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三位一体改革
(もうひとつの「トリニタ」〜「斜陽」の日本のクラシック音楽)

 従来から、私のHPでは、交響三章「トリニタ・シンフォニカ」の特集などしておりますが、最近は新聞紙面でも「三位一体」つまり「トリニタ」が大きく取り上げられております。この改革の行方が、将来の日本の姿を決定するわけで、特に地方に住む私などは、気になってしょうがありません。ということで、その改革の影響、とりわけ文化行政、クラシック音楽の行く末など考える契機として、おりをみて書きたいことは書きたいと思います。


 名古屋が元気、なんだそうな。中部国際空港(セントレア)も開港。経済ニュースでも大きく取り上げられた。トヨタの徹底した効率化を空港にも取り入れ、国際競争に打ち勝つべく順調なスタートをきった。予想を上回る人出、まずは「おめでとう」といったところ。

 が、その開港の記事に湧く新聞紙面、ペラリとめくれば、当の「愛知県」当初予算。もうボロボロである。空港と万博で疲弊しきった県財政。トヨタの好況という要因で、バブル期と並ぶ法人関係税を計上し国内で最も恵まれた収入額を得ながらも金が足らず、本来あるべき貯金(正式には「基金」ですが)をすべて使いきるという思いきった予算だ。本当は、今年度中にその基金からの繰り入れをもとに戻して安心、といきたかったが、もう戻せない。つまり自転車操業。不測の事態が起こっても、とりあえず1年間もたせる、といった財政上の余裕がないわけで、何か起これば即、赤字。「安全・安心」を掲げる県政、こころもとない。
 元気なのは一部のお話。どうも、世論操作のような気がしてならない。国もそうだ、経済の失政はさておき、「経済回復した」との合唱のもと、今年から増税まっしぐら。
 名古屋が元気、今後も検証すべし。

 実は本当は、さらに空港に隠れた新聞記事を紹介したかった。
 その愛知県、財政難にあえいで、県内の勤労会館、勤労福祉会館の全廃をぶちあげた。それが私の地元では大問題で、地元紙にも大々的に載っている。「県の役割とは何か」「市役所があれば県庁は不要」。1500人収容のホールは我々の地域では勤労福祉会館しかない。さて、この県の政策、どう捉えるべきか?

 (2005.2.20 Ms)


 日々暮らす中、なんとなく、クラシック音楽に癒され、勇気づけられ、ささやかなる幸福感を感じ続けてもう4半世紀以上。そんな生活の中にあって特に最近は、クラシック音楽が日常の生活から遠く離れてゆく兆候らしきものは日増しに強まっているように思われる。ただ、まだ現実はそんなことはない。コンサートも放送も決して縮小の傾向にあるわけでもない(私が子供の頃に比較して民放TVからは、クラシック音楽は去りつつあるけれど)。しかし、確実にクラシック音楽に接するための前提、土台は少しづつ崩れてはいないか。そんな点検をたまにはしてみよう。

 ・・・と書きつついきなり、私の生活から遠いお話ではある。「ラムルー管弦楽団」の危機の話。
 フランスの名門。日本では佐渡裕氏が指揮していることで有名か。いや、ラベルの「ボレロ」を初演したという誇らしい歴史でこそ名を残すであろう。1月中旬の読売新聞にて、その楽団が解散の危機、と。支援企業の撤退によるものという。そこで、日本の企業に楽団の存続を託すべく支援要請の記事が載った。その後の経緯はわからない。ただ、ヨーロッパ、それもフランス、それも名門、こういう安泰と思われるような楽団でもこのありさま。ことの詳細は知らないが、企業の論理とはそういったものか。経営が苦しければ、社会的責務など放り出す。ボランティアじゃあない。

 かたや日本。新星日響の消滅、東京都交響楽団のリストラなど、ぼちぼち楽団経営の話題は聞こえている(プロ野球ほどの騒動にならないけど)。今年の具体的な話題として、札幌交響楽団への札幌市からの補助金カット問題のニュースがあった。昨年12月14日付け時事通信で、財政当局とのせめぎあいが報道。結論はまだ知らない。団の収入の4割が役所からの補助金で、「補助金削減は死活問題」と。
 確かに北海道の景気低迷という背景はあるが、地方の疲弊はほぼ全国共通だろう。クラシック音楽存続のためのパトロンは、全国的なレベルでは、特定の有名企業ではなく、市町村であり、都道府県であり、そしてその団体の意思を形作る住民である。さてはて、今、そのパトロンたちは本当にクラシック音楽を大事に思い続けてくれているか?
 余談ながら、一連のNHK不祥事で、「NHK不要論」が国民に渦巻く。しかし、クラシック・ファンにとっては、NHKの恩恵、少なからず。そう短絡的なものでもあるまい。でも、NHK放送の意義を正々堂々語る論調は聞こえにくい。
 いざとなれば、今のパトロンたちも、ラムルー同様、撤退するのだろう。ただ東京は、景気の良い大企業がパトロンとして君臨できよう。地方は如何?

 いわゆる三位一体改革で、地方自治への国からの補助金を使った統制を縮小して、国・地方ともに職員削減に繋がるリストラを目指しつつも見事骨抜き。来年から始まる大増税時代(定率減税廃止。ビール課税。さらに、消費税21%と段階的に続く。)、結局、郵政だけしかリストラしないつもりらしい。全省庁、全国自治体の職員の大規模な削減も同時に行ってこそ、世界一の借金大国から脱却できように、公務員まるがかえ体制での大増税時代。でも、増税収入は、過去の借金と、高齢化対応でどんどん消えてゆく。芸術にかまってられないのが行政の姿勢となるのは必至。
 あと注目すべきは、公的な文化会館などの施設の管理が民間で出来るようになった点。「官から民へ」の動きが、文化行政の現場でどう反映するか。徹底した儲け主義の文化会館ができたとして、クラシック音楽をどうとらえてくれるか?これは今後見守らねばなりません。

 これからもおりを見て、話題など提供できれば幸いです。特にクラシック音楽関係者の皆様には、パトロンの動向(住民と自治体と)は今から押さえる必要がありましょう。今なら、まだ「将来への漠然とした不安」に過ぎません。その不安が現実になったときではもう遅いのです。

(2005.1.29 Ms)


まずは、2004年の記事から

2004年、これだけは言いたい

 などと、大袈裟に始まったのだが、それも自分自身の偽らざる思い、この画面にぶつけたくなったのだから仕方あるまい。
 皆様にとって興味深いかどうかはわからない。また、一読にして気分を害されるかもしれない。でも、今、これだけは言いたいのだ。言わねばならぬ。

 ショスタコーヴィチ・ファンたる私Ms、最近は、なかなか、落ちついてショスタコの音楽を聴くこともめっきり少なくなったところである。忙しい毎日、正直なところ、ハードボイルドな、また、真面目に聞き始めたら神経をすり減らす、彼の音楽とは、今、疎遠な状況となってしまった。
 ショスタコ、と聞けば、とにかく、じかに耳に入れたいと、生演奏を求めての旅も目っきり減ったっけ。

 しかし、そんな生活の中、最近、私の心の中をショスタコが鳴って鳴ってしょうがない。決して、勇ましい5番のフィナーレ、興奮の7番の第1楽章、爽快な祝典序曲などなどにはあらず。

 交響曲の8番、第1楽章、太鼓群の怒涛のトレモロが導くクライマックスのすぐ後、独り残るコーラングレのせつせつたるソロ。
 はたまた、交響曲の10番、フィナーレの序奏、嘆き、溜め息のような、木管の訴え。

全体主義の横暴のなかの、「個」の叫び、または、つぶやき。
今にも巨大な力に押しつぶされかねない、「個」の存在の危うさ。

 イラク人質事件の、当事者、家族。自分の偽らざる気持ち、「自己責任論」を振りかざす国民的な批難の前に、果たして耐えられたか。
 首相訪朝、北朝鮮拉致被害者10人進展なし、に対する家族会の方々の偽らざる気持ち、なぜに、その主張を口封じさせる圧力が大手を振る?

 個人の悲しみ、怒り。まして、当事者ではないか。その、偽らざる思い、「全体」の中になぜ風前のともしび、なのか?
 政府に対する批判のトーンを下げざるを得なくさせた、社会、世論・・・・はたしてそこに恣意的な、マスコミや政府系勢力の暗躍、ありやなしや。
 個の悲しみや怒りを、見えざる力が圧殺した瞬間を見て、何を思う。
 (皇太子殿下の偽らざる思い、「皇太子妃の人格否定の動き」これもまた・・・・、個の叫びの押し込めはなかったか・・・・どう受けとめるべきか、私にはわからぬ)

 ソ連なる国に生き続けたショスタコーヴィチが、作品に託した思い。私が、彼の作品から感ずる思い。ソ連を知らぬ私にとって、ショスタコーヴィチの音楽が、ソ連における個の嘆きと、日本におけるそれとをがっちりと結び付けてしまう・・・・・2004年の日本、まさしく、今の日本の音楽と言えないか、ショスタコーヴィチの音楽は?

 いまや歴史上のソ連なる国、の後を追う日本、なのか。・・・・遅々として進まぬ改革、地方主権は確立できず、自己目的化した官僚制の勢いは止むことはない。集団指導体制をとりつつも絶対君主制の如き、官僚制の揺るぎ無さに対する政治家の無力。
 中央集権と国家統制を国是とした「絶対」官僚制たる、2つの国。
 私の空想は飛躍する。歴史を曲解する。日本は28年遅れのソ連なり。

 凄惨な独裁的権力のもと、辛酸をなめ尽くした国民が、新たな希望を胸に再出発を誓った、1917年の革命。1945年の敗戦。
 掲げた看板は全く違う。でも、理想を求め、国をまとめ、ガムシャラに頑張った。中央集権と、国家統制がその原動力。その制度設計と運用を任せられた官僚制。
 ソ連は、第二次大戦を契機に軍事大国、世界を二分する勢力の頂点に。日本は、日米安保で軍事を切り捨て経済大国、これもまた経済力で世界の頂点に。しかし、いつまでも、同一線上の発展はありえぬ。いつからか、変化に対応できぬまま、不名誉な汚点を繰り返し、しかし、なお、国是の変更、改革を先送りにし続ける官僚制、その将来には何が見える?

ソ連 革命            
  1917   1942   1967   1991
    第1世代   第2世代   第3世代  
  1945   1970   1995  
日本 敗戦          

 

 この簡単な年表から何を見るか。

(2004.6.10 Ms)

 原因はともあれ、ゼロから出発だ。前時代の支配階層が総退陣してしまった以上、新たな秩序の回復が優先、とにかく「上からの変革」で強引にも押しきらねば、との必要性。当然の帰結が、中央集権、国家統制。結果としては、前時代と国家スタイルはそう変わらない、でも、掲げる理念が全く違う。そんなシチュエーションも酷似。
 ただ、日本は、戦前から続く官僚制の支配を温存しての再出発ではある。(国家総動員法の張本人たちが事務方にそのまま残留。ソ連に比べれば、前時代の遺産がしっかり残っている。故に、戦時中ユダヤ人たちを救った外交官は、外務省から追放もされた。人道よりも官僚機構の秩序が勝るという論理。)

 効率よく、新国家建設を進めるための集権・統制。仮に1世代、四半世紀(25年)をスパンで考えよう。ちょうど第1世代から第2世代に移る辺りで、上からの変革は、ある一定の成果を挙げる。
 ソ連においては、まさしく第二次大戦の試練、第2世代に差し掛かる1943年が、独ソ戦最大の激戦、スターリングラード攻防戦 <おお、ショスタコの8番が聞こえて来るぞ>。 これが勝負の明暗を分け、一気にソ連が勝利へ、さらに、東欧支配まで進み、軍事大国としてのソ連が確立。
 日本においては、世界史上類例を見ないほどの高度経済成長。経済大国のトピックとして、東京オリンピック(1964)、大阪万博(1970)か。

 しかし、一定の成果を収めた官僚制、時代の変化への対応も困難、自己目的化、前例踏襲などなど、弊害も。
 それでも、第2世代は、繁栄を謳歌する。
 ソ連、1953年のアメリカに次ぐ水爆実験、1965年の史上初の宇宙遊泳など、軍事大国の威信は絶好調か。
 日本も、オイルショックの衝撃はあるも、軽々と乗り越え、アメリカを脅かす経済大国の地位は不動。

 ただ、やはり、変革を怠ったツケはじわじわと。
 第2世代の終了時、ソ連は、1964年から、長期停滞のブレジネフ時代。
 日本は、バブル崩壊(1990年代初頭)。失われた10年・・・・(今なお進行中か)。

 社会主義経済の非効率性は明白となり、「正直者がバカを見る」停滞の時代のソ連。
 資本主義経済の虚構は明白となり(好景気を支えた株価、地価・・・・その価値の実態はあったのか?)、これまたモラル無き混迷の時代の日本、まさにブレジネフ時代風の停滞感、いや、収束感、凋落感か。

 さて、日本の先輩!ソ連のその後、第3世代はどうなった?
 国家及び社会全体の混迷さ加減は、1983年大韓航空機撃墜、1986年チェルノブイリ原発事故などにも象徴的に。世界の顰蹙。
 そんな中、軍事大国のプライドだけは捨てられず、でも、変革はならず、1979年から10年続くアフガン戦争、この泥沼化が、結果、国家の疲弊を加速。やっと、改革者ゴルバチョフの登場(1985年)を迎えるも、手遅れの感は否めない。国家の形を変えるほどの大崩壊劇は避けられず。

 かたや日本の第3世代は?経済低迷、その他もろもろ、かつての日本とは思えぬ凋落ぶり。 安全神話は? 企業のモラルは? はたまた人間の質は?
 そんな中、経済大国のプライドだけは捨てきれず、でも、変革はならず。先輩ソ連のアフガン介入の1979年+28年=2007年、さて、日本において国家の疲弊を加速させる大失策、大失政は何ぞや?

 われ思う。道路公団民営化。これは、やりようによっては、亡国から救えたろうに。結果は、看板かけかえではないのか。結局、官僚制、既得権益の温存。
 道路、この借金財政のなか、ひたすら作りつづけるそうな。今、国家および自治体の計で1000兆円の借金を抱えていながら、子孫に多大な負担をさらに押しつける、鬼の集団だよ、日本の父さん母さんは・・・・国家という家の中までドメスティック・バイオレンスじゃないの。子供をいじめる趣味の人ばかりなんだな、日本の親達は。

 先輩ソ連が「軍事大国」のプライドを胸に、アフガンに意気揚揚、軍事介入、その非を悟った時、国は無くなっていました。
 我が日本も「経済大国」のプライドを胸に、高速道路建設に邁進、その非を悟る日、国の姿は・・・・・?

 道路ばかりではない。もちろん、年金の問題やら、地方自治の話やら、亡国政策はいろいろ。でも、結果、本質は、自治体に比べ、国が権限と財力を持ち過ぎで、さらに、時代の変化を見極めず、過去の政策を反省することも無く自己保身、組織防衛に走る愚かさよ。
 国家公務員は全国、補助金ばらまき方法を考えるばかり。地方公務員は、全国、補助金のもらい方を勉強するばかり。この日常が、国民のための税金の使い方?その弊害をなくし、国家官僚は、外交・国防・金融などの、世界の中における日本の戦略をしっかり考えて欲しい。その他の官僚は、自分の故郷に帰れ。補助金などという回りくどいものは不要(財源偏在を調整する仕組みだけは必要)、地域の中で、住民と向き合って、ホントに必要なニーズに応える行政をすべし。
 官僚が地方に散った時、全国画一の机上のシステム構築を止めた時、地域地域の特色を生かす政策を競い始めた時、高速道路よりも必要なニーズは見えているはず。それこそ、的確な税の使い方となろう。
 官僚制の解体、再配置が、日本にとって、ソ連の如き国家の崩壊、の防止法とならないか。

 今の政権にそれをやる気概、実力、決断力ありや?
 どうも、「ワン・フレーズ」までは良いのだが、それ以後は、官僚のやりたい放題。
 K泉氏(1945年の敗戦から56年目の登場)が、10年早く出現した「ゴルバチョフ」(1917年の革命から68年目の登場)なら、将来の大崩壊を食い止められただろうか?
 でも、どうも、20年遅れの「フルシチョフ」(1917年の革命から36年目に登場)に過ぎず、なのか?(1956年、スターリン批判をした首相)<おお、ショスタコの10番が聞こえて来るぞ>

 「J党をぶっこわす」=(イコール)「スターリン批判」に私は思える。
 (ただ、J党ではなく、派閥をぶっこわしただけか。族議員、法律不勉強議員という組織は壊れなかった。)
 その当時は、確かに凄いこと、とのインパクト。国を変える一大決断だったろうに。でも、スターリン批判で、ソ連の延命は図れたか?本質が変わったか?
 例えば、ショスタコーヴィチは、スターリンに苦しめられた。でも、さらに、スターリン死後の官僚制にも、もっと苦しめられた。
 家族の前で涙した、強制された共産党入党事件は、スターリン死後の話。
 ロシア革命を称える、体制べったりの交響曲(11&12)の作曲も然り。

 「J党ぶっこわし」も「スターリン批判」も、後世から見れば、その国の本質的変革とは評価できないのでは?

 確実に、我が日本も、「ソ連にとってのアフガン」に足を踏み入れつつある2004年。このままで、はたして・・・・・。

(2004.6.17 Ms)

 かってきままな、例によっての「曲解」の「政治バージョン」みたいな展開になったが、とにかく、「党をぶっ壊そう」が、引っ付けようが、日本の政治は変わらない。いや、変わらなかった。
 我が国の国是たる中央集権・国家統制の根源、官僚制、これをぶっ壊し、(天下り官僚は不要。引退でよし。でも若い優秀な人材なら、活躍の場は与えねば。)地方自治体に引っ付ける、この再編成なしに、将来はない。
 補助金のばらまき、分配・・・つまりは、税収をあっちゃこっちゃ移動させてる間に、公務員の人件費は消耗し、国民の要望にかなった柔軟な行政もできない。

 これが、実行に移せる政治家を国民は選ばねば。官僚に丸投げでは、官僚の権限は不動、何も根本的に変わらない。
 最低でも、立法府なのだから、(官僚の言いなりに動くのでなく)まさに「法律を作れる人間」、「官僚の欺瞞を見破るのことのできる人間」を政治家として選ばねば。年金騒動などみてると、悲観的にもなるのだが、現状の「官僚の言いなり」政権に、改革は無理というもの。本来、官僚、つまり行政を行う立場としては、議員の作った法律を執行すればいいのだ。何故、官僚が、ほとんど法律を作っているんだ?政権を担う政治家がその能力が劣るから。利権と政争にこそ関心があるからか?

 ここから、音楽の話。

 今年の、三位一体改革の初年度の結果、地方自治体は、国からの補助金、交付税交付金を大幅カットされた。本来、国と地方の関係を見直し、国の関与(補助金を交付する際の、口出し)を撤廃、補助金の税源を自治体に移し、住民に近い地方自治体の現場で、ことが完結する仕組みを作ってからなすべきことなのに、国家官僚は自分たちの保身を前提に、全ての痛みを自治体に投げつけた。今の政権も、その官僚の筋書きを追認した。

 その結果、何が起こったか。
 高知県の試算が、参考となる。高知県内の市町村、今年の予算は、軒並み、基金(自治体の貯金、蓄え)を取り崩し、何とか急場しのぎ。この今年の条件でいつまで持つか。ほぼほとんどの市町村が、1,2年で、「財政再建団体」に。つまり、民間でいうところの「破産」である。
 そこまで、日本は追い詰められている。
 蓄えのない自治体、つまりは、自転車操業。仮に、小さな市町村なら、その地域内にある大企業一つがつぶれでもしたら、工場を撤退でもさせたなら、収入は不足、赤字で破産(例として、三菱自動車の問題、岐阜県のとある町は、パジェロの工場が閉鎖されたら即、立ち行かない。岐阜県の必死ぶりは、そういう理由からでもあろう。)。
 役場職員の給料カット、公共事業の削減、これらをやっても、自治体には、福祉・教育・ゴミ処理など、無くせない仕事を多く抱えている。その基本的な行政の経費すら捻出できない市や町や村に皆さん、住むことになるかもしれない。

 私の危惧は、危機的な地方自治体財政、音楽へのしわ寄せ。
 古来より、芸術音楽は、パトロンなしに成立し得ない。金もかかるし、すぐさま万人に受容されるものでもなかった。現代、王侯貴族もいない今、最大のパトロンは、地方自治体である(大企業もそうだが、全国つづうらうらまで、その文化的恩恵を広げてくれているか?また、業績によって突然なくなることも多々)
 国ではない、地方自治体が、芸術音楽を資金的にも支えている。

 例えば、プロオケは、自治体の財政支援なしに存立不可。例えば、地元の名古屋フィルも、愛知県や名古屋市から億単位の金銭支援がある。
 アマオケにしても、多かれ少なかれ、自治体との関係は密接不可分だ。(全面支援を受けてる団体などは、一度、支援なしにどんな活動ができるか?自分たちの持ち出しがどれだけ増加するか?試算すべきだと思いますよ。)
 年数回の、文化ホールの自主公演、予算なしには何もできない。ボランティア団体の公演なら可能ですが。
 文化ホール、そもそも、維持管理だけで多大の予算を食う代物、ホールが残るだけましか?ホールの閉鎖もありえる。
 また、官業も収益性、採算性を重視する政策は進んでいるので、金儲けが、ホールの運営の基本概念になります。

 まさか、とお思いでしょう。でも、この数年で、山間部や過疎地域から、そういう動きは徐々にでてきてしまう。都市部であっても、財政負担<過去、景気対策による箱モノ行政に邁進とか><公営ギャンブルの不振で、収益が減少>に悩まされていれば、事例はあり得ます(競艇、競輪を抱える自治体の苦境は深刻)。
 そう、私の住む「愛知県」なども、「トヨタ」関連で税収はいいはずなのに、基金の蓄えはなし、驚くべし自転車操業。今後の行政の舵取りが失敗すれば破産するんですよ。知ってましたか?
 東京都の財政的苦境もたびたびニュースとなります。そんななかでの「都響」の改革騒動ですし。

 あと、数年で自治体が破産するとして、その文化行政の継続は誰が保証してくれますか?
 破産したら、そんなものはなくなる。
 また、破産する前に、事業の見直しは当然ある。文化行政を続けてくれ、という住民の声、これは、議会に届くでしょうか?そもそも、その住民の声が、あがるのでしょうか?芸術音楽を欲するという住民運動が自治体を動かすような、そんな素地がいま醸成されているんだろうか?

 皆さん、
一度、皆さんの住む都道府県、市町村の、財政状況を調べてみることをお薦めします。
 「基金」(貯金)の現在高が、ここ数年でどんな推移をたどっているか?あと何年で底をつくか?
 「地方債」(借金)の現在高が、ここ数年でどんな推移をたどっているか?財政の規模に対して大き過ぎないか?

 とりあえず、その2点を見て、我が街が本当に大丈夫か、自分の目で確かめてください。

 そして、
音楽を愛する皆さん、
パトロンたる自治体が、音楽はじめ文化に対して何もしなくなったとき、
自分の生活がどんな風になるか想像してみて下さい。

 特に、職業としてみえる皆様、パトロンなしに、自分の活動は立ち行くとお考えですか?(当然、アマチュアも、パトロン支援率が高い団体などは同様の問題認識は必要。)
 フランスの作曲家オネゲルは半世紀前に、作曲を学ぶ学生の前でこう言った。「あなた方の作品を誰も聞こうとはしない。それでも作曲するんですか。」(ニュアンスが違ってたらスミマセン。)パトロンなしに、皆さんの音楽活動の場は保証されますか?音楽活動を支えてくれる住民は存在しますか?
 最近、少子化の影響もあって、中高の吹奏楽部などお邪魔しても、編成が小さいし、音楽を支える後継者(一般にポップス含め音楽自体は盛んだと思うが、芸術音楽を支える人材<演奏する、鑑賞する、含めて>)の激減は、私の感覚では決して楽観的ではなく、その事情も含めて、芸術音楽の存立基盤はもろくなる一方だと危惧している。そこへ、その危機を助長するような、文化行政の衰退が重なれば、一体将来、どうなることだろう?

 国民の血税が、ストレートに行政として反映する仕組みを、いま作らねば、先輩ソ連の停滞、崩壊、明日は我が身。
 音楽を愛する立場からも、中央集権と国家統制を国是とする「官僚制」の再編成を切に望みます。その、再編成を実行するために、何が我々にできるか?真剣に考えましょう。
 私は、まず、目の前の選挙で、何らかの意志表示をすること。が大事と思います。国の抱える問題の本質を捉え、その解決に向けての実行力を備えた政治家、少なくともその条件に一番近い人を国会に送りたい。

 また一方で、音楽の楽しさをいろいろな人々と分かち合えるような活動を継続し、音楽が生活に不可欠なものだという共感と、同意の輪を少しでも広げるささやかな一翼を担いたい。自治体が破産寸前であっても、文化行政を真っ先に見捨てるのが黙認される社会にはしたくない。

 ・・・・・・そんな気持ちの高揚感で、一気に書きたくなってしまいまいた・・・・ここまでお付き合いいただけたのなら幸いですし、こんな駄文に時間を費やしていただけたなら、申し訳なくて恐縮するばかりです。

 
 危機感を煽るだけの、独りよがり、それこそ「曲解」な訴えに過ぎない。文章もこなれていない。支離滅裂。でも、やはり、国家全体(地方自治体含め)で1000兆円の借金という天文学的数字、危機と認識するのが普通ではないでしょうか?(ちなみに借金を奨励して、ケインズ主義まっしぐらで土建政治に邁進したのが、政権党ではないか?この借金の責任は、政治家も官僚も触れないんだよなあ)
 その危機が、潜在的な段階にある現状から、顕在化した時にはもう手遅れ。そして、その顕在化に向き合うことになるのは、我々です。死を目前に控えていれば逃げきれるかもしれない。でも、今生きている大多数の人々は、将来その危機に巻きこまれるのです。そんな想像したくもないのですが、今、確実に、将来への問題先送り、借金増加の政策継続は進んでいます。危機感なしに暮らしていていいのかどうか?

(2004.6.22 Ms)

 失礼しました。ここで終わり、なんですが、財務省から正式な発表がありました。参院選公示の翌日の発表というのが、例の、北朝鮮への首相訪問VS年金未納、みたいな、姑息な、マスコミでの取り上げかたを小さくさせる、いつもの卑怯なタイミング操作に思えてしょうがない・・・・それはともかく、国家の借金の話、国家財政のみで700兆円、地方合わせ、1000兆円、とのこと、「国家地方合算で700兆」と記載しておりましたので、文章を訂正しておきました。不正確な記述でスミマセンでした・・・・・といおうか、正式な発表前に数ヶ月前から、私自身は、700兆の借金という情報は仕入れていたが、さて、どこで聞いたことか?記憶にない。ただ、国全体で700兆という数値より随分ひどい話になってる。
 2,3日前、Yahooのニュースで見た時、オギャーと産まれた赤ちゃんまでふくめて国民一人550万円借金(国家財政のみで)、という例えがされていた。生れながらにして、550万の借金とは、かわいそうな子供達だ。今後、借金返済のため増税避けられず、その増税が、全く自分たちの新たな行政ニーズに生かされることなく、ただ、ひたすら過去の建造物の建設の借金ばかりに充当されて行くとなれば、生れながらにして、実の無い労働を強いられた、まさに「奴隷」を義務付けられた、21世紀の日本人、生きてて楽しいか????まあ、苦しいぶん、音楽は必要にされるんだろうが・・・・・。
 これを避けたい、という認識は、K泉氏にはあった。国債30兆円枠という歯止め。公約だった。しかし、守れなかった。M主党党首に質問され、「公約なんかたいしたことない」。でもね、いくら、イラクやら北朝鮮やら、一生懸命やっていても、我が国の財政の基本中の基本が、この調子で、「実績」をみてくれ、は無かろうに。結局、「族議員」、旧来からの「J民党」、と、やっぱり頑健なる「官僚制」に対する敗北は、情けないぞ。官僚制に対する「敗北」を実績として捉えて欲しい、と言ってるなら、そう捉えます。
 劇的なほどに、借金を減らす、少なくとも、これからは今までのようには借金はせずに、財政運営する、これが数値として公約できなければ、政治家の資格が無い。もう、自治体は破滅寸前なんだ。国家財政の破綻をくいとめるべく、自治体見殺し政策がこの冬にでる。このままで、あなたの自治体は、本当に大丈夫か確認、もうお済みですか?(前に書いた、基金と地方債、調べなきゃ、本気で、破産するかもしれないから、気にしてみてください。)

(2004.6.27 Ms)



たぶん、だぶん(多分、駄文)INDEX


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