が示す通り、権力者の横暴に立ち向かい真実を述べたガリレオは名を残した。つまり、ショスタコの音楽のなかでは、こう結論つけられる。
 「出世しないことをもって、自分の出世とする」。ソビエト時代における庶民の思いを代弁する名ゼリフだ。

 一国の首相など、現世の出世の頂点にあり、とてもガリレオの気持ちなど理解できない人種ではないか。権力者の独断的信念と一緒にされては迷惑だ。ショスタコの「バビ・ヤール」を愛する私としては、自らをガリレオになぞらえた権力者などとうてい認め得ぬ代物だ。

 結局、K泉氏の顔を見るたび、私は今や、「バビ・ヤール」のなかの「恐怖」を過ぎて、交響曲第10番の第2楽章が鳴りやまぬ状態。知らない人も一聴をおすすめしよう。今のK氏の姿にこんなにマッチする音楽はない。 

(2005.8.12 Ms)

 万博の地元に住んでいるのだが、(とは言え電車で1時間半以上かけて行かねばならず、)何だか遠い存在。
 確かに、毎日、今日はどこぞの国のナショナル・デイとか放送され、民族舞踊などTVで流れてたり、新聞でも写真がのっているのは見ている。
 でも、こんなもんか、といった感じ。100年も昔、パリ万博で、ドビュッシーやらサティが、非西欧の音楽に影響されて・・・、なんていう話と同様に、私も、いろいろそんな音楽上のインパクトを受けたいと思いつつも、意外に国際色は強く感じられず(もっぱら企業パビリオンの話題が先行)、まして、会場の外にまで、その熱気はほとんど感じられず。会場に何度も足を運べればいいのだろうけど。
 5月には、私の住む隣の町、音羽町がチェコとの連携事業をやって、チェコの奏者による室内楽演奏会もあったが、多忙につき行けず。この7月は、豊橋市で、バルト3国のひとつリトアニアのもろもろの芸術(バレエから、民俗音楽、オーケストラなど)の紹介をするコンサートもあったが、これまた仕事の都合でアウト。あと2ヶ月たらずだが、なかなか万博会場自体へ行く計画も立てられず、どうしたものか、と思う。真夏に行くのも自殺行為だよなあ。

 そんな状況ながら、豊橋市とリトアニアの提携の一環として、某ホテルでのランチ、期間限定でリトアニア料理が出るとのことで興味本位で行ってみた。メインは水餃子風な一品。その他、ジャガイモやベーコンを加えた卵焼き的料理など、食することができた。素晴らしく美味!!!ということも言えないが、素朴な田舎料理という感じか。ロシア料理風な側面もあり、また、ドイツ・中欧・東欧的な感じでもある。ひょっとして魚料理のような北欧的な料理が・・・という期待もあったが、そういう訳にはいかなかった。
 でも、普段、バルト三国の情報などなかなか実体験として得られないだけに、貴重な体験ではあった。こういう機会がいろいろ積み重なれば、私の中でも万博がもっと盛り上るだろうに。
 それにしても、少なくとも、音楽ネタとしてはどうもイマイチだなあ。本当は、万博での音楽情報なども積極的に紹介しようと思っていたのだが、何せ情報がない。出演者はわかっても何をやるかがほとんどわからない。ということで我がHPにおける万博音楽紹介企画はボツとなったままなのである。

(2005.7.11 Ms)

 サラリーマン大増税時代の到来。
 政府税調、とうとう来ましたか。ただ、一体、K泉政権何だったのか?難だったのか?こうならないために「改革」してたんじゃないの?

 そういや、スローガン自体が「改革を無くして、成長も無し」だから、改革しなかったのは既定方針か。国民は、騙されていたわけ。今頃気付くのも哀れだけど。
 街のサラリーマンたちのコメントも何?そりゃ、困る!って。こうなることは、前から分ってたんじゃないの。
 会社人間、社会のことはご存知なし、なのかしら?あなたたちの選択こそ、大増税を招く政治だったんじゃないか。

 政・官の無駄使いにメス入れられず、増税で、自分たちの既得権益を死守する政権を目の前に、俄然、今の日本、ショスタコーヴィチの音楽が似合う、ソヴィエト的社会風土が立ち現われる。

 搾取、からの解放、
 今からでも遅くない、東京都議選でも何らかの意思表示できないか。いい加減に、日本よ、ソヴィエトの後追いだけはやめてくれ。ソヴィエトの苦悩、ショスタコの音楽の中だけにしてくれ。現実の世界でそれを味わいたくはない。

(2005.6.26 Ms)

 ベルティーニ氏死去。冥福を祈ります。日本におけるマーラー・ブームの重要な立役者だった。彼がせっかく日本に縁あって(都響の指揮者として)何度も聴く機会は恵まれながら、直にその音楽に触れられなかったのが悔やまれる・・・スヴェトラーノフもそうだった。これはという指揮者は、やはりCDだけでなく本物の姿を体感したい。最近、とみに思う。今を生きながら、今を知らないのがもったいない。と、次の世代から言われよう。20世紀末の日本にいながら聴いてないの・・・もったいない!!!

 今年の夏の「サイトウキネン」の演目が公開された。最大の出し物はシェーンベルク「グレの歌」。まさにポスト・マーラーの超大作だ。・・・ちょっと待て、我が愛知県の万博でも、めったに演奏されない作品として、万博にふさわしい演目として、名フィル、セントラル愛知、アンサンブル金沢の合同でこの4月、万博会場で披露だっけか。
 めったに聴けないわりに松本で4回公演・・・名古屋も面目やいかに・・・。まあ、シェーンベルクがこれだけ頻繁に演奏される年もなかなかないだろう。21世紀初頭の名古屋から、新ウィーン楽派の旋風が世界に発信できればたいしたもの、期待しよう。

(2005.3.22 Ms)

 時事ネタ「だぶん」にて失礼。
 「Lイブドア」VS「FジサンケイG」。
 Fジの新株発行は地裁でストップ。とりあえずは、Lイブドアの勝利。現・経営者の自己保身の策が堂々認められれば、日本は、株式会社の理念すら知らない後進国、ということじゃない。ソビエト的な全体主義、持てるものの独裁国家ならいざ知らず。
 株主あっての株式会社。経営者やまして社員が、こんな株主は排除せよ!!などと恥ずかしげもなく言い放つ愚かさ、いや、愚かさを知らぬ怖さ、株式会社における株主民主主義はどこに?
 だって、例えば、××町長と、××町役場の役人一同が、法に寄らず「こんなやつに住民登録されてたまるか」と、××町に住まわせない、などという暴挙、許されるとお思いか。
 株主達が、資金を出しあって、株主総会で経営者を決め、その資金から事業を通して利益を得ようとする(株主に利益を提供できない経営者は次の株主総会で即刻退場、となろう。本来は・・・。)、そういった株主の民主主義が全く理解されてない。経営者ならぬ株主達の思いこそ、会社の経営を左右するのであって、経営者まして社員までもがあんな横暴を振るおうとは(社員一同という名目だから、例え、株主たる社員もいようが、株主という立場の主張ではない)、有名大企業がねえ、商店街の個人商店と同じつもりなのかしら。S武グループと同質な思想的背景だし、Fグループも、疑ってかかるかも。日本の株式会社、ほんとに大丈夫なのかな。あなたの会社も、株式会社でも思想は個人商店から脱却してないかもよ。

 時間外取引が違法だとかいう主張も、怖い。強いものが、あとからルールを変えてしまえ、という。日本が法治国家だと知らないのか。
 Fジが訴えるべきは、国会だ。こんな穴だらけな法律、そのままにしておいて。国会議員も、もっと、大事なことに頭を使わなきゃ。外交・国防さらに経済・金融こそ国会最優先の仕事。いつまでも、政局ばかり。そして唯一頭を使うのが、道路や補助金でお山の大将じゃあね。開発独裁の後進国のつもりか。今の日本に、後進国型の国会議員は不要なのだが、随分おられそうですな。

 さらに放送の公共性・・・・エラそうに言ってくれるなあ。日本愚民化政策、日本の自滅を狙っているようなプログラムで「公共性」を訴えて説得力ありますか。個人的には、もっと、再放送に絶え得る、何十年後見ても見られる番組がみたい。その時にしか意味を持たない情報番組、こればかりなら、ネットの方が速報性もありテレビは要らない、という理論も出てくる。今、TV側が墓穴掘ってるんです。単純に笑える番組も私、見てます。そんな番組もあって良いが、でも、もっと、数十年絶え得る社会的意義を持った存在であるTV、という主張をして欲しい。刹那主義のネットとは違うぞ、と堂々主張できますか。個人的に、LもFも企業価値は同質だと思います。どちらが優れている、なんて言えないでしょう。健全な、資本主義、自由主義を標榜するなら、新規の企業の参入を無条件に排除しちゃいけない。Fが既得権益死守の抵抗勢力で、政府の進める規制緩和に反対し、規制強化を標榜するなら仕方ないや。

 ごくごく個人的には、「数十年絶え得る社会的意義」を高める方策として、TV・ラジオにしても、もっと、クラシック音楽は取り上げてよいはず。このHPでこの話題を出した以上、結論はそこに行っちゃうのは見え見えですね・・・・。

 それにしても、何かにつけて、日本の前近代性。ボロが出るなあ。ホントに大丈夫か。官民どっちもどっち、財界も随分メスを入れたほうが・・・。

 (2005.3.15 Ms)

 「暮らしの中のクラシック」などというお題で、たまに書いてみよう、と思い立った。
 クラシック音楽は、現代日本においては、何ら特別なものでもなく、普段暮らしているだけでもどんどん耳に入ってくる。そんな事例を紹介・・・という訳ではなく、私の生活の中における「幻聴」である。なにやら訝しいものだ。最近は「殺せ」などという幻聴が殺人事件に発展する世の中、「幻聴」などとは物騒な。でも、気が付けば私のなかに音楽は鳴り止まず、条件反射的に、社会現象と一定の音楽とが分かち難く手を携えている。

 まさしく、国会とショスタコーヴィチ

 日本が、どうもショスタコーヴィチの生きたソビエトなる体制と似つかわしいことは、ショスタコの音楽を聴く皆様には何げに感じられるのではないか。世界大戦を勝ちぬくべく、国家に全てを隷属させる体制を作った、独・伊は敗れ去り、また、勝者たるソビエトも今や崩壊。さて我が日本だが、「国家総動員」の体制を作った官僚制は未だ健在。ちなみに、これと戦っているのが、改革派知事たちなり市長たち。
 経済成長により、国民の隅々までその恩恵を享受できる間は良かったが、その時代が終わるや、国家が全て仕切る体制に無理があるのは明らか。ソビエトなる体制と個人との関係を赤裸々に語った音楽から、日本における「全体」と「個人」のせめぎあいも聞えてこよう。

 日本の政治、など見ていると、ショスタコーヴィチの音楽は私の耳に流れ続ける。わざわざ、コンサートに行かずとも、CDなど聴かずとも、常にショスタコーヴィチはそこに存在する。
 K泉首相の、予算委員会での不真面目な受け答え、これは、まさしく、ショスタコーヴィチの交響曲第13番「バビ・ヤール」であった。最初は第2楽章「ユーモア」だったが、それが終わる頃には、第4楽章「恐怖」へと移る。
 本来、ユーモアとは、真面目腐った権力者に対する力なき庶民の生きる力であった。しかし、今や、日本において、ユーモアは権力者の側にある。権力者に対し、権力を持たぬものが真面目に論戦を挑み、権力者はユーモアで切り返す。ソビエト以上の恐怖ではないのか。権力者の笑いなど、怖くて見ていられない。「私をやめさせたい人たちが先にどんどんやめてゆく」なんてご機嫌に笑いながらおっしゃる姿、陰で何が行われているやら・・・。「古来、権力者はユーモアだけは支配できなかった」と歌うソビエト人はまだ救いがあったか。ユーモアを取り込んだ権力者をもった日本においては、「ユーモア」という音楽をハ長調で楽天的に鳴らすことは出来そうもないな。

 ああ、憂鬱なコラムじゃないか。こんなことなら、「お父さんのためのワイドショー講座」で、神田うの豪邸!!とともにショスタコーヴィチの「祝典序曲」!!てな話題の方がよかったね。

(2005.2.12 Ms) 


遷延性意識障害

 

三位一体改革
(もうひとつの「トリニタ」〜「斜陽」の日本のクラシック音楽)

 従来から、私のHPでは、交響三章「トリニタ・シンフォニカ」の特集などしておりますが、最近は新聞紙面でも「三位一体」つまり「トリニタ」が大きく取り上げられております。この改革の行方が、将来の日本の姿を決定するわけで、特に地方に住む私などは、気になってしょうがありません。ということで、その改革の影響、とりわけ文化行政、クラシック音楽の行く末など考える契機として、おりをみて書きたいことは書きたいと思います。

たぶん、だぶん(多分、駄文)INDEX


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